INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/04/21

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年04月21日(Mon)▲ページの先頭へ
癌化抑制遺伝子と差異共振性:霊主体従と健康ver2
(最初に書いたものが支離滅裂だったので、書き直すことにする。)
健康維持とは差異共振性(差異共振エネルギー)によると考えると、病気とは、その否定である連続的同一性主義であることになるだろう。
 この考え方は、いわば、霊主体従(精神が主であり、肉体が従である)という考え方に通ずるだろう。(とは言え、病気の場合は、通常の物質的医学にかかることを私は勧める。この点については後で検討したい。)
 以下の記事に適用すると、癌化抑制遺伝子「p53」は、差異共振性と関係すると思われる。そして、連続的同一性主義(自我主義)の場合、⇒-1でこれが癌化と関係するということになるだろう。
 精神と肉体の関係は複雑であり、簡単には霊主体従とは言えない。ここでは、遺伝子と精神性のなんらかのつながりを示唆するに留めるものである。
 私は霊的治療はありえると思うが、基本的には、物質的医学を奨める。何故なら、物質的身体とは本来、精神的身体(霊的身体・魂的身体、つまり、 Media Point身体)であり、物質的医療は、その精神的身体の物質的末端に作用して、精神的身体を正常化すると思われるからである。つまり、霊主体従という言い方は語弊があるというか、ミスリーディングである。即ち、霊自体がMedia Pointにおいて、身体化するのである。そして、この身体を物質的医療が治癒すると考えられるのである。推測するに、物質的治療が、精神的身体の末端の物質的身体を介して、精神的身体を正常化するのである。
 もし、霊的治療(例えば、祈祷)を主にすると、この末端の物質的身体に関与することができずに、物質的身体が悪化して、病状が悪化すると考えられる。

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<がん細胞>増殖加速遺伝子を解明 日医大チーム

4月20日22時15分配信 毎日新聞

 がん細胞がエネルギー源であるブドウ糖を取り込む一連の仕組みを、日本医科大の川内敬子助教と田中信之教授(分子生物学)らが発見した。この仕組みを遮断する薬剤を開発すれば、「兵糧攻め」でがん細胞の増殖を抑えられることになる。

 研究チームは、細胞が、がん化するのを抑制する遺伝子「p53」に注目した。マウスの細胞でp53を除去すると、がん化するだけでなく、別の遺伝子「NFκB」の働きが活発になっていることに気付いた。

 詳細に調べると、NFκBが、がん細胞のエネルギー源であるブドウ糖を取り込む別のたんぱく質を増やし、がん細胞の増殖を加速させることを突き止めた。p53が働かなくなると、NFκBが活性化し、がん細胞へのエネルギー供給が進み、増殖するという流れを解明した。また、正常な細胞では、がん細胞の増殖に不可欠なブドウ糖分解を起こすNFκBの働きを、p53が「ブレーキ役」となって抑制している仕組みもわかった。田中教授は「p53の機能を回復したり、NFκBの機能を抑えれば、新しいがん治療薬の開発につながるだろう」と話している。英科学誌ネイチャー・セル・バイオロジー(電子版)で発表した。【奥野敦史】
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080420-00000080-mai-soci


検討問題:イデア知性とイデア界の関係について
先にイデア知性とは、エネルギーを包摂している知(理念知性)であると言ったが、そうすると、イデアとMedia Pointとイデア知性とのかんけいはどうなるのだろうかと思うのである。
 イデアは虚軸上の超越的差異の様相である。問題は、イデア界とMedia Pointとの関係を明確にすることである。言い換えると、イデアとイデア・エネルギーとMedia Pointとの関係はどうなのか、である。また、私がいうイデア知性との関係はどうなのかである。これは、実に根本的な問いである。
 今は余裕がないので、検討できないが、一言いうと、イデア・エネルギー(エネルゲイア)は、Media Pointで発生するだろう。しかし、同時に、同一性志向性が発生する。正確に言えば、連続的同一性志向性が発生するのである。だから、通常、このイデア・エネルギーを同一性的に捉えてしまうのである。
 しかし、私が言うイデア知性とは、イデア・エネルギーを同一性とは不連続なものとして捉える知性である。だから、不連続的知性、即非的知性とでも呼べるものである。ここが大ポイントなのである。これを知性的に捉えたのは、これまで、鈴木大拙とウスペンスキー、他くらいであろう。(しかしながら、真の民衆はこれを直感的に捉えているものである。霊性である。)
 そう、一神教は、この、本来、不連続的なイデア知性を、同一性化してきたのである。とりわけ、キリスト教である。
 やや飛躍するが、ルネサンスとは、Media Pointにおけるイデア・エネルギーの発露であったろう。しかし、プロテスタンティズムの勃興によって、それが同一性化されたと思われる。もっとも、ルネサンス自体においても、自然発生的な連続性はあったろうが、プロテスタンティズム的な抑圧はなかったろう。近代西欧史は、この差異と同一性との争闘である。
 近代において、最初にイデア知性に近づいたのは、思うに、シェリングではなかったろうか。彼の同一性哲学と呼ばれるのは、実は、イデア知性哲学ではないだろうか。そう、シェリング以前では、スピノザとライプニッツをあげるべきだろう。また、ジョルダーノ・ブルーノ、他もあげるべきだろう。(思うに、ヘーゲル哲学は、Media Pointの原同一性を捉えているように思う。だから、観念論なのである。)
 では、端的に、イデア知性とは何か。それは、Media Pointがもつ純粋知性ではないだろうか。Media Point純粋知性ではないのか。
 同一性主義に囚われていると、イデア・エネルギーは非合理的になる。しかし、不連続化すると、純粋イデア・エネルギー=ディオニュソスになる。そして、そこに、イデア知性が生起すると思う。つまり、イデア知性とは、純粋イデア・エネルギーが内包する知性ではないのか。すると、これまで言ったのは逆に、エネルギーが知性を包摂するのではないのか。これまでは、エネルギーを包摂した知性と言ったので有る。
 思うに、純粋イデア・エネルギーとイデア知性とは同じものなのではないのか。つまり、後者はデュナミスではないのか。イデア・デュナミスである。知・即・エネルギーとしてのイデア知性ではないのか。後でさらに検討したい。


   




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