INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/04/06

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年04月06日(Sun)▲ページの先頭へ
性格と精神感覚現象について:性格が相貌に発現するのは、どう説明できるか
http://ameblo.jp/renshi/entry-10086015761.html
で、性格と精神現象との関係について論考したが、不十分なので、ここで再検討したい。
 問題は、性格という精神性がどうやって相貌において感覚現象化するのかということである。つまり、端的に言えば、精神が視覚・可視化されるのは、どういう力学なのかということである。
 この問題は一見、超越的光が視覚されることに似ている。通常、現象光を視覚する。しかし、特異な時空間においては、現象光は超越光ともなるのである。これは、Media Pointが開かれる時空間と考えられる。Media Pointが開かれると、単に現象光があるだけでなく、超越光が直接放出されると考えることができるのである。つまり、現象光と超越光が重なるのである。
 しかし、本来、不可視の超越光がどうして、可視化されるのだろうか。思うに、精神的視覚を仮説することが必要なのかもしれない。あるいは、超越的視覚である。いわば、第六感覚である。それを仮定すれば、問題はなくなるのである。
 この視点から、性格の視覚化の問題を見ると、同様に、問題はなくなるだろう。即ち、精神的視覚によって、性格の相貌を見ていることになる。
 しかし、それでいいのだろうか。超越光の場合は、精神的視覚を考えていいように思うが、性格の相貌化の問題に関しては、違うのではないかと思われるのである。なぜなら、Media Pointにおいてではなくて、性格が直接可視化されると考えられるからである。
 問題は、性格が差異ならば、それが視覚化されるとは、どういうことなのかである。それは、同一性化なのだろうか。それは違うだろう。問題は、魂が同一性化によって視覚化=相貌化するときには、単に、同一性化だけではなくて、差異共振性をベースにした同一性化が本来的であると思われるのである。源泉の差異共振性があって同一性化するときには、相貌は善なる性格を反映したものになると思われるのである。
 しかるに、ベースの差異共振性が抑圧されて、同一性化するとき、つまり、同一性主義化するとき、相貌になんらか歪みが現われると思われるのである。
 思考実験的に考えると、魂の波動の問題があると考えられる。同一性化とは、いわば、粒子化である。しかるに、魂の波動は波動として、同一性化された粒子においても存していると考えられるのである。つまり、超越エネルギー(「電磁波」)は、粒子的には、同一性化して、物質化するが、同時に、波動は波動として同一性化すると思われるのである。つまり、エネルギーの二重の様相があると思われるのである。粒子化と波動化である。そして、性格の相貌化については、魂の波動の形態が性格相貌になるのではないだろうか。言い換えると、精神波動形態が性格相貌ということである。
 さらに言い換えると、精神波動の場合は、物質現象化されないということではないだろうか。精神波動は波動として、発現するということではないだろうか。今の段階ではそのように作業仮説しておこう。
 ところで、魂の物質化と波動化の二様を想定することになると、これは、超越光の場合にもあてはまることになるのではないだろうかと思われてくるのである。
 電磁波は端的に、粒子であり、波動でもある。そして、粒子が現象光を形成し、波動が超越光を反映するということにならないだろうか。そうならば、Media Pointを想定する必要がなくなるのである。
 しかしながら、波動感覚ないしは波動知覚があるなら、それは、Media Pointを介して、感覚知覚するということではないだろうか。例えば、性格相貌の場合、主体の開いたMedia Pointの感性として、他者の性格相貌を知覚するのではないのか。そして、陽光の場合も、同様に、主体の開いたMedia Pointの感性において、超越光を視覚するのではないのか。これまで、超越光に関しては、特異な時空間において、Media Pointが開いて、視覚すると考えてきたのである。それは客観的な事象であり、主体性・主観性ではないのである。
 そうすると、齟齬が生じている。思うに、超越光の場合、Media Pointの開きは、外界の場合、内界の場合、そして、両者の場合の三様があるのではないだろうか。そして、性格相貌ではあるが、この場合は、主体の Media Pointが中心であると思う。とりあえず、このように考えておく。
 簡単にまとめると、性格相貌とは、魂の波動形態であり、同一性化ではないということである。


感覚現象と精神現象の関係:心と感覚身体の連続的同一性と即非性:ロゴス中心主義とルサンチマン
先に、性格が相貌に現われるということをいい、理論化しようとしたが、不明瞭であったので、ここで再検討したい。
 問題は、精神現象と感覚現象が即非態であることの意味を明快にすることである。
 もう一度、性格が相貌に現われるという現象、いわば、感覚精神現象を出発点にして考察しよう。性格的相貌ということであるが、それは、顔貌という感覚現象において、性格という精神ないし心的要素が現われるということである。単に、目鼻立ち云々ではなくて、顔全体において、ある相貌があるということである。これは常識的な事柄である。
 これは、表面であると同時に、深部を意味する。そう、サインやシンボルと言ってもいいだろう。私見では、心や魂という内部の力学が表面に現われているのである。つまり、心や魂がある感覚的な力ないしは身体的な力を起して、顔の表面に影響しているのである。
 そう、表情というものとつながる面があるだろう。広義の情を考えると、性格的相貌とは、正に、表情である。
 とまれ、心的力学が身体へと転換して、相貌を形成するということである。心と感覚身体との繋がりである。あるいは、精神と感覚身体とのつながりである。あるいは、魂と感覚身体(顔)とのつながりである。
 これは、プラトニック・シナジー理論から明快に説明できる。即ち、Media Pointの魂が、同一性志向性をもち、同一性感覚身体を構成・構造化すると考えられる。この同一性志向性とは連続性であり、魂と感覚身体は連続化するので、魂と感覚身体(顔)が繋がるのである。魂を精神とすれば、精神と感覚身体の繋がりである。
 結局、魂=精神のもつ連続的同一性志向性が、魂=精神と感覚身体とを結びつけているのである。【所謂、心身論であるが、心と物質的身体とのつながりは、この視点から説明できよう。すなわち、物質性は、同一性を介して、心(魂=精神)に影響を与えるのであり、また、逆も同様である。この同一性は微妙である。これについては、後で考察したい。】これで、性格が相貌に現われることの解明ができたと考えられる。
 ここで、精神と感覚との即非態のことを考えると、それこそ、真相・真実であると考えられる。即ち、連続的同一性によって、心=魂=精神と物質感覚身体とが繋がる(連続化する)。それは、「即」の側面である。心・即・身体である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論から見ると、連続的同一性とは半面に過ぎず、実際は、心=魂=精神と物質感覚身体とは不連続性をもっているのである。連続性であり、且つ、不連続性であるということである。これで、本テーマの解明を終えたこととしたい。

 さて、上記で残しておいた、魂と物質を仲介する同一性について、ここで検討したい。この問題は、心(魂=精神)と物質との関係の本質を問う問題であり、実に興味深い。
 問題は、同一性、乃至は、連続的同一性とは何か、である。心=魂=精神がMedia Pointから発生させる同一性であるが、それは、Media Pointにおいては、構造と言えるだろう。即ち、同一性構造である。
 しかし、これは、あくまで、心的構成であり、物質ではないと考えられる。では、この同一性構造=心的構成と物質はどう関係するのか、ということになる。
 思うに、同一性志向性とは、感覚物質(感覚器官)を形成するのではないだろうか。だから、同一性構造とは物質構造であり、ほぼカントの超越論的形式に相当するのではないだろうか。
 とまれ、端的に、同一性とは物質ないしは感覚器官のことであるということになる。だから、魂=精神は、連続的同一性志向性(構造性)によって、物質的感覚器官になるということになる。そして、同一性構造がMedia Pointにおいて、存しているのであり、それは、超越論的形式と考えることができそうである。簡潔に言えば、同一性=物質=感覚器官である。
 だから、端的に言えば、物質とは、心=魂=精神の顕現なのである。正に、イデア論である。しかしながら、物質現象は、根源の差異を抑圧否定しているのである。つまり、差異共振的心・魂・精神を抑圧しているのである。
 この問題は、多神教的魂から一神教的魂への変換にも関係することで、実に重要な問題である。思うに、多神教的魂においては、同一性は差異に包摂されていて、いわば、未分化である。しかしながら、一神教的魂は、差異を否定した、ルサンチマン的同一性である。これは、自我主義の発達と関係するのである。
 連続的同一性による物質化は、最初は、未分化的である。しかし、自我の発達においては、同一性の中心化が起り、差異を抑圧否定するのである。この同一性中心化の意味を考察しよう。
 これは、端的に、差異共振化の排除である。自我中心化・自己同一性中心化(ロゴス中心主義)である。そして、ここには、ルサンチマン(原ルサンチマン)が駆動していると考えられる。この力学を考察しよう。
 この問題も難問の一つであり、また、情の問題から見ても、重要なポイントである。端的に、何故、差異を排除するのか、である。連続的同一性志向性においては、最初は、差異を排除するというよりは、差異をおいて、同一性形成を行うというものであり、差異は否定されていない。しかし、同一性中心化においては、それは否定され排除される。
 この問題はいわば超執拗に検討してきた問題である。これまでの答えは、父権的な同一性傾斜が原因となり、差異を否定する同一性中心化が行なわれたというものである。これはこれで、実に明快であり、単純である。
 しかしながら、今は、より精神現象的に考察したいのである。ここで、情の問題で考察したい。最初の連続的同一性においては、多種多様な同一性が形成されるが、根源の多様多元的な差異は残っている。ここでは、ギリシア神話を考えるといいだろう。多様なものが混淆しているのである。それは、差異の情報性(波動・振動)で説明がつくのはないだろうか。あるいは、回転速度かもしれない。
 では、この多様多元的な差異や同一性を否定する同一性中心主義の意味は何か。これは端的に、統一性志向性ではないだろうか。では、この統一性志向性はどこから発するのだろうか。思うに、これは、完全なショート(短絡)ではないだろうか。最初の連続的同一性は、根源の差異を残していたが、統一性志向性は、差異=同一性というショートの状態を志向しているのではないのか。
 ここで思考実験すると、最初の連続的同一性状態においては、差異と同一性が未分化的に併存している。そして、魂は、差異と同一性に間をいわば揺らいでいるのではないだろうか。ある意味で中途半端である。そして、同一性/差異の魂は、現象界における苦・悲哀を経験するのである。「わたし」(自我)は、未分化的であるが、それは、同一性において存すると言えよう。
 先に述べたが、差異共振性は、歓喜であり、そこにおいては、ルサンチマンはありえない。しかしながら、連続的同一性化において、差異と同一性が並存するが、そのとき、現象界において、魂は、苦・悲哀を感受するのである。苦・悲哀とは、差異である。それに対して、同一性(自我)は、怨むのである。そう、これが原ルサンチマンではないだろうか。現象界における差異が受苦するが、それに対して、同一性(自我)は怨恨を覚えるのである。ここがポイントである。
 この怨恨(ルサンチマン)が憎悪の反動力を生むのではないだろうか。つまり、同一性のもつ反動力としての同一性中心化(自我中心化)が発生するのではないだろうか。つまり、反動的同一性力が、同一性中心化、統一性志向性の原動力ではないだろうか。
 ということで、同一性化における怨恨の発生から反動的に同一性中心化が生起すると考えられるのである。この同一性中心主義(ロゴス中心主義)=一神教が生起するには、ルサンチマンが契機となっていると考えられる。この真因であるが、それは、やはり、男性的な同一性傾斜と同時に、言語を絶した激烈酷烈苛烈な苦・悲哀の体験ではないだろうか。砂漠の父権的遊牧民が一神教を生んだのは、それで説明がつくのではないだろうか。砂漠における生存競争の酷さがあると考えられるのであり、そこでは、怨恨が過剰に強化されて、統一性志向性が発生すると考えられるのである。そう、酷い民族闘争があったと考えられるのである。そういう修羅場から怨恨が発生して、統一性志向性(同一性中心主義、ロゴス中心主義)が生まれたと推察できるのである。
 ショートであるから、統一性志向性は、Media Pointを同一性化して、超越神に化すと考えられるのである。


   




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カレンダ
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