INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/04/05

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年04月05日(Sat)▲ページの先頭へ
同一性主義(同一性中心主義)と視覚の関係について:感覚物質現象と精神現象の即非性再考
この問題は、既述済みであるが、以前とは考えが少し違ってきているので、ここで論考したい。
 先に、私は、精神的視覚と感覚的視覚が即非の様態にあると結論した。例えば、陽光を見るとき、それは、感覚的視覚で見ると同時に、精神的視覚で見ると言ったのである。この考えは、基本的には今でも変わらないが、今は、感覚的視覚と精神的視覚の区別を明確にしたいと思っている。即非的様態を説くと、両者の質的区別が不明確になると考えられるのである。
 簡単な例をあげれば、女性の化粧である。それは、端的に、感覚的視覚における美化であり、精神的視覚は本来関与していない【p.s. 以下の考察から、化粧にもそれなりの精神性、生命精神性があると思われる】。
 そう、ここで、精神的視覚について少し言及した方がいいだろう。私が今思っているのは、心的、魂的、性格的相貌である。これは、感覚的相貌、つまり、容貌・容姿とは関係ないのである。ある意味で「気」的相貌と言ってもいいだろう。
 この精神的視覚であるが、私ははっきりと直観できるのであるが、一般には知覚できないのかもしれない。例えば、ある人物の履歴書の顔写真を見るとき、私には、相貌に胡散臭さを感じた。なにかペテン師的だと思った。その後、その人物をよく知ることになったが、直観は正しく、猫かぶりであり、傲慢な人物であったのである。
 私には、精神的視覚が明瞭に知覚できるのであるが、これは、どうも異能になるようである。とまれ、精神的視覚は、私だけの特殊なものではなくて、心眼をもつ人なら、もっているものと考えられる。
 そう仮定して、精神的視覚を考えてみると、それは、精神を視覚していることになる。極言すれば、一種の霊視である。あるいは、透視である。とは言え、霊・スピリットが見えるわけではない。
 端的に言えば、人物の性格が相貌に現われているということになる。これは、力学的はどういうことなのか。それは、感覚的視覚像において、性格的相貌が現われているということである。つまり、性格的相貌・顔貌力学があり、そのエネルギーが、感覚的視覚像に刻印されているということになる。簡単に言えば、性格的波動が現象化しているということになろう。
 以上のように、精神的視覚を考えると、冒頭にあげた、感覚的視覚と精神的視覚の区別がすこし怪しくなるのである。問題は精神性(性格性、心性、魂性、霊性)が、感覚現象領域に発現することである。これをどう把捉するのかである。
 つまり、端的に言えば、現象とは、単に感覚・物質現象だけではなく、精神現象でもあるということだろう。(ここで、唯物論や近代合理主義は崩壊する。)しかしながら、感覚性と精神性は即非様態である。
 本稿をまとめると、現象とは、感覚物質現象があり、また精神現象がある。両者は質的に異なるのである。しかしながら、精神は感覚物質界に発現するのである。すなわち、感覚物質現象・即非・精神現象なのである。
 そして、認識上の問題は、感覚美と精神美の認識にあるだろう。感覚美は、快楽・快感の強度が強いので、精神的審美眼(心眼)が麻痺させられると考えられるのである。
 端的に言えば、感覚美とは何かである。例えば、桜の花は、新緑は、感覚美の対象なのか。それは精神美の対象ではないのか。あるいは、桜の花、新緑自体に精神美があるのか。
 おそらく、両者には、なんらかの精神美があるだろう。春という季節がもつ生命力の精神美があるだろう。これは、伝統的には、気である。
 そう、生命精神美が両者にあると言えよう。だから、単に桜花や新緑は感覚美の対象だけではないのである。
 結局、感覚美と言われるもの、あるいは、美と言われるものには、なんらか、精神が関与しているということになるだろう。ただし、精神には、生命精神もあれば、魂的精神もあり、また、多様性をもっていると考えられる。
 結局、感覚現象と精神現象の明確な区別と即非性が確認されるが、感覚美と精神美に関しては、美の多様性ないしは複合性があるので、両者は瞭然とは区別できないことになるだろう。【具体的に言えば、デザインの美は、感覚美なのか、精神美なのかということになるだろうが、一般には、感覚美であるが、それは、生命精神をもっているので、それなりに、精神美でもあるのである。即ち、感覚美=精神美である。おそらく、デザインの問題は、それが、精神美への志向性をもたないと早晩皮相・軽薄化することだろう。つまり、デザインは美術への志向をもってデザインたると考えられる。】

p.s. 論の焦点が少しぶれているので、後で明快にしたい。


検討問題:心情の閉塞している日本人とりわけ東京人:亡魂による醜態
これまで、近代的自我批判を行ってきたが、考えると、近代的自我主義への批判であり、近代的自我そのものは否定できないのである。今考えている私は、自己をベースにはしていても、近代的自我を介しているのである。
 とまれ、今問題にしたいのは、近代的自我主義によって、心情、精神的感情が閉塞される、ないしは抑圧されることである。
 この証明は実に簡単である。今日の日本の歌、とりわけ、若者の歌を聴けばいいのである。確かに、中にはいい歌もないわけではないが、ほとんど聴くに耐えないものであるが、理由は歌に心情が失せているからである。リリシズムが死んでいるのである。
 近代的自我主義は、自我的観念を強調するので、差異的心情を抑圧してしまうのである。これは、近代合理主義によるとも言える。今日、癒しが流行るのはこの点からもわかることである。
 私見では、70年代後半から今のような近代的自我主義化が強化されたのである。それは、精神的情緒を抑圧しているのである。悪魔的なのである。 
 魂を抑圧して、近代的自我主義化したのである。つまり、今日、日本人、とりわけ、東京人は、魂が埋もれている状態である。魂とは、個である。
 魂=個を喪失すると、醜の状態になる。お花見する日本人の醜態を見よ。魂を喪失しているので、審美意識を喪失しているのである。
 美とは、魂知性による。

p.s. 思うに、問題の根はもっと深いのかもしれない。今、中世の古典とされるチョーサーの『カンタベリー物語』を読んでいるが、実に、愉快である。600年以上前の作品とは思えない溌剌さがある。(やはり、中世にルネサンスの源泉があるのである。もっとも、14世紀はイタリア・ルネサンスの初期に当たる。)
 簡単に言えば、清濁合わせ飲む、ないしは、聖俗混淆の世界であるが、それが嫌みではないのが、楽しいのである。例えば、不倫があるが、大きな生々流転の流れの下で眺められているのである。
 思うに、広義の情が今日抑圧されているのかもしれない。ルネサンスの開放したものは、情であろう。ここには、世俗的情もあれば、神聖な情もあるのである。情は多様多元的なのである。
 そして、また、イデア論の基盤も情にあると思う。ただ、イデア論は、情という現象(情現象)に対して、イデア界を仮説して、情を知的に理解しようとしているように思うのである。
 おそらく、知識人・文化人よりも、庶民の方がイデア論は理解しやすいのではないだろうか。言い換えると、リリシズム(叙情性)とイデア論は深く結びついているのである。
 ニーチェの説くディオニュソスとは、いわば、リリシズムであり、それは、イデア論に近いのである。今、浮かんだが、ニーチェのアポロとは、イデア(語源的には、ideoとvideoは同じである。「見る」とイデアは同根である)ではないのか。この点は後で検討したいが、プラトニック・シナジー理論では、Media Pointにおいて、情が発現していると考えられる。
 また、今思ったのは、ギリシア神話(ローマ神話)であるが、それは、やはり、情の表現ではないだろうか。ギリシア神話は、実に、人間臭いのであるが、神聖なる次元をもっている。情は、超越的かつ現象的である。プラトニック・シナジー理論から言うと、情は超越的、即非、現象的である。
 おそらく、ギリシア宗教は、情を知的・合理的にコントロールできずに、衰滅したのだろう。それにキリスト教が取って代わったのである。キリスト教は、情から世俗性・感覚性を取り除いて、情を神聖化したのである。情の精神化である。ここに、情の神聖性と世俗性の分裂がもたらされたと言えよう。(思うに、プラトン自身にも、この分離がなくもなかったと言えよう。この点は検討したい。)
 とまれ、これが、近代的二元論の源泉であろう。プロテスタンティズム的二元論の源泉である。そして、近代合理主義が進展して、情自体が希薄化したのである。神聖な情は喪失され、また、世俗的な情は、卑俗化したのである。
 とまれ、Media Pointの開きとは、新たな情の発現でもある。それは、イデア論的な知を意味すると同時に、新しい情を意味する。天上的なものと地上的なものとの融合する情であろう。
 これを何と呼んだらいいのだろうか。言葉は、二元論的にできているので、適切な用語がすぐみつからないのである。とりあえず、差異共振情、差異共鳴情とでも言っておこうか。

p.s. わかりやすく言えば、天地情ないしは地天情である。


****************

参照1:

★ 2008年4月4日 金曜日 、14時更新

・・・・・

 余談 直して使う (その3)

 我々が、この地球、この人間社会に誕生して、死を迎えるまでに、何を求めて生きてゆくのか? 何のために生まれてきたのか? 人生とは何か? 死とは何か? 我々とは何か?
 我々は、どこから来て、どこへ行くのか? (NHK風で申し訳ないが、気に入ったフレーズだ)

 ただ、あるがままを受け入れて、運命に翻弄される木の葉のように社会の川面を漂う人生もよし、与えられた肉体と頭脳の限りを尽くして、自分とは何か? 何のために存在し、どこへ行くのか? と答えを求めて彷徨う人生もよし、真実を理解することができるなら、複雑怪奇、難解、不可解に見える人生も、少しは安定を増し、座り心地がよくなりそうだ。

 筆者が半世紀を超える人生のなかで見いだした真実、すぐに死んでしまうような、か弱い肉体と、複雑なことを考えられない愚かな頭脳を与えられて、地球に誕生した我々の人生の本当の意味? それは、数百回もの人生、転生輪廻をなかで、人間のすべてを思い知り、その感情を体験し、合理的な自我を確立するということらしい。

 人の本質は、カゲロウのように現れて消える肉体にあるのではなく、人との交流のなかで磨かれる不滅の魂にあるようだ。強い人生も弱い人生も経験し、魂を磨きあい、普遍性を獲得し、やがて宇宙の合理性(ヘーゲル流に言えば「イデー → 絶対精神」)に融合する生命の流れに我々は生きている。
 といっても、相当に長い間、人生の意味を求めて、小さな成果を積み重ねないと、なかなか大きな真理に到達することは難しい。真理は求める意志の彼方にある。求めなければ決して得ることはできない。

 人生の真理は単に長さの問題ではない。肉体を無意味に延命させる必要などない。刹那の瞬間であっても、人は最高の喜び、最大の悲しみ、苦難、充実を体験することができる。体験を「学び」というなら、学びの量ではなく、質が問題なのだ。すばらしい学びを求めて人は生きている。
 数年の命しかなくとも、そのなかに、学びはぎっしりと詰まっている。百年を超す命でも、金儲けだけしか見えない人生は空っぽのままだ。

 これまで繰り返し、人生と社会における唯一で最大の価値は「人情」だと書いてきた。人は人情のなかで生きる意欲を与えられ、人情のために行動し、人情に癒されて生き延び、死んでゆく。人がもっとも癒されるもの、それは友情・人情、そのサインは人の笑顔だ。
 人生最大の秘密は、こんなところに潜んでいそうだ。

 人間社会で、人が問題の本質、人生・社会の本質を見失う最大の原因は、おそらく競争意識にある。
 あらゆるモノが不足するとき、競争意識は多くの人たちの役に立つ。しかし、モノが満たされたとき、それは桎梏(足枷)となる。人は競争によって、必要のないモノを作り出し、無益な浪費に走る。そして愚かな戦いを始めるのだ。
 競争意識、すなわちコンプレックスによって、人は虚構を作り出し、国家を作り出し、上流階級、金持ちという特権意識、優越感、ステータスの幻想を作り出し、社会の不幸を作り出す。
 もし、現代に生まれた我々に共通する大切な学びがあるとするなら、それは競争意識の克服にちがいない。

 2000年前、イエスが指摘したように、金貸しのバリサイ人たちが利息による金儲けを人生の目的として以来、人間社会は彼らユダヤ教徒、バリサイ派の陰謀に翻弄され続けた。彼らは、人生と社会の必要に応じた生産体制を認めず、彼ら資本家だけが肥え太る、金儲け、特権を人生の価値とするよう要求し、特権者が大衆を支配し利用するための国家という装置、虚構の社会を実現してきた。日本におけるバリサイ人の代理人は自民党である。バリサイ人たちは、人間同士の競争を原理とする社会を作り出したといってよい。
 そして現代に至って、「先進国」住民の多くが、他人を蔑むことのできる金持ちになり、人を自分の利益のために利用する社会を求めるようになり、社会を底辺の人情で支える体制が崩壊した結果、今、地球全体が破壊され、人間社会に巨大な破局が訪れようとしている。

 「競争原理の社会」が破滅を迎えようとしている。もはや競争のために、無意味な長時間労働、苛酷労働などする必要もなく、子供たちを成績で追い立てる必要もなく、人を無意味に批判、誹謗する必要もない。
 人は生きる必要に応じて働けばよい。どの程度か? といえば、みんなが、ゆとりをもって食べてゆける労働時間は、おそらく週三日、30時間もあれば十分だろう。人々は、食べるために週30時間働き、自分のために30時間を費やし、週10時間を公共奉仕のために費やせば十分だ。それで、何もかもうまくゆくはずだ。
 愚かな見栄、戦争、競争さえなければ、人々は、笑顔の溢れた、楽しく、ゆとりのある理想社会を建設し、そこで子孫を繁栄させることができるだろう。

 そうして、次にやってくる理想社会は、無駄なモノは作らない。必要に応じて生産する。モノは直して使う社会だ。
 あらゆるモノが直される。あらゆる人も直される。決して使い捨てされることはない。人は過ちを犯すもの。だから、失敗を責めて報復、制裁するのではなく、暖かく、人間として立ち直れるように手をさしのべる社会である。直して使う社会がやってくる!
http://www1.odn.ne.jp/
~cam22440/yoti01.htm

東海アマ地震予知情報

参照2:
 それでは、日本の国柄とは何か。それは、農耕民族として小さな共同体でお互いが助け合い、共存共栄することである。言い換えれば、「和の精神」を大事にし、共生を旨とする社会である。「勝ち組、負け組」ではなく一人でも多くの「しあわせ組」を作ることが本来の日本人のあるべき姿なのである。
 こうした「和の精神」は決して特殊なものではなく、むしろ紛争が絶えず、弱肉強食型の国際社会にあって日本が率先して普及すべき普遍的な価値である。現にヨーロッパでは、欧州連合の誕生により、日本のお家芸である「共存共栄」、「和の精神」が、ユーロというドルに迫る基軸通貨の発行により先取りされてしまった。
http://www.m-kiuchi.com/2008/04/03/kagayaki04/
城内みのる

参照3:
郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、それを中央(東京)
に持って行ってしまう。地元から、商品を仕入れるわけでもない。

2008年4月4日 金曜日
郊外型大規模店は、地元の利益を吸い上げ、
それを中央(東京)に持って行ってしまう

◆地方都市の商店街の衰退は「格差」の象徴 1月11日 高根文隆

 仕事柄、地方都市によく出かけます。そして、ほぼ例外なく、壊滅状態となった駅前の商店街を目撃します。その度に、哀しいような切ないような感覚に襲われます。
 
 私が生まれ育ったのは山口県の中堅都市で、20年ほど前までは、中心部は県内有数の賑わいでした。

 小さい頃、両親の手を握りドキドキしながら歩いた目抜き通りの賑わい、暖かい人情や独特の雰囲気を発散させていた商店街の人たち…。

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080404

株式日記と経済展望


   




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カレンダ
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