INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/03/26

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年03月26日(Wed)▲ページの先頭へ
同一性鏡像について:Media Point の二元性(二重性)と同一性志向性の一元性(二項対立性)
同一性志向性が自己同一性・自我を形成する契機となる鏡像については、これまで何度か述べてきた。しかしながら、まだ、厳密さが足りないと感じられるので、ここで検討したい。
 思考実験的に、かなり以前に使用した図式を使いたい。それは、差異1・同一性・差異2というものである。これは、差異1が差異2を認識するときに、同一性を発生させて、差異2を同一性として認識することを表わしている。基本的には、差異1⇒差異2であるが、この⇒を認識衝動とすると、この⇒の結果が同一性ということである。
 この同一性認識衝動(同一性志向性)であるが、差異1は差異2(他者)に対して、その差異2自体を認識せずに、同一性を投影して、同一性として、差異2を認識するのである。この同一性が一種の鏡像であると言えよう。
 いったいこれはどこから発生したのだろうか。ラカンは鏡像段階を考えているが、果たして、物質的な鏡を介して、鏡像である同一性像を形成するのだろうか。
 私は先に、差異のスクリーンに同一性像を形成する、ないしは、投影すると言ったが、この考え方は、鏡のような外的・物質的なものによる同一性像の形成以前に、内的な、心的な同一性像が形成されるというものである。
 つまり、こういうことである。原点にMedia Point があるが、ここから同一性志向性は、差異を抑圧否定して、同一性を外界に投影するようになるのである。この内的な、差異の抑圧否定において、同一性志向性は差異のスクリーンに同一性を押し付けているのである(いわば、押印である)。
 このメカニズムを考察しよう。先ず確認しておくべきことは、Media Point において、第一に、同一性志向性が発動するということである。これは、当然、差異(差異身体)を抑圧否定する志向性である。だから、Media Point に存する同一性志向性は、Media Point において存する差異を抑圧否定する際、差異に同一性を「押印」すると考えられるのである。このとき、差異がスクリーンであり、それに同一性像(同一性影像)が投影されると考えられるのである。そう、だから、投影とは「押印」・押し付けなのである。そして、このときの同一性像が、思うに、力のある同一性像であり、これによって、外的対象・外的差異に対して、(内的な)同一性を投影・「押印」するのである。
 思うに、内的差異に対する圧力(内圧)が同時に、外的差異に対する圧力(外圧)になるのであるが、この同一性志向性の衝動・発動・駆動であるが、これが、端的に自己同一性=自我衝動と言えるだろう。おそらく、意志と言ってもいいだろう。そして、これが、父権的衝動と言っていいだろう。言い換えると、同一性志向性=同一性衝動=自己同一性・自我衝動=意志=父権的衝動となる。【それに対して、母権的衝動とは、同一性衝動を牽制する意志であろう。つまり、差異志向性ないしは差異共振的志向性である。思うに、本来、人間において、同一性志向性と差異志向性の両極性があるのであり、このバランスが社会共同体・生活世界を保持してきたのではないだろうか。母権社会においては、差異志向性の方が、同一性志向性よりは、優勢であったと思われる。】
 簡単にまとめると、Media Point における内的差異のスクリーンに投影・「押印」される同一性像が内的な同一性像となり、それが外的対象・外的差異へと投影されて同一性認識が形成されて、自己同一性=自我が形成されるということになり、本稿のテーマであるどういう性鏡像であるが、それは、差異のスクリーンに投影される同一性影像がそれであるということになる。
 最後に以上の視点から、ラカンの鏡像段階を考えると、それは、原初の内的な同一性鏡像ではなく、外的な同一性鏡像を自己同一性=自我形成の契機としていることで、見方が転倒していると考えられる。外的な同一性鏡像とは、内的な同一性鏡像の投影像であり、第二義的であると考えられるのである。言い換えると、ラカンは内的鏡面を無視(正に、疎外)して、外的鏡面を媒介にしているのである。この結果は、外的感覚の中心化であり、内的感覚(内観)、言い換えると、感性(魂感覚・精神的感覚・心感)の喪失があると考えられる。つまり、精神分析は精神の分析ではなく、物質的心性分析になっているということになろう。


イデア論と宗教:知と信仰:イデア論と仏教の接近:トランス宗教としての新イデア論
先に述べたように、私は超越エネルギーを神として捉えている。そして、超越エネルギーとはイデア・エネルギーである。だから、超越エネルギー=神=イデア・エネルギーである。
 だから、イデア論は、宗教論でもあるのである。そして、宗教が信仰の次元とするものを、イデア論は知性の対象とするのである。(もっとも、仏教は信仰宗教ではなくて、知性的宗教である。)
 理念(イデア)化による知性化は、トランス宗教の面があるだろう。だから、イデア論と宗教では、微妙な差異があるのである。神観念を知性の対象とするのは、宗教側から見たら冒瀆に見えるだろうが、それが、イデア論のいわば強みである。
 これは、いったい何を意味するのだろうか。合理性・知性を保持したまま、超越エネルギーの感性を肯定することではないだろうか。決して、信仰を否定するのではなく、根源的受動を基礎とする知的態度である。そう、信仰の基礎である根源的受動をもちながら、それをイデア(理念)として、知性化する行為である。つまり、トランス宗教性である。超越論的宗教である。
 宗教をイデア化することで、宗教のドグマを脱することができるのである。そう、宗教の独善・独断・狂信性等を解体するのである。簡単に言えば、宗教の知性化である。だから、知性・認識・叡知宗教である。
 そして、直感では、この叡知宗教は、仏教につながるのである。つまり、イデア論と仏教の接近がもたらさせるのである。

p.s. 仏教であるが、思うに、信仰を中心とする心的態度を宗教とするならば、仏教は宗教ではない。何故なら、仏教は、解脱や悟り等の認識を中心化しているからである。だから、仏教は、仏陀哲学と言うべきものだろう。その面から、イデア論と通じると言えよう。
 では、信仰とは何か。私は根源的受動性を言うが、それが信仰の原因である。つまり、根本的信仰性、ないしは、原信仰性があるのである。言い換えると、原宗教性である。それを私は否定しない。
 しかしながら、ここから、それぞれ、信仰を中心化する宗教と、叡知を中心化する哲学の二通りの心性が発生する。
 近代合理主義/近代的自我に積極的な意味があるとするなら、一つは、自我知主義を形成したことであろう。思うに、ここから、螺旋的に、原宗教性に回帰できるのである。それは、仏陀哲学・イデア論的になると考えられる。
 だから、トランス宗教としての根源哲学(仏陀哲学・イデア論)が必要であると考えられる。
 いわゆる、信者たちであるが、それは、苦に対する癒しを宗教に求めていると思うが、問題は、苦とは、本質的に、個であり、差異であり、特異性であり、一般的な救済はないのである。そこを忘れて、一般的な救済を求めて、宗教へと向かうのは、誤りである。それは、認識的誤謬である。ただ「私だけの」神がいるだけである。この意味で、神は唯一神である。そして、唯一神が多数・複数存することになるだろう。しかしながら、結局、この多数・複数の唯一神が、共鳴化すると言えよう。
 言い換えると、特異性唯一神(複数)が共鳴する新多神教が生じるだろう。特異性としての神。それは、信仰の対象ではなく、心的現象化するのである。ヌミノーゼである。原神。原宗教。だから、正しくは、特異性としての原神(ヌミノーゼ)である。そして、これが、超越エネルギーである。
 だから、簡潔に、超越エネルギー(ヌミノーゼ)を対象とする哲学として、イデア論があると言えるだろう。超越エネルギーを神として、普遍化したのが宗教である。しかし、PS理論は、それをイデア論化するのである。知性化するのである。だから、トランス宗教・脱宗教の立場である。
 
p.s. 精緻に言えば、個・差異・特異性の「神」とは、内的に深化して、差異共振エネルギー(超越エネルギー)へと発達するだろう。ここにおいて、多数・複数の「単独神」は、普遍共通的(キルケゴールの普遍という意味ではなく)になると言えよう。特異性が普遍性へと発展するのである。そう、この特異性に基づく普遍性とは、一般的普遍性ではなく、超越的普遍性である。ここがキー・ポイントである。
 そして、この超越的普遍性こそ、超越エネルギーであり、イデアである。これが、一神教の根因であろう。原一神教である。ヤハウェは、これを連続化・同一性化したものだろう。
 ならば、エローヒーム(神の複数)とは何だろうか。多神教の名残なのか。今の私の解釈として、それは、差異共振性の「太極」を意味するように思う。陰陽論的多様性ないしは多元性である。
 想像するに、三柱の神とエローヒームは通じるのではないだろうか。ある神社にダビデの星のシンボルがあるということであるが、それは、考えられる。ダビデの星とは、正に、陰陽(太極)性を意味すると考えられるからである。
 とまれ、ついでながら、やはり、一神教はMedia Pointの陽化であると思う。陽化の神がヤハウェであり、Media Pointはエローヒームなのだろう。そして、必然的に陰化があるだろう。それが、イエス・キリストの意味かもしれない。ここで思考実験であるが、ヤハウェが+iならば、キリストは-iではないだろうか。しかし、両者はそれぞれ、極限である。あるいは、極性である。両極である。
 これを一元化するのは、誤りである。父と子は極性である。陰陽である。そして、両者の調和があるだろう。それが聖霊だろう。それが、Media Pointであろう。調和の霊としての聖霊、Media Pointである。(参照:ヴィヴァルディの『調和の霊感』)
 どうも、父と子の対極性とは、父権原理だと思う。それに対して、聖霊は母権原理だと思う。差異共振原理である。
 どうも、今日、これが発現していると思えるのである。父の原理が自由主義で、子の原理が民主主義ではないのか。聖霊が差異共振原理なのである。ヨアキム主義、聖霊の時代である。
 先に、自由主義も民主主義も個人主義も多神教原理に基盤があると言ったが、自由主義や個人主義は一神教原理に拠るだろうし、民主主義は多神教原理であろう。
 (脱線を続けるが、)今日、両者が衝突しているのである。新自由主義と共同体主義の衝突である。
 結局、調和として、差異共振原理が生起するのである。これは、自由主義(一神教)と民主主義(多神教)の超越的調和を意味する。Media Point原理である。トランス・モダン原理である。


   




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カレンダ
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