INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/04/07

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




[PR]



2008年04月07日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:諸考察:再差異化によるMedia Point感覚の形成:精神界という高次元の発現
いろいろ考えたいことがあるが、メモしておかないと忘れてしまう。しかし、とても重要な問題であるので、論述すると時間がかかる。

1)感覚(感覚身体)と精神:同一性感覚と差異感覚:物質感覚と精神感覚::同一性感覚とは物質感覚であり、いわゆる、五感である。それに対して、差異が肯定されると差異感覚=精神感覚が生起するのではないだろうか。思うに、差異と同一性の未分化様態が最初にあるが、同一性が独立した後、再差異化が起るのである。再帰である。しかし、もはや、未分化ではなくて、純粋な差異化である。
 私が問題にしたいのは、物質身体的にはどういうことなのか、ということである。同一性=物質=感覚(器官)において、差異化が起るとはどういうことなのか、ということである。
 それは、抑圧されていて差異が発現するということであり、Media Pointが開くということである。同一性ー同一性ー同一性ー同一性ー・・・という様式から差異ー同一性ー差異ー同一性ー差異ー・・・という様式へと変換することと考えられる。
 差異は超越性・精神性・差異共振性を意味する。それは、Media Point感覚と言えるのではないだろうか。私が性格相貌と呼んだものも、このMedia Point感覚、この場合は、Media Point視覚というものになるだろう。再差異化とは、Media Pointの発現である。「天の岩戸」の再開扉である。
 シュタイナーの精神科学とは、この意味からは、間違っていないと思われるのである。とまれ、精神界(イデア界・魂界)が高次元として、発現することになると言えよう。
 プラトニック・シナジー理論は精神哲学科学である。精神哲学数理科学である。
 

2)視覚とは何か:あるいは感覚とは何か:精神的感覚を認めると、認識が劇的に変化するのではないだろうか。同一性中心主義においては、物質的な五感が基本であるが、再差異化が起ると、差異エネルギーが発現して、差異感覚が新たに生じる。【思うに、深い芸術家は、これを表現してきたのである。ロマン派・象徴派の詩人、等々】
 差異エネルギーは五感を変容すると思われる。精神的五感となるだろう。精神的視覚、精神的聴覚、等。心眼、心耳、等である。ここでは、もっとも興味深い視覚について考察しよう。
 精神的視覚とは、差異共振視覚と言えるのではないだろうか。私がたとえば、車窓から銀嶺を眺めていたとする。私は銀嶺に引きつけられ、私は銀嶺と「一つ」(一如)になる。この「一つ」という感覚が差異共振感覚であり、この場合、差異共振視覚である。
 図式化すると、

「わたし」(差異)〜共振(「一つ」)〜「銀嶺」(差異)

となるだろう。単に同一性視覚の場合を図式化すると、

「わたし」(同一性)ー空間(遠近法)ー「銀嶺」(同一性)

となるだろう。「わたし」は客体である「銀嶺」を見ているのである。
 同一性視覚においては、同一性の関係であったが、差異視覚の場合は、差異が入って、差異共振化するのである。つまり、物質感覚+差異感覚であり、先に述べたように、即非様態が発現するのである。即ち、「わたし」は「わたし」であり、「銀嶺」ではないが、同時に、「わたし」は「銀嶺」であり、「銀嶺」も「わたし」である。
 即認識は、共振認識であり、これが、新しい情である。共振情・共鳴情・交響情と言ってもいいだろう。
 思うに、神秘主義者は、この即認識を強調したのである。例えば、「一体感」・コスモス感覚である。確かに、連続性の向きがないことはないが、しかし、積極的に理解するならば、即認識である。(今日、日本人、とりわけ、東京人に欠落しているのは、この認識だと思われる。)
 また、超越光であるが、それは、「わたしの視覚」(差異)と太陽光(差異)とが共振して、視覚するものではないだろうか。そう、「わたしは白い光と一体である」ということではないだろうか。また、崇高な夕焼けに吸い込まれるように見蕩(みと)れる場合、「私は夕焼けと一体である」ということだろう。
 ここで、特に私事になるが、思えば、物心ついてから、この共振視覚ないしは共振感覚を私はもっていたことになる。幼稚園の頃は、不思議にも、壁にかかっていたカレンダーの雪の情景に吸い込まれてしまった感覚をもったし、また、小学生の頃は、電線の鳥と一体化感じをもった。いわば、弱いシャーマニズムである。魂が対象に飛んでしまうのである。
 その後、学校の勉強に追われていたが、疲れたとき、晴天の時は、トタン屋根に寝そべって碧空を見つめて、空の青さに吸い込まれていたし、また、通学路において、農業地帯であったので、春青々とした水田と新緑の防風林に心が溶け込む美的快感をもったものである。
 このいわば神秘的感覚は、今でも残っているが、かつてほど、強くはない。
 とまれ、神秘的感覚とは、今や、精神的感覚、差異共振的感覚として、肯定することができるのである。結局、森羅万象は、精神性に満たされているのである。かつて、古代ギリシアの哲学者タレスが、すべては神々に満たされていると言ったが、それは正しいのである。神々とは差異であり精神である。
 ところで、今日、心の病が蔓延しているが、既述したように、差異共振エネルギー・精神エネルギーが今日賦活されていると思われるのである。近代主義的な同一性主義意識では、これを把捉することができずに、その「ダーク・エネルギー」に翻弄されるように思われるのである。それは安易に扱うことは危険である。不連続なものとして、扱うべきである。連続的意識のままでは、混乱させられるのである。
 話しが脱線したが、今日、新しい感覚、差異感覚、精神感覚が生じてきていると思われる。それは、新しい情でもある。後で、霊学との関連を考察してみたい。

3)物質と生命体について

4)(再掲)先に、差異と同一性の未分化様態において、差異において苦・悲哀を感じて、同一性=自我がルサンチマン(怨恨)を感じると述べたが、苦・悲哀を感じる箇所は、差異でいいのか、と疑問が浮かぶのである。
 また、この問題は、同一性鏡像の問題とも関係するだろう。後で、再検討したい。


   




新着トラックバック/コメント


カレンダ
2008年4月
   
7
     

アーカイブ
2006年 (104)
7月 (9)
8月 (6)
9月 (7)
10月 (9)
11月 (39)
12月 (34)
2007年 (542)
1月 (48)
2月 (49)
3月 (67)
4月 (45)
5月 (44)
6月 (1)
7月 (33)
8月 (67)
9月 (47)
10月 (42)
11月 (49)
12月 (50)
2008年 (623)
1月 (40)
2月 (29)
3月 (26)
4月 (38)
5月 (32)
6月 (48)
7月 (49)
8月 (61)
9月 (68)
10月 (86)
11月 (86)
12月 (60)
2009年 (472)
1月 (82)
2月 (66)
3月 (58)
4月 (32)
5月 (27)
6月 (34)
7月 (35)
8月 (26)
9月 (36)
10月 (30)
11月 (28)
12月 (18)
2010年 (251)
1月 (19)
2月 (29)
3月 (29)
4月 (11)
5月 (25)
6月 (33)
7月 (28)
8月 (23)
9月 (15)
10月 (18)
11月 (8)
12月 (13)
2011年 (126)
1月 (11)
2月 (12)
3月 (13)
4月 (12)
5月 (6)
6月 (4)
7月 (5)
8月 (11)
9月 (15)
10月 (7)
11月 (16)
12月 (14)
2012年 (117)
1月 (10)
2月 (13)
3月 (6)
4月 (6)
5月 (14)
6月 (8)
7月 (11)
8月 (7)
9月 (3)
10月 (24)
11月 (9)
12月 (6)
2013年 (145)
1月 (12)
2月 (11)
3月 (9)
4月 (21)
5月 (10)
6月 (9)
7月 (17)
8月 (9)
9月 (5)
10月 (22)
11月 (13)
12月 (7)
2014年 (91)
1月 (6)
2月 (13)
3月 (18)
4月 (5)
7月 (4)
8月 (26)
9月 (7)
10月 (5)
11月 (6)
12月 (1)
2015年 (61)
1月 (6)
2月 (12)
3月 (8)
4月 (14)
5月 (10)
6月 (4)
7月 (6)
8月 (1)

アクセスカウンタ
今日:811
昨日:1,595
累計:4,680,984