INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/04/11

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年04月11日(Fri)▲ページの先頭へ
ショート=没入の二つの相:賦活された差異共振エネルギーの二つの非合理的衝動:パラノイアと全体主義
先に次のように書いたが、まだ、十分明晰になっていないので、さらに整理したい。

【ここで否定とショート(短絡)と没入の関係を整理しておきたい。否定とは、差異共振性の否定のことであり、連続的同一性化においては、同一性主義=自我主義を形成する。
 ショートとは、差異共振理性を自我主義が否定抑圧し、自我主義が中心化されることである。
没入とは、賦活された差異共振エネルギーに対して、自我主義が反動的な態度をとり、自我主義を過剰化すること、あるいは、差異共振エネルギーを連続様態において、肯定するために、差異共振性が連続化されて全体主義になることである。】
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10087388417.html

問題点は、いわば牽強付会の点である。否定が差異共振性の否定であるというのは、はっきり言っておかしい。否定は否定であり、説明はいらないのである。これがまず一点である。
 次に、ショートと没入の区別であるが、これは、以前は、区別しないで、同じ心的事象を意味する用語として用いたのである。それで問題ないと思えるので、そうしておきたい。
 簡単に説明すると、ショート=没入とは、差異共振エネルギー(差異エネルギー)を抑圧している同一性主義=自我主義が、活性化した差異共振エネルギーを抑圧し切れずに、エネルギーが衝動化して、同一性主義=自我主義の攻撃性が暴発することであり、他方、それとは逆方向に、活性化された差異共振エネルギーが同一性主義=自我主義に規制されて、全体主義化することである。


没入:自我主義における賦活された差異共振エネルギーに対する二つの態度:パラノイアと全体主義
以下もやはり、混乱している。寝不足が思考を鈍くさせているのかもしれない。
 ここで否定とショート(短絡)と没入の関係を整理しておきたい。否定とは、差異共振性の否定のことであり、連続的同一性化においては、同一性主義=自我主義を形成する。
 ショートとは、差異共振理性を自我主義が否定抑圧し、自我主義が中心化されることである。
没入とは、賦活された差異共振エネルギーに対して、自我主義が反動的な態度をとり、自我主義を過剰化すること、あるいは、差異共振エネルギーを連続様態において、肯定するために、差異共振性が連続化されて全体主義になることである。

*********************

http://ameblo.jp/renshi/
entry-10087355926.html
先の混乱した考察となった没入のテーマをここで新たに検討したい。

 混乱の一つは用語の不十分さによる。即自的他者と対自的他者と言ったが、前者は即自的自己+iであり、後者は即自的他者-iと言わなくてはならない。
 没入とは、即自的他者や対自的他者に没入するということになろう。これは、いったいどういうことなのだろうか。自己認識方程式は、差異共振性を内包した自我=自己同一性であり、自我主義=同一性主義ではない。自我主義において、没入が可能になるのである。
 自我主義が起るには、自己認識方程式の左辺が抑圧される必要があるだろう。思うに、自我主義も一つの没入であろう。この力学を考えたい。
 まず、否定と没入を区別する必要があるのではないだろうか。自我主義は差異の否定によるのであり、差異の否定が、同時に、差異への没入となる事態ではないのか。
 これは、連続的同一性の様相と言えるのではないだろうか。差異共振性から連続的同一性へと転化するとき、差異共振性を否定する。しかしながら、この否定は抑圧でもあるが、そのとき、連続性において、差異共振性とショートするのではないのか。このショートが没入ということと考えられる。
 思うに、否定/ショートとは、反動である。差異共振性の否定的様態、つまり、苦・悲哀に対して、反動的に反射することである。
 では、反動とは何だろうか。反動とは、差異共振様態から差異否定様態になったとき生起する否定感情エネルギーのことではないだろうか。この否定感情エネルギー(ルサンチマン)は、攻撃的なエネルギーであると言えよう【フロイトの死の欲動とは、これで説明できるだろう】。
 思うに、連続的同一性は差異共振性の肯定的様態(歓喜)の場合と否定的様態(苦悲)の場合があり、前者は、差異(他者)を残していて、後者は、差異(他者)を抑圧否定するだろう。(宗教的に言えば、前者が多神教であり、後者が一神教である。)
 さて、没入・ショートの場合であるが、それは、後者が中心化したときに発生するだろう。何故なら、前者が存していれば、それが理性となり、没入・ショートにならないように抑制するからである。(理性とは、差異共振的自我のことである。)
 没入・ショートの発生は否定的様態が中心化したときとは、どういうことなのだろうか。差異共振性を抑圧・排除・隠蔽するような否定的様態とはどういうことなのだろうか。明快にするために、差異共振性の排除と呼ぶ方がわかりやすいだろう。
 それは、他者がその主体に苦・悲哀をもたらすという場合に排除が起るだろう。他者が主体の差異共振性に苦・悲哀をもたらすとはどういうことなのだろうか。簡単にいえば、トラウマを引き起こすような経験であろう。例えば、絶望である。このとき、差異共振性の光が消えて、闇になる。この闇が他者に対する排除作用を生むだろう。以前、私は冷暗の経験を考えたことがあるが、それと同じである。
 この場合、差異共振性を否定するような経験が中心であり、差異共振性を肯定する経験がほとんどないという境遇が考えられる。これは、確かに、経験論的には考えられるが、理論的には、どうだろうか。
 これまでの考え方は、差異共振性を否定・抑圧して生じた自我主義に対して、新たに差異共振性は活性化する事態が発生するが、差異共振に対する否定的な自我主義は、その賦活された差異共振性を反動的に抑圧するのであるが、賦活された差異共振性は、積極的なので、自我主義と差異共振エネルギーが齟齬を来して、統合失調様態(「分裂症」)をもたらすというものである。
 この考えのほうが力学的に首尾一貫しているのであるから、こちらの方が適切であると言えよう。
 ここでこそ、没入について考察すべきである。単なる否定においては、没入は十分発生しない。否定された差異共振性が賦活され、それが自我主義に反動的に抑圧・否定されたときに、没入が起ると思われる。即ち、新たな差異共振エネルギーがそれを否定するものを過剰化させるのである。端的に言えば、自我主義がパラノイア(偏執狂)的になるだろうし、また、ポスト・モダンならば、同一性に対する攻撃が過剰となり、全体主義的になるだろう。宗教ならば、原理主義的になるだろう。
 つまり、否定的な連続的同一性が基盤にあるために、同一性主義の方では、過度の自我主義となり、差異共振性の方では、連続的に、全体主義化するということである。
 ということで、結局、これまでの考察を確認することになったが、没入とは、外因(経済的な格差等)を除けば、内因として、賦活された差異共振エネルギーに対する、反動的否定による自我主義への没入があり、また、そのエネルギーに対しては能動的ではあるが、自我主義に対して、反動的であるために、差異共振性が同一性主義を帯びて、全体主義化する没入の二種類があることになる。


自我主義の衝動・情動・暴力:即自的他者と対自的他者と自己同一性主義の没入
自我主義は、衝動を生む。これは、差異を否定する精神暴力から生まれているだろう。確かに、差異を肯定することは、とても難しいことである。何故なら、魂・精神の仕組みから、連続的同一性である自我主義(どうも、自我と言いたくなるが、自我と自我主義は異なる)に囚われるのが必然であるからである。
 仏教は、この連続的同一性=自我主義の「脱構築主義」である。しかしながら、それは、トランス・モダンなのか、ポスト・モダンなのか。
 今思うに、仏教は、ポスト・モダンなのではないだろうか。トランス・モダンまでは達していないのではないだろうか。(鈴木大拙の即非の論理は措いておきたい。)
 色即是空は納得できる。自我主義は、実体がない。空即是色は、どうだろうか。実体がないものは、自我主義である。そうならば、納得できる。
 どうも、私の理解の方が誤っていたようだ。有り体に言えば、「情」の問題である。「情」はやはり、自我主義なのではないのか。さらに、「愛」も自我主義ではないのか。他者を愛することは、自我主義ではないのか。そもそも、愛することはできるのか。
 そう、没入の問題である。倫理の問題でもある。ある倫理行為に没入するというのは、自我主義ではないのか。
 あくまで、自己があり、他者がある。両者は、即非である。自己は、自己であり、他者ではないが、同時に、他者でもある。
 しかし、ほんとうに、他者なのか。自己は他者でありえるのか。他者ではないのではないか。問題は、他者であるというとき、没入が起ることである。他者ヘの没入は、自己喪失であり、それは、自己否定であり、やはり、差異の否定であろう。自己という差異の否定であろう。
 例えば、オリエンタリズムであるが、西洋は、他者である東洋の価値を認めるが、倫理的に没入して、東洋の遅れを批判するのである。それは、他者とは異なるという自己の差異の喪失ではないだろうか。
 他者(差異)とは、二つ存していて、即自的他者と対自的他者が存するだろう。倫理的没入は、即自的他者の否定となると思われる。否定はとにかく暴力であり、倫理的没入は暴力となると考えられる。
 問題は、対自的他者を重視し過ぎて、それに没入して、暴力的になることである。これは、言葉で言うのは、易しいことであるが、悟ることは難しい。対自的他者に没入するというのは、やはり、単に、即自的他者を否定するだけではなく、対自的他者も否定することになるだろう。何故なら、対自的他者に同一性化することであるからである。
 この対自的他者に没入・同一性化するものは何だろうか。それは、思うに、即自的他者が対自的他者に没入・同一性化するのではないだろうか。共振ではなくて、没入・同一性化はどう表現できるだろうか。
 それは、和になるのか、即ち、(+i)+(-i)⇒0なのか。どうも、この可能性はありそうである。+1が自己形成に対して、0(ゼロ)は自己喪失=他者没入ではないだろうか。ここでは、自己も他者もなく、ただ、自己没入・他者没入があるだけであろう。盲目・無明である。
 そして、これが、同一性主義=自我主義、ひいては、近代的自我主義・近代合理主義ではないだろうか。とまれ、和算が、没入暴力を示しているのではないだろうか。没入の和算ということになる。
 思うに、今日の心の病とは、このゼロではないだろうか。即自的他者(自己)と対自的他者(他者)の喪失である。問題は、このゼロ度(ゼロ度の狂気、ゼロ狂気)であるが、同一性主義(近代合理主義)となっていると考えられるが、この同一性主義はどう数的に表現されているのか。端的に、一(いつ)はどう表現されているのか。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、左辺が差異共振性である自己、右辺が自我、そして、両辺で自己/自我、すなわち、差異共振的同一性を意味すると考えられる。では、没入である同一性主義ないしは自我主義はどう見たらいいのか。
 同一性から同一性主義、自我から自我主義への変換である。+1からゼロへの変容である。思うに、それは、差異ゼロであるから、右辺はゼロとなると見ていいのではないだろうか。つまり、同一性主義=自我主義とは、差異ゼロないしは無差異であるから、ゼロであると見ていいのではないだろうか。
 そういうように作業仮説して、-1とは何か考えてみよう。単純に見ると、マイナスの同一性、マイナスの自我である。これは、いったい何か。
 思いつきを言えば、これが、ダーク・マター、ダーク・エネルギーの世界ではないか。あるいは、鏡像の世界。あるいは、反物質・反世界。神秘主義者の神秘世界もこれではないのか。オカルトの霊の世界もこれではないのか。
 もし、そうならば、どういう計算になるのか。例えば、(+i)*(-i)を右回転として、(+i)*(+i)を左回転と見ると、後者において、-1が発生する。言い換えると、右スピンが+1となり、左スピンが-1となるということになるだろう。
 だから、発想を変えて、+iを根源的差異とすれば、根源的差異(根源的イデア)の右1/4回転が+1=同一性となり、その左1/4回転が-1(ダーク同一性)となるということではないのか。これは、-iを根源的差異としても同じことになる。
 考えてみれば、根源的差異(イデア)とは、差異共振・即非様態なのだから、常に、正負符号を変えていると考えられないだろうか。即ち、+iであることとは、同時に、-iであることであり、また、-iであることは、同時に、+iであることではないのか。極言すれば、+iと-iはイデア界では同じものなのである。それが、共振・即非性の意味ではないのか。これが、例えば、量子における、粒子と波動との二重性を意味するのではないのか。
 とまれ、根源的差異(イデア)をそのように考えると、右スピンで+1、左スピンで-1が発生する言えよう。思うに、同一性化とは、結局、左右スピンによって、生起するものであり、プラスの現象界とマイナスの現象界の二重世界が生起するのであり、光の性質から、一般的には、プラスの現象界しか感覚知覚されないのではないだろうか。言い換えると、+1が光の世界=ライト・ワールドであり、-1が闇の世界=ダーク・ワールドとなるのではないか。
 そうすると、根源的差異(イデア=量子)は、共振・即非様相によって、揺らぎ(クリナーメン、ブラウン運動)、転変転換しながら、左右回転をして、明暗の両世界を形成しているといことになるのではないだろうか。
 興味深いのは、正に、Media Pointである。ここが根源的交点であり、ここで、左右・正負・明暗に分離するのであるが、ここは、根源的境界であり、左右・正負・明暗が分離されるのではないだろうか。
 とは言え、問題は、これは、連続的同一性の形成であるから、根源的差異は否定されるとは言え、基本的様態は連続性であるから、根源的差異、不連続的差異には、一般的には、到達できないと考えられる。このことは既述済みである。
 問題は、左右・正負・明暗の同一性の連続性様態である。これは、いったい何だろう。一般的には、光の現象界しか感覚知覚していないのであり、闇の現象界には無自覚である。ある意味で、排除しているのではないだろうか。少なくとも、無意識であると考えられる。
 そう、端的に、マイナスの現象界とは何だろうか。不可視の世界であるが、一般的にはどう作用しているのだろうか。例えば、人間においてどう作用しているのだろうか。ここで思考実験をして、例えば、光の現象界を視覚の世界、闇の現象界を聴覚(ないしは触覚)の世界としたらどうだろうか。美術の世界と音楽の世界である。
 そうすると、通常、両者が連続化しているのではないだろうか。光の世界と闇の世界が連続しているのではないだろうか。そして、二つの対照的な世界を意識していないのではないだろうか。そうすると、Media Pointが閉じられているということなるだろう。実軸の連続した正負の世界となるだろう。 
 それで一応、左右・正負・明暗の現象界の説明とすると、問題は、根源的差異が賦活されるときである。つまり、差異への再帰が起るときの事態である。
 垂直の、超越的なエネルギーが発動するのであるが、同一性意識はそれを捉えられないのである。せいぜい、超越論的認識にしかならないのである。(思うに、Media Pointが開いて、内在平面ならぬ、超越平面が形成されるのではないだろうか。)
 直感では、差異の賦活化とは、マイナスの現象界の賦活化でもあり、霊の世界が活性化するということではないだろうか。神秘主義、オカルト主義が流行するのではないだろうか。たとえば、西洋においては、19世紀後半から20世紀前半にかけて生じたように。あるいは、精神世界の流行のように。
 では、この点からポスト・モダンを考えるとどうなるのか。その差異はどうなるのか。ドゥルーズを考えるとわかりやすい。その理論は、超越的なものがあると言ったが、正確には、マイナスの世界、霊・神秘の世界が入っていると思われるのである。だから、-1を連続的差異にしたように思われるのである。しかし、それは、根源的差異ではないのである。
 では、デリダの場合はどうだろうか。デリダは慎重に、-1を拒否していると思う。そして、根源的差異が発現するMedia Pointに近づいていると考えられる。しかし、超越性を否定しているので、不連続な差異に留まっていると考えられるのである。
 そうすると、問題は、ゼロ度とは何かとなる。以上では、ゼロ度は没入であると言った。しかし、差異の場合は、ゼロ度ではなく、Media Pointが発現するのである。それは、表記するに、0・(+i)ないしは、0・(-i)で説明できるのではないだろうか。ハイデガー/デリダのポスト・モダンはこれを捉えていたのではないだろうか。(ドゥルーズの場合は、超越性はなく、-1と連続化しているのである。)
 最後に、二重螺旋について簡単に触れたい。思うに、+iと-iとの左回転による二重螺旋と、右回転の二重螺旋、つまり、左右別の二重螺旋が形成されるのではないだろうか。光の現象界と闇の現象界では方向が逆になるのではないだろうか。
 この点は思考実験であり、あいまいなので、後で再考したい。


   




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