INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/03/23

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年03月23日(Sun)▲ページの先頭へ
自己同一性=自我形成における原ルサンチマンや優越性の発生のシステムと身体差異の否定/同一性化暴力
この問題は先に、Media Pointからの同一性主義の形成の考察で検討したが、ここでさらに明晰化したい。
 Media Point の原差異から同一性形成が行なわれる。そのとき、物質身体の成長も為される。同一性は自己身体という他者に遭遇して、原ルサンチマンを形成すると考えた。だから、自己身体の否定・排除・隠蔽があると思われるのである。同一性の下、具体的には視覚主導の下で同一性が形成されていくと思われる。つまり、同一性視覚が主導して、自己同一性=自我を発達させていくとということになる。
 この同一性主義形成は、身体の差異を否定すると考えられるのが、しかしながら、同一性視覚に基づいて身体を秩序づけていくと考えられる。つまり、同一性視覚にそぐわない身体性は否定されて排除されるということである。
 言い換えると身体は同一性化ないしは同一性主義化されるのである。差異としての身体が否定抑圧隠蔽されるのである。
 そして、この差異身体の抑圧とは、根源に原ルサンチマンがあるのである。この力学を明らかにしなくてはならない。つまり、他者としての差異身体の発生があり、それが、原ルサンチマンを生むのである。
 この差異身体について言うと、外的な差異よりは、最初は内的な差異に遭遇すると思われるのである。例えば、幼児が空腹の状態になるとき、その幼児の身体が内的差異となると考えられる。つまり、幼児の自己同一性=自我のシステムにとり、空腹は同一性ではなくて、差異と考えられるのである。
 幼児は本来的には、Media Pointの歓喜をもって自己同一性=自我を形成しているが、そこへ、身体の差異が出現して、自己同一性システム(同一性主義)にひびを入れるのである。身体の差異をマイナスとすれば、このマイナスをさらにマイナス化して、プラスに変えて、自己同一性システム(自我システム)に統合するのである。正に、ヘーゲル弁証法過程がここにあると言えよう。しかし、身体の差異は-iであり、これをマイナス化するとは、-(-i)=+iであり、自己同一性の+iに組み込むのである。そして、否定された身体の差異-iは、無意識へと沈殿するようになると言えよう。この問題はここまでにする。
 さて、原ルサンチマンの発生であるが、本来、差異から生まれた同一性であるが、最初はまだ差異の内包された同一性である。しかしながら、身体の差異に遭遇するとき、つまり、他者に出会うとき、その他者に同一性投影を行い、自己同一性=自我形成を行うのではないだろうか。
 この同一性投影像が鏡像であり、自我の理想像のように思えるのである。すなわち、ここでは、同一性と同一性像の二つのものが対になり、自我を形成すると考えられるのである。つまり、有り体に言えば、自我とはコピーなのである。同一性像=鏡像のコピーなのである。【だから、やはり、(+i)・[-(- i)]=-1になるのではないだろうか。】
 そして、(原)同一性と同一性像(鏡像)との連結が自我となり、その同一性像と結合した自我(自己同一性)を否定する差異に対して自我は原ルサンチマンを生起すると考えられる。
 この原ルサンチマン力学は二項対立であり、プラスとマイナスの力学と考えられる。即ち、同一性はプラスとされ、差異はマイナスとされ、厳格に排除されるのである。
 思うに、同一性の力をプラス・エネルギーと考えていいのではないだろうか。結局、原ルサンチマンの力とは、同一性主義のプラス・エネルギーであると想定することができる。
 また、本件のテーマの一つである優越性であるが、思うに、これは端的に、劣等性の裏返しであると思われるのである。つまり、鏡像と結合して生起した自己同一性=自我であるが、それは、まだ、自己陶酔状態にあるが、それが、身体の差異(他者)に遭遇したとき、それに対して無力であり、劣等性を感じるのである。このとき、自我は他者を同一性化して、その同一性において、自己満足し、また、優越性を感じるのである。この他者の同一性化、これが、劣等性の裏返しの優越性の発生の原因であると考えられるのが、では、どうして、他者(身体の差異)の同一性化が優越性となるのだろうか。
 それは、最初は他者に対して無力であり、劣等性を覚えていたわけであるが、その他者を同一性化することで、他者を支配することができるからではないだろうか。
 思うに、言語習得もこの他者同一性化過程であると思われるのである。そして、しかし、この他者同一性化におけるポイントは他者否定によって同一性化するということであろう。即ち、この他者否定という暴力がここにははたらいているのであり、このいわば、同一性化暴力を確認しないといけない。端的に、自我形成とは、同一性化暴力の行使過程でもあるのである。
 以上、自己同一性=自我形成における原ルサンチマンや優性形成や同一性化暴力について考察することができた。
 最後に、付加的に、同一性視覚による、身体の差異の否定における差異の視覚の否定について簡単に述べたい。これは、美学の問題でもある。同一性視覚によって、差異の視覚が排除される。しかし、差異の視覚とは差異共振的視覚、すなわち、美の視覚であると考えられるのである。つまり、同一性視覚は差異視覚を否定して、美を喪失する視覚であると言えよう。言い換えると、美を喪失した物質的視覚であると言えよう。そして、差異共振視覚による美とは精神性であるから、それは、倫理をも喪失した一面では反社会的視覚であると言えよう。つまり、自我形成とは倫理的には反社会的なのである。
 とまれ、視覚の問題にもどると、否定される差異の視覚であるが、それは、身体の差異の視覚である。そして、それこそ、想像力、ヴィジョン、エイドス、イデアと呼ばれるべきものもつと考えられる。
 同一性視覚=自我視覚によって、差異視覚・ヴィジョン視覚が喪失されて、視覚は物質現象へと限定されるのである。


東洋の「全体主義」と西洋の「個人主義」:東洋の母権統合型父権一元論と西洋の母権/父権の平行二元論
東洋の「全体主義」と西洋の「個人主義」:東洋の母権統合型父権一元論と西洋の母権/父権の平行二元論

テーマ:自由主義・民主主義・全体主義・独裁主義

それぞれ、括弧に括らないと、正に、西洋中心主義ないしはオリエンタリズムになってしまう問題であるのだが、本稿のテーマは、どうして、チャイナに共産党があり、北朝鮮に独裁国家があり、また、日本は、戦後「一党独裁主義」であるのはどうしてなのか、また、西洋は独裁主義を排して個人主義を保っているのはどうしてなのか、である。
 しかしながら、後者の問題は、もはや問題ではないだろう。ブッシュ政権は一種の全体主義と見られるからである。ネオコン的全体主義である。
 だから、問題は、前者の東洋の問題である。近代西欧・米国は周知のように絶対主義政権に対して、自由主義・民主主義・個人主義を標榜して、今日の脱全体主義的社会を形成したとはいちおう言えよう。
 (ここにレーニン主義の問題があるが、それは、いちおう置いておきたい。)
 私は今、作業仮説をもっている。即ち、西欧文化は、母権多神教と父権一神教が平行している文化であり、自由主義・民主主義・個人主義は、母権多神教を基盤にして生まれているのであり、その表現として、父権一神教的形態をとっているのではないのか、というものである。これは、これまで、プロテスタンティズムはルネサンスを包摂否定しているという考え方とは別の考え方である。
 そして、それと呼応して、東洋は母権的多神教が父権的一神教ないしは父権的共同体主義に包摂否定されているのではないのか、ということである。つまり、西欧文化というより、西洋文化は母権多神教と父権多神教の二重構造をもち、前者を母胎として、後者の形態(同一性主義)をとって、自由主義・民主主義・個人主義が生まれたのであり、東洋文化の場合、母権統合的父権主義であり、それが、近代化に際して、父権主義的連続的同一性が主動的になり、内なる母権多神教のもつMedia Pointが連続化して、全体主義化したのではないのか、というものである。簡約すれば、西洋は母権と父権の二元論であり、東洋は母権的父権性の一元論であるということになる。
 しかしながら、今日、西洋は、両者の混淆様態にあり、また、父権的意識によって、ポスト・モダンとトランス・モダンの中間態にあるのではないだろうか。
 それに対して、東洋(日本)は、ポスト・モダンを経験したが、父権主義を突破できずに、また、近代主義へと反動化してしまったのではないだろうか。それが、政治的には、小泉・安倍・福田路線ではないだろうか。
 しかしながら、今日、現代(2008年3月23日日曜現在)、内的な母権性、すなわち、Media Pointが開かれているのではないだろうか。プラトニック・シナジー理論は、日本で生まれた理論であり、西洋と東洋の統一の理論であるが、それは、思うに、母権統合的父権主義という一元論の内部に生まれた理論であり、いわば、内的な突破であり、端的に、母権統合的父権主義の乗り越え、つまり、現代的父権主義の乗り越えの意味があるのではないだろうか。つまり、トランス父権主義であり、新母権主義であると考えられるのである。
 西洋は近代においては、確かに、自由主義・民主主義・個人主義という積極的価値観を獲得したものの、父権主義と母権主義の平行的混淆様態のために、ポスト・モダンで行き詰まり、トランス・モダンへと転移できないのではないだろうか。それが、例えば、現在のサブプライムローン問題の金融問題を起しているのではないだろうか。
 しかしながら、アメリカ大統領選挙候補者予選において、オバマ氏の政治理念がトランス・モダンと考えられるので、欧米においても、トランス・モダン化の胎動していると見ることができよう。
 日本においては、父権的共同体的全体主義がなってしまっているのである。もっとも、内なるトランス・モダンは少数者に胎動しているのである。思うに、西洋の場合は、混淆になりやすいが、東洋の場合は、一元論のために、純粋トランス・モダンになるように思えるのである。
 とまれ、本テーマの作業仮説はいちおう結論は出たことになる。

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モーリス・ブランショの共同体論:ポスト・モダンとトランス・モダンの境界の動き

テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏

目覚まし時計をセットした時間よりもかなり早く目が覚めてしまい、起床することにして、手元にあった本が以下のブランショの『明かしえぬ共同体』であり、数ページ読んでみたが、先に言及したジャン=リュック・ナンシーの共同体論(私が読んだのは『共同ー体(コルプス)』であり、ブランショが言及しているのは、私が未読の『無為の共同体』であるが、共同体論では通じているだろう)に言及して、ブランショが共同体論を論じているのであり、バタイユを取りあげている。
 ブランショの論は何か古典的な内容で私を魅するのである。言い換えると、懐かしい議論なのである。つまり、特異性(個)と共同体の矛盾と関連性(一種、「絶対矛盾的自己同一」)を語りだしているからである。実にこの問題は、不連続的差異論で解明し、さらにプラトニック・シナジー理論で徹底的に解明されたのである。
 ブランショの議論は、ポスト・モダンの中に胎動するトランス・モダンを周辺に展開するように思えるのである。ポスト・モダンにあって、トランス・モダンである、それまでの共同体ではない共同体を語りだしていると思われるのである。以下の一節はポスト・モダンの限界があるように思える。

「個人はおのれを宣明するとき、譲渡不可能な諸権利を身に帯び、おのれ以外に起源をもつことを拒否し、彼同様の一個人ではないような他者に対する依存関係のすべてに無関心な者として現われるが、その彼同様の一個人とは、過去においてであれ未来においてであれ際限なく反復された彼自身なのであるーーこうして個人は、死すべき者であると同時に不死の者として己を宣明する。」 p.012(赤色文字強調renshiに拠る)

共産主義と共同体の問題に関連してブランショは述べているのであるが、赤い文字で私が強調した「反復された彼自身」に問題があるように思える。あるいは、「個人」に問題があるのであるが、そのとき、特異性は、不連続性や差異共振性を帯びずに、連続性ないしは同一性を帯びたままではないのか、という疑問があるのである。
 これは、不連続的差異論が生まれる前、私が悩んだ問題である、というか、ポスト・モダン理論の核心にある問題なのである。つまり、特異性のもつ不連続性と連続性との問題であり、ブランショ自身、不連続性と連続性の混淆にまだ囚われていると思われるのである。だから、ブランショはポスト・モダン的であり、トランス・モダンへ向けて思考していると言えそうである。
 結局、プラトニック・シナジー理論が明らかにしたことは、特異性に基づく他者との共振(共鳴)性があり、それが、従来の連続的な、ないしは、同一性的な共同体とはまったく異質なものであり、未来的なものであり、トランス・モダンと呼ばれるべきものなのであるということである。
 私はブランショの考察を少し読んで、共同体という言葉を以前、少し用いた共振体という造語にしたらどうかと思ったのである。あるいは、共鳴体でもいいだろう。ただし、社会性が見えにくい嫌いはあるのである。だから、丁寧に言えば、差異共振共同体(差異共鳴共同体)ないしは差異共振社会体(差異共鳴社会体)と言うことになるだろう。
 思うに、あえて言えば、プラトニック・シナジー理論はこれまでの哲学を古典にしてしまったのである。

明かしえぬ共同体 (ちくま学芸文庫) (文庫)
モーリス ブランショ (著), Maurice Blanchot (原著), 西谷 修 (翻訳)

モーリス・ブランショ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モーリス・ブランショ(Maurice Blanchot, 1907年 9月22日 - 2003年 2月20日 )はフランス の作家 ・批評家 。通称“顔の無い作家”。ストラスブール 大学卒業。戦前のポール・ヴァレリー に比せられる戦後最大のフランスの文芸批評家であるという評価が定着している。

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素粒子のスピンの図からプラトニック・シナジー理論の1/4回転と関係しそうだと直感した。

テーマ:相対性理論/量子論

素粒子と物理法則―窮極の物理法則を求めて (ちくま学芸文庫) (文庫)
リチャード・P. ファインマン (著), スティーブン ワインバーグ (著), Richard P. Feynman (原著), Steven Weinberg (原著), 小林 〓郎 (翻訳)

ちらと見たが、素粒子のスピンの図からプラトニック・シナジー理論の1/4回転と関係しそうだと直感した。
 以下、カスタマーレビューから。

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5つ星のうち 4.0 「第1回ディラック記念講演」(1986年)の講演記録、物理屋の姿勢が窺える, 2006/10/24
By ゴルゴ十三 "じゅうそう" (Japan) - レビューをすべて見る
(TOP 100 REVIEWER)
本書は1990年に発刊された単行本を文庫化したものですが、訳注や文庫版あとがきが良くできています。「文庫版あとがき」が理解出来るレベルの読者なら「物理を深く理解する姿勢」を両博士の講演から楽しめるでしょう。(ファインマン先生の講演ではファインマン図/光円錐が出てきますので、この意味が分からないとつらいかも?)
ファインマン先生の講演では、(1)粒子が正エネルギーしか取らないとすると、粒子が光円錐の外へ因果律を破って伝播するのを避けられず、その粒子を別の座標から眺めると反粒子(=時間的に逆行する粒子)として認識されること、(2)ある事象の起きる全確率=1を良く見直すと、反粒子の存在と対発生のために生じる余分な図形がスピンを持たない粒子に対してボーズ統計が成り立つことを意味し、同じことをフェルミオンに対して考えると、粒子の入れ替えについて負符号が現れること(フェルミ統計)、(3)2回時間反転すること=360°回転は同じで、これがスピンと統計の間の関係やパウリの排他律を与えること、の3点を主に説明されています。モノポールに関する言及もあり、ディラックの業績を意識した内容です。
ワインバーグ先生の講演では、量子電気力学とその一般化(統一理論)に伴う困難(e.g.発散の問題)、量子重力も扱えそうな期待株としての超弦理論について一般的な解説がなされています。現在も超弦理論について同じ期待を寄せているかどうか、興味があるところですが。



ポスト・モダン様態の近代的自我の心的病理相について:差異エネルギーを無意識的に暴圧する近代的自我
近代的自我の「狂気」についてはほぼ解明できたと思っているが、まだ多少不明瞭な箇所があるので、ここで検討したい。
 結局、問題点は、同一性主義が自己完結して、差異とは乖離してしまうのか、それとも、差異のエネルギーに突き動かされて、同一性主義が暴力化するのか、である。
 先に前者の考えをとったが、それ以前はずっと後者の考え方をしてきたのである。また、直近の結論では、両者同じことであると述べたと思う。精緻に考える必要がある。
 ポスト・モダン様態では、同一性の生成エネルギーが衰退して、差異のエネルギーが発動するようになるとしよう。これは、陰のエネルギーの発動と考えられる(仮説)。
 近代的自我は差異の抑圧否定によって成立する。つまり、近代的自我の同一性主義と差異(共振性)には壁がある。しかしながら、ポスト・モダン様態においては、差異エネルギーが賦活されて、同一性主義の壁を圧迫すると考えられる。しかしながら、近代的自我はそれをまったく感知していないので、無意識の差異(共振)エネルギーの圧力の影響を受けることになると考えられる。つまり、賦活された差異エネルギーの圧力に対して、同一性主義の近代的自我はそれを無意識のうちに、抑圧するのであるが、差異エネルギーが当然、動態なのである。同一性主義による無意識の抑圧も動態となるのであり、それは、端的に、無意識の暴力的なもの、即ち、衝動的な暴力的なもの、非合理な暴力的なものになると考えられよう。
 正に、この暴力的なものが、狂気と言えるだろう。(私が近代的自我は狂気であると言うのは、特にポスト・モダン様態において言えるだろう。)差異的なものを無意識の内に衝動的に暴圧するのである。この衝動的暴圧が狂気と言えよう。(そう、近代的自我は傲慢でもあるので、狂気暴圧的傲慢さをもつとも言えよう。端的に、悪魔的様相である。)
 ということで、本件であるが、やはり、先の結論通り、同一性主義は、差異から乖離すると同時に、差異のエネルギーを暴圧するので、反動的衝動性をもつのである。これは、確かに、パラノイアであり、「統合失調症」であり、また、うつ病的であろう。
 今日の心の病の内因がここにあるのではないだろうか。また、先にも言ったが、差異を意識・認識する教養知性が欠落していることも、心の病を蔓延させている一つの要因だと思われる。
 最後に付加すると、このポスト・モダン様態の近代的自我はどうなるのだろうか、という問題があるのである。狂気の様態であるが、どうなるのか。差異エネルギーはさらに賦活されると考えられるので、差異エネルギーの動態の強化と同時に近代的自我による無意識の暴圧衝動が生起するので、近代的自我の狂気は度を増して、そのままでは、決定的に狂人廃人となるだろう。
 差異を感知し、意識し、認識し、差異を主体とすることを学ぶ必要があると考えられるのである。これは、同一性主義にとり、驚天動地であろう。新しい天地である。


   




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カレンダ
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