INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/03

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年03月31日(Mon)▲ページの先頭へ
同一性主義の集合性について:父権的自己(自我)の問題
先に本件について検討したが、まだ、首尾一貫性が欠けていると感じられるので、再考したい。
 結局、同一性主義のもつ自己陶酔性・自己満足・うぬぼれ等の発生の仕組みについて考察したいのである。自己同一性のもつ快楽についてである。
 これは、憎しみ(ルサンチマン)と対(つい)になっている快楽である。おそらく、憎しみの方が先行している。原ルサンチマンの裏返しとして、この自己同一性=自我の快楽があると考えられる。
 差異(差異共振性)に対して、同一性はルサンチマンを覚え、それを否定し抑圧(制圧)することで、同一性は快楽を覚えるのである。原サディズムである。
 差異とは他者である。原初的には、内的な他者に対して、原ルサンチマンを発生させる。先に私は、内的な他者とは身体性であると言い、端的に、空腹であると言った。あるいは、諸欲望と言っていいだろう。言い換えると、物質身体的欲望である。
 これらは、根源的な魂(=イデア)においては、発生しえないだろう。根源的な魂(=イデア)においては、至福(涅槃?)だけがありえるだろうからである。
出生によって、この原至福状態から他者の生起する物質的現象界に移行したわけであるが、そのとき、端的に、他者が、自己の物質的身体性であると考えられるのである。
 そう、魂の「受精」は、Media Point様態であろう。ここは、まだ、至福の延長である。夢の様態である(思うに、人が見る夢はここではないのか。)しかし、魂ないしはMedia Pointの身体化が始まると、魂は、思うに、差異的身体になる。このとき、他者が生起するのであり、その他者である差異的身体に対して、魂は原ルサンチマン(原憎悪)を感じると思われる。
 つまり、魂は発生した物質的身体の差異と共振することができないのである。そして、この差異を否定するようにして、自己同一性像を投影するのである。つまり、この自己同一性像とは、本来の差異共振像(イデア的な像、おそらく、エイドス)である。この原差異共振像が外界の鏡像と一致して、自己同一性が現象化するということではないだろうか。結局、(原)差異共振像=自己同一性志向性であり、それが、外界に投影されて自己同一性像=自我像が形成されるのではないだろうか。だから、自己同一性像とは、本来は、自己同一性志向性として訂正されなくてはならない。
 とまれ、整理すると、根源における魂の差異・差異共振性があるが、これが、Media Point化して、出生すると、物質化されて、そこに、身体的差異が発生し、魂と身体との齟齬が発生する。そこにおいて、魂は差異共振性から自己同一性志向性を発動させて、外界に投影して、自己同一性像=自我像を形成するのである(鏡像段階)。ここにおいて、自己同一性=自我が発生すると言えよう。
 問題の核心は、魂による身体的差異に対する否定・抑圧の意味である。ここには、実に微妙な事象がある。魂は差異共振性であり、それが、受精し、物質化し、誕生において、身体的差異(他者)化が決定的になるのである。そう、出生がポイントである。胎児は、おそらく、Media Pointの様態にあるだろう。そこにおける物質化は、差異共振的物質化である。他者は明確には発生していないだろう。
 出生において、母胎から切り離されて、魂は身体的他者を感知する。しかしながら、身体的他者とは、本来、差異共振的身体である。つまり、差異共振性のマイナスの側面として、他者があるのである。
 それに対して、魂は自己同一性志向性を発動させて、自己同一性=自我を形成するのである。この自己同一性志向性とは、差異共振的身体のマイナスを否定・抑圧する差異共振的身体のプラスの価値の志向性である。
 だから、ここには、魂の身体の分裂が生起しているのである。本来、差異共振身体があり、そのマイナスが他者であるが、プラスを基盤にした魂の差異共振的志向性が、自己同一性志向性であると考えられる。
 この力学をどう把捉したらいいのだろうか。差異共振身体が歓喜であり、差異共振身体の否定態としての他者が悲哀である(ここでは、スピノザ哲学を基にして考えている)。この悲哀が原ルサンチマンの源泉と言えよう。歓喜の否定としての悲哀があり、そこから原ルサンチマン(原憎悪)が生まれる。
 では、問題はどうして、ここから、自己同一性志向性さらには自我が発生するのだろうか。ここは、問題の最大の核心である。端的に言って、それは、人間つまり幼児の根源的受動性・無力さに起因するのではないだろうか。最初に、差異共振的歓喜があるが、物質的身体における否定的な他者が発生する。それに対して、幼児は無力であり、反感(原ルサンチマン)を発生させると考えられる。
 では、この反感と自己同一性志向性との関係はどうなのだろうか。反感からどうして自己同一性志向性(自我志向性)が発生するのか。【これは、実に、父権神話ないしは一神教、とりわけ、「ヤハウェ教」の発生とパラレルだろう。】
 この身体的他者に対する反感とは、端的に、差異共振的様相に対する否定ではないだろうか。差異共振的身体が苦痛(悲哀)を与えるのであるから、それを端的に否定してしまい、自己救済を求めるのではないだろうか。言い換えると、差異共振様態に蓋をしてしまうのである。差異共振様態を覆ってしまうのである。隠蔽である。否定・抑圧し、隠蔽し排除するのではないか。
 では、この蓋をする、隠蔽するとは、力学的にはどういうことなのか。隠すこととはどういうことなのか。端的に、ヴェールであろう。差異共振様態をヴェールで覆うのである。
 では、このヴェールとは何なのか。これは、目隠しである。自己盲目化・幻想化である。そう、この問題は不連続的差異論において、鋭く追求した問題である。不連続な差異から連続的な同一性の発生の問題である。
 ニーチェは『悲劇の誕生』でディオニュソス的苦悩に対する救済のアポロ的ヴィジョンを提起した。その発想がここで参考になるだろう。ディオニュソスは差異であり、アポロが同一性である。
 思うに、ここで考えるべきことは、差異共振身体の意味である。Media Pointにおいては、差異共振性があり、そこでは、同一性は包摂されている。しかし、出生後、差異共振身体が形成されていくが、この身体とは、端的に、差異の同一性化である。つまり、差異同一性化として、身体化があるのである。そして、ここにおいて、苦・悲哀が発生して、原ルサンチマンが生まれるのである。たいへん微妙な感性意識現象である。言い換えると、身体化=差異同一性化は、差異共振的同一性化である。そして、ここにおいて、苦・悲哀、そして、原ルサンチマンが発生するのである。苦・悲哀・原ルサンチマンとは、基底に差異共振性があるから発生するのである。そして、苦・悲哀・原ルサンチマンが発生した差異共振的同一性様態において、差異共振性を否定・抑圧する同一性の志向性が発生するということではないだろうか。
 整理すると、苦・悲哀・原ルサンチマンが生起した差異共振的同一性身体において、その原因である差異共振性(=他者)を否定・抑圧するようにして、同一性が分離して、同一性志向性となり、自己同一性=自我を形成するようになるということではないのか。物質現象化という同一性化の過程において、差異共振性=他者を否定・抑圧する自己同一性=自我が形成されると考えていいのではないか。
 そして、この苦・悲哀を否定する同一性志向性は、原ルサンチマンを内包しているのであるが、この否定とは、抑圧であり、隠蔽である。すなわち、蓋であり、目隠しである。この原ルサンチマンを帯びた自己同一性=自我志向性は、この隠蔽化によって苦・悲哀を克服したと感じるように思えるのである。苦悩の差異共振性を否定することで、乗り越えたと勝利に陶酔し、そこに快楽を発生させると考えられるのである。【精神分析で言えば、死の欲動の快楽であろう。しかし、精神分析は、近親相姦という欲望を原点にしていて、差異共振性というイデア的根源を見ていないのである。】
 これで、父権的自己である自己同一性=自我のもつ自己陶酔・自己満足・快楽の解明ができたととしよう。
 後、集合性の問題であるが、それは、自我の反射性で説明ができるのはないだろうか。自我を他者に反射せて、自我の集合体を形成すると思えるのである。


2008年03月30日(Sun)▲ページの先頭へ
父権的同一性集合自我主義について:近代における父権的同一性主義連続体=集合体社会と差異共同体
父権的同一性集合自我主義について:近代における父権的同一性主義連続体=集合体社会と差異共同体
Sun, March 30, 2008 12:10:14 テーマ:日本哲学の創造
差異と同一性に関する諸問題を精査してして、多くのことが解明され、判明になってきたと感じている。例えば、自由主義と民主主義の問題、日本における個の問題の解決である。
 今思うに、残った大きな問題は、先に述べた父権的集合人格についてである。直感では、父権的自我は社会において集合性をもっている。それは、個を抑圧しているのである。この父権的集合的自我の問題を考察しよう。
 端的に、父権的同一性自我主義(以下、父権自我主義)は、同一性価値を基盤にもつものであり、二項対立価値観をもつ。ここにおいて、父権自我主義は、共通性・一般性をもっているのであり、自我は他の自我と連続化するのである。この連続化が端的に集合化であると考えられる。つまり、父権自我と父権自我が同一性価値によって、連続化=集合化するということである。この連続体=集合体が、父権社会である。
 これは、フッサールの生活世界や民衆の相互扶助的共同体とはまったく異なる社会であり、父権主義的差別社会である。
 近代社会は、近代的合理主義や近代的自我という父権的同一性主義を帯びているの、本質的に、同一性中心主義の一種全体主義的社会なのである。ただし、半面として、民主主義や自由主義において、個の原理があるので、それが、父権同一性全体主義に対抗しうるのである。
 父権自我連続体=集合体社会の問題はそれが、同一性の連続性=集合性において一致するのであり、個に根差していないということである。つまり、父権的同一性価値は連続体=集合体化して、個の基盤をもたないことである。それで、無責任体制になるのである。これが日本指導層の批判となる。
 先に、森鴎外の『阿部一族』における「情けは情けであり、義は義である」という価値観の乖離を指摘したが、この「義」が父権的同一性価値であり、連続体=集合体の価値であり、「情け」という個の価値観を排除しているのでる。
 だから、現代日本の政治・行政批判をするとき、この父権体制への批判を基盤としてもつ必要があるのである。日本の個の文化、すなわち、神道文化に返る必要があるのである。もっとも、直近において指摘したように、単純な神道文化ではなく、父権文化の圧力下におけるダイナミズムをもつ神道文化である。ポスト・モダン的逃走ではないのである。トランス・モダン的な垂直的水平化なのである。簡潔に言えば、Media Point回帰である。

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個の文化再考:父権主義と母権主義の間:神道ルネサンスへ向けて
Sun, March 30, 2008 11:43:01 テーマ:個と特異性
先に、作業仮説として、母権多神教に個の文化の源泉があると言ったが、どうもそのように単純化していいのか疑問に思った。
 イタリア・ルネサンスは中世キリスト教父権文化の抑圧下における、母権文化の開花であると考えられるので、果たして、父権文化の抑圧なくして、それはありえたのか、という疑問が生じるのである。
 近代化とは、自我/自己、父権/母権、一神教/多神教の二元性の中から生まれたと言った。どちらが欠けていても、形成されなかったのである。
 だから、個というものであるが、やはり、二元論の力学における自己・母権・多神教的なものから生まれたと言い直した方がいいだろう。
 源泉は確かに、母権多神教性ではあるが、対極のダイナミクスから生起した言うべきではないだろうか。
 そうすると、日本の個の文化はどうなるのか、やはり、縄文的土着文化(縄文文化を東アジア照葉樹林文化と言えるが)と大陸的父権文化との接点から生まれた考えるべきではないだろうか。
 神道文化は仏教・儒教・道教(景教も入れることができるかもしれない。)との接点から発展したのではないのか。(だから、国学的国粋主義は無理があると思う。)そう、日本文化は、土着文化と大陸文化との間で成立した見る方が適切なようである。
 そのように考え直して、今日を見ると、欧米文化とそのような日本伝統文化との間で、本来の日本文化がありえると考えられる。今日、欧米化にあって、日本伝統文化が衰弱しているが、日本伝統文化の復興によって、とりわけ、神道文化の復興によって、日本文化のルネサンスがありえるだろう。神道ルネサンスである。

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米国の公的支援と差異共振主義:自由主義極と民主共同体極の差異共振路線
Sun, March 30, 2008 11:01:20 テーマ:金融・為替・株式・債券・通貨・税
これは、新自由主義の破綻ではある。結局、政治と経済の関係はどうなのか。
 私見では、純粋な自由主義は不可能であるし、また、純粋民主主義で社会主義化するのは、全体主義化すると思っている。現実的には、自由主義と民主主義の両極路線で行くべきである。
 つまり、自由主義路線と民主主義的共同体路線をセットにする対極路線である。端的に言えば、差異共振路線である。
 とは言え、東京都の新銀行東京の救済のために、公的資金を注入が正しいというわけでは断じてない。それは、都知事の責任があり、辞任すべきである。
 自由主義/民主共同体共振路線とは、複眼思考であり、非線形的思考である。

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担保割れ物件へ公的支援検討=住宅ローン対策で米政府−Wポスト紙  【ワシントン29日時事】29日付の米紙ワシントン・ポストは、米政府当局者の話として、住宅ローンの残債が市場売却価格を上回る、いわゆる担保割れ住宅を抱え、差し押さえの危機にひんしている数千人の借り手に対し、ブッシュ政権が公的支援を検討していると報じた。
 ブッシュ大統領はこれまで住宅ローン債務者の公的救済に慎重だったが、同紙は「もし実現すれば、ホワイトハウスが住宅の担保価値に比べて過大な住宅ローンに苦しむ人々を助けるため政府資金で関与する初めてのケースになる」としている。
 同紙によると、民間住宅ローンの返済保証を提供する連邦住宅局(FHA)が、金融機関にローン債務元本の一部減免を要請。借り手と金融機関が同意すれば、新たに組む借り換え融資の保証をFHAが行う。借り手は自宅に住み続け、返済能力があることが条件になるという。借り換えが焦げ付けば、税金での穴埋めが必要になる。
http://www.jiji.com/jc/c?g
=int_30&k=2008032900264

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近代的自我のポスト・モダン的凶行:差異教養教育と神道文化教育
Sun, March 30, 2008 10:46:50 テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築
この事件は、正に、近代的自我のポスト・モダン的反動を示していると思われる。
 家族関係も正に、近代的自我化している。父親が外務省勤務というが、示唆的である。
 私は父権主義の問題を言うが、実は母権主義の問題もある。母親が反転して、同一性主義になっている考えられるのである。つまり、父親は母権化し、母親が父権的同一性主義になっている可能性があるのである。この点は後で検討したい。
 とまれ、今日、差異に対する無知があるので、差異エネルギーが賦活していると考えられる今日、差異教養教育が必須である。 
 愛国心教育という反動教育ではなく、伝統文化教養教育が必要である。日本文化の根本は神道である。神道主義になるかどうか別であるが、神道文化を教育しないのは誤りである。これは、天皇制イデオロギーとは異なるのである。天皇制イデロギーは神道文化を利用した父権的国家主義である。
 神道文化は日本人の個の魂の文化である。


破滅願望 引き金か 土浦8人殺傷1週間

2008年3月30日 朝刊

山上高広さんが殺害された現場に設置された献花台。花や飲み物などを手向ける人が絶えない=29日午後、茨城県土浦市のJR荒川沖駅前で
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 茨城県土浦市で起きた八人殺傷事件は、三十日で発生から一週間。通行人を次々と襲った金川真大(まさひろ)容疑者(24)=三浦芳一さん(72)殺害で逮捕=はなぜ凶行に及んだのか。二次犯罪を防げなかった県警の捜査も問われている。 (水戸支局・伊東浩一、沢田佳孝)
■妄想

 「おれは神だ」「自分を終わりにしたい」。三浦さん殺害前後、金川容疑者は自身の携帯電話にこんな文言のメールを残していた。その内容からは自身を英雄視する一方で社会に絶望し、破滅願望を募らせ無差別殺人を引き起こした可能性が浮かんでくる。

 三浦さん殺害の直前、金川容疑者は自分の妹や出身小学校を襲うつもりだったという。妹は不在で、小学校も卒業式で人が多いため断念。たまたま目に入った三浦さんを殺害した。捜査本部は、弱者や無防備な人を狙った犯行とみている。

 「おとなしく、印象が薄い」(同級生)タイプだった少年時代。高校時代は弓道部の練習に打ち込み、全国大会に出場するなど意欲的な時期もあった。しかし、部活動引退後は生活が一変。家族との会話も途絶えがちとなっていく。

 金川容疑者の供述からはバラバラだった家族像も浮かび上がる。お互いの携帯電話番号も分からず、家族そろって食卓を囲むこともなかった。

 精神科医の小田晋氏は「現実の社会でうまくいかず妄想が肥大した末の事件といえる。容疑者は犯行を重ねる中で一種の陶酔状態にあったのではないか」と分析する。
■失態

 三浦さんが殺害された十九日、県警は一時、捜査本部設置を迷った。現場に残されたマウンテンバイクから金川容疑者が浮上。解決は近いとみたためだ。
■問われる捜査法

 しかし、三浦さんと金川容疑者の接点がない。第二の犯行の可能性もあるとみて、県警は同日午後、捜査本部を設置。二十一日に指名手配した。

 だが、二次犯罪に対する見通しは甘かった。二十一日、金川容疑者は母親に「犠牲者が増えるよ」とメールを送る。二十二日にJR荒川沖駅付近で「早く捕まえてごらん」と警察に電話をかけた。それでも「通り魔までは考えなかった」と県警幹部は吐露する。

 結局、県警は被害の拡大防止より、犯人逮捕に重点を置く。荒川沖駅に目立たぬよう無線を持たない私服警官八人を配置した。

 甘い見立てに加え、犯人を改札で見逃すミスも重なった。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/
national/news/CK2008033002099514.html


茨城・土浦の8人殺傷:事件1週間 無差別、見えぬ動機 部活引退、高3から変ぼう

 茨城県土浦市のJR荒川沖駅周辺で8人が殺傷された事件は、30日で発生から1週間を迎える。少年時代は周囲から、物静かで優しいと見られていた金川真大(かながわまさひろ)容疑者(24)。高校卒業後は定職に就かず、自宅にこもってゲームにのめり込む時間が長かったという。友人が少なく、家族とのコミュニケーションも乏しい中、人知れず死への願望を募らせていたことが残されたメールからうかがえるが、「誰でもよかった」と無差別に刃を向けるに至った動機は解明されていない。

 ■ゲームに熱中

 地元の私立高校では弓道部に所属。2年の時、チームの一員として県大会優勝、全国大会出場経験もある。部室では、人形で腹話術をして周囲を笑わせたこともあった。

 部の後輩や同級生は「物静かだが練習を休まず一生懸命だった。暗い感じはなかった」「夜遅くまで練習していた」とひたむきに弓道に打ち込む金川容疑者を覚えている。変化は高3のころ。数学が得意で、比較的良かった成績が「急に悪くなった」と母は県警の事情聴取に話したという。

 転機とみられるのが、7月の部活の引退。無気力さが目立つようになり、就職活動も熱心でなかった。暴力をふるうことはなかったが、物にあたったことはあるという。

 卒業後は就職せず、自室でゲームに熱中した。格闘系のゲームが好きで、一緒にゲームをしたことがあるという知人は「ゲームに負けると突然機嫌が悪くなった」と語る。何かほしいものがあるとコンビニでアルバイトをし、目的の金がたまると辞めるパターンを繰り返した。

 外務省勤務の父は、就職するようたしなめたことがあったが、定職に就くことはなかった。4人兄弟の長男で妹2人、弟1人の兄弟仲は悪く、近所の主婦は金川容疑者の母がスーパーで同じ菓子を4袋買い、「(4人が)1袋を分け合えない」とこぼしていたのが印象に残っている。ある捜査関係者は「家族関係は本当に希薄だった」と話し、県警は家庭環境と事件の関連も調べている。

 ■秋葉原

 三浦芳一さん(72)殺害事件後、金川容疑者はJR常磐線で秋葉原に向かい、理髪店で丸刈りにした。20日夜には、秋葉原駅近くのインターネットカフェを訪れたとみられる。身分証の提示を求められると「それならいい」と帰り、店員は「丸刈りでもみあげが長く、ニュース映像と同じ人だ」と話す。逮捕された際には、格闘ゲームソフト「ニンジャガイデン・ドラゴンソード」を持っていた。発売は20日で秋葉原で購入したとみられる。22日には捜査員が待ち構える荒川沖駅に戻って110番した。ある捜査員は「捕まえてほしいという気持ちもあっただろう」と推測する。

 ■捜査の問題
 ◇配置警官 銃、無線もなし

 殺傷事件当日は荒川沖駅周辺にいた私服の警察官は8人とも拳銃を携帯せず、責任者の警部補以外は無線もなかった。県警内部からも「不備だ」と指摘が出ている。22日にも、携帯電話の位置情報から容疑者は同駅東口にいたとみられるが、改札口内外にいた警察官が見逃した可能性が高い。

 県警は荒川沖駅に金川容疑者が姿を現すことを想定。駅付近の私服警察官が見つけて、周辺に配置された50人程度の捜査員と連携し、身柄を確保する算段だったという。捜査幹部は「変装して前触れもなく刃物を振り回す展開は予想外だった」と見込み違いを認めており、プロジェクトチームで検証を進めている。

毎日新聞 2008年3月30日 東京朝刊

http://mainichi.jp/select/jiken
/news/20080330ddm041040099000c.html

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福田政権の断末魔:暫定税率の一般論(同一性的論理)ではなくて、特異性合理論へ
Sun, March 30, 2008 10:36:04 テーマ:福田政権とポスト福田
いったん下がった商品を値上げするのは、ほとんど不可能だろう。そうすれば、消費者の不満が爆発する。結局、暫定税率問題は、福田政権は墓穴を掘ったことになる。
 姑息な手段をとって、確かに、見苦しい。美学がない。だいたい、民主党とのまともま議論がない。暫定税率が必要なら、その根拠を検証すべきである。そう、合理性とは差異合理性である。自民党のいう暫定税率の必要は同一性知識に過ぎない。一般論なのである。

ガソリン値下げ 全国波及 スタンドは損失覚悟

2008年3月30日 朝刊

他社に追随しレギュラーを138円まで値下げしたセルフスタンド。青森市内には特売日で136円のスタンドも現れた=29日午後
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 ガソリン税の暫定税率が今月末で切れることが確実となり、全国のガソリンスタンド(GS)で、四月一日からの大幅値下げを決める動きが相次いでいることが二十九日、分かった。一リットル一円の差を競う業界で、値下げは周辺店舗にも波及するとみられる。

 主要GSの取材で、一日から値下げする方針と答えたのは山形、石川、静岡、大阪、広島、山口など。一日午前零時に値下げするところもある。青森県では先行値下げしたGSが現れた。会津ゼネラル(福島県会津若松市)は新潟、福島両県の全店舗で値下げ。京都府の会社は、滋賀県内の他社が「四月四日値下げ」との情報を受け、「五日」の予定を一日前倒しする。

 ただ、ガソリン税は製油所からの出荷の際に課税される。年度末までの在庫は高い税金が乗っており「損失は泣くしかない」など、悲鳴も聞こえる。買い控えの反動で売り切れも懸念され、一部では一回の給油量制限や、値下げを会員に限定することを検討。すぐに価格を下げられない理由を説明するマニュアルを作るところや「他店の情報収集や値下げかどうかの会議ばかり」という会社もある。

 関連法案が四月末に衆院で再可決された場合、価格は元通りとなるため、経営者らには混乱を繰り返すことへの不満も広がる。

 八戸燃料(青森県八戸市)は「現場は混乱している。一度下げたものは簡単に上げられない。政治に翻弄(ほんろう)される」と批判している。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/
national/news/CK2008033002099535.html



2008年03月29日(Sat)▲ページの先頭へ
ポール・クルーグマンが米国大統領予備選候補のサブプライム問題等に関する経済政策を明快に比較している:自由主義と国家介入主義の二項対立を超える差異共振共同体主義へ向けて
ポール・クルーグマンが米国大統領予備選候補のサブプライム問題等に関する経済政策を明快に比較している:自由主義と国家介入主義の二項対立を超える差異共振共同体主義へ向けて

クリントンーオバマーマケイン

クリントン民主党候補が、いわば社会主義的に、ローンの借り手の公庫(Loan Corporation)を作ろうとしていて、マケインが規制排除の新自由主義で、オバマが中間であるというものである。

ここで問題になっているのは、自由主義経済ないしは自由・民主主義の理念の問題である。差異共振主義から見ても、実に重要な論点である。
 資本主義経済と国家との関係をどうするのかである。オバマやクリントンは、国家の経済への関与を肯定しているのに対して、マケインは新自由主義である。
 今日、アメリカ経済は、サブプライム問題で金融資本や家屋所有者の危機的状況で、行政的に介入しているのであり、自由主義経済のいわば破綻状況である。
 つまり、社会主義ないしは国家資本主義になっているのである。日本経済に少し似たのである。思うに、社会主義というよりは、民主主義の立場からは、国家・行政的施策は必要になるだろう。民主主義的経済共同体方策である。
 結局、自由主義と民主主義との共振(造語で、共調)化がここで必要になっていると言えよう。
 私見では、サブプライムローン問題を起した同一性主義金融資本のあり方が問題であると思う。それを単に資本主義経済における好況・不況の波の一環として捉えたくない。
 私は差異共振金融資本が可能ではないのか、漠然と思うのである。この視点から見ると、サブプライム問題は、貸し手と借り手が共振していなくて、同一性主義の肥大化であると思う。
 思うに、ここで、貸し手と借り手の差異を考慮すべきなのである。単に、利子の同一性を中心化すると、サブプライムローンになって、非合理主義化(狂気化)するのである。
 では、この差異とは何か。それは、借り手で言えば、借り手の総体的あり方である。信用度が低いという差異があるのであり、それに対して、返済可能になるには、利子を減らす必要があるだろう。そして、抵当による利益の増幅は安易には行うべきではないのである。つまり、利子的同一性主義のあり方を抑えることを意味しよう。
 つまり、簡単に言えば、借り手の差異に即して、ローンを構築すべきであるということである。問題は、成長が利益という同一性主義で評価されていることである。
 これが、問題の根因ではないだろうか。話しを一般化すると、利益という同一性価値評価以外に、差異価値評価をどうやって導入するのか、となるだろう。有り体に言えば、指標をどうするのか、である。どうやって「計算」するのか、である。
 角度を変えて考えよう。差異共振原理ないしは差異共振理論(プラトニック・シナジー理論)から考えよう。
 トランス・モダンとして、差異共振主義が発見された。これは、近代主義の分裂を乗り越えるものとしてある。だから、これまでの自由主義と民主主義ではなく、両者を融合した政治・経済理論が考えられなくてはならない。 
 端的に言えば、差異共振共同体としての社会が構築されなくてはならない。この差異共振共同体構築は、これまでの、自由主義では不可能である。だから、差異共振共同体資本がなくてはならない。このために、国家が媒体となる必要があると思うのである。つまり、もはや、自由主義や民主主義といういわば、二元論的視点ではなく、差異共振主義という一元論によって、政策を構築すべきであるということである。ここから、差異共振共同体主義が生まれるのであり、そのための一つの法的なセンターとして、国家・行政機能を構築するということである。ここには、医療・福祉(年金を含む)・起業・生計・農林水産業・文化・教育等を含めることになる。
 大企業に関しては、営利性に関しては、差異共振的営利性を認定するようにするのである。
 このような観点からは、もはや、自由主義か国家介入主義かの問題はなくなるのである。後でさらに検討したい。


Paul Krugman: Loans and Leadership

Many news reports have pointed out that Mr. McCain more or less came out against aid for troubled homeowners: government assistance “should be based solely on preventing systemic risk,” which means that big investment banks qualify but ordinary citizens don’t.

But I was even more struck by Mr. McCain’s declaration that “our financial market approach should include encouraging increased capital in financial institutions by removing regulatory, accounting and tax impediments to raising capital.”

These days, even free-market enthusiasts are talking about increased regulation of securities firms now that the Fed has shown that it will rush to their rescue if they get into trouble. But Mr. McCain is selling the same old snake oil, claiming that deregulation and tax cuts cure all ills.

Hillary Clinton’s speech could not have been more different.

True, Mrs. Clinton’s suggestion that she might convene a high-level commission, including Alan Greenspan ― who bears a lot of responsibility for this crisis ― had echoes of the excessively comfortable relationship her husband’s administration developed with the investment industry. But the substance of her policy proposals on mortgages, like that of her health care plan, suggests a strong progressive sensibility.

Maybe the most notable contrast between Mr. McCain and Mrs. Clinton involves the problem of restructuring mortgages. Mr. McCain called for voluntary action on the part of lenders ― that is, he proposed doing nothing. Mrs. Clinton wants a modern version of the Home Owners’ Loan Corporation, the New Deal institution that acquired the mortgages of people whose homes were worth less than their debts, then reduced payments to a level the homeowners could afford.

Finally, Barack Obama’s speech on the economy on Thursday followed the cautious pattern of his earlier statements on economic issues.

I was pleased that Mr. Obama came out strongly for broader financial regulation, which might help avert future crises. But his proposals for aid to the victims of the current crisis, though significant, are less sweeping than Mrs. Clinton’s: he wants to nudge private lenders into restructuring mortgages rather than having the government simply step in and get the job done.

Mr. Obama also continues to make permanent tax cuts ― middle-class tax cuts, to be sure ― a centerpiece of his economic plan. It’s not clear how he would pay both for these tax cuts and for initiatives like health care reform, so his tax-cut promises raise questions about how determined he really is to pursue a strongly progressive agenda.

http://www.nytimes.com/2008/03/28/
opinion/28krugman.html?em&ex=
1206849600&en=94bb29fd88ce
5195&ei=5087%0A


2008年03月28日(Fri)▲ページの先頭へ
父権主義と母権主義の平行と未分化性:「平行と内的極性の未分化混淆」と新平行性としての純粋差異
父権主義と母権主義の平行と未分化とは、矛盾するような観念である。これをどう説明するのか。即ち、私は近代主義は、父権主義と母権主義の未分化混淆と言ったが、それ以前には、父権主義と母権主義の平行であると述べたのである。つまり、未分化混淆と平行性とが不整合であると考えられることである。これは、日本の近代化(明治維新近代化以降)にも関係するので、重要なポイントである。
 この解明は難しくない。つまり、二つの文化があると考えればいいんである。父権文化と母権文化である。そして、文明史的には、前者が何千年間、世界を支配してきたと考えられるのである。つまり、父権主義が支配的ではあっても、母権主義はなんらかの形で残っているのである。つまり、支配の中の、平行性である。
 そして、この平行文化の中で成長すると、個人の中にも、平行性が形成されるようになるが、それらが、無意識裡に形成されるので、混淆ないし習合するのである。つまり、無意識の連続性によって、両者が未分化的に混淆・習合すると考えられるのである。
 結局、同一性の連続性が平行性を未分化混淆させているということになる。

p.s. この問題は、差異と同一性の関係に関する根本的な問題であり、深く検討すべきものであると思えてきた。今、少し考察してみると、結局、Media Pointのあり方の問題である。この点に関しては、検討に検討を重ねてきた。
 これまでの結論では、Media Pointに周期・サイクルがあるのであり、同一性に傾斜するときと、差異に傾斜するときがあるということであり、前者は父権主義・一神教、後者は母権主義・多神教を形成すると考えたのである。
 しかしながら、平行という視点が入ると、単純にそのような考え方はできなくなるだろう。平行という視点は、以前、考えたタイプの区別に関わってくるのである。つまり、高貴なものと、劣弱なものである。ニーチェ的な位階である。しかしながら、このような二元論も単純化であろう。
 端的に言えば、Media Pointを抑圧否定する同一性志向性とMedia Pointを肯定しながら発動する同一性志向性の二つのタイプが考えられる。前者が父権主義であり、後者が母権主義である。
 父権主義が支配的になる以前は、当然、母権主義が支配的であったと、文明史の視点から考えられる。問題はこの支配様式の交替の意味である。
 当然、生産様式、精神様式、社会様式の変化があると考えられる。農耕社会から都市社会への転換を考えることができるだろう。そのとき、遊牧民が主導的な役割を果たしたと考えられる。インド・ヨーロッパ語族であり、セム語族である。
 これは、同一性主義(自我主義)の文明を形成したと考えられるが、しかしながら、精神的基盤あるいは形而上学的基盤が必要である。それが、父権的宗教・神話であろう。そして、それの帰結がユダヤ教であろう。
 とまれ、神話学的観点から見ると、母権的神(女神)がマイナスの価値をもち、それを男性的英雄がそれを退治して、天地の秩序を創造するというパターンが共通であろう。
 そう、以前、両者は不連続であると私は言った。母権主義と父権主義は不連続であると言ったのである。つまり、歴史において、前者が衰退し、そして、新たに生まれた父権主義が台頭して支配するようになったということである。
 問題は文化・文明の盛衰の意味である。あるいは、進化の意味である。もし、母権主義だけならば、同一性主義は生まれなかったと言えよう。差異が中心化されているので、同一性が中心化されるのを、抑制していたと思われる。つまり、精神性によって、物質性・自我性の独立化を抑止していたと考えられる。母権的宗教が支配して、物質主義・自我主義の発達を抑えていたのである。
 だから、そのままでは、物質科学の発展はありえなかったと言えよう。結局、父権主義、とりわけ、ユダヤ教の誕生によって、人類は、自我・物質的知識をもてるようになったと言えよう。
 そう、文化・文明の盛衰には、意味があるのである。一種進化があるのである。
 思うに、人類史は母権主義と父権主義の交替を繰り返してきたのではないだろうか。しかしながら、ユダヤ教のように絶対的に前者を排除する形態にはならなかったと思う。つまり、両者の均衡があったと思われるのである。
 とまれ、今日の文明における父権主義であるが、それは、差異を抑圧否定する同一性主義であると簡潔に述べることができる。初期デリダのロゴス中心主義である。
 結局、この同一性主義と差異あるいはMedia Pointとの関係をどう見るのかである。つまり、同一性主義を一つのタイプと見て、差異主義を別のタイプと見るのか、それとも、同一の差異ないしは Media Pointから同一性が生起し、その後、差異へと回帰するのかということである。
 ここでジェンダーの問題を考えるべきだろう。女性と男性が、それぞれ、差異主義であり、同一性主義であるということになるだろう。だから、同一の差異・Media Pointからというよりは、二つのタイプがあるとみるべきように思われる。
 では、問題は、男性的価値観である。差異を抑圧否定する同一性志向性は、いったいどういうことなのか。差異が抑圧否定されるとはどういうことなのか。やはり、傾斜である。同一性への傾斜をもつ差異を考えることができる。これが男性的価値である。
 それに対して、差異自身への傾斜をもつのが女性的価値であろう。だから、同一性は差異に内包・包摂されたままである。思うに、女性の方が、本来、精神的なのであり、男性の方が物質的なのである。
 ということで、ふたたび、二つの差異のタイプを作業仮説することになった。【だから、これが雌雄・異性を発生させた原因ではないだろうか。思うに、ここには、プラスとマイナスの関係があると思う。やはり、極性である。プラスのエネルギーとマイナスのエネルギーである。思考実験的に、プラス・エネルギーの主導の回転とマイナス・エネルギーの主導の回転があるのではないだろうか。前者が同一性主義であり、後者が差異共振主義ではないだろうか。前者が-1で、後者が+1だろうか。この問題は後で検討したい。】
 そして、二つのタイプが平行することになるだろう。問題は、二つのタイプの関係である。男性的価値が支配的であると、二項対立となるが、女性的価値が支配的であると、差異共振的になるだろう。
 これはこれでいいが、さらに問題は、男性的価値における差異性である。それは、抑圧否定されるのであるが、その抑圧否定された差異はそのままであるのか。これが、重大な問題である。
 理論的に言えば、同一性主義タイプは差異を抑圧否定することが必然であり、それで固定することになるだろう。そう、これは、同一性形成で閉じてしまうだろう。
 しかしながら、直感では、このタイプは病的なのである。何故なら、差異という根源を否定しているからである。そのような病的なタイプが自然の必然性にあるのだろうか。
 思うに、同一性主義タイプにあっても、抑圧否定された差異は、なんらか、生命をもっているのではないだろうか。つまり、同一性主義タイプの反作用として、差異への志向性が発生すると思うのである。それに対して、差異主義であるが、それは、逆に、同一性主義への反作用をもつのではないだろうか。
 とまれ、以上の考え方は、傾斜と同時に、逆傾斜があるということである。自己極性ないしは自己反転性である。
 だから、まとめると、平行と自己極性の二つの様態があることになろう。つまり、父権主義と母権主義の平行と内なる父権主義と母権主義である。
 平行は不連続性があり、内的極性は連続性があるだろう。しかしながら、実際のところ、平行と内的極性が混淆しているので、それらは、未分化様態にあると言えよう。これが、自然の意識様態であろう。平行性があり、内的極性があり、両者が混淆して、未分化であるということである。
 ここで、ポスト・モダンを考えると、それは、差異を中心化する試みであったが、未分化における連続性によって、純粋差異を取りだすことができなかったと言えよう。【ただし、後期デリダは純粋差異に到達したと考えられる。それは、トランス・モダンのデリダである。】
 不連続的差異論は、この未分化混淆を脱して、いわば、純粋な平行に到達したと言えよう。これがきわめて重要である。つまり、平行性と内的極性の未分化混淆性を超脱して、新しい平行性に到達したということが画期的なのである。
 つまり、進化なのである。同一性主義を乗り越えた平行主義であり、同一性主義を包摂した高次元に到達したことになるのである。もし、最初の平行主義のままでは、両者は別々のままであったろうし、内的極性においては、連続性のままであったのであり、純粋差異へと回帰できなかったからである。
 この純粋差異がMedia Pointであり、同一性を包摂しているのである。これは、弁証法の乗り越えでもある。トランス弁証法である。
 これで、本件は解決されたこととする。

注:以上は、次のまとまった箇所を独立させたものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10083502094.html


2008年03月26日(Wed)▲ページの先頭へ
同一性鏡像について:Media Point の二元性(二重性)と同一性志向性の一元性(二項対立性)
同一性志向性が自己同一性・自我を形成する契機となる鏡像については、これまで何度か述べてきた。しかしながら、まだ、厳密さが足りないと感じられるので、ここで検討したい。
 思考実験的に、かなり以前に使用した図式を使いたい。それは、差異1・同一性・差異2というものである。これは、差異1が差異2を認識するときに、同一性を発生させて、差異2を同一性として認識することを表わしている。基本的には、差異1⇒差異2であるが、この⇒を認識衝動とすると、この⇒の結果が同一性ということである。
 この同一性認識衝動(同一性志向性)であるが、差異1は差異2(他者)に対して、その差異2自体を認識せずに、同一性を投影して、同一性として、差異2を認識するのである。この同一性が一種の鏡像であると言えよう。
 いったいこれはどこから発生したのだろうか。ラカンは鏡像段階を考えているが、果たして、物質的な鏡を介して、鏡像である同一性像を形成するのだろうか。
 私は先に、差異のスクリーンに同一性像を形成する、ないしは、投影すると言ったが、この考え方は、鏡のような外的・物質的なものによる同一性像の形成以前に、内的な、心的な同一性像が形成されるというものである。
 つまり、こういうことである。原点にMedia Point があるが、ここから同一性志向性は、差異を抑圧否定して、同一性を外界に投影するようになるのである。この内的な、差異の抑圧否定において、同一性志向性は差異のスクリーンに同一性を押し付けているのである(いわば、押印である)。
 このメカニズムを考察しよう。先ず確認しておくべきことは、Media Point において、第一に、同一性志向性が発動するということである。これは、当然、差異(差異身体)を抑圧否定する志向性である。だから、Media Point に存する同一性志向性は、Media Point において存する差異を抑圧否定する際、差異に同一性を「押印」すると考えられるのである。このとき、差異がスクリーンであり、それに同一性像(同一性影像)が投影されると考えられるのである。そう、だから、投影とは「押印」・押し付けなのである。そして、このときの同一性像が、思うに、力のある同一性像であり、これによって、外的対象・外的差異に対して、(内的な)同一性を投影・「押印」するのである。
 思うに、内的差異に対する圧力(内圧)が同時に、外的差異に対する圧力(外圧)になるのであるが、この同一性志向性の衝動・発動・駆動であるが、これが、端的に自己同一性=自我衝動と言えるだろう。おそらく、意志と言ってもいいだろう。そして、これが、父権的衝動と言っていいだろう。言い換えると、同一性志向性=同一性衝動=自己同一性・自我衝動=意志=父権的衝動となる。【それに対して、母権的衝動とは、同一性衝動を牽制する意志であろう。つまり、差異志向性ないしは差異共振的志向性である。思うに、本来、人間において、同一性志向性と差異志向性の両極性があるのであり、このバランスが社会共同体・生活世界を保持してきたのではないだろうか。母権社会においては、差異志向性の方が、同一性志向性よりは、優勢であったと思われる。】
 簡単にまとめると、Media Point における内的差異のスクリーンに投影・「押印」される同一性像が内的な同一性像となり、それが外的対象・外的差異へと投影されて同一性認識が形成されて、自己同一性=自我が形成されるということになり、本稿のテーマであるどういう性鏡像であるが、それは、差異のスクリーンに投影される同一性影像がそれであるということになる。
 最後に以上の視点から、ラカンの鏡像段階を考えると、それは、原初の内的な同一性鏡像ではなく、外的な同一性鏡像を自己同一性=自我形成の契機としていることで、見方が転倒していると考えられる。外的な同一性鏡像とは、内的な同一性鏡像の投影像であり、第二義的であると考えられるのである。言い換えると、ラカンは内的鏡面を無視(正に、疎外)して、外的鏡面を媒介にしているのである。この結果は、外的感覚の中心化であり、内的感覚(内観)、言い換えると、感性(魂感覚・精神的感覚・心感)の喪失があると考えられる。つまり、精神分析は精神の分析ではなく、物質的心性分析になっているということになろう。


イデア論と宗教:知と信仰:イデア論と仏教の接近:トランス宗教としての新イデア論
先に述べたように、私は超越エネルギーを神として捉えている。そして、超越エネルギーとはイデア・エネルギーである。だから、超越エネルギー=神=イデア・エネルギーである。
 だから、イデア論は、宗教論でもあるのである。そして、宗教が信仰の次元とするものを、イデア論は知性の対象とするのである。(もっとも、仏教は信仰宗教ではなくて、知性的宗教である。)
 理念(イデア)化による知性化は、トランス宗教の面があるだろう。だから、イデア論と宗教では、微妙な差異があるのである。神観念を知性の対象とするのは、宗教側から見たら冒瀆に見えるだろうが、それが、イデア論のいわば強みである。
 これは、いったい何を意味するのだろうか。合理性・知性を保持したまま、超越エネルギーの感性を肯定することではないだろうか。決して、信仰を否定するのではなく、根源的受動を基礎とする知的態度である。そう、信仰の基礎である根源的受動をもちながら、それをイデア(理念)として、知性化する行為である。つまり、トランス宗教性である。超越論的宗教である。
 宗教をイデア化することで、宗教のドグマを脱することができるのである。そう、宗教の独善・独断・狂信性等を解体するのである。簡単に言えば、宗教の知性化である。だから、知性・認識・叡知宗教である。
 そして、直感では、この叡知宗教は、仏教につながるのである。つまり、イデア論と仏教の接近がもたらさせるのである。

p.s. 仏教であるが、思うに、信仰を中心とする心的態度を宗教とするならば、仏教は宗教ではない。何故なら、仏教は、解脱や悟り等の認識を中心化しているからである。だから、仏教は、仏陀哲学と言うべきものだろう。その面から、イデア論と通じると言えよう。
 では、信仰とは何か。私は根源的受動性を言うが、それが信仰の原因である。つまり、根本的信仰性、ないしは、原信仰性があるのである。言い換えると、原宗教性である。それを私は否定しない。
 しかしながら、ここから、それぞれ、信仰を中心化する宗教と、叡知を中心化する哲学の二通りの心性が発生する。
 近代合理主義/近代的自我に積極的な意味があるとするなら、一つは、自我知主義を形成したことであろう。思うに、ここから、螺旋的に、原宗教性に回帰できるのである。それは、仏陀哲学・イデア論的になると考えられる。
 だから、トランス宗教としての根源哲学(仏陀哲学・イデア論)が必要であると考えられる。
 いわゆる、信者たちであるが、それは、苦に対する癒しを宗教に求めていると思うが、問題は、苦とは、本質的に、個であり、差異であり、特異性であり、一般的な救済はないのである。そこを忘れて、一般的な救済を求めて、宗教へと向かうのは、誤りである。それは、認識的誤謬である。ただ「私だけの」神がいるだけである。この意味で、神は唯一神である。そして、唯一神が多数・複数存することになるだろう。しかしながら、結局、この多数・複数の唯一神が、共鳴化すると言えよう。
 言い換えると、特異性唯一神(複数)が共鳴する新多神教が生じるだろう。特異性としての神。それは、信仰の対象ではなく、心的現象化するのである。ヌミノーゼである。原神。原宗教。だから、正しくは、特異性としての原神(ヌミノーゼ)である。そして、これが、超越エネルギーである。
 だから、簡潔に、超越エネルギー(ヌミノーゼ)を対象とする哲学として、イデア論があると言えるだろう。超越エネルギーを神として、普遍化したのが宗教である。しかし、PS理論は、それをイデア論化するのである。知性化するのである。だから、トランス宗教・脱宗教の立場である。
 
p.s. 精緻に言えば、個・差異・特異性の「神」とは、内的に深化して、差異共振エネルギー(超越エネルギー)へと発達するだろう。ここにおいて、多数・複数の「単独神」は、普遍共通的(キルケゴールの普遍という意味ではなく)になると言えよう。特異性が普遍性へと発展するのである。そう、この特異性に基づく普遍性とは、一般的普遍性ではなく、超越的普遍性である。ここがキー・ポイントである。
 そして、この超越的普遍性こそ、超越エネルギーであり、イデアである。これが、一神教の根因であろう。原一神教である。ヤハウェは、これを連続化・同一性化したものだろう。
 ならば、エローヒーム(神の複数)とは何だろうか。多神教の名残なのか。今の私の解釈として、それは、差異共振性の「太極」を意味するように思う。陰陽論的多様性ないしは多元性である。
 想像するに、三柱の神とエローヒームは通じるのではないだろうか。ある神社にダビデの星のシンボルがあるということであるが、それは、考えられる。ダビデの星とは、正に、陰陽(太極)性を意味すると考えられるからである。
 とまれ、ついでながら、やはり、一神教はMedia Pointの陽化であると思う。陽化の神がヤハウェであり、Media Pointはエローヒームなのだろう。そして、必然的に陰化があるだろう。それが、イエス・キリストの意味かもしれない。ここで思考実験であるが、ヤハウェが+iならば、キリストは-iではないだろうか。しかし、両者はそれぞれ、極限である。あるいは、極性である。両極である。
 これを一元化するのは、誤りである。父と子は極性である。陰陽である。そして、両者の調和があるだろう。それが聖霊だろう。それが、Media Pointであろう。調和の霊としての聖霊、Media Pointである。(参照:ヴィヴァルディの『調和の霊感』)
 どうも、父と子の対極性とは、父権原理だと思う。それに対して、聖霊は母権原理だと思う。差異共振原理である。
 どうも、今日、これが発現していると思えるのである。父の原理が自由主義で、子の原理が民主主義ではないのか。聖霊が差異共振原理なのである。ヨアキム主義、聖霊の時代である。
 先に、自由主義も民主主義も個人主義も多神教原理に基盤があると言ったが、自由主義や個人主義は一神教原理に拠るだろうし、民主主義は多神教原理であろう。
 (脱線を続けるが、)今日、両者が衝突しているのである。新自由主義と共同体主義の衝突である。
 結局、調和として、差異共振原理が生起するのである。これは、自由主義(一神教)と民主主義(多神教)の超越的調和を意味する。Media Point原理である。トランス・モダン原理である。


2008年03月24日(Mon)▲ページの先頭へ
量子力学とPS理論:試論1:連続性の粒子と不連続性の波動の二重性:イデアとMedia Point
量子力学とPS理論:試論1:連続性の粒子と不連続性の波動の二重性:イデアとMedia Point

テーマ:相対性理論/量子論

研究課題であるが、今漠然と感じていることを記録しておきたい。直感である。
 量子ないしは素粒子は連続性と不連続性の二重性をもっている。周知の、粒子と波動の二重性もこの中に入るだろう。思うに、粒子とは連続性の概念であり、波動の方が不連続性に関係するのではないだろうか。つまり、粒子は実軸領域の事象であり、波動は虚軸領域の(超越的)事象ではないだろうか。
 そう、波動とは、正に、電磁波であり、よく知られた「奇妙な」性質をもっているのである。ベルの定理はそのようなものであるが、しかし、何度も既述したように、長距離相関とは、Media Pointを介した超越次元の事象であると考えるのが正しいと思われるのである。つまり、空間とは、Media Pointの穴が無数にあり、それが高次元へと導くのである。喩えて言えば、スポンジ状空間なのであり、穴一つ一つが、Media Pointで高次元・超次元へと通じているということになる。現象的には、Media Pointや高次元・超次元は不可視なのである。
 だから、量子力学とは、基本的には、高次元科学なのである。ただし、何度も指摘したように、近代主義/物質主義的視点から完全に脱却していないのである。もっとも、最近では、リサ・ランドールの高次元的量子論が出現して、物理学はトランス・モダン化へと進展し出したと言えよう。
 そう、思うに、量子・素粒子であるが、プラトニック・シナジー理論の観点から、Media Point自体と考えてもいいのかもしれない。あるいは、Media Point Particleである。Media Point子である。とまれ、Media Point科学となるだろう。
 だから、物質の本質もMedia Pointとなるだろう。そうすると、イデアとMedia Pointとの相違も明確する必要があるだろう。
 思うに、イデアはデュナミス(可能態、可能体)であり、Media Pointがエネルゲイア(活動態・活動体:実動態・実動体)ではないだろうか。
 しかしながら、デュナミスとしてのイデアは、ゆらぎがあるように思えるのである。つまり、端的に、イデアは太極、陰陽ではないだろうか。それは、易で明らかなように、恒常的な流転様態にあると考えられるのである。
 それとも、Media Pointを太極と見るべきなのだろうか。今のところは、イデアを太極と見たい。
 太極としてのイデアの回転が、自然・宇宙、また、人間社会をも動かしていると思えるのである。確かに、人間の知恵や力も能動的であるが、やはり、イデアが主導的であるように思えるのである。
 また、さらに考えると、イデアの多様性というか、振動の多様性が存しているだろう。換言すると、イデアの情報の多様性である。それは、イデアの波形、振動数に存しているのではないだろうか。
 問題は、現象の多様性とイデアの多様性の関係である。端的に言えば、イデアの多様性とは、一つ、又は、唯一のイデアが内包する多様性なのか、それとも、複数のイデアに拠るものなのか、である。例えば、花のイデアと木のイデアとは、唯一のイデアから派生するのであるのか、それとも、元々、別個のものなのか。
 この問題に関しては、エイドスを考えなくてはならないだろう。今のところ、私の考えでは、Media Pointの実軸点、つまり、ゼロ・ポイントであるが、ここにおいて、形相が発生している。これは、アリストテレスが言った意味であるが、この形相は、元はと言えば、プラトンのエイドスであると思う。
 整理すると、Media Pointの、いわば、下層部において、エイドスが発生し、それが、実軸のゼロ・ポイントにおいては、アリストテレスの形相になると思われるのである。
 思うに、このエイドスがイデアの多様性の様態を形成するのである。そして、エイドスの実軸化が形相であり、それが、情報物質的には、遺伝子を形成するのではないだろうか。つまり、イデアのエイドスの振動の、実軸化が形相であり、情報物質化が遺伝子ではないだろうか。この問題は検討課題にしておく。
 さて、問題点である、イデアの多様性であるが、生命体のイデアであるが、それは、基本的な構造が共通するように思えるのである。つまり、生命体の多様性であるが、それは、イデアのエイドスの変容で説明が可能であると思われる。
 だから、生命体のプロト・イデアがあり、それが、振動数の違いによって、多様な生命体が生まれるのではないだろうか。
 そう考えると、生命体の多様性においては、イデアの多様性とは、基本的に、唯一のイデアの多様性で説明できそうである。これは、敷延すると、他の現象の多様性も、唯一のイデアで説明ができるのかもしれない。この問題はおいておきたい。
 最後に、生命体の多様性は唯一のイデアで説明ができたとしても、例えば、人間と他の動物や植物の差異はどう説明がつくのあろうか。
 これは、以前、言及したが、Media Pointの開放性で説明がつくように思えるのである。例えば、犬の場合は、犬のイデア、ないしは、犬のエイドスは、犬という同一性=個体を形成するが、それによって、Media Pointは閉鎖するのである。犬は犬である。まったく同一性そのものである。
 それに対して、人間の場合は、同一性を形成しても、それは、差異を基づく同一性、鏡像的同一性、すなわち、自我であり、基盤としてのMedia Pointが、同一性形成後も開いているのである。つまり、新たな差異共振エネルギーが放出されているのが、人間と考えられるのである。この差異共振エネルギーによって、人間は、創意工夫して、諸文化を形成して、諸環境に対応してきたと考えられるのである。
 言い換えると、人間の場合、他の動物に比べて、Media Pointのエネルギーが過剰なのである。つまり、差異共振エネルギーが過剰なのである。そのため、同一性主義的な自己、すなわち、自我は、反動化して、暴力を引き起こすのである。だから、創造・平和の原動力が破壊・戦争に転化するのである。
 思うに、自我であれ、意識であれ、知性であれ、それらは、過剰なエネルギーの所産であると考えられるのである。
 思うに、他の動物の場合、内包されるMedia Pointが同一性形成において、いわば、尽くされるのであり、いわば、Media Pointと同一性が見合っているのである。過不足なく、閉じているのである。
 それに対して、人間の場合は、同一性(自我)を形成しても、それを逸脱する過剰なエネルギーがMedia Pointから放出されていると考えられるのである。初期は、同一性形成が中心であるが、その後、差異化・差異創造へと転換するのが本来的であるが、自己同一性=自我が中心化されていると、反動化して、悪徳化・病理化するのである。差異化・差異創造化は、芸術表現を含んで、叡知化とも呼べよう。
 とまれ、人間の場合は、本質的に、Media Pointのエネルギーが、他の動物に比べてはるかに強大であり、同一性化は自我を形成し、さらに、自我を超えて、自己創造へと発展する能力をもっているのである。(同一性主義に固着するのが、父権主義であり、差異共振性を開放させているのが、母権主義であると考えられる。)
 聖書で人間は神の形に似せて創造された(神の似姿)とあるが、それは、真実を捉えているだろう。神をMedia Pointの総合エネルギーとすると、人間はそれに類したエネルギーを内包していると考えられるからである。神秘学の伝統では、人間をコズミック・マンと表現するが、それも、それなりに真実的である。Media Pointをコスモス(宇宙)的とみることができるからである。そう、古代宇宙論(占星術)はそれなりに真実を含んでいると思われるのである。この点については後で検討したい。
 簡単にまとめると、生命体の唯一のイデアがあり、それが、多様な攻生命体のエイドスを形成するが、人間の場合、Media Pointにおいて、総合エネルギーが開放されているので、差異化が特質なのであるということになる。

余談:
シューベルトの名曲、弦楽四重奏ロザムンデの第1楽章を聴き、その対位法における差異性を認識し、また哀調から、シューベルトには、東洋の影響があるのではないかと思って、wikipediaで調べたら、父親がモラヴィアのドイツ系であった。モラヴィアとは、今日、チェコであり、ハンガリー王国に従属したことがあるのである。どうも、私の心眼ならぬ心耳には、シューベルト音楽には、このハンガリー王国のマジャール人の血がありそうに聴こえるのである。ジプシーの血といってもいいかもしれない。
 とまれ、私には、シューベルト音楽は、大バッハ音楽同様に、差異を感じさせる音楽であり、東洋的に思えるのである。偉大な音楽である。

p.s. 母親はシレジアの錠前屋の娘である。シレジアは今日では、ポーランド、チェコ、ドイツの交わる地であった。中欧ないしは東欧である。やはり、なにか東洋を感じさせる。


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近代主義の大崩壊:トランス父権主義とMedia Pointの開放系

テーマ:哲学

私が感じたことをKaisetsu氏が明敏に説明しているので、それは以下、参考1で読んでいただくことにして、私なりに簡単に述べてみたい。
 国家主義とは、父権主義にもたらしものであり、今日、超越エネルギーの貫流するグローバル経済において、完全に阻害するものになってきている。父権的自己同一性(自我)主義が、トランス・モダンへの相転移期において、反動になっているのである。
 巨視的に見ると、これは人類文化史上の大きな進化を意味すると考えられるのである。何千年前に現われた父権遊牧民、アーリア民族やセム民族の文明が今終焉しようとしているのであり、それ以前の母権文明が螺旋的に回帰しつつあると思われるのである。
 父権主義の反動的無能さは、現在の自民党政治や官僚制に現われている。これは、明らかに知的衰退、知的麻痺、劣化・退行である。そして、国民の多くも同様であると思われるのである。
 進展的な現実に対して、意識の遅れというか、意識の鈍化があるのである。では、この進展的な現実とは何だろうか。
 それは、端的に言えば、差異共振性が現実化していることである。それまで、近代合理主義・物質主義的二項対立原理でよかったが、いつからか、差異共振主義が現実化して、その原理は役に立たなくなってしまったのである。
 言い換えると、トランス・モダン変容が起っているのである。そう、明らかに、差異共振価値が近代主義の同一性価値に取って代わっているのである。
 これは、資本主義の変容である。近代資本主義は終焉したのである。トランス・モダン資本主義である。
 言い換えると、縦割りの同一性主義から水平的共振主義へと転換しているのである。この進展の中間にポスト・モダン時代があったが、今やそれは反動形態となり、トランス・モダン化が中心化しているのである。PS理論から言うと、Media Resonanceが普遍化しているのである。
 端的に、同一性価値はもう意味がないのである。近代主義においては、同一性価値は目的であったが、今や、無意味である。
 差異共振大進化だと思う。これに対応しない体制はすべて壊滅していくだろう。

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参考1:

現在起こっておるのは、ウェブ(精神世界、電磁波的世界)への権力移譲である。+ 日本におけるウェブ中枢は、ブログ世界

2008.03.24 Monday

現実の現象界権力の崩壊、浮遊化、価値減少、帝国の崩壊、多極化と見える状況は、実は、現象界権力機構の上に、上方に、価値階段の上層部に、ウェブ権力機構が創設されつつあることの、現象界からの見え方であろう。
但し、「精神世界」は、必ず、「身体」を必要とする。
その生活世界の中枢部のロケーションは、USAに存在する。
人間としての個体がUSAにある、というのではなく、精神世界の秩序、アルゴリズム、言語的秩序は、USAによって制御されている。
 オイル価格も、実は、超現実世界によって形成されている。ヘッジファンドも、量子力学の世界によって「秩序」付けられている。為替動向も、所謂、ウィーナー過程(ブラウン運動)的世界によって形成されている。
 つまり、精神世界、電磁波的世界が、現実世界、生活世界を支配する仕組みが構築されつつあるのである。
 日本におけるウェブ中枢は、ブログ世界である。
 このブログを支えているのは、アルファベットであり、USA言語体系である。具体的には、ロスアラモスの系譜である。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=640640
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu


2008年03月23日(Sun)▲ページの先頭へ
自己同一性=自我形成における原ルサンチマンや優越性の発生のシステムと身体差異の否定/同一性化暴力
この問題は先に、Media Pointからの同一性主義の形成の考察で検討したが、ここでさらに明晰化したい。
 Media Point の原差異から同一性形成が行なわれる。そのとき、物質身体の成長も為される。同一性は自己身体という他者に遭遇して、原ルサンチマンを形成すると考えた。だから、自己身体の否定・排除・隠蔽があると思われるのである。同一性の下、具体的には視覚主導の下で同一性が形成されていくと思われる。つまり、同一性視覚が主導して、自己同一性=自我を発達させていくとということになる。
 この同一性主義形成は、身体の差異を否定すると考えられるのが、しかしながら、同一性視覚に基づいて身体を秩序づけていくと考えられる。つまり、同一性視覚にそぐわない身体性は否定されて排除されるということである。
 言い換えると身体は同一性化ないしは同一性主義化されるのである。差異としての身体が否定抑圧隠蔽されるのである。
 そして、この差異身体の抑圧とは、根源に原ルサンチマンがあるのである。この力学を明らかにしなくてはならない。つまり、他者としての差異身体の発生があり、それが、原ルサンチマンを生むのである。
 この差異身体について言うと、外的な差異よりは、最初は内的な差異に遭遇すると思われるのである。例えば、幼児が空腹の状態になるとき、その幼児の身体が内的差異となると考えられる。つまり、幼児の自己同一性=自我のシステムにとり、空腹は同一性ではなくて、差異と考えられるのである。
 幼児は本来的には、Media Pointの歓喜をもって自己同一性=自我を形成しているが、そこへ、身体の差異が出現して、自己同一性システム(同一性主義)にひびを入れるのである。身体の差異をマイナスとすれば、このマイナスをさらにマイナス化して、プラスに変えて、自己同一性システム(自我システム)に統合するのである。正に、ヘーゲル弁証法過程がここにあると言えよう。しかし、身体の差異は-iであり、これをマイナス化するとは、-(-i)=+iであり、自己同一性の+iに組み込むのである。そして、否定された身体の差異-iは、無意識へと沈殿するようになると言えよう。この問題はここまでにする。
 さて、原ルサンチマンの発生であるが、本来、差異から生まれた同一性であるが、最初はまだ差異の内包された同一性である。しかしながら、身体の差異に遭遇するとき、つまり、他者に出会うとき、その他者に同一性投影を行い、自己同一性=自我形成を行うのではないだろうか。
 この同一性投影像が鏡像であり、自我の理想像のように思えるのである。すなわち、ここでは、同一性と同一性像の二つのものが対になり、自我を形成すると考えられるのである。つまり、有り体に言えば、自我とはコピーなのである。同一性像=鏡像のコピーなのである。【だから、やはり、(+i)・[-(- i)]=-1になるのではないだろうか。】
 そして、(原)同一性と同一性像(鏡像)との連結が自我となり、その同一性像と結合した自我(自己同一性)を否定する差異に対して自我は原ルサンチマンを生起すると考えられる。
 この原ルサンチマン力学は二項対立であり、プラスとマイナスの力学と考えられる。即ち、同一性はプラスとされ、差異はマイナスとされ、厳格に排除されるのである。
 思うに、同一性の力をプラス・エネルギーと考えていいのではないだろうか。結局、原ルサンチマンの力とは、同一性主義のプラス・エネルギーであると想定することができる。
 また、本件のテーマの一つである優越性であるが、思うに、これは端的に、劣等性の裏返しであると思われるのである。つまり、鏡像と結合して生起した自己同一性=自我であるが、それは、まだ、自己陶酔状態にあるが、それが、身体の差異(他者)に遭遇したとき、それに対して無力であり、劣等性を感じるのである。このとき、自我は他者を同一性化して、その同一性において、自己満足し、また、優越性を感じるのである。この他者の同一性化、これが、劣等性の裏返しの優越性の発生の原因であると考えられるのが、では、どうして、他者(身体の差異)の同一性化が優越性となるのだろうか。
 それは、最初は他者に対して無力であり、劣等性を覚えていたわけであるが、その他者を同一性化することで、他者を支配することができるからではないだろうか。
 思うに、言語習得もこの他者同一性化過程であると思われるのである。そして、しかし、この他者同一性化におけるポイントは他者否定によって同一性化するということであろう。即ち、この他者否定という暴力がここにははたらいているのであり、このいわば、同一性化暴力を確認しないといけない。端的に、自我形成とは、同一性化暴力の行使過程でもあるのである。
 以上、自己同一性=自我形成における原ルサンチマンや優性形成や同一性化暴力について考察することができた。
 最後に、付加的に、同一性視覚による、身体の差異の否定における差異の視覚の否定について簡単に述べたい。これは、美学の問題でもある。同一性視覚によって、差異の視覚が排除される。しかし、差異の視覚とは差異共振的視覚、すなわち、美の視覚であると考えられるのである。つまり、同一性視覚は差異視覚を否定して、美を喪失する視覚であると言えよう。言い換えると、美を喪失した物質的視覚であると言えよう。そして、差異共振視覚による美とは精神性であるから、それは、倫理をも喪失した一面では反社会的視覚であると言えよう。つまり、自我形成とは倫理的には反社会的なのである。
 とまれ、視覚の問題にもどると、否定される差異の視覚であるが、それは、身体の差異の視覚である。そして、それこそ、想像力、ヴィジョン、エイドス、イデアと呼ばれるべきものもつと考えられる。
 同一性視覚=自我視覚によって、差異視覚・ヴィジョン視覚が喪失されて、視覚は物質現象へと限定されるのである。


東洋の「全体主義」と西洋の「個人主義」:東洋の母権統合型父権一元論と西洋の母権/父権の平行二元論
東洋の「全体主義」と西洋の「個人主義」:東洋の母権統合型父権一元論と西洋の母権/父権の平行二元論

テーマ:自由主義・民主主義・全体主義・独裁主義

それぞれ、括弧に括らないと、正に、西洋中心主義ないしはオリエンタリズムになってしまう問題であるのだが、本稿のテーマは、どうして、チャイナに共産党があり、北朝鮮に独裁国家があり、また、日本は、戦後「一党独裁主義」であるのはどうしてなのか、また、西洋は独裁主義を排して個人主義を保っているのはどうしてなのか、である。
 しかしながら、後者の問題は、もはや問題ではないだろう。ブッシュ政権は一種の全体主義と見られるからである。ネオコン的全体主義である。
 だから、問題は、前者の東洋の問題である。近代西欧・米国は周知のように絶対主義政権に対して、自由主義・民主主義・個人主義を標榜して、今日の脱全体主義的社会を形成したとはいちおう言えよう。
 (ここにレーニン主義の問題があるが、それは、いちおう置いておきたい。)
 私は今、作業仮説をもっている。即ち、西欧文化は、母権多神教と父権一神教が平行している文化であり、自由主義・民主主義・個人主義は、母権多神教を基盤にして生まれているのであり、その表現として、父権一神教的形態をとっているのではないのか、というものである。これは、これまで、プロテスタンティズムはルネサンスを包摂否定しているという考え方とは別の考え方である。
 そして、それと呼応して、東洋は母権的多神教が父権的一神教ないしは父権的共同体主義に包摂否定されているのではないのか、ということである。つまり、西欧文化というより、西洋文化は母権多神教と父権多神教の二重構造をもち、前者を母胎として、後者の形態(同一性主義)をとって、自由主義・民主主義・個人主義が生まれたのであり、東洋文化の場合、母権統合的父権主義であり、それが、近代化に際して、父権主義的連続的同一性が主動的になり、内なる母権多神教のもつMedia Pointが連続化して、全体主義化したのではないのか、というものである。簡約すれば、西洋は母権と父権の二元論であり、東洋は母権的父権性の一元論であるということになる。
 しかしながら、今日、西洋は、両者の混淆様態にあり、また、父権的意識によって、ポスト・モダンとトランス・モダンの中間態にあるのではないだろうか。
 それに対して、東洋(日本)は、ポスト・モダンを経験したが、父権主義を突破できずに、また、近代主義へと反動化してしまったのではないだろうか。それが、政治的には、小泉・安倍・福田路線ではないだろうか。
 しかしながら、今日、現代(2008年3月23日日曜現在)、内的な母権性、すなわち、Media Pointが開かれているのではないだろうか。プラトニック・シナジー理論は、日本で生まれた理論であり、西洋と東洋の統一の理論であるが、それは、思うに、母権統合的父権主義という一元論の内部に生まれた理論であり、いわば、内的な突破であり、端的に、母権統合的父権主義の乗り越え、つまり、現代的父権主義の乗り越えの意味があるのではないだろうか。つまり、トランス父権主義であり、新母権主義であると考えられるのである。
 西洋は近代においては、確かに、自由主義・民主主義・個人主義という積極的価値観を獲得したものの、父権主義と母権主義の平行的混淆様態のために、ポスト・モダンで行き詰まり、トランス・モダンへと転移できないのではないだろうか。それが、例えば、現在のサブプライムローン問題の金融問題を起しているのではないだろうか。
 しかしながら、アメリカ大統領選挙候補者予選において、オバマ氏の政治理念がトランス・モダンと考えられるので、欧米においても、トランス・モダン化の胎動していると見ることができよう。
 日本においては、父権的共同体的全体主義がなってしまっているのである。もっとも、内なるトランス・モダンは少数者に胎動しているのである。思うに、西洋の場合は、混淆になりやすいが、東洋の場合は、一元論のために、純粋トランス・モダンになるように思えるのである。
 とまれ、本テーマの作業仮説はいちおう結論は出たことになる。

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モーリス・ブランショの共同体論:ポスト・モダンとトランス・モダンの境界の動き

テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏

目覚まし時計をセットした時間よりもかなり早く目が覚めてしまい、起床することにして、手元にあった本が以下のブランショの『明かしえぬ共同体』であり、数ページ読んでみたが、先に言及したジャン=リュック・ナンシーの共同体論(私が読んだのは『共同ー体(コルプス)』であり、ブランショが言及しているのは、私が未読の『無為の共同体』であるが、共同体論では通じているだろう)に言及して、ブランショが共同体論を論じているのであり、バタイユを取りあげている。
 ブランショの論は何か古典的な内容で私を魅するのである。言い換えると、懐かしい議論なのである。つまり、特異性(個)と共同体の矛盾と関連性(一種、「絶対矛盾的自己同一」)を語りだしているからである。実にこの問題は、不連続的差異論で解明し、さらにプラトニック・シナジー理論で徹底的に解明されたのである。
 ブランショの議論は、ポスト・モダンの中に胎動するトランス・モダンを周辺に展開するように思えるのである。ポスト・モダンにあって、トランス・モダンである、それまでの共同体ではない共同体を語りだしていると思われるのである。以下の一節はポスト・モダンの限界があるように思える。

「個人はおのれを宣明するとき、譲渡不可能な諸権利を身に帯び、おのれ以外に起源をもつことを拒否し、彼同様の一個人ではないような他者に対する依存関係のすべてに無関心な者として現われるが、その彼同様の一個人とは、過去においてであれ未来においてであれ際限なく反復された彼自身なのであるーーこうして個人は、死すべき者であると同時に不死の者として己を宣明する。」 p.012(赤色文字強調renshiに拠る)

共産主義と共同体の問題に関連してブランショは述べているのであるが、赤い文字で私が強調した「反復された彼自身」に問題があるように思える。あるいは、「個人」に問題があるのであるが、そのとき、特異性は、不連続性や差異共振性を帯びずに、連続性ないしは同一性を帯びたままではないのか、という疑問があるのである。
 これは、不連続的差異論が生まれる前、私が悩んだ問題である、というか、ポスト・モダン理論の核心にある問題なのである。つまり、特異性のもつ不連続性と連続性との問題であり、ブランショ自身、不連続性と連続性の混淆にまだ囚われていると思われるのである。だから、ブランショはポスト・モダン的であり、トランス・モダンへ向けて思考していると言えそうである。
 結局、プラトニック・シナジー理論が明らかにしたことは、特異性に基づく他者との共振(共鳴)性があり、それが、従来の連続的な、ないしは、同一性的な共同体とはまったく異質なものであり、未来的なものであり、トランス・モダンと呼ばれるべきものなのであるということである。
 私はブランショの考察を少し読んで、共同体という言葉を以前、少し用いた共振体という造語にしたらどうかと思ったのである。あるいは、共鳴体でもいいだろう。ただし、社会性が見えにくい嫌いはあるのである。だから、丁寧に言えば、差異共振共同体(差異共鳴共同体)ないしは差異共振社会体(差異共鳴社会体)と言うことになるだろう。
 思うに、あえて言えば、プラトニック・シナジー理論はこれまでの哲学を古典にしてしまったのである。

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫) (文庫)
モーリス ブランショ (著), Maurice Blanchot (原著), 西谷 修 (翻訳)

モーリス・ブランショ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モーリス・ブランショ(Maurice Blanchot, 1907年 9月22日 - 2003年 2月20日 )はフランス の作家 ・批評家 。通称“顔の無い作家”。ストラスブール 大学卒業。戦前のポール・ヴァレリー に比せられる戦後最大のフランスの文芸批評家であるという評価が定着している。

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素粒子のスピンの図からプラトニック・シナジー理論の1/4回転と関係しそうだと直感した。

テーマ:相対性理論/量子論

素粒子と物理法則―窮極の物理法則を求めて (ちくま学芸文庫) (文庫)
リチャード・P. ファインマン (著), スティーブン ワインバーグ (著), Richard P. Feynman (原著), Steven Weinberg (原著), 小林 〓郎 (翻訳)

ちらと見たが、素粒子のスピンの図からプラトニック・シナジー理論の1/4回転と関係しそうだと直感した。
 以下、カスタマーレビューから。

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5つ星のうち 4.0 「第1回ディラック記念講演」(1986年)の講演記録、物理屋の姿勢が窺える, 2006/10/24
By ゴルゴ十三 "じゅうそう" (Japan) - レビューをすべて見る
(TOP 100 REVIEWER)
本書は1990年に発刊された単行本を文庫化したものですが、訳注や文庫版あとがきが良くできています。「文庫版あとがき」が理解出来るレベルの読者なら「物理を深く理解する姿勢」を両博士の講演から楽しめるでしょう。(ファインマン先生の講演ではファインマン図/光円錐が出てきますので、この意味が分からないとつらいかも?)
ファインマン先生の講演では、(1)粒子が正エネルギーしか取らないとすると、粒子が光円錐の外へ因果律を破って伝播するのを避けられず、その粒子を別の座標から眺めると反粒子(=時間的に逆行する粒子)として認識されること、(2)ある事象の起きる全確率=1を良く見直すと、反粒子の存在と対発生のために生じる余分な図形がスピンを持たない粒子に対してボーズ統計が成り立つことを意味し、同じことをフェルミオンに対して考えると、粒子の入れ替えについて負符号が現れること(フェルミ統計)、(3)2回時間反転すること=360°回転は同じで、これがスピンと統計の間の関係やパウリの排他律を与えること、の3点を主に説明されています。モノポールに関する言及もあり、ディラックの業績を意識した内容です。
ワインバーグ先生の講演では、量子電気力学とその一般化(統一理論)に伴う困難(e.g.発散の問題)、量子重力も扱えそうな期待株としての超弦理論について一般的な解説がなされています。現在も超弦理論について同じ期待を寄せているかどうか、興味があるところですが。



ポスト・モダン様態の近代的自我の心的病理相について:差異エネルギーを無意識的に暴圧する近代的自我
近代的自我の「狂気」についてはほぼ解明できたと思っているが、まだ多少不明瞭な箇所があるので、ここで検討したい。
 結局、問題点は、同一性主義が自己完結して、差異とは乖離してしまうのか、それとも、差異のエネルギーに突き動かされて、同一性主義が暴力化するのか、である。
 先に前者の考えをとったが、それ以前はずっと後者の考え方をしてきたのである。また、直近の結論では、両者同じことであると述べたと思う。精緻に考える必要がある。
 ポスト・モダン様態では、同一性の生成エネルギーが衰退して、差異のエネルギーが発動するようになるとしよう。これは、陰のエネルギーの発動と考えられる(仮説)。
 近代的自我は差異の抑圧否定によって成立する。つまり、近代的自我の同一性主義と差異(共振性)には壁がある。しかしながら、ポスト・モダン様態においては、差異エネルギーが賦活されて、同一性主義の壁を圧迫すると考えられる。しかしながら、近代的自我はそれをまったく感知していないので、無意識の差異(共振)エネルギーの圧力の影響を受けることになると考えられる。つまり、賦活された差異エネルギーの圧力に対して、同一性主義の近代的自我はそれを無意識のうちに、抑圧するのであるが、差異エネルギーが当然、動態なのである。同一性主義による無意識の抑圧も動態となるのであり、それは、端的に、無意識の暴力的なもの、即ち、衝動的な暴力的なもの、非合理な暴力的なものになると考えられよう。
 正に、この暴力的なものが、狂気と言えるだろう。(私が近代的自我は狂気であると言うのは、特にポスト・モダン様態において言えるだろう。)差異的なものを無意識の内に衝動的に暴圧するのである。この衝動的暴圧が狂気と言えよう。(そう、近代的自我は傲慢でもあるので、狂気暴圧的傲慢さをもつとも言えよう。端的に、悪魔的様相である。)
 ということで、本件であるが、やはり、先の結論通り、同一性主義は、差異から乖離すると同時に、差異のエネルギーを暴圧するので、反動的衝動性をもつのである。これは、確かに、パラノイアであり、「統合失調症」であり、また、うつ病的であろう。
 今日の心の病の内因がここにあるのではないだろうか。また、先にも言ったが、差異を意識・認識する教養知性が欠落していることも、心の病を蔓延させている一つの要因だと思われる。
 最後に付加すると、このポスト・モダン様態の近代的自我はどうなるのだろうか、という問題があるのである。狂気の様態であるが、どうなるのか。差異エネルギーはさらに賦活されると考えられるので、差異エネルギーの動態の強化と同時に近代的自我による無意識の暴圧衝動が生起するので、近代的自我の狂気は度を増して、そのままでは、決定的に狂人廃人となるだろう。
 差異を感知し、意識し、認識し、差異を主体とすることを学ぶ必要があると考えられるのである。これは、同一性主義にとり、驚天動地であろう。新しい天地である。


2008年03月20日(Thu)▲ページの先頭へ
根源的ルサンチマン/自我優越性に関して再考:Media Pointの大歓喜からの、同一性の絶対優越性と原ルサンチマンの発生過程について
根源的ルサンチマン/自我優越性に関して再考:Media Pointの大歓喜からの、同一性の絶対優越性と原ルサンチマンの発生過程について

先に、出生時における根源的トラウマとしての原ルサンチマンと自我優越主義について述べたが、この問題をさらに精査していきたい。
 まず、仮説として、イデア=魂とする。これが、Media Point 化するのが、出生であろう。【受精についてであるが、これについては後で検討したいが、一言言えば、これは、物質的生命体の生殖原理に則したものであり、遺伝子の融合の問題である。しかしながら、そこには、精神・意識がないと思う。つまり、精神・意識とは、なんらかの「電磁波」が物質的生命体に接着するものではないだろうかと思えているのである。この点では、霊学的視点である。】
 そのとき、イデア=魂は同一性を形成する。しかしながら、初期の同一性形成は、差異と共存したものであり、ルサンチマンは生じていない。いわば、天真爛漫状態である。
 問題は、成長過程において、同一性が拡大するときである。幼少児は、外界の他者が自己の差異/同一性の心に対して、苦を与える存在であることを感じる。幼少児の差異/同一性の心とは、Media Point の心、イデア界が残っている心であり、心魂である。【この心魂とは、同時に、身体と共振・共鳴していると考えられる。思うに、イデア=魂は身体において、同一性化して行くのであるが、この同一性感覚・知覚が魂の同一性化としての心であろう。精緻に言うと、原点はイデア=魂であるが、それが、Media Point 化することで、身体と一如になるが、その(Media Point 的)身体の場において、同一性化が発展するのであるが、そのとき、心・意識が発生すると考えられるが、その心は感覚・知覚であるだけでなく、魂にも通じていると考えられるのである。つまり、心とは、物質的身体的感覚であると同時に、魂的感覚・精神的感覚でもあるということになる。簡明に言えば、物質的感覚であり、且つ、精神的感覚であるということである。ここで、感性について説明すると、感性とは、この心を介した精神的感覚のことを指すと思われる。言い換えると、物質的感覚から心を介した魂的精神的感覚のことであると考えられるのである。そして、これが、芸術・アートの「美」を意味すると思われるのである。】
 このイデア界の「記憶」を残す幼少児の心であるが、外界の他者からもたらされる苦によって、原ルサンチマンを形成すると思えるのである。否、厳密に言えば、イデア=魂の物質・身体化における同一性化プロセスにおいて、生起する心は、Media Point の根源的差異/同一性の調和様態からの離反を感じて、原ルサンチマンを感じるのではないだろうか。つまり、物質的身体という他者が存するようになるのであり、それと根源的差異/同一性様態が齟齬を来すと考えられるからである。
 つまり、物質身体同一性形成過程において、自己は自我化して、原ルサンチマンを形成するということになる。即ち、差異と同一性化の間に齟齬が発生し、その齟齬が同一性の側(自我)から差異(原自己)に対する原ルサンチマンを喚起すると考えられるのである。端的に言えば、同一性過程とは分裂過程なのである。それまで、Media Point 様態(胎内時ないしは出生時)においては、差異に同一性が包摂されている差異共振様態にある。しかるに、物質身体的同一性過程において、Media Point 様態の魂が同一性的心化していくが、その同一性発展過程において、魂が二分化されるようになるのである。即ち、同一性化された魂(自我)と根源の差異(差異共振性)である魂(原自己)の二分化・二元化である。両者を合わせて心と呼んでいると考えられるが、この心において、同一性魂(自我)と差異魂(原自己)の分裂様態が生起するのである。そして、前者の同一性魂(自我)は、その欲望・快感・快楽から、差異魂(原自己)の歓喜・共感性・共振共鳴性を否定するようになるのである。
 ここにおいて、きわめて複雑な心的現象が起きていると考えられる。この分裂的二重心性が幼少時に生起するのであるが、そして、根源の差異/同一性(Media Point 心性)は、同一性プロセスの発達にともない、苦を与える他者に対して、原ルサンチマンを発現させるが、最初の他者は自己同一性物質身体である。その自己身体に対して、原ルサンチマンが生じるのである。この原ルサンチマンを感覚・知覚する主体は何かと言えば、同一性魂であろう。精緻に言えば、差異のスクリーンに映った同一性像(鏡像)に基づく同一性自己=自我である。差異スクリーンに映った同一性像(鏡像)とは、背景に差異(差異共振性)、即ち、イデアが存しているのであり、それが、いわば、超越神的に、自我を支えているのであり、絶対的な自我を形成しているのであるが、それが、発生・出現・発現する他者によって原ルサンチマンを発生させると思われるのである。換言すると、イデア、この場合は、超越神的イデアに支えられた自我は当然、優越主義的自我であり、それが、発現する他者に対して原ルサンチマンを発生させるということである。
 この自我形成のメカニズムは正に、父権一神教の構造と等価であると考えられるのである。
 整理すると、イデア=魂は出生時において、Media Point 化する。それは、差異に包摂される同一性の様態である。あるいは、差異と同一性との共存様態にあり、それは、イデア界の記憶があり、歓喜に満ちている。それは、明確にするため、原歓喜ないしは大歓喜と呼んでいいだろう。地上楽園様態である。【思うに、空間的には、山頂・山巓で表現されるのではないだろうか。(参照:天の逆鉾。この逆さまがポイントであろう。イデア界から現象界への降下は、転倒するのである。本来、主である差異が従となり、本来、従である同一性が主となるからである。逆さまとなるのである。)】
 しかるに、イデア=魂は現象界において、同一性志向性をもっているので、同一性を発達させるのである。即ち、Media Point 共振様態から同一性傾斜が始まるのである。この同一性傾斜において、自我が発生するのであるが、それは根源的差異を背景としながらも、差異の同一性像(これが超越神であろう)に基づいて、自我形成するが、それは、差異の同一性像(鏡像=超越神)と同一性化(コピー化)しているので、絶対的優越化した自我であるのである。また、同一性傾斜過程における他者が出現するが、それは、絶対的優越自我に対して苦を与えるので、絶対的優越自我は、原ルサンチマンを帯びることになるのである。以上が本件に関する新たな解明である。
 最後に敷延的に、この同一性自己=自我(近代的自我)の形成が終焉した後のことを言うと、当然、それは、ポスト・モダン的ショート(短絡)様相=狂気・倒錯相となり、さらには、トランス・モダン的螺旋回帰を起こすと考えられる。
 このポスト同一性の再差異化であるが、その源泉は何であろうか。これまで様々に仮説を述べ、また、試論を行ってきたが、一つの主要な仮説は、エネルギーの変遷、乃至は、回帰という事態(心態・魂態・心魂態)である。即ち、初期・前期において、同一性化=自我化が進行する。しかしながら、中期・後期においては、同一性化=自我化が消滅して、再差異化=自己化が生成するというものである。言い換えると、エネルギーの反転過程ないしは循環過程であり、エネルギーの螺旋的回帰過程である。説明すると、前半の同一性形成過程においては、同一性エネルギーが活性化して、差異は抑圧否定される。しかし、後半においては、同一性エネルギーが衰退して、差異エネルギー(差異共振エネルギー=超越エネルギー)が活性化する。
 問題は、この活性化する差異エネルギーとは何であるのか、ということである。ここでも思考実験であるが、同一性エネルギー化とは、+iの主導化であり、差異エネルギー化とは、-iの主導化ではないだろうか。+iを陽、-iを陰とすれば、差異エネルギーは陰化である。これは、身体化と言えよう。
 しかしながら、この差異化=陰化=身体化とは、単極化ではなくて、前半において形成された同一性化に対する対極化であり、当然、差異共振作用を帯びるのである。(先に、モームの『月と六ペンス』の主人公ストリックランドについて、身体的霊性があると言ったが、この差異化=陰化=身体化のもたらす差異共振作用は、身体的霊性化に通じるであろう。)
 思うに、前半の同一性過程が1/4回転ならば、後半の差異過程は次の1/4回転ということではないだろうか。とまれ、易学的に言えば、トランス・モダンとは、陽極まりて、陰に転ずと言い換えられよう。

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多神教原理(差異原理・自己原理)と一神教原理(同一性原理・自我原理)の相克としての近代主義とその乗り越えとしてのトランス・モダン:トランス一神教原理としての新多神教原理としてのトランス・モダン・エイジ(トラモ時代)

先に自由主義、民主主義、個人主義の源泉は多神教原理であると述べた(共同体主義もこれが源泉である)。それは、当然、仮説であり、これをたたき台として、さらに検討したい。
 問題は西洋近代であり、私はそれを多神教原理と一神教原理の相克の時代と考えている。言い換えると、自己主義と自我主義の相克の時代である。つまり、人間・社会の内部に二つの原理が相克している様態が近代であるということである。
 自己は個や魂を志向するが、自我は同一性知性を志向する(近代的自我/近代合理主義)。換言すれば、差異主義と同一性主義との衝突である。思うに、この相克過程の中から、多神教原理を基盤にして、明確な民主主義、自由主義、個人主義、共同体主義等の価値観が生まれたのである。思うに、それは、多神教原理の一神教原理的表現だと思われるのである。差異原理の同一性原理による表現である。ここが要注意のポイントである。非常に微妙な事柄である。
 思うに、多神教原理は、わかりやすく言えば、相互扶助的世界、フッサールのいう生活世界(生世界)の原理であり、実質的民主主義、自由主義、個人主義、共同体主義の世界である。しかしながら、近代においては、一神教原理(近代的自我・近代合理主義)が発展して、社会を変容した。資本主義の進展によって、貨幣資本の同一性主義が強化されて、伝統的共同体(多神教原理)が解体されたのである。この中(カオス)から、政治・経済・社会・文化的に、民主主義、自由主義、個人主義、共同体主義等が生まれたのである。
 つまり、それらは、無意識であった多神教原理に一神教原理的表現(ロゴス)を与えたものと考えられるのである。しかしながら、それらの観念は基盤の多神教原理を認知していないのであり、無意識的に排除していると言えよう。ここに、近代的民主主義、自由主義、個人主義、共同体主義の限界が存していると言えよう。言い換えると、近代的民主主義、等々は、多神教原理(差異価値)を底上げするようにして、一神教原理(同一性価値)化したものなのであり、極言すれば、折衷・妥協的なもの、ないしはアマルガムである。端的に、差異の同一性化である。
 しかしながら、この一神教原理(同一性価値)化は、それなりに意味をもっている。つまり、一般化ないしは普遍化したからである。つまり、理念化されたのである。これは評価されなくてはならない。近代の積極的な価値である。
 しかしながら、近代主義は、一神教原理(同一性価値)が貨幣資本中心主義と近代的自我/近代合理主義によって強大・強固であり、多神教原理(差異原理・個原理・自己原理)は解体されていくのである。近代的民主主義は、その同一性原理によって無力化・形骸化するのである。
 今日、ポスト・モダンを経たグローバル経済世界において、差異原理は同一性原理に仕えるようになり、ショート(短絡)するようになり、私の言い方では、同一性原理は狂気化しているのである。偏執狂(パラノイア)化である。この問題も難しいのであるが、今、簡単に言えば、多神教原理(差異原理・個原理・共同体原理)が賦活・活性化されて、超越エネルギー(差異共振エネルギー)を放出しているのであり、同一性原理のシステム(近代主義システム:例えば、官僚体制)を解体して、超越エネルギー積極・肯定的に受容する新しいシステムが必要であるということである。これが、トランス・モダン・パラダイム・チェンジである。あるいは、トランス・モダン進化である。
 これは、民主主義、自由主義、個人主義、共同体主義のトランス・モダン化を意味するし、当然、資本主義のトランス・モダン化でもあるのである。トランス・モダナイゼーションtrans-modernizationである。
 また、根本的は、意識・知性・インテリジェンスのトランス・モダナイゼーション(今風に短縮して、トラモ化ないしはトラモ主義化)である。そして、この哲学科学的原理をプラトニック・シナジー理論(PSセオリー)が明示していると考えられるのである。
 来るべき時が来たのであり、来るべき理論が生まれたのである。


2008年03月19日(Wed)▲ページの先頭へ
同一性自己・自我形成(自己内の自我形成)と同一性自己・自我主義(あるいは、近代的自我/近代合理主義):同一性渇望が差異を抑圧し、自我を形成する
同一性自己・自我形成(自己内の自我形成)と同一性自己・自我主義(あるいは、近代的自我/近代合理主義):同一性渇望が差異を抑圧し、自我を形成する

問題は、Media Point からの同一性形成の事象であるが、果たして、同一性形成がMedia Point の差異(差異共振性)を否定し、排除することが必然的なのか、ということである。例えば、幼子が花にとまる蝶を見て、心を魅かれて、母親にそれは何かと尋ねるとしよう。その時、幼子の心には、魅力的な映像が映っているだろう。それが何かはわからないのである。好奇心が湧いて尋ねるのである。それは、知への純粋な発動である。そこには、その対象を所有しようという自我欲望はない。
 その幼子の心に、Media Point がひらいている。つまり、Media Point のひらいた心に花に留まる蝶を映しているのである。このとき、視覚と魂とは一如(いちにょ)である。あるいは、心魂と視覚は一つである。心魂視覚と言ってもいいだろう。それは、内なる眼であり、同時に、外なる眼である。内と外との一体化である。
 その心の視覚(心眼)に対象が映るが、それを、幼子は母親から蝶と習う。心眼に映る映像が蝶と言語化されるのである。思うに、心眼における認識衝動がノエシスであり、心眼に映る対象がノエマであろう。そして、蝶という言葉によって、その認識衝動がいったん終息する。思うに、ノエシスの認識エネルゲイアに対して、言語は認識エンテレケイアと言えるのではないだろうか。
 とまれ、ここでは、原認識においては、差異と同一性は一如である。差異の原空間に同一性が生起しているのである。差異・即・同一性である。あるいは、差異⇒同一性である。ここには、同一性による差異の抑圧否定はないのである。
 そう考えると、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、先に、左辺の抑圧否定を意味すると言ったが、そうではなくては、左辺が形成し、内包する右辺=同一性と見る方が正しいことになるだろう。そう作業仮説して、抑圧否定する場合を検討しよう。
 それは、明らかに、自我によるのである。自我は同一性から差異を切り離すのである。しかしながら、この分離は実際の分離ではなくて、抑圧否定なのである。つまり、連続的否定なのである。何故なら、差異と同一性は本来、一如であるから、分離はできないのである。しかし、同一性は差異に含まれるとは言え、差異と同一性は別のものである。即非関係である。
 とまれ、同一性により、また、同一性の言語化により、自己は発達する。しかしながら、それは、自我とはなっていないだろう。幼子においては、差異と同一性は一如であるから、未分化ないしは非分化である。強いて言えば、「わたし」は蝶であるし、また、蝶ではない、ということであろう。この「わたし」は自我ではなく、自己である。
 自己が自我へと転移するには、同一性映像に自己ないしは差異がはめ込まれる必要があるだろう。言い換えると、差異の同一性への縮小・収縮が必要である。同一性へと差異が没入することが必要である。これが、プラトニック・シナジー理論が言う連続化の原理である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で言えば、右辺だけの事態の成立と考えられる。左辺は抑圧否定されたのである。
 これは、ラカンでは鏡像段階ということになるのであるが、それは、鏡像への転移という言い方が適切であろう。疎外と言ってもいいだろう。内なる差異から外なる同一性へと転移するのである。これが自己(原自己)から自我への転換と考えられる。
 問題はこの転移・転換の力学である。イデアから現象への転移・転換とも言えようし、また、多神教から一神教への転移・転換とも言えよう(必ずしも、発展・展開ではない)。
 この問題が究極的なポイントである。この点に関して、これまで、様々な試行錯誤を行った。問題は、原点の差異自体の様相の問題なのか、それとも、原点の差異のもつ力学の問題なのか、である。これまで、両者の場合をそれぞれ考えてきた。
 これは、後者で説明ができるだろう。つまり、問題は鏡像=同一性への没入であるが、それは、感覚・身体欲望で説明がつくのではないだろうか。幼子の場合は、花に留まる蝶をいわば観照するだけでよかった。しかしながら、人間は生きる為に、感覚・身体欲望を満足させなくてはいけない。狩猟採集、焼き畑、農耕、牧畜・遊牧等に従事して、食料を得なくてはならなかった。つまり、端的に、同一性を欲望するのである。この同一性欲望が自我の根因であろう。つまり、差異=原自己から同一性=自我への転移はこのことが契機ではないだろうか。同一性欲望が、差異を抑圧否定する力であるということになる。仏教で言えば、色である。色即色である。これが、自我であり、無明である。言い換えると、卑しさが、自我の原因なのである。歓喜ではなく、貪欲が自我の原因である。
 思うに、一神教が砂漠環境に生まれたのは、この点から説明ができそうである。砂漠といういわば不毛な大地において、同一性欲望において餓えて、その同一性欲望を満足させる超越的力として、唯一神が考えられたのではないだろうか。それは、差異を否定する反動的力である。この差異を否定する力が超越神の反動的なエネルギーであろう。当然、ここには、憎悪・ルサンチマン(怨恨)があるのである。
 では、何故、父なる神かと言えば、それは、母なる神が差異に対応するのであるから、当然、母を否定するので、母の換わりに、父が想定されたのであろう。しかし、父となる必然性は何か。それは、単に母の換わるものとして、父が選ばれたということだけなのだろうか。
 母は自然と関係するのである。しかし、砂漠環境では、自然はほとんど不毛である。自然を母とすると、自然を越えた超越的存在が考えられなくてはならないだろう。自然を否定する自我の超越的存在(参照:「我在りて、在り余れる神」であるヤハウェ)が考えられなくてはならないだろう。産む自然ではなく、産まない超越的存在がなくてはならないだろう。それは意志する超越的存在である。この意志に見合うのが、父ということになるだろう。男性的意志である。これでいちおう説明がついたこととしよう。
 結局、自己から自我への転移には、貧しさ、卑しさ、貪欲さ、憎悪、ルサンチマン等があり、また、意志があったということになる。言い換えると、悪魔的意志である。これが自我を形成したと考えられるのである。言い換えると、獣欲が自我を形成したのである。
 この自我に対して、人類は自己の知恵を対置してきたのである。仏教が正に、自己の知恵を説いたのである。そう、一神教とは知恵ではなくて、自我強化の
指南書であろう。自我増強宗教と自己叡知宗教が人類史において成立したと言えよう。だから、両者を質的に差異化する必要があるのである。いっしょくたに、宗教とするのは問題である。
 この問題は課題にして、では、次なる問題は、自我の自己への再帰の力学である。本来、基盤・源泉として、Media Point =差異(差異共振性)があるのであり、それが本来のエネルギー源泉である。貪欲な自我の力学があっても、根本では、Media Point =差異のエネルギーが活動しているのである。活火山である。差異共振エネルギーの超発電所である。
 この差異共振エネルギーと自我の同一性エネルギー(反動エネルギー)は齟齬の様態にあるのである。つまり、分裂様態である。しかし、ある時点で、本源の差異共振エネルギーが自我の同一性エネルギーを凌駕することが起こるように思えるのである。それは、転換点である。この変転の力学は何だろうか。
 否、そうではなくて、本源の差異共振エネルギーが枯渇する時期が発生して、自我の同一性エネルギー自体が衰退するように思えるのである。いわば、鬱病の発生である。
 これは、自我のエネルギーが差異のエネルギーを抑圧否定排除した結果、本源の差異エネルギーを取り入れられなくなった事態ではないだろうか。いわば、心の真空・空虚が生起すると考えられる。いわば、心のブラックホールである。そして、そこへ、吸い込まれる事態が自我の狂気ではないだろうか。自我狂である。いったいそれはどういう力学なのか。
 思うに、それは、「分裂症」なのではないだろうか。差異共振エネルギーと同一性エネルギーの分離・乖離現象ではないだろうか。まったくの差異・他者の喪失があり、ただ、同一性のメカニズムが自己完結するのではないのか。いわゆる、自己中心主義の発生ではないのか。パラノイアの発生ではないのか。非合理な、無意味な抑圧・否定・排除暴力作用が生起するだけではないのか。
 どうもそのように思えてきた。これまで、差異共振エネルギーの反動が狂気であると考えてきたが、そうではなくて、同一性エネルギーの自己完結化が同一性狂気の原因であると思えるのである。
 今は簡単に言うが、この自我狂気は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を応用すると、(+i)*〔-(-i)〕⇒-1ではないだろうか。あるいは、(+i)^2⇒-1である。主体+iによる他者-iの否定である。そして、原自己とは自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺であり、再帰する自己とは右辺ではないだろうか。この問題は別稿で検討したい。


2008年03月18日(Tue)▲ページの先頭へ
父権一神教と母権多神教の関係について:自由主義、民主主義、個人主義に関係させて
父権一神教と母権多神教の関係について:自由主義、民主主義、個人主義に関係させて

この問題は複雑なので、余裕のあるとき十分に検討したいが、今簡単に問題を言うと、例えば、自由主義とは、父権一神教から生まれたのか、それとも、母権多神教からなのか、という問題である。
 そう、その前に、自我の問題について再考しておこう。私はヤハウェをいわば、自我中心主義の神として邪神扱いしてきたが、どうも問題はそんなに簡単ではないようである。
 結局、自我と自己の関係をどう捉えるのか、ということである。例えば、今、考えている私がいるが、その私は自我なのか、自己なのか、である。私は今、考えを言語化して、パソコンのキーボードに打ち込んでいるが、そのとき、思考している私は自我なのか、自己なのか、である。(これはつきつめると難しくなるので、普通に考えたい。)考えが頭にまとまり、それを言語化して、キーボードに打ち込んでいる私は自我か自己か。
 私はこれまで、自我を否定的に捉えてきたが、果たして、自己から自我を無くすことができるのだろうか。考えている私は一部では自我ではないのか。つまり、頭のことである。自己の源泉は身体内にあると思っているが、思考する私の頭は自己の先端かもしれないが、それは自我と言えないだろうか。
 言語知性の部分である。思うに、それは自我と言えるように思えるのである。そして、自己はもっと深部に存していて、自我と即非関係にあるように思えるのである。思うに、自己の同一性の展開として同一性自己としての自我があるということだろう。そして、自己が自我を包摂しているということだろう。(因みに、ユング心理学は個性化として、自我と自己の統合を述べているが、それは、この点から見て、折衷的である。自己が自我を包摂するのであるからである。)
 そうすると、ヤハウェはいわば自我神ということで、重要な役割があると言わなくてはならないだろう。それは、同一性自己=自我を形成させる原因である。そして、この自我形成によって、原自己=Media Point の同一性展開が十全に為されるのだろう。この同一性自己=自我の発展は、自己を分裂化するものである。そして、とまれ、同一性の形成作用があり、それに対抗する差異作用が発動すると考えられるのである。言うならば、同一性と差異との相克関係が生じるのである。
 ということで、これまでのヤハウェに対する全的批判をここで取り下げて、同一性自己=自我形成の役割を見て、その部分は肯定したい。
 しかしながら、この同一性自己=自我形成は、その連続性から同一性主義(自我中心主義、悪魔主義)を生み出したと言えよう。キリスト教はヤハウェ(父)に対して、子のイエス・キリストを神としたが、しかしながら、やはり、父と連続しているので、イエスは同一性主義から脱出していないのである。ここにキリスト教の限界があると考えられるのである。つまり、父(同一性)と連続的であるイエス(差異)であるということである。つまり、いわば、キリスト教はポスト・モダンなのである。
 この問題をさらに延長すると、脱連続化とは、聖霊によると考えられるのである。ヨアキム主義である。これがトランス・モダンに当たると思えるのである。聖霊の時代である。
 さて、そのように自己同一性=自我を考えるた上で、自由主義はどうやって生まれたのかを考えると、やはり、ユダヤ・キリスト教が必要であったと思えるのである。しかしながら、同時に、基盤として、母権的多神教が必要であったと思えるのである。これは民主主義とも関係するが、父権的一神教と母権的多神教との間ないしは境界において、自由主義、民主主義、個人主義等が生まれたと思えるのである。
 しかしながら、父権的一神教の要素が強化されて、基盤・母胎の母権的多神教が弱化すると、それらは歪曲ないしは形骸化すると考えられるのである。つまり、差異と同一性の緊張関係からそれらは生まれたのであり、差異が失われると、同一性主義となり、ショート(短絡)すると考えられるのである。【ただし、ポスト・モダン期においては、確かに、差異が活性化するが、それは、逆に同一性を否定して、二元的緊張関係を喪失して、倒錯化(ショート)したと思えるのである(アイロニカルな没入)。】
 以上から、今日、トランス・モダン進化にあって、父権的一神教と母権的多神教の結合ないしは調和が考えられるのであるが、トランス・モダンとは同一性を包摂した差異共振性であるから、正確に言えば、父権的一神教を包摂した新母権的多神教が誕生するということなると思われるのである。これが新東洋文明である。

p.s. 上記において、キリスト教の父、子、聖霊の根本観念を用いているが、私が言う脱連続化としての聖霊主義(ヨアキム主義)とは、脱三位一体論ないしは三位三体論である。三位一体論とは、連続論である。それを不連続化する必要があるのである。キリスト教の解体・解放である。トランス・キリスト教である。


参考:
ヨアキム主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ヨアキム主義(よあきむしゅぎ)は12世紀 のカトリック 教会に興った予言的・終末論 的な歴史思想である。フランシスコ会 の修道院長フィオーレのヨアキム (ジョアキーノとも)が唱えた。

フィオーレのヨアキムは三位一体的構造を世界史 に当てはめ、全歴史 は三つの時代からなるとした。第一の時代は「父の時代」で、地上においては祭司と預言者 の時代であり、旧約 の時代にあたる。第二の時代は「子の時代」であり、教会の時代で、キリスト以後現在まで続いているとした。これは過渡的な時代であって、第三の時代である「聖霊の時代」によってやがて克服される。第三の時代において、世界は完成し、地上においては修道士の時代が出来する。ヨアキムの考えでは、第三の時代において現在ある教会秩序や国家などの支配関係に基づく地上的秩序は廃され、兄弟的連帯において修道士が支配する時代が来るとされる。

ヨアキムの思想は問題視され、ローマ教皇庁 からたびたび警告されたが、ヨアキムは撤回せず、ついに異端 と宣言されるに至った。ヨアキム主義は13世紀の西方異端思想に大きく影響を与えた。

ミルチア・エリアーデ は『世界宗教史』において、レッシング の『啓蒙の世紀』やシェリング、ヘーゲルなどの絶対者の三段階からなる展開などの近世ドイツ思想における精神史観にヨアキム主義の影響を指摘している。
執筆の途中です この「ヨアキム主義」は、キリスト教 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています。 (ポータル キリスト教 /ウィキプロジェクト キリスト教 )
執筆の途中です この「ヨアキム主義」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。(Portal:哲学 )
カテゴリ : キリスト教スタブ | 哲学関連のスタブ項目

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同一性狂気について:同一性主義であることで、同一性自己=自我を支える仕組みの意味について

同一性自己=自我は、同一性主義でないと自我を維持できないようだ。同一性主義がいわば麻薬のようなものである。同一性主義の快感・快楽によって、自己の理性(差異理性であり、同一性理性ではない)を麻痺させるようだ。
 この病的・病理的なメカニズムの仕組みはどういうものなのだろうか。自我ではなく、自己(これが、本来のその人であり、自我は同一性化された自己のことである)の根源・基盤はMedia Point にある。ここには、差異と同一性の即非的なエネルギーが存している。だから、同一性自己=自我にとっては、自然のままでは、差異と同一性の両方のエネルギーがあり、差異は自我にとっては不都合なもの、不快なもの、否定すべきものとして存するのである。そう、心中の否定すべきものである。だから、自我は内的な差異を否定するようにして、同一性主義を発動させると考えられるのである。自我にとって、同一性主義であることが必然なのである。これが、いわば、同一性主義の反復強迫であり、同一性狂気と言うべきものと思われる。
 そう、意識が内的に向いていないのである。意識が自己の根源に向いていないのである。単に外的対象に向いていて、外的対象を云々するのである。正に、世間形成動因である。
 やはり、先にも述べたが、内観(内感)・内省・省察・瞑想等の必要を唱えたい。そして、自己涵養を行うのである。それにより、近代的自我を解体させるのである。脱近代的自我である。
 問題はこの内感主義は、きわめて精神的な作業であり、それなりに危険をともなうので、場、教本、養成者等が必要であろう。近代主義教育では、当然、これは行えない。しかし、内感性をもたらす読書はできるのである。
 仏典・哲学書・神話学・文学であるが、私はその他に、シュタイナーの『いかにして超越的感覚を獲得するか』をあげたい。私はシュタイナーのオカルティズムには批判的であるが、この本における八正道は参考になる。ただし、彼の瞑想法(薔薇十字の瞑想法)はやや疑問をもっている。(因みに言うと、黒い十字架に七つの赤い薔薇を想起する方法である。)



2008年03月17日(Mon)▲ページの先頭へ
超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)について:狂信・カルトにも関連して
先に次のように述べた。

「そう、ここで、超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)の問題(狂信性・カルト)について述べるのが適しているだろう。Media Point と自己同一性(自我)とが不連続であることが認識されていないと、母権多神教は連続的同一性化して、全体主義になると思われるのである。いわゆる、一体感を求めて、国家資本主義的同一性主義支配権力と同一性化するのである。これが大東亜共栄圏や八紘一宇の意味であろう。
 つまり、超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)とは、連続的同一性にあると言えよう。つまり、Media Point ないしは母権多神教は同一性主義のもつ連続的同一性志向によって、全体主義化するのであり、この全体主義化が、ショート(短絡)である。狂信やカルトと通じるのである。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10080680481.html

この考え方は、それ以前のものとは明らかに異なるのである。それ以前の考え方は、超越エネルギーが反動となって同一性主義に結びついていたのであるが、この考え方は、反動ではなくて、超越エネルギーが能動的でありながら、連続的同一性によって、同一性主義と溶融するというものである。
 問題は超越エネルギーが同一性主義に注入されてしまうことであり、本来の差異としての超越エネルギーが喪失されることである。
 では、これはどういうことなのだろうか。これは、正に、同一性志向のもつ連続性のしかるしむる精神行為と考えられる。Media Point から同一性志向が発動する。つまり、本来、差異であるMedia Point から同一性志向が発動するがあ、この同一性志向は連続的志向性なのであり、差異であるMedia Point と同一性(自己同一性=自我)とを連続化するのである。(ほとんど、双魚宮的様態である。対立物を結合しているのである。)
 本来、この差異(正しくは、不連続的差異)と同一性との連続化とはありえないことであるが、実際はありえているのである。これが言い換えれば、即非様態ということである。
 しかしながら、自己同一性・自我は連続的意識をもち、超越エネルギー(差異・不連続的差異・差異共鳴性)と連続してしまっているのである。これが、超越エネルギーと同一性主義とのショート(短絡)の事態である。
 連続的同一性自己意識(自我意識)の中心化により、差異=他者は否定されるのである。これは、同時に、自己における差異=他者の否定にほかならない。私が以前、差異の抑圧否定や反動と言ったのは、このことを指していると考えることができよう。結局、同じことなのである。Media Point からの連続的同一性化が同時に、差異=他者の抑圧否定・反動性なのであり、これが、ショート(短絡)であり、同時に、狂信・カルトへとつながるのである。
 では、問題は、差異=他者をどう認識するのか、その方法は如何に、となるだろう。近代合理主義に欠落しているのは、この点である。差異=他者の問題は西洋哲学的にはポスト・ヘーゲルからであり、(カント:カントはポスト・ヘーゲルになるだろう)シェリング、キルケゴール、ニーチェにおいて明確になると言えよう。もっとも、特異性・単独性(・独異性)ということでは、デカルトやライプニッツに現われている。
 この問題は、西洋近代哲学の根本的問題であるが、東洋哲学においては、仏教において、既に探究されていたあ問題である。
 端的に言えば、差異=他者認識とは、自己認識であり、西洋哲学の一つの出発点でもあるのである。「汝自身を知れ」。言い換えると、内省・省察・瞑想等の問題なのである。つまり、内観・内的認識・内的知覚等の問題なのである。
 これが、人間の知にとって根本的に重要なのである。教育とは本来、ここを基盤にすべきなのであるが、近代合理主義の価値観によって、これが喪失しているのである。外的な認識、外的な物質的認識、数量化された客観的認識が中心化されて、本来の根本である内的認識が喪失されてしまい、上記した連続的同一性が支配的になり、知がショート(短絡)し、狂信・カルト化するようになったと考えられるのである。
 結局、外的知の前提として、自己知が必要なのである。道元は「 仏道をならふといふは、自己をならふなり。」
http://www.satoshi-nitta.com/break/break-33.htm
と言っていたが、正鵠を射ているのである。


現代日本の近代的自我的全体主義の暗黒の原因について:二つの同一性主義支配と父権同一性共同体と母権多神教
現代日本の近代的自我的全体主義の暗黒の原因について:二つの同一性主義支配と父権同一性共同体と母権多神教

1) 超越エネルギーと同一性主義

2) 一神教と多神教と父権的共同体(アジア的父権共同体)

3) 近代民主主義からトランス・モダン民主主義への転換の必然性:自由主義と民主主義:個人主義と共同体主義

4)間(ま)とは何か:+iと-iの共鳴様相におけるゆらぎ(クリナーメン?、ブラウン運動?)によって発生する「差異」ではないか:天と地の共振様態におけるズレが間ではないのか。これは、実に東洋的である。クラシック音楽(classical music)において言うと、ウィーン・フィルの音楽性は、間があり、東洋的なのである。それに対して、ベルリン・フィルは機能主義であり、間は少ないのである。(しかしながら、最近のベルリン・フィルは活き活きとしている。これは何か。クラシック音楽の活性化。)ついでに言うと、バッハ音楽が間の音楽である。差異共振性の音楽である。『フーガの技法』が最高である。

5)+1と−1と0(ゼロ)の関係:±1で二項対立を形成するのではないか。例えば、+1が男性で、-1が女性であるというように。あるいは、右と左である。問題は、同一性と差異の場合である。これは、二項対立にはならないだろう。±1で同一性による二項対立を意味するならば、差異は、0(ゼロ)ではないのか。つまり、この場合の差異とは、ポスト・モダン的差異であるが。構造主義とは端的に、±1の二項対立形式を意味するだろうし、それは、先に述べたように、ヘーゲル弁証法力学と等価である。ポスト・モダンないしはポスト構造主義とは、0(ゼロ)を取り出したと言えよう。+1と-1の和としての0(ゼロ)ではないだろうか。ドゥルーズはこれを微分=差異という連続的差異にしたし、初期デリダは、±1が0(ゼロ)をいう痕跡(差延)をもつことを指摘して、二項対立を脱構築したのであろう。この0(ゼロ)は、思うに、ハイデガーの存在である。だから、以前示唆したように、ポスト・モダンの先駆者はハイデガーだと考えられる。因みに、これも既述済みであるが、フッサールは0(ゼロ)からさらに虚軸へと超越した領域(超越論的主観性)に達したのである。これが、フッサール現象学のブレークスルーの意味であるが、それをハイデガーが閉ざしてしまった。しかしながら、後期ハイデガーは、0(ゼロ)を超越しようとしていたと思われるのである。存在の開いた明るみ(?)のようなことを言っているが、それは、Media Point のもつ「光」を示唆するように思えるのである。しかしながら、私の直感では、それは、不十分なMedia Point である。何故なら、単に虚軸のMedia Point であり、実軸が否定されているように思えるからである。つまり、前期ハイデガーと後期ハイデガーでは分裂していると思えるのである。つまり、前者は実軸だけのMedia Point を、後者は虚軸だけのMedia Point を説いているように思えるからである。だから、偏頗なのである。というか、歪曲があるのである。どうも、ハイデガーには病的な性格があったように思えるのである。つまり、本来、差異共鳴イデアは、垂直から水平へと共振的に展開するのに、その転換性を否定しているからである。現象への憎悪・ルサンチマンがあるように思える。

6) コミュニケーションが今日注目されているが、問題点は、それが同一性や連続性をもっていたら全体主義になりやすいことである。個・差異があって、対話的コミュニケーションが形成されるのである。個ミュニケーションである。

7) 現代日本の近代的自我的全体主義の暗黒の原因について

やはり、既述したように、連合国占領軍の日本支配の意向と戦前からの国家資本主義(官僚主義的資本主義・父権共同体的資本主義)の売国奴の欲望との結託が、原因ではないだろうか。簡単に言えば、アメリカの日本支配意志と国家資本主義売国奴の欲望の癒着である。前者は、思想的には、ユダヤ・キリスト教的同一性主義であり、後者は父権共同体の同一性主義である。つまり、同一性主義で癒着しているのである。
 言い換えると、二つの父権的同一性主義権力が日本を支配しているのである。戦後民主主義の背景がこれである。この二つの同一性主義の支配権力暴力(威嚇・脅し)が国民生活に影響しているのである。そう、同一性主義権力暴力が支配しているのであるから、国民は受動的であると、これらに支配されるのであり、その支配権力を内在化させてしまうのである。つまり、支配権力のコピーになるのである。同一性模倣(自己同一性・自我模倣)である。つまり、戦後日本人は、二つの同一性主義権力暴力によって、それを内在的にコピーしているのである。本来、支配される国民が、支配する同一性主義をコピーして、内在化(感染)しているのであり、支配されるものが、支配するものの形式を取っているのである。これは、この被支配的支配的自我に戦後日本国民、とりわけ、東京人はなっているのである。
 そして、この被支配的支配的精神様態に三島由紀夫は断絃の時を見たのであるが、これが、私のテーゼの「近代的自我は狂気である」の意味でもある。明治維新においても、確かに父権的同一性主義があるが、ベースには、母権多神教(母権的多神仏教?)があったのであるが、戦後において、この基盤が徹底的に抑圧されたのである。だから、三嶋由紀夫の戦後批判が正しいのである。
 とまれ、この二つの父権的同一性主義支配によって、日本人の精神は亡国的になってしまった。自己文化の基盤・源泉を忘却・喪失したからである。因みに、日本固有文化の母権多神教とは、差異文化・差異共振文化であり、それは、同一性文化ではないのである。問題はそれが衰退していて、復興をしていないことにあるだろう。明治維新変革は確かに、一つの復興であったが、連続性によって、全体主義へと展開してしまったと思えるのである。つまり、根源の母権多神教と明治政府権力の父権的一神教(「天皇制」)が連続化して、全体主義を生み出してしまったように思えるのである。
 母権多神教が本来、差異共振性であり、同一性主義とは不連続であることを認識していなかったのである。
 そう、ここで、超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)の問題(狂信性・カルト)について述べるのが適しているだろう。Media Point と自己同一性(自我)とが不連続であることが認識されていないと、母権多神教は連続的同一性化して、全体主義になると思われるのである。いわゆる、一体感を求めて、国家資本主義的同一性主義支配権力と同一性化するのである。これが大東亜共栄圏や八紘一宇の意味であろう。
 つまり、超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)とは、連続的同一性にあると言えよう。つまり、Media Point ないしは母権多神教は同一性主義のもつ連続的同一性志向によって、全体主義化するのであり、この全体主義化が、ショート(短絡)である。狂信やカルトと通じるのである。
 そうならば、何が問題なのか。欧米文化は自由主義/民主主義を保持しようとし、全体主義を抑える努力をするが、それは、基盤に、不連続なMedia Point を意識しているからではないだろうか。必ずしも、理論的には認識されてはいなくとも。個と同一性主義との根本的違いが意識されているからではないか。というか、根本的に、個=Media Point がベースにあるのである。つまり、特異性が基盤にあるのである。ここから同一性自己(自我)へと展開するのが、西洋近代文明なのである。そして、この西洋近代文化の特異性はルネサンスとプロテスタンティズムが形成したのではないだろうか。前者は母権多神教であり、後者は父権一神教である。両者の共振によって、西洋近代文化の個=特異性が形成されたのではないのか。
 この特異性があるので、連続的同一性による全体主義化を回避する努力をするのではないだろうか。それが、自由主義や民主主義の本来の意味であろう。
 では、日本近代の場合はどうなのか。日本的個・特異性の形成は成立したのか。少数者においては形成されたのは確かである。漱石等の作家や宗教家や哲学者においてである。
 しかしながら、明治近代主義は、明治以前の父権共同体(封建制)を継続しているのである。この父権共同体が同一性主義であり、これが、国民にも支配的であったと思えるのである。つまり、明治維新は一つのルネサンスではあったが、不十分なルネサンスであったと考えられるのである。つまり、個・特異性の解放が天才的な少数者に限定されていたと思えるのである。
 結局、不十分な個・特異性の形成があるために、戦後民主主義は、二つの同一性主義権力の影響下にあって、個的民主主義ではなく、同一性民主主義(似非民主主義)という形骸化したものになってしまったと言えるように思えるのである。
 日本文化は、本来、差異共振主義であるが、それが、父権的同一性共同体によって抑圧されてきたのであり、そのために、国民一般に個・特異性の意識が喪失されていると考えられるのである。父権的同一性共同体とは、おおまかに言えば、儒教体制(儒教制)であろう。儒教制が、今日でも、姿を変えて、日本古来の差異共振主義(母権多神教)を抑圧支配しているということになろう。西洋文化史におけると同様に、日本においても、母権制と父権制の争闘があるのであるが、それが、見えにくくなってしまっているのである。結局、日本文化は、母権統合型父権主義である。そして、戦後において、基盤の母権制が否定されて、今日、亡国的状況に陥っているのである。母権多神教の危機なのである。神道・神仏文化が母権多神教を保持してきたのである。やはり、神道・神仏ルネサンスが必要なのである。

上條恒彦&六文銭 / 出発の歌〜失われた時を求めて〜


 
出発の歌 〜失われた時を求めて〜


歌手:
上條恒彦・六文銭

作詞:
及川恒平

作曲:
小室等

乾いた空を 見上げているのは誰だ
お前の目に 焼きついたものは化石の街
愛の形が 壊れた時に
残されたものは 出発の歌
さあ 今
銀河の向こうに飛んでゆけ

乾いた空を 
見上げているのは誰だ
お前の耳を 
塞がせたものは 時計の森
自由な日々が失われたときに
残されたものは 出発の歌
さあ 今
銀河の向こうに 飛んでゆけ
さあ 今
銀河の向こうに 飛んでゆけ

※さあ今 宇宙に 
さあ今 未来に
さあ今 宇宙に 
さあ今 未来に 飛んでゆけ※

(※くり返し)

http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=5850

余談:この歌詞が六文銭の及川恒平氏のものとは知らなかった。すばらしい詩である。また、リードギターも艶のある音ですばらしい。
 この曲も70年代初期である。ポピュラー・ミュージックの可能性が70年代後半から潰されていったと言えよう。


2008年03月15日(Sat)▲ページの先頭へ
宗教的思考とイデア論的思考:超越エネルギーと信仰:近代的自我はカルトである:脱父権一神教としてのトランス・モダン・パラダイム・チェンジ
先に、宗教的思考について説明したが、これは、言い換えると、イデア論的思考ということになる。勿論、厳密に言えば、プラトニック・シナジー理論的思考ではあるが。思うに、差異共振イデア論的思考ともいえよう。簡略して、差異イデア論的思考であろう。
 もっとも、同一性主義と差異主義を、一神教原理と多神教原理と言い換えた方が深さを表現するときは優れているだろう。また、インパクトもある。
 ところで、今日、日本人の多くが無宗教と言うのは、決して無神論ということもないだろう。神社仏閣に参拝するのだから、無神論ではない。やはり、日本人の無宗教・不無神論とは、イデア論的なのだと思う。超越エネルギーは感じているのであるが、それに無自覚であったり、また、うまく表現していないと思えるのである。
 ここで、超越エネルギーと信仰ないしは信について簡単に言おう。超越エネルギーは、Media Point において発出される。それが同一性自己(自我)を形成し、また、差異として、内発している。同一性自己(自我)が中心化(同一性主義ないしは同一性中心主義。デリダのロゴス中心主義に相当する)されると差異は抑圧否定されて無意識になる。【既述したように、Media Point とは、超越・即非・内在の様態にあるのであり、単純な超越性でなければ、また、単純な内在性でもなければ、また、内在的超越性でもない。この点は、いくら注意しても注意し過ぎることはないだろう。】
 Media Point とは、伝統文化的には、魂や心や霊や精神等という用語で指し示されてきたものであると考えられるが、当然、宗教の領域に属するのであるし、また、思想・哲学の領域にも属するのである。
 ここにおいて、広義の心は、ある力を受動するのである。ある力とは、超越エネルギーであると考えられるのである。【ただし、同一性主義(自我中心主義)である限り、この力は感受されない。言い換えると、同一性主義では、この超越エネルギーを抑圧否定するのである。平明に言うと、不可視のものの排除である。】この超越エネルギーの感受とは、同一性によっては合理化できない。これは、差異としか理解されないし、的確には、特異性であり、差異共振性と考えられるのである。
 この超越エネルギーは、同一性現象性を越えているので、神的現象(ルドルフ・オットーのヌミノーゼ)として捉えられたりする。【いわゆる、オカルト的なものも本来はここに発して、ある場合超常現象として、誤って考えられているだろう。私は占いも本来は、ここに発していると考えている。占いも根源に変えれば、宗教・哲学・科学的である。】この超越エネルギーに対する感受性(感性)における帰依が信仰であろうし、宗教の根源であろう。
 しかしながら、この超越エネルギーの受動と共に、能動的な知性を形成することは可能なのである。これが、私が言う宗教的思考=イデア論的思考に当たると考えられる。そう、また、この超越エネルギーに基づいて、能動的表現をすることも可能である。これが、いわゆる、芸術・アート活動であろう。芸術は宗教的である(D. H. ロレンス)というのは、この意味においてである。
 問題は、超越エネルギーと同一性の関係である。超越エネルギーが同一性主義化(自我中心主義化)したときは、恐ろしく危険である。思うに、狂信化とは、このことではないだろうか。少し脱線するが、《近代的自我は狂気である》という私のテーゼであるが、これは、超越エネルギーの同一性主義化と言い換えることができそうである。そして、そう考えた方が的確であるような気がする。
 これは、また、カルトの問題にも適用できると思われる。オウム真理教の場合であるが、超越エネルギーが同一性主義化して、排他的二元論となり、同一性主義に宗教観念が入って、一種イデオロギーとなり、カルトとなったと言えるのではないだろうか。これは、また、西洋植民地主義、帝国主義、金融資本主義にも適用できよう。また、さらに、ナショナリズムにも適用できる理論ではないだろうか。そう、明治維新におけるナショナリズム・文明開化路線は、この超越エネルギーの同一性主義化(同一性中心主義化)で説明できると思われるのである。端的に言えば、超越エネルギーが、差異という理性を喪失して、同一性主義へと放出されるのである。
 この超越エネルギーの同一性主義化(カルト化)の問題について、精緻に考えよう。Media Point と同一性は本来、不連続なのであり、前者は特異性・特異点なのである。言い換えると、両者の間には、亀裂・溝があるのである。しかしながら、カルト化の場合、両者の亀裂・溝が消えて、超越エネルギーが即、同一性へと放出されるのである。言わば、差異回路のショート・短絡である。正に、狂気なのであるが、この原因は何か。
 上記において、私は超越エネルギーの受動・感受のことを言い、同一性主義はそれを抑圧否定すると言った。そして、直近において、超越エネルギーの同一性主義化について言い、両者はいわば矛盾・齟齬状態になっているが、このことはどう解明されるだろうか。
 超越エネルギーの受動・感受とは、差異の形成を意味するが、超越エネルギーの抑圧否定とは、差異の未形成を意味する。差異が形成される場合、超越エネルギーは能動・積極・肯定的に主体に作用する(スピノザの能動的観念とは、このことを指していると考えられる)が、差異が未形成である場合、超越エネルギーは反動・消極・否定的に主体に作用すると思われる。だから、超越エネルギーの同一性主義化(カルト化)とは、超越エネルギーの能動・積極・肯定化ではなくて、反動・消極・否定化であると考えられる。
 しかしながら、後者はどういう事態なのだろうか。やはり、ここには、Media Point の新たな開放があると思われるのである。原近代は、Media Point の開放から開始されたと考えられる。即ち、イタリア・ルネサンスである。そして、それがベースになり、プロテスタンティズム的近代化が生起するのである。しかし、それは、父権一神教的同一性化であったのである。だから、必然的に、そこには、カルト化が起こったと見るべきであろう。魔女狩りは端的にそのようなものであるし、植民地主義や帝国主義もそのようなものである。
 そう、やはり、近代的自我/近代合理主義は狂気であると見るべきである。しかし、正しくは、ここで検証したように、近代的自我/近代合理主義はカルトであると修正すべきであろう。
 そうならば、敷延すると、父権一神教自体がカルトではないのか。おそらく、そうだろう。ユダヤ・キリスト教はカルトなのである。また、天皇制的一神教もカルトである。(しかしながら、天皇文化は、本来、多神教である。多神教的天皇宗教文化が正しいのである。)
 だから、オウム真理教問題であるが、それは、端的に、父権一神教の新興宗教的現象であると言えよう。世界の縮図と言えよう。
 最後に大問題を投げ掛けよう。いったい、どうして、父権一神教ないしは父権的神話が生まれる必然性があったのか、である。
 今は、簡単に答えるだけだが、やはり、母権多神教の衰退があり、なんらかの原因で父権主義化が生起したということであろう。つまり、女性主義が衰退して、男性主義が生起したということである。予見では、Media Point という太極において、陰の志向性が衰退して、陽の志向性が台頭した結果が、父権一神教の誕生であると思われるのである。そうならば、自然のもつカルト性ということになるだろう。
 しかし、カルト化の意味とは何か、である。それは、端的に、同一性主義の形成である。つまり、自我主義・物質主義の形成である。言い換えると、西洋文明の形成である。(実際、キリスト教は母権多神教をネガティブながら包摂していると考えられる。)そして、今日、これが終末を迎えて、いよいよ、脱父権一神教=脱自我主義・脱唯物論であるトランス・モダンへとパラダイム・シフトしつつあるということなのだろう。


ロールズの正義論とプラトニック・シナジー理論:トランス・モダン差異共振共同体へ向けて
ロールズの正義論とプラトニック・シナジー理論:トランス・モダン差異共振共同体へ向けて

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

正義論/自由論―寛容の時代へ (岩波現代文庫) (文庫)
土屋 恵一郎 (著)

土屋恵一郎氏の『正義論/自由論』(岩波現代文庫)を読んでいる途中だが(amazonのカスタマーレビューは辛い点がついているが)、私はロールズの『正義論』が未読なので、「原初状態」や「無知のヴェール」という概念が今一つ不明確であるが、直感したのは、ロールズの思想のベースは、差異共振主義ではないのかということである。つまり、「原初状態」や「無知のヴェール」とは、根源的な差異共振主義、ないしは、フッサールの生活世界に通じる社会概念ではないのかということである。
 本書の第1章に松岡心平氏の『宴の身体』の「花の下[もと]の連歌」等の日本文学のもつ、個的共同主義論を提示されていて、これは、正に、私がこれまで述べてきた日本文化の差異共振主義であると直感したのであり、それを考えると上述した私の考えはそれほど突飛なものではないだろう。
 後で、できれば、整理したいが、一言補足すると、ロールズの発想には、多神教性があるように思えることである。そう、民主主義であるが、私は、これは、母権多神教が基盤になっていて、これを、キリスト教が一神教内部に吸上げたものではないかと今考えているのである。
 民主主義の自由・平等・多元原理は、父権的一神教ではなくて、母権的多神教が基盤ではないかということである。即ち、神の下の平等とは、母権的多神教のもつ差異共振性から発しているのではないのかということである。
 私はプロテスタンティズムは、イタリア・ルネサンス(母権的多神教)を包摂的否定していると言ったが、この包摂において、民主主義が発生しているように思えるのである。
 だから、民主主義のトランス・モダン化が今や必然となっているのである。近代民主主義は、同一性主義であり、それは、本来、民主主義のもつ自由・差異・多元性を否定するからである。

参考:
ジョン・ロールズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ジョン・ロールズ(John Rawls, 1921年 2月21日 - 2002年 11月24日 )は、20世紀アメリカ を代表する政治哲学者 、道徳哲学者 。

1971年 に刊行した『正義論 』(A Theory Of Justice)は大きな反響を呼ぶ。当書は、アイザイア・バーリン らが「政治理論は未だ存在するのか?」(1962年)と吐露するほどに停滞しきっていた当時の政治哲学業界を再興させるのに大きく貢献した。そのため、英語圏における正義論以降の政治哲学(規範政治理論、normative political theory)業界は「ロールズ・インダストリー」(Rawlsian industry)などとしばし呼ばれる。正義論 は経済学 にも大きな影響を与えており、厚生経済学 においてロールズ基準 と冠した概念を生み出した。
来歴

1921年、メリーランド州 ボルチモア に生まれた。ボルチモアの学校にしばらく通った後、コネチカット州 にあるプレップスクール に転校。1939年に卒業し、プリンストン大学 に入学。この頃より哲学に関心を持つようになる。1943年 に学士号を取得して卒業後、アメリカ陸軍 に入隊。第二次世界大戦 中は歩兵 としてギニア、フィリピン、日本などを訪れて、広島の原爆 投下の惨状を目の当たりにする。この経験から士官 への昇任を辞退し、1946年に兵卒として陸軍を除隊する。

その後間もなく母校プリンストン大学の哲学部博士課程に進学(道徳哲学専攻)。1949年 にブラウン大学 卒業生のマーガレット・フォックスと結婚する。ロールズとマーガレットは本の索引 作成という共通の趣味を持っており、一緒に最初の休日はニーチェ に関する書籍の索引を作成して過ごした。ロールズはこの時、自身の後の著作である『正義論』の索引も作成している。

1950年 に博士号を取得し、1952年 までプリンストン大学で教鞭をとる。1952年からフルブライト・フェローシップによりオックスフォード大学 へ留学。当時オックスフォードにいたアイザイア・バーリン の影響を受ける。フェローシップ終了後にアメリカへ帰国、コーネル大学 で助教授を務める。1962年 に哲学部の教授となって程なくしてマサチューセッツ工科大学 でテニュアー 付きの教授職を得る。1964年 よりハーバード大学 に移り、以後40年近く同学に務める。1995年 に最初の発作を起こして歩行障害をわずらうも、最後の著作となるThe Law of Peoplesを完成させて、2002年に他界した。

[編集 ] 『正義論』(A Theory of Justice)

[編集 ] 概要

 人間が守るべき「正義 」の根拠を探り、その正当性を論じたロールズの主著の一つ。1971年 刊。この著で彼が展開した「正義」概念は、倫理学 や政治哲学 といった学問領域を越えて同時代の人々にきわめて広く大きな影響を与えることになった。それまで功利主義 以外に有力な理論的基盤を持ち得なかった規範倫理学の範型となる理論を提示し、この書を基点にしてその後の政治哲学 の論争が展開したという点で、20世紀の倫理学 、政治哲学 を代表する著作の一つということができよう。

[編集 ] 要旨

本書は3部構成であり、第1部で彼は、正義 を論じる理由を明示した上で、非個人的な観点から望ましく実行可能な正義の原理を探究し、最終的に彼の考える「正義の二原理」を提出する。第2部では彼の正義論を現実の社会的諸制度、諸問題へ適用し、その実行可能性を明らかにしていく。第3部では、彼の正義概念は人間的な思考 や感情 と調和しており、「正しさ」と「善さ」とは矛盾するものでないことを説明することを通じて、理論的に導出された正義論が現実の人間的基盤を有している様相を明らかにしていく。ここでは第1部の彼の論述の要旨を示す。

この書でロールズは、それまで倫理学 を主に支配してきた功利主義 に変わる理論として、民主主義 を支える倫理的価値判断の源泉としての正義 を中心に据えた理論を展開することを目指している。彼は正義を「相互利益を求める共同の冒険的企て」である社会の「諸制度がまずもって発揮すべき効能」だと定義した。そして社会活動によって生じる利益は分配される必要があるが、その際もっとも妥当で適切な分配の仕方を導く社会的取り決めが社会正義の諸原理になるとした。ここで彼は社会契約説 を範にとってこの正義の原理を導出していく。まず正義の根拠を、自由 かつ合理 的な人々が、彼が「原初状態」と名付けた状態におかれる際に合意するであろう諸原理に求めた。この原初状態とは、集団の中の構成員が彼の言う「無知のヴェール」に覆われた−すなわち自分と他者の能力や立場に関する知識は全く持っていない−状態である。このような状態で人は、他者に対する嫉妬や優越感を持つことなく合理的に選択するであろうと推測され、また誰しも同じ判断を下すことが期待される。そして人は、最悪の状態に陥ることを最大限回避しようとするはずであり、その結果次の二つの正義に関する原理が導き出されるとした。

* 第一原理

各人は基本的自由に対する平等の権利をもつべきである。その基本的自由は、他の人々の同様な自由と両立しうる限りにおいて、最大限広範囲にわたる自由でなければならない。

* 第二原理

社会的・経済的不平等は次の二条件を満たすものでなければならない。 a)それらの不平等がもっとも不遇な立場にある人の利益を最大にすること。 b)公正な機会の均等という条件のもとで、すべての人に開かれている職務や地位に付随するものでしかないこと。

第一原理は自由に関する原理である。彼は他者の自由を侵害しない限りにおいて自由は許容されるべきだと説き、基本的自由の権利−良心の自由 、信教の自由 、言論の自由 、集会の自由 などを含む−はあらゆる人に平等に分配されねばならないとした。ただここにおける自由とはいわゆる消極的自由 を指示している。 第二原理のa)は、格差原理 とも呼ばれるものである。彼は社会的格差の存在そのものは是認しつつも、そこに一定の制度的枠組みを設けることが必要と考えこの原理を設定した。自由以外の社会的な基本財をどのように分配するかを示すための原理である。この正義の二原理は、「原初状態」や「無知のヴェール」といった概念を用いた思考実験から導出されているため現実から乖離したものになっている危険性がある。しかし、この原理が普通の人間の正義感覚と比較検討してもなお正当性を失わないことという「反照的均衡」という彼の方法論が妥当であること根拠として、この正義の二原理に実際的妥当性を付与している。 b)は機会均等原理と呼ばれる。同じ条件下で生じた不平等は許容されるというものである。

[編集 ] この書への批判

[編集 ] 『ポリティカル・リベラリズム』(Political Liberalism)

[編集 ] 著書

* A Theory of Justice (Harvard University Press, 1971, revised ed., 1999).

矢島鈞次 監訳『正義論』(紀伊國屋書店 , 1979年)

* The Liberal Theory of Justice: A Critical Examination of the Principal Doctrines in a Theory of Justice (Clarendon Press, 1973).
* Political Liberalism (Columbia University Press, 1993).
* The Law of Peoples: with "the Idea of Public Reason Revisited" (Harvard University Press, 1999).

中山竜一 訳『万民の法』(岩波書店 , 2006年)

* Collected Papers, edited by Samuel Freeman (Harvard University Press, 1999).
* Lectures on the History of Moral Philosophy, edited by Barbara Herman (Harvard University Press, 2000).

坂部恵 監訳『ロールズ哲学史講義(上・下)』(みすず書房 , 2005年)ISBN 4-622-07111-8 、ISBN 4-622-07112-6

* Justice as Fairness: A Restatement, edited by Erin Kelly (Harvard University Press, 2001).

田中成明 ・平井亮輔 ・亀本洋 訳『公正としての正義――再説』(岩波書店, 2004年)ISBN 4-00-022846-3

[編集 ] 関連項目

* 社会契約
o イマヌエル・カント
* リベラリズム
o ロナルド・ドゥオーキン
o トマス・スキャンロン
o ウィリアム・ガルストン
o ウィル・キムリッカ
* 共同体主義
o チャールズ・テイラー
o マイケル・サンデル
o マイケル・ウォルツァー
o アラスデア・マッキンタイア
* リバタリアニズム
o ロバート・ノージック
* 功利主義
o ヘンリー・シジウィック
o R・M・ヘア
* 分析的マルクス主義
o ジェラルド・コーエン
o ジョン・ローマー
* アマルティア・セン
* ユルゲン・ハーバーマス


執筆の途中です この「ジョン・ロールズ」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。(Portal:哲学 )
カテゴリ : 哲学関連のスタブ項目 | 政治思想家 | アメリカ合衆国の哲学者 | 1921年生 | 2002年没

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私の宗教的思考とは何か:「無意識」や超越エネルギーの表現としての宗教

テーマ:宗教/政治

私の考え方は、通常のものとは異なり、宗教と政治・経済・社会・文化芸術等を同じ次元で語っている。先には、民主主義のベースは多神教ではないのかと言ったことにも現われている。それは、読者には奇異に思われるだろう。そこで、簡単に私の宗教的思考について説明してみたい。
 何故、たとえば、私は民主主義の基盤に多神教があると言うのか。私の思考は、いわば、「無意識」のレベルを取り込んでいる知だと考えられる。「無意識」とは(心)魂・霊・精神と言ってもいい。プラトニック・シナジー理論で言えば、Media Pointに基づく思考である。
 通常の知的思考では、この「無意識」のレベルを度外視して、概念・観念思考を行うのである。しかしながら、意識的思考は「無意識」的思考の知的表出であると思えるのである。だから、この意味で、私は宗教的思考を為し、宗教的用語を使用すると言えよう。つまり、私にとっての宗教とは、「無意識」ということである。
 また、先にも述べたが、私は神を超越エネルギーと考えている。勿論、まったく信仰の次元を排するつもりはないが、基本的には、宗教は、超越エネルギーに還元されると考えられるのであり、そして、超越エネルギーは(心)魂・霊・魂である「無意識」を形成していると考えているのである。
 結局、民主主義のベースに多神教があるということは、Media Pointの差異共振エネルギーが基盤であるということである。つまり、多神教=Media Pointの差異共振エネルギーということである。



2008年03月13日(Thu)▲ページの先頭へ
多神教理念(多神教モデル)について:天と地との共振:新多神教モデルとトランス・モダン政治経済
一神教理念(以下、一神教モデル)では、天地の二元論化が明確である。超越神が存して、天と地とは絶対的に区別される。
 しかしながら、多神教理念(以下、多神教モデル)では、天地は絶対的に峻別されない。ここは、微妙な箇所であるが、多神教モデルでは、天と地とは、例えば、巫女を介して、交信することは可能なのである。つまり、シャーマニズム的なのである。(因みに、mediaの単数形のmediumの語源は霊媒である。)神懸かりを通して、神と通じることができるのである。神道が正にそういうものである。古神道と言うべきか。
 それは、プラトニック・シナジー理論では、差異共振性として理解できるのである。そう、巫女とは、+iと-iとの共振を起すMedia Pointの体現者と言えよう。言い換えると、+1と-1との連続同一性現象を超えて、Media Pointの心魂的様態に転換して、天地共振様態(神懸かり)になるのだろう。【明らかに、宮沢賢治、三島由紀夫はシャーマン・タイプであろう。夏目漱石にも感じられるが。思うに、大江健三郎もこのタイプであるが、戦後近代主義イデオロギーに洗脳されてしまった。何度も言うが、三島が言う「断絃の時」とは、この天地共振文化の喪失、多神教モデルの喪失を指していると考えられる。また、補足すると、出雲の阿国も一種シャーマンであろう。また、円空もシャーマンであろう。当然、空海もそうである。日本シャーマニズム文化があるのである。『源氏物語』に出てくる物の怪は正にシャーマン文化の証しである。p.s. より正確には、シャーマニズム/アニミズム文化である。】
 この多神教モデル(正確に言えば、前多神教モデル、ないしは前宗教的モデル)の天地共振様態を否定するのが一神教モデルである。例外が預言者や神人であるイエスである。徹底しているのがイスラム教である。【もっとも、キリスト教の聖霊とは、思うに、このシャーマニズムと類似すると思うのである。既述したが、三位一体論は虚構である。三位三体論が正しい。】
 そして、先に、一神教モデルは、自己認識方程式で明示されていると述べ、多神教モデルは未解明のままであるので、ここで検討したい。【イスラム教は、一神教と多神教の中間であると思われる。アッラーはヤハウェとは異なるのである。アッラーはMedia Point的だと思われるのである。イスラム教のタウヒード(一性:いつせい)は、Media Pointにおける一性であると思われるのである。】
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を変形して、多神教モデル方程式として、(+i)*(-i)⊃+1ないしは(+i)*(-i)⊇+1が考えられないだろうか。左辺が右辺を含むのである。そうすると問題は、等号のときである。等号のときが、神道で言えば、天照大神と日御子(「天皇」)との一致ではないだろうか。エジプト神話で言うと、イシスとオシリスとの一致、ニーチェ的に言えば、ディオニュソスとアポロの一致である。
 議論が少し脱線するが、この等号と、一神教モデルが重なるのである。これが、天皇制の起源であろう。つまり、多神教モデルと一神教モデルが重層化されるのである。混淆であるが、混同でもある。おそらく、このために、多神教から一神教への発展という宗教史観が生まれたのではないだろうか。とまれ、本件のテーマには一応答えたので、後は、随想したい。
 多神教モデルとは天地共振モデルであり、これは、正に、古代的宇宙観なのである。また、私見では、西洋においては、イタリア・ルネサンスでこれが大復活したのである。【因みに、よく言われることであるが、アルプス以北(西欧)とアルプス以南(南欧)は、文化が質的に異なると見るべきである。端的に言えば、西欧とは父権一神教的であり、南欧とは母権多神教的であると思う。聖母マリア信仰は南欧的であり、地中海の女神信仰に拠る。補足すると、イギリスの場合、複雑になるのは、基盤にケルト文化があると考えられるからである。即ち、ケルト文化は母権多神教文化なのである。イギリス文化の矛盾撞着があるのである。私見では、イギリス文学にファンタジーが顕著なのは、これに拠るのである。】
 経済においては、おおまかに言えば、多神教モデルは共同体経済であり、一神教モデルは自由主義経済であろう。しかしながら、多神教モデルは近代主義の連続性によって、社会主義化してしまった。そして、一神教モデルは、ポスト・モダン的反動によって、新自由主義化してしまった。
 結局、提唱している差異共振経済(Kaisetsu氏の市場化された場における共同体主義に相当する)は、一神教モデルを包摂する多神教モデル経済であると言えよう。言い換えると、近代的同一性を包摂した差異共振経済である。トランス・モダン・エコノミーである。
 結局、今日、アメリカは一神教モデル経済の行き詰まり、日本は多神教経済(連続化した多神教モデル経済である社会主義経済)の行き詰まりがあると思われる。アメリカのオバマ氏の動きを見ると、また、多極化路線を見ると、それは、新多神教モデルであると思われる。即ち、差異共振経済である。トランス・モダン・エコノミーである。
 日本はいち早く、旧態の連続化した多神教モデルから脱皮して、新多神教モデル経済へと転換すべきである。自民党は、旧多神教モデル経済である。
 経済と宗教モデルとの関係については後で再考整理したい。

p..s. 多神教モデルとは、天地共振様態であると言ったが、日本経済の場合どうして、社会主義的になるのかと言えば、結局、多神教モデルが父権化されたものになっているからだろう。上で述べたように、日本文化は、厳密に言うと、多神教モデルの基盤の上に、父権モデルが乗っているのである。この父権モデルは一神教的と言えるが、啓典の宗教のように徹底していないのである。これが、おそらく、日本経済の堕落の原因であると思う。言い換えると、多神教モデルと父権モデルの癒着が今日の社会主義的資本経済を生んでいるのである。
 中途半端な父権モデルないしは一神教モデルを解体して、新多神教モデル経済、トランス・モダン経済へと転換すべき必要があるのである。そう、自民党が、この多神教的父権モデル経済を政治的に体現してきたと言えよう。大局的に見れば、やはり、儒教的経済だと思う。脱儒教・新多神教モデル経済へと転換すべきなのである。

p.p.s. 日本経済を儒教的経済というのは短絡的であり、間違いだろう。そうではなくて、多神教モデルの基盤に乗った父権モデルが、明治維新日本文化であり、戦後は、多神教モデルが解体されて父権モデルに近代主義が結合した形になっていると言うべきであろう。
 だから、日本経済復活のためには、やはり、根源・基盤の多神教モデルの復活が必要なのである。やはり、新神道が必要である。換言すると、新東洋化である。東洋・日本ルネサンスである。


2008年03月12日(Wed)▲ページの先頭へ
検討問題:プラトニック・シナジー的ガウス平面における空間構成について
1)先に、「+iが左脳で、-iが右脳ではとふと思った。そして、+1で平面を形成する。すると、Z軸が奥行きになるのか。」と述べたが、これからさらに発展させて推測すると、+1が垂直の上方向であり、-1が垂直の下方向ではないだろうか。本来の垂直性は、ガウス平面の虚軸に存するが、1/4回転によって、それが水平化し、実軸化するのであるが、そのとき、+1が現象における垂直線の上の方向であり、-1が下、鉛直線方向ではないだろうか。伝統文化的に言うと、天が+1であり、地が-1ではないのか。そして、これは二元的天地創造を意味するだろう。つまり、父権的二項対立である。
 とまれ、思考実験的に、実軸を現象における垂直線とすると、虚軸は、左右の線になるのかもしれない。だから、ガウス平面が、視覚の根源的平面(不連続的差異論のときに考えたメディア平面)ではないのか。そうならば、奥行きは、やはり、ガウス平面に直交するZ軸になるのではないのか。それで、3次元現象空間が出現するのではないのか。ならば、時間次元はどうなるのか。これは微妙であるが、Z軸が時間次元ではないだろうか。つまり、奥行き次元と時間次元が重なっているのではないだろうか。(もっとも、以前、このことを考えたことはあるが。)
 さて、文化論的な考察を続けると、1/4回転で父権的二項対立が成立すると仮説したが、それは当然、父権的一神教文化である。その二元論的ヒエラルキーであるが、それは、天地が切断されているのである。天が超越神化しているのである。「天にましますわれらが父よ」である。この超越神はどう捉えられるのか。これは、先に述べたように、本来虚軸次元である。この虚軸次元が1/4回転による水平化によって、不可視化しているのである。一種、空無になっていると思われる。しかしながら、1/4回転・水平化をもたらすエネルギーの根源として、虚軸次元が意識されて、超越神・天・父となるのではないだろうか。一種痕跡である。この虚軸の痕跡としての超越神と実軸の+1が結びつくのであろう。父権的自我の成立である。そして、否定された多神教・自然宗教・母権文化・「異教」であるが、それは、-1ではないのかということである。天・父=+1の否定としての地・母=-1である。
 では、二元論的分離の亀裂はどう説明できるのか。それは、やはり、超越神のもつ超越性である。その超越性が二元論の亀裂を規定しているのである。いわば、超越性への引き上げの志向性である。「我在り」である。それが、-1を否定するのである。しかし、その父権的な超越性の「力」であるが、それはどう説明できるだろうか。
 これは既述済みである。Media Pointからの同一性志向エネルギーが同一性自己=自我(+1)を発生させるのであるから、超越神の超越性の力とは、このMedia Pointにおける同一性志向エネルギーである。そう、正に、⇒+1の「力」である。しかしながら、注意すべきは、⇒の左辺はこの場合、差異共振エネルギーではなく、同一性志向エネルギーであることである。これが、父権一神教力学である。言い換えると、1/4回転力学である。このエネルギー・力が父権的二元論・二項対立を規定しているということである。
 言い換えると、⇒+1へのエネルギー=力が-1との関係を引き裂き、絶対的亀裂・溝をつくっているということになる。これで、父権的二元論・二項対立の成立の力学を説明できたと考えられる。わかりやすく言えば、+1と-1が父権的二元論・二項対立を意味すると考えられる。文化史的に言えば、先に述べたように、-1の地・母が貶められたのである。これは、哲学的には、身体性であろう。あるいは、「差異」である。【この「差異」はポスト・モダンの差異であり、連続的差異である。初期デリダの差延であるが、それは、+1と-1との混淆様態を意味しているだろう。そして、そして、「差異」と同一性との中心点として、ゼロ・ポイントが考えられるのだろう。これは、構造主義とポスト・モダンに共通の中心点であろう。この点については後で検討したい。】
 しかしながら、この-1の地・母(大地母神)は、不正確な「母」である。本来の母は、太母・原母であり、(+i)*(-i)の差異共振性である。Media Pointのエネルギーである。【思うに、聖母マリア信仰であるが、それは、この点が混淆していると思われるのであるが、その点は後で検討したい。これは、日本の宗教にも関係すると思われる。】
 とまれ、以上のように考えると、認識論的に実に不思議な様態になっているのがわかる。+1は自我意識であり、-1が身体・物質である。しかしながら、+1自体が同一性=物質化なのである。この関係をどう考えたらいいだろうか。【西洋哲学において、形相と質料の関係があるが、この形相は+1であり、質料は-1と考えることができよう。】
 考えると、+1の視点が現象を観察するとき、現象が物質となるのである。だから、正確に言うと、物資とは、-1であろう。とにかく、+1の視点が主導的になって、物質-1を支配するのである。同一性主義が物質主義を生みだすのである。
 では、そのとき、現象界・自然とはどう位置づけられるのだろうか。プラトンの洞窟の比喩で言うなら、洞窟内の観客の視線が+1であり、洞窟内の壁のスクリーンに映る影像が現象・自然であり、-1であろう。つまり、現象・自然は-1であるということになるだろう。端的に物質化された現象・自然である。しかし、本体・イデア界は、虚軸次元であり、Media Pointが現象界とイデア界との接点・交叉点・媒介となっているのである。【洞窟の外部の太陽が、イデア界であろう。】 
 だから、Media Pointにおける同一性変換回路を介して、現象界においては、本体の虚軸次元・イデア界(超越的差異共振界)を、-1の物質現象界として見てしまうことになると言えよう。-1は、だから、仮象と言えるであろう。本体を同一性イマージュとして見るのである。確かに、幻像・幻燈に近いのである。インド哲学でマーヤー(まやかし)と呼んだのは、それなりに意味のあることである。
 ここで、量子力学の解明した世界観であるが、それは、-1の物質現象界を越えて、ゼロ・ポイントの世界を解明したと言えよう。否、それなりに、 Media Pointに到達しているのである。しかしながら、物質的世界観に染まっているために、そこを無限性と捉えてしまっているのである。既述済みではあるが、例えば、長距離相関の考え方にそれは見られるのである。Media Pointの高次元・超次元を考えられば、そのような「離れ業」を考える必要がないのである。
 虚軸次元の超越的差異共振エネルギーとして、量子・素粒子を把捉すれば、整合化するのである。そう、量子力学は、物質現象界を越えて、イデア界を探求している自然科学なのである。トランス唯物論化すれば、量子力学等の自然科学は大進化することになるだろう。今は、人類は、大進化の時期を迎えていると考えられるのである。明らかに、ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明、ポスト唯物文明である。

2)精神と量子力学について:Media Pointにおける差異共振エネルギーと電磁波・量子・素粒子

3)自我がもつ一種マインド・コントロール的な理想自我像について:自我・同一性自己は、理想自我観念に同一性化して、差異共振性を抑圧否定して、自我自身のアイデンティティを保持するのである。

4)共立・共振・共生的調和を、一言で、共調という言葉を造語にして表現したらどうだろうか。差異共振は差異共調となる。それとも、共和にするのか。差異共和主義?

5)文学の死と再生:文学の近代主義であり、小説中心主義を乗り越えて、多元的な文学を取り戻すべきである。とりわけ、思想・哲学性を取り戻すべきである。また、庶民性・民衆性を取り戻すべきである。また、他の領域との共振性を目指すべきである(脱領域的共振主義)。講談、浪曲、清元、等々とも結ぶべきである。共結である。差異共結性である。そう、文人画、日本画、漢籍等々とも共結すべきである。脱文学近代主義である。トランス・モダン文学である。
 西洋文学で言うと、モダニズムを清算しないといけない。モダニズムは、いわば、モダンとポスト・モダンとトランス・モダンが混淆していたと考えられるのである。しかし、原トランス・モダンを抑圧否定するように活動したのである。例えば、T. S. エリオットやエズラ・パウンドである。ジョイスに問題があるだろう。私の直感では、ジョイスは、文学芸術の感性を破壊したのである。差異共振感性を否定するように、自我知観念を肥大化させたのである。これらについては、後で検討したい。

6)音楽の音色(おんしょく)・トーンにおける渋味とは何か:バッハの無伴奏チェロ組曲の演奏であるが、マイナルディの演奏は渋味があって腑に落ちるのである。また、最近のヨーヨー・マの演奏にも渋味がある。渋味の味わいとは何か。
 それは絵画や美術で言うと何だろうか。なにか、差異共振性と関係するように思える。私はシャガールの絵画が、いわば、玉石混交だと思うが、いい絵画には、差異共振性があり、それは一種の渋味であると思う。あからさまではなく、表面を越えて、共振するエネルギーがあるのである。この表面を越えて共振するエネルギーが渋味ではないのか。後でさらに検討したい。

7)芸術鑑賞における感受性の流動性について:例えば、バッハのミサ曲ロ短調を聴くとき、いろいろな名演があるが、聴き手の感受性の様態によって、印象が異なるのである。叙情性豊かな演奏Aは、聴き手の感受性が叙情的なものを欲しているときは、よく聴こえ、構築的な演奏Bは、その時の聴き手には、印象が乏しかったり、つまらかったりするだろう。感受性のゆらぎがあるのである。これは、思うに、感受性のMedia Pointの共振的振動のゆらぎ様態で説明できないか。 

8)私にとって、モーツァルト音楽は、意味がなくなってしまったが、これはどういうことなのか。昔は人並みによく聴いたが、今は聴いても興趣をおぼえないのである。確かに、レクイエムがすばらしいと思うが、いいと思うのはこれくらいである。
 なにか、感性の変化があると思うのである。単に私だけでなく、根本的な感性の変化があるのではないだろうか。私はバッハ音楽を聴き、また、70年代初期の洋楽ポピュラー音楽の精神性を説き、また、最近、ポピュラー音楽に叙情性がもどってきたと述べたりしたが、そう考えると、やはり、世界に超越エネルギーが強化されているように思えるのである。コスモスの変化ではないだろうか。

p.s. バッハ音楽は東洋的である。つまり、東洋精神が復活していると考えられるのである。宇宙的にMedia Pointが開きだしたのである。天の岩戸の開扉である。天照大神の復活である。


2008年03月10日(Mon)▲ページの先頭へ
検討問題:何故、昼間入浴するとぽかぽかするのか、他
1)何故、昼間入浴するとぽかぽかするのか:夜入る風呂と比べて、昼間入る風呂は、からだがあたたまる気がする。気のせいか。何か不思議である。関係ないが、昼間酔うと気持ちのいいものである。何か、陽光と関係するのか。(残念ながら、最近は禁酒9ヶ月以上である。)


2)道教でいう丹田とプラトニック・シナジー理論の関係について:上丹田は知性、中丹田は心でいいが、下丹田は肚であるが、PS理論ではどうなるのか。
 直感では、差異共振性は、中丹田=心(又は、魂)で起る。だから、Media Pointの位置はここにあると思われる。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、左辺は中丹田となるが、+iが上丹田で、-iが下丹田ということになるのか。もし、そうならば、近代的自我/近代合理主義とは、上丹田が中心化されている自己である。つまり、右辺の+1の自我=同一性自己は、+i が中心化されていることになる。
 そうすると、これまで思考実験してきたように、+iが原同一性知性であり、-iが原身体性ではないだろうか。また、ジェンダーで言うと、+iの優位が男性(人間)であり、-iの優位が女性ではないのか。また、西洋は+i(頭)が優位であり、東洋は-i(肚)が優位ではないのか。
 近代的自我/近代合理主義は、+iが中心化された+1と見るなら、それは、-iが劣位に置かれている、ないしは、抑圧されているのである。その状況においては、心と言っても、-iが抑圧否定されているので、+i(頭・同一性)の枠組みの中の心であり、純粋な差異共振性としての心ではないだろう。(本居宣長の大和心は、これだと思う。自我における心なのだと思う。キリスト教の愛もやはり、これと同質になっていると思われるのである。自我における愛である。)
 この観点から見ると、ポスト・モダンは、-iの取り戻しと言えないこともないだろう。+iを原同一性とすれば、-iが原差異であるからである。しかし、逆に-iを中心化するのは、反動となる。アイロニカルな没入という反動が生起するだろう。また、-iを他者と見てもいいだろう。近代的自我/近代合理主義は、他者を否定しているのである。
 内面を測深することの必要を言ったが、問題はもし、内面観察(省察)が-i(肚)に達さなければ、それは、自我内の心に留まるということである。-iの肚まで、測深は達する必要があるだろう。それをするには、東洋的身体行が必要である。単なる瞑想ではだめで、-i=肚=下丹田を基盤とする瞑想が必要になるだろう。
 思うに、今日の日本人は、この-i=肚=下丹田を喪失しているように思えるのである。皮相な+i=頭=上丹田中心の自我=同一性自己になっていると思われるのである。
 ここで、私説の西洋文化史を言うと、イタリア・ルネサンスは、左辺の差異共振性の発露であり、プロテスタンティズムは、それをベースにした、自我=同一性自己である。だから、プロテスタンティズムは、近代的自我/近代合理主義を生みだしても、それは、トランス・モダンへと転換する資質はあると考えられるのである。(しかし、それには、ヤハウェ主義を乗り越える必要がある。後期デリダには、それが見られるが。)
 日本の場合、神道や仏教が左辺を保持していたのであるが、それが、近代化で、まったく喪失してしまったのである。三島由紀夫の言う「断絃の時」である。
 とまれ、整理すると、内面形成と言っても、-i=肚=下丹田に達しないと中途半端である。そこに達して、+iと-iとの差異共振性*が発生すると考えられるのである。だから、プラトニック・シナジー理論とは、プラトニック・東洋文化理論でもある。
 そういうような視点から近代的自我/近代合理主義の狂気やポスト・モダン的精神病理を見ると、-i=肚=下丹田のもつエネルギーに対して盲目であることから発していると言えないだろうか。単に、上丹田の知や中丹田の心だけでは、差異共振エネルギーを摂取することはできないのである。言い換えると、-iに基づくエネルギーが反動エネルギーとなり、狂気・精神病理を発症させているのではないだろうか。

p.s. 確かに、近代的自我/近代合理主義意識は、-i=肚=下丹田を喪失しているが、逆に、そのエネルギーが、いわば、闇のエネルギーになって、それに非合理に突き動かされているように思える。-iの闇のエネルギーが反動となり、攻撃衝動となっているように思えるのである。この点は、さらに検討したい。

丹田:
http://search.jp.aol.com/search?query=%92O%93c&x=0&y=0


3)自我=同一性自己の問題について再考:近代的自我/近代合理主義では、自我が中心化している(自我中心主義と言うべきであり、いわゆる、自己中心主義は、理論的には間違いである。自我と自己が混同されているのが問題である。我と己は異なるのである。)

 以前考察したが、自我のもつ他者に対する優位・優越の意識はどこから発生するのか。二項対立の原因である。差異共振性=他者を抑圧的に否定して、自我=同一性自己が形成されるのであり、そのとき、抑圧する自我=同一性自己は、当然、優位・優越の意識を帯びると考えられるが、結局、どうして、それが発生するのか、という問題である。
 他者を否定する自我はどうして、自身を優位・優越と思うのか、である。この疑問に答える前に、自我は他者(差異共振性)の抑圧的否定によって、アイデンティティ(正に、同一性である)を保つのである。いわば、他者に勝ち誇りたいという一種盲目な欲望がある。
 そう、自我=同一性自己のもつこの他者に対する攻撃性はどこから来るのだろうか。自己認識方程式では、左辺の否定として、右辺の自我=同一性自己が発生するのである。それは、機械的な、単純な抑圧的否定である。自動的な抑圧的否定である。
 ならば、これは、自然的悪魔性である。人間のもつ自然的悪魔性としか言いようがないだろう。それに対して、善性は、抑圧否定された他者=差異共振性から生まれるのである。人間の内部に、悪魔と天使が住んでいるのである。ただし、意識は自我としては、悪魔と一体なので、自分が悪魔的であるのが認識できないのである。悪魔としての自我=同一性自己なのである。近代的自我/近代合理主義とは、悪魔的なのである。だから、この根源であるヤハウェとは、端的に、悪魔神、魔神、邪神である。(グノーシス主義は、この世界を造った創造神デミウルゴスを邪悪な神としたが、それは正しいだろう。デミウルゴスとは、ヤハウェである。)
 とまれ、肝心の問題は、自我=同一性自己の優位・優越意識の発生因は何かである。何故、自我=同一性自己を優位・優越と意識するのか。ここには、鏡像の問題があるだろう。思うに、Media Pointから自我=同一性自己が発生するとき、同一性の志向性は、鏡像を結ぶと思うのである。その鏡像に対して、意識は、同一性化すると考えられる。そして、自我=同一性自己が生起すると考えられるのである。
 だから、当然ながら、元々、自我=同一性自己があるのではなく、Media Pointからのある意識が同一性の志向性から自我=同一性自己意識を形成すると考えられるのである。ここでは思考実験するが、ある意識とは、+iの意識ではないのか。つまり、原同一性である。本来、原同一性と原身体とが共振するのであるが、⇒+1の同一性発現では、原同一性が自我=同一性自己になると思われるのである。言い換えると、原同一性意識が自我=同一性自己になるということである。
 だから、人間においては、+iと-iとの非対称性があるように思えるのである。つまり、以前、人間は本来的に同一性に傾斜していると言ったが、それがここでも確認できるのではないだろうか。+iが-iに対して、元々優位を帯びているのである。原優位性、原傾斜である。
 そうならば、自己認識方程式は複雑になるだろう。⇒+1とは、+iの優位に基づく産物であることになるのではないだろうか。否、それではおかしいだろう。差異共振が積となって、⇒+1となるのである。そこには、均衡があるのである。
 ならばどう考えたらいいのだろうか。思うに、+1において、+iの意識が優位になっているということではないだろうか。あるいは、積とは、+iの-iに対する優位を意味するだろうか。そうかもしれない。私は、また、+iを原形相、-iを原質料としても考えている。だから、+iが優位となり、-iに対して、原形相を押しつけて、形相のある物質を生みだすのが、+iと-iとの積の意味かもしれない。そうならば、もし、-iが優位であったらどうなるのだろうか。それは、積にはならないだろう。商になるのか。即ち、(+i)÷(-i)=-1ということなのか。この問題はここで留めたい。
 ここで、異なる考え方をしてみよう。つまり、原優位性、原傾斜はないということで考えるのである。それは、最近の考え方である。つまり、抑圧的否定によって、+1である自我=同一性自己が生成するということである。ここでも、鏡像を考えると、同一性鏡像が生じるとすると、これに意識は同一性化するのである。
 思うに、Media Pointが鏡面になるのである。そこで、+iと-iとが出会うのである。+iが-iを見るのであり、また、-iも+iを見るのである。いわば、お見合いである。そのときの相互的鏡面において、原同一性像=鏡像が生まれるのではないのか。そして、この原同一性像=鏡像が、エイドスとしてのイデアであり、それが、現象化したのが、+1ではないのか。
 換言すると、Media Pointは鏡面を形成して、鏡像=エイドスを形成する。それが、現象=物質化したのが、+1ではないのか、ということである。だから、⇒の起点・始点は、鏡面=エイドスでもあるのではないだろうか。そして、鏡面は一種のイデアであり、観念であろう。
 では、後者のように考えるとき、優位・優越性はどこから生まれるのか、である。これはわかりやすいのではないか。即ち、Media Pointの鏡面の鏡像を介して、+iは-iと同一性化するのであるが、この時、鏡像と同一性的に融合した自我(ないしは原自我)は、正に自己陶酔(ナルシシズム)の様態にあるだろう。この自己陶酔、自己快楽、自己悦楽が、自我優位・優越意識の原点ではないだろうか。言い換えると、Media Pointにおいて、根源界・イデア界の差異共振様相から「鏡像段階」へと展開するが、差異共振性を否定する鏡像への同一性化による自己陶酔の快楽・悦楽が、差異共振性=他者に対する自我優位・優越意識をもたらすのではないだろうか。
 ここには、言葉・用語の問題がある。快楽・悦楽と言ったが、ここにあるのは、欲望の原点であると思う。だから、原欲望である。それに対して、差異共振性は歓喜であろう。つまり、歓喜から欲望への転換がここにはあると考えられるのである。歓喜は他者との共感性(共振・共鳴性)にあるが、欲望は他者を同一性化することにある。
 問題はどうして歓喜から欲望への転換において、優位・優越意識が発生するのかということである。やはり、ここでは、なんらかの同一性価値の発生を見るべきように思われる。基準となる同一性価値ないしは同一性中心価値があり、それが優位項となり、他者(差異共振性)は劣位とされると見るのが妥当だと思われるのである。
 では、価値基準となる同一性価値とは、どこから発生するのか。他者価値(差異共振価値)よりも、同一性価値の方が優れているという価値観はどこから生まれるのかである。
 思うに、同一性への志向とは、「自立」・「独立」への志向である。的確に言えば、個体への衝動であると思われる。同一性への志向性とは、個体化への志向性である。当然、それは、自我への志向性である。
 ここで丁寧に考えると、イデア界において、イデアは差異共振様相(エネルゲイア)にあり、イデアは非同一性の様相にあるのであり、個体としては存していないのである。イデアは、現象化して、個体・個物になることを志向していると思われるのである。つまり、差異から同一性化への志向性がイデア(差異共振性)にはあると考えられるだろう。この、言わば、同一性志向性は、当然、ある必然性をもっていると考えられる。
 差異共振性であるイデア(エネルゲイア:活動態)から同一性(エンテレケイア:終局態)への進展は、だから、能動的なもの、積極的なものと言えよう。その観点から言うと、他者=差異共振性より、同一性の方が価値があるのである。つまり、言い換えると、イデア様相の差異共振性、すなわち、原差異共振性から同一性への志向性(これを同一性エネルゲイア乃至は、同一性エネルギーと呼べよう。それは、端的には、物質的エネルギーであろう。)がMedia Point において発生し、この同一性志向性(同一性エネルギー)は、原差異共振性(イデア)を劣位に置き、同一性を優位に置く価値観をもっていると考えられるのである。
 言い換えると、同一性志向性自体が優劣価値観、即ち、二項対立的価値観をもっていると考えられるだろう。
 ということで、なぜ、自我=同一性自己は優位・優越意識をもつのかという問いにいちおう答えたことになる。つまり、イデアの必然性なのである。言い換えると、自然の必然性なのである。そして、これは、父権神話的、一神教的必然性である。男性的必然性である。
 それに対して、太母(母権)神話的、多神教的、女性的必然性があると考えられる。それは、イシス・オシリス神話に存していると思えるのである。オシリスは同一性であるが、差異共振性であるイシスと分離していないのである。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Point に包摂された同一性としてのオシリスであると考えられる。
 この場合、オシリスはイシスに対して優位・優越意識を、当然、もっていない。両者は一如であり、どちらかと言えば、イシスに優位性があると言えよう。
 では、この場合の力学はどう説明できるのだろうか。一神教的必然性では、他者である原差異共振性に対して、同一性は優位・優越意識をもったのであるが、この意識が発生しない多神教的必然性とはどう説明されるだろうか。おそらく、原差異共振性(イシス)と同一性(オシリス)は未分化なのである。Media Point 自体における「現象」としての多神教的必然性があるのだと思う。つまり、純粋な同一性、原差異共振性から独立した同一性は発生していないのである。言い換えると、イデアからの同一性への変換の過程にあると考えられるのである。つまり、エネルゲイア自体としての多神教的必然性である。これで説明できたこととしよう。
 そうすると、ガウス平面ではどう説明できるのだろうか。一神教は端的に1/4回転で説明できよう。思うに、多神教は一神教への移行過程とするならば、それは、いまだゼロ回転ではないだろうか。1/4回転への志向性はあるが、それは、エネルゲイアである。思うに、Media Point におけるゼロ回転としてのエネルゲイア自体で説明できるのではないだろうか。ゼロ度の多神教力学である。Media Point の多神教力学である。そして、これは、仏教、とりわけ、大乗仏教にもあてはまることと考えられる。
 そして、さらに、一神教的必然性の後のことを考えてみよう。同一性=物質が形成された後、その必然性は終焉して、もはや、創造は為されなくなるだろう。終末である。一神教の終焉である。プラトニック・シナジー理論で考えると、もうエネルギーの放出が終わったのであり、新たなエネルギーの放出が考えられるのである。新たなエネルゲイアの発生である。即ち、新多神教・新仏教である。新神道である。それは、新たなMedia Point の開放である。それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で説明すると、(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)ではないだろうか。第3番目の差異共振性は、いわば、螺旋的回帰であり、第1番目の差異共振性よりは高次元にあると考えられるのである。そして、これは、二重螺旋であると考えられ、この二重螺旋回帰が永遠に反復されるように思われるのである。すると、二重螺旋永遠回帰がイデア/現象界に起こっているということになるだろう。
 では、補足的に言うと、-1とはどういう意味をもつのだろうか。形式的に考えると、+1が物質ならば、-1は反物質ではないだろうか。あるいは、前者が光の物質ならば、後者は闇の物質ではないだろうか。今は、思考実験的に言うだけだが、ルイス・キャロルの『鏡の国』のような対称的世界ではないだろうか。逆さまの世界ではないだろうか。時間が逆転するのではないだろうか。とにかく、不可能の世界だと思う。ひょっとして、これが、デュナミス(可能態)の世界ではないだろうか。-1=(+i)^2=(-i)^2である。だから、-1は、+iや-iの+1/4回転、-1/4回転を形成していると言えないだろうか。つまり、イデア界の1/4回転の原動力ではないだろうか。言い換えると、-1とは、デュナミス・イデア界ではないだろうか。そして、それが、いわば、エネルゲイア・イデア界を発生させるのではないだろうか。すると、初めに、-1ありきとなろう。今はここで留める。

p.s. また、自己理解即ち、自己覚醒の問題であるが、自我主義に染まっている人間の覚醒方法は何か。金儲けが人生の目的であった私の亡父は、癌で死ぬ間際、病院のベッドで、金儲けなんてどうでもいいと諦めるような口調で言っていた。死に際になって目覚めたのである。日本も死に際になって目覚めるのか、それとも、死に際でも度し難く無明のままであるのか。


4)今日の心の病であるが、なにか、精神の発達の衰えがそこにはあるのではないだろうか。なにか、幼稚な発想の人が心の病になる傾向はないのか。精神の発達の衰えとは、教養の衰えと相関関係にあるのではないだろうか。端的に言えば、知の衰退である。
 後で補足したい。


2008年03月08日(Sat)▲ページの先頭へ
一神教/自我力学再論:差異に対する憎悪について:内的な差異共振性=他者の抑圧否定が、外的な差異共
一神教/自我力学再論:差異に対する憎悪について:内的な差異共振性=他者の抑圧否定が、外的な差異共振性=他者の抑圧否定=憎悪・攻撃をもたらす

自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、一神教力学をこれまで見てきて、左辺を内包的に、抑圧否定する同一性自己(自我)の形成を考えた。この同一性自己=自我の基盤の鏡像(反射像・理想像)は、超越神=唯一神の像である。(しかし、この像は、いわば、精神的像であり、不可視である。この点については後で検討。)
 この力学の注意点は、左辺の差異共振性を否定して、そこに超越神を生起させることである。差異共振性は、虚軸と実軸の即非性をもち、超越的・即非・内在的であるが、超越神は、その内在性を否定して、超越性だけを帯びると考えられる。この点は既述したことである。
 問題点は、左辺の否定のもつ憎悪・ルサンチマン(嫉妬深さ)のもつ意識構造の意味である。これについて再考したいのである。
 形成された自我=同一性自己は、超越神に、おそらく、類する力forceをもち、抑圧的に否定された差異共振性(他者)に対して、優位性を志向すると考えられる。優位性をもつというよりは、優位・優越衝動をもつのである。差異共振性=他者を劣位に置かんとする自我(同一性自己)優位・優越衝動であり、差異共振性=他者に対する攻撃衝動をもっているのである。
 この場合、攻撃とは、物理的、精神的暴力(傲慢さ・倨傲さ等)をもつと考えられる。ユダヤ・キリスト教西洋文明の攻撃性はこれで説明できると考えられる。
 問題は、この優位・優越志向攻撃衝動の発生のあり方である。内的に、差異共振性=他者を抑圧否定しているので、当然、外的な差異共振性=他者を攻撃することになると考えられる。何故なら、外的な差異共振性=他者は、自我・同一性自己に対して、内的に抑圧否定している差異共振性=他者を、エネルギー的に刺激して賦活・活性化させるのであり、それに対して、自我・同一性自己は、不快感・不機嫌・不愉快・嫌悪・憎悪等を覚えるのであり、それが原因で、反動的に攻撃衝動が発生することになるからである。
 つまり、言い換えると、内的な、差異共振性=他者の抑圧否定の力forceが、外的な差異共振性=他者を抑圧否定するために、攻撃衝動となると考えられるのである。衝動であるから、非合理的である。言い換えると、同一性知性による差異に対する非合理的な攻撃性である。【そして、この自我・同一性自己が近代合理性という物質的同一性知を得て、近代的自我となるのである。持論である近代的自我=狂気説はこれでも完全に説明できるのである。】
 結局、自我・同一性自己は、力forceで形成されたのであり、本質的に暴力・攻撃的であり、衝動的なのである。(唯一神=ヤハウェ的)父権的暴力衝動と言っていいだろうし、これが拡大したのが国家暴力=戦争であると考えられる。
 とまれ、近代的自我=狂気説であるが、今日、トランス・モダンへの移行期であるポスト・モダンにあっては、近代的自我=狂気は精神病理化すると考えられるのであるし、そのことをこれまで何度も述べてきたが、ここで繰り返して言うと、今日、ポスト・モダンにあって、近代的自我を規制していた同一性主義の枠組みが緩み始めていて、抑圧否定していた内的な差異共振性=他者のエネルギーが積極的に発動するようになり、そのために、それを摂取できない近代的自我は、それをさらに抑圧否定しようとするのであるが、これは、いわば、盛期近代と異なり、差異共振性=他者のエネルギーが賦活されているので、それを抑圧否定しようとする近代的自我は、制御不可能の事態に陥っているのであり、そのため、発動する差異共振性=他者のエネルギー(超越・高次元エネルギー=聖なるエネルギー)が、近代的自我の非合理性を過剰にし、不安定化させるのであり、つまり、精神病理化をもたらすと考えられるのである。
 簡単に言うと、近代的自我の力と差異共振性=他者のエネルギーの分裂化が生起すると考えられるのである。これが、うつ病となったり、パラノイアとなったり、統合失調症(「分裂症」)等を引き起こす根本的な精神的事象であると考えられる。【p.s.  もう少し説明すると、今日のポスト・モダン期において、差異共振性=他者のエネルギーに対して、近代的自我は本来の攻撃衝動だけでなく、賦活された差異共振性=他者のエネルギーへの反動性をもつので、非合理な攻撃衝動と差異共振性=他者のエネルギーへの反動が混淆した狂気、いわば、複合的狂気をもつと考えられるのである。非合理な攻撃衝動狂気と超越的エネルギーの反動狂気の複合した二重狂気である。これは、簡単な言葉で名づけるのが難しいポスト・モダン狂気である。いちおう、反動超越的狂気とでも名づけておこうか。p.p.s. 痙攣的狂気とも言えよう。】
 少し補足すると、差異共振性=他者のエネルギーにさらされた近代的自我であるが、それは不安や恐怖等を感じると考えられる。未知の力にひたされているのである。問題は、この未知のエネルギーを摂取する方法である。自己転換の方法である。これについては、本来、東洋思想は蓄積があるのである。例えば、禅は、この練達の方法、精神・身体技術である。
 しかし、今日、科学・技術の進展した時代においては、この問題はどうなのだろうか。トランス・モダン化が必然となっているので、避けては通れない問題である。とにかく、東洋の修行的宗教思想は、この点で効果的であると考えられるが、知的にはどうなのだろうかという点がある。
 やはり、イデア論が決定的だと思う。イデア界を想定することで、差異共振性=他者のエネルギーを知的に取り込むことが可能になると考えられるのである。この点については、以前触れたことがあるが、重要な問題なので、ここでも述べてみたい。
 イデア的知を想定することで、心は、そこにおける差異共振性=他者のエネルギーを衝動ではなく、観念的に取り込むことが可能になると思われるのであるが、その理由は何であろうか。
 これは、心・観念の力学の問題であるが、心・観念において、衝動・情動が生じると考えられるのである。しかしながら、身体との関連はどうなのかという問題もある。つまり、衝動・情動とは、単に心的だけでなく、身体的でもあるのではないのか、ということである。問題は、エネルギーである。Media Point の差異共振エネルギーの問題である。これまでの考えでは、魂=身体である。あるいは、心=身体である。だから、衝動・情動は、心・観念=身体の問題であるということになるのである。(私がいう身体とは、単に物質的身体ではなくて、知と存在の共振によって発生する心身体である。)
 さて、イデア的知を想定することによって、超越エネルギーは、知性的に把捉されると思われるのである。この知的把捉とはいったい何だろうか。それは、端的に言えば、Media Point と結びついた知性の形成を意味するのではないだろうか。つまり、これまで、知性は、一般には、同一性知性であったが、その知性に超越エネルギーを捕捉する知を加えることではないだろうか。これは、エネルギーの知的捕捉と考えられる。エネルギーの知的蓄積である。
 では、このイデア的知性はどういう意味をもつのだろうか。それは、当然、差異共振知性である。つまり、同一性を包摂した差異共振知性の形成を意味すると思えるのである。あるいは、同一性知性を包摂した超越知性の形成である。思うに、Media Point Intelligenceと呼ぶことができると思う。これこそ、プラトニック・シナジー理論のもたらす知性、プラトニック・シナジー知性である。これは、カントが認識不可能と考えた物自体の知性でもあると考えられるのである。とまれ、これで、イデア的知性の意味を説明したこととしよう。
 因みに、一神教のもたらした積極的意義を考えるならば、それは、純粋に超越的次元を形成したことだろう。虚軸の次元を形成したと考えられるのである。多神教の場合は、Media Point を保持するが、同一性化=世俗化によって、超越的次元を喪失しやすいと言えるのかもしれない。


2008年03月06日(Thu)▲ページの先頭へ
民主主義再考:平等と公平:同一性平等主義と差異平等主義:民主主義のトランス・モダナイゼーションへ
民主主義再考:平等と公平:同一性平等主義と差異平等主義:民主主義のトランス・モダナイゼーションへ

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

民主主義再考:平等と公平:同一性平等主義と差異平等主義:民主主義のトランス・モダナイゼーションへ向けて

例えば、Aさん、Bさん、Cさんがいるとして、Aさんは妻子のある大工で、これこれの道具や置き場所を必要としている。Bさんはビジネスマンで、両親と妻子と暮らしている。Cさんは、市議会議員であり、妻子と暮らしている。Aさんは、大工道具の倉庫が必要で、BさんやCさんより、広いスペースが必要である。
ここで、単純に、平等原理を当てはめた場合、三者には、等しいスペースが適性であるということになるだろう。しかしながら、これは、個の差異に則していず、ある意味で公正ではない。平等であるが、非公正である。いわゆる、悪平等である。単純に見て、個々人には、差異があり、差異は質であり、必然性である。
 民主主義はこの場合、どういうことになるだろうか。平等原則に拠るなら、非公正となるのである。個の差異を無視しているのである。
 私は先に医者の場合、個々の患者に対して、平等にというか公平に医療行為を行なうといった。患者一人一人を平等に診るのだろうか。個々の患者は差異である。医師は、個々の差異に則して、診断し、治療行為をするだろう。
 個々一人一人は、何なのだろうか。同一性なのだろうか。先に述べたのは、差異的同一性としての個々の患者である。同一性とは言わば、物質体としての他者である。感覚知覚できる他者である。見ることのできる他者である。
 医者は、個々の患者を同一性と見ているのだろうか。同一性は、患者という言葉と同じである。正常な医者ならそんなことはないだろう。通常の知覚は、同一性を介して、差異を認識することである。だから、医者が患者を診療するのは、患者の差異を認識することである。だから、差異主義なのである。同一性は、媒介に過ぎないだろう。
 私は平等ではなくて、公平に言ったのはこのような意味があるからではないだろうか。もちろん、平等でもいいのであるが、平等とは、差異に則する価値観である。だから、差異的平等主義である。言い換えると、差異共立主義、差異共生主義、差異共振主義である。
 ここで民主主義の問題に返ると、平等原則とは、差異平等主義、差異共立主義、差異共生主義、差異共振主義ということにならなくてはならないのである。だから、民主政における選挙について考えると、成人に一律に選挙権を与えるということは、個々の差異価値(人格価値でもいいだろう)を基礎として、それを平等に評価して、選挙権を与えるということでなくてはならないだろう。
 しかしながら、これまで執拗に述べてきたように、近代的自我/近代合理主義とは、同一性中心主義なのであり、民主主義はこの思想においては、形式主義化・形骸化するのである。端的に言えば、近代合理主義においては、民主主義は、衆愚政治になるのである。
 結局、民主主義を正当に活かすには、トランス・モダン化が必然なのである。トランス・モダン民主主義が創造されなくてはならないのである。愚民主義からエクソダスして、トランス・モダナイゼーションへと進展する必要があるのである。
 近代主義とは、過渡期なのである。同一性と差異との争闘する過渡期なのである。同一性主義を乗り越えて、差異主義、差異平等主義、差異共立・共生・共振主義へと政治文化的に「進化」する必要があると考えられるのである。

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自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の応用:Media Point の多次元性について

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

E(超越エネルギー)=m(+ic)(-ic)⇒mc^2=+1とした場合を考えよう。これを自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1に当てはめると、光速度cや質料mは、それぞれ+1となるだろう。私は何が言いたいのかと言うと、これは、一秒間における数値であるということである。時間一秒の発生において、+1が生まれるということであり、それは、Z軸の方向に+1が生起することではないか。
 とにかく、⇒+1は、光の現象を意味するだろう。視覚や眼の形成でもあるし、当然、同一性的自己(自我)と物質身体の形成でもある。正に、「光あれ」である。【もっとも、正確に言えば、同一性的自己と物質身体の形成には少しズレのようなものがあるかもしれない。しかしながら、物質身体と成長と同一性自己の成長はある意味で平行するだろう。また、さらに正確に言うと、当然ながら、誕生と成長のズレがある。】
 少し思考実験すると、⇒+1は、物理学的には、力forceの生起のように思える。いわゆる、物理学の四つの力であるが、重力はこの力で説明できないだろうか。強い力とは、(+i)*(-i)の共振力、弱い力とは、Media Point における同一性へと展開するときの力、そして、電磁気力は、Media Pointの差異共振波動の力、そして、重力は、同一性の力ではないか。
 さらに思考実験すると、⇒+1が物質現象界(光の世界)ならば、その否定として、反物質の世界として-1の世界(闇の世界)があるのではないのか。そして、Media Point を宇宙の穴(深淵)とすると、ブラックホールは、Media Pointに存する-1の世界ではないのか。そして、以前述べたが、ダークエネルギーであるが、それは、Media Pointにおける超越エネルギーと考えられるのである。ダークマターは、それに対応するような仮想される物質ではないだろうか。
 そう、光という「物質」があるなら、闇という「物質」もあるはずである。ダークマターはこの闇の「物質」のことかもしれない。だから、ダークエネルギーは複雑になる。即ち、超越エネルギーと闇の「物質」のエネルギーの両者を含むものになると考えられるのである。
 そのように見ると、Media Point とは実に不思議な領域であることが直感される。光+1と闇-1との中間領域であり、同時に、いわば、超越的光+iと超越的闇-iとの中間領域である。四元論であり、五元論である。さらに総体を考えると、六元論である。
 問題は、光と闇の中間性の意味である。比喩的に言えば、薄明twilightである。(今、ふと思ったのは、易である。虚軸において、三元性があり、実軸においても三元があり、合わせて六元で、易の六元性を構成するのではないだろうか。そう、また思いついたのは、占星術の惑星や星座であるが、それも、この内的な構造から説明できるのではないだろうか。ホロスコープを知っている人ならば、ガウス平面とよく似ていることがわかるだろう。そう、六元と言ったが、全体の中心を入れると七元となる。これは、月・水星・金星・火星・太陽・土星・木星で説明できないか。では、地球をどう考えるか。これらの点は後で検討したい。)
 言い換えると、Media Point における実軸のゼロ点の意味は何かということになる。虚軸においては、差異共振が発生するのであるが、実軸では何が起こるのかということである。端的に見れば、+1と-1の関係はどうなるのか、である。これは、積ではなくて、和ではないだろうか。ならば、ゼロ、ゼロ度である。(おそらく、構造主義やポスト・モダンのゼロはこれである。)そして、無限と表象されているものである。しかしながら、プラトニック・シナジー理論では、超越的高次元と見るのである。虚軸の世界・虚世界・虚界(霊界は、この世界と見るべきであろう)である。
 結局、Media Point とは、差異共振性とゼロ度とが重なっているのである。正確に言えば、即非態として重なっているのである。即非二重性である。
 冒頭の発想からずいぶんずれてしまったが、今はここで留めたい。

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Media Point を抑圧的に否定することによって生起する、近代的自我に内在する憎悪・ルサン

テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明

Media Point を抑圧的に否定することによって生起する、近代的自我に内在する憎悪・ルサンチマンについて

この問題の構造は解決済みであるが、端的に、この憎悪がどういう意味をもつのか考えてみたいのである。
 なにか近代的自我は、Media Point を隠蔽しようとする衝動に駆られているように見えるのである。同一性合理主義的自己(近代的自我/近代合理主義)に執着・固着・偏執するのである。端的には、病的であるが。
 そこには、また、当然ながら、Media Point 的な性質を劣位とし、同一性合理性を優位とする二項対立的価値観がある。
 平明に言えば、共感性の排除である。他者の排除である。他者に勝ち誇りたい衝動とも言えよう。
 結局、近代的自我が同一性自己に固着して、差異共振性を否定するのは、何らかの傾斜があるからである。端的に、自我像への固着による同一性主義への傾斜であろう。
 先に一神教力学について述べたことから敷延して言うなら、自我像には、超越神が反映しているのである。超越的同一性(「我在りて、在り余れる」神)である。超越神が投影されて自我像(鏡像)になっていると思われるのである。これは、倨傲であり、いわゆる、自己中心主義である。絶対的自我主義である。これは、凶暴狂暴(凶狂暴)である。見境のない、反理性的な、狂気の暴力衝動がある。
 ここで、ヤハウェの多神教(自然宗教)排除・排斥を考えると、確かに、Media Point (多神教、アニミズム、シャーマニズム)の抑圧的否定がここにはあるのである。ということは、ヤハウェ自身において、Media Point が実存しているのであり、それを超越的同一性が否定・排除するということになる。
 ここで自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を考えると、超越神は左辺を否定・排除して、その結果、⇒+1を発生させることになるのであるが、しかしながら、その抑圧的否定は、Media Point を内包しているのである。包摂はしていないが、内包しているのである。つまり、一神教は多神教を、抑圧的否定的に、内包しているのである。言い換えると、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の⇒は単に抑圧的否定だけでなく、内包を意味するのである。
 だから、この同一性志向性とは、一種の捩れであると言うことができるだろう。これが1/4回転である。左辺が1/4回転して、右辺になっているのである。【そう考えると、1/4回転は、±1を発生するのではないだろうか。即ち、(+i)*(-i)⇒±1ではないだろうか。】
 1/4回転による捩れが、抑圧的否定であり、根源的憎悪・ルサンチマンなのだと思う。
 では、この同一性狂気衝動(ヤハウェ衝動=利己主義衝動)に対して、(螺旋的)回帰はどういう力学なのだろうか。つまり、トランス・モダン=再差異共振化のことである。それは、単純にさらなる1/4回転のことではないだろうか。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒±1⇒(-i)*(+i)ではないだろうか。そして、1/4回転を反復すると、(+i)*(-i)⇒±1⇒(-i)*(+i)⇒±1⇒(+i)*(-i)・・・となるのでないだろうか。これこそ、永遠回帰である螺旋的回帰(二重螺旋的回帰)ではないだろうか。(もっとも、最初の1/4回転は、マイナス・プラスであるが。)簡潔にして、(+i) *(-i)⇒+1⇒(-i)*(+i)⇒+1⇒(+i)*(-i)・・・でもいいだろう。ただし、+1は、-1を内包すると言えばいいだろう。
 では、この1/4回転力学とは一体何なのだろうか。差異と同一性の反復と言えるだろう。思うに、病理的状態とは、差異と同一性のどちらかに固着することであろう。一神教、とりわけ、ユダヤ・キリスト教の問題は、この点にあると考えられるのである。同一性に固着しているために、差異のエネルギーを吸収することができないのである。
 では、同一性への病理的固着の力学とは何なのだろうか。自然(じねん)は、1/4回転を反復し、永遠回帰(二重螺旋的回帰)を行なうと考えられるが、それを否定する反自然(はんじねん)である同一性への固着(一神教、とりわけ、ユダヤ・キリスト教)とは何なのだろうか。自然への逆らいである。つまり、不自然な反動である。端的に、これは、病理態である。病気である。一神教、とりわけ、ユダヤ・キリスト教は病気なのである。精神病である。病気、精神病の宗教である。狂気の宗教である。狂気教である。狂教である。
 おそらく、自然におけるある種の病によって、これが生起したのである。生命体に癌細胞が生起するように、人類において、一神教、とりわけ、ユダヤ・キリスト教が生起したのである。一種致命的である。
 しかるに、自然は永遠回帰するので、この癌細胞は克服されると考えられるのである。再び、多神教の差異共振性がもどってくるのである。神道ルネサンスである。


2008年03月04日(Tue)▲ページの先頭へ
キルケゴール/デリダの説く神とは何か:絶対的差異の並立と絶対的差異の共振
キルケゴール/デリダの説く神とは何か:絶対的差異の並立と絶対的差異の共振

デリダの『死を与える』において、絶対的他者(超越神)と特異性(アブラハム)との関係であるキルケゴールの信仰について説明されているが、絶対的他者としての超越神を、プラトニック・シナジー理論ではどう説明できるか。
 先に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で一神教力学を説明して、左辺が右辺へと転換し、左辺が超越神の位置になると言った。この場合、左辺は抑圧的否定によって、差異共振性を喪失して、いわば、超越的同一性(超越神)になっていると考えられる。抑圧的否定が左辺と右辺の間に、絶対的な溝を形成して、左辺が超越性をもつと考えられる。
 左辺の差異共振性が開放系の場合は、それは超越性ではあっても、絶対的な溝を形成していない。それは、内在・即非・超越性である。
 問題は、超越神の場合の他者と、差異共振性の場合の他者との違いである。ほとんど自明ながら、前者は個体との差異共振性がなく、後者の場合はあるということなる。だから、キルケゴール/デリダの他者は、確かに、まったき他者のままであり、ここには、コミュニケーションはない。対話もないだろう。
 差異共振性の他者の場合は、共振するので、コミュニケーション・対話が可能となるのである。創造的である。即ち、プラトニック・シナジー理論の場合も、他者はまったき他者-iであるが、それが、個体+iと共振するということなのである。
 結局、キルケゴール/デリダの他者理論とは、+iと-iの並立を説いていると見ることができるのではないだろうか。絶対的差異と絶対的差異との並立関係であり、そこには、連携の可能性が切断されたままであると考えられる。


参考1:
赦し、ほとんど狂気のように デリダの宗教哲学への一寄与

川口 茂雄

http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/
dialog/act13_kawaguchi.html


参考2:

* 「隠れたところでわたしを見る神」の死 ニーチェ対デリダ番外 2008/02/29
* 隠れたところでわたしを見る神 ニーチェ対デリダ2 2008/02/28
* 距離のパトス ニーチェ対デリダ1 

「世界という大きな書物」 中路正恒ブログ

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播磨坂下り半ばから小石川植物園の森に囲まれる白い建物を眺めて考える

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

興趣を感じたので、緩い下り坂の途中で立ち止まって、小石川植物園を背景に見える白い建物を眺めて考えた。
 枯れた灰色の木々や常緑樹の緑に包まれて、二階建てのような白い建物が印象的に見える。じっとその風景の一幅の絵のように眺めていた。手前には、ゆるく右カーブを描いて下る灰黒色の桜並木がある。右は道路で、車が来ては信号で止まる。
 絵に描きたくなるような景色である。絵心という言葉が浮かぶ。子供の頃は絵が好きであったが、久しく絵を描きたいと思うことはなかった。定年退職したら、絵を描いたり、木彫をしたり、陶器を造ったりしたくなるのかもしれない。
 とまれ、白い建物に見入る私は、そのときは、ある意味で一(いつ)である。しかし、すぐに、別になる。いわば、白い建物と私は即非様態にある。それは、差異共振性として説明できる。
 私はなぜ、森木立に囲まれた白いコンクリートの建物がどうして心地よく感じるのか疑問に思った。囲まれてあることは、安心感がある。これは一体何なのか。山並みが見えるところにも似た情緒がある。
 それは、差異共振的触覚、心的触覚があるからではないだろうかと考えた。それは、Media Point の共振感覚と言っていいだろう。差異共振的触覚が複合化したものがその感触なのではないだろうか。ならば、複合ないしは多重差異共振的触覚である。
 とまれ、私が言いたいことは、二次元の問題である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺を、対象と観察者とすると、両者が共振して、右辺の一(いつ)が生じる。しかし、共振自体はMedia Point であろう。思うに、奥行きとは、+1なのではないだろうか。そうならば、視覚の基盤と考えられる二次元・平面はどう説明できるだろうか。
 作業仮説というか思考実験であるが、虚軸とガウス平面に直交するZ軸(時間軸)が形成する二次元・平面が視覚平面ではないだろうか。当然、実軸が奥行きである。
 さらに展開すると、メルロ=ポンティの、いわば、身体現象学であるが、そこでは、見るものと見られるものとの両義性が説かれているが、それは、プラスの実軸とマイナスのそれとの関係で説明できないだろうか。即ち、見る身体は前者であり、見られる身体は後者ではないだろうか。そして、Media Point ないしはゼロ点が両義性を形成しているのではないだろうか。
 簡単であるが、今はここで留める。


2008年03月03日(Mon)▲ページの先頭へ
自我像(鏡像)への同化(同一性化)とは何か
Media Point の原自己(自他己)から自我(自己同一性)を形成するわけであるが、そのとき、自我像(鏡像)が媒介(メディア)となると考えられる。(ラカンは鏡像段階と言っているが。)
 この自我形成のシステムであるが、同一性エネルギーが放出されて自我像を結ぶわけであるが、そのとき、自我像への愛着・快感が生じて、それに固着するのであり、それを中心化するのであり、それが優位となり、それ以外のものが劣位に置かれ、いわゆる二項対立が発生すると考えられるのである。言い換えると、自我像への快楽・好感情(自己陶酔感情)とそれ以外のものへの嫌悪・憎悪の発生である。この自我像に基づく自我形成は、エゴイズム(利己主義・自我中心主義)をもたらすのである。そして、これが究極的には金銭欲、貨幣資本主義をもたらすのである。自我像への固着が原点にあるのである。そして、この自我像の原像・原点が聖書のヤハウェであると言えよう。「我有りて、有り余れる神なり」。これは、超越的自我像なのである。超越的自己同一性なのである。そして、ここに同一性価値としての貨幣・資本が結びつくのである。すての差異が同一性へと還元されて、自我中心主義的に他者=差異価値は裁断されるのである。これは明らかに自然・人類の「癌細胞」である。
 しかしながら、この「癌細胞」が西洋文明を構築したのであり、科学・技術を生み出し、その悲劇的な恩恵を今日先進諸国は享受しているのである。
 とまれ、自我像に基づく自我中心化によって、西洋文明は推進したことは認めなくてはならない。利己主義による推進である。自我中心主義による悲劇的進展である。そして、その結果として今日の「黙示録的終末論」的状況を迎えているのである。
 思うに、この自我中心主義とはいったい何なのだろうか。「わたし」、「わたし」、「わたし」、・・・。この自我の狂気的な衝動は何なのだろうか。このヤハウェ衝動とは何なのだろうか。この同一性狂気衝動とは何なのだろうか。(今日、これに支配されているのである。これがルサンチマン・憎悪、精神病、暴力、犯罪、戦争、自然破壊、等々を生み出しているのである。いわば、諸悪の根源である。)ここには、ある種の盲目性がある。目隠しされてニンジンを鼻先にぶら下げられた馬車馬のように同一性価値へと突き動かされているのである。そう、プラトンの洞窟内の人間でもある。また、仏教の説く無明状態である。自我像・鏡像・偶像(そう、ヤハウェこそ、究極の偶像ではないのか)に支配されているのである。自我像によってパラドクシカルに盲目化するのである。つまり、本来はイデア像・エイドスがあるのであるが、それが投影されて同一性像としての自我像となるのである。イデア像・エイドスの一種の物質化である。物質化としての自我像があるのである。この物質化が本源のイデア=差異を排除しているのである。マテリアル化された自我なのである。物質的自我なのである。物質エネルギーとなった自我なのである。これが同一性狂気衝動の正体であろう。物質エネルギーなのである。これが、世界を支配しているのである。物質狂気エネルギーなのである。これはエントロピーである。原自己であるMedia Point の差異共振エネルギー=イデア・エネルギー=超越的エネルゲイアが、物質エネルギー(エンテレケイア)に変換したままの様態にあるのである。終結・終末・終端様態なのである。
 これは当然自壊するのである。破局するのである。経済恐慌とはその一つの事象であろう。差異共振エネルギーの同一性化とは、本来、矛盾様態・パラドックスなのである。「我有りて、有り余れる」の「有り余れる」が矛盾様態・パラドックスを示唆していると考えられる。即ち、過剰となるのである。ハイパーとなるのである。それが端的に、狂気なのである。
 この過剰が同一性狂気衝動の真因であろう。自我・自己同一性は、その衝動の真の意味を知らないのである。ユダヤ・キリスト教徒ならば、神の衝動と言うだろうが。しかし、ヤハウェ衝動の意味は解明されていない。なぜ、「有り余れる」神なのか。それは、端的に、差異共振エネルギー=超越エネルギーがあるからである。E=m(+ic)*(-ic)⇒mc^2における左辺が存しているので、過剰となるのである。これが同一性狂気衝動=ヤハウェ衝動(おそらく、究極の知を探求するファウスト衝動もこれであろう。これについては後で検討したい。)の原因なのである。
 しかしながら、資本主義は単純なヤハウェ衝動ではない。そこには、差異共振価値創造が入っているのである。新しい差異価値としての商品であるし、また、技術革新も差異価値創造である。また、分業も差異価値創造である。つまり、資本主義には、同一性狂気衝動=ヤハウェ衝動とは別に、差異共振エネルギーが純粋に発動していると言えるのである。
 これは一体何なのだろうか。これまでの私の試論では、純粋な差異共振エネルギーの発現とは、太母文化に基づくのである。つまり、差異共振文化である太母文化の側面を資本主義はもっていると考えられるのである。【占星術的文化史から言うと、双魚宮(魚座)文化なのである。】思うに、イタリア・ルネサンスとは、この差異共振文化を意味しているように思えるのである。そして、プロテスタンティズムはそれの包摂的否定である。換言すると、差異共振性のヤハウェ化である。
 ここまで来ると問題はかなり明瞭になったと思われる。現代のグローバル資本主義の問題とは、「父」と太母との争闘が根源にあるということである。近代主義とは、太母と「父」との争闘エネルギーをもっていたのであるが、「父」が支配的であったのである。それがユダヤ・キリスト教西洋文明の意味である。「父」による太母の支配である。
 しかし、例えば、人間の成長を見てわかるように、成人へと身体の成長が終わると、今度は、精神・知的成長が重要になるのである。(思うに、これが、厄年の一つの意味ではないだろうか。)つまり、成長プロセスにおいて、同一性化=物質化が終了して、エネルギーが心的成長へと転換すると考えられるのである。同一性=物質形成から精神形成へと転換するのである。エネルギーの質的変換が生起すると考えられるのである。
 これが大規模で人類史ないしは文明史にも生起すると考えられるのである。ヤハウェ衝動が終焉して、太母エネルギーが純粋に発生すると考えられるのである。つまり、同一性価値=物質価値形成から差異共振価値形成へと転換するということである。つまり、原太母⇒「父」⇒「子」⇒「聖霊」としての太母という図式が文明史に考えられるのである。そして、現代が新たな太母エネルギー発生の段階であると考えられるのである。


抑圧的否定と包摂的否定について:太母文化共振式(+i)*(-i)≈+1と差異共振資本共同体経済としてのニュー・エコノミー
太母文化を否定的に包摂した父権文化とはどういう理論的構成をもつのか:例えば、古代ギリシア文化や古代中国文化(もっとも、後者の方が父権主義が強固であるが)。それに対して、日本の父権文化の擬制性。つまり、基盤は太母文化であり、天皇神政は父権的擬制ではないのか。
 また、以前述べたが、イタリア・ルネサンスとプロテスタンティズムの関係である。私は、後者は前者を否定的に包摂していると言った。母権文化と父権文化との関係も、否定的包摂という様相が問題であるのである。
 これは、抑圧とは違うのである。一神教の場合、旧約聖書の場合の多神教の否定は抑圧と見ていいと思う。つまり、抑圧的否定である。しかし、私が問題にしているのは、包摂的否定である。
 プラトニック・シナジー理論から言うと、抑圧的否定とは、⇒+1の反復である。それに対して、包摂的否定とは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺を内包した⇒+1である。
 しかしながら、より厳密に言えば、抑圧的否定もMedia Point を内包しているのである。だから、説明を精緻化する必要がある。抑圧的否定は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の⇒が表現していると思う。⇒が抑圧的否定である。しかるに、包摂的否定は左辺のゼロ点であるMedia Point を抑圧ではなく、活性化させて同化吸収させていると考えられるのである。有り体に言えば、Media Point がそれなりに開いているのである(開放系)。だから、抑圧的否定はMedia Point が閉じていると言えよう(閉鎖系)。
 ここで想起するのは、イシス・オシリス神話である。これは、当然、太母文化であり、イシス(乃至は、ハトホル)がMedia Point であり、オシリスが+11の太陽(日御子、「天皇」)である。
 私は先に、イデアと現象との即非性を述べた。例えば、陽光と超越光が即非様態にあるのであり、陽光において、超越光を視ることはありえるのである。(だから、天照大神、ご光来、大日如来、お天道さま、等々の表現があるのである。)
 この場合、当然、Media Point が開放系となっているのである。もし、抑圧的否定の場合は、Media Point が閉鎖系なので、陽光に超越光を視覚(視識)することはないのである。(もちろん、絶対的に視識しないというのでは、皆無に近いということである。)
 Media Point が開放系の太母文化とは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を変形して、(+i)*(-i)=+1の等式で表現されるのではないだろうか。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は基本的にはイデアから現象への変換、太母文化から父権文化への移行を意味するのであり、⇒の換わりに等号=を入れることで、Media Point が開放系である太母/多神教/自然宗教的文化を表現することができるのではないだろうか。だから、太母(多神教)文化等式として、(+i)*(-i)=+ 1と作業仮説しようだから、太母文化において、左辺はイシス(天照大神)であり、右辺はオシリス(「日御子」、「若宮」)である。そして、両辺が即非共振しているのである。【思うに、太母文化等式は、(+i)*(-i)∞+1で表現してもいいのかもしれない。否、共振を表現する≈の記号を使用して、(+ i)*(-i)≈+1として方が明晰である。太母文化方程式、差異共振方程式である。以下、これを使用したい。因みに、≈は宝瓶宮・水瓶座のシンボルでもある。しかし、問題は≈の記号だけでは、即非性が表現されないのである。非・否が表現されないのである。だから、⇒≈とした方が適切であると考えられる。即ち、(+i)*(-i)⇒≈+1である。さらに合理化すれば、(+i)*(-i)⇒+1≈(+i)*(-i)であろう。とりあえず、以下、簡単な太母文化共振式(+i)*(-i)≈+1を使用する。】
 以上、本稿のテーマである抑圧的否定と包摂的否定の違いを解明することができたと言えよう。即ち、抑圧的否定(父権文化)は、自己認識方程式(+i)* (-i)⇒+1における右辺の反復による左辺の否定であり、包摂的否定とは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、太母文化共振式(+i)* (-i)≈+1が内包されているということになる。
 だから、私説である、プロテスタンティズムはイタリア・ルネサンスを否定的包摂しているということの意味が明晰になったと言えよう。また、古代ギリシア文化、古代中国文化、日本文化の哲学的構成が明瞭になったと言えるだろう。
 今日・現代の文明史的問題であるが、ユダヤ・キリスト教的西洋文明は、正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺中心主義であり、今日の資本主義もそうなっているのである(サブプライムローン問題)。また、日本における国家主義的資本主義(国家独占資本主義、官僚主義的資本主義)であるが、それも、右辺中心主義の一種であると考えられる。そして、戦後近代合理中心主義によって、右辺中心主義が徹底化されて、左辺を抑圧的否定していると考えられるのである。だから、戦後日本は、父権文化主義なのである。戦後以前にあった左辺の太母文化共振式(+i)*(-i)≈+1性を完全に喪失しているのである。三島由紀夫が慧眼にも説いた「断絃の時」が発現したのである。日本古来の太母文化が喪失しているのである。文化的亡国状況なのである。
 ところで、私はこれまで、資本主義は差異共振価値(差異価値)を同一性価値(貨幣・交換価値)へと変換していると述べているが、差異共振価値とは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺であり、同一性価値が右辺であると考えられるのである。
 グローバル経済の問題であるが、確かに、ITイノベーションによって、差異共振価値を高めたが、同一性中心主義が強化されてしまっているのである。それが、サブプライムローン問題である。つまり、新たなグローバルな差異共振価値を創造したが、出口が未だに右辺中心主義=同一性中心主義であり、これはまた、国家主義的資本主義(現代日本資本主義)にも当てはまることである。
 問題は、この同一性中心主義が諸々の差異共振価値を破壊・解体していき、ガン細胞のように、大前提の差異共振価値である自然(人命を含めて)・社会・文化等を破壊していることである。
 今日、新たにMedia Point が開放系になり、差異共振エネルギーが発動していると考えられるのである。だからこそ、また、同一性中心主義の反動(反作用)が病理的に過剰強大なのである(ブッシュ/ネオコン、小泉構造改革、サブプライムローン他)。
 問題は、差異共振エネルギー、差異共振価値に則したエコノミー構築が必要なのである。私はこれまで同一性を包摂した差異共振経済を説いているが、それはそのようなものである。つまり、資本・貨幣を包摂した差異共振共同体経済である。国家主義とは、正に、同一性中心主義である。ヘーゲルの国家理性主義である。しかしながら、新自由主義的な小国家主義は、巨大資本のもつ同一性中心主義によって差異共振価値が解体されるのである。
 今は抽象論でしかないが、差異共振エネルギーに則したエコノミーは、差異共振共同体エコノミーであると考えられる。個々の人間のもつ差異共振価値が共振して新しい差異共振価値エネルギー、新しい差異共振エコノミー・エネルギーを創造すると考えられるのである。つまり、差異共振資本主義が新しいエコノミーとして考えられるのである。これは、同一性価値を目的にするのではなく、同一性価値(合理性)を包摂した差異共振価値の創造を目的(エンテレケイア)とするエコノミーである。脱同一性価値としての差異共振価値創造エコノミーである。今はここで留めたい。


2008年03月01日(Sat)▲ページの先頭へ
-1と+1とゼロ点の関係について:身体(地)と差異と同一性
先に、近代的自我/近代合理主義(+1)に対抗する、いわば、反近代主義(-1)を定立したが、そこに、身体的霊性(『月と六ペンス』)とポスト・モダン(ドゥルーズやデリダ)を含めた。
 しかしながら、両者は質的に異なるものであるから、同じ-1に含めるのは矛盾である。これを解決しないといけないのである。おおまかに言えば、身体的霊性とは、Media Point を内包しているのであるが、ポスト・モダン理論はMedia Point を内包していないと考えられるのである。この点について精緻に考えたい。
 デリダ哲学がMedia Pointを内包していないのは、すぐわかる。『声と現象』において、フッサール現象学の超越性=同一性として批判していて、超越性自体を否定しているからである。ドゥルーズ哲学の場合は以前検討したように微妙である。
 整理しよう。近代主義(同一性中心主義)の否定は、-(+1)=-1で、括ることができるとしよう。そして、ポスト・モダン哲学もそこに入ると考えられる。しかしながら、身体的霊性はMedia Point を内包しているということだから、身体-1がゼロ点を内包するということになるのではないだろうか。即ち、-1が0を内包するということである。数直線で言えば、0から始まる-1のそれを考えればいいのではないだろうか。そして、それに対して、+1は0を含まない数直線とすればいいのではないだろうか。そうならば、+1と-1は非対称であるということになるだろう。しかし、0を含まない-1もあるのだから、結局、+1, -1, 0, -1&0の四つの様相があると見るべきであろう。
 ならば、反近代主義は、3種類あることになるだろう。否、2種類である。即ち、-1と-1&0である。何故なら、0とはMedia Point であり、それは、反近代主義というよりは、トランス・モダンであるからである。近代主義を乗り越えているのである。確かに、反近代主義と言えないことはないが、そう呼ぶのは不正確である。
 以上から、二つの反近代主義を考えると、身体的霊性と呼んだものは、-1&0であり、ポスト・モダンは-1であると言えよう。 
 では、この視点から、再度、ドゥルーズやデリダを把握してみよう。前者の差異=微分であるが、それは、連続的差異であり、思うに、(-1)・(+1)= -1なのではないだろうか。それに対して、デリダの場合は、逆に、(+1)・(-1)=-1ではないだろうか。つまり、ドゥルーズは差異(-1)を連続同一性(+1)化するから、差異と同一性の積で、(-1)・(+1)=-1であり、デリダは同一性を差異化する(差延=痕跡)ので、同一性と差異の積で、 (+1)・(-1)=-1と考えられるのである。
 とりあえず、そのように考えて、次に、もう一つの反近代主義である身体的霊性(-1&0)を考えると、ここは、ポスト・モダンとは異なり、 Media Point(0) を含むので、垂直の力、即ち、虚軸的超越性(略して、虚超性?)が作用するのである。精神性・宗教性が入るのである。しかしながら、身体に基づく精神性・宗教性(霊性)であるから、超越神(一神教)的な霊性ではない。これは、言い換えると、多神教・自然宗教・太母(大女神)宗教的霊性である。
 ここで問題は、この身体的霊性と近代主義との関係である。これは実に微妙な点がある。+1と-1はいわば弁証法的に対立するのであるが、0において、両者は共立・共生するのであり、そのような「時」が生じるのである。それを差異共立時間と呼んでもいいだろう。しかしながら、それは、弁証法的対立における過程の一時期に過ぎない。
 +1と-1の弁証法的対立とは、連続性における対立であり、その対立過程における0は、連続性に巻き込まれているのである。ここで、不連続的差異論の画期的意義があるのである。0を不連続性として把捉したので、弁証法的対立という連続性の過程から脱却(エクソダス、「解脱」)して、独立することができたのである。(これは、実は、大乗仏教の空の論理で説かれていることであるが、鈴木大拙を除いて、これを真に理解した仏教者がいなかったのではないだろうか。因みに、D. H. ロレンスの「王冠」の思想について言うと、それは、キリスト教の三位一体論の枠組みを利用して、「父」(同一性)と「子」(差異)との対立が「聖霊」で和解するということを説いているものであるが、「父」と「子」との対立は(+1)と(-1)の対立と見ることができ、「聖霊」を0とみることができるだろう。しかしながら、やはり、弁証法的対立における0であると言えよう。言い換えると、身体的霊性の思想であるということである。)さらに言うと、この不連続的差異である0を差異共振性(+i)*(-i)にしたのが、プラトニック・シナジー理論である。0に虚軸的超越的差異共振性を与えたのである。言い換えると、0→(+i)*(-i)が不連続的差異論からプラトニック・シナジー理論への進展を意味する。(因みに、構造主義について考ええるとどうなるだろうか。ここでは、簡単に述べるだけであるが、おそらく、+1と-1の対立で説明ができるのではないだろうか。つまり、弁証法である。弁証法の形式が構造ではないだろうか。ここには、同一性の形式が支配しているのである。差異が同一性化されて統一化されるのである。結局、弁証法形式が構造主義の構造であるということである。)
 以上で本件を解明したこととしたい。


   




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カレンダ
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