INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/04

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年04月30日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:共一性と同一性:共一性言霊と同一性言霊
散歩の途中、+1をどう見るのか、考えていたが、-1が同一性=物質とするなら、+1は差異共振現象であるから、共一性と呼ぶべきではないかと思った。ということで、そうすることにして、検討を続けると、現象化において、共一性(光)と同一性(影)が形成されるとしよう。
 そう、その他思ったのは、同一性とは言語であり、ラカン精神分析の象徴界に相当するのではないかということであった。ここは難問の一つであると思う。ソシュール言語学のシニフィアン/シニフィエ、フッサール現象学のノエシス/ノエマ、等にも関わると思われるのである。同一性認識と言語の関係の問題である。
 問題をイメージ省察(像察)してみると、一番の問題点は同一性の発生にあるように思える。差異共振性が発現して、共一性(+1)が生まれる。しかし、このときには、同一性は発生していない。自己と他者の共一性があるのみである。では、どうして同一性が発現するのだろうか。
 共一性とは実は、身体(精神的身体)でもあり、そこでは、自己と他者が共振揺動しているだろう(ブラウン運動?、クリナーメン?)。いわば、夢の世界のようであるだろう。あるいは、心的故郷(心郷、魂郷)のようであろう。
 では、どうして、同一性への志向性が発生するのか。思うに、原同一性が根源にあるように思えるのである。簡潔に言えば、「何」である。原言語志向性と言ってもいいだろう。【ずいぶん、昔に、根源的発話発生について考えたことがある。そのときは、情動的発生論だったようだ。】
 ここで思考実験しよう。幼児がいて、遠くに見えるものが「何」かと思ったとしよう。幼児には、何かが見えているが、「何」かはわからない。これはどういうことなのだろうか。
 それが誰かに「山」であると教わるとしよう。これは、yamaという音声のシニフィアンである。yamaという音声にはとりわけ意味がないだろう。【もっとも、根源的には、音声には意味があるだろう。この点は今は看過する。】
 幼児はyamaと発音して、見えているものがyamaであると認識するのである。これはどういうことなのか。直感で思考実験しよう。実は、見えているものとは、同一性(-1)ではなくて、共一性(+1)ではないだろうか。共一性においてあるものが見えているのではないだろうか。だから、共一映像(共一像)と言ってもいいだろう。
 つまり、共一像において、「わたし」は他者である。この場合は、「山」である。「わたし」は「山」と共一である。だから、問題の根源は、「わたし」にあるだろう。これは、自己であろう。そして、これは、フッサールが説くように、ノエシスではないだろうか。ノエマは他者であろう。
 ノエシスは思うに、「わたしは知る」ではないだろうか。「わたし」は「山」と共一しているが、この「一」において「山」を知りたいのではないだろうか。他者認識である。そして、他者は「一」である。これが、原同一性ではないだろうか。
 そして、ノエシスは「わたしは他者を知る」共一性志向性と考えられるので、共一性の「一」への志向性に原言語志向性があるのではないだろうか。原シニフィアン性と言ってもいいだろう。そして、そこにyamaが入るのではないだろうか。
 そのように思考実験すると、言語は本来同一性ではなくて、共一性である。つまり、差異共振性の帰結である。光である。私は以前、言語は物質であると言ったが、それは間違いである。言語は差異共振性の帰結である共一性であり、精神である。言語精神である。【ここで言霊の問題が出てくる。確かに、言霊であると思う。私としては、言魂と表記したい。】結局、共一性としての言語ということになる。
 では、言語と同一性はどう関係するのか。それは、やはり、自己同一性主義の発生と関係すると言えよう。共一性の光に影が差して、影を投影して、同一性が発生するのではないだろうか。共一性にルサンチマンが発生して、共一性を否定・排除するように、同一性が形成されるのではないだろうか。共一性の一を否定して、その否定が外界へと投影されて同一性が発生するのではないだろうか。つまり、共一性の一の否定とは、内的同一性であり、それが投影されて外的同一性になるのではないだろうか。
 聖書で言えば、共一性がエローヒームであり、同一性がヤハウェではないだろうか。結局、共一性言語と同一性言語があるだろう。共一性言霊と同一性言霊である。
 先史時代から古代・中世までは、共一性言霊が支配的であり、神話や詩歌(韻文)が中心的であったろう。しかし、近代以降は同一性言霊(散文)が支配的である。
 ここで予見を言うと、トランス・モダンによって、共一性が回帰すると、いわば詩歌が回帰するだろう。これは何か。新共一性言霊とは何か。
 一つ言えることは、ブログが新共一性言霊であることである。差異共振精神からブログ言霊(「連詩」)が生まれるのである。


2008年04月29日(Tue)▲ページの先頭へ
ハンナ・アレントの三分化論とPS理論:差異共振性とトランス・コミュニケーション理論
以下、toxandoria氏によるハンナ・アレントの三分化論は興味深い。プラトニック・シナジー理論(PS理論)の視点から考察してみたい。
 思うに、私は以前、この三分化論は読んだことがある。アレントの著書からか、それとも、なにかの解説か、忘れてしまったが。とまれ、そのときは、それほど興味をもたなかったが、PS理論から解明できそうに思えるのである。
 「労働/仕事/活動」の説明は以下を参照していただくことして、簡潔に分析してみたい。

1)「労働」は、物質的生活である。それは、同一性=物質を基盤とするので、-1であろう。

2)「仕事」であるが、それは、個の知的精神的な活動のことなので、内的な⇒+1、即ち、自己認識方程式であろう。

3)「活動」であるが、これは外的に、他者と共振することと考えられるから、外的な⇒+1、即ち、自己認識方程式であろう。ここでは、自己は外的な他者=差異と共振するのである。

問題は、2)の場合であるが、個の知的精神的活動が、近代合理主義である場合、それは、差異共振にならずに、同一性主義となり、1)と同様に、-1となるだろう。だから、アレントの三分化論が真に成立するには、差異共振理論であるPS理論の視点が必要であると考えられるのである。それによって、三分化が明確にされると考えられるのである。
 また、3)についてtoxandoria氏が説明されているコミュニケーション(以下、コミュ)であるが、これも、同様だと思う。同一性主義すなわち近代合理主義に基づくコミュは、当然、同一性の交換に留まり、3)の実質はなくなり、1)と等価になると考えられるのである。だから、コミュに関しても、差異共振性が必要であると考えられるのである。
 さて、因みに、私はコミュに関して、これまで違和感をもっていて、いつか解明しようと思っていたが、ここで少し考察したい。
 都合で簡単に言うと、コミュは、同一性のコミュと差異のコミュがあると考えられる。近代合理主義/近代的自我のコミュは当然、前者である。しかし、民主主義のコミュであるが、本来、後者でなくてはならないが、ネオコン/ブッシュのイラク「民主化」、その他を見てもわかるように、同一性のコミュとなっていると考えられるのである。倒錯・転倒があるのである。有体に言えば、同一性民主主義になっていて、本来の差異民主主義になっていないのである。
 結局、コミュは両者を明確に区別する必要があるということになる。同一性主義のコミュを同話・同言・同語とするなら、差異主義(差異共振主義)のコミュを差話・差言・差語と呼べよう。
 直感で言うと、ギリシア悲劇に、差異のコミュの原型がありそうである。オレステイア三部作やオイディプス三部作やエウリピデスの悲劇等に隠れているようである。勿論、アリストファネスの喜劇にも隠れているように思われる。また、ある意味でシェイクスピアの悲劇等にもあるように思えるのである。
 それは、先に、ゼウスとプロメテウスの和解で示唆したように、同一性と差異との調和に示唆されているだろう。-1と+1との調和である。それは、端的に、差異共振性によって可能になるのである。ギリシア悲劇や喜劇、さらには、シェイクスピア劇には、超越性が表現されているのである。神々である。これこそ、超越性である。ないしは、イデア性である。近代主義は、これを排除して、悪魔的破壊主義に陥ったのである。魔界としての西洋近現代である。PS理論は、創造的コミュニケーション理論でもあるのである。

 
********************

『ハンナ・アレント(Hannah Arendt/1906-1975/アメリカの政治哲学者・思想家)によれば、我われ人間の「活動的生活」(vita activa)の構成要素は「労働、仕事、活動」の三つに分けることができます。この「活動的生活」とは、我われ人間が、何らかの条件づけられた存在としてこの世に生まれた瞬間から周辺環境へ働きかける内発的な能力 のことです。そして、「労働」(labor)とは“我われが自らの身体の生物学 的プロセス (メタボリズム /新陳代謝 )への対応のために繰り返される活動”のことで、例えばそれは日常生活の衣食住を支える家庭内での活動などを指します。

いわば「労働」は人間と動物に共通する活動の一部であり、その特徴は“かぎりなく循環的で、かつ自然 的という意味で生物 としての人間に必然 的なプロセス”だということになります。一般に我われが馴染んでいる用語法では「労働」と「仕事」は殆ど区別がありませんが、アレントはこの二つの意味を峻別します。アレントによれば「仕事」(work)とは、「労働」が意味するところの“人間の個体維持のための消費”に抵抗しながら作用しつつ形あるものや諸制度・作品などとして、我われの死後にも継続して在り続ける「世界」(world)の材料を創り出す働きのことです。』

冷血・外道で悪徳まみれの『小泉・前首相のカムバック』に国民は何を期待するのか?(2)
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080428/p1

toxandoria

toxandoria
『toxandoria の日記、アートと社会』


+1と-1の関係:+1と構造主義との関係:-1/-0/Media Point/+0/+1
先の検討は、影-1と光+1と原光(+i)*(-i)という三元性を説くことになったが、まだ判明ではない感じがあるので、さらに検討することにしたい。今日は、簡単に触れるだけである。
 問題は、光(+1)と構造主義を一致させることになったが、それだと、構造主義と原光が関係することになり、整合性を欠くように感じられるのである。なぜなら、前者は本来、超越性が欠けていると思われるからである。この点をどう説明するのか、である。
 おそらく、光(+1)自体は構造主義と見ていいように思う。というのは、⇒+1となって、超越性が開けると考えられるからである。
 そうならば、先にレヴィ=ストロースの構造主義の「ゼロ記号」をMedia Pointの実軸のゼロ度と見たが、それと光(+1)とはどう関係するのか、説明する必要がある。
 「ゼロ記号」とは特異点であり、余剰・過剰であった。それは確かにMedia Point的である。では、+1はどうだろうか。これは、やはり、水平的な差異共振性であり、Media Pointは欠いている。しかしながら、⇒+1とすると、⇒がMedia Pointなので、光は言わば、崇高さを帯びるのではないだろうか。とまれ、⇒の先端がおそらく、「ゼロ記号」であろう。真に虚軸には開いていないのである。
 とまれ、さらに問題は、+1が光ならば、それはどういう光なのか。私は、宗教的に、エローヒームであると考えたが、どうだろうか。それは、端的には、正しくない。エローヒームは、端的に、自己認識方程式であろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが光の神エローヒームの公式であろう。そして、この両辺を否定する自己同一性主義の公式、即ち、-[(+i)*(-i)]⇒-1、これが、影の神ヤハウェーの公式であろう。
 では、+1の光とは何か。構造主義の光とは何か、となろう。これは、なかなか、難問である。思うに、単純に日常目にする光でいいのではないだろうか。そして、-1の影とは日常目にする物である。あるいは、単純に前者は日常の自己であり、後者は日常の自我主義ではないだろうか。
 左辺が入るときに、超越性が入るのであり、天使的であったり、悪魔的であったり、狂気的であったりするのではないだろうか。だから、例えば、ネオコン/ブッシュとは、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。つまり、イラクへの差異共振性(+i)*(-i)⇒+1を否定しているのである。真の民主主義は差異共振主義にあるだろう。
 例えば、アメリカがイラクを真に他者=差異と認識するならば、差異共振性(+i)*(-i)⇒+1が成立するだろう。しかし、他者=差異を否定したので、-[(+i)*(-i)]⇒-1となったと言えよう。-1は、自己同一性主義=ロゴス中心主義(例えば、ロゴスとしての民主主義である)である。光=自己(+1)は排除されているのである。
 思うに、-1と+1はエンテレケイアと考えられいいのではないだろうか。そして、左辺はエネルゲイアでいいのではないだろうか。だから、光(+1)を構造主義と見るのは、正に、エンテレケイアとしての構造主義であり、結果としての二元的構造であろう。ここには、エネルギー作用の結果があるのみではないだろうか。
 だから、構造主義の「ゼロ記号」とは、+1とは異なるだろう。それは、デリダ的に言えば、痕跡ではないだろうか。やはり、Media Pointの実軸点であると思われるのである。
 しかしながら、「ゼロ記号」と+1は、結局は、同じことになるのではないだろうか。何故なら、構造主義(+1)の、言わば、支点が「ゼロ記号」であるからである。つまり、支点の「ゼロ記号」と+1とで均衡がとれているのである。「ゼロ記号」があることで、構造主義(+1)が成立すると考えられるのである。言い換えると、構造主義(+1)の原点・発生点・起点としての「ゼロ記号」である。
 ここでポスト・モダンについて言及すると、ドゥルーズは、「ゼロ記号」を差異としての理論化したのである。これでは、当然、差異が連続化されるだろう。何故なら、差異の対立がゼロ度で融合するのであり、正に、微分としての差異になるだろうからである。
 デリダは、先に述べたように、-1と+1の差異(ズレ)を差延と考えたように思われる。(これは、ほとんど、ハイデガー存在論を踏襲していると思われるのである。)
 今はここで留める。後で再考したい。

p.s. 以上の思考実験は、先の直感とはズレている。私は、+1を差異共振光と見たのであり、+1には差異共振性を見たのであり、構造的対立ではないのである。齟齬をどう見るのか、である。思うに、構造主義をどうみるのかが問題である。例えば、山口昌男の神話構造主義は、両義性の理論であるが、この両義性がいわば、+1の差異共振性であると考えられないだろうか。思うに、これは、また、メルロ=ポンティの両義性の身体現象学と通じると思われるのである。あるいは、初期デリダのパルマコン(ファルマコン)の考え方に通じるのではないだろうか。
 直感では、+1の差異共振性とは、一種の即非性であるが、不十分な即非性である。山口昌男の神話学では、例えば、スサノオは、光であり、且つ、闇であるという両義性を帯びる。これは、スサノオは光であるから、闇ではないが、同時に、闇であるという、即非の論理には達していないだろう。光であり、且つ、闇である、というのは、いわば、未分化の論理である。そう、だから、+1の差異共振性とは、未分化様態と言えるだろう。つまり、連続性を帯びているということである。ならば、+1の光=自己とは、未分化であり、連続性をもっているのであり、まだ、真の自己ではないと言えよう。左辺の差異共振性(+i)*(- i)を認識して、真の自己認識を形成すると考えられるのである。
 だから、+1の光とは、トワイライト(薄明)ではないだろうか。つまり、光と影、光と闇の中間的な「光」ということになるのではないだろうか。

p.p.s. 後で再考する予定であるが、ここで簡単に補足すれば、自己認識方程式において、右辺だけを取り出して、純粋に+1を見ると、それが意味するのは、Media Pointを介した虚軸性(超越性)の喪失(隠蔽)であると考えられる。あるいは、Media Pointの断絶である(参照:三島由紀夫の「断絃の時」)。
 だから、+1は、必然的に、自己同一性主義=自我主義(-1)の影響を被って、いわば、曇る、濁る、混濁すると考えられるのである。正確に言えば、混淆・混合化、そして、連続化である。
 精緻に見ると、自己認識方程式の左辺とMedia Pointが隠蔽されるとは、言い換えると、自己同一性主義(-1)が作用することである。差異共振性が否定されるときに、自己同一性主義(-1)が形成されるのであるからである。つまり、(+i)*(-i)が否定されると、当然、結果は、⇒-1となる。これは、Media Pointの否定・抑圧でもある。
 すると、-1より先行すると思われる+1はどうなるのだろうか。それは、これまで検討してきた通り、差異共振性は否定・抑圧・隠蔽されるのである。内的身体に隠蔽されるのである。正確に言えば、(+i)*(-i)⇒+1が内的身体に隠蔽されるのであるが、このとき、Media Pointを介した虚軸性=超越性が隠蔽されるのである。
 問題は、隠蔽された差異共振性が賦活されるときである。教養的形成や内省(端的にこれが哲学である)を伴う人生経験を経ることで、そのようになると考えられる。自己同一性主義=自我主義(-1)の支配にあって、その賦活された差異共振性はどういう様態をもつだろうか。
 当然ながら、活性化された差異共振性は、自己同一性主義=自我主義(-1)を否定するのである。ここに葛藤・内的闘争が生じると言えよう。(ロマン主義の問題、さらには、反近代主義等の問題はここに収斂するだろう。)即ち、

差異共振性VS自己同一性主義

である。これは、端的に、二項対立の闘争である。19世紀や20世紀初期の文化で言えば、ロマン主義(神秘主義)VS近代合理主義となろう。【ベルクソン等の、いわゆる、生の哲学は前者に入れることができるように思えるが。とまれ、構造主義は、この二項対立を乗り越えた、偉大な理論と言えよう。さらに言えば、フッサール現象学は、構造主義をも超えているだろう。ハイデガー存在論はそれを看過してしまったと私は考える。】
 この内的闘争において、問題は、差異共振性が先行してはいても、自己意識においては、自己同一性主義が支配的、優位であるので、差異共振性が従属的、劣位にあるという点である。このいわば転倒した倒錯した優劣性が支配的であることに留意しないといけない。
 言い換えると、否定性(-1)が支配的であると言えよう。だから、賦活された差異共振性は、内的身体に存しても、否定性(-1)が支配的であるために、その影響を被ると考えられる。自己同一性主義の影響を受けるのである。
 それは、端的に、反動化であろう。否定性を受けるのであろう。つまり、差異共振性は、自己同一性主義を否定して、「自己」を肯定しようとするのである。これは、-(-1)=+1 であろう。
 これは、確かに、差異共振性を意味するだろう。しかしながら、問題は、否定性の存在である。自己同一性主義=自我主義(=近代合理主義=近代自我主義)を否定しているので、物質性を否定することになると考えられるのである。極言すれば、一種、オカルト主義や神秘主義になるのである。【私はドゥルーズ哲学とシュタイナーの霊学は類似すると思っている。】
 何が問題なのか。実はこれこそ、不連続的差異論が問題にした連続性である。端的に、連続性とは、否定的連続性である。つまり、自己同一性主義という否定性が支配的であるので、賦活された差異共振性も正に反動的に否定性を帯びてしまい、連続性を帯びると考えられるのである。これは、非常に矛盾的な事態であると言えよう。
 差異共振性は本来、肯定的な事象であるが、自己同一性主義という否定性の支配下においては、否定性を帯びるのである。これは、どういうことなのか。本来の差異共振性が否定性を帯びるとはどういうことなのか。
 直感で言えば、矛盾した言い方になるが、自己同一性主義化された差異共振性であるということである。-1化された+1である。これは、何か。ここでは、推測ないしは作業仮説で言うが、和になるのではないだろうか。即ち、(-1)+(+1)⇒±0ではないだろうか。
 このゼロこそ、構造主義の「ゼロ記号」ではないだろうか。ゼロ度、ゼロ・ポイント、ゼロ場等々と言えるだろう。そして、これが、ドゥルーズの差異であると考えられる。連続化された差異=微分ということである。また、内在平面という考えも、ここから生まれるだろう。【何故、平面なのか。後で検討。】
 そのように考えると、+1が光であり、構造主義であると先に述べたことは、間違いであることになるだろう。+1が光であることは正しいのである。しかし、それは、構造主義ではないのである。構造主義は、やはり、ゼロ度に存すると考えられるのである。つまり、差異共振主義(+1)が連続的に否定されて(和算)、ゼロになると考えられるのである。
 整理すると、-1/±0/+1である。言い換えると、自己同一性主義/構造主義/差異共振主義である。これが、「内在的な」哲学の様相と考えられる。ドゥルーズ哲学は完全に構造主義の進展に過ぎないことがわかる。では、初期デリダ哲学はどうだろうか。先には、-1と+1の差異が差延であると言ったが、それも訂正されなくてはならない。
 デリダ哲学の源泉の一つであると考えられるハイデガー存在論はそれなりに複雑多様であるが、直感するに、いわゆる世界内存在とは、ゼロ・ポイントをもった自己同一性主義(近代合理主義)ではないだろうか。有体に言えば、ハイデガーの存在とは、ゼロ・ポイント(「ゼロ記号」)ではないだろうか。つまり、本来的存在がゼロ・ポイントであり、頽落した存在は、-1となるだろう。【ただし、構造主義とは異なり、自己意識がある。しかしながら、構造主義とは、差異共振性の連続化なので、そのゼロ度は、自己意識をもつと思われる。後でさらに検討したい。】
 そして、初期デリダは、これを継承して、脱構築主義理論を立てたが、その差延とは、結局、先に述べた+1と-1の差異ではなくて、-1と±0との差異であるように思えるのである。例えば、時間を例にとれば、現在は-1であるが、過去や未来が±0であるように思えるのである。そして、両者から差延が発生すると考えられるのである。
 整理すると、ポスト・モダン理論は、ハイデガー存在論と構造主義の影響下において、ドゥルーズは構造主義のゼロ度の進展として「差異」哲学、デリダはハイデガー存在論の進展としての脱構築主義を立てたと言えよう。
 最後に問題は、+1にあったと言えよう。これが、ポスト・モダン理論では把捉できなかったと考えられるのである。何度も繰り返すことになるが、フッサール現象学が、+1を現代哲学において明晰に認識したと考えられるのである。超越論的主観性とは、それだと考えられるのである。また、キルケゴールやニーチェが、特異性という視点で取り出したものは、不連続性であると思う。つまり、彼らは、不連続性という特異性を明確に指摘した大哲学者であると考えられるのである。不明確ではあれ、Media Pointを示唆した哲学者であると考えられるのである。

3p.s. 内在・即非・超越的哲学としてのPS理論を数的に図式化すれば、

      +i
      ↑
-1/-0/Media Point/+0/+1
       ↓
      -i


となるだろう。


2008年04月27日(Sun)▲ページの先頭へ
色彩と差異共振性:色彩の構造主義とトランス構造主義
以下は、次の考察の最後の色彩の問題を取りあげて、考察を継続したものである。
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10091680213.html

******************

色彩の問題を検討したい。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。
 差異共振「光」は対極的な「光」である。これは原型(これは、原光と呼んでいいと思う)である。しかるに、現象化するときに、-1と+1を発現する。例えば、緑は-1である。そして、思うに、緑*赤が+1ではないだろうか。それは、差異共振「光」である。しかし、虚軸では、原光であり、純粋な差異共振性である。
 つまり、問題の核心はMedia Pointの様態にあると思われる。Media Pointにおいて、虚軸の差異共振「光」、即ち、差異共振原光が発出するが、それは同時に、実軸化して、+1と-1を発生させる。+1は純粋な太陽光である。それに対して、同一性に傾斜した「光」=影が発生する。整理するため、+1を差異共振光と、-1を同一性光としよう。即ち、最初に、差異共振原光があり、次に、差異共振光と同一性光が発生するということになる。
 そして、差異共振原光とは、(+i)*(-i)であり、差異共振光とは、具体的に言えば、例えば、赤*緑のような補色的共振関係である。そして、同一性光が当然、個々の色彩である。
 ここで、本題に戻れば、緑の同一性光とは、見る人に対して、緑の視覚と同時に、残像として、赤の視覚を生む。この残像現象であるが、それは、差異共振光の原理に基づくと言えよう。即ち、赤*緑の差異共振光があり、緑の受容に対して、バランス的に、赤を発生させるということではないだろうか。
 だから、色彩論は三元構造である。差異共振原光⇒差異共振光⇒同一性光である。そして、差異共振光の項であるが、ここでは、補色の極性原理がある。これを二元論的な構造と見たのが、構造主義ではないだろうか。だから、ゲーテの色彩論は構造主義の前身であると言えるのではないだろうか。とまれ、整理すると、差異共振原光は、虚軸の垂直原理であるが、差異共振光は実軸の水平原理である。これを確認しておきたい。
 さて、ゲーテの色彩論が構造主義であるということが出たついでに、ゲーテの原植物論等の原型論を考えてみたい。これは、ルドルフ・シュタイナーの霊学(人知学)の霊の問題とも通じるのである。
 原植物とは、有体に、植物のイデアを想起する。都合もあるので、簡単に触れると、これは、色彩論と同様に、差異共振光のレベルに通じるのではないだろうか。つまり、言わば、実軸水平的差異共振原型ではないだろうか。つまり、+1の差異共振性である。言い換えると、Media Pointの実軸的な差異共振性である。そして、これが、理論的には、構造主義と捉えられてきたものと考えられる。そして、プラトンのイデアの一端もこの構造主義であると考えられるだろう。同一性としてのイデアである。
 そして、これは、同一性の構造であり、差異の構造ではないのである。差異共振性とは言え、この差異は同一性的差異に過ぎないのである。
 ここで、ポスト・モダン理論について触れると、結局、ドゥルーズは構造主義の発展に留まり、初期デリダは、思うに、構造主義内の差異に留まったのではないだろうか。おそらく、+1と-1の差異を差延として、-1の同一性主義を解体したのである。しかしながら、これでは、これでは、構造主義内のことではないだろうか。(思うに、ハイデガーもほとんど構造主義ではないだろうか。)
 結局、実軸の差異共振性=構造主義を乗り越える必要があったのである。【山口昌男の神話学も両義性の神話学ということで、結局、構造主義内部である。構造主義のもつ水平的極性を説明しただけだと思われる。】差異ないしは差異共振性の不連続化(即非化)が必要だったのである。この点は既述済みなので、これ以上言わない。
 最後に、シュタイナーの人知学であるが、これは、ほとんど哲学的である。霊的観念論である。彼の悪魔論はほぼ正確ではないかと思う。いったい何が問題なのか。それは、その二元論、霊主体従論にあるのではないだろうか。これでは、精神と身体が分裂しているのである。PS理論では、精神的身体である Media Pointを考えて、いわば、精神・即・身体である。これは、物質的身体の原型でもある。
 この精神と身体との一性(いつせい)があるのであるが、これをシュタイナーの人知学は否定していると思うのである。言い換えると、Media Pointがないのである。垂直性と水平性が分離しているのであり、垂直性が優位であり、水平性が劣位にあるのである。これでは、伝統的な二元論である。だから、それは、水平的な現実に働きかけることができないのである。いわば、逃避的なのである。これは、身体を単に物質的身体としか捉えていないことにも現われているだろう。物質的身体は精神的身体を核としているのである。


+1と-1の「現象学」について:光と影の超越的現象学
「-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己」http://ameblo.jp/renshi/
entry-10091501933.html
先の以上の論考は我ながら、思考の赴くまま実験したので、これまでの考え方とは齟齬を来してしまっているので、ここで、もう一度「冷静に」、eliot-akira氏のコメントを参考にしながら、検討したい。
 先ず、eliot-akira氏の意見を見てみよう。

『■Media point と鏡像関係?

「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」

このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。

しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。

自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。
eliot-akira 』
http://ameblo.jp/renshi/entry-
10091501933.html#cbox

「ゼロの両面鏡」という考え方は刺激的である。また、光と影が相互に見つめるということ、光と影の不対称性(非対称性)、そして、自己意識の「反射」と「屈折」等も同様である。
 また、『 グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。』
http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090935683.html#c10122297117
ということも、意味深長である。とりわけ、『ヤハウェによって「反射」または「屈折」され』という点が興味深い。(因みに、私はグノーシス主義はPS理論の観点から見直すべきように感じている。)
 「反射」と「屈折」、これがポイントであろう。私は先に、自己同一性の鏡像は差異のスクリーンに映出すると言った。これは、本来、+1の光を-1の映像に同化することではないだろうか。これが、同一性主義・自己同一性主義の発生ではないだろうか。
 このとき、当然、他者=差異は排除・否定されるのである。つまり、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。ここでは、明らかに、錯視があるのである。視覚の不思議である。しかし、不「思議」ではなく、明確に解明されるのである。つまり、本来、+1である光を-1の自己同一性鏡像=影として見てしまうということではないだろうか。
 これが、端的に、仮象としての現象界、ドゥルーズ的に言えば、模像(シミュラクル、シミュラークル)としての現象界である。【参考:http://matsuura05.exblog.jp/7663184/
http://www.asahi-net.or.jp/
~dq3k-hrs/simulacre/simframe.htm
因みに、偽装流行であるが、偽装とは、端的に、同一性仮象である。

 この仮象的現象界は、差異共振的光+1を排除しているのであるが、しかしながら、実際は、差異共振的光+1は生起しているのである。光を発現しているが、同時に、それを影=仮象・模像(シミュラクル)として、知覚するということではないだろうか。実際は光+1は発現しているのに、それを排除して影-1 として見てしまうということだろう。【この+1と-1との関係をどう公式化すればいいのか。後で検討したい。】
 この影による自己同一性=自我形成は、正に、自己陶酔(ナルシシズム)であるが、ここには、差異(差異共振)を排除する暴力があるのである。これを父権的暴力と言っていいだろう。原罪があるとするなら、これが原罪であろう。端的に、悪魔的である。悪魔的現象界である。
 この同一性主義メカニズムが、近代的自我主義、近代合理主義、封建的官僚制にあるのである。これが、また、差別のメカニズムである。ポスト・モダンが攻撃した二項対立のメカニズムである。
 この排除のメカニズムであるが、差異共振エネルギーを排除しているので、-1のエネルギーをもつと言っていいのではないだろうか。つまり、-1が+1のエネルギー(差異共振エネルギー、光のエネルギー)を排除すると考えていいのではないだろうか。【宇宙物理学で言えば、-1がブラックホールであり、それが、+1の光を排除するということと考えていいのだろうか。後で検討。】
 問題は、影(闇)が光を排除したとき、端的に、排除された光はどこに行くのか、何処に存するのか。何処に潜在するのか、である。思うに、内的光と外的光は共振する(共一という言葉を造語したいが)。そして、影が内的光・共一・外的光を排除するのであるが、直感で言えば、排除された光は、身体に潜在すると思われるのである。ここは微妙な問題である。排除された光はMedia Pointに潜在するとも言いたい気がするが、身体とMedia Pointとの関係を考えなくてはならない。
 その前に、確認しておこう。影とは実は、光の裏面ということではないだろうか。ここで、D. H. ロレンスの「われわれは光の背中を見ているに過ぎない」という言葉を想起していいだろう。つまり、dark sun(黒い太陽ではなく、不可視の太陽であろう。いわば、霊的太陽である。)こそ、真の光であるということである。光の現象面(仮象面・模造面)としての影ということである。これは、光と影の即非関係と見るのである。プラトン哲学で言えば、分有であろう。(こう考えると、これまでの考え方と整合化する。)
 では、いわば、光の先端である影が排除する光はどこに行くことになるのかという問題に戻ろう。光の排除とは、端的に、差異共振が否定排除されることである。だから、当然、Media Pointの排除である。私は先に、Media Pointにおいて、差異共振性は精神的身体を形成すると言った。だから、光の排除は精神的身体の排除であり、それは、端的に、内的身体の排除である。だから、排除された光は内的身体に行ったと考えていいだろう。
 そして、直感で言うと、Media Pointが差異共振的精神(心)であり、+1が差異共振的身体ではないだろうか。思うに、以前、モームの『月と六ペンス』の主人公の絵画や態度に関して(画家ゴーギャンをモデルとしたストリックランド)身体的霊性ということを言ったが、排除された光は内的身体における差異共振的精神であり、この身体的霊性に関係すると思われるのである。
 端的に言えば、排除された光は内的身体に潜在するということになるだろう。これで解明できたこととしよう。
 結局、光を排除する、影を中心化する同一性主義であるが、それは光を内的身体に排除しているということになる。そして、内的身体に、人間の徳、魂、精神、霊、心、善が存しているのである。プラトンの善のイデアは正に、ここに存するのであるし、カントの実践理性もここに存するのである。【カントは同一性知性批判(純粋理性とは、純粋同一性知性だろう)を原基としたので、差異共振性を不可知にしてしまったと考えられる。また、東洋哲学は、内的身体の哲学、即ち、内的身体哲学と言えよう。西洋哲学はトランス・モダン化するためには、東洋哲学の内的身体論を取り入れる必要があると考える。単に、抽象観念的知性では、差異共振性は捉えられないからである。鈴木大拙や西田幾多郎の理論は、禅という内的身体論に基づいているのである。また、ウスペンスキーは、東洋神秘主義から内的身体論に到達しているのではないだろうか。】
 だから、近代合理主義・近代的自我主義・封建的官僚主義とは、内的身体である善性を排除しているので、当然、悪性=悪徳=悪霊なのである。善性なき近代主義(もっとも、封建的官僚制は、純粋な近代主義ではないが、日本近代化においては、存続したのである。思うに、近代合理主義・近代的自我主義も官僚主義も父権主義という点では共通である。)なのである。【問題は民主主義や自由主義であるが、それは、基本的には、ルネサンス的Media Pointのエネルギーとプロテスタンティズムの含むイエス的差異共振主義を同一性的に基礎付けたものだと思う。だから、それは、基盤は内的身体=善性であると考えられる。端的に、自由とは、本来、この内的身体の精神性に存するのである。内的自由と言う方が明快であろう。】
 以上の検討から、本稿のテーマがより明快に解明されたと言えるだろう。結局、光と影(闇というより、eliot-akira氏の指摘通りに、影が的確である)の即非様相があるということである。これは、既述済みであるが、これで、これまで、私が経験してきた。差異共振的視覚経験をより明確に説明できるだろう。即ち、「私と立山連峰の銀嶺と一体である」という一種神秘的な経験は、影である銀嶺と「わたし」が内的身体の霊を介して、差異共振して、光(+1)を放出した精神現象であると言えるだろう。【そう、神秘主義はこの視点から確認されるべきである。反近代主義の芸術家は、多くが神秘主義的であるが、それは、差異共振的精神現象である光の体験を意味しているだろう。】
 ここで、銀嶺というのがポイントであろう。端的に、光が焦点化されているだろう。雪を頂いた山嶺は強度の光を放出していると言えよう。通常の影を超えて、光を放出していると考えられよう。この放出された光を私は視覚を介して、内的身体で共鳴して、差異共振体験を起したと考えられるのである。
 この銀嶺の強度の光とはどういうことなのだろうか。おそらく、単なる白い光では強度の光にはならないだろう。蛍光灯の白光を見ても、差異共振体験は起らない。何が異なるのだろうか。【ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を想起する。】
 思うに、白ということが一つのポイントである。これは、本来、色ではないのである。無色である。ということは、根源的な光、即ち、超越光を意味しているのではないだろうか。ここは実に微妙な問題である。先に、+1が光であると言い、それを影-1として見ると言った。だから、本来、光は差異共振エネルギーの現象化である。ということは、影を仮象ならば、光が超越光ということではないのか。ここは難問である。
 整理すると、影=同一性光とするなら、光=差異共振光=超越光である。用語が混淆してしまい、紛らわしいが、言わんとすることはわかるだろう。
 思うに、影=同一性光の場合は、色彩をもつのである。しかしながら、白光とは、本来、無色彩である。つまり、これは、根源的光、即ち、端的に、光ではないだろうか。
 銀嶺の白とは、この光を意味しているのではないか。だからこそ、「わたし」は視覚を介して、内的身体が賦活されて、銀嶺と差異共振化体験をもったのではないか。つまり、Media Resonance(メディア共鳴)であろう。即ち、雪を頂く山嶺におけるMedia Pointと「わたし」の内的身体のMedia Pointが共鳴したということではないのか。
 ならば、蛍光灯の白光はどうして当てはまらないのだろうか。端的に、強度の問題ではないだろうか。銀嶺の白光と蛍光灯の白光とは、強度が異なるのではないだろうか。端的に言えば、銀嶺は太陽の光を反射しているのであり、蛍光灯は光子を放出しているのである。確かに、銀嶺も光子を放出しているとは言えよう。同じ光子でも、何が異なるのか。
 強度が異なると言ったが、それは、言い換えると、Media Pointの開放の有無に存するのではないのか。思うに、太陽光の場合、Media Pointが開いた光であり、蛍光灯の白光は、Media Point が閉じた光ではないだろうか。いわば、後者は影ではないのか。この問題は難しいので、ここでおいておきたい。
 最後に問題は、色彩の問題である。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。(長い論述となったので、稿を改めて検討したい。)
 

参照:
ゲーテの色彩論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

色彩論(しきさいろん Zur Farbenlehre)は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ が1810年 に出した著書。
ゲーテによる光のスペクトル
ゲーテによる闇のスペクトル

教示篇・論争篇・歴史篇の三部構成からなり、教示篇で色彩 に関する己の基礎理論を展開し、論争篇でニュートン の色彩論を批判し、歴史篇で古代ギリシアから18世紀後半までの色彩論の歴史を辿っている。



eliot-akira氏から、たいへん刺激的な、有意義なコメントをいただきました
eliot-akira氏から、たいへん刺激的な、有意義なコメントをいただきましたので、ここで、新しい順に転載します。どうもありがとうございました。
 それぞれにコメントに対して、回答すべきですが、とても深い問題ですので、今は転載にとどめさせていただきます。できれば、後で回答したいと思います。

★★★★★★★★★★★★★★★

http://ameblo.jp/renshi/entry-100
91501933.html#c10123068157

■Media point と鏡像関係?

「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」

このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。

しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。

自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。
eliot-akira 2008-04-27 00:42:36

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http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090935683.html#c10122297117

■一神教の光

明月庵さんが扱われる題材はいつも刺激的で、興味深いです。そこで、自身の「無知の地平面」にも懲りずに、再びコメントさせていただきます。

グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。

「不完全な神」とはうまく表現されたものだと感じます。光と闇が混合してしまっているんですね。

話は飛びますが、この差異性と同一性の考え方を、世界各国の通貨に当てはめれば、どう考えられるのでしょうか。たとえばユーロ通貨は同一性志向ですよね。貿易の流れを滑らかにする利点のほかに、問題点はあるのでしょうか。

言語についても似たような思考が展開できそうです。現在、英語教師の職に就いていますが、英語という言語が資本主義的な権力とつながっているのは、無視できない事実です。英語が世界言語として受け入れられてきている今、各地の言語が失われてきているのでは、と案じられています。

「言語的植民地主義」という造語が頭に浮かびました。
eliot-akira 2008-04-24 20:40:55



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http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090497975.html#c10121930545

■難解ですが興味深い・・・

海舌さんのサイトを訪れました。話の流れについていくのは難しかったですが、好奇心がくすぐられました。

ホワイトホールについて wikipedia で調べてみました。

「ブラックホールは事象の地平線を超えて飛び込む物質を再び外部へ逃さずにすべてを飲み込む領域であるが、ホワイトホールは事象の地平線から物質を放出する」

無の状態から物質や波動が放出されるというのは、熱力学上で不可能だと感じますが、ビッグバンの瞬間はどういう過程を通ったんでしょうか。不思議です。

「ブラックホールは最終的には蒸発することが予言されているが、このプロセスも時間反転に対して対称であるため、熱的平衡にあるブラックホールの時間反転解もブラックホール解である。そうならば、ブラックホールもホワイトホールも同じ物体として解釈され得る」

「時間反転」とは何なのか、具体的によく分からないのですが、数学的な操作でしょうか。正反対の働きをするものが、同じ物体として解釈され得るというのは矛盾しているようですが、つまりブラックホールとホワイトホールは連続する一つのものだという意味でしょうか。

「事象の地平線」とは詩的な表現で気に入ったので、追求してみると・・・

「情報は光や電磁波などにより伝達され、その最大速度は光速であるが、光などでも到達できなくなる領域(距離)が存在し、ここより先の情報を我々は知ることができない。この境界を指し「事象の地平面」と呼ぶ」

この事象の地平面を超えた領域は、我々の視点からは不可知なのだと理解しました。この領域は外側と因果関係を持たないとされています。

天の川銀河系の中心にブラックホールがあると読んだことがあります。これは我々の住む惑星は、不可知の暗黒を中心として旋回していると見られるのではないでしょうか。

全てを吸い込むブラックホールは虚界につながっているのかもしれませんね。とするとブラックホールの中心は一つの media point と言えるでしょうか。中心に接近するにつれて時空間が「引き伸ばされる」とも聞きます。これは「永遠の瞬間」に極限的に接近していくことだと見えます。
eliot-akira 2008-04-23 19:14:27


2008年04月26日(Sat)▲ページの先頭へ
-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己
手元に邦訳がないので、原書の英文から引用する。

In the beginning Elohim created the heavens and the earth. The earth was without form and void, and darkness was upon the face of the deep; and the wind of Elohim was moving over the face of the waters. And Elohim said , "Let there be light," and there was light. And Elohim saw that the light was good; and Elohim separated the light from the darkness. Elohim called the light Day, and the darkness he called Night. And there was evening and there was morning, one day.
And Elohim said, "Let there be a firmament in the midst of the waters, and let it separate the waters from the waters." And Elohim made the firmament and separated the waters which were under the firmament from the waters were firmament Heaven. And there was evening and there was morning, a second day.

Joseph Campbell The Mask of God: the Occidental Mythology. p. 111(『神の仮面:西洋神話の構造』山室静訳 青土社)

これは、聖書の創世記の冒頭の英訳であるが、瞠目すべきは、創造神が、エローヒームになっていることであり、ヤハウェではないことである。
 これで、先に、ヤハウェは闇(-1)の神であり、エローヒームが光(+1)の神ではないかと言ったことが裏付けられると考えられる。そして、ヤハウェが創造神ではないことを確認すべきである。(これだけでも、聖書から一神教を引き出すのは、虚構であることがわかるだろう。)ということで、ヤハウェを闇の神、エローヒームを光の神と仮説して、さらに自己認識方程式の意味の考察を深めたい。
 問題は、現象界のことである。+1と-1の二つの現象がある意味で同時生起するのではないのか、という考えが浮かぶのである。言い換えると、同一性形成の問題をここでは考えているのである。即ち、これまで検討を重ねてきたように、同一性志向性において、差異的同一性と差異否定的同一性の二種類が発生すると考えられるということである。前者が神話で言えば、イシスとオシリスの関係、あるいは、エローヒームである。即ち、(+i)*(-i)⇒+1である。それに対して、後者は-[(+i)*(-i)]⇒-1と考えられるのである。後者は神話では、ヤハウェであり、哲学的には、同一性主義ないしは自己同一性主義(自我主義)である。
 思うに、人間において、この現象の二重性が発生していると考えられるのである。(植物、動物一般は、思うに、+1だけのように思えるのである。この点は後で検討したい。)
 端的に言うと、自己同一性主義(自我主義)で見ている光とは何なのだろうか。光は、方程式から、+1であると考えられる。それを、-1で知覚するということになるのだろうか。
 思うに、-1は同一性=物質の現象界であり、+1は差異共振性の現象界ではないのか。詩人や芸術家や古代人(中世人も含める)は+1の世界を見ているのであり、俗人や近代人は-1の世界を見ているのではないのか。
 問題は、物質である。+1の現象界を見ていても、そこには、同一性=物質があるだろう。しかし、それは、-1の現象界の同一性=物質ではないだろう。前者を+1の同一性=物質、後者を-1の同一性=物質と仮に呼ぼう。
 思うに、物理学的に言えば、前者は量子力学の物質であり、後者は古典物理学の物質ではないだろうか。つまり、前者は量子の粒子であり、後者は唯物論の物質ではないだろうか。
 問題は、光の知覚である。自己同一性主義-1が見る光とは何なのだろうか。それは、本当に、+1の光を見ているのか。聖書にもどれば、エローヒームが+ 1の光を生む。それに対して、ヤハウェは-1の闇を生む。自己同一性主義(自我主義)は-1である。闇が光を見るということなのだろうか。
 ここで上述した二重の現象界という考えを展開しよう。つまり、現象界は-1と+1が重なっているのではないのか。-1の闇と+1の光の二重性の現象界ではないのか。ここで、比喩的な言い方をするなら、闇の光と光の光が存するのではないのか。これだと混乱するので、黒い光と白い光と言い換えよう。
 問題は、+1にとって、-1とは何か、あるいは逆に、-1にとって、+1とは何か、ということではないだろうか。
 直観で言えば、+1にとり、-1とは、暗い影である。そして、-1にとり、+1とは何だろうか。やはり、一種の暗い影ではないだろうか。ただし、その場合は「自己」の内面の暗い影が投影されているのではないだろうか。ユング心理学のシャドウに相当するだろう。
 そう、整理すると、-1は闇という「物質」であり、+1は光という「物質」ではないだろうか。おそらく、ブラックホールとは、-1に相当するのではないだろうか。そして、ホワイトホールとは、その反転の+1ではないだろうか。それは、一種回帰ではないだろうか。
 ここでこの考えを敷延すると、-1の闇が悪魔であり、+1が天使ではないだろうか。ヤハウェは悪魔的神霊(悪霊)であり、エローヒームは天使的神霊(善霊)となる。ゾロアスター教で言えば、光の霊のアフラマズダが+1であり、闇の霊のアングラマイユが-1である。
 思うに、ゾロアスター教の最後の審判は、いわば、合理的である。何故なら、光の霊が闇の霊に勝利するからである。しかしながら、キリスト教の最後の審判、即ち、ヨハネの黙示録の最後の審判であるが、それはどうだろうか。
 問題は「父」である。それは、端的に、エローヒームではなくて、ヤハウェであろう。だから、ヨハネの黙示録の神はヤハウェであり、それは、闇の霊(悪霊)であり、そして、逆に、悪魔が光の霊(善霊)となるだろう。
 つまり、キリスト教の最後の審判は、悪霊の善霊に対する勝利となるのである。悪の勝利である。思うに、これが、ネオコンやブッシュの発想にあると考えられるのである。キリスト教原理主義は、悪霊主義ということである。
 これならば、イラク侵略戦争の心的原因がわかるのである。悪霊に支配されているならば、当然、殺戮は「積極的に」行なわれるのである。(この宗教的意義についてはここで留めたい。)
 最後にもう一度、-1=闇、+1=光について考察しよう。先に述べたが、私が10代に終り頃に述べた「光は暗く、闇は明るい」という言葉についてであるが、「光は暗く」の光とは、-1=闇のことではないのか。そして、「闇は明るい」の闇とは、+1=光のことではないのか。
 ここで、根本的な重大な問題は、通常視覚する光であるが、それは、闇(-i)と光(+1)が混淆しているものであるのか、ということである。
 ここで、思考実験するというか作業仮説するが、通常目にする光は、実は、-1の闇ではないのか。-1の闇を光と知覚しているのではないのか。そして、なんらかの時に、+1の光を知覚するときがあるのではないのか。それが、例えば、阿弥陀如来(無量光如来)ではないのか。あるいは、大日如来、天照大神、アフラマズダ等ではないのか。
 思うに、通常、日常は、この+1の光は隠されているのではないだろうか。そう、私がこれまで超越光と言ってきたものは、+1ではないのだろうか。(そうすると、理論的な整合性が崩れるので、整理する必要がある。)
 わかりやすく言えば、内なる光と言われるものが+1ではないのか。あるいは、崇高に感じるときの光、夕焼け等が。
 ここでは、プラトンの有名な洞窟の比喩を考えるといいだろう。洞窟の壁のスクリーンの影像が、-1である。そして、善のイデアである洞窟外の太陽が+1ではないのか。つまり、影を通常においては視覚しているということではないのか。
 思うに、-1の世界が空間三次元であり、+1の世界が空間四次元ではないだろうか。何故なら、+1の世界は、虚軸次元が入るからであるである。高次元が入るからである。時間次元を入れれば、-1は時空四次元であり、-1は時空五次元であろう。(もっとも時間次元については、精察する必要があるが。)
 とまれ、思うに、そのように見ると、光と闇のパラドクスが生じていると言えよう。確かに、「光は暗く、闇は明るい」となるだろう。つまり、闇とは、この場合、光(-1)の世界では見えない光である。
 ここで飛躍して、新約聖書について考えると、イエスのいう光とは、正に、+1の光であり、この世は-1であろう。しかしながら、俗人は+1の光が見えないのである。私がいう平和のイエスはこのイエスである。この点では、確かに、キリスト教は一面、光の宗教であり、ゾロアスター教的であると言えよう。差異共振の宗教である。(しかし、父=ヤハウェ=-1=闇の要素が入るので、悪魔化すると考えられる。)超越光の宗教である。
 問題は、闇=現象光と光=超越光の様相である。前者は後者を否定するので、いわば、不気味であろう。そして、後者は前者を超越するので、幸福的であろう。私が狂気というのは、当然、前者である。
 問題は、視覚的美とは何か、ということである。もし、普通の光が闇ならば、視覚美とは闇の美である。これが人を幻惑するものではないだろうか。確かに、闇の美があるのである。魔的な美である。
 民話等で、美と醜との道徳的な話しがあるが、そこでは、醜に道徳性があることを述べている。これは、端的に、視覚美が闇の美であり、魔的美であることをいましめているのではないだろうか。
 ならば、本当の美とは何かとなる。それは、当然、光の美である。崇高美である。醜の美となるのではないだろうか。
 今はここで留める。以上は思考実験であり、後で、再考したい。


2008年04月24日(Thu)▲ページの先頭へ
超越エネルギーと一神教:差異共振性の光と一神教の闇:トランス・キリスト教と新東西文明
先に、超越的叡知存在の感受に関して考察したが、多神教的感性と一神教的感性では違いがある。この点を精察したい。
 今思ったが、前者はハイデガー的存在的感性であり、後者は自我的感性ではないかということである。ただし、ハイデガーは後者に傾斜してはいると思う。
 言い換えると、存在論的感性と一神教/自我的感性である。しかしながら、ヤハウェは「我在りて、・・・」であるから、自我存在の神である。デカルトのコギトの前身のようなものである。だから、ハイデガーの存在論を前者に適用するのは問題がある。やはり、ハイデガーの存在論は後者の方に近いだろう。
 端的に言えば、後者はMedia Pointからの同一性主義志向性のエネルギーを指すと言えるだろう。これは、自己同一性=自我志向性であり、これは、Media Pointの差異共振エネルギーを反転させた同一性主義エネルギーと考えられる。つまり、差異共振性を否定抑圧した自己同一性(自我)エネルギーであり、この否定抑圧の力動は差異共振エネルギーに対する反動エネルギーであり、絶対的衝動であると考えられる。だからこそ、これが、一神教エネルギーと考えられる。差異共振性、多神教性を否定する一神教エネルギーである。
 これは端的に、狂暴なエネルギーである。野蛮なエネルギーである。これこそ、闇のエネルギーではないのか。聖書では「光あれ」というが、これは、闇ではないのか。問題は自己同一性主義志向性は光の放出なのか、それとも、闇の放出なのか、である。
 これは実に根本的問題である。自己認識方程式は、光の放出でもあるが、そこでは、自我が自己であることを確認することを意味しているのである。
 しかしながら、同一性主義志向性はそうではなくて、左辺を否定抑圧しているのである。だから、同一性主義志向性=自己同一性主義志向性=一神教的自我志向性とは、⇒+1ではなくて、⇒-1ではないだろうか。-1としてのヤハウェ(超越神・唯一神)ではないのか。
 思うに、-1を闇ないしは月と象徴していいのではないだろうか。そして、+1を光ないしは太陽としていいのではないだろうか。【イスラム教が月をシンボルにしているのが参考になるのではないだろうか。また、神道が太陽をシンボルにしているのも参考になるだろう。】
 そうすると、闇の神であるヤハウェが「光あれ」というのはどういうことなのだろうか。ずいぶん以前に、エローヒーム(神の複数)とヤハウェを区別したことがあり、そのとき、創造神はエローヒームではないかというようなことを言ったかもしれない。
 とまれ、ヤハウェを闇の神とすると、光の神は別に考える必要がある。それがエローヒームではないだろうか。この点の問題に関して、以前何度も考察したことがあるが、思うに、差異共振的同一性を形成する神があり、それは、例えば、イシスとオシリスであろう。イシスが差異共振エネルギーであり、オシリスが⇒ +1の光である。これが、母権多神教の「創造」=造化である。
 それに対して、一神教の創造神が発生して、差異共振エネルギー=イシスを否定し、当然、光のオシリスを否定して、天地創造を行なうが、このときの太陽神とは何か。例えば、バビロニア神話におけるマルクトによるティアマトの殺戮による天地創造と太陽神シャマシュの場合である。
 英雄マルクトと太陽神シャマシュを結びつけて考えていいだろう。この統合態の帰結に一神教形成を見ていいだろう。つまり、ヤハウェの形成である。ならば、太陽神シャマシュの光とは、本来の光ではなく、ヤハウェの闇ではないだろうか。
 自己同一性主義は闇であるが、光と表象されるのは、何故か。この自己同一性主義=自我主義とは自我合理主義であり、物質的合理主義に帰結すると考えられる。
 この自我合理主義=物質的合理主義が光と表象されるのであろう。言い換えると、本来、闇である-1が光と錯視されるのである。
 思うに、これは物質的光と見ていいだろう。同一性の光である。これは、古典物理学の光と見ていいだろう。ニュートンの光である。
 ということで、近代主義は、本来、闇を光と見ているということになる。ここで、私が10代終わりの頃言った「光は暗く、闇は明るい」【記憶があいまいで言葉が違っているかもしれない。光は冷たく、闇は暖かいであったかもしれない。もっとも、言わんとしていることは同じである。】というアフォリズム的な言葉が証明されるだろう。近代主義の光は実は暗く、反近代主義の闇の心性に本来の光があるという意味になる。
 とまれ、一神教の帰結である近代合理主義は闇であるとここで証明されたであろう。また、物質主義も闇である。資本主義も同一性交換価値を至上価値とする限り、闇である。
 最後に整理すると、一神教の問題は、結局、光と闇が混淆していることであり、また単に混淆しているだけでなく、倒立転倒倒錯していると考えられることである。光が闇となり、闇が光となっているのである。つまり、例えば、キリスト教のいう光とは本来、闇であり、闇が光になるということである。だから、ヨハネの黙示録の最後の審判は、悪魔主義的である。悪魔の最後の審判である。神が悪魔となり、悪魔が神となっていると考えられる(参照:D.H.ロレンスの『黙示録論』)。
 【キリスト教の問題は、複雑であり、既述したように、二種類のイエスを想定するのが妥当だと考えられるのである。一つは、闇のイエスである。自我主義のイエス、悪魔のイエスである。戦争狂のイエスである。もう一つのイエスは、光のイエスであり、差異共振性のイエス、天使のイエスである。平和のイエスである。言い換えると、ヤハウェの子のイエスであり、太母の子のイエスである。】
 結局、一神教によって、差異共振理性=叡知(ソフィア・般若)が否定抑圧されたのであり、そこで、人類の叡知文化が否定されたと考えられるのである。叡知文化は異教や異端として否定されてきたのである。悪魔的キリスト教が暴虐野蛮な世界を生んだのである。【p.s.  ここでは、やはり、筆が滑っている。民主主義とは、差異共振理性=叡知の同一性形式化と考えられる。差異を同一性化して、平等化したのである。ここでは、差異が同一性として肯定されているのである。しかしながら、差異自体が肯定されていないので、反動化するのである。】
 父権一神教の狂気にあって、差異共振理性=叡知は、少数者によって探求され、保持されてきたと言えよう。哲学者、芸術家、詩人・作家、宗教者、革新的科学者、真民衆等はこれらのために戦ってきたのである。
 しかしながら、近代・現代西洋文明にあって、一神教的同一性主義が中心化して(ロゴス中心主義)、全体主義が生起しているのである。資本主義、とりわけ、国家統制主義と結びついた巨大資本主義が、同一性主義を中心化させて、世界は牢獄的になっているのである。
 問題は、差異共振理性=叡知の喪失にある。これをこれまで、証明できなかったのであり、単なる理想としか理解されなかったのである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は、Media Pointという概念によって、この差異共振理性=叡知の実在性を解明したと考えられる。
 ここを精神の起点とすることで、キリスト教的西洋文明の分裂性を乗り越えて、トランス西洋文明、新東西世界文明が創造されると考えられるのである。

参考:

★ 2008年4月24日 木曜日 、8時更新
 今朝は大雨だが、やはり非常体感が続いている。八丈M5.6以降抑圧が続いていて、今夜にも解放があると思う。前駆微震らしきも続き、この数日は家屋のラップが絶えなかった。雨が上がり、気圧が上がってゆくなかでトリガー作用が発生する。
 震源は、行徳データくらしか材料がないが、やはり房総沖方面を予想している。

 地球温暖化現象について、炭酸ガスによる保温作用と、太陽活動説に二分化し対立が起きているようだ。
 筆者が、はじめて地球温暖化の深刻さに気付かされたのは1970年代、日経サイエンス誌上のレポートであった。正確な記憶はないが、今日、起きている北極融氷、ツバス水没など、ほとんどの現象が30年以上前に完全に予測されていたと思う。槌田レポートも1980年代に、今起きている事態を正確に予測していた。いずれも、炭酸ガス増加を基本原因と指摘していた。
 太陽活動説については、まだ明確なレポートに接しておらず、この数年、指摘されはじめたことで、筆者はよく分からない。分かっていることは、周期的な黒点活動であるサイクル24のレベルが、過去一度も観測されたことのないほど激しいものになりそうだということ。これと地球地殻変動と密接な関係がありそうだということだ。
 筆者としては、両者の複合的、相乗的作用だと認識しているが、「権力に都合の悪い情報が隠蔽される」という大法則からすると、実は、まだ公開されていない温暖化要因があると思っている。
 その最大のものが、原発温排水による海洋温暖化だ。海洋温度は、同じ1度で大気温度の数千倍の作用が起きるとされ、気象擾乱に大いに関係している。さらに、地殻変動による地熱との相乗作用もあるだろう。また中国やロシア旧東欧地域での環境負荷産業は、独裁政権の政治的思惑によりほとんど隠蔽されているといわれる。
 いずれにせよ、真実が明らかになったときは、人類滅亡の鐘が鳴り響いていることだろう。
 他人に対して「親子兄弟のように一緒に生きよう」 と考えず「自分たちさえ良ければ、他人は滅亡してもかまわない」とする独善的姿勢が人類滅亡を呼ぶのである。過ちを犯した加害者を自分の親子兄弟のように考えることができなくなって、「殺してしまえ」と叫ぶ人たちには滅亡がふさわしい。

 【旧住宅金融専門会社(住専)の大口融資先だった不動産会社に資産の差し押さえを免れるように指示したとして、強制執行妨害罪に問われた弁護士、安田好弘被告(60)の控訴審判決公判が23日、東京高裁で開かれた。池田耕平裁判長は、1審東京地裁の無罪判決を破棄し、罰金50万円(求刑懲役2年)の逆転有罪を言い渡した。
 判決によると、安田被告は、不動産会社社長(72)=懲役1年6月、執行猶予3年の有罪判決確定=らと同社の所有するビル2棟の賃料の差し押さえを免れるため、平成5年3月〜8年9月、ビルをダミー会社に転貸したように装い、計約2億円を隠した。 安田被告が、ビルを別会社に転貸して賃料を移し替えるというスキームを考案したことには争いはない。控訴審では、このスキームが強制執行を免れる目的で提案されたものか否か▽社長らとの共謀の有無−などが争われた。
 検察側は、安田被告が提案したビルの転貸は「結果的に強制執行妨害を生じさせることは明らかで違法」と指摘。共犯者の供述などからも「共謀が認められる」と主張していた。 一方、弁護側は1審の約1200人を大きく上回る約2100人の弁護団を結成。1審同様に「事件は捜査当局が作り上げたもの」などと無罪主張していた。 安田被告は、22日に広島高裁で死刑判決が言い渡された山口県光市の母子殺害事件など多くの刑事事件で弁護人を務めているほか、死刑廃止運動の中心的存在としても知られる】

 一審では完全無罪が宣告され、検察の陰謀さえ判決で指摘されたが、二審では見事に、権力のでっちあげ弾圧判決が復活した。筆者も、三井環事件と同じで、「ここまでやるか?」 と驚愕するしかなかった。これでは、全国の弁護士の、あらゆる弁護活動が犯罪として認定されることになる。詭弁を通り越して、まるで中国政権の傲慢なやり口を見ているようだ。
 「この国は、もうオシマイだ」と思ってはいたが、ここまで権力が腐敗すると、論評の意欲も失われた。死刑制度の本質が理解できる読者にだけ呼びかける。
 日本国民9割の死刑賛成者は、やがて来るべき警察国家、もの申せば獄中、処刑という特権階級の利権を守るための奴隷社会がやってくることを理解できない。説得可能なのは、死刑賛成者が6割程度までだろう。もうダメだ。彼らは、アメリカと同様、国民の1割が刑務所にぶち込まれる悲惨な奴隷社会を享受することになるだろう。
 逃げよ逃げよ、すべての都市から! ノストラダムスの警告が聞こえる。心ある者、他人を自分の親子兄弟のように思いやることのできる者たちは、今すぐ団結して、過疎の田舎で農業共同体を作ろう。貧しくとも連帯に支えられて暗黒の時代を堪え忍ぼう。
 やがて9割の死刑賛成者たちは死滅するだろう。累々たる焼け野原の跡に、人間解放のすばらしい時代を一から作り直そう。


 「組織と効率化がもたらす破綻」について、続けて余談連載するつもりだったが、重大な出来事が相次いで見込みがうまくゆかない。
 光母子殺人事件を端緒とする死刑論議について、あまりに論理的、人間的レベルが低い書き込みが続くので、筆者はうんざりして反論の意欲もわかない。ネット掲示板に意見を書き込む人たちは、「理性」について考えたことがないのだろうか?

 何度も同じ例を出して恐縮だが、道路で車を運転していれば、必ず人を怒らせるアホがいっぱい出てくる。誰もいないところでのスピードオーバーやコーナリングまで文句を言うつもりなどないが、危険な割り込み、追い立て、意図的なノロノロ走り、走路妨害など事故に結びつく自分勝手な運転には非常に腹が立つが、だからといって、いちいち文句をつけて、気に入らないからと感情のままに殴りかかってばかりいる人は滅多にいないだろう。

 そのときはカッとくるが、よく考えてみれば、自分でも他人の迷惑になる運転をしたこともあり、単に未熟なのかもしれない。また、危険運転常習犯は、いつか必ず事故を起こすにちがいないから、いずれ天が成敗するさ、などと考えて、我慢することが多い。
 いちいち感情の赴くままに怒って仕返ししたりすれば、今度は自分が、みんなの迷惑になってしまう。だから怒っても「ちょっと待て! どっちがトクか、よーく考えよう」 と落ち着いて最善手を判断するのだ。これを「理性」と呼んでいる。
 感情のままに行動する人を「未熟者」と呼び、全体の動静を見極めて、最善手を考えて行動できる人を「理性的」と呼んでいる。感情だけなら犬でも猿でもニワトリでも同じことだ。人間が、それらの動物と決定的に異なり、人間らしさをなしている本質が「理性」なのだ。

 筆者は、死刑問題について、この人間らしい理性をもって判断せよと主張している。
 悪質な犯罪に怒って、「犯人をやっつけろ!」と思うところが感情の作用である。何も怒るなとは言っていない。本村氏の立場にあって怒らない者がいるものか。しかし、そこで犯人を絞首刑にすれば、一時の感情、復讐心は満足するかもしれないが、それで問題が解決したわけでは決してない。
 大切なことは、未熟な18歳の少年が暴走し二人を殺害するような愚かな過ちが繰り返されないようにすることだ。少年をロープで吊して殺して問題が解決したと思うなら、それこそ真の愚か者である。今、掲示板に書き込まれている死刑賛成の論旨は、一見、理性的なように見えて、実は理性のカケラもなく、復讐、報復の感情の立場を一歩も超えていない愚劣なものばかりだから心底うんざりするのだ。

 もし死刑賛成者に理性があるなら、それが未熟な少年の暴走を、どう防ぐのか? 「やったら殺すぞ!」と恫喝して防ぐのか? それとも、少年が暴走に至った真の原因を分析し、少年たちが心安らかに社会に貢献できるよう、暖かい心を育てるために行動するのか? このメカニズムを分析し、社会にとって最善手を提唱するものになるはずだ。
 筆者は、人を恫喝し、恐怖心によって統制しようとする愚か者たちを批判し徹底的に軽蔑し、彼らと真正面から対決しようとしている。我々の目指す社会は、恫喝や恐怖で支配する中国や北朝鮮のような社会では絶対にない。
 未熟な少年たちを、暖かい心に育てるために、人を追いつめない暖かい教育を行い、他人の利益に奉仕することが、人生の喜びを産み出すことを教え、すべての人たちが、地球上すべての人間を、自分の親兄弟のように感じて、連帯して生きる楽しさを味わう社会なのである。

 今、掲示板に書かれている、死刑賛成の書き込みのなかに、そうした理性のカケラでも見いだせるだろうか? 悪に至った理由を考えもせず、「自分の命で責任をとれ!」 だけの、支配者に飼い慣らされた番犬の発想であり、他人の過ちを自分のこととして捉え、暖かく、愛情のなかで解決しようとする姿勢が皆無ではないか? これでは、すべての心は閉ざされる。人は短所を指摘され、けなされ、報復、制裁されることで、憎しみしか生み出さない。憎しみが社会の何を改善するというのか? こんなことが分からないで、馬鹿の一つ覚えのように「責任」を強調したがる者よ、君が失敗したとき。本当に責任をとったことが一度でもあるのか?
http://www1.odn.ne.jp/~cam22440/yoti01.htm
   

東海アマ地震予知情報 ニュー東海アマ


2008年04月23日(Wed)▲ページの先頭へ
eliot-akira氏のコメントに暫定的に答える、他
eliot-akira氏のコメントに暫定的に答える

テーマ:検討問題

以下、eliot-akira氏のコメントを転載します。とても、鋭い質問だと思います。後で答えたいと思います。
 今簡単に言いますと、以下の最初の質問に関しては、既に、Kaisetsu氏が説かれています。おっしゃる通り、二次元、三次元が可能になると思います。以下のKaisetu氏のブログを参照してください。
http://theory.platonicsynergy.org/

Theories for the Platonic Synergy Concept.

 また、二番目の質問はたいへん興味深いと思います。私は、ホワイトホールのことは考えていませんでした。
 「光を吸収する」ことと「闇を放出する」こととは、とても興味深い事柄だと思います。これも考え方の問題があると思います。例えば、電子を考えると、陽電子があります。電子の流れと陽電子の流れが正反対になると思います。これを使えば、「光の吸収」が「闇の放出」になるのではないでしょうか。(p.s. これは不明瞭な言い方です。電子・陽電子を考えるなら、「光の吸収」と「闇の放出」は同じ事態であっても、異なる事象になりますね。だから、次に言う別の事象という方が適切だと思います。)
 また、両者、別の事象と考えることも可能だと思います。後で、検討したいと思います。
 ホワイトホールですが、よくはわかりませんが、おっしゃる通り、ブラックホールが-1ならば、ホワイトホールは+1になりますね。そして、±0というのは、その通りだと思います。
 

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■質問

Media point を一次元とすると、二次元の media plane や三次元の media space などが可能なのかもしれないと考えが浮かびました。どうでしょうか?

もし不可能なら、なぜそうなのでしょうか。
eliot-akira 2008-04-21 03:38:16

http://ameblo.jp/renshi/entry-
10090011698.html#c10121102357



■Whole=Black & White?

これは興味深い題材です。

「光を吸収する」というのは「闇を放出する」ことと同じでしょうか?

ブラックホールに対称するホワイトホールというものがあると聞いた事があります。前者によって吸収される物質や波動が、後者によって放出されるとのことです。これが +1 と -1 によって表現されているのでは?

ということは宇宙という等式において±0という究極的なバランスがある、と見なすことが出来るのかもしれませんね。
eliot-akira 2008-04-17 14:50:36

http://ameblo.jp/renshi/entry-
10089001746.html#c10119810222


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母子殺害と犠牲:差異をむき出しにする「神」:絶対的特異性と差異共振性

テーマ:法:憲法・法律・司法・裁判・検察・条約

ここで少し大胆な発想を許されるなら、もし、母子殺害を神が少年に命じたとするならどうだろうか。(それは神ではないという反論は当然あるし、私もそう考えるだろう。)
 ここで、有名なキルケゴールの『おそれとおののき』と考え合わせるとどうだろうか。神はアブラハムに子どものイサクをささげるように告げられて、正に、そうしようとした瞬間に神のストップが入ったのである。しかし、奉献しようとしたのは事実である。
 これを延長して、神へのささげものとして、母子殺害を命じられ、そうしてしまったとしたらどうだろうか。その神が絶対神としたらどうだろうか。神の正義は殺人を命じたのである。しかし、地上の正義は、それは悪とみなす。
 そう、デリダは『死を与える』でこの問題を論じて、結局、現代のわれわれは、日々、アブラハム的奉献を行っていると虚をつかれるようなことを述べている。
 「本土」人は、沖縄人(びと)をアメリカにささげている。原発では、地方の人を、経済のためにささげている。等々である。
 そうすると、この犠牲とはいったいなんなのだろうか、ということになろう。ここに示唆されているのは、きわめて深いアイロニーではないのか。そう、ゆるしの問題ではないのか。特異性=差異共振性の問題だと思う。【p.s.  ここでは、筆がいわばすべっている。アブラハムの場合は、犠牲が苦悩を伴うのであるが、沖縄や原発の場合は苦悩を伴っていない。後者の場合は、犠牲者のあり方が特異性になりうるだろう。差別された側にこの特異性の試練がありうると思う。そう、ヨブ記に似ていると思う。聖書はこの特異性の倫理のあり方を問うている。後で、整理し、再検討したい。p.p.s. もっとも、事実としてみれば、「本土」人が沖縄人を「捧げている」と言えるだろう。だから、キルケゴール/デリダの哲学的事態である。ならば、母子殺人事件はどうなのか。沖縄人を捧げているのとどう違うのか。いったい、裁く権利が我々にあるのか。ここで、カミュ的な問題に逢着する。後で検討を深めたい。】
 関係性が丸裸にされて、根源的な差異がむき出しにされるのではないのか。この根源的な差異が特異性であり、ここから、差異共振性、根源的差異共振性が発するのではないのか。いわば、絶望的希望である。地獄的天国である。
 同一性をすべて剥がされたところから始まる根源的関係性がここでは問題になっているのではないだろうか。そう、正に、絶対矛盾的自己同一である。ニーチェが憐れみを否定するのは、このような意味があるのだろう。

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<光母子殺害>元少年に死刑判決 裁判長は新供述「不自然不合理」、情状「斟酌する理由みじんもない」

4月22日12時27分配信 毎日新聞

<光母子殺害>元少年に死刑判決 裁判長は新供述「不自然不合理」、情状「斟酌する理由みじんもない」

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光母子殺害事件の差し戻し審が開かれた広島高裁302号法廷=2008年4月22日午前9時55分、代表撮影
 山口県光市で99年4月、母子を殺害したとして殺人と強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(27)に対する差し戻し控訴審の判決公判が22日午前、広島高裁であった。楢崎康英裁判長は「強姦の目的や計画性も否定できない」として、求刑通り死刑を言い渡した。元少年が差し戻し審になって新供述を展開したことを「不自然不合理」とし、弁護側が主張した情状面について「斟酌(しんしゃく)する理由はみじんもない」と述べた。

【関連写真特集】 光母子殺害事件、元少年に死刑判決

 最高裁は06年6月、高裁が認めた情状酌量理由を「死刑を回避するには不十分」として1、2審の無期懲役判決を破棄し、高裁に差し戻した。

 判決によると、元少年は99年4月14日、光市のアパートに住む会社員、本村洋さん(32)方に排水管検査を装って上がり込み、妻の弥生さん(当時23歳)を強姦目的で襲い、抵抗されたため手で首を絞めて殺害。泣き続ける長女夕夏ちゃん(同11カ月)を床にたたきつけた上、首にひもを巻き付けて絞殺した。

 元少年は差し戻し審の公判で、弥生さん殺害について「甘えたい気持ちで抱きつき、反撃され押さえつけたら動かなくなった」とし、夕夏ちゃんについて「泣きやまないので抱いてあやしていたら落とした。首を絞めた認識はない」と述べた。

 供述を変えた理由については、「自白調書は警察や検察に押し付けられ、1、2審は弁護人が無期懲役が妥当と判断して争ってくれなかった」とした。

 判決は「弁護人から捜査段階の調書を差し入れられ、『初めて真実と異なることが記載されているのに気づいた』とするが、ありえない」と、元少年の主張を退けた。

 また、弥生さんの殺害方法について元少年が「押し倒して逆手で首を押さえているうちに亡くなった」としたのに対しても、「不自然な体勢で圧迫死させるのは困難と考えられ、右手で首を押さえていたことを『(元少年が)感触さえ覚えていない』というのは不自然。到底信用できない」とした。夕夏ちゃん殺害についても、「供述は信用できない」と否定した。

 また、元少年が強姦行為について「弥生さんを生き返らせるため」としたことについて、「(荒唐無稽こうとうむけい)な発想であり、死体を前にしてこのようなことを思いつくとは疑わしい」と退けた。

 判決は、「身勝手かつ、自己中心的で、(被害者の)人格を無視した卑劣な犯行」と断じた。

 1、2審は殺害の計画性の無さや更生可能性を重視して無期懲役を選択。最高裁は強姦目的や殺害方法などの事実認定を「揺るぎない」と判断し、情状面からも「量刑は不当で、著しく正義に反する」として審理を差し戻した。

 事件当時、元少年は18歳30日。少年法は18歳未満の被告に死刑を科すことを禁じている。2審の無期懲役判決を差し戻した死刑求刑事件は戦後3例目だが、他の2件は死刑が確定している。【大沢瑞季、安部拓輝、川辺康広】

【特集】 光母子殺害事件 判決の注目点を整理
【関連記事】 光母子殺害:【本村洋さん会見詳細】<1>「裁判所の見解は極めて真っ当」
【関連記事】 光母子殺害事件 検察側の弁論要旨
【関連記事】 光母子殺害事件 弁護側の弁論要旨
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080422-00000006-maiall-soci


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身体の欠陥と精神:心身関係:Media Pointの精神的身体性:心身相関

テーマ:医学・病気

うつ病は私の周囲にも多い。実母がもう10年近くのうつ病である。おそらく、治らないだろう。
 うつ病は心の病ということで、原因をストレスに見るのだろうが、私は、意外に、身体の故障から精神的障害が生じることもあるのではないかと、逆説的なことを思うのである。
 先に簡単に触れたが、結局、Media Pointが根源であり、ここは、いわば、心と身体が一如である。精神的身体、霊的身体、魂的身体であり、これが基盤・基底となり、物質的身体、肉体が形成されると今は仮説している。
 この根源的な精神的身体は、心であり、且つ、身体である。また、心であり、同時に、身体ではないという即非態でもあろう★。(スピノザの心身平行論は、この精神的身体を仮説すると簡単に説明がつくだろう。スピノザは、この側面を考えなかったのである。)
 だから、当然、心に乱れが生じれば、それが、身体へ影響するのであり、身体に乱れがあれば、心にも影響を及ぼすと言えよう。うつ病の場合は、一般には、前者の場合であり、私がここで述べたいのは、後者である。
 ここで話を拡大して言うと、近代的自我=近代合理主義の狂気と私が言うところの精神のあり方であるが、それは、意外に身体の欠陥から発しているのではないのかと思ったりするのである。
 そう、なんらかのトラウマの可能性はあるが、それ以外に身体の問題がないのかという考え方はどうかということである。
 たとえば、ストレスがあるので、胃潰瘍になるという風に普通は考えられるが、私の作業仮説は、もともと、胃に問題があるので、ストレスの影響を受けやすいのではないのかということである。
 そう、心身相関である。肝臓の悪い人は、どこか精神に問題を抱えていないだろうか。肺臓の悪い人、膵臓の悪い人、心臓の悪い人、等々である。
 私が言いたいことは、結局、きわめて伝統的な心身観(東洋的身体観)に返ることになる。心臓が感情の身体であるというような考えである。肝臓が肝(きも)であり、肝っ玉(大胆さ)を宿すということである。
 この考え方は、Media Pointが精神的身体であるという視点から必然的に出てくるものである。後で精緻に考えたい。

★ここの心と身体の即非性は、直感で言っているので、少し分析が必要である。Media Pointにおける差異=イデアが、心を生み、また、身体を生み出す。これは、同時であるが、様相は異なるのではないだろうか。
 少し、測深想像考察してみよう。Media Pointにおいて、差異共振性と同一性志向性が発生する。後者はフッサールの志向性(ノエシス)と見ていいだろう。それが意識、純粋意識である。しかしながら、前者の差異共振性であるが、それは、いわば、無意識になるのである。そう、無意識であり、身体を形成すると思われる。そして、一般には、身体を物質的身体と捉えるのである。しかしながら、これは、実際は、イデア的身体(差異的身体、差異共振的身体、霊的身体、精神的身体、魂的身体)である。
 だから、この点では、心と身体とは、確かに、即非関係にある。もっとも、この心は同一性的心である。同一性知性である。しかし、精神的知性がありうる。それはどういうものだろうか。
 精神的知性とは、差異共振性=無意識の知性である。それは、また、身体に通じている。端的に言えば、差異共振性=無意識/身体である。だから、精神的知性と身体との関係は、この場合は、イコールではないが、一如であろう。そう、微妙な点がある。
 いったい、差異共振的知性=精神と身体とはどう関係するのか。何故なら、差異共振性も身体であるからである。極言すれば、身体的知性が精神である。この点においては、精神・即非・身体と言うことができる。
 ここでついでながら言うと、Media Pointのもつ差異共振性であるが、それは、超越光の精神的身体(差異共振的身体)と言えるだろう。同一性知覚(通常の視覚)の見る光とは、この超越光の精神的身体から少し洩れる超越光の光輪のようなものではないのか。D.H.ロレンスは光が背を向けていると言っていたが、正に、そうだろう。超越光の背中をわれわれは、現象界において、見ているに過ぎないのだろう。
 思うに、仏像の光背は、超越光を表現しているのだろう。後光とは、正に、裏返しの超越光から洩れるものだろう。
 
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うつ病治療、4人に1人が中断
 うつ病や関連の疾患で受診した経験がある人のうち、症状が治まっていないにもかかわらず、治療を中断するケースが少なくないことが、ファイザーの調査で分かった。精神医療の専門家は「患者が疾患を理解し、安心して治療に専念できる環境を創出できるよう、医師側の意識をさらに高めていく必要がある」と指摘している。(医療介護情報CBニュース)
[記事全文]


# うつ病の治療の基本 - 重症度の波。うつ病治療.com
# 心の風邪「うつ病」を休養と薬でゆっくり治そう - healthクリック
# 家族のための対応ガイド - NHK「うつサポート情報室 」

# 受診経験のある患者における受診行動調査 - ファイザー

# 20〜30代で急増する「社内うつ」 - 日経BP(2006年3月24日)

# 心のケア - Yahoo!トピックス
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/
domestic/depressive_disorders/


2008年04月21日(Mon)▲ページの先頭へ
癌化抑制遺伝子と差異共振性:霊主体従と健康ver2
(最初に書いたものが支離滅裂だったので、書き直すことにする。)
健康維持とは差異共振性(差異共振エネルギー)によると考えると、病気とは、その否定である連続的同一性主義であることになるだろう。
 この考え方は、いわば、霊主体従(精神が主であり、肉体が従である)という考え方に通ずるだろう。(とは言え、病気の場合は、通常の物質的医学にかかることを私は勧める。この点については後で検討したい。)
 以下の記事に適用すると、癌化抑制遺伝子「p53」は、差異共振性と関係すると思われる。そして、連続的同一性主義(自我主義)の場合、⇒-1でこれが癌化と関係するということになるだろう。
 精神と肉体の関係は複雑であり、簡単には霊主体従とは言えない。ここでは、遺伝子と精神性のなんらかのつながりを示唆するに留めるものである。
 私は霊的治療はありえると思うが、基本的には、物質的医学を奨める。何故なら、物質的身体とは本来、精神的身体(霊的身体・魂的身体、つまり、 Media Point身体)であり、物質的医療は、その精神的身体の物質的末端に作用して、精神的身体を正常化すると思われるからである。つまり、霊主体従という言い方は語弊があるというか、ミスリーディングである。即ち、霊自体がMedia Pointにおいて、身体化するのである。そして、この身体を物質的医療が治癒すると考えられるのである。推測するに、物質的治療が、精神的身体の末端の物質的身体を介して、精神的身体を正常化するのである。
 もし、霊的治療(例えば、祈祷)を主にすると、この末端の物質的身体に関与することができずに、物質的身体が悪化して、病状が悪化すると考えられる。

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<がん細胞>増殖加速遺伝子を解明 日医大チーム

4月20日22時15分配信 毎日新聞

 がん細胞がエネルギー源であるブドウ糖を取り込む一連の仕組みを、日本医科大の川内敬子助教と田中信之教授(分子生物学)らが発見した。この仕組みを遮断する薬剤を開発すれば、「兵糧攻め」でがん細胞の増殖を抑えられることになる。

 研究チームは、細胞が、がん化するのを抑制する遺伝子「p53」に注目した。マウスの細胞でp53を除去すると、がん化するだけでなく、別の遺伝子「NFκB」の働きが活発になっていることに気付いた。

 詳細に調べると、NFκBが、がん細胞のエネルギー源であるブドウ糖を取り込む別のたんぱく質を増やし、がん細胞の増殖を加速させることを突き止めた。p53が働かなくなると、NFκBが活性化し、がん細胞へのエネルギー供給が進み、増殖するという流れを解明した。また、正常な細胞では、がん細胞の増殖に不可欠なブドウ糖分解を起こすNFκBの働きを、p53が「ブレーキ役」となって抑制している仕組みもわかった。田中教授は「p53の機能を回復したり、NFκBの機能を抑えれば、新しいがん治療薬の開発につながるだろう」と話している。英科学誌ネイチャー・セル・バイオロジー(電子版)で発表した。【奥野敦史】
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080420-00000080-mai-soci


検討問題:イデア知性とイデア界の関係について
先にイデア知性とは、エネルギーを包摂している知(理念知性)であると言ったが、そうすると、イデアとMedia Pointとイデア知性とのかんけいはどうなるのだろうかと思うのである。
 イデアは虚軸上の超越的差異の様相である。問題は、イデア界とMedia Pointとの関係を明確にすることである。言い換えると、イデアとイデア・エネルギーとMedia Pointとの関係はどうなのか、である。また、私がいうイデア知性との関係はどうなのかである。これは、実に根本的な問いである。
 今は余裕がないので、検討できないが、一言いうと、イデア・エネルギー(エネルゲイア)は、Media Pointで発生するだろう。しかし、同時に、同一性志向性が発生する。正確に言えば、連続的同一性志向性が発生するのである。だから、通常、このイデア・エネルギーを同一性的に捉えてしまうのである。
 しかし、私が言うイデア知性とは、イデア・エネルギーを同一性とは不連続なものとして捉える知性である。だから、不連続的知性、即非的知性とでも呼べるものである。ここが大ポイントなのである。これを知性的に捉えたのは、これまで、鈴木大拙とウスペンスキー、他くらいであろう。(しかしながら、真の民衆はこれを直感的に捉えているものである。霊性である。)
 そう、一神教は、この、本来、不連続的なイデア知性を、同一性化してきたのである。とりわけ、キリスト教である。
 やや飛躍するが、ルネサンスとは、Media Pointにおけるイデア・エネルギーの発露であったろう。しかし、プロテスタンティズムの勃興によって、それが同一性化されたと思われる。もっとも、ルネサンス自体においても、自然発生的な連続性はあったろうが、プロテスタンティズム的な抑圧はなかったろう。近代西欧史は、この差異と同一性との争闘である。
 近代において、最初にイデア知性に近づいたのは、思うに、シェリングではなかったろうか。彼の同一性哲学と呼ばれるのは、実は、イデア知性哲学ではないだろうか。そう、シェリング以前では、スピノザとライプニッツをあげるべきだろう。また、ジョルダーノ・ブルーノ、他もあげるべきだろう。(思うに、ヘーゲル哲学は、Media Pointの原同一性を捉えているように思う。だから、観念論なのである。)
 では、端的に、イデア知性とは何か。それは、Media Pointがもつ純粋知性ではないだろうか。Media Point純粋知性ではないのか。
 同一性主義に囚われていると、イデア・エネルギーは非合理的になる。しかし、不連続化すると、純粋イデア・エネルギー=ディオニュソスになる。そして、そこに、イデア知性が生起すると思う。つまり、イデア知性とは、純粋イデア・エネルギーが内包する知性ではないのか。すると、これまで言ったのは逆に、エネルギーが知性を包摂するのではないのか。これまでは、エネルギーを包摂した知性と言ったので有る。
 思うに、純粋イデア・エネルギーとイデア知性とは同じものなのではないのか。つまり、後者はデュナミスではないのか。イデア・デュナミスである。知・即・エネルギーとしてのイデア知性ではないのか。後でさらに検討したい。


2008年04月20日(Sun)▲ページの先頭へ
民主主義とは何か:民主主義を包摂するトランス・デモクラシーへ向けて:選挙・被選挙資格制度設置
民主主義とは何か:民主主義を包摂するトランス・デモクラシーへ向けて:選挙・被選挙資格制度設置

テーマ:自由主義・民主主義・全体主義・独裁主義

どうも、私の心の中で、民主主義に対する疑念がむかむか蠢いている。有体に言えば、私は民主主義が好きではないのである。直感では、トランス・デモクラシーがありえる。
 問題は、個・差異・特異性の価値の評価にある。封建時代は、君臣の上下関係が支配していた。身分制度である。しかし、近代は、個・差異・特異性を評価することを求めたと思う。しかしながら、それを平等という理念で表現したのだと思う。封建的上下観念に対して、平等的水平観念を提起した。
 それはそれで、歴史的意義があるのである。しかし、いったん民主主義が成立すると、今度は、本来の個・差異・特異性の価値の評価が問題になると考えられるのである。
 これは、民主主義では不可能である。何故なら、民主主義は個を平等と捉えているからである。思うに、チャンスを平等に与える点が民主主義の本来的なあり方ではないだろうか。多様な個人がいるが、それに対して、平等のチャンスを与える。これはこれで正しい。
 しかしながら、平等のチャンスを与えるのは、個・差異・特異性が発展するためである。個の可能性を開花させるためである。最初は前提として、平等にチャンスを与えるが、それは、個・差異・特異性の価値を目指してのことである。
 しかし、近代主義は、転倒していて、個・差異・特異性が発達せずに、近代的自我主義が生まれるのである。これは、個・差異・特異性を抑圧するのである。いわば、近代主義の自己否定性である。
 思うに、この時点で近代主義ないしは近代民主主義は終末をむかえたのである。そして、ここでトランス・モダンへの転換が始まるのである。
 これは、質的な転換である。近代の平等的同一性から差異性への転換である。これは、デモクラシーを乗り越えるもののように直感されるのである。だから、トランス・デモクラシーである。
 問題は、制度である。当然、民主主義制度は乗り越えられることになるだろう。では、トランス・デモクラシー制度とは何だろうか。哲学的には、差異主義、差異共振主義であるが、政治的にはどうなるのだろうか。
 差異価値のヒエラルキー(位階)がある。だから、差異価値の上位のものが指導する制度が好ましいのである。差異価値の下位の者は、差異価値認識が正しくできないだろう。
 思うに、条件としての平等性を保持する民主主義体制は維持されるだろうが、それとは別に差異価値体制が必要になるのである。それは何か。そう、トランス・デモクラシーとはデモクラシーを包摂した高次元の制度という意味にとらなくてはならない。
 やはり、差異共振主義である。これは、デモクラシーを包摂しているのである。すると、優れた差異を選択する制度が必要である。すると、当然、普通選挙は廃止となるだろう。選挙制度の差異化である。選挙・被選挙資格検定制度をつくる必要があるだろう。
 つまり、政治・経済・社会・文化教育を課さないといけないということである。その検定試験に合格したものが選挙・被選挙資格を得るのである。

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近代合理主義・唯物主義・近代的自我主義の帰結すること★トランス・キリスト教西洋文明と新霊知文明

テーマ:ポスト近代的自我/ポスト近代合理主義

近代主義的世俗主義の帰結が、たとえば、現代日本の末世状況である。しかし、一部少数の人には、「超克」の志向があるが、思うに、大部分(末期人)は、これまで通り近代主義的世俗主義の道を歩んでいる。いったいこの悪化は何に帰結するのだろうか。
 結局、没個の機械人間が蔓延して、携帯をやって、フリーターやニートをして、群れている世界となる。明らかに、日本は世界からは見放されて、馬鹿にされる。しかし、当人たちは、気がつかない、無関心である。
 思うに、こんな絶望的日本に私はどうしているのだろうか。生活や探求のためとは言えるが、他に積極的な理由があるのだろうか。
 思うに、私は、魂のことを言うが、東京ではほとんど絶滅状態である。魂は、東京等の大都市以外の地方の人たちに今でもあると感じている。それが、私が日本にこだわっている理由だろう。そうでなければ、私は、エクソダスして、他国に住むだろう。
 ここで、哲学的な考察をすると、結局、魂の喪失とは、西洋文明の圧力が原因である。これは、デリダが説いたようにロゴス中心主義=同一性主義=物質主義なのである。だから、どうしても、魂を喪失する。キリスト教自体が、そういう形式をもっているのである。トランス・キリスト教によって、人類の古代以前からの叡知が蘇るだろう。この叡知をキリスト教が簒奪して、歪曲してしまい、悪魔的唯物主義になったのである。
 そう、トランス・キリスト教西洋文明としての新叡知文明が生まれることになろう。
 
p.s. 思えば、ニーチェがしきりに価値転換のことを言っていたが、その通りである。キリスト教的西洋文明の物質主義的価値観から、新たな叡知価値観へとパラダイム・チェンジである。

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トランス近代日本人:米国植民地主義と売国奴権力の彼岸へ:魂知性・霊知性の教養教育

テーマ:ニッポン亡国の凶相

以下の記事から、後期高齢者負担制度の法案が小泉政権において成立したということであるが、これも、いわば自業自得ではないだろうか。
 魂知のある人間ならば、元小泉首相はパフォーマンス人間であり、誠実さがないことは直感できたはずである。私は、あの姿、あの話し方、言葉の内容(無内容ではあるが)、すべて胡散臭く感じた。それが認識できずに、投票したというのは、多くの日本人に、魂知性が欠落していること、即ち、亡魂人になっていることを証明しているのである。魂知性があれば、外見と内面との相違が認識されるのであり、外見を造っているかどうかは、直感的に認識されるのである。
 確かに、現在の後期高齢者負担制度は、弱者虐待制度で、日本は文化国家から野蛮国家へと逆戻りしたとは言える。しかしながら、元小泉首相を支持した日本人が多数いるということ自体が、野蛮国民(ダメ日本人)の証明である。日本人は、ルビコン川を渡ってしまったようだ。
 私は、賎民と知民に分けるべきではないかと思う。近代民主主義は乗り越えられなくてはならない。精神知性のない人間に選挙権を与えるのは、共同体破壊を起すのである。【p.s. やはり、近代OSを廃棄して、トランス・モダンOSへと変換することが必要なのである。今は、末法期である。トランス・モダン知性への転換期である。】
 いろいろ批判があるが、結局、近代主義が腐敗してしまったことを確認することになる。魂の知性をもったトランス・モダン文化へとシフトする必要がある。
 大局的には、アメリカ植民地主義と売国奴権力による洗脳政策から、覚醒する必要があるのである。それには、戦後を清算する必要がある。何が積極的価値であり、何が否定的な価値であるのかをである。
 一言で言えば、日本人は、魂知性ないしは霊知性を形成する必要がある。教養教育の基盤がここにある。

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「 報道が進むにつれて、後期高齢者負担制度の正体が明るみになってきた。

   このとんでもない改正法案は、当初より野党の強い反対があった。それを、2年前に、強行採決までして小泉政権が成立させたのだ。

   野田毅など、法案の内容を少しでも知っている自民党議員は、こんなひどい法律はない、と反対していた。それでも強行採決して成立させた。

   強行採決した小泉元首相も、2年後にそれを実施させられる福田首相も、厚生労働省がいじくりまわしてきた積年の無責任な医療保険制度の矛盾を、自らの頭で理解し、吟味することなく、官僚に踊らされて追認するだけであった。それが自民党政治であった。

http://www.amakiblog.com/
archives/2008/04/16/#000823
天木直人のブログ

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こんどは「国民年金料」パート天引きか!?
2008年04月20日06時39分
Yahoo! ブックマーク
【PJ 2008年04月20日】− 4月17日朝日新聞の報道では、厚生労働省は国民年金の保険料未納を減らすため、パート労働者の保険料を事業主が給与から「天引き」で徴収する仕組みを導入する方針を固めた。

4月1日から施行された「後期高齢者医療制度」は、保険料を年金から天引きすることになったが、「介護保険料」や「所得税」も同時に天引きするので、高齢者には非常に負担が重い、と不評である。そして今度は国民年金保険料のパート天引きである。

 「消えた年金記録問題」も解決しないうちに、保険料だけはしっかり徴収しようとする社会保険庁の姿勢には、国民を混乱に陥れた反省の姿はみじんも見られない。それどころか、「年金支給」を確定する前に、「とれるものはとっておこう」と、納付率の低下している保険料を“うむを言わせず”徴収しようと言うのだから、パート収入で辛うじて生活を保持している人々には“血も涙もない”制度だ。
http://news.livedoor.com/article/detail/3605981/

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ナオミ・クライン氏のことを書いた時トラックバックを頂いた「とむ丸の夢」から、アンチ小泉法についてトラックバックを頂いた
2008.04.20 Sunday
聞き耳を立てる とむ丸の夢
アンチ小泉法、そして「最後っぺ」発言
2008.04.19
http://blog.kaisetsu.org/?eid=647081
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2008年04月19日(Sat)▲ページの先頭へ
ユダヤ教とプラトニック・シナジー理論:トーラーとイデア
テーマ:一神教/多神教

ユダヤ教の誕生―「一神教」成立の謎 (講談社選書メチエ) (単行本(ソフトカバー))荒井 章三 (著)

********引用開始***********

【・・・「伝承はトーラーの垣根である」という言葉がある(ミシュナ「アボト」[父祖の言葉]三章十三節)。ここでの「トーラー」は本来的な意味での「神の教え」であって、「モーセ五書」を意味するトーラーを初め、預言者も諸冊も含めて、すべての伝承が、本来的な意味での「トーラー」の境界を示し、これを守る垣根としての働きをなすことを意味している。】p.17

【・・・ユダヤ人たちは、トーラーを、単に「モーセ五書」や『聖書(タナッハ)』(・・・)以上のものとして理解している。タルムードを含め、今日までの、あるいはこれから生じる未来のユダヤの伝承や教えの総体なのである。
 トーラーの冒頭の言葉「初めに」(「初めに、神は天地を創造された」「創世記」一章一節)ですらトーラーと結びつけられている。すなわち、トーラーは初めであり、創造原理そのものだった。神はトーラーによって世界を創造し、創造者と被造物との結びつきを初めて可能にしたのである。
「神はトーラーによって天と地とを創造された」。ここには、「箴言(しんげん)」八章二十二節以下の「主は、その道の初めにわたし(知慧)を造られた。いにしえの御業(みわざ)になお、先立って、永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って、わたしは生み出されていた。深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」という「知慧」とトーラーの同定が見られるかもしれないが、トーラーが宇宙の根本原理として世界以前に存在したように、これからも過ぎ去ることなく存在し続けるであろうことが主張されているのである。】p.18〜p.19(色文字強調renshiによる)

*******引用終了**********

私は、特に、シュタイナーによって、ユダヤ教の神の原理が能動的原理であることを知っていたが、以上の荒井氏の明快な言葉で、今更と言うか、目から鱗が落ちた。トーラーとは、通常、モーセ五書を指しているが、単にそれだけではなく、知慧と同定される根源的原理であるということである。すると、これは、イデアとイデア・エネルギー(エネルゲイア)とつながると考えられるのである。端的に言えば、トーラー=イデアであると考えられるのである。
 私は、先に、超越神とは、イデア化の宗教的あり方ではないのかと疑問を提起したが、この図式を使えば、超越神=イデアとなりそうである。もっとも、ユダヤ教では、ヤハウェとトーラー=知慧は区別しているようではあるが。少しこの点を考察してみよう。
 荒井氏の記述では、神がトーラーによって創造したのであり、また、トーラー=知慧(叡知、ソフィアと呼んでいいだろう)は創造以前から存していたとあることから、端的にトーラー=イデアと考えることができそうである。
 問題は、超越神とイデアとの関係である。イデアをデュナミス(潜在態)とエネルゲイア(活動態)に分けて、イデア・デュナミスとイデア・エネルゲイアとしよう。トーラー=知慧はイデア・デュナミスになるだろう。では、イデア・エネルゲイアにするのは何かである。これが、創造である。ユダヤ教では、当然、ヤハウェの意志(光あれ)である。
 プラトニック・シナジー理論(PS理論)では、イデア・エネルゲイア化とは、自然(じねん)と考えるのではないだろうか。つまり、1/4回転によって創造が為されるのであり、それは、自然(じねん)だと考えられる。即ち、差異共振化による1/4回転が生起・発生するのであり、それが創造(天地創造)と考えられるのである。言い換えると、PS理論では、創造神が必要ないのである。イデア・デュナミス=「トーラー」が自然(じねん)にイデア・エネルゲイアとなり、天地を生み出すのである。そう、創造ではなく、産出である。もっとも、広義では、創造も産出も同じことと考えられるが。
 とまれ、ここには、西洋文明と東洋文明の区別が存すると言えるだろう。つまり、創造神が存するのか、否かである。
 ここでは簡潔に直感で言いたい。イデア・エネルゲイアとは確かに、自然(じねん)ではあるが、能動的行為である。だから、この能動的自然(参照:スピノザのナトゥーラ・ナトゥーランス、能産的自然)は、当然、創造的であると言えるのである。自然=創造である。つまり、自然自体がいわば、創造神であるということであり、ユダヤ教のように、イデア=「トーラー」以外に創造神を「設ける」必要はないと考えられるのである。端的に、イデア・即・「創造神」である。有体(ありてい)に言えば、創造神は不要なのである。
 そう考えると、先に私が、イデア知性とはエネルギーを包摂・内包した知性であるということの意味がより明瞭になるだろう。能動・創造性を内包した知性(智慧・叡知・ソフィア)がイデア知性ないしはイデアなのである。【ここで神道を考えるにふさわしいだろう。神道の神ないしは神々とは何か。それは、端的に、イデアであると思うのである。イデアを古代人は神ないしは神々と呼んだと思われるのである(あるいは、超越エネルギーを神ないし神々と呼んだのである)。では、神と神々の区別はどう考えることができるだろうか。これは三柱の神と八百万の神々の区別と言えるだろう。根源的神と被発生的神の相違である。仮説であるが、おそらく、前者の振動数の相違によって後者が説明されると思われるのである。多様な振動数を前者をもちうるのであり、それが、八百万の神々として発現すると考えることができるのではないだろうか。】
 では、イデア=「トーラー」と区別される創造神はどうして発生した(と考えられる)のだろうか。(ヨハネの福音書の「はじめに言葉ありき」の言葉(ロゴス)は、イデア=「トーラー」に相当すると言えよう。p.s. 否、違うかもしれない。以下、参照。)主導的原因と叡知との分離は何を意味するのか。
 PS 理論から見ると、Media Pointの実軸において、同一性=言葉(ロゴス)が形成される。これは、また、同一性志向性=同一性能動性である。つまり、同一性自体が同一性志向性でもある。だから、同一性志向性は同一性主義と言えるだろう。そして、これが、父権的志向性である。
 ここで仮説するに、創造神とは、Media Pointのエネルゲイアであり、それが、同一性志向性=同一性能動性=同一性主義と結びついて発現したものではないだろうか。【だから、フッサールのノエシスに似ているのである。】
 そして、エネルゲイアとは別に、イデア・デュナミスがあるのであり、これが、根源的叡知と考えられるのである。そして、これが、トーラーに相当するのではないかと思われるのである。
 整理すると、Media Pointの同一性エネルゲイアが創造神であり、イデア・デュナミスがトーラーである。イデア・エネルゲイアが同一性エネルゲイアへと転換しとき、イデア・デュナミスと分離したと思われる。これで創造神がトーラーとは区別されることの説明がついたことになる。これは、明らかに、父権的傾斜の衝動である。即ち、同一性傾斜である。【母権的傾斜は、イデア・エネルゲイア=差異共振性の保持ないしは再帰性であると考えられる。】
 そして、ここで、キリスト教を考えると、イデア=トーラーと同一性=言葉(ロゴス)とが「癒着」し、混淆・混同されてしまったのではないだろうか。
 再度整理すると、ユダヤ教の超越神=ヤハウェは、Media Pointの同一性エネルゲイアであり、イデア・デュナミスがトーラーとして存している。しかるに、キリスト教の場合は、イデア・デュナミス=トーラーが同一性=言葉(ロゴス)と混淆されてしまい、知慧と同一性知性(ロゴス)との区別がつかなくなってしまい、また、同一性の強化に伴い、知慧を喪失していったと考えられる。【因みに言えば、ハイデガーが唱える存在の忘却であるが、それは、知慧の喪失ないしはMedia Pointの喪失と見るべきではないだろうか。】ここには、既に、プロテスタンティズムの原型が見られるだろう。
 さて、最後に、先に述べたユダヤ系の東洋性ないしはイデア知性のことであるが、以上から、端的に、ユダヤ教においては、トーラーという形で、イデア知性が存していると考えられるのである。だから、ユダヤ系ロシア人を祖先とするバーンスタインの演奏にイデア知性を感じることはありうることである。
 また、東洋性ということであるが、端的に、それは、Media Point的精神知性の存在のことだと思われる。神道、道教、仏教、ヒンドゥー教等は、これをそれなりに体現していると考えられるのである。
 そうすると、ユダヤ教とは東洋性と西洋性との境界に位置すると言えるだろう。そして、キリスト教は、東洋性を喪失していった宗教と言えよう。それは、ユダヤ教よりもルサンチマン的であると考えられる。【だから、ここでもニーチェの慧眼が確認されるのである。ニーチェはユダヤ教を評価していて、キリスト教を弾劾呪詛したのである。】
 因みに、聖書のエローヒーム(神の複数)とは何だろうか。それは、思うに、本来のイデア・エネルゲイアがもちうる多神教性ではないだろうか。つまり、神道の八百万の神々と同質ではないだろうか。だから、ユダヤ教とは母権的多神教と父権的一神教との混淆宗教であるということになると考えられる。D.H.ロレンスが晩年、旧約聖書は神々に満ちていると述べたのは、妄想ではなくて、真実であると考えられるのである。
 結局、以上から、最大のルサンチマンはキリスト教にあると言えよう。ユダヤ教は、トーラーという叡知をもっているので、ヤハウェのルサンチマンをそれなりに統御できると考えられる。しかし、キリスト教は、イデア=トーラー=叡知を同一性=ロゴスと混淆して、同一性主義=ロゴス中心主義によって、前者を喪失していき、ルサンチマンを過剰にしたと考えられるのである。それが、ヨハネの黙示録の最後の審判に結実していると思われるのである。
 端的に、イデア=トーラー=知慧(般若・ソフィア)の喪失は、キリスト教に拠ると考えられる。人類の狂気化はここに根因があると考えられる。トランス・キリスト教が必要であるし、そうなると考えられる。


2008年04月18日(Fri)▲ページの先頭へ
以下は、Kaisetsu氏がゲゼル的自由経済を鋭敏に説いた論考である。
テーマ:差異通貨・貨幣論

以下は、Kaisetsu氏がゲゼル的自由経済を鋭敏に説いた論考である。土地を流動化すること、これは、確かに、減価通貨の発想なのである。思うに、地域通貨の発想は、ゲゼル的自由経済の部分的適用に過ぎないと考えられる。
 土地を所有して、土地の値上がりとその利子で利益を得られる発想こそ、自己認識方程式から言うと、⇒-1の発想ではないだろうか。乃至は、+1⇒+1⇒+1⇒・・・である。
 つまり、資本主義的真正な利益とは、差異共振的生産なのであり、それを土地所有による利益が疎外すると考えられるのである。市場経済も一つの差異共振性なのである。
 後でできれば、補足したい。

p.s. ただし、私が問題に感じているのは、アメリカの場合、新自由主義で、共同体的資本が衰退してしまい、荒廃したことである。このような事態が今日の日本で起きている。
 いったい何が問題なのか。今思いつくのは、自由主義的市場主義と共同体主義的民主主義が、絶対矛盾的に一致することである。この「絶対矛盾的自己同一」の力学にこそ、真の生成的ダイナミズムがあると思われるのである。一言で言えば、差異共振主義である。自由主義である、と同時に、共同体主義である、ということである。

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減価する貨幣論については・・・

グッド 減価する通貨が導く近代超克への道

 時系列による貨幣の原価主義によって、貨幣の避退が不経済になる。これは、貨幣の本質である「流動性」の促進であり、貨幣の不動産化の禁止である。
http://blog.kaisetsu.org/?day=20080418
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2008年04月17日(Thu)▲ページの先頭へ
イデア的知性について再考:ディオニュソスとアポロ:プラトニック・シナジー理論とプラトンのイデア論
イデア的知性とは、考えると、不思議なものに思える。まだ、完全にクリアになっていないので、さらに考察を続けたい。
 ここでは、先の考察に、ニーチェの『悲劇の誕生』の有名なディオニュソスとアポロの視点を加えて、多角的に検討したい。
 ニーチェのディオニュソスとアポロの概念は一見明快なようでいて、実は複雑であると考えられる。先にも言及したが、これは、実は、ニーチェが攻撃したイデア論に通じるものをもっていると考えられるのである。そう、だからこそ、ここで、それらの概念の視点を持ち出すのは有意義だと考えられる。
 ここで、簡単に見取り図を言えば、ディオニュソスが差異(差異共振性)であり、アポロが同一性であるという図式が考えられる。ここで、問題はなのは、アポロの意味なのである。ニーチェ自身の叙述から、アポロがソクラテスの合理主義と結びつけられて、いわば、アポロが同一性主義と一致するように述べられている点である。
 しかしながら、よく読めば、アポロはヴィジョンなのである。同一性合理主義ではないのである。それが注意する第一点である。
 次に、母権神話/父権神話の二重構造の視点から見ると、ディオニュソスが母権神話に、アポロが父権神話に属すると見ることができよう。これが第二点である。
 これらの視点をふまえて、本件のテーマに返ってみると、情動・情感・情緒等(リリシズム)を包摂・内包するイデア(理念)とは、端的に、ディオニュソス的イデアであり、同一性的イデアではないということになろう。プラトン自身の記述から、イデアは、同一性的イデアに限定される恐れがあるし、事実は、そのように、いわば、通俗的に理解されてきたと考えられる。(プラトン自身、差異と同一性の間で揺れ動いていたと考えられる。)
 このディオニュソス的イデアであるが、これは、実は、ヴィジョンとしてのアポロに通じると考えられるのである。同一性のアポロではなく、ヴィジョンとしてのアポロである。
 思うに、このディオニュソス的イデア=ヴィジョン的アポロと考えると、音楽=美術になると考えられる。ニーチェは音楽の源泉から悲劇の誕生を考えたのであるが、しかし、音楽は美術と一如になると思われるのである。
 そうすると、ヴィジョン的アポロと同一性的アポロを区別しないといけないだろう。思うに、極言すれば、ここに母権多神教と父権一神教、差異と同一性の問題の核心があるだろう。
 ヴィジョン的アポロとは言い換えれば、ディオニュソス的アポロということになるだろう。これは、母権的視覚である。それに対して、同一性的アポロが発生したのである。これが、父権的視覚であろう。同一性的視覚である。そして、この両者が古代ギリシア文化において、結合ないし融合したと考えられるのである。そして、この心的事態が、『悲劇の誕生』の中核ではないだろうか。母権文化と父権文化の結合・融合としての『悲劇の誕生』である。
 結局、その結合・融合の本質は何か、である。おそらく、即非の論理に類似するのである。矛盾論理のように思えるのである。一方では、母権=ディオニュソスであり、他方では父権=アポロなのである。しかし、ヴィジョン的アポロは、同時に、母権=ディオニュソスの側に存するのである。このような複合体であるように思えるのである。
 思うに、ギリシアの古典主義/合理主義とは、後者の父権=アポロから発生したものであろう。しかしながら、ギリシア神話は、母権=ディオニュソス文化を色濃く反映していると言えよう。また、父権=アポロであるが、それは、同一性主義と言っていいだろう。それは、ギリシア悲劇では、支配的な政治として表現されているだろう。有名なアンチゴネーであるが、それは、明らかに、母権=ディオニュソス文化を体現していると言えよう。
 では、主題のイデア的知性について考察しよう。最初に私が考えるイデア的知性について、次に、プラトンのイデア論について述べたい。
 結局、イデア的知性とは、母権的ディオニュソスを「叡知」化したものだと考えられる。端的に、母権的ディオニュソスとは、エネルゲイア、即ち、エネルギーである。動的なものである。さらに言えば、超越エネルギーである。それは、現象界を創造するエネルギーである。根源的エネルギーである。だから、これは、同一性的知性・合理性(現象界・物質界の知性)によっては、捉えることができないのである。【近代合理主義は、アイロニカルに、非合理主義・狂気にいわば復讐されるのである。それが、全体主義であり、自然・精神破壊であり、また、戦争・犯罪の蔓延である。】
 この超越エネルギーである母権的ディオニュソスを、知性において把握しようとするのが、イデア的知性である。これは、イデア界を仮構して、その理念・イデアがこの母権的ディオニュソスとなり発現すると考えるのである。現象界を超越したイデア界を仮構することで、この母権的ディオニュソスをイデア知性として把握しようとするのである。しかしながら、イデア知性は母権的ディオニュソスのエネルギーを包摂・内包しているのであるのであるから、単純な知性・合理性ではないのである。エネルギー包摂・内包的知性・合理性である。
 そして、母権的ディオニュソスとは、差異ないし差異共振性と考えられるので、イデア的知性=ディオニュソス的知性=差異的知性ということになる。ここで想起されるのは、ドゥルーズの差異論である。それは、差異的イデア論を目したものであるが、連続性の囚われていたので、差異的イデアを同一性的知性へと連続化してしまい、イデア的知性を取り逃がしてしまったと考えられるのである。
 とまれ、以上のようにイデア的知性を考えると、ニーチェのディオニュソスとは、イデアの動態であるが、ニーチェ自身は、イデア的知性までは達していなかったと言えよう。晩年の力への意志とは、思うに、基本的には、ディオニュソスの別の言い方であると見るべきだと思う。
 次に、プラトンのイデア論であるが、それは、母権的ディオニュソスを初めて、イデアとして捉えた試みであろう。そして、それは画期的であった。イデア的知性が誕生したのである。しかしながら、以上検討したように、古代ギリシアにおいて、母権的ディオニュソスがアポロ的ヴィジョンを介して、同一性的アポロと矛盾同一化していたと考えられるのである。即ち、アポロ的ヴィジョンとは、ディオニュソス的ヴィジョンであり、それは、ディオニュソスが発現させる同一性のヴィジョンであり、それは、未だ、霊的なヴィジョンである。
 そして、古代ギリシアにおいて、この霊的な同一性ヴィジョンと現象的同一性的アポロとが結合・融合していたと考えられるのである。この結合・融合は、即非的である。前者は霊的同一性であり、後者は物質的同一性である。
 そして、プラトンのイデア論は、単に、母権的ディオニュソスのイデア化だけでなく、この霊的同一性をイデア化したと考えられるのである。前者が善のイデアであり、後者が同一性のイデアであり、通俗的には、後者が中心化されたのである。
 後で整理する予定であるが、私が先に述べたイデア的知性とは、母権的ディオニュソスのイデア化であり、主に差異、差異共振性の知性を意味する。しかし、プラトンにおいては、ディオニュソスだけでなくて、ディオニュソス的アポロ(ディオニュソス的同一性)も、イデア化していると考えられるのである。
 この相違をどう見るのか、である。私は、母権文化とは、同一性が差異共振性において存しているのであり、同一性主義には至っていない、いわば、未分化の文化と言った。言い換えると、母権文化は、同一性を内包した差異共振文化である。
 そう考えると、私がいうイデア的知性はまったくプラトンのイデア的知性と一致することになると言えよう。ただ、私は、今日的に、差異・差異共振性を強調しているが、同一性は含んでいるのであるし、プラトンは、差異よりは、同一性の側面、視覚的側面を強調していると考えられるのである。強調の違いに過ぎないと考えられるのである。
 そうすると、この差異・差異共振性における同一性、ディオニュソス的アポロとは何か、ということになるだろう。同一性のイデアとは何か、である。上では、霊的同一性と言った。
 これは、端的に、プラトンのエイドスに当たると考えられるが、これは一体何なのか。まだ、完全には、現象化していないが、原現象であるような同一性である。それは、Media Pointにおける同一性志向性に当たるように思えるのである。あるいは、先の作業仮説の図式では、ハイデガーの存在に当たるかもしれない。先の図式を訂正すれば、⇒の先端が、この同一性のイデアないしはエイドスかもしれない。とまれ、原同一性と言う方が明快であろう。
 さて、直感では、この原同一性・エイドスとは、「気」になるのではないかと思われるのである。シュタイナーの霊学で言えば、エーテル体である。霊性としての「気」である。「霊気」である。
 【そして、さらに考えると、ディオニュソスとは、シュタイナーのアストラル体(情動・情感身体)に当たるのではないだろうか。そして、ディオニュソスのイデア的知性が、シュタイナーの自己に当たるのではないだろうか。これらは、まだあいまいなので、後再考したい。】
 とまれ、以上、試行錯誤の跡が見られるが、とりあえず、本件の検討をここで終える。


イデア論における理念知と情動:同一性観念とイデア観念:観念知性とMedia Point理性
私は、先に、ドゥルーズ哲学を酷評したが、差異イデアという考え方を得たのはそこからであり、その独創性を評価しなくてはならない。それにともなって、イデア界ないしは理念界のあり方を現代において、復活させた点も評価する必要がある。つまり、差異的イデア論の可能性をドゥルーズは説いた点で大いなる評価に値するのである。
 とまれ、ここでは、イデア論の理念的知性とは何であるのか、今は、簡単に考えたい。私の経験では、身体的情動がある。それは、神秘的な情動でもある。コスモス的な情動である。しかし、これは、同一性=物質的知性とは相反的である。【同一性=物質的知性の用語であるが、私は、知性や理性を差異に使用したいと先に言ったが、やはり、同一性に関しても使用する必要があるようだ。だから、同一性知性ないしは物質知性である。】
 しかし、イデアという理念を仮説することで、この情動は知性化されるのである。即ち、情動がイデア知性、理念知性に包摂ないしは内包されるのである。
 有体に言って、これは、どういう事態なのだろうか。それがまだ明確に解明されていないのである。端的に、情動・情念・情緒等(リリシズム)を包摂・内包する知とは何だろうか。どうして、普通の同一性知性ではそれができないのだろうか。同一性知性(近代合理知性)は、端的に、情動・情念・情緒を抑圧する作用があると思われる。(ここに正に、分裂が生じるのである。)
 だから、同一性知性以外の知性を仮定することで、それらを抑圧しないで包摂・内包することが可能になるということだと考えられる。つまり、情動等(リリシズム)を知性化する試みとして、イデア論があるのであり、そこでは、いわば、情動的イデア界が形成されるだろう。そう、心において、情動的イデア界が形成されることになるのである。
 しかしながら、これではまだ分裂したままである。何故なら、心において、一方では、同一性知性があり、他方では、情動的イデア知性があるからである。言い換えると、不安定である。
 ここで、不連続的差異論の画期性があるのである。即ち、情動的イデア知性と同一性知性が不連続であることを発見したのである。この不連続性の発見により、両者が共存・共立するようになったのである。即ち、それまで、分裂的に揺れ動いていた両者が、この発見によって、いわば、それぞれ、所を得て、「落ち着いた」のである。これについてさらに詳述してみよう。
 端的に、心の何処にイデア界があるのだろうか。それは、端的に観念的知性に存するのではないだろうか。より明快に言って、イデア知性はどこにあるのか。より丁寧に見てみよう。
 神秘的コスモス的な情動・情念・情緒等がある。それは、宗教的情動と言ってもいいだろう。それは、抑圧する同一性知性に反発するのである。しかし、イデア界を仮構することで、この情動は知性化されるのである。観念的知性、理念的知性が形成されるのである。
 この観念的知性、理念的知性が、同一性知性とは当然異なるのである。とまれ、観念的知性・理念的知性とは何だろうか。情動等を結びついた知性である。しかし、それらを包摂・内包した知性なので、力のある知性、あるいは、エネルギーを包摂・内包した知性である。言い換えると、エネルゲイアではないのか。それとも、デュナミスなのか。つまり、エネルゲイアとしての知性ないしはデュナミスとしての知性なのではないのか。
 簡単に言えば、エネルギーをもった知性である。しかしながら、包摂・内包されているので、静的にはなるだろう。ならば、デュナミスではないのか。デュナミスとしての知性ではないのか。つまり、デュナミスではあるが、常にエネルゲイアに変換可能な知性ということではないだろうか。
 とまれ、これは、観念・理念知性であり、頭脳において、同一性知性と共存するようになると考えられる。つまり、知性とは、同一性にしろ、差異にしろ、観念である。観念性において、同一性と差異が共立するということではないのか。
 つまり、観念知性において、同一性と差異が共存するのではないのか。言い換えると、観念知性が同一性と差異イデアを共存させるということではないのか。
 では、観念知性とは何なのだろうか。具体的に考えてみよう。例えば、「山」という言語・観念を考えてみよう。これは、同一性知性的には、辞書を引けば出ているような意味である。同一性観念と言ってもいいだろうし、概念である。
 しかしながら、「山」という言葉を例えば、詩において接した場合は、まったく異なってくるだろう。そこには、想像作用が入るのである。情動・情念・情緒作用やイメージ・ヴィジョン作用が入るのである。そう、エネルゲイアとしての観念になるのである。
 近代合理主義的心性(近代的自我主義)ならば、後者を排除して、前者のみを考えるだろう。正に、同一性主義である。しかし、差異イデア的心性をもっていれば、同一性観念とは別に、エネルゲイア的観念が形成されるのである。
 思うに、結局、Media Pointの知性が問題ということではないのか。Media Pointにおいて、一方では同一性へと展開し、他方では差異へと結びついているのである。つまり、観念知性であるが、それは、Media Pointに関わる知性ということではないのか。
 近代合理主義観念知性の場合は、Media Pointを排除する様式の観念知性であるが、それは、どこに位置づけられるのか。それは、差異を抑圧する観念知性であるが、しかしながら、元々、差異に根差していると考えられる。差異に対するルサンチマンから同一性主義が発生するのである。だから、同一性観念知性もMedia Pointの観念知性であると言えるのではないだろうか。
 ということで、結局、観念知性とは、同一性観念にしろ、差異イデアにしろ、Media Pointの知性であるということではないだろうか。
 そして、思うに、この知性こそ、本当の理性だと思えるのである。Media Point Rationalityである。カントの場合は、Media Pointを同一性と差異に乖離させてしまったと言えよう。即ち、純粋理性と実践理性である。Media Point理性がそれらを統合するのである。ここで今は留めたい。


2008年04月16日(Wed)▲ページの先頭へ
「絶対的なもの」と超越性:同一性中心主義=ロゴス中心主義と超越的差異共振性
以下のtoxandoriaの日記には、ハンナ・アレントの全体主義批判の言葉があり、興味深い。PS理論から検討してみよう。

・・・引用開始・・・

・・・ここは、感銘を受けたフレーズ 、そして自らの心象風景とスナップ 画像などを折にふれ、ご紹介するページです。



・・・・・本文・・・・・



何とも悩ましい話だが、活動(必然的に時の政治権力の影響を蒙る、我われ一般国民の日常生活のコミュニケーション 活動)の最中に真っ先に判明するのは、五感を「超越」する「絶対的なるもの」---真、善、美---は把握不能であるということだ。



な ぜなら、それが何であるのか誰も具体的には知らないからである。たしかに 誰もが、それについての概念は持っているのだが、具体的なレベルでは、それについてまったく異なるものをイメージしている。活動がこうした人間の複雑性に依存しているものである限り、西欧哲学---その伝統の最後尾にいる哲学者たちは、結局のところ、活動の制御を目論んでいるのだが---の最初の破局は、 原理的に独裁政権下意外では不可能な統一=単一性が実現されるための必要条件 なのである。



二番目に判明するのは、活動の目的に奉仕させようと思えば、例えば人種や無 階級社会 な ど、絶対的なるものとして何でも使えるということだ。あらゆる事柄が等しくお誂え向きであり、要するに「何でもあり」なのである。どこかのイカサマ師が思いつきかねない狂気の理論に対する場合と同じように、現実はほとんど抵抗を示さないように見える。いかなることも可能なのである。



三番目に判明するのは、ある目的に絶対的なるもの---例えば、正義、あるいは、ニーチェ が 言うような一般的「理想」---を適用することによって、まず不正で残忍な活動が可能になるということだ。なぜなら「理想」とか正義それ自体は、もはや尺度として存在するのではなく、世界内で達成も生産も可能な、ひとつの目的=終焉になってしまったからである。言い換えるなら、哲学の実現 は哲学を終わらせ、まさに「絶対的なるもの」の実現は世界から絶対的なるものを追放するということである。



そして、最後には、「人間(man)」(一人または少数の政治権力者による狂想の脳内表象)の見せかけの実現が「人間(men)」(絶対多数の国民・市民の現実生活)を文字どおり廃棄(破壊)してしまうのである((  )内はtoxandoriaによる注記)。---「思索日記」「1951年 9月」より 



・・・・・



以上は、[ハンナ・アレント 著、ジェロ ーム・コーン編、高橋勇夫訳『政治の約束』(筑摩書房 )の<緒言>]の引用・転記であるが、このアレントの文章は、(中曽根・・・小渕〜森〜小泉〜安部〜福田)の流れを辿りつつ与党政権がファシズム 的性格を強めてきた必然性を予見しているようで不気味である。



http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/



・・・引用終了・・・



renshiのコメント開始:



1)『五感を「超越」する「絶対的なるもの」---真、善、美---は把握不能である』



という点であるが、これは、明らかに、プラトン哲学のイデア論を批判していると考えられるが、「・・・把握不能である」というのは正しいと考えられる。なぜなら、超越性ないしは絶対的なもの、言い換えると、精神性は、同一性の知性によっては、確かに把握不能であるからである。つまり、近代的合理性知性によっては、超越性ないし絶対的なものの把握は不可能である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論から見ると、超越性ないしは絶対性は、イデアとして「存している」と考えている。

 また、西欧哲学の破局が必要条件であるというのは、同一性中心主義=ロゴス中心主義である西欧哲学という意味ならば妥当する考えである。しかしながら、ハンナ・アレントが考えるようには、単純ではないのである。デリダが明らかにしたように、同一性中心主義と差異とが複雑に関係しているのが、西欧哲学なのであり、単純に西欧哲学の破局が必要条件ではないのである。西欧哲学の批判が必要なのである。



2)『活動の目的に奉仕させようと思えば、例えば人種や無 階級社会 な ど、絶対的なるものとして何でも使える』



という点であるが、これは正に、イデオロギーの問題である。たとえば、ブッシュがイラクの民主化というイデオロギーで、「絶対的なもの」を使用するのである。

 問題は、不連続的差異論が明らかにしたように、絶対的なものと日常的な活動を不連続化することが絶対的な条件である。両者を混淆することに全体主義や宗教や政治のイデオロギーが発生すると考えられるのである。



3)『ある目的に絶対的なるもの---例えば、正義、あるいは、ニーチェ が 言うような一般的「理想」---を適用することによって、まず不正で残忍な活動が可能になると』



これは、すぐ上のイデオロギーの問題と同じである。超越性ないしは絶対性と同一性的合理性との混同によって、「不正で残忍な活動が可能」になるのである。人類は、父権文明化して以来、これを行ってきているのである。確かに、人類は、同一性=物質的合理性の知性を発達させたが、それを、超越性ないしは絶対性と混淆混同してきたので、狂信・狂気・非合理主義化してきたのである。

 最後にひと言いうと、アレントのプラトン哲学やそれを源泉にする西欧哲学とりわけ、観念論哲学批判であるが、全体主義を経験した西欧の経験としては理解できるものである。しかしながら、その批判は、日常的な活動に限定する理性を求めていると考えられるが、具体的な日常的活動を判断するときの理性的根拠をどこに求めるのだろうか。私見では、それは、個の差異においてしか、ありえないと考えられるのである。日常的活動は集合的なもので、集合性に巻き込まれやすい。しかしながら、日常的活動において、理性・知性を保つには、個の差異が必要なのである。そして、個の差異において、超越性【絶対性という言い方は問題があるだろう。差異における超越性は絶対性なのだろうか。絶対的差異という点では、絶対性である。絶対的なものという言い方はあいまいではある。】が現れるのである。プラトニック・シナジー理論では、それは、超越的差異共振的理性と見るのである。



renshiコメント終了




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酔狂の風景/『HP、新レンブラントの眼』の開設(ご案内) CommentsAdd Star

参考情報

●HP『レンブラントの眼』が諸般の事情により崩壊したため、新たに『HP、新レンブラントの眼』を開設しました。

●未だ試作版のつもりなので、これからも試行錯誤になると思います。一応、当ブログ 『toxandoriaの日記 』とイメージ 的に整合を図るつもりですが、目下、思案投首の状態です。なお、URL は以下のとおりです。

『新レンブラントの眼』、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/

同上・ページ1「toxandoriaの日記、アート と社会 へのリンク 」、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage1.html

同上・ページ2「酔狂の風景」、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage2.html

toxandoria

toxandoria
『toxandoria の日記、アートと社会』


http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080415/p1


ジョルジュ・デュメジルの三機能仮説と父権/母権支配・被支配構造
以前から、デュメジルの神話の三機能仮説を、哲学的に、あるいは、PS理論的に解明できるのではないかと漠然と思っているのである。以下から、
『この仮説によれば、原印欧語族の社会と宗教および神話は、上位から順に「主権」「戦闘」「その他生産など」の三つに区分され、このイデオロギーが社会階層や神学の主要部分を構成していた、という。それぞれ第一、第二、第三機能 (F1, F2, F3) と呼ばれる(ただし「機能」の用法は社会学におけるそれとは齟齬があり、この点でデュメジルが批判されることもある)。』
ということであるが、原印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)という父権的遊牧民族の神話分析なので、その父権主義の視点を外すわけにはいかない。私は、ジョウゼフ・キャンベルの神話学の女神神話と父権神話の絶対的区分の視点を借りて分析したいと思う。
 即ち、基底に女神・母権・母系・女権神話(以下、母権神話)があり、支配的な上部構造として、父権神話が成立しているのではないかと、単純には考えられる。
 そう見ると、第三機能が母権神話という可能性が大きいだろう。そして、母権社会を武力的に支配したのが、第二機能の「戦闘」の武人階層であると考えられよう。たとえば、ホメロスの英雄叙事詩『イリアス』の凄惨無残な武人たちを考えればいいだろう。そして、第一機能の「主権」は当然、父権神話の神ないしは神々となるだろう。つまり、男性神(以下、女神に対して、男神と造語する)が「主権」として存するだろう。たとえば、ギリシア神話では、ゼウスがそれに当たるだろう。【日本神話に適用するなら、神は何だろうか。天皇が可能性があるが。思うに、アマテラスが第一機能で、スサノオが第二機能で、ツクヨミが第三機能となるのではないだろうか。騎馬民族仮説を考えると、そう見るのは可能である。しかし、以前述べたかもしれないが、日本神話は、母権多神教と父権一神教が交差ないし混淆しているのである。だから、ギリシア神話に近いのである。アマテラスは父権一神教に利用されていると思う。本来は、母権多神教の主宰女神としてのアマテラスではないだろうか。】
 そうすると、第一機能と第二機能が父権社会の支配層を象徴し、第三機能が被支配の母権社会を象徴しているのではないだろうか。つまり、デュメジルの三分説は、父権主義と母権主義との混淆であり、本来、不連続な文化が、いわば、連続化されていると見ることができるのではないだろうか。つまり、父権制と母権制の連続態・混淆態がここにあると思われるのである。これは、哲学的には、同一性と差異との連続・混淆化であると考えられる。
 とまれ、これを、現代にあてはめると、欧米では、第一機能の「主権」は、キリスト教、自由主義、民主主義であり、第二機能の「戦闘」は軍部・軍隊・武力であり、第三機能の「その他の生産」は民衆・国民・市民等に当たるだろう。日本では、第一機能からキリスト教が抜ける。そして、第二機能は、米軍となるだろう。そして、第三機能は庶民・国民である。
 問題は、第一機能が、第二機能を解して、第三機能を支配しているという図式である。これが、父権的権力主義の実体と考えられる。
 読者の皆さん、ここで問題を出しますが、この三機能の中でキーポイントは何だと思いますか。勘のいい人はすぐおわかりになると思いますが、第二機能の「戦闘」です。武力です。これは、PS理論から言うと、同一性主義=ロゴス中心主義が発生するときに生じる暴力の具体的装置であります。つまり、同一性主義と同格にこの第二機能が発生することになります。(以下、ですます調から元に戻します。)
 だから、結局、第一機能と第二機能とは、同一の事態であると考えることができる。だから、三機能ではなくて、二機能でいいことになるのである。同一性主義と抑圧否定される差異共振主義の二つの機能があるのである。これでPS理論の図式となるのである。
 結局、ロゴス中心主義の解体がやはり問題となるのである。結局、差異、差異共振性へと回帰することなのである。すると、武力はどうなるだろうか。それは、同一性暴力であることから、差異共振保持力となるだろう。共同体保持力である。それは、共同体資本へと転化するのではないだろうか。軍需産業が平和産業へと転換することを意味するだろう。
 端的に、第一機能である国家主義から、第三の差異共振共同体への回帰が必要である。そう、「主権」が第三機能に移ることが必要なのである。父権から母権へである。

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ジョルジュ・デュメジル
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ジョルジュ・デュメジル(Georges Dumézil, 1898年 3月4日 - 1986年 10月11日 )はフランス の比較神話学者 、言語学者 。インド・ヨーロッパ語族 における比較神話学 の構造的体系化を行ない、クロード・レヴィ=ストロース の構造主義 に大きな影響を与えた。

また(比較言語学者だから当然ではあるが)非常に多くの言語を習得したことで知られ、ほとんどのインド・ヨーロッパ諸語に精通し、さらに複雑で知られる北西コーカサス語族 の権威でもあった。マルセル・グラネ の講座で中国語 を学び、南米のケチュア語 についての論文も発表している(デュメジルによれば、「中国語はケチュア語のようには簡単にはマスターできない」)。ただし本人によれば30の言語を勉強したが、そのうち英語を含めてどれ一つとして正確に話せない、という。
略歴

1898年、パリに生まれる。名門ルイ・ル・グラン校で学び、1916年エコール・ノルマル (高等師範学校)のユルム校に首席で入学。1917年3月に徴兵され、ヴェルダン 、シュマン・デ・ダムなどで主として後方任務に就く。1919年2月、教授資格試験に合格する。その後ワルシャワ大学 のフランス語講師になるがすぐに辞職する。1925年に結婚し、イスタンブール大学 で宗教史を教える。ここでデュメジルはカフカス諸語と出会う。1931年から33年までウプサラ大学 でフランス語教師となる。ここでミシェル・フーコー と出会い、親友となる。1933年6月、高等研究実習院 宗教学セクションの「比較神話学」講師としてフランスに戻る。1948年、コレージュ・ド・フランス の教授に選ばれる。1968年に退官し、まずプリンストン大学 へ、次いでミルチャ・エリアーデ に招かれてシカゴ大学 へ、そしてカリフォルニア大学 ロサンゼルス校で講義を行なう。1978年、アカデミー・フランセーズ 会員に選ばれる。1986年、死去。

[編集 ] 生涯と学問

デュメジルがルイ・ル・グラン校第2級学年のとき、クラスのなかに比較言語学者ミシェル・ブレアル の孫がいた。デュメジルはすでにブレアルの『ラテン語語源辞書』を持っていたが、実際に出会うと彼はデュメジルのサンスクリット作文を直し、そして梵英辞書を与えた。本人によれば、これによって自分の仕事が定まったのだという。ブレアルから比較言語学者アントワーヌ・メイエ の著作を薦められたデュメジルは、この学者の下で研究することを決意する。

メイエのもと、デュメジルが1924年に最初の比較神話学についての博士論文『不死の饗宴』を書いたとき、比較神話学は死んだ学問も当然であった。19世紀末にアーダルベルト・クーン やマックス・ミュラー など自然神話学派 によって進められた比較神話学は恣意的に過ぎ、そして完全に権威を失っていたのである。彼らの手法は語源が一致していれば共通する神話を持っているというもので、初期のデュメジルもこの理論に従っていくつかの著作を発表していた(『饗宴』の場合アンブロシア とアムリタ 。ほかに1929年の『ケンタウロスの問題』ではケンタウロス とガンダルヴァ 、1934年の『ウラノス-ヴァルナ』と1935年の『フラーメン-ブラフマン』は表題のとおり)。このように語源にこだわっていたかたわら、デュメジルは1930年に古代インド とイラン において社会階層の三区分に共通性があることを指摘した。原インド・イラン時代に三階層の社会組織があったという仮説はすぐ後に比較言語学者のエミール・バンヴェニスト によって補強された。 そんなあるとき、講義の準備をしていた1938年に、デュメジルはインド・ヨーロッパ語族の三機能イデオロギー(後に詳述)を「発見」する。インドのカースト 制度(祭司階級・戦士階級・生産者集団)と最初期ローマ の三神(ユピテル ・マルス ・クィリヌス )が共通する構造を持っていたのである。この発見を発表(「大フラーメンの先史」)することによって、デュメジルはこれまで彼の比較神話学に否定的だったエミール・バンヴェニスト から大きな賛同を得ることになり、そして後にはバンヴェニストの尽力によりコレージュ・ド・フランスに選出された。 40年代には『ユピテル・マルス・クィリヌス』3巻シリーズや『ホラティウスとクリアティウス兄弟』などを出版し、デュメジルの仮説が徐々に知られ始めるようになる。

1952年、ペルーを訪れてケチュア語を研究、いくつかの論文を発表する。なかにはトルコ語とケチュア語の関連性を指摘するものもあったが、現在では受け入れられていない。1954年、カフカス諸語の一つでほとんど死語となっていたウビフ語 の話者をトルコで発見し、それから1972年まで毎年トルコを訪れた。研究はウビフ語最後の話者テヴフィク・エセンチ(1992年死去)と共同で進められた。

1966年出版の『古ローマの宗教』から、デュメジルは1938年以来の仕事の総括を行ないはじめる。ついで1968年に『神話と叙事詩I』が出版された。

1978年にアカデミー・フランセーズに入会したときに歓迎演説を行なったのはレヴィ=ストロースだった。

なおデュメジルは神話や宗教を研究していたが形而上 的な問題については自然科学 的な立場にあり、死後の存在については否定的で、人間の思考は究極的には脳の神経細胞 の働きによるものだと考えていた。

[編集 ] 三機能仮説

デュメジルの研究のなかでも最も知名度が高いのが、印欧語族の神話群に共通した三分構造が見られるという「三機能仮説」である(デュメジル自身は「三区分イデオロギー」「三機能体系」「三機能イデオロギー」「三機能構造」と言っている)。日本でも大林太良 や「デュメジル唯一の弟子」吉田敦彦 が積極的に紹介し、日本神話解明に利用している。

この仮説によれば、原印欧語族の社会と宗教および神話は、上位から順に「主権」「戦闘」「その他生産など」の三つに区分され、このイデオロギーが社会階層や神学の主要部分を構成していた、という。それぞれ第一、第二、第三機能 (F1, F2, F3) と呼ばれる(ただし「機能」の用法は社会学におけるそれとは齟齬があり、この点でデュメジルが批判されることもある)。 F1はさらに「呪術的至上権」と「法律的至上権」に分割され、相互補完的に機能する。前者は攻撃的で暗く、霊感に満ち、激しいと表徴されるが、後者は理論的で明るく、穏やかで善意に満ちていると表象される。 同様の分割はF2にも見られるが、F1ほど明確ではない。 F3は、神話によれば本来集団には存在せず、後に闘争を経てF1, F2に加わった。 また三機能を包括する女神の存在も確認される。

デュメジルは、当初は、原印欧時代の社会に現実として存在していた三区分の社会階層が人々の思考に影響を与え、三機能のイデオロギーが形成されたのだと考えていた。しかし後になり、もともと原印欧時代の人々の間に、一つの理想像、世界観として三機能イデオロギーが存在し、それが社会階層と神話思考に等しく影響を及ぼした、という構造主義的な考えを持つに至った。

三機能仮説には多くの批判がある。たとえば「支配する人、守る人、生産する人」という区分は普遍的なものであって印欧語族に特有のものではない。これに対してデュメジルは、少なくとも旧世界において三区分がイデオロギーとして諸構造に深く影響を与えているのは印欧語族以外見当たらないと反論する。また、三機能構造はデュメジルが恣意的に見出したもので、ほかの文献からそれらを「発見」するのは容易である。旧約聖書 からも見つかる。これに対してはデュメジルは数多くの具体例を持ち出し、旧約聖書には三機能が印欧語族の諸文献のように明示されたところは存在しないと反論する。

こうした批判と同時に、多くの神話学者や宗教学者は三機能仮説を受け入れ、それに沿って研究を進めている(たとえばエリアーデ、スティグ・ヴィカンデル 、スコット・リトルトン 、ブルース・リンカーン 、吉田敦彦など)。


多神教的自己とは何か:超越エネルギーと宗教:母権多神教⇒父権一神教⇒新母権多神教
テーマ:一神教/多神教

先ず初めに、私は宗教をイデア・エネルギーと考えていることをお断りしておきたい。
 魂・精神とは、Media Pointのことと考えたい。これまで、イデア=魂・精神としたがそうではなく、イデアと魂・精神は別物と考えたい。(作業仮説である)
 Media Point=魂・精神において、デュナミス(潜在エネルギー)であるイデアが実働エネルギー(エネルゲイア)になると仮定しよう。これを、人は神と認識するのである。何故なら、それは、超越エネルギーであり、自己(当然、自我も)を超越しているものと感得されるからである。そう、イデア・エネルギーは、これまで、述べたように、超越エネルギーである。
 ここで、祈りや信仰を考えよう。超越エネルギーに祈る、あるいは、それを信仰するとは何か。
 祈るのは、それが、自己を超越するエネルギーであるからだが、力学的にはどうなのだろうか。思うに、祈りとは、自己の願いを超越エネルギーに共振化させることであろう。おそらく、それは、効果があるのである。電磁波=霊になるからである。
 では、信仰はどうだろうか。これも、超越エネルギーを信ずるという点では、魂・精神が超越エネルギーと共振すると考えられるのである。だから、祈りや信仰とは、超越エネルギーへの共振化作用をもつと考えられるし、また、超越エネルギーを受容するので、エネルギーを補充することができるだろう。心身的健康が維持されやすいだろう。
 では、本件のテーマである多神教的自己はどういうものだろうか。それは、Media Point=魂・精神を開いている自己であり、そこにおいては、外界と共振している自己があると考えられる。当然、自我はあるのであるが、自己が基盤なので、自我を抑制するのである。自然道徳的である。自然人理的である。
 そう考えると、多神教的自己に基づく社会は、ある意味で理想的である。何故なら、差異・他者が認められていて、利己主義を抑えて、平和共存が第一義的に目指されていたと考えられるからである。
 私が神道に見るのは、このような根源的共振社会である。それは、母権的共同体社会である。それは、個の共存する社会なのである。一種、理想郷である。
 以前、述べたことがあるが、もし、父権文明が生まれなかったら、人類は、平和に暮らしていただろうということは、真実であろう。とりわけ、近代・現代のように戦争に満ち満ちた狂気の社会は決して生まれなかったであろう。そう、私は、人類は道を踏み誤ったと考えもした。
 しかしながら、父権文明は意味があるのである。以前述べたように、それが生起しなけらば、物質科学・技術は生まれなかったと考えられるのである。今日享受する生活の利便はなかったと考えられるのである。未だ、井戸の水を汲み上げ、洗濯は手動で行っていたであろう。
 結局、今日・現在の問題は、この物質主義的父権文明を乗り越えることなのである。新精神文明を創造することが課題なのである。それは、新母権多神教ということになるだろう。母権文明へと再帰するのである。
 これは、トランス・モダン差異共振的民主自由共同体主義となると考えられる。


2008年04月15日(Tue)▲ページの先頭へ
同一性志向性と同一性中心主義:苦悲の差異とルサンチマンと能動的差異肯定
今日は簡単に触れる(p.s. 簡単ではなくなった)が、これまで述べてきたことを繰り返すことになるかもしれないが、まだもやもやしていること、不明確に感じていることを述べてみよう。
 端的に、自己陶酔の力学とは何か。ここに諸悪の根源があると思える。何故なら、ここには、知、自己知、知恵が欠落しているからである。何故ならば、知、自己知、知恵とは、差異に基づくものであるのに、自己陶酔は、その差異を、同一性像によって暗ますからである。
 思うに、イデアは差異共振性であるから、自己と他者が共存しているが、Media Pointにおいて、同一性鏡像が生まれるのではないだろうか。そう仮定して考察を続けよう。
 Media Pointは、これまで述べたように、即非様相であり、簡単に言えば、AはBではなく、且つ、Bであるという論理である。いわば、矛盾論理である(参照:西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一)。図式化すれば、

差異1=同一性=差異2

ということになる。【又は、(+i)=+1=(-i)ということになるのかもしれない。】この同一性が、Media Pointにおいて生じるのであり、これが、端的に、同一性鏡像であると思えるのである。イデアにおいてはなかった同一性がMedia Pointにおいて生じると考えられる。これは、先に述べたように、仮象・仮現性と見た方がいいように思う。つまり、像である。概念というよりは、像である。ヴィジョンやイメージである(参照:ideoとvideoの同根性)。思うに、プラトンの有名な洞窟の比喩であるが、洞窟の壁のスクリーンの影像が、この同一性仮象に相当するだろう。
 ここで、より精緻に考察しよう。洞窟の中には、影像化される物がある、この物の投影像が、スクリーンの影像である。この物と投影像との関係を見なくてはならない。
 つまり、Media Pointにおける同一性とは、この物なのか、投影像なのか、ということである。これは、実に興味深い、核心的問題である。
 思うに、その同一性は、物ではないだろうか。そして、投影像が同一性鏡像ではないだろうか。あるいは、考えを変えて、物が同一性鏡像であり、投影像は、仮象・現象であるという考えもできる。直感では、物が同一性鏡像であり、投影像が仮象である。つまり、後者である。
 つまり、Media Pointの同一性、上記した同一性は、同一性鏡像であると思う。そこに差異が自己陶酔するのであり、その同一性鏡像を原像として、外界の他者に同一性投影を行い、現象界を、いわば、発現させていくように考えられるのである。即ち、Media Pointにおける同一性鏡像が同一性原像であり、そこから、外界に同一性投影が行なわれて、同一性仮象界である現象界を発現させる、ないしは、形成するということと考えられる。
 では、ここで、本テーマの同一性志向性と同一性中心主義をどう考えるべきであろうか。以上に述べた同一性鏡像=同一性原像からの同一性投影とは、同一性志向性と考えていいだろう。では、それと同一性中心主義(自我主義)との関係はどうなのだろうか。
 同一性投影=同一性志向性は、いわば、毒のない同一性ではないだろうか。単なる自己陶酔である。しかしながら、同一性中心主義になると毒があるのである。ルサンチマンがあるのである。この相違をどう考えたらいいだろうか。
 思うに、同一性投影において、同一性化できない対象・他者が出現したとき、自我はルサンチマンを覚えて、その対象・他者に同一性を押しつけると考えられる。つまり、差異=他者が出現したときである。
 このとき、同一性投影=同一性志向性は、同一性中心主義に変質するのではないだろうか。つまり、同一性投影によって同一性化できない差異=他者に対して反感を覚えて、同一性中心主義となり、攻撃・暴力的になるのではないだろうか。
 この同一性化できないという事態はどういうことなのだろうか。直感で言えば、同一性鏡像=同一性原像を破壊してしまう差異=他者の出現する事態を意味するのではないだろうか。同一性投影=同一性志向性は、自己陶酔性をもっているだろう。これが、差異=他者によって解体されるのではないだろうか。
 では、この差異=他者の出現とは何だろうか。いったいどのようにして、差異=他者が出現するのか。同一性鏡像=同一性原像が破壊するとはどういうことなのか。
 少し角度を変えよう。自己の差異=他者性を抑圧している自己同一性=自我、すなわち、同一性主義=自我主義が確かに存するが、それは、どうやって発生するのか。
 同一性鏡像=同一性原像は、自己の差異=他者性を抑圧しているのだろうか。抑圧というよりは、隠蔽、自然隠蔽だと考えられる。ここには、まだ、抑圧はない。思うに、差異と同一性が未分化な状態かもしれない。
 端的に言えば、同一性鏡像とは、Media Pointにおいて自然形成される同一性像であり、差異から生まれるのであるから、抑圧はないと考えられる。それは、自然隠蔽である。自然(じねん)としての同一性である。
 ここで、一神教形成について述べたことを想起するといいのではないだろうか。苦や悲の発現である。苦や悲においては、同一性の自己陶酔は崩壊するだろう。そして、苦と悲を感じる領域であるが、それは、何か。それは、差異、Media Pointにおいてではないだろうか。差異的身体においてである。ここに影が生まれるのである。
 同一性鏡像=同一性原像に基づく自我は、苦や悲による差異に対して、正当的に対処できないのである。同一性は差異を取りこめないのである。すると、ここで、抑圧が始まると言えよう。苦や悲である差異を抑圧して、同一性鏡像=同一性原像に基づく自己同一性=自我は、同一性主義=自我主義に変質すると思われるのである。
 これは、先に言及したことであるが、ここではより精緻に検討したので、これで、同一性主義の発生を説明できたことになる。苦や悲という差異を否定・抑圧・排除・隠蔽する行為が同一性主義=自我主義を生むのである。
 では、差異を肯定する立場はどうだろうか。苦や悲の差異を感受し、それを耐える立場はどういうことなのだろうか。苦や悲の差異によって、同一性鏡像=同一性原像が破壊された心的事態を受けとめるのである。苦や悲を受けとめるのである。(参照:ニーチェの『悲劇の誕生』)これは、一種、闇である。しかしながら、ここから、真の光明が生まれるのである。
 苦・悲とは、差異共振性における否定態である。しかしながら、差異共振性であることには変わりがない。ここの否定態を肯定態に変ずることで、大転換が生じると言えよう。これは、スピノザの能動的観念の意味することだと思われる。否定的差異を肯定的差異へと変換するのである。
 苦や悲に対して、誠実であることがこの契機である。心や魂の再生のきっかけである。(ここで、神仏にすがったままになると、やはり、逃避となるだろう。苦や悲と直截に向かい合わないといけないのである。)そして、苦や悲を能動的に肯定的に、知的に捉え直すことで、大転換が起るのである。(スピノザ哲学は、実質的なイデア哲学のように思える。)とまれ、ここから、差異共振性が見いだされ、自己的自我が生まれうるのである。それは、普遍的人理であると思う。
 それは多くの人に確認できることであるが、問題は、差異共振性が発見されるとはどういうことなのか、ということである。これは、難しくはないだろう。つまり、源泉・根源に回帰するということだろう。源泉・根源・原点の差異共振性というエネルギーに回帰・再帰することである。
 また、問題は、この差異共振性のエネルギーが受動性において、捉えられるというはどういうことなのだろうか。言い換えると、差異共振エネルギーを受容するのであるが、それは、どういうことなのか。決して、攻撃的には、取得できないのである。
 思うに、差異共振性(魂・精神)とは、イデア界の根源的な差異共振エネルギーによって生起していると考えるべきだと思われる。というか、イデア界のもつデュナミス(潜在エネルギー)が、Media Pointにおいて、能動的エネルギー(エネルゲイア)になるのであり、この発現する能動エネルギー=差異共振エネルギーを、当然、受容することになるということではないのか。【魂・精神と差異共振性が混乱しているようなので、整理したい。思うに、魂・精神とは、Media Pointにおいて、形成されるのであり、一種、同一性の仮象ではないだろうか。その根源は、イデアであり、個体性はないように思えるのである。だから、輪廻転生もないのではないだろうか。これは後で検討したい。】
 思うに、同一性の規定を解体したとき、差異の能動的に肯定したとき、感情が共振化すると思われるのである。結局、差異自体が受動性と能動性をもっているのである。そして、苦・悲の受動において、根源的に、苦悩するのである。ここにおいては、苦・悲を能動的観念によって、肯定するしか乗り越える方法はないだろう。そして、そのとき、苦・悲の受容が、差異共振性の受容へと変化するということではないだろうか。今はここで留めたい。


2008年04月13日(Sun)▲ページの先頭へ
フッサール現象学とハイデガー存在論と構造主義とポスト・モダンの関係:PS理論の視点から(修正版)
PS理論の視点から諸哲学の秩序化を試みているが、これまでかなり混乱を起している。以下も一試論であるが、構成を整合化するためには、試行錯誤が必要である。ラディカルにチャレンジすること、リスクを冒すことである。

 差異共振理性(正確に言えば、超越的差異共振理性)であるMedia Pointを自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における⇒とすれば、フッサール現象学は、この⇒で表記できるだろう。ハイデガー存在論は、作業仮説であるが、⇒の先端ではないだろうか。つまり、虚軸性(超越性)を喪失したMedia Point、換言すると、Media Point自体の終点であり、そこから同一性志向性が発生する始点である。つまり、⇒同一性志向性→+1における、⇒の先端と同一性志向性との境界ではないだろうか。図示すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→+1

の★が存在ではないだろうか。
 そして、構造主義であるが、それは、同一性志向性→☆+1の☆に当たるのではないだろうか。つまり、同一性志向性と同一性の境界としての構造である。以上の図式を整理すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

となる。⇒がフッサール現象学、★がハイデガー存在論、☆が構造主義である。
 次に、ポスト・モダン哲学を考えてみよう。デリダの脱構築主義とドゥルーズ(&ガタリ)の差異哲学で代表させよう(後期デリダやジャン=リュック・ナンシーの哲学は、トランス・モダン哲学と見るべきだと考える)。
 ポスト・モダン哲学は、明らかに、構造主義を出発点にした哲学であり、それの深化や進展と言えるだろう。だから、ポスト構造主義という用語は不正確である。
 以上の図式から、構造主義は、☆である。そして、ポスト・モダンの「差異」(ここに、差延も含める)であるが、デリダの差延は、ハイデガーの存在と構造主義の二重性のズレを意味しているのはないだろうか。★と☆のズレである。
 そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、⇒★同一性志向性→☆において、牽強付会に、知的に不誠実に、⇒★と同一性志向性を同一視したものだと思われるのである。この同一視が、いわば、連続的差異というキメイラを生んだと考えられ、ドゥルーズ哲学全体が、グロテスクに誤謬に満ち満ちたものになったと考えられるのである。
 つまり、⇒★があるから超越性や存在性をもつし、同時に、
同一性志向性→☆、即ち、同一性志向性(おそらく、カントの超越論的形式)と構造主義をもつのであり、途方途轍もない、奇妙奇天烈な哲学になったと考えられる。非常にもつれた哲学になっていると考えられる。言い換えると、フッサール現象学あり、ハイデガー存在論あり、カントの超越論哲学あり、構造主義ありで、不誠実な混淆様態なのである。(こうなった原因は、ドゥルーズ自身の知性に問題がある。一流の知性ではありえない。二流・三流である。ただし、感性はあったと言えよう。それで、文学の引用が多いと考えられる。)
 さて、以上の図式で、→の意味が抜けているので、考察しよう。同一性志向性→☆同一性において、☆が構造主義ならば、→はその力動性を意味するのではないだろか。つまり、力動的構造主義ではないだろうか。おそらく、情動的構造主義と言えるのかもしれない。以上で、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

の説明が終ったが、ここでまとめて整理すると、

1) (+i)*(-i)は差異共振性、イデア・魂・精神
2)⇒はMedia Pointないしはフッサール現象学
3)★はハイデガー存在論の存在
4)同一性志向性はカントの超越論的形式
5)→は力動的構造主義
6)☆は構造主義
7)+1は同一性(自己同一性、自我)

となり、3と6のズレがデリダの差延哲学、2〜6の混淆がドゥルーズの差異哲学となる。
 さて、後、身体性の問題がある。メルロ=ポンティの身体現象学をどう考えるのか、ということになる。あるいは、-1の問題がある。
 先に、差異的身体ということを言った。つまり、Media Pointにおける身体が考えられるのである。ここは、イデア=差異共振性があるが、その魂・精神とは、差異共振的身体を形成因だと思われるのである。
 問題は、魂・精神とは何かということにもなる。有体(ありてい)に言えば、直感で言えば、魂・精神とは、また原身体なのである。物質的身体とは、現象化過程において、発生するのである。Media Pointにおいて、原身体が(物質的)身体化すると言えよう。
 だから、端的に言えば、イデア・魂・精神とは、魂的原身体、精神的原身体と言えよう。そして、Media Pointにおいて、物質化が開始されるのである。だから、Media Pointとは、イデア的身体、魂的身体、精神的身体と言えるだろう。
 そして、連続的同一性化によって、精神と身体が二元論化(心身二元論)されると言えよう。だから、メルロ=ポンティの身体現象学とは、精神的身体である Media Pointを捉えようとした試論であると思う。そして、精神と身体の両義性を把捉したと考えられるが、Media Pointのもつ即非性、差異と同一性の即非性の理解までは達しなかったと思われる。
 次に、-1の問題であるが、これは、端的に、難問である。+1は自我、自己同一性である。先に想起したことは、-[(+i)*(-i)]⇒-1という数式である。つまり、自己認識方程式における左辺、差異共振性の否定が、-1になると考えられるのであり、それは、差異共振性の否定であるから、自我中心主義、自己同一性中心主義ではないだろうか。近代合理主義/近代的自我主義は、そう考えられるのではないだろうか。
 そう作業仮説すると、近代主義の世界は、-1と+1の二重性の世界である(参照:双魚宮)。近代合理主義/近代的自我主義と差異共振的自我主義の二重性であり、この間に民主主義、自由主義が存していると言えよう。簡単に言えば、同一性主義と差異主義の二重性の世界である。
 今日、グローバル経済は、+1を否定して、-1に邁進しているのである。これは、差異主義の破壊となっているのである。もっとも、差異共振主義は、技術革新という側面では進展しているだろうが。
 端的に、-1とは、倒錯であり、精神病理である。闇・無明である。ジェンダー論的に言うと、-1は父権主義であり、Media Pointが母権主義であり、+1は、父権主義と母権主義の超克である、いわば、両権主義ないしは新母権主義ではないだろうか。
 最後に神秘主義・オカルト主義について言及しよう。今日では、スピリチュアルなものとして流行しているが、それを明確にしておく必要があるだろう。
 先には、-1が神秘主義ではないかと言ったが、それは、間違いということになっった。では、神秘主義はどこに位置しているだろうか。
 それは、霊的な融合体験を意味するだろう。霊とは、Media Pointのイデアのことである。そして、そこには、差異共振性がある。しかしながら、差異共振性は、融合ではないのである。それは、即非感覚認識である。
 端的に、神秘主義の場合は、同一性主義=自我主義が崩壊すると考えられる。つまり、±1が消滅すると考えられる。これは、思うに、一種先祖返りなのである。つまり、Media Pointへの反動的回帰なのである。これは、螺旋的回帰とは区別されなくてはならない。同一性=自我の形成以前のMedia Pointへの退行である。幼児・胎児への回帰、子宮回帰である。
 反動ではあるが、これは、-1の近代合理主義/近代的自我主義に対する反動である。(参照:懐かしい、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』)つまり、一種、同一性主義に対する、原差異の反抗・反逆と言えないことはないだろう。いったい何がここでは問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義=物質主義化に対するイデア・精神・魂・超越性の側からの無意識の、いわば、本能的な反抗・反逆である。これは、情動的である。知性的ではないのである。ここに問題がある。
 反近代主義的な芸術家の多くは、神秘主義的である。モームの『月と六ペンス』の主人公の身体的霊性もそうである。シャガールの絵画もそうである。もっとも、そこには、根源的な差異共振性があるのである。これは確認しなくてはならない。
 だから、結局、イデア論がここで登場する必要があるのである。近代主義は、精神次元を否定してきた。古代、中世、ルネサンスと精神次元を確認してきたのであるが、それが、近代主義において、否定されたのである。形而上学の否定ということに現われている(形而上学の問題は、それを経験性から独立させてしまうことだろう。本来は、形而上学とは、経験性と結びついているのである。)イデア論を仮説することで、精神の無意識な、本能的な反抗的な情動は、イデアによって、知的に包摂されることになると考えられる。
 それによって、精神は知性的となり、情動性は知的に抑制されることになるのである。そのイデア的知性であるが、知性とは本来、同一性的なものである。だから、近代主義のもつ同一性主義ではなく、近代的同一性、近代合理性、物質的合理性をも包摂したイデア知性がここに生起すると考えられるのである。これは、先にも述べたが、Media Point 知性と言えよう。
とまれ、言い換えると、神秘主義やオカルト主義は、ゼロ度のMedia Pointの様態と言えるのではないだろうか。


フッサール現象学とハイデガー存在論と構造主義とポスト・モダンの関係:PS理論の視点から
PS理論の視点から諸哲学の秩序化を試みているが、これまでかなり混乱を起している。以下も一試論であるが、構成を整合化するためには、試行錯誤が必要である。ラディカルにチャレンジすること、リスクを冒すことである。

 差異共振理性(正確に言えば、超越的差異共振理性)であるMedia Pointを⇒で表記すれば、フッサール現象学は、この⇒で表記できるだろう。ハイデガー存在論は、作業仮説であるが、⇒の先端ではないだろうか。つまり、虚軸性(超越性)を喪失したMedia Point、換言すると、Media Point自体の終点であり、そこから同一性志向性が発生する始点である。つまり、⇒同一性志向性→+1における、⇒の先端と同一性志向性との境界ではないだろうか。図示すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→+1

の★が存在ではないだろうか。
 そして、構造主義であるが、それは、同一性志向性→☆+1の☆に当たるのではないだろうか。つまり、同一性志向性と同一性の境界としての構造である。以上の図式を整理すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

となる。⇒がフッサール現象学、★がハイデガー存在論、☆が構造主義である。
 次に、ポスト・モダン哲学を考えてみよう。デリダの脱構築主義とドゥルーズ(&ガタリ)の差異哲学で代表させよう(後期デリダやジャン=リュック・ナンシーの哲学は、トランス・モダン哲学と見るべきだと考える)。
 ポスト・モダン哲学は、明らかに、構造主義を出発点にした哲学であり、それの深化や進展と言えるだろう。だから、ポスト構造主義という用語は不正確である。
 以上の図式から、構造主義は、☆である。そして、ポスト・モダンの「差異」(ここに、差延も含める)であるが、デリダの差延は、ハイデガーの存在と構造主義の二重性のズレを意味しているのはないだろうか。★と☆のズレである。
 そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、⇒★同一性志向性→☆において、牽強付会に、知的に不誠実に、⇒★と同一性志向性を同一視したものだと思われるのである。この同一視が、いわば、連続的差異というキメイラを生んだと考えられ、ドゥルーズ哲学全体が、グロテスクに誤謬に満ち満ちたものになったと考えられるのである。
 つまり、⇒★があるから超越性や存在性をもつし、同時に、
同一性志向性→☆、即ち、同一性志向性(おそらく、カントの超越論的形式)と構造主義をもつのであり、途方途轍もない、奇妙奇天烈な哲学になったと考えられる。非常にもつれた哲学になっていると考えられる。言い換えると、フッサール現象学あり、ハイデガー存在論あり、カントの超越論哲学あり、構造主義ありで、不誠実な混淆様態なのである。(こうなった原因は、ドゥルーズ自身の知性に問題がある。一流の知性ではありえない。二流・三流である。ただし、感性はあったと言えよう。それで、文学の引用が多いと考えられる。)
 さて、以上の図式で、→の意味が抜けているので、考察しよう。同一性志向性→☆同一性において、☆が構造主義ならば、→はその力動性を意味するのではないだろか。つまり、力動的構造主義ではないだろうか。おそらく、情動的構造主義と言えるのかもしれない。以上で、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

の説明が終ったが、ここでまとめて整理すると、

1) (+i)*(-i)は差異共振性、イデア・魂・精神
2)⇒はMedia Pointないしはフッサール現象学
3)★はハイデガー存在論の存在
4)同一性志向性はカントの超越論的形式
5)→は力動的構造主義
6)☆は構造主義
7)+1は同一性(自己同一性、自我)

となり、3と6のズレがデリダの差延哲学、3〜6の混淆がドゥルーズの差異哲学となる。
 さて、後、身体性の問題がある。メルロ=ポンティの身体現象学をどう考えるのか、ということになる。あるいは、-1の問題がある。
 先に、差異的身体ということを言った。つまり、Media Pointにおける身体が考えられるのである。ここは、イデア=差異共振性があるが、その魂・精神とは、差異共振的身体を形成因だと思われるのである。
 問題は、魂・精神とは何かということにもなる。有体(ありてい)に言えば、直感で言えば、魂・精神とは、また原身体なのである。物質的身体とは、現象化過程において、発生するのである。Media Pointにおいて、原身体が(物質的)身体化すると言えよう。
 だから、端的に言えば、イデア・魂・精神とは、魂的原身体、精神的原身体と言えよう。そして、Media Pointにおいて、物質化が開始されるのである。だから、Media Pointとは、イデア的身体、魂的身体、精神的身体と言えるだろう。
 そして、連続的同一性化によって、精神と身体が二元論化(心身二元論)されると言えよう。だから、メルロ=ポンティの身体現象学とは、精神的身体である Media Pointを捉えようとした試論であると思う。そして、精神と身体の両義性を把捉したと考えられるが、Media Pointのもつ即非性、差異と同一性の即非性の理解までは達しなかったと思われる。
 次に、-1の問題であるが、これは、端的に、難問である。+1は自我、自己同一性である。先に想起したことは、-[(+i)*(-i)]⇒-1という数式である。つまり、自己認識方程式における左辺、差異共振性の否定が、-1になると考えられるのであり、それは、差異共振性の否定であるから、自我中心主義、自己同一性中心主義ではないだろうか。近代合理主義/近代的自我主義は、そう考えられるのではないだろうか。
 そう作業仮説すると、近代主義の世界は、-1と+1の二重性の世界である(参照:双魚宮)。近代合理主義/近代的自我主義と差異共振的自我主義の二重性であり、この間に民主主義、自由主義が存していると言えよう。簡単に言えば、同一性主義と差異主義の二重性の世界である。
 今日、グローバル経済は、+1を否定して、-1に邁進しているのである。これは、差異主義の破壊となっているのである。もっとも、差異共振主義は、技術革新という側面では進展しているだろうが。
 端的に、-1とは、倒錯であり、精神病理である。闇・無明である。ジェンダー論的に言うと、-1は父権主義であり、Media Pointが母権主義であり、+1は、父権主義と母権主義の超克である、いわば、両権主義ないしは新母権主義ではないだろうか。
 最後に神秘主義・オカルト主義について言及しよう。今日では、スピリチュアルなものとして流行しているが、それを明確にしておく必要があるだろう。
 先には、-1が神秘主義ではないかと言ったが、それは、間違いということになっった。では、神秘主義はどこに位置しているだろうか。
 それは、霊的な融合体験を意味するだろう。霊とは、Media Pointのイデアのことである。そして、そこには、差異共振性がある。しかしながら、差異共振性は、融合ではないのである。それは、即非感覚認識である。
 端的に、神秘主義の場合は、同一性主義=自我主義が崩壊すると考えられる。つまり、±1が消滅すると考えられる。これは、思うに、一種先祖返りなのである。つまり、Media Pointへの反動的回帰なのである。これは、螺旋的回帰とは区別されなくてはならない。同一性=自我の形成以前のMedia Pointへの退行である。幼児・胎児への回帰、子宮回帰である。
 反動ではあるが、これは、-1の近代合理主義/近代的自我主義に対する反動である。(参照:懐かしい、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』)つまり、一種、同一性主義に対する、原差異の反抗・反逆と言えないことはないだろう。いったい何がここでは問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義=物質主義化に対するイデア・精神・魂・超越性の側からの無意識の、いわば、本能的な反抗・反逆である。これは、情動的である。知性的ではないのである。ここに問題がある。
 反近代主義的な芸術家の多くは、神秘主義的である。モームの『月と六ペンス』の主人公の身体的霊性もそうである。シャガールの絵画もそうである。もっとも、そこには、根源的な差異共振性があるのである。これは確認しなくてはならない。
 だから、結局、イデア論がここで登場する必要があるのである。近代主義は、精神次元を否定してきた。古代、中世、ルネサンスと精神次元を確認してきたのであるが、それが、近代主義において、否定されたのである。形而上学の否定ということに現われている(形而上学の問題は、それを経験性から独立させてしまうことだろう。本来は、形而上学とは、経験性と結びついているのである。)イデア論を仮説することで、精神の無意識な、本能的な反抗的な情動は、イデアによって、知的に包摂されることになると考えられる。
 それによって、精神は知性的となり、情動性は知的に抑制されることになるのである。そのイデア的知性であるが、知性とは本来、同一性的なものである。だから、近代主義のもつ同一性主義ではなく、近代的同一性、近代合理性、物質的合理性をも包摂したイデア知性がここに生起すると考えられるのである。これは、先にも述べたが、Media Point 知性と言えよう。
とまれ、言い換えると、神秘主義やオカルト主義は、ゼロ度のMedia Pointの様態と言えるのではないだろうか。


2008年04月12日(Sat)▲ページの先頭へ
「市場国家」とトランス・モダン自由共同体主義(民主自由主義)
「市場国家」とトランス・モダン自由共同体主義(民主自由主義)

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

グローバリゼーションによって、独立(sovereign)国民国家に取って代わって、「市場国家」が出現しているという考えをフィリップ・ボビット(米国英語なら、バビット)が述べているということであるが、どうだろうか。
 自由主義的発想であるが、これは、私見では、巨大資本主義的自由主義であり、大資本・中小資本は、淘汰される可能性が強いものである。私は、民主主義的自由主義ないしは共同体主義的自由主義を唱える。しかも、トランス・モダン民主主義的自由主義、トランス・モダン共同体的自由主義である。
 だいたい、イラク占領を肯定しているというのが、間違いだと思う。いかにもアメリカ主義的巨大資本主義的自由主義である。
 問題は、民主主義の理念にある。それを、近代主義のままにすると、形式主義を免れない。普通選挙を行い、代議制を敷くのである。これは、形式的な民主主義的法制を意味するのであり、民主主義の実質が巨大資本的自由主義に破壊されるのである。だから、トランス・モダン民主主義的自由主義である。
 トランス・モダン民主自由主義(共同体自由主義)とは、個・差異・特異性の立場に立って、自由な共同体を創造・構築することを目指している。だから、巨大資本的自由主義に対しては、政治的規制を設けることになるだろう。そして、自由共同体資本への転換を促すものである。だから、政治の独立機能が重視されるのである。
 このためには、哲学が必要である。近代主義を乗り越えた哲学である。それを基本にしたトランス・モダン政治が一つのセンターとなると考えられる。
 自由主義経済中心主義から、自由共同体政治経済主義へと転換するのである。簡単に言えば、経済中心主義から政治経済主義への転換である。近代経済主義からトランス・モダン政治経済への転換である。
 
War Plans

By NIALL FERGUSON
Published: April 13, 2008

・・・・・

In his last book, “The Shield of Achilles” (2002), Bobbitt advanced a bold argument about the history of international relations since the time of the Treaty of Westphalia (1648). His central argument was that, in the aftermath of the cold war, the traditional post-Westphalian ideal of the sovereign nation-state had become obsolescent. In the increasingly borderless world we associate with globalization, something new was emerging, which Bobbitt called (and continues to call) the “market-state.” This state’s relationship to its citizens resembles that between a corporation and consumers. Its counterpart ― and enemy ― is the terrorist network. The central problem raised in “The Shield of Achilles” was how far the market-state could and should go to defeat such networks, particularly when they were in some measure sponsored by traditional nation-states.
・・・・・

http://www.nytimes.com/2008/
04/13/books/review/Ferguson-t.html
?_r=1&8bu&emc=bua1&oref=slogin


*********************

検討問題:諸テーマ

テーマ:検討問題

1)人法という発想:自然法に近いと思うが、単純に言えば、言葉に文法があるように、人間においても、人法があると考えられる。思うに、人法を、これまで、人類はさまざまに解釈してきたのではないだろうか。宗教であれ、神話であれ、掟であれ、哲学であれ、芸術であれ、道徳であれ、倫理であれ、叡知であれ、法典・法律であれ、科学であれ。
 問題は、カントの純粋理性と実践理性の乖離にあるだろう。PS理論の差異共振理性(差異共振合理性、差異共振知性)は、理性を統一するので、純粋理性も実践理性も、それに包摂されることになると思われる。
 思えば、カント哲学は、自我主義と自己主義に分裂しているのである。本来は、自己を基盤とする自我を構築するべきなのである。とまれ、近代主義がはっきりそこには見られると言うべきであろう。

p.s. 先ほど、人理という言葉が浮かんだ。考えたら、どうして、これまで、人法もそうだが、この言葉がなかったのか不思議である。仁義、人道、人徳、人情等では、今日では、いかにも古風である。人文科学とは、人理学ないしは人法学となるべきである。これに基づいて、諸宗教、政治理念等を批評できるようになるだろう。例えば、イラク戦争は、イラクの民主化という大義があるが、しかし、人理・人法の見地から見たら、それは、明々白々に邪道・邪悪である。
 
2)同一性の原形ないしは基盤とは何か:同一性の鏡像とは何か:競争とは何か。つまり、自己同一性主義=自我主義の同一性の基盤となる同一性構造があるが、同一性鏡像とは何か。
 
p.s. 問題は、差異を劣位を置く同一性主義の優越主義の力学を再考したい。

3)宗教と差異共振理性の関係について:「神」・「仏」とは、人法なしいは、生命法、魂法の、連続的表現に近いのではないのか。

4)Media Pointと身体との関係について

5)トランス・モダン・キャピタリズム:差異共振的資本主義とは何か。同一性金融資本と差異共振金融資本。差異共振価値のための金融資本。

6)-1の問題。

7)近代教育からトランス・モダン教育へ:同一性主義教育から差異共振教育へ:個としての魂や精神の導入

8)近代主義的細分化・専門分化とトランス・モダン的総合:前者は何がもたらしたのか。これは愚問だろう。近代主義のもつ経験現象世界のもつ客体性がもつ多様性において、知を精緻にするために、起ったと考えられる。
 ここにおいて、フッサールの『危機』が重要な論考である。つまり、連続的同一性化された対象、すなわち、同一性=物質=数量=客観性を基礎として、諸科学が構築されたのであり、差異=精神=質=主観性への探求が忘却されたと言えよう。
 ポスト・モダンは、その延長にあると言えよう。フッサール現象学であるが、以前指摘したが、二重性をもっているのである。思うに、差異共振性を直感していたが、それを同一性の概念で説明しているように思われるのである。生活世界がその直感の概念化だと思うが。
 換言すると、フッサールは、Media Pointの作用を直感していたが、それを理論的には、十全には捉えていなかったと思う。ついでに、ハイデガー哲学について言うと、存在は、メルロ=ポンティが明らかにしたように、身体存在と見るのが正しいように思える。
 どうも、-1が身体存在ではないのか、という思いつきが浮かぶ。+1が自己同一性=自我である。Media Pointが自己=個=差異=魂=精神である。だから、身体ないしは存在は、-1ではないだろうかと思えるのである。また、無意識も-1ではないだろうか。
 先に試行錯誤したように、+1が光ならば、-1は闇である。西洋哲学は、前者中心であり、19世紀後半からようやく、闇の存在を対象とするようになったのではないのか。
 しかし、-1を身体存在としたとき、物質身体との関係はどうなるのか、ということがあるだろう。しかしながら、それは同じではないだろうか。
 さて、フッサールとハイデガーに戻ると、前者は、合理性の根拠を追求したのであり、根源的合理性を超越論的主観性に求めたと言えよう。しかしながら、超越論的主観性とは、Media Pointにおける同一性志向性であり、Media Pointの超越性には達していない。しかし、微妙なことは、繰り返しになるが、フッサールの直感においては、Media Pointは開いていたと思われるのである。だから、間主観性や生活世界の発想が生まれた思われるのである。
 ハイデガーの存在論は、西洋哲学の合理主義的志向性によって看過されてきた「存在」を提唱したこととなっているが、ハイデガー哲学の暗さは、やはり、-1の闇から来ているのではないだろうか。
 そうだとしても、ハイデガーは、フッサールが直感したと思われるMedia Pointを外していると思う。そして、想像では、後期ハイデガーは、今度は、実軸を否定した虚軸だけの存在性を説いているように思えるのである。いわば、前期が水平軸のマイナスを説き、後期が水平軸を無視した垂直軸の様相を説いているのではないのか。【p.s. 思うに、後期ハイデガーは、-1の存在(身体)の闇からMedia Pointの開きを垣間みたのかもしれない。】

p.s. あるいは、-1において、神秘主義、オカルト主義のように「光」を考えているのかもしれない。闇の中の光である。それは、実は、Media Pointのことである。身体的霊性である。
 
9)死について:イデア(=「魂」)を考えると、死とは、純粋イデアないしはデュナミスとしてのイデアに復帰・回帰・再帰することと考えられる。言い換えると、生とは、イデア(=「魂」)の現象相なのであり、死とはイデア(=「魂」)の純粋相であると考えられる。プラトンが説いたように、魂は不死である。つまり、魂の純粋相(原形相)と現象相の二相の循環があり、それが螺旋的回帰していると思われるのである。そう、ニーチェの永劫回帰である。ただし、ニーチェの反復は、現象相に傾斜していると考えられる。
 イデア界=「魂」界と仮象界としての現象界の複合体としての総合界があると言えよう。
 そうならば、問題は、知や認識や感覚・知覚等のことである。知や感覚の主体とは何か。PS理論は、イデア的主客論であり、イデアには、認識作用があると考えている。原ノエシス/原ノエマである。すると、差異だけでなく、同一性の認識もイデアが行っている可能性はあるだろう。
 例えば、「わたし」の認識であるが、それは、イデアに基盤があるのではないだろうか。そうならば、現象での認識も永遠である。

10)自由主義経済とは、グローバル経済では、詰まるところ、巨大資本主義的自由主義であり、大資本、中小資本にとっては、淘汰される自由主義である。結局、資本の多寡が権力となっているのである。もっとも、単に量的なものだけでなく、巨大資本とは、質的な価値においても、大資本・中小資本を凌駕しているのである。この点をどう見るのか、である。


検討問題:諸テーマ
1)人法という発想:自然法に近いと思うが、単純に言えば、言葉に文法があるように、人間においても、人法があると考えられる。思うに、人法を、これまで、人類はさまざまに解釈してきたのではないだろうか。宗教あれ、神話であれ、掟であれ、哲学であれ、芸術であれ、道徳であれ、倫理であれ、叡知であれ、法律であれ、科学であれ。
 問題は、カントの純粋理性と実践理性の乖離にあるだろう。PS理論の差異共振理性(差異共振合理性、差異共振知性)は、理性は統一するので、純粋理性も実践理性も、それに包摂されることになると思われる。
 思えば、カント哲学は、自我主義と自己主義に分裂しているのである。本来は、自己を基盤とする自我を構築するべきなのである。とまれ、近代主義がはっきりそこには見られると言うべきであろう。
 
2)同一性の原形ないしは基盤とは何か:同一性の鏡像とは何か:競争とは何か。つまり、自己同一性主義=自我主義の同一性の基盤となる同一性構造があるが、同一性鏡像とは何か。

3)宗教と差異共振理性の関係について:「神」・「仏」とは、人法なしいは、生命法、魂法の、連続的表現に近いのではないのか。

4)Media Pointと身体との関係について

5)トランス・モダン・キャピタリズム:差異共振的資本主義とは何か。同一性金融資本と差異共振金融資本。差異共振価値のための金融資本。

6)-1の問題。

7)近代教育からトランス・モダン教育へ:同一性主義教育から差異共振教育へ:個としての魂や精神の導入

8)近代主義的細分化・専門分化とトランス・モダン的総合:前者は何がもたらしたのか。これは愚問だろう。近代主義のもつ経験現象世界のもつ客体性がもつ多様性において、知を精緻にするために、起ったと考えられる。
 ここにおいて、フッサールの『危機』が重要な論考である。つまり、連続的同一性化された対象、すなわち、同一性=物質=数量=客観性に基礎として、諸科学が構築されたのであり、差異=精神=質=主観性への探求が忘却されたと言えよう。
 ポスト・モダンは、その延長にあると言えよう。フッサール現象学であるが、以前指摘したが、二重性をもっているのである。思うに、差異共振性を直感していたが、それを同一性の概念で説明しているように思われるのである。生活世界がその直感の概念化だと思うが。
 フッサールは、Media Pointの作用を直感していたが、それを理論的には、十全には捉えていなかったと思う。ついでに、ハイデガー哲学について言うと、存在は、メルロ=ポンティが明らかにしたように、身体存在と見るのが正しいように思える。
 どうも、-1が身体存在ではないのか、という思いつきがある。+1が自己同一性=自我である。Media Pointが自己=個=差異=魂=精神である。だから、身体ないしは存在は、-1ではないだろうかと思えるのである。また、無意識も-1ではないだろうか。
 先に試行錯誤したように、+1が光ならば、-1は闇である。西洋哲学は、前者中心であり、19世紀後半からようやく、闇の存在を対象とするようになったのではないのか。
 しかし、-1を身体存在としたとき、物質身体との関係はどうなるのか、ということがあるだろう。しかしながら、それは同じではないだろうか。
 さて、フッサールとハイデガーに戻ると、前者は、合理性の根拠を追求したのであり、根源的合理性を超越論的主観性に求めたと言えよう。しかしながら、超越論的主観性とは、Media Pointにおける同一性志向性であり、Media Pointの超越性には達していない。しかし、微妙なことは、フッサールの直感においては、Media Pointは開いていたと思われるのである。だから、間主観性や生活世界の発想が生まれた思われるのである。
 ハイデガーの存在論は、西洋哲学の合理主義的志向性によって看過されてきた「存在」を提唱したこととなっているが、ハイデガー哲学の暗さは、やはり、-1の闇から来ているのではないだろうか。
 そうだとしても、ハイデガーは、フッサールが直感したと思われるMedia Pointを外していると思う。そして、想像では、後期ハイデガーは、今度は、実軸を否定した虚軸だけの存在性を説いているように思えるのである。いわば、前期が水平軸のマイナスを説き、後期が水平軸を無視した垂直軸の様相を説いているのではないのか。

p.s. あるいは、-1において、神秘主義、オカルト主義のように「光」を考えているのかもしれない。闇の中の光である。それは、実は、Media Pointのことである。身体的霊性である。
 
9)死について:イデア(=「魂」)を考えると、死とは、純粋イデアないしはデュナミスとしてのイデアに復帰・回帰・再帰することと考えられる。言い換えると、生とは、イデア(=「魂」)の現象相なのであり、死とはイデア(=「魂」)の純粋相であると考えられる。プラトンが説いたように、魂は不死である。つまり、魂の純粋相(原形相)と現象相の二相の循環があり、それが螺旋的回帰していると思われるのである。そう、ニーチェの永劫回帰である。ただし、ニーチェの反復は、現象相に傾斜していると考えられる。
 イデア界=「魂」界と仮象界としての現象界の複合体としての総合界があると言えよう。
 そうならば、問題は、知や認識や感覚・知覚等のことである。知や感覚の主体とは何か。PS理論は、イデア的主客論であり、イデアには、認識作用があると考えている。原ノエシス/原ノエマである。すると、差異だけでなく、同一性の認識もイデアが行っている可能性はあるだろう。
 例えば、「わたし」の認識であるが、それは、イデアに基盤があるのではないだろうか。そうならば、現象での認識も永遠である。


2008年04月11日(Fri)▲ページの先頭へ
ショート=没入の二つの相:賦活された差異共振エネルギーの二つの非合理的衝動:パラノイアと全体主義
先に次のように書いたが、まだ、十分明晰になっていないので、さらに整理したい。

【ここで否定とショート(短絡)と没入の関係を整理しておきたい。否定とは、差異共振性の否定のことであり、連続的同一性化においては、同一性主義=自我主義を形成する。
 ショートとは、差異共振理性を自我主義が否定抑圧し、自我主義が中心化されることである。
没入とは、賦活された差異共振エネルギーに対して、自我主義が反動的な態度をとり、自我主義を過剰化すること、あるいは、差異共振エネルギーを連続様態において、肯定するために、差異共振性が連続化されて全体主義になることである。】
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10087388417.html

問題点は、いわば牽強付会の点である。否定が差異共振性の否定であるというのは、はっきり言っておかしい。否定は否定であり、説明はいらないのである。これがまず一点である。
 次に、ショートと没入の区別であるが、これは、以前は、区別しないで、同じ心的事象を意味する用語として用いたのである。それで問題ないと思えるので、そうしておきたい。
 簡単に説明すると、ショート=没入とは、差異共振エネルギー(差異エネルギー)を抑圧している同一性主義=自我主義が、活性化した差異共振エネルギーを抑圧し切れずに、エネルギーが衝動化して、同一性主義=自我主義の攻撃性が暴発することであり、他方、それとは逆方向に、活性化された差異共振エネルギーが同一性主義=自我主義に規制されて、全体主義化することである。


没入:自我主義における賦活された差異共振エネルギーに対する二つの態度:パラノイアと全体主義
以下もやはり、混乱している。寝不足が思考を鈍くさせているのかもしれない。
 ここで否定とショート(短絡)と没入の関係を整理しておきたい。否定とは、差異共振性の否定のことであり、連続的同一性化においては、同一性主義=自我主義を形成する。
 ショートとは、差異共振理性を自我主義が否定抑圧し、自我主義が中心化されることである。
没入とは、賦活された差異共振エネルギーに対して、自我主義が反動的な態度をとり、自我主義を過剰化すること、あるいは、差異共振エネルギーを連続様態において、肯定するために、差異共振性が連続化されて全体主義になることである。

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http://ameblo.jp/renshi/
entry-10087355926.html
先の混乱した考察となった没入のテーマをここで新たに検討したい。

 混乱の一つは用語の不十分さによる。即自的他者と対自的他者と言ったが、前者は即自的自己+iであり、後者は即自的他者-iと言わなくてはならない。
 没入とは、即自的他者や対自的他者に没入するということになろう。これは、いったいどういうことなのだろうか。自己認識方程式は、差異共振性を内包した自我=自己同一性であり、自我主義=同一性主義ではない。自我主義において、没入が可能になるのである。
 自我主義が起るには、自己認識方程式の左辺が抑圧される必要があるだろう。思うに、自我主義も一つの没入であろう。この力学を考えたい。
 まず、否定と没入を区別する必要があるのではないだろうか。自我主義は差異の否定によるのであり、差異の否定が、同時に、差異への没入となる事態ではないのか。
 これは、連続的同一性の様相と言えるのではないだろうか。差異共振性から連続的同一性へと転化するとき、差異共振性を否定する。しかしながら、この否定は抑圧でもあるが、そのとき、連続性において、差異共振性とショートするのではないのか。このショートが没入ということと考えられる。
 思うに、否定/ショートとは、反動である。差異共振性の否定的様態、つまり、苦・悲哀に対して、反動的に反射することである。
 では、反動とは何だろうか。反動とは、差異共振様態から差異否定様態になったとき生起する否定感情エネルギーのことではないだろうか。この否定感情エネルギー(ルサンチマン)は、攻撃的なエネルギーであると言えよう【フロイトの死の欲動とは、これで説明できるだろう】。
 思うに、連続的同一性は差異共振性の肯定的様態(歓喜)の場合と否定的様態(苦悲)の場合があり、前者は、差異(他者)を残していて、後者は、差異(他者)を抑圧否定するだろう。(宗教的に言えば、前者が多神教であり、後者が一神教である。)
 さて、没入・ショートの場合であるが、それは、後者が中心化したときに発生するだろう。何故なら、前者が存していれば、それが理性となり、没入・ショートにならないように抑制するからである。(理性とは、差異共振的自我のことである。)
 没入・ショートの発生は否定的様態が中心化したときとは、どういうことなのだろうか。差異共振性を抑圧・排除・隠蔽するような否定的様態とはどういうことなのだろうか。明快にするために、差異共振性の排除と呼ぶ方がわかりやすいだろう。
 それは、他者がその主体に苦・悲哀をもたらすという場合に排除が起るだろう。他者が主体の差異共振性に苦・悲哀をもたらすとはどういうことなのだろうか。簡単にいえば、トラウマを引き起こすような経験であろう。例えば、絶望である。このとき、差異共振性の光が消えて、闇になる。この闇が他者に対する排除作用を生むだろう。以前、私は冷暗の経験を考えたことがあるが、それと同じである。
 この場合、差異共振性を否定するような経験が中心であり、差異共振性を肯定する経験がほとんどないという境遇が考えられる。これは、確かに、経験論的には考えられるが、理論的には、どうだろうか。
 これまでの考え方は、差異共振性を否定・抑圧して生じた自我主義に対して、新たに差異共振性は活性化する事態が発生するが、差異共振に対する否定的な自我主義は、その賦活された差異共振性を反動的に抑圧するのであるが、賦活された差異共振性は、積極的なので、自我主義と差異共振エネルギーが齟齬を来して、統合失調様態(「分裂症」)をもたらすというものである。
 この考えのほうが力学的に首尾一貫しているのであるから、こちらの方が適切であると言えよう。
 ここでこそ、没入について考察すべきである。単なる否定においては、没入は十分発生しない。否定された差異共振性が賦活され、それが自我主義に反動的に抑圧・否定されたときに、没入が起ると思われる。即ち、新たな差異共振エネルギーがそれを否定するものを過剰化させるのである。端的に言えば、自我主義がパラノイア(偏執狂)的になるだろうし、また、ポスト・モダンならば、同一性に対する攻撃が過剰となり、全体主義的になるだろう。宗教ならば、原理主義的になるだろう。
 つまり、否定的な連続的同一性が基盤にあるために、同一性主義の方では、過度の自我主義となり、差異共振性の方では、連続的に、全体主義化するということである。
 ということで、結局、これまでの考察を確認することになったが、没入とは、外因(経済的な格差等)を除けば、内因として、賦活された差異共振エネルギーに対する、反動的否定による自我主義への没入があり、また、そのエネルギーに対しては能動的ではあるが、自我主義に対して、反動的であるために、差異共振性が同一性主義を帯びて、全体主義化する没入の二種類があることになる。


自我主義の衝動・情動・暴力:即自的他者と対自的他者と自己同一性主義の没入
自我主義は、衝動を生む。これは、差異を否定する精神暴力から生まれているだろう。確かに、差異を肯定することは、とても難しいことである。何故なら、魂・精神の仕組みから、連続的同一性である自我主義(どうも、自我と言いたくなるが、自我と自我主義は異なる)に囚われるのが必然であるからである。
 仏教は、この連続的同一性=自我主義の「脱構築主義」である。しかしながら、それは、トランス・モダンなのか、ポスト・モダンなのか。
 今思うに、仏教は、ポスト・モダンなのではないだろうか。トランス・モダンまでは達していないのではないだろうか。(鈴木大拙の即非の論理は措いておきたい。)
 色即是空は納得できる。自我主義は、実体がない。空即是色は、どうだろうか。実体がないものは、自我主義である。そうならば、納得できる。
 どうも、私の理解の方が誤っていたようだ。有り体に言えば、「情」の問題である。「情」はやはり、自我主義なのではないのか。さらに、「愛」も自我主義ではないのか。他者を愛することは、自我主義ではないのか。そもそも、愛することはできるのか。
 そう、没入の問題である。倫理の問題でもある。ある倫理行為に没入するというのは、自我主義ではないのか。
 あくまで、自己があり、他者がある。両者は、即非である。自己は、自己であり、他者ではないが、同時に、他者でもある。
 しかし、ほんとうに、他者なのか。自己は他者でありえるのか。他者ではないのではないか。問題は、他者であるというとき、没入が起ることである。他者ヘの没入は、自己喪失であり、それは、自己否定であり、やはり、差異の否定であろう。自己という差異の否定であろう。
 例えば、オリエンタリズムであるが、西洋は、他者である東洋の価値を認めるが、倫理的に没入して、東洋の遅れを批判するのである。それは、他者とは異なるという自己の差異の喪失ではないだろうか。
 他者(差異)とは、二つ存していて、即自的他者と対自的他者が存するだろう。倫理的没入は、即自的他者の否定となると思われる。否定はとにかく暴力であり、倫理的没入は暴力となると考えられる。
 問題は、対自的他者を重視し過ぎて、それに没入して、暴力的になることである。これは、言葉で言うのは、易しいことであるが、悟ることは難しい。対自的他者に没入するというのは、やはり、単に、即自的他者を否定するだけではなく、対自的他者も否定することになるだろう。何故なら、対自的他者に同一性化することであるからである。
 この対自的他者に没入・同一性化するものは何だろうか。それは、思うに、即自的他者が対自的他者に没入・同一性化するのではないだろうか。共振ではなくて、没入・同一性化はどう表現できるだろうか。
 それは、和になるのか、即ち、(+i)+(-i)⇒0なのか。どうも、この可能性はありそうである。+1が自己形成に対して、0(ゼロ)は自己喪失=他者没入ではないだろうか。ここでは、自己も他者もなく、ただ、自己没入・他者没入があるだけであろう。盲目・無明である。
 そして、これが、同一性主義=自我主義、ひいては、近代的自我主義・近代合理主義ではないだろうか。とまれ、和算が、没入暴力を示しているのではないだろうか。没入の和算ということになる。
 思うに、今日の心の病とは、このゼロではないだろうか。即自的他者(自己)と対自的他者(他者)の喪失である。問題は、このゼロ度(ゼロ度の狂気、ゼロ狂気)であるが、同一性主義(近代合理主義)となっていると考えられるが、この同一性主義はどう数的に表現されているのか。端的に、一(いつ)はどう表現されているのか。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、左辺が差異共振性である自己、右辺が自我、そして、両辺で自己/自我、すなわち、差異共振的同一性を意味すると考えられる。では、没入である同一性主義ないしは自我主義はどう見たらいいのか。
 同一性から同一性主義、自我から自我主義への変換である。+1からゼロへの変容である。思うに、それは、差異ゼロであるから、右辺はゼロとなると見ていいのではないだろうか。つまり、同一性主義=自我主義とは、差異ゼロないしは無差異であるから、ゼロであると見ていいのではないだろうか。
 そういうように作業仮説して、-1とは何か考えてみよう。単純に見ると、マイナスの同一性、マイナスの自我である。これは、いったい何か。
 思いつきを言えば、これが、ダーク・マター、ダーク・エネルギーの世界ではないか。あるいは、鏡像の世界。あるいは、反物質・反世界。神秘主義者の神秘世界もこれではないのか。オカルトの霊の世界もこれではないのか。
 もし、そうならば、どういう計算になるのか。例えば、(+i)*(-i)を右回転として、(+i)*(+i)を左回転と見ると、後者において、-1が発生する。言い換えると、右スピンが+1となり、左スピンが-1となるということになるだろう。
 だから、発想を変えて、+iを根源的差異とすれば、根源的差異(根源的イデア)の右1/4回転が+1=同一性となり、その左1/4回転が-1(ダーク同一性)となるということではないのか。これは、-iを根源的差異としても同じことになる。
 考えてみれば、根源的差異(イデア)とは、差異共振・即非様態なのだから、常に、正負符号を変えていると考えられないだろうか。即ち、+iであることとは、同時に、-iであることであり、また、-iであることは、同時に、+iであることではないのか。極言すれば、+iと-iはイデア界では同じものなのである。それが、共振・即非性の意味ではないのか。これが、例えば、量子における、粒子と波動との二重性を意味するのではないのか。
 とまれ、根源的差異(イデア)をそのように考えると、右スピンで+1、左スピンで-1が発生する言えよう。思うに、同一性化とは、結局、左右スピンによって、生起するものであり、プラスの現象界とマイナスの現象界の二重世界が生起するのであり、光の性質から、一般的には、プラスの現象界しか感覚知覚されないのではないだろうか。言い換えると、+1が光の世界=ライト・ワールドであり、-1が闇の世界=ダーク・ワールドとなるのではないか。
 そうすると、根源的差異(イデア=量子)は、共振・即非様相によって、揺らぎ(クリナーメン、ブラウン運動)、転変転換しながら、左右回転をして、明暗の両世界を形成しているといことになるのではないだろうか。
 興味深いのは、正に、Media Pointである。ここが根源的交点であり、ここで、左右・正負・明暗に分離するのであるが、ここは、根源的境界であり、左右・正負・明暗が分離されるのではないだろうか。
 とは言え、問題は、これは、連続的同一性の形成であるから、根源的差異は否定されるとは言え、基本的様態は連続性であるから、根源的差異、不連続的差異には、一般的には、到達できないと考えられる。このことは既述済みである。
 問題は、左右・正負・明暗の同一性の連続性様態である。これは、いったい何だろう。一般的には、光の現象界しか感覚知覚していないのであり、闇の現象界には無自覚である。ある意味で、排除しているのではないだろうか。少なくとも、無意識であると考えられる。
 そう、端的に、マイナスの現象界とは何だろうか。不可視の世界であるが、一般的にはどう作用しているのだろうか。例えば、人間においてどう作用しているのだろうか。ここで思考実験をして、例えば、光の現象界を視覚の世界、闇の現象界を聴覚(ないしは触覚)の世界としたらどうだろうか。美術の世界と音楽の世界である。
 そうすると、通常、両者が連続化しているのではないだろうか。光の世界と闇の世界が連続しているのではないだろうか。そして、二つの対照的な世界を意識していないのではないだろうか。そうすると、Media Pointが閉じられているということなるだろう。実軸の連続した正負の世界となるだろう。 
 それで一応、左右・正負・明暗の現象界の説明とすると、問題は、根源的差異が賦活されるときである。つまり、差異への再帰が起るときの事態である。
 垂直の、超越的なエネルギーが発動するのであるが、同一性意識はそれを捉えられないのである。せいぜい、超越論的認識にしかならないのである。(思うに、Media Pointが開いて、内在平面ならぬ、超越平面が形成されるのではないだろうか。)
 直感では、差異の賦活化とは、マイナスの現象界の賦活化でもあり、霊の世界が活性化するということではないだろうか。神秘主義、オカルト主義が流行するのではないだろうか。たとえば、西洋においては、19世紀後半から20世紀前半にかけて生じたように。あるいは、精神世界の流行のように。
 では、この点からポスト・モダンを考えるとどうなるのか。その差異はどうなるのか。ドゥルーズを考えるとわかりやすい。その理論は、超越的なものがあると言ったが、正確には、マイナスの世界、霊・神秘の世界が入っていると思われるのである。だから、-1を連続的差異にしたように思われるのである。しかし、それは、根源的差異ではないのである。
 では、デリダの場合はどうだろうか。デリダは慎重に、-1を拒否していると思う。そして、根源的差異が発現するMedia Pointに近づいていると考えられる。しかし、超越性を否定しているので、不連続な差異に留まっていると考えられるのである。
 そうすると、問題は、ゼロ度とは何かとなる。以上では、ゼロ度は没入であると言った。しかし、差異の場合は、ゼロ度ではなく、Media Pointが発現するのである。それは、表記するに、0・(+i)ないしは、0・(-i)で説明できるのではないだろうか。ハイデガー/デリダのポスト・モダンはこれを捉えていたのではないだろうか。(ドゥルーズの場合は、超越性はなく、-1と連続化しているのである。)
 最後に、二重螺旋について簡単に触れたい。思うに、+iと-iとの左回転による二重螺旋と、右回転の二重螺旋、つまり、左右別の二重螺旋が形成されるのではないだろうか。光の現象界と闇の現象界では方向が逆になるのではないだろうか。
 この点は思考実験であり、あいまいなので、後で再考したい。


2008年04月09日(Wed)▲ページの先頭へ
チベット問題とオリンピック:真相は何か:USAの覇権的ご都合主義的外交が一番問題である
チベット問題とオリンピック:真相は何か:USAの覇権的ご都合主義的外交が一番問題である

テーマ:東アジア:朝鮮半島・中国・台湾・ロシア

この問題は、さまざま説明されているが、真相がわからない。とまれ、状況・文脈を考えよう。

1)アメリカは中国と経済的友好関係を維持したい。
2)中国は、アメリカと組んで経済開発を行いたい。チベットには、地下資源がある。
3)英米中心主義は、中国を押さえたい(田中宇氏)。
4)中国はオリンピックを成功させたい。
5)欧米の民主主義イデオロギーがある。
6)欧米には、オリエンタリズム(西洋中心主義)がある。
7)チベットは、欧米の民主主義派の支援を受けている。チベットは自治を行いたい。
8)中国は、少数民族の独立を抑えたい。覇権主義。暴力で押さえつける。

ざっとあげるとこのようになる。何がわかるだろうか。一つは、中国の反民主主義的支配があり、一つは、欧米の利害関係があり、一つは、チベットの自治の動きがあるということであろう。大きな問題の一つはアメリカの二股膏薬性・二枚舌である。自己中心主義である。
 私は中国の暴力的支配に、確かに問題があり、それは、非難されるべきであると思うが、それ以前にアメリカの二股膏薬、覇権的ご都合主義が一番の問題ではないかと思う。三番目には、欧米の民主主義に基づくオリエンタリズム的イデオロギーである。もっとも、正しい面は否めないが。
 アメリカが自分の経済的都合から、中国の政治を甘やかしたのが一番問題だと思う。イラクへの民主化を言うならば、中国や北朝鮮への民主化を要求する必要があるにもかかわらず、それには蓋をして、経済的利益から友好性を結んでいることである。つまり、自国中心主義的戦略に問題がある。
 理論的には、巨大資本主義的自由主義に問題があると言えよう。つまり、経済中心的自由主義に問題がある。必ず、民主主義的自由主義を理念的にもつ必要がる。これは、政治がチェックする必要があるのである。
 ということで、現段階では、私見では、本件において、一番問題があるのは、アメリカの覇権的ご都合主義的外交であるということになる。

Proteste gegen Chinas Tibet-Politik
San Francisco wappnet sich für Fackellauf

San Francisco bereitet sich auf Massenproteste beim olympischen Fackellauf vor. Heute soll das olympische Feuer durch die Stadt getragen werden. Schon gestern protestierten dort mehrere tausend Menschen friedlich gegen Chinas Tibet-Politik.

Von Jan Tussing, HR, ARD-Hörfunkstudio Los Angeles

Über 500 Polizisten standen bereit, als die olympische Flamme in der Nacht zum Dienstag das amerikanische Festland erreichte. Es besteht höchste Sicherheitsstufe, denn der Druck auf die Stadt San Francisco wächst stündlich. Tausende von Demonstranten haben sich in San Francisco mit Protestplakaten und tibetischen Flaggen eingefunden.
Pro-Tibet Demonstranten in San Francisco (Foto: dpa) [Bildunterschrift: Auch gestern gingen im Stadtzentrum von San Francisco wieder tausende Demonstranten auf die Straße.
http://www.tagesthemen.de
/ausland/olympia122.html

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「気」とは何か:超越エネルギーと精神生命とMedia Point Intelligence

テーマ:新霊性new spirituality

「気」とは何か。これは、実は、簡単に誰でも感覚することはできるのである。合掌するようにして、両手の指先を接近させて、先端を意識するのである。そうすると、磁力のようなものが感じられるだろう。これが「気」だと思われる。思うに、電磁気力である。あるいは、生命電磁気である。
 私は先に、「気」を同一性エネルギーと考えた。つまり、同一性=物質を形成するエネルギーである。しかしながら、同一性=物質は、それ自体では、生命にはならないだろう。生命体は単なる同一性=物質ではない。
 Media Pointの様相を考えよう。ここでは、垂直の超越エネルギーが水平の現象エネルギーへと変換される。いわば、質的エネルギーを量的エネルギーへと変換させる回路がそこにある。
 これは、単に物質現象の説明にしかならないだろう。生命現象を説明できないだろう。では、生命現象とは何か、である。
 作業仮説ないしは思考実験であるが、生命と物質との違いとは、差異の様態に違いにあるのでではないだろうか。即ち、物質の場合は、差異⇒同一性であり、同一性で終結するのであるが、生命の場合は、差異⇒同一性⇒差異という循環回路があるのではないだろうか。
 換言すると、物質は直線的であるが、生命は回帰的であるということである。物質の場合、差異が同一性化すると、そこでエネルギーの終焉するのであるのに対して、生命に場合は、差異が同一性化した後も、差異のエネルギーが残っていて、それが、新たに、同一性化を発現させるように思えるのである。わかりやすく、比喩的に言えば、差異が種であり、それが、同一性化するとは、生長することであるが、それがいったん終了すると、種を結実する。これが、いわば、再差異化である。そして、これが循環するのである。差異が同一性に対して過剰なのが、生命ではないだろうか。
 だから、ここで「気」について考えると、それは、過剰な差異エネルギーのことではないかと考えることが可能である。思うに、それは、物質を有機的に秩序化する情報エネルギーでもなくてはならないだろう。直感では、差異から同一性への変換のプロセスが「気」ではないだろうかと思われるのである。いわば、精神と物質との中間態が「気」のように思われるのである。即ち、「気」とは、純粋な精神でもないし、純粋な物質でもないが、精神に関係するし、物質にも関係すると考えられるのである。おそらく、量子に近いもののように思えるが、結局、両義的であり、精神の側面と物質の側面をもつということである。おそらく、造語した方がいいのかもしれない。とりあえず、メディア子(し)としよう。メディア子としての「気」である。それは、自己認識方程式では、⇒に相当するだろう。
 ということで、「気」=生命についての検討はここで終えることとして、次に、少し、広義の情について考察しよう。私が考えているのは、シュタイナーのアストラル体である。これは端的に、広義の感情である。
 直感で言えば、精神エネルギーである。すると、それは、超越エネルギーということになるだろう。そうならば、自我ないしは自己はどうなるのだろうか。
 自我とは、連続的同一性意識である。物質的意識である。それに対して、自己とは、差異共振的意識、精神的意識である。
 だから、情と自我/自己との違いは、エネルギーと意識の違いであると言えようか。言い換えると、エネルギー様態と知的様態の違いということになる。
 ならば、エネルギーと知とはどう異なるのだろうか。知ないしは合理性・理性とは、思うに、差異共振性と同一性との緊張関係にある認識であり、差異共振性を内包した同一性認識のことではないだろうか。つまり、差異共振的同一性認識が知ないしは合理性・理性のことではないだろうか。言い換えると、自己的自我認識である。
 ここには、差異共振エネルギーは包摂されているのである。つまり、情は包摂されているのである。そうすると、知・合理性・理性は、情を包摂した高次元的な認識様態と言えるのではないだろうか。
 問題は知・合理性・理性の高次元性であるが、それは、差異共振エネルギーがイデア・エネルギー、即ち、高次元エネルギーであるから、超越的なイデア界とその理念知を仮説したときに、そのエネルギー(情)が包摂可能となるだろう。
 このイデア界の理念知であるが、それは、エネルギー(情)に基づく、それに即した、仮説された高次元的知であり、この知と同一性の認識(現象認識)とが結合・融合したものになると考えられる。垂直性と水平性を結合させた知であり、端的に言えば、Media Pointの知(インテリジェンス)、Media Point Intelligence(略して、MPI)と言えるのではないだろうか。比喩的に、十字知性でもいいだろう。【ここで、バラ十字を想起した。七つの薔薇の花と黒い十字架との結合である。七次元ということだろうか。七次元とは、根源の三次元[(+i)*(-i)乃至は三柱の神]とMedia Pointの四元性(+i, -i, +1, -1)を足したものか?】そして、これが、新知(性)・新理性・新合理性であろう。
 これで、アストラル体である超越エネルギーと自己/自我知であるMedia Point Intelligenceとの違いを説明できたとこととしたい。
 最後に、まだ、不鮮明な感のある「気」の解明であるが、もう少し説明を進展させるならば、段階を設けると明快になるように思われる。即ち、生命エネルギーとしての超越エネルギーの段階と精神エネルギーの超越エネルギーの段階を分けることである。
 最初に、おそらく、生命エネルギーとしての超越エネルギー振動があり、それが、「気」となる。そして、その基盤の上に、新たに精神エネルギーとしての超越エネルギー振動が発動すると仮説すればいいと思われるのである。おそらく、両者は振動の質が異なるように思われるのである。簡単に言えば、生命エネルギーの振動がより低く、精神エネルギーの振動はより高いのでではないだろか。今はここで留めたい。

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ドゥルーズとガタリの『哲学とは何か』の中の情動に関する概念と、超越性との関係について

テーマ:検討問題

この主題は、つまり、ドゥルーズ&ガタリ(以下、D/G)の情動論とプラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)の超越性との比較は、ポスト・モダン(ポ・モ)の探った領域を確認することを意味するのである。
 D/Gの『哲学とは何か』は、凝縮され過ぎて、説明が不足しているような箇所が多いが、とても興味深い書である。
 とまれ、これまで、D/Gのポスト・モダンの差異を連続的差異として捉えて、自己認識方程式では、-1と先に考えたが、どうも、情動論を見ると、そこには、即非に近いものがあると思われるのである。
 たとえば、生成変化論があるが、それは、端的に、差異と差異の即非論によって明快に説明できると思われるのである。女性、子ども、動物に生成変化するというが、それは、即非論的である。
 しかしながら、根本的に、連続論であるのが欠点である。そこでは、フッサールや現象学の超越論性が批判されている。そして、内在論を説くのである。即ち、内在平面の仮説を説くのである。
 だから、PS理論の観点から見ると、D/GはMedia Pointを連続化させているように思われるのである。つまり、超越性が連続化して、内在化されていると思われるのである。
 つまり、ゼロ度である。ゼロ度のエネルギー空間として、内在平面を仮説しているように思えるのである。差異の不連続性を消去してしまった空間である。
 そうすると、これは、ほとんど、ヘーゲル哲学になるように思われるのである。差異の連続化が同一性であり、それは、ヘーゲルの観念形式となるだろう。
 それに対して、(後期)デリダの場合は、超越性は否定しつつも、ゼロ度の不連続性を説いていると思われるのである。言うならば、超越性を否定したMedia Pointである。
 だから、D/Gの超越性とデリダの不連続性を結びつけると、哲学としてのPS理論にほぼなるように思われるのである。

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同一性について:仮象的同一性と特異的同一性:多様な現象世界とイデア論

テーマ:差異と同一性

これまで、差異と同一性の関係について検討に検討を重ねてきて、結局、同一性を包摂する差異共振性ないしは、同一性を包摂する超越的差異という考え方に達したが、果たして、同一性を同一性として固定していいのか、という問題がありうるのである。
 まず、具体的にするために、明快な例をあげよう。親指は英語では、a thumbである。そして、厳密には、a fingerではないのである。だから、片手には、普通、英語では、four fingers and a thumbがあるのであり、five fingersではないのである。
 ありていに言えば、親指は指ではないのである。日本語で親指とは、ある対象に対する同一性概念であり、指という同一性概念に入る。しかし、英語では、親指(同一性)の対象は、「指」a fingerではない。
 これは、対象としての親指の同一性は、英語と日本語では成立しないことになるだろう。親指は、「指」(同一性)ではないのである。
 そうすると、この場合、同一性とは何か、という問題が生じるだろう。親指は、同一性ではないということになるのである。同一性の破綻がここにあるだろう。
 すると、すぐ考えられるのは、親「指」とは、仮象の同一性ではないかということである。ないしは、仮構の同一性ではないかということになる。(さらに極端化すれば、幻想の同一性ではないか、となるだろう。この点はおいておく。)
 つまり、「指」という実体をもった同一性が存するのではなく、仮象・仮構として、「指」という同一性があるのではないのか、ということである。言い換えれば、バーチャルなものとして、乃至は、シミュラクラとして同一性が存するのではないのか、ということになる。
 この問題は実に伝統的な問題でもあり、たとえば、見立てということも、これに関係するだろう。いったい、見立てとは何か。やはり、仮象であるが、そのものとして、認知するということである。
 そうならば、この仮象認識とは何なのだろうか。思うに、主体・主観性において、同一性形式があるのであり、その同一性形式を対象に当てはめる認識行為のことではないのか。
 「指」の場合は、「指」という同一性形式を対象の親指に、いわば、投影すると考えられる。つまり、内的な心的な観念として、同一性形式があると言えるのではないだろうか。だから、これは、観念論の勝利である。フッサールの志向性の概念通りである。
 だから、同一性とは、仮象・仮構的同一性であるということになる。結局、同一性志向性ないしは同一性構造に基づく志向性が基盤にあるということである。つまり、超越論的主観性である。同一性主観性と言ってもいいだろう。
 しかし、これは、当然、内的な差異、外的な差異を否定・排除したものである。内的な同一性志向性に基づいて、外的な差異(特異性)を同一性化するのであり、同一性志向性は、また、内的な差異(特異性)を同一性化しているのである。
 この同一性志向性を、これまで、連続的同一性と呼んできた。これは、差異を否定しつつも、差異と連続している同一性への志向性というものである。差異を否定・抑圧・排除・隠蔽することが、差異との連続性を保持しているのである。
 主題にもどると、仮象同一性とは、観念性であるから、物質的実体性はないということになるだろう。ここで、同一性としての物質との関係が問題になる。
 古典物理学は、同一性としての物質を基礎としていた。しかし、これが、相対性理論や量子力学において、崩壊したと言えよう。前者では、観測地点によって、ある対象の速度等が異なるのであるし、後者では、位置と速度の数値が同時に決定できないことになったのである。
 だから、現代物理学においては、やはり、同一性の物質ではなくて、仮象の同一性としての物質概念が生まれたと言えよう。
 そうすると、同一性とは、少なくとも、仮象的同一性と見るのが適切であると言えよう。だから、仮象としての現象というイデア論的視点が現代的に、正当化されると言えよう。
 そうすると、同一性を包摂する差異共振性という概念はどうなるだろうか。結局、仮象である同一性現象を包摂する差異共振イデアという理論になるだろう。
 そして、これを量子論的に言えば、仮象同一性物質を包摂する差異共振イデアが量子・素粒子であるということになるだろう。
 そう、量子・素粒子とは、端的に、物質ではないのである。それはイデアなのである。あるいは、イデア的エネルギー(いわば、イデネルゲイアないしはイデネルギー)である。(後で、イデアとイデア的エネルギーの区別を明晰にしたい。)
 それでは、いったい何がそこから帰結されるのか。それは、いわゆる、現象なしいは現実とは、多様な仮象同一性現象であり、複数現象であるということではないだろうか。ありていに言えば、個Aと個Bが見る現象世界は異なるということである。個Aの現象世界Aと個Bの現象世界Bが存するということである。この二つの現象世界は、端的に、同一ではないということになろう。
 いわば、複数多数現象世界があるということになるだろう。そして、それらは、相互に不連続ではないだろうか。個Aが見る桜の花と個Bが見る桜の花は一致しないだろう。確かに、桜の花という形式においては一致するが、個における桜の花の仮象同一性は、相互に一致しないのではないだろうか。なぜなら、個においては、仮象同一性は、個独特の構成があると考えられるからである。たとえば、私が、バッハ音楽を聴くときは、私の中の経験の蓄積において、聴くのであり、その経験の多様性の構成の中におけるバッハ音楽となるのであり、それは、単純な仮象同一性バッハ音楽ではないのである。特異性における仮象同一性バッハ音楽である。
 言い換えると、仮象同一性は、特異性化されているのである。特異な仮象同一性なのである。そして、特異な仮象同一性とは、端的に、特異的個体ではないだろうか。
 そう仮定して考察を続けると、たとえば、アリストテレスの形相とはどうなるだろうか。それは、仮象同一性形式ではないだろうか。そう、アリストテレスの「形而上学」は、既に近代主義的である。そこには、特異性が抜けているのである。
 ここで、プラトンのエイドスないしはイデアとについて考えると、それは、特異的同一性形式ではないだろうか。これは、ほとんど、フッサールの超越論的主観性形式であろう。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point的同一性形式である。
 思うに、プラトンのイデアは、この面と差異共振性の両面が混淆していると思われるのである。たとえば、善のイデアは、後者であると思われる。また、花のイデアや机のイデア等は、前者だと思われる。
 いわば、超越論的構造主義者としてのプラトンと、超越的構造主義者(超越的差異主義者)としてのプラトンが存すると思える。『国家』における芸術家を追放したプラトンは、前者であり、いわば、悪しきプラトンである。
 では、最後に、ヒンズー教やインド哲学で言われるマーヤーについて考えてみたい。そこに、幻想としての同一性という主題も含めたい。
 まやかしとしての現象という考えでもある。仮象と幻想は似たものがある。しかしんがら、たとえば、オフィスの窓外に見える桜の木であるが、これは、仮象であるが、さらには、幻想であるのだろうか。
 幻想とは、空想的であり、非現実的であろう。しかし、桜の木は仮象とは言え、現実的である。だから、幻想としての同一性ということは言えないと思われるのである。
 補足として、仮象の同一性について考えると、仮象は変動・流転・流動等するので、流動仮象とも言えるだろう。だから、仮象としての同一性は、生成流転するものとなる。だから、幻想とまでは言わないしても、幻的とは言えるだろう。そうすると、仮幻象としての同一性となるだろう。
 この意味では、仮象はマーヤーと言えようか。


2008年04月08日(Tue)▲ページの先頭へ
日本の政治の様態:自由主義、民主主義、国家主義、被植民地主義:差異民主自由主義へ向けて
日本の政治の様態:自由主義、民主主義、国家主義、被植民地主義:差異民主自由主義へ向けて

テーマ:自由主義・民主主義・全体主義・独裁主義

以下の大規模店の問題は、日本の政治層の構成を考えるのに役立つ。
 結局、1)財界型政治層、2)官僚主導型政治層、3)アメリカ中心的政治層、4)民主主義的政治層、他があるのだろう。
 1〜3は亡国売国層でもある。問題は政官財+米国の複合体になっていることである。
 これらの政治層は、国家集権主義(官僚制)と大資本中心的自由主義と米国中心主義の複合体であるが、これらに共通するのは、端的に、父権的同一性合理主義ないし同一性価値中心主義(ロゴス中心主義)である。
 民主主義は従位であり、イデオロギーとして使用される。例えば、ブッシュのイラク民主化政策である。端的に、今日、政治理念では、自由主義、民主主義、国家主義の三つが主要な構成要素であるが、自由主義と国家主義が癒着していて、自由国家主義とでもいうものになっている。
 日本では、国家主義にアメリカ中心主義が結びついているのだろう。だから、日本では、自由主義、民主主義、国家主義、被植民地主義の四つが存していて、民主主義は従位的な位置に貶められている。(これには、いろいろ問題があるが、ここでは言わない。)
 結局、自由主義・国家主義・被植民地主義の複合体が政治の中心であり、それらは、父権的同一性主義である。近代合理主義と言ってもいいだろう。【ただし、自由主義の場合は、近代自由主義と言うべきである。トランス・モダン自由主義の場合は、差異共振主義になると考えられる。】
 とは言え、正確には、大資本主義的自由主義・国家集権主義・被植民地主義の複合体、いわば、三重苦である。そして、思想的には、父権的同一性中心主義(ロゴス中心主義)である。
 ここには、恐ろしいばかりに、差異がないのである。ほとんど、全体主義に近いと言えよう。その複合体には、マスメディアが入るが、それが実質的に情報コントロールしているのである。
 結局、民主主義は普通選挙や代議制という形式があるだけであり、民主主義を精神的に支える差異価値がほとんど見られないのである。
 結局、支配的な複合体は、同一性中心主義で動いているので、差異価値のことがわからないのである。だから、個民ないしは差民が覚醒して、政治を動かして、自らを救済するしかないだろう。
 差異民主主義ないしは差異自由主義を実現する政治を形成する必要があるだろう。略して、差異民主自由主義である。乃至は、差異共同体自由主義である。
 差民一人一人が政治を動かす気概をもつ必要があるのである。近代主義的同一性中心主義からトランス・モダン差異価値へと転換させることがポイントである。
 
******************

郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、それを中央(東京)
に持って行ってしまう。地元から、商品を仕入れるわけでもない。

2008年4月4日 金曜日
郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、
それを中央(東京)に持って行ってしまう

◆地方都市の商店街の衰退は「格差」の象徴 1月11日 高根文隆

 仕事柄、地方都市によく出かけます。そして、ほぼ例外なく、壊滅状態となった駅前の商店街を目撃します。その度に、哀しいような切ないような感覚に襲われます。
 
 私が生まれ育ったのは山口県の中堅都市で、20年ほど前までは、中心部は県内有数の賑わいでした。

 小さい頃、両親の手を握りドキドキしながら歩いた目抜き通りの賑わい、暖かい人情や独特の雰囲気を発散させていた商店街の人たち…。

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080404

株式日記と経済展望


検討問題:諸考察:1)「気」とは何か:2)心の病と国家集権主義的似非改革、等々

テーマ:検討問題

1)「エーテル体」ないしは「気」(気エネルギー)とは何か

2)心の病と国家集権主義的「新自由主義」との関係:心の病の蔓延は単に内因だけのことではないと考えられる。外因として、国家集権主義(国家統制主義=官僚制)による「新自由主義的構造改革路線」による反民主主義の実態があると考えられる。

3)太母と太父:陰陽と陽陰:これは先に述べた、まったくの思考実験であるが、父権的一神教とは母権的多神教の反転であり、基本は太母主義であり、結局、今日、太父主義が失われているのではないのか。太父主義は、陽から陰、同一性から差異へと転移する志向性である。
 先に述べたが、聖書において、ヤハウェが太母の反転であり、エローヒームが太父ではないのか。二つの原神があるのはないのか。
 精緻な検討を後で行いたい。

4)ラディカルな差異主義の可能性:私は同一性を包摂する差異(差異共振主義)を唱えているが、同一性を仮象と見る立場からすると、いわば、差異絶対主義が考えられるだろう。プラトン哲学には、この面が見られる。現象への強い懐疑である。
 結局、問題は、同一性とは何か、ということになる。有り体に言えば、果たして、同一性とは幻想ではないのか、という疑問が浮かぶということである。これは、ヒンドゥー教を含めたインド哲学や仏教の考え方に近い。
 そう、端的に言えば、現象はマーヤーであるという問題である。これは、また、「見る」とは何かという問題でもある。また、物質感覚身体の問題でもある。
 情の問題でもある。情はエネルギーの取得の欲望がある。本来的に欠落しているのである。現象化とは、エネルギーの不足の事態であり、エネルギー獲得がいわば生存の意味である。
 このエネルギー獲得の方法が人類の知を発達させたと言えよう。これは、当然、戦争の発展も意味するのである。
 内的なエネルギーの不足とは、根源的なルサンチマンを意味するだろう。とまれ、端的に、同一性とは何か、である。


2008年04月07日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:諸考察:再差異化によるMedia Point感覚の形成:精神界という高次元の発現
いろいろ考えたいことがあるが、メモしておかないと忘れてしまう。しかし、とても重要な問題であるので、論述すると時間がかかる。

1)感覚(感覚身体)と精神:同一性感覚と差異感覚:物質感覚と精神感覚::同一性感覚とは物質感覚であり、いわゆる、五感である。それに対して、差異が肯定されると差異感覚=精神感覚が生起するのではないだろうか。思うに、差異と同一性の未分化様態が最初にあるが、同一性が独立した後、再差異化が起るのである。再帰である。しかし、もはや、未分化ではなくて、純粋な差異化である。
 私が問題にしたいのは、物質身体的にはどういうことなのか、ということである。同一性=物質=感覚(器官)において、差異化が起るとはどういうことなのか、ということである。
 それは、抑圧されていて差異が発現するということであり、Media Pointが開くということである。同一性ー同一性ー同一性ー同一性ー・・・という様式から差異ー同一性ー差異ー同一性ー差異ー・・・という様式へと変換することと考えられる。
 差異は超越性・精神性・差異共振性を意味する。それは、Media Point感覚と言えるのではないだろうか。私が性格相貌と呼んだものも、このMedia Point感覚、この場合は、Media Point視覚というものになるだろう。再差異化とは、Media Pointの発現である。「天の岩戸」の再開扉である。
 シュタイナーの精神科学とは、この意味からは、間違っていないと思われるのである。とまれ、精神界(イデア界・魂界)が高次元として、発現することになると言えよう。
 プラトニック・シナジー理論は精神哲学科学である。精神哲学数理科学である。
 

2)視覚とは何か:あるいは感覚とは何か:精神的感覚を認めると、認識が劇的に変化するのではないだろうか。同一性中心主義においては、物質的な五感が基本であるが、再差異化が起ると、差異エネルギーが発現して、差異感覚が新たに生じる。【思うに、深い芸術家は、これを表現してきたのである。ロマン派・象徴派の詩人、等々】
 差異エネルギーは五感を変容すると思われる。精神的五感となるだろう。精神的視覚、精神的聴覚、等。心眼、心耳、等である。ここでは、もっとも興味深い視覚について考察しよう。
 精神的視覚とは、差異共振視覚と言えるのではないだろうか。私がたとえば、車窓から銀嶺を眺めていたとする。私は銀嶺に引きつけられ、私は銀嶺と「一つ」(一如)になる。この「一つ」という感覚が差異共振感覚であり、この場合、差異共振視覚である。
 図式化すると、

「わたし」(差異)〜共振(「一つ」)〜「銀嶺」(差異)

となるだろう。単に同一性視覚の場合を図式化すると、

「わたし」(同一性)ー空間(遠近法)ー「銀嶺」(同一性)

となるだろう。「わたし」は客体である「銀嶺」を見ているのである。
 同一性視覚においては、同一性の関係であったが、差異視覚の場合は、差異が入って、差異共振化するのである。つまり、物質感覚+差異感覚であり、先に述べたように、即非様態が発現するのである。即ち、「わたし」は「わたし」であり、「銀嶺」ではないが、同時に、「わたし」は「銀嶺」であり、「銀嶺」も「わたし」である。
 即認識は、共振認識であり、これが、新しい情である。共振情・共鳴情・交響情と言ってもいいだろう。
 思うに、神秘主義者は、この即認識を強調したのである。例えば、「一体感」・コスモス感覚である。確かに、連続性の向きがないことはないが、しかし、積極的に理解するならば、即認識である。(今日、日本人、とりわけ、東京人に欠落しているのは、この認識だと思われる。)
 また、超越光であるが、それは、「わたしの視覚」(差異)と太陽光(差異)とが共振して、視覚するものではないだろうか。そう、「わたしは白い光と一体である」ということではないだろうか。また、崇高な夕焼けに吸い込まれるように見蕩(みと)れる場合、「私は夕焼けと一体である」ということだろう。
 ここで、特に私事になるが、思えば、物心ついてから、この共振視覚ないしは共振感覚を私はもっていたことになる。幼稚園の頃は、不思議にも、壁にかかっていたカレンダーの雪の情景に吸い込まれてしまった感覚をもったし、また、小学生の頃は、電線の鳥と一体化感じをもった。いわば、弱いシャーマニズムである。魂が対象に飛んでしまうのである。
 その後、学校の勉強に追われていたが、疲れたとき、晴天の時は、トタン屋根に寝そべって碧空を見つめて、空の青さに吸い込まれていたし、また、通学路において、農業地帯であったので、春青々とした水田と新緑の防風林に心が溶け込む美的快感をもったものである。
 このいわば神秘的感覚は、今でも残っているが、かつてほど、強くはない。
 とまれ、神秘的感覚とは、今や、精神的感覚、差異共振的感覚として、肯定することができるのである。結局、森羅万象は、精神性に満たされているのである。かつて、古代ギリシアの哲学者タレスが、すべては神々に満たされていると言ったが、それは正しいのである。神々とは差異であり精神である。
 ところで、今日、心の病が蔓延しているが、既述したように、差異共振エネルギー・精神エネルギーが今日賦活されていると思われるのである。近代主義的な同一性主義意識では、これを把捉することができずに、その「ダーク・エネルギー」に翻弄されるように思われるのである。それは安易に扱うことは危険である。不連続なものとして、扱うべきである。連続的意識のままでは、混乱させられるのである。
 話しが脱線したが、今日、新しい感覚、差異感覚、精神感覚が生じてきていると思われる。それは、新しい情でもある。後で、霊学との関連を考察してみたい。

3)物質と生命体について

4)(再掲)先に、差異と同一性の未分化様態において、差異において苦・悲哀を感じて、同一性=自我がルサンチマン(怨恨)を感じると述べたが、苦・悲哀を感じる箇所は、差異でいいのか、と疑問が浮かぶのである。
 また、この問題は、同一性鏡像の問題とも関係するだろう。後で、再検討したい。


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