INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/04/13

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年04月13日(Sun)▲ページの先頭へ
フッサール現象学とハイデガー存在論と構造主義とポスト・モダンの関係:PS理論の視点から(修正版)
PS理論の視点から諸哲学の秩序化を試みているが、これまでかなり混乱を起している。以下も一試論であるが、構成を整合化するためには、試行錯誤が必要である。ラディカルにチャレンジすること、リスクを冒すことである。

 差異共振理性(正確に言えば、超越的差異共振理性)であるMedia Pointを自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における⇒とすれば、フッサール現象学は、この⇒で表記できるだろう。ハイデガー存在論は、作業仮説であるが、⇒の先端ではないだろうか。つまり、虚軸性(超越性)を喪失したMedia Point、換言すると、Media Point自体の終点であり、そこから同一性志向性が発生する始点である。つまり、⇒同一性志向性→+1における、⇒の先端と同一性志向性との境界ではないだろうか。図示すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→+1

の★が存在ではないだろうか。
 そして、構造主義であるが、それは、同一性志向性→☆+1の☆に当たるのではないだろうか。つまり、同一性志向性と同一性の境界としての構造である。以上の図式を整理すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

となる。⇒がフッサール現象学、★がハイデガー存在論、☆が構造主義である。
 次に、ポスト・モダン哲学を考えてみよう。デリダの脱構築主義とドゥルーズ(&ガタリ)の差異哲学で代表させよう(後期デリダやジャン=リュック・ナンシーの哲学は、トランス・モダン哲学と見るべきだと考える)。
 ポスト・モダン哲学は、明らかに、構造主義を出発点にした哲学であり、それの深化や進展と言えるだろう。だから、ポスト構造主義という用語は不正確である。
 以上の図式から、構造主義は、☆である。そして、ポスト・モダンの「差異」(ここに、差延も含める)であるが、デリダの差延は、ハイデガーの存在と構造主義の二重性のズレを意味しているのはないだろうか。★と☆のズレである。
 そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、⇒★同一性志向性→☆において、牽強付会に、知的に不誠実に、⇒★と同一性志向性を同一視したものだと思われるのである。この同一視が、いわば、連続的差異というキメイラを生んだと考えられ、ドゥルーズ哲学全体が、グロテスクに誤謬に満ち満ちたものになったと考えられるのである。
 つまり、⇒★があるから超越性や存在性をもつし、同時に、
同一性志向性→☆、即ち、同一性志向性(おそらく、カントの超越論的形式)と構造主義をもつのであり、途方途轍もない、奇妙奇天烈な哲学になったと考えられる。非常にもつれた哲学になっていると考えられる。言い換えると、フッサール現象学あり、ハイデガー存在論あり、カントの超越論哲学あり、構造主義ありで、不誠実な混淆様態なのである。(こうなった原因は、ドゥルーズ自身の知性に問題がある。一流の知性ではありえない。二流・三流である。ただし、感性はあったと言えよう。それで、文学の引用が多いと考えられる。)
 さて、以上の図式で、→の意味が抜けているので、考察しよう。同一性志向性→☆同一性において、☆が構造主義ならば、→はその力動性を意味するのではないだろか。つまり、力動的構造主義ではないだろうか。おそらく、情動的構造主義と言えるのかもしれない。以上で、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

の説明が終ったが、ここでまとめて整理すると、

1) (+i)*(-i)は差異共振性、イデア・魂・精神
2)⇒はMedia Pointないしはフッサール現象学
3)★はハイデガー存在論の存在
4)同一性志向性はカントの超越論的形式
5)→は力動的構造主義
6)☆は構造主義
7)+1は同一性(自己同一性、自我)

となり、3と6のズレがデリダの差延哲学、2〜6の混淆がドゥルーズの差異哲学となる。
 さて、後、身体性の問題がある。メルロ=ポンティの身体現象学をどう考えるのか、ということになる。あるいは、-1の問題がある。
 先に、差異的身体ということを言った。つまり、Media Pointにおける身体が考えられるのである。ここは、イデア=差異共振性があるが、その魂・精神とは、差異共振的身体を形成因だと思われるのである。
 問題は、魂・精神とは何かということにもなる。有体(ありてい)に言えば、直感で言えば、魂・精神とは、また原身体なのである。物質的身体とは、現象化過程において、発生するのである。Media Pointにおいて、原身体が(物質的)身体化すると言えよう。
 だから、端的に言えば、イデア・魂・精神とは、魂的原身体、精神的原身体と言えよう。そして、Media Pointにおいて、物質化が開始されるのである。だから、Media Pointとは、イデア的身体、魂的身体、精神的身体と言えるだろう。
 そして、連続的同一性化によって、精神と身体が二元論化(心身二元論)されると言えよう。だから、メルロ=ポンティの身体現象学とは、精神的身体である Media Pointを捉えようとした試論であると思う。そして、精神と身体の両義性を把捉したと考えられるが、Media Pointのもつ即非性、差異と同一性の即非性の理解までは達しなかったと思われる。
 次に、-1の問題であるが、これは、端的に、難問である。+1は自我、自己同一性である。先に想起したことは、-[(+i)*(-i)]⇒-1という数式である。つまり、自己認識方程式における左辺、差異共振性の否定が、-1になると考えられるのであり、それは、差異共振性の否定であるから、自我中心主義、自己同一性中心主義ではないだろうか。近代合理主義/近代的自我主義は、そう考えられるのではないだろうか。
 そう作業仮説すると、近代主義の世界は、-1と+1の二重性の世界である(参照:双魚宮)。近代合理主義/近代的自我主義と差異共振的自我主義の二重性であり、この間に民主主義、自由主義が存していると言えよう。簡単に言えば、同一性主義と差異主義の二重性の世界である。
 今日、グローバル経済は、+1を否定して、-1に邁進しているのである。これは、差異主義の破壊となっているのである。もっとも、差異共振主義は、技術革新という側面では進展しているだろうが。
 端的に、-1とは、倒錯であり、精神病理である。闇・無明である。ジェンダー論的に言うと、-1は父権主義であり、Media Pointが母権主義であり、+1は、父権主義と母権主義の超克である、いわば、両権主義ないしは新母権主義ではないだろうか。
 最後に神秘主義・オカルト主義について言及しよう。今日では、スピリチュアルなものとして流行しているが、それを明確にしておく必要があるだろう。
 先には、-1が神秘主義ではないかと言ったが、それは、間違いということになっった。では、神秘主義はどこに位置しているだろうか。
 それは、霊的な融合体験を意味するだろう。霊とは、Media Pointのイデアのことである。そして、そこには、差異共振性がある。しかしながら、差異共振性は、融合ではないのである。それは、即非感覚認識である。
 端的に、神秘主義の場合は、同一性主義=自我主義が崩壊すると考えられる。つまり、±1が消滅すると考えられる。これは、思うに、一種先祖返りなのである。つまり、Media Pointへの反動的回帰なのである。これは、螺旋的回帰とは区別されなくてはならない。同一性=自我の形成以前のMedia Pointへの退行である。幼児・胎児への回帰、子宮回帰である。
 反動ではあるが、これは、-1の近代合理主義/近代的自我主義に対する反動である。(参照:懐かしい、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』)つまり、一種、同一性主義に対する、原差異の反抗・反逆と言えないことはないだろう。いったい何がここでは問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義=物質主義化に対するイデア・精神・魂・超越性の側からの無意識の、いわば、本能的な反抗・反逆である。これは、情動的である。知性的ではないのである。ここに問題がある。
 反近代主義的な芸術家の多くは、神秘主義的である。モームの『月と六ペンス』の主人公の身体的霊性もそうである。シャガールの絵画もそうである。もっとも、そこには、根源的な差異共振性があるのである。これは確認しなくてはならない。
 だから、結局、イデア論がここで登場する必要があるのである。近代主義は、精神次元を否定してきた。古代、中世、ルネサンスと精神次元を確認してきたのであるが、それが、近代主義において、否定されたのである。形而上学の否定ということに現われている(形而上学の問題は、それを経験性から独立させてしまうことだろう。本来は、形而上学とは、経験性と結びついているのである。)イデア論を仮説することで、精神の無意識な、本能的な反抗的な情動は、イデアによって、知的に包摂されることになると考えられる。
 それによって、精神は知性的となり、情動性は知的に抑制されることになるのである。そのイデア的知性であるが、知性とは本来、同一性的なものである。だから、近代主義のもつ同一性主義ではなく、近代的同一性、近代合理性、物質的合理性をも包摂したイデア知性がここに生起すると考えられるのである。これは、先にも述べたが、Media Point 知性と言えよう。
とまれ、言い換えると、神秘主義やオカルト主義は、ゼロ度のMedia Pointの様態と言えるのではないだろうか。


フッサール現象学とハイデガー存在論と構造主義とポスト・モダンの関係:PS理論の視点から
PS理論の視点から諸哲学の秩序化を試みているが、これまでかなり混乱を起している。以下も一試論であるが、構成を整合化するためには、試行錯誤が必要である。ラディカルにチャレンジすること、リスクを冒すことである。

 差異共振理性(正確に言えば、超越的差異共振理性)であるMedia Pointを⇒で表記すれば、フッサール現象学は、この⇒で表記できるだろう。ハイデガー存在論は、作業仮説であるが、⇒の先端ではないだろうか。つまり、虚軸性(超越性)を喪失したMedia Point、換言すると、Media Point自体の終点であり、そこから同一性志向性が発生する始点である。つまり、⇒同一性志向性→+1における、⇒の先端と同一性志向性との境界ではないだろうか。図示すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→+1

の★が存在ではないだろうか。
 そして、構造主義であるが、それは、同一性志向性→☆+1の☆に当たるのではないだろうか。つまり、同一性志向性と同一性の境界としての構造である。以上の図式を整理すると、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

となる。⇒がフッサール現象学、★がハイデガー存在論、☆が構造主義である。
 次に、ポスト・モダン哲学を考えてみよう。デリダの脱構築主義とドゥルーズ(&ガタリ)の差異哲学で代表させよう(後期デリダやジャン=リュック・ナンシーの哲学は、トランス・モダン哲学と見るべきだと考える)。
 ポスト・モダン哲学は、明らかに、構造主義を出発点にした哲学であり、それの深化や進展と言えるだろう。だから、ポスト構造主義という用語は不正確である。
 以上の図式から、構造主義は、☆である。そして、ポスト・モダンの「差異」(ここに、差延も含める)であるが、デリダの差延は、ハイデガーの存在と構造主義の二重性のズレを意味しているのはないだろうか。★と☆のズレである。
 そして、ドゥルーズの差異であるが、それは、⇒★同一性志向性→☆において、牽強付会に、知的に不誠実に、⇒★と同一性志向性を同一視したものだと思われるのである。この同一視が、いわば、連続的差異というキメイラを生んだと考えられ、ドゥルーズ哲学全体が、グロテスクに誤謬に満ち満ちたものになったと考えられるのである。
 つまり、⇒★があるから超越性や存在性をもつし、同時に、
同一性志向性→☆、即ち、同一性志向性(おそらく、カントの超越論的形式)と構造主義をもつのであり、途方途轍もない、奇妙奇天烈な哲学になったと考えられる。非常にもつれた哲学になっていると考えられる。言い換えると、フッサール現象学あり、ハイデガー存在論あり、カントの超越論哲学あり、構造主義ありで、不誠実な混淆様態なのである。(こうなった原因は、ドゥルーズ自身の知性に問題がある。一流の知性ではありえない。二流・三流である。ただし、感性はあったと言えよう。それで、文学の引用が多いと考えられる。)
 さて、以上の図式で、→の意味が抜けているので、考察しよう。同一性志向性→☆同一性において、☆が構造主義ならば、→はその力動性を意味するのではないだろか。つまり、力動的構造主義ではないだろうか。おそらく、情動的構造主義と言えるのかもしれない。以上で、

(+i)*(-i)⇒★同一性志向性→☆+1

の説明が終ったが、ここでまとめて整理すると、

1) (+i)*(-i)は差異共振性、イデア・魂・精神
2)⇒はMedia Pointないしはフッサール現象学
3)★はハイデガー存在論の存在
4)同一性志向性はカントの超越論的形式
5)→は力動的構造主義
6)☆は構造主義
7)+1は同一性(自己同一性、自我)

となり、3と6のズレがデリダの差延哲学、3〜6の混淆がドゥルーズの差異哲学となる。
 さて、後、身体性の問題がある。メルロ=ポンティの身体現象学をどう考えるのか、ということになる。あるいは、-1の問題がある。
 先に、差異的身体ということを言った。つまり、Media Pointにおける身体が考えられるのである。ここは、イデア=差異共振性があるが、その魂・精神とは、差異共振的身体を形成因だと思われるのである。
 問題は、魂・精神とは何かということにもなる。有体(ありてい)に言えば、直感で言えば、魂・精神とは、また原身体なのである。物質的身体とは、現象化過程において、発生するのである。Media Pointにおいて、原身体が(物質的)身体化すると言えよう。
 だから、端的に言えば、イデア・魂・精神とは、魂的原身体、精神的原身体と言えよう。そして、Media Pointにおいて、物質化が開始されるのである。だから、Media Pointとは、イデア的身体、魂的身体、精神的身体と言えるだろう。
 そして、連続的同一性化によって、精神と身体が二元論化(心身二元論)されると言えよう。だから、メルロ=ポンティの身体現象学とは、精神的身体である Media Pointを捉えようとした試論であると思う。そして、精神と身体の両義性を把捉したと考えられるが、Media Pointのもつ即非性、差異と同一性の即非性の理解までは達しなかったと思われる。
 次に、-1の問題であるが、これは、端的に、難問である。+1は自我、自己同一性である。先に想起したことは、-[(+i)*(-i)]⇒-1という数式である。つまり、自己認識方程式における左辺、差異共振性の否定が、-1になると考えられるのであり、それは、差異共振性の否定であるから、自我中心主義、自己同一性中心主義ではないだろうか。近代合理主義/近代的自我主義は、そう考えられるのではないだろうか。
 そう作業仮説すると、近代主義の世界は、-1と+1の二重性の世界である(参照:双魚宮)。近代合理主義/近代的自我主義と差異共振的自我主義の二重性であり、この間に民主主義、自由主義が存していると言えよう。簡単に言えば、同一性主義と差異主義の二重性の世界である。
 今日、グローバル経済は、+1を否定して、-1に邁進しているのである。これは、差異主義の破壊となっているのである。もっとも、差異共振主義は、技術革新という側面では進展しているだろうが。
 端的に、-1とは、倒錯であり、精神病理である。闇・無明である。ジェンダー論的に言うと、-1は父権主義であり、Media Pointが母権主義であり、+1は、父権主義と母権主義の超克である、いわば、両権主義ないしは新母権主義ではないだろうか。
 最後に神秘主義・オカルト主義について言及しよう。今日では、スピリチュアルなものとして流行しているが、それを明確にしておく必要があるだろう。
 先には、-1が神秘主義ではないかと言ったが、それは、間違いということになっった。では、神秘主義はどこに位置しているだろうか。
 それは、霊的な融合体験を意味するだろう。霊とは、Media Pointのイデアのことである。そして、そこには、差異共振性がある。しかしながら、差異共振性は、融合ではないのである。それは、即非感覚認識である。
 端的に、神秘主義の場合は、同一性主義=自我主義が崩壊すると考えられる。つまり、±1が消滅すると考えられる。これは、思うに、一種先祖返りなのである。つまり、Media Pointへの反動的回帰なのである。これは、螺旋的回帰とは区別されなくてはならない。同一性=自我の形成以前のMedia Pointへの退行である。幼児・胎児への回帰、子宮回帰である。
 反動ではあるが、これは、-1の近代合理主義/近代的自我主義に対する反動である。(参照:懐かしい、コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』)つまり、一種、同一性主義に対する、原差異の反抗・反逆と言えないことはないだろう。いったい何がここでは問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義=物質主義化に対するイデア・精神・魂・超越性の側からの無意識の、いわば、本能的な反抗・反逆である。これは、情動的である。知性的ではないのである。ここに問題がある。
 反近代主義的な芸術家の多くは、神秘主義的である。モームの『月と六ペンス』の主人公の身体的霊性もそうである。シャガールの絵画もそうである。もっとも、そこには、根源的な差異共振性があるのである。これは確認しなくてはならない。
 だから、結局、イデア論がここで登場する必要があるのである。近代主義は、精神次元を否定してきた。古代、中世、ルネサンスと精神次元を確認してきたのであるが、それが、近代主義において、否定されたのである。形而上学の否定ということに現われている(形而上学の問題は、それを経験性から独立させてしまうことだろう。本来は、形而上学とは、経験性と結びついているのである。)イデア論を仮説することで、精神の無意識な、本能的な反抗的な情動は、イデアによって、知的に包摂されることになると考えられる。
 それによって、精神は知性的となり、情動性は知的に抑制されることになるのである。そのイデア的知性であるが、知性とは本来、同一性的なものである。だから、近代主義のもつ同一性主義ではなく、近代的同一性、近代合理性、物質的合理性をも包摂したイデア知性がここに生起すると考えられるのである。これは、先にも述べたが、Media Point 知性と言えよう。
とまれ、言い換えると、神秘主義やオカルト主義は、ゼロ度のMedia Pointの様態と言えるのではないだろうか。


   




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