INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/03/03

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年03月03日(Mon)▲ページの先頭へ
自我像(鏡像)への同化(同一性化)とは何か
Media Point の原自己(自他己)から自我(自己同一性)を形成するわけであるが、そのとき、自我像(鏡像)が媒介(メディア)となると考えられる。(ラカンは鏡像段階と言っているが。)
 この自我形成のシステムであるが、同一性エネルギーが放出されて自我像を結ぶわけであるが、そのとき、自我像への愛着・快感が生じて、それに固着するのであり、それを中心化するのであり、それが優位となり、それ以外のものが劣位に置かれ、いわゆる二項対立が発生すると考えられるのである。言い換えると、自我像への快楽・好感情(自己陶酔感情)とそれ以外のものへの嫌悪・憎悪の発生である。この自我像に基づく自我形成は、エゴイズム(利己主義・自我中心主義)をもたらすのである。そして、これが究極的には金銭欲、貨幣資本主義をもたらすのである。自我像への固着が原点にあるのである。そして、この自我像の原像・原点が聖書のヤハウェであると言えよう。「我有りて、有り余れる神なり」。これは、超越的自我像なのである。超越的自己同一性なのである。そして、ここに同一性価値としての貨幣・資本が結びつくのである。すての差異が同一性へと還元されて、自我中心主義的に他者=差異価値は裁断されるのである。これは明らかに自然・人類の「癌細胞」である。
 しかしながら、この「癌細胞」が西洋文明を構築したのであり、科学・技術を生み出し、その悲劇的な恩恵を今日先進諸国は享受しているのである。
 とまれ、自我像に基づく自我中心化によって、西洋文明は推進したことは認めなくてはならない。利己主義による推進である。自我中心主義による悲劇的進展である。そして、その結果として今日の「黙示録的終末論」的状況を迎えているのである。
 思うに、この自我中心主義とはいったい何なのだろうか。「わたし」、「わたし」、「わたし」、・・・。この自我の狂気的な衝動は何なのだろうか。このヤハウェ衝動とは何なのだろうか。この同一性狂気衝動とは何なのだろうか。(今日、これに支配されているのである。これがルサンチマン・憎悪、精神病、暴力、犯罪、戦争、自然破壊、等々を生み出しているのである。いわば、諸悪の根源である。)ここには、ある種の盲目性がある。目隠しされてニンジンを鼻先にぶら下げられた馬車馬のように同一性価値へと突き動かされているのである。そう、プラトンの洞窟内の人間でもある。また、仏教の説く無明状態である。自我像・鏡像・偶像(そう、ヤハウェこそ、究極の偶像ではないのか)に支配されているのである。自我像によってパラドクシカルに盲目化するのである。つまり、本来はイデア像・エイドスがあるのであるが、それが投影されて同一性像としての自我像となるのである。イデア像・エイドスの一種の物質化である。物質化としての自我像があるのである。この物質化が本源のイデア=差異を排除しているのである。マテリアル化された自我なのである。物質的自我なのである。物質エネルギーとなった自我なのである。これが同一性狂気衝動の正体であろう。物質エネルギーなのである。これが、世界を支配しているのである。物質狂気エネルギーなのである。これはエントロピーである。原自己であるMedia Point の差異共振エネルギー=イデア・エネルギー=超越的エネルゲイアが、物質エネルギー(エンテレケイア)に変換したままの様態にあるのである。終結・終末・終端様態なのである。
 これは当然自壊するのである。破局するのである。経済恐慌とはその一つの事象であろう。差異共振エネルギーの同一性化とは、本来、矛盾様態・パラドックスなのである。「我有りて、有り余れる」の「有り余れる」が矛盾様態・パラドックスを示唆していると考えられる。即ち、過剰となるのである。ハイパーとなるのである。それが端的に、狂気なのである。
 この過剰が同一性狂気衝動の真因であろう。自我・自己同一性は、その衝動の真の意味を知らないのである。ユダヤ・キリスト教徒ならば、神の衝動と言うだろうが。しかし、ヤハウェ衝動の意味は解明されていない。なぜ、「有り余れる」神なのか。それは、端的に、差異共振エネルギー=超越エネルギーがあるからである。E=m(+ic)*(-ic)⇒mc^2における左辺が存しているので、過剰となるのである。これが同一性狂気衝動=ヤハウェ衝動(おそらく、究極の知を探求するファウスト衝動もこれであろう。これについては後で検討したい。)の原因なのである。
 しかしながら、資本主義は単純なヤハウェ衝動ではない。そこには、差異共振価値創造が入っているのである。新しい差異価値としての商品であるし、また、技術革新も差異価値創造である。また、分業も差異価値創造である。つまり、資本主義には、同一性狂気衝動=ヤハウェ衝動とは別に、差異共振エネルギーが純粋に発動していると言えるのである。
 これは一体何なのだろうか。これまでの私の試論では、純粋な差異共振エネルギーの発現とは、太母文化に基づくのである。つまり、差異共振文化である太母文化の側面を資本主義はもっていると考えられるのである。【占星術的文化史から言うと、双魚宮(魚座)文化なのである。】思うに、イタリア・ルネサンスとは、この差異共振文化を意味しているように思えるのである。そして、プロテスタンティズムはそれの包摂的否定である。換言すると、差異共振性のヤハウェ化である。
 ここまで来ると問題はかなり明瞭になったと思われる。現代のグローバル資本主義の問題とは、「父」と太母との争闘が根源にあるということである。近代主義とは、太母と「父」との争闘エネルギーをもっていたのであるが、「父」が支配的であったのである。それがユダヤ・キリスト教西洋文明の意味である。「父」による太母の支配である。
 しかし、例えば、人間の成長を見てわかるように、成人へと身体の成長が終わると、今度は、精神・知的成長が重要になるのである。(思うに、これが、厄年の一つの意味ではないだろうか。)つまり、成長プロセスにおいて、同一性化=物質化が終了して、エネルギーが心的成長へと転換すると考えられるのである。同一性=物質形成から精神形成へと転換するのである。エネルギーの質的変換が生起すると考えられるのである。
 これが大規模で人類史ないしは文明史にも生起すると考えられるのである。ヤハウェ衝動が終焉して、太母エネルギーが純粋に発生すると考えられるのである。つまり、同一性価値=物質価値形成から差異共振価値形成へと転換するということである。つまり、原太母⇒「父」⇒「子」⇒「聖霊」としての太母という図式が文明史に考えられるのである。そして、現代が新たな太母エネルギー発生の段階であると考えられるのである。


抑圧的否定と包摂的否定について:太母文化共振式(+i)*(-i)≈+1と差異共振資本共同体経済としてのニュー・エコノミー
太母文化を否定的に包摂した父権文化とはどういう理論的構成をもつのか:例えば、古代ギリシア文化や古代中国文化(もっとも、後者の方が父権主義が強固であるが)。それに対して、日本の父権文化の擬制性。つまり、基盤は太母文化であり、天皇神政は父権的擬制ではないのか。
 また、以前述べたが、イタリア・ルネサンスとプロテスタンティズムの関係である。私は、後者は前者を否定的に包摂していると言った。母権文化と父権文化との関係も、否定的包摂という様相が問題であるのである。
 これは、抑圧とは違うのである。一神教の場合、旧約聖書の場合の多神教の否定は抑圧と見ていいと思う。つまり、抑圧的否定である。しかし、私が問題にしているのは、包摂的否定である。
 プラトニック・シナジー理論から言うと、抑圧的否定とは、⇒+1の反復である。それに対して、包摂的否定とは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺を内包した⇒+1である。
 しかしながら、より厳密に言えば、抑圧的否定もMedia Point を内包しているのである。だから、説明を精緻化する必要がある。抑圧的否定は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の⇒が表現していると思う。⇒が抑圧的否定である。しかるに、包摂的否定は左辺のゼロ点であるMedia Point を抑圧ではなく、活性化させて同化吸収させていると考えられるのである。有り体に言えば、Media Point がそれなりに開いているのである(開放系)。だから、抑圧的否定はMedia Point が閉じていると言えよう(閉鎖系)。
 ここで想起するのは、イシス・オシリス神話である。これは、当然、太母文化であり、イシス(乃至は、ハトホル)がMedia Point であり、オシリスが+11の太陽(日御子、「天皇」)である。
 私は先に、イデアと現象との即非性を述べた。例えば、陽光と超越光が即非様態にあるのであり、陽光において、超越光を視ることはありえるのである。(だから、天照大神、ご光来、大日如来、お天道さま、等々の表現があるのである。)
 この場合、当然、Media Point が開放系となっているのである。もし、抑圧的否定の場合は、Media Point が閉鎖系なので、陽光に超越光を視覚(視識)することはないのである。(もちろん、絶対的に視識しないというのでは、皆無に近いということである。)
 Media Point が開放系の太母文化とは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を変形して、(+i)*(-i)=+1の等式で表現されるのではないだろうか。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は基本的にはイデアから現象への変換、太母文化から父権文化への移行を意味するのであり、⇒の換わりに等号=を入れることで、Media Point が開放系である太母/多神教/自然宗教的文化を表現することができるのではないだろうか。だから、太母(多神教)文化等式として、(+i)*(-i)=+ 1と作業仮説しようだから、太母文化において、左辺はイシス(天照大神)であり、右辺はオシリス(「日御子」、「若宮」)である。そして、両辺が即非共振しているのである。【思うに、太母文化等式は、(+i)*(-i)∞+1で表現してもいいのかもしれない。否、共振を表現する≈の記号を使用して、(+ i)*(-i)≈+1として方が明晰である。太母文化方程式、差異共振方程式である。以下、これを使用したい。因みに、≈は宝瓶宮・水瓶座のシンボルでもある。しかし、問題は≈の記号だけでは、即非性が表現されないのである。非・否が表現されないのである。だから、⇒≈とした方が適切であると考えられる。即ち、(+i)*(-i)⇒≈+1である。さらに合理化すれば、(+i)*(-i)⇒+1≈(+i)*(-i)であろう。とりあえず、以下、簡単な太母文化共振式(+i)*(-i)≈+1を使用する。】
 以上、本稿のテーマである抑圧的否定と包摂的否定の違いを解明することができたと言えよう。即ち、抑圧的否定(父権文化)は、自己認識方程式(+i)* (-i)⇒+1における右辺の反復による左辺の否定であり、包摂的否定とは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、太母文化共振式(+i)* (-i)≈+1が内包されているということになる。
 だから、私説である、プロテスタンティズムはイタリア・ルネサンスを否定的包摂しているということの意味が明晰になったと言えよう。また、古代ギリシア文化、古代中国文化、日本文化の哲学的構成が明瞭になったと言えるだろう。
 今日・現代の文明史的問題であるが、ユダヤ・キリスト教的西洋文明は、正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺中心主義であり、今日の資本主義もそうなっているのである(サブプライムローン問題)。また、日本における国家主義的資本主義(国家独占資本主義、官僚主義的資本主義)であるが、それも、右辺中心主義の一種であると考えられる。そして、戦後近代合理中心主義によって、右辺中心主義が徹底化されて、左辺を抑圧的否定していると考えられるのである。だから、戦後日本は、父権文化主義なのである。戦後以前にあった左辺の太母文化共振式(+i)*(-i)≈+1性を完全に喪失しているのである。三島由紀夫が慧眼にも説いた「断絃の時」が発現したのである。日本古来の太母文化が喪失しているのである。文化的亡国状況なのである。
 ところで、私はこれまで、資本主義は差異共振価値(差異価値)を同一性価値(貨幣・交換価値)へと変換していると述べているが、差異共振価値とは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺であり、同一性価値が右辺であると考えられるのである。
 グローバル経済の問題であるが、確かに、ITイノベーションによって、差異共振価値を高めたが、同一性中心主義が強化されてしまっているのである。それが、サブプライムローン問題である。つまり、新たなグローバルな差異共振価値を創造したが、出口が未だに右辺中心主義=同一性中心主義であり、これはまた、国家主義的資本主義(現代日本資本主義)にも当てはまることである。
 問題は、この同一性中心主義が諸々の差異共振価値を破壊・解体していき、ガン細胞のように、大前提の差異共振価値である自然(人命を含めて)・社会・文化等を破壊していることである。
 今日、新たにMedia Point が開放系になり、差異共振エネルギーが発動していると考えられるのである。だからこそ、また、同一性中心主義の反動(反作用)が病理的に過剰強大なのである(ブッシュ/ネオコン、小泉構造改革、サブプライムローン他)。
 問題は、差異共振エネルギー、差異共振価値に則したエコノミー構築が必要なのである。私はこれまで同一性を包摂した差異共振経済を説いているが、それはそのようなものである。つまり、資本・貨幣を包摂した差異共振共同体経済である。国家主義とは、正に、同一性中心主義である。ヘーゲルの国家理性主義である。しかしながら、新自由主義的な小国家主義は、巨大資本のもつ同一性中心主義によって差異共振価値が解体されるのである。
 今は抽象論でしかないが、差異共振エネルギーに則したエコノミーは、差異共振共同体エコノミーであると考えられる。個々の人間のもつ差異共振価値が共振して新しい差異共振価値エネルギー、新しい差異共振エコノミー・エネルギーを創造すると考えられるのである。つまり、差異共振資本主義が新しいエコノミーとして考えられるのである。これは、同一性価値を目的にするのではなく、同一性価値(合理性)を包摂した差異共振価値の創造を目的(エンテレケイア)とするエコノミーである。脱同一性価値としての差異共振価値創造エコノミーである。今はここで留めたい。


   




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カレンダ
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