INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY - 2008/02
PROTOMODERN PHILOSOPHY:
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カテゴリ
INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧 (866)
相対性理論/量子力学/生命科学/遺伝子問題 (28)
不連続的差異論 (1) 哲学/日本哲学の創造 (17) ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明/新東洋文明 (39) ポスト近代的自我/ポスト唯物論 (27) プラトニック・シナジー理論 (125) 新東洋文明:新霊性new spirituality:日本伝統文化 (20) 詩・和歌・俳句・漢詩・連詩・創作 (5) 神話・宗教:古事記・聖書・ケルト神話 (34) 音楽(クラシック・ポピュラー) (9) メディア・ポイント Media Point/高次元・超次元・五次元 (100) 検討問題・課題 (42) 日本覚醒計画:日本の政治・経済 (36) 教育/女男差異/ジェンダー/新母性論 (9) フッサール/ハイデガー現象学 (21) トランス・モダン/トランス・モダン叡知学 (31) (+i)*(-i)⇒+1(自己認識方程式):同一性と差異と差異共振性 (116) 文学・哲学・美術・アート・映画・舞台・アニメ・漫画 (87) 英語・外国語学習 (3) トランス・モダン社会/差異共振シナジー経済/差異共振共同体 (81) |
2008年02月29日(Fri)▲ページの先頭へ
自我とMedia Pointの関係:+1の近代的自我によるMPの否定としての-1の身体性
先に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、多神教力学と一神教力学を区別した。即ち、前者は、両辺が、いわば、開いているのであり、後者は、左辺が否定されて、右辺だけが開いているのである。そして、前者はエネルゲイア(活動態)であり、後者はエンテレケイア(終局態)であると言った。
精神分析的に言えば、一神教力学は、左辺を抑圧・排除しているのである。(精神分析のいう「それ」は、物質的な性であり、精神的な性を見ていないのが根本的な欠陥であり、ユング心理学は、性を飛ばして、単に精神性へと飛躍しているのが問題である。ここでは、多神教的精神的性が問題であると思う。) しかし、抑圧・排除とは、実際は「実存」しているということである。プラトニック・シナジー理論で言えば、Media Pointが「実存」しているということである。(思うに、実存主義とは、Media Pointを震源とした思想であったと考えられるが、ニーチェやキルケゴールの二番煎じ・亜流であったと思われる。) だから、一神教力学、あるいは、近代的自我/近代合理主義力学では、この「実存」しているMedia Pointを「抑圧」しているということである。(今日、心の病が蔓延しているのは、近代的自我/近代合理主義の同一性中心主義の縛りが緩み、Media Pointの被抑圧が解除され始め、Media Pointの能動的エネルギーが発動しているためだと思われる。つまり、被抑圧の解除と抑圧の強化との齟齬が生じているために、病理状態になっていると考えられるのである。)この抑圧・被抑圧力学を自己認識方程式で見ると、どうなるだろうか。これが、本稿のテーマである。 ⇒+1の力が、Media Pointを抑圧しているのである。それは無意識の抑圧であると考えられる。(思うに、この無意識の抑圧というのが、非合理的である。つまり、近代的自我/近代合理主義は基本的に非合理主義なのである。)抑圧されたMedia Pointとは、近代的自我から見ると-(+1)ということで、-1ではないだろうか。(そして、それがポスト・モダンになるのではないだろうか。これまで、私は、ゼロ点が、ポスト・モダンではないのかと思ってきたが、近代主義への反動として、 -1ではないだろうか。構造主義がゼロ点であろう。そして、神秘主義・オカルト主義も-1ではないだろうか。この問題はあとで検討したいが、一言言えば、近代的自我は連続性をもつので、差異も連続化させてしまうのである。ドゥルーズ哲学の場合が典型的であろう。差異=微分にしているのであるから。また、デリダ哲学の場合、差延とは、言わば、差異と同一性との未分化様態を意味すると考えられるが、それは、超越性を欠落させているので、±1の様態を意味するのではないだろうか。) とにかく、近代的自我(一般に自我)によるMedia Pointの遮断であるが、繰り返すが、+1によるMedia Pointの否定なのであるが、その否定されたMedia Pointは、近代的自我にどう振る舞うのだろうか。これまで、非合理衝動となると言ってきたのだが。 端的に、Media Pointのエネルギーはどうなるのか、である。それは、否定されているために、-1になっているということでいいのではないだろうか。本来(+i)*(-i)の超越的エネルギーをもっているのであるが、それが否定されて-1ではないのか。 そして、私が今想定しているのは、-1とは身体ではないのか、ということである。物質的身体ではなくて、内的身体のことである。先の考察に基づけば、 Media Point=魂=身体/共同体の身体のことである。つまり、-1には、Media Pointが含まれているのではないのかと思っているのである。 以前、サマセット・モームの『月と六ペンス』における主人公(ストリックランド:ゴーギャンをモデル)の身体的霊性について述べたが、それが、ここであてはまると考えられるのである。即ち、近代的自我/近代合理主義への否定が芸術家にあり、その否定における意識には、霊性・精神性が生起しているのである。 近代的自我/近代合理主義への否定とは、当然、内的身体性になると考えられるのである。この内的身体性が-1ではないのか、そして、そこには、差異共振性、即ち、(+i)*(-i)が内包されているのではないのか、ということである。 ここで単純にモデル化すれば、Media Pointは-1と通じていて、+1とは切断されているということになるだろう。言い換えると、+1とはMedia Pointの間には壁が形成されているということである。つまり、+1に拠るMedia Pointの否定は、-1ということであろう。 そうならば、問題は、-1の空間・場である。+1の空間とは、自我の空間であり、物資的身体の空間である。心身二元論の空間である。今、想定しているのは、-1の空間とは、内的身体であるということである。内的身体とは心的身体ということである。例えば、日本語で肚や「腑に落ちる」の腑であるし、英語では、heart(心臓と心)のようなものである。つまり、内臓と精神性の融合したものである。 思うに、この内的身体=心的身体という考えは正しいだろう。何故なら、Media Pointとは、知と存在との共振性であるからである。言い換えると、心と物質的身体(厳密には、原形相と原質料)との共振性であるからである。当然、 Media Pointは内的身体=心的身体の空間に存しているのである。 だから、近代的自我ないしは自己同一性主義によるMedia Pointの否定とは、当然、この内的身体=心的身体の否定にともなうと考えられるのである。 問題は、この内的身体=心的身体の否定の位相である。つまり、Media Pointを内包していると考えられる内的身体=心的身体は、当然、自己意識をもつのであるが、その自己意識は自我意識そのものではない。もっとも、自己意識には、自我意識の側面は含まれてはいるが。とまれ、自己意識は内的身体=心的身体を基盤としているのであり、自身は内的身体=心的身体の先端であるということになるだろう。この先端とは端的には、頭であろう。(日本語で、心頭という言い方があるが、先端とは、この心頭の頭である。) 結局、内的身体=心的身体と自己意識とは当然、連続的である。そして、自己意識の先端にある自我意識(自己同一性意識)が、近代化して、近代的自我/近代合理主義を形成する。それは、当然、Media Pointを内包する内的身体=心的身体を否定するものである。 そして、近代主義を乗り越える試みである脱近代主義は、当然、この否定されたMedia Pointを内包する内的身体=心的身体を復活させるのである。 脱近代主義は、この内的身体=心的身体(差異)を肯定し、近代的自我/近代合理主義(同一性)をするのであるが、最高に核心的問題は、自我意識と内的身体=心的身体の自己意識とは、連続態であることなのである。だから、意識が差異へと回帰しても、それは、同一性(自我意識)との連続性を保持・維持したままなのである。つまり、意識は、連続性をもって、内的身体=心的身体(自己意識=差異)に接するということである。だから、内的身体=心的身体に内包されているMedia Pointを連続性の視点から見てしまうという結果にほとんどなるのである。とりわけ、同一性中心主義(ロゴス中心主義)が支配的な西洋文化においては、そうであると考えられるのである。 言い換えると、内的身体=心的身体-1が差異共振性である(+i)*(-i)を内包していることを認識できないのである。 ここで、ポスト・モダン哲学について述べるが適切である。ドゥルーズ哲学の場合は、差異共振性を-1へと同化吸収させてしまい。差異=微分にしたのである。即ち、-1という差異と+1という連続同一性とを結合したのである。それに対して、デリダ哲学の場合は、-1における差延=痕跡を問題にして、+1の連続同一性との区別と両者の混淆性を指摘したように考えられるのである。つまり、差異共振性の痕跡のみを差延として取りあげて、差異共振性自体は否定しているのである。 ということで、以上から、-1がもつ意味を考察した。結局、-1とは、自己同一性主義(近代的自我/近代合理主義)による、Media Pointを内包する内的身体=心的身体の否定を意味するのであり、それは、正に豊饒な空間を意味するのである。私が以前述べた身体的霊性をもつ空間と言えるのである。(オカルティズムは、それを同一性から逆に捉えて、霊にしてしまっているのである。倒錯である。) そして、この身体的霊性が、鈴木大拙が『日本的霊性』で指摘した日本の宗教性・精神性の核であると考えられるのである。そう、言い換えると、「大地」である。精神の大地である。(例えば、円空の彫刻には、この身体的霊性の野生のエネルギーが表現されているだろう。思うに、仏像は本来そういう意味をもっていたのではないだろうか。) さらに言うと、ポピュラー音楽のもつ大地の血とは、正に、この身体的霊性の生命であると言えよう。思うに、クラシック音楽も元々はこの身体的霊性から発しているのであるが、そのエネルギーを喪失して、洗練されたものになってしまっている。原初のエネルゲイアである身体的霊性を喪失しているのである。また、現代の美術もそういう傾向があるだろう。(「モダン・アート」とは、本来、そのような方向性をもっていたのであるが、モダニズムによって、同一性=構造へと還元された。例えば、モンドリアンやマレーヴィチらのように)。 ここでついでながら言うと、地霊という観念であるが、それは、正に、土地という身体がもつMedia Pointのエネルギー=超越的波動であろう。龍脈という観念もほぼ同様であろう。 最後に、身体的現象学を説いたメルロ=ポンティであるが、彼の言う身体とは、内的身体=心的身体と外的身体=物質的身体との連続性における身体であると考えられるのである。だから、それは、ポスト・モダン哲学の先駆であると考えられるのである。 ポスト・モダンはハイデガーやメルロ=ポンティが元祖であり、トランス・モダンはニーチェやフッサールが元祖であると考えられる。また、ロシアのウスペンスキーがトランス・モダンをそこに含めることができる。彼の思想は、鈴木大拙が大乗仏教・禅の思想から取りだした即非の論理に通じるものであるが、即非の論理ほど明晰化されてはいない。日本では、トランス・モダンの原点は鈴木大拙であるが、絶対矛盾的自己同一の思想の西田幾多郎や偶然性の論理の九鬼周造にも確認できよう。 最後に、仏教・大乗仏教について、本件の視点から言うと、それは、原トランス・モダン思想と言うべきである。空の論理は明らかに、Media Pointのもつ差異(差異共振性)・即非・同一性とを説いていると考えられるのである。 問題は日本の仏教界である。この仏教のもつ哲学的叡知を喪失して、仏教が否定する世俗主義にどっぷり染まっていることである。つまり、反仏教としての日本仏教界である。有り体には、葬式仏教である。仏教は死んだら仏になることを説いているだろうか。そんなことは説いていないのである。『金剛般若経』的に言えば、死んだら仏にはならないのである。だから、仏になるのである。この仏・即非・非仏を理解していないのである。仏とは、ある意識のことである。 Media Pointの意識である。それは、形而上学ではなく、理論的かつ実践的なものである。実践理性としての仏である。
2008年02月27日(Wed)▲ページの先頭へ
ニュー・エコノミーへ向けて:投資と贈与:スケッチ1
ニュー・エコノミーへ向けて:投資と贈与:スケッチ1
テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築 経済の素人として、新しい経済のための構想を夢想したい。総合的視点から考察したい。 今考えているのは、極性力学である。プラス・エネルギーがあれば、マイナス・エネルギーがあると考えられる。そこで思うに、投資は前者であり、贈与は後者である。結局、両者の共振的状態が社会の発展をもたらすのではないだろうか。 投資は生産であり、贈与は消費と言っていいだろう。今日の問題は、生産に対して、消費が釣り合っていないことに存するのではないだろうか。消費と言っても、遊興的消費ではなく、積極的消費、能動的消費である。例えば、子供を育てる教育は、これに当たる。また、医療・福祉・環境保持もこれではないだろうか。 問題は、生産・投資による利益が消費・贈与へと向けられていない点にあるのではないのか。また、生産・投資がそれ自体の発展へと十分に向けられていない点にあるのではないのか。 問題は、行政府という中間存在・管理存在の機能である。税金を権力で取り、それらを管理すること、社会機構を維持しようとするのであるが、税金という資本の消費が、所謂、利権型公共投資となり、社会消費・社会贈与へと向かっていない点にあるのではないのか。 私は企業が投資/贈与型ニュー・エコノミーになればいいと今思っている。それは、政府自体は、当然縮小するのである。企業自体が行政府的役割をもつようになるのであり、政府は法的役割中心に収縮するのである。もっとも、社会体にとっての中枢機能である教育・医療・福祉・農業等々の維持に関して、法的且つ経済的に政府が責任をもつべきではないだろうか。 とまれ、簡単に整理すると、ニュー・エコノミーとは、投資/贈与の太極型経済であるというこである。それは、自由共同体資本主義である。それは、トランス・モダン資本主義である。 国家主義的制約を資本主義と市民がのりこえて、自由共同体の創造へと転換するのである。以上は思いつき、素描に過ぎない。また、新たに検討したい。 ********************** 超越エネルギーの諸作用について:紋様とは何か:同一性形態と差異形態 テーマ:プラトニック・シナジー理論 超越エネルギーの諸作用について:紋様とは何か:同一性形態と差異形態 (注:以下、アゲハチョウの雌雄の差異を羽の紋様に見たが、実際は、雌雄の羽の違いは少ない。鳥の場合、毛の模様の違いが雌雄で大きいのである。だから、以下の試論は、その点勘違いがあるので、ここで予めお断りしたい。例をアゲハチョウではなく、鳥に限定すれば問題はないのである。また、後、フェロモン等に関する嗅覚について述べていないのも、不十分な点があるだろう。おそらく、匂いの感覚にも、超越エネルギーがあるのではないだろうか。) ファッション哲学から派生して、蝶の羽の紋様や鳥の毛の模様等とは何だろうか、それらは、同一性=物質化以外の超越エネルギーによる作用ではないだろうかと思ったのである。 蝶の羽の紋様等については、生物学等の知見があるだろうが、単純に考えて、いったいそれらは何の役に立っているのだろうか。擬態ということが言われるが、では、蝶の羽の紋様は何の擬態なのだろうか。 ここで仮説は、それらは、超越エネルギーによる現象的形象であるということである。端的に言えば、同一性=物質化以外の超越エネルギーの形象化であり、それは、一種の差異化であるということである。 先に自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における左辺の極性転換について言及したが、即ち、(+i)*(-i)と(-i)*(+i)の双極の様相もあるということであるが、例えば、前者を原オス、後者を原メスとすれば、両者は同一性=物質化としては、蝶であるが、例えば、アゲハチョウの場合は、前者と後者の質的差異が羽の紋様に顕現すると言えないだろうか。つまり、Media Point からの超越エネルギーの発動は、一方では同一性=物質化へと作用し、他方では差異=紋様化へと作用するのではないだろうか。 Media Point におけるイデア振動が同一性的発現と差異的発現を引き起こしているのではないだろうか。そして、後者は、なんらか超越エネルギーを反照・映出・照応しているのではないのか。つまり、蝶における同一性=物質化した現象自体は、超越エネルギーの「変態」であり、そこには、超越エネルギーは物質エネルギーになっていると考えられる。E=mc^2である。しかしながら、蝶の羽の紋様形態・形象は、確かに、それも超越エネルギーの一種の物質化ではあるが、同時に、差異的顕現ではないだろうか、ということである。換言すると、即非的現象ではないのか、ということである。蝶の羽の紋様は、同一性=物質化・即非・差異化ではないのか、ということである。そして、その差異的顕現には、超越エネルギー自体が映出されているのではないのか、ということである。端的に言えば、蝶の羽の紋様は、超越エネルギーを放出・発出しているということである。 そして、たとえば、オスの羽にある紋様、鳥ならば、オスの毛の模様から発する超越エネルギーに魅かれて、メスは性的に引き寄せられるのではないだろうか。(これは、単に、視覚的形象だけでなく、聴覚的形象にも当てはまるだろう。たとえば、鳥の囀りであるが、この「歌声」には、単に物質的音波だけでなく、超越的エネルギーが振動・波動として顕現しているのではないだろうか。囀りの超越的音楽、イデア音楽、コスモス・自然音楽である。円空の「木にだにも御形を移すありがたや、法の御音は谷のひびきか」という和歌があるが、せせらぎにも、仏法の超越的音楽があると言えよう。これらについては、別稿で検討したい。) この性的ということは、意味深長である。ここには、超越性が含まれているのである。つまり、聖性があるのである。宗教史的に言えば、多神教のもっている性と聖性との融合がここに見られるということである。(また、イギリスの作家、ウィリアム・ブレイクやD.H.ロレンスが性の聖性を唱えたのも自然の復興として考えることができるだろう。) 以上、蝶の羽の紋様や鳥の毛の模様は、超越的エネルギーの差異的顕現であることを試論として述べたが、帰納的に敷延すれば、自然の形象すべてそのように言えないだろうか。たとえば、螺旋や渦巻き(陰陽のシンボル、三つ巴、勾玉、ヘルメスの二重螺旋等)であるが、それは、強く鋭く、超越エネルギーを喚起するのではないだろうか。文化史的には、永遠の形象と考えられているが、それは、端的に、超越エネルギーの差異的顕現の形象と考えることができるだろう。
2008年02月25日(Mon)▲ページの先頭へ
女性のエロチシズムとプラトニズム:超越的エネルギーとしてのファッション
先に以下のようにメモ書きした。
「女性のエロチシズムと超越エネルギーとしてのファッション テーマ:美術・アート ファッションについて、その超越エネルギー性ないしはファンタジー性を指摘したが、女性のエロチシズムは本来、Media Pointの開放系における超越的エネルギー(差異共鳴エネルギー)と考えられるので、ファッション志向とは女性のエロチシズムを意味するものではないだろうか。後でもう少し丁寧に考察したい。」 http://ameblo.jp/renshi/ entry-10075309493.html どうも、女性のエロスないしはセクシュアリティとは、プラトン主義的ではないかということがだんだん確信に近くなってきた。上記する以前に、私はプラトンとは女性ではなかったのかとふと「妄想」したものである。 考えてみると、イデア論とは、前父権主義・前アーリア民族、即ち、母権文化の最後の名残を受けて生じた哲学であると私は考えている。つまり、太母神を哲学的に理論化したものがイデア論ではないのか思っている。また、確かに、古代ギリシアの父権文化の影響下に生まれたものであることも確かである。しかし、ベースは太母文化である。 よく知られたようにプラトン哲学はエロースの哲学、イデア界へのエロースの哲学である。そして、また、美少年を愛することに存する哲学である。異性愛ではないのである。 先に私は、女性作家が描く裸婦の不思議なエロチシズムについて言った。それは、一種同性愛的なエロチシズムである。それを、私は、プラトニック・エロチシズムとも言ったりした。 そのようなことから考えると、やはり、女性のエロチシズムは、超越的エロチシズム、つまり、プラトニック・エロチシズムであると考えられるのである。それは、感覚を超越するエロチシズムである。官能を超越するエロチシズムである。もっとも、官能・感覚性を否定するのではなく、それを介して、超越性へと志向するエネルギーということである。 ここからいろいろなことが考えられる。西洋哲学が起源のプラトン哲学をいまだに捉えられないのは、それが本質的に女性のエロチシズムの哲学であるからではないのか。ユダヤ・キリスト教西洋文明とは、ハードな父権文化である。父権主義、同一性中心主義(ロゴス中心主義)では、プラトン哲学は捉えられないと考えられるのである。 そう、また、女性が一見どうしてプラトン哲学に魅かれないのかという問題もある。女性の本質はプラトニストだと思う。だから、プラトン哲学は自明なのではないだろうか。女性の意地悪さがあるだろう。 そう、また、プラトン哲学は、東洋文化、とりわけ、神道・多神教・太母文化が把捉することができるはずである。プラトニック・シナジー理論が日本で生まれたのは、その点で必然性があると考えられる。後でさらに考察してみたい。 p.s. ニーチェがもし真理が女性のようなものだとしたら、これまで、哲学は真理を捉えそこなってきたのであり、鞭をもって女性(真理)のところへ行かなくてはならない云々と言っていた。 真理が女性のようなものというのは、正しいが、鞭をもっては、どうだろうか。確かにじゃじゃ馬的性質もあるだろう。 馬で思い出したが、白い馬と黒い馬の比喩があった。これは、前者がプラトニック・エロースであり、後者は感覚中心の欲望である。前者が女性のエロースであり、後者が男性のエロースではないのか。天上のエロース(天上のヴィーナス)と地上のエロース(地上のヴィーナス)。 ニーチェのディオニュソスにしろ、ツァラトゥストラにしろ、それは、太陽神である。天照大神である。ニーチェは、ほとんど、トランス・モダンであった。 参考: パイドロス 美について プラトン 著、藤沢令夫 訳 岩波文庫 それは、ものの名前を制定した古人たちもまた、狂気(マニアー)というものを、恥ずべきものとも、非難すべきものとも、考えていなかったということである。 (中略) 神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものであるということを、古人はまさしく証言しているのである。 p.53-54 ある夏の日の昼下がり、アテナイの郊外にあるイリソス川のほとりで行われた二人きりの対話。話題は美と恋(エロース)について──美しい自然に囲まれた舞台設定はそのテーマを見事に際立たせる。 エロスがテーマであっても『饗宴』のようなドギツさはなく、プラトニック・ラブの本質が燦然と輝くばかりに描かれる。とくに翼を持つ魂のイメージ──翼を持つ馭者が翼を持つ二頭立ての馬の手綱を操るイメージ──はあまりにも美しく、その飛翔する想像力には、まったく痺れてしまう。まさに宇宙的な広がりを見せ、イデアへの憧憬を募らせる。 ハンサム・ガイ、パイドロスを悩ましていたのは弁論家リュシアスのパラドックスであった。リュシアスは、恋する者よりも恋していない者に身をまかすべきだ、と、つまり恋愛は有害であると主張していた。その弁論家特有の巧妙な「テクスト」を読むだけで、パイドロスはリュシアスの詭弁に洗脳されそうになる。 無論、そんなことはあってはならない、とばかりに恋愛の達人ソクラテスは、リュシアスの「テクスト」に挑む。 この作品で面白いのは、実際にリュシアスが登場して対話を行うのではなく、リュシアスの「テクスト」について吟味をするという、まるでロラン・バルトのような「読み」(弁論術)をソクラテスがすることだ。まずはその「テクスト」の文体や構成を精緻に調べる。それから「内容」について反論するという変則的な「対決」が行われる。 内容的には、リュシアスの主張する「恋している者は狂気に獲り付かれている」ということに対し、ソクラテスは「狂気」こそが素晴らしいもので、神による贈り物であることを証明する方法を取っていく。 こういった中でプラトンの天才が伺えるのは、一見無関係のような弁論術と恋(エロス)がある時点で結びつくという「はなれわざ」を見せていることだ。すなわちここで翼のある馬(ペガサス)を乗りこなす馭者のイメージ=翼を持つ魂のイメージが天空(イデア)から地上へと降臨する。 それでは、そもそも弁論術とは、これを全体としてみるならば、言論による魂の誘導であるとはいえるのではないだろうか。 p.96 さすがプラトン。他にも、蝉はムーサの誕生に歓んだあまり食べることや飲むことも忘れて歌い続けた人たちが変身したものであるとか、魂が天球の外側に立ち世界を観照するとかいった、忘れ難いイメージが炸裂する。 しかしなんと言っても、この作品のテーマである美と恋(エロス)を翼のある魂のイメージと結びつけた以下の言説が最高であろう。つまり、 魂の翼を潤すためには、恋人(美少年)が放出する美の微粒子が必要なのだ、ということ。 Project Gutenberg による英文テクスト Plato "Phaedrus" http://w_passage.at.infoseek.co.jp /book/i-nonfiction10.htm *************** 哲学講義19 - プラトン(7) 美のイデアとエロス - 今回は、プラトンの美とエロスについてお話します。(原語では、エロスではなくエロースですが、ここでは表記にはこだわりません。)プラトンの考える美やエロスについて述べる前に、余談を一つ。 「ベニスに死す」という映画があります。トーマス・マン原作の同名タイトルの小説をもとに、ルキノ・ヴィスコンティが映画にしたもので、昔、淀川長治という映画評論家が、世界で三本の指に入る美しい映画だと評していた記憶が残っています。小説では、主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは作家ですが、映画では音楽家として描かれています。マーラーの5番アダージェットが映画のテーマ曲になっていることなどから、映画でのアッシェンバッハは、マーラーを模したものと想像されます。 体調不良のため、ベニスへ休暇旅行に出かけたアッシェンバッハが、滞在先でタッジオという名の美少年に出会い、年がいもなくこの美少年に一目ぼれして後を追いかけ、最後は、恋の病のためか、体調不良が悪化したためか、当地で流行していた伝染病がうつったためか、わかりませんが、タッジオを見ながら死んでしまう、という筋の話です。 全体に情景描写の多い映画で、初めて見る人には少々退屈に思える映画かもしれません。私はこの映画を高校生のときに友人に連れられて初めて見に行ったのですが、その時には、友人は満喫していましたが、私は退屈で仕方がなく、半分眠りながら見ていました。それでもタッジオ役のビヨルン・アンデルセンが美少年であることだけは、印象に残り、その後、どういうわけか、何度もこの映画を見ることになりました。 美とは、努力とは無関係に、突然現れるものか、美とは、努力の結果、現れるものか。アッシェンバッハは、作曲活動を通じて美を創造しようと努力しており、その意味で、美を努力の賜物と考えていたように思えます。そのアッシェンバッハがタッジオに出合ってその美を見たとき、美は努力と無関係に突然現れるものだという意見が脳裏をよぎることになったのかもしれません。 アッシェンバッハがタッジオの美を目の当たりにするとき、何を見ているのか。タッジオの美を見るときの、「美」が一体いかなるものなのか、と言われても、この映画をご覧になったことのない方には、何のことかわからないと思いますので、余談はこれくらいにして、プラトンにとっての「美」や「エロス」がどういうものだったのかを見ていくことにしましょう。 http://matsuura05.exblog.jp/d2004-02-19 古代ギリシア哲学と現代倫理学のページ
2008年02月24日(Sun)▲ページの先頭へ
グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である
グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である
テーマ:トランス・モダン・コスモス プラトニック・シナジー理論とは、文理融合理論であり、いわば、統一理論を志向している。個別の諸学に対する統一的フレームを与えると考えられる。 この新しい知は、決定的に、トランス・モダン・インテリジェンスであり、近代主義からの切断を説いている。それは、近代的自我=近代合理主義=唯物論の乗り越えである。 しかるに、現代日本において、政治・経済・文化の中枢部では、時代遅れの近代主義が主導的であり、日本の国力を衰退させているのである。また、国民は一般に快楽に浸っていて、知的麻痺状態である。恐るべき亡国状況である。 今日の世界主義時代において、日本の状態は端的に反動状態であり、ほとんどのものが賞味期限が切れているのである。つまり、同一性の反復だけであり、創造性・質的発展が欠落しているのである。自己保身に陥っているのである。エネルギーが枯渇しているのである。 この新しい知であるが、私は、知身体と言う方が時代に即したものではないかと思える。知とは本来、基盤を身体(Media Point)にもっているのであり、また、身体は同一性知性を形成させつつ、己(おのれ)へと再帰するのである。身体と知との即非様相があるのである。 日本近代、とりわけ、日本戦後近代主義は、同一性知性(近代合理主義)を中心にしたものであり、根源の身体を喪失した知なのである。つまり、日本の身体を喪失した近代的知なのである。欧米模倣の知なのである。 確かに、哲学・思想において、身体論が流行ったが、それは、近代主義への反動という面が強かったと言えよう(アイロニカルな没入)。 結局、身体と知との結合・融合が必要なわけであるが、それが明晰に理論化、そして、実践化されなかったのである。 とりわけ、日本の哲学・思想の混乱はひどい。本来、国民に新しい世界主義の時代に対応する知を提供すべきなのに、ポスト・モダン等々あるいは欧米文化の紹介に留まっているのである。 とまれ、新しい世界時代に対応する新知として、私は、トランス・モダン知身体という考えを提示したい。身体なき知は皮相であり、知なき身体は盲目である。 政治家・官僚・役人・財界人・文化人等々は、身体なき知(近代合理主義)=利権主義に留まっているので、新しい方策が生まれず、亡国状況となっていると考えられる。また、軽薄な映像文化が流行るが、それは、盲目の感性主義、知なき身体主義である。 トランス・モダン知身体、そして、トランス・モダン知身体共同体を創造構築(創構)する必要があるのである。そう、人類は、文明進化の時代に入っているのである。同一性主義へと帰結したユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉があり、差異共振主義の新しい文明へと進化すべき現代状況なのである。 実質的には、インターネットの役割が決定的であろう。これは、トランス・モダン・メディアである。これまでの知はモダンないしはポスト・モダンに過ぎず、グローバル時代において古色蒼然としているのである。これまでの知は反古である。 トランス・モダン知身体社会創造へと向かうべきである。この新文明進化を、これまで政治・経済・学芸等を独占してきた支配層がいちばん恐れているのである。彼らは不要なのである。近代主義/ポスト・モダン的知はもはや廃棄物である。 ヨハネ黙示録に倣えば、新しい天と地が到来しつつあるのである。 ******************* 「共同-体」とMedia Point=魂=身体⇔トランス・モダン共同体 テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築 共同‐体(コルプス) (単行本) ジャン・リュック ナンシー (著), Jean‐Luc Nancy (原著), 大西 雅一郎 (翻訳) ようやく、単行本で90ページに満たない本書を読み終えたが、既に述べているような感想は変わらなかった。原著は、1992年発行(邦訳は1996年発行)であり、グローバリゼーションが始動していた時期のものである。 本書はブレークスルー的画期性と凡庸性をもっている。身体論から共同体論へと展開させている点が画期的であろう。しかしながら、身体を物質に限定している点が、唯物論的残滓であると思う。また、文学者気取りのレトリック(修辞)が多く、鼻につくのである。 画期性は、ポスト・モダンの差異と同一性との連続性(ドゥルーズ)ないしは混淆(デリダ)を乗り越えている点である。だから、不連続的差異論の先駆者ではある。そして、身体=共同体において、ほぼMedia Pointの不連続点を捉えているので、プラトニック・シナジー理論の一つの先駆に見られるだろう。 しかしながら、一番大きな問題点は、唯物論的視点である。身体=共同体=物質である。これでは、左翼的視点に留まってしまうのである。思うに、著書自体に矛盾があると思う。超越性でもなく、内在性でもない身体=共同体という発想をしているが、それは、正にMedia Pointの説明であると私は思った。Media Point の虚軸性は、超越的であるが、実軸性は内在性であり、しかも、それらが即非的位相にあるのである。即ち、超越的・即非・内在的である。以前、私は内在的超越性ということをいい、その後、それを否定して、そのままにしていたが、内在的・即非・超越的というのが、Media Point=魂=身体の様相であると考えられる。 このように、鋭敏な洞察がありながら、物質主義に留まっているのである。(例えば、以下の引用の「重さ」という観念が、唯物論的なものだと考えられる。 Media Pointは、知・即非・存在であるから、軽み・即非・重みとなるのである。)これが、本書の画期的洞察をだいなしにしている。思うに、この物質主義的視点から、レトリックの多用が生じているのではないだろうか。ただ、物質的事柄を羅列するレトリックがあるのである。どういうことかと言えば、物質主義的視点があるので、物質的事物を羅列することになっていると考えられるのである。 とまれ、本書から意義深い箇所を引用したい。そこで述べられている「プシュケ」とは、魂であり、同時に、身体であると考えられる。プラトニック・シナジー理論のMedia Pointである。だから、まとめると、Media Point=知・即非・存在=「プシュケ」=魂=身体=共同体である。 ★★★引用開始★★★ 【まさにこうした仕方で〈プシュケ〉は延長であるが、〈プシュケ〉はそのことについて何も知らない。〈プシュケ〉はここでは、「物質」の深奥の、基底をなす下位-層に則して先行措定されるのでもなく、自己-の-知という既に与えられた上位-層に則して先行措定されるのでもない限りにおける身体の名である。先行措定の二つの様態ともに潜勢態(ピュイサンス)のうちに留まったままで、その中で加えて両者は、あらゆる伝統を横断する形で、お粗末なほど観念論的な唯物論や、意味の起源(志向性、根源的時間性)といった常により狭隘な罠に自らしがみつく観念論として、止めどなく崩壊し衰弱していく--- ----それに対して諸身体は到来しつつあり、諸身体の様々なアトムのクリナメン〔微小偏倚〕は既に場を持ち=生起し、既に様々な場を開き、世界のあらゆる裂開において互いに端から端までその様々な重さであることを実践している。だがこれは、確かに、「知」の事柄ではない、それは、重さであることの中に到来し、重みを量られるべきものとして奪いかつ与える身体の事柄である。それは「意味の根源」でも「根源の意味」でもない。それは、意味には根源はないからであり、それこそがそれそのもの、「意味」そのもの、根源ーなきー存在、延長ーされるべくー到来すること、創造されるーこと、あるいは重さであることであるからだ。 紛れもなくこのことに対して=向けて、〈プシュケ〉は延長として現前するのであり、このことに対して=向けて〈プシュケ〉は間を割り裂かれ(アンテレッセ)、無限に外部転位される、〈プシュケ〉が負荷として担い、配慮し、情動=触発されるのはまさにこのことからであり、まさにこのようにして〈プシュケ〉は「現勢態(アクト)にある身体の形式」なのである。現勢態にある諸身体のみが存在し、各身体は〈プシュケ〉である、もしくは様々なアトムまた/あるいはソレ《renshi注:精神分析の基盤の無意識》の延長を通して独異な形で様態化された様々なプシュケ〔精神、自在鏡〕の配置である。】 p. 68 ★★★引用終了★★★ 参考: ナンシーの著作は、多くが日本語に訳されています。その中心概念である共同性に焦点を当てて見ました。積極的な議論の一つの種になれば幸いです。 Nancy, Jean-Luc ジャン・リュック・ナンシー 1940年生まれ 略歴 1940年7月26日、フランスのボルドー近くのコデラン生まれ。1962年に哲学学位を取得した直後から、カール・マルクス、イマニュエル・カント、フリードリッヒ・ニーチェ、アンドレ・ブルトンといった著者についての本を出版。パリで哲学教授資格を取った後、1968年コルマールで短期間教師を務め、その後ストラスブールの哲学研究所の助手になる。現在もストラスブールに居住し仕事をしている。1973年にはポール・リクールの指導の元でカントについての論文で博士号を取得し、その直後からストラスブールの人文科学部で「助教授」をつとめる。1987年にはトゥールーズで、ジャック・デリダやジャン=フランソワ・リオタールらが審査員となり、国家博士号を授与される。ジェラール・グラネルの監修のもとに書かれたカント、シェリング、ハイデッガーの著作における自由の問題を扱った博士論文は、1988年に『自由の経験』として出版された。とはいえ、1987年以前から、すでに彼はアカデミックなキャリアを積み重ねていた。1970年代から80年代にかけてベルリン自由大学やカリフォルニア大学など様々なところで客員教授を務めていたほか、哲学教授として、東ヨーロッパを中心にフランス外務省の文化委員を務めていた。 しかし1980年代末に重病に陥り心臓移植を受け、その活動は突然終わりを迎えた。さらにガンとの闘病が重なり、その回復を遅らせた。これらの病気のために彼のキャリアは大きく変わり、今まで自分が務めていたほとんどの委員職を辞任しなければならなかった。最近また活動を再開したが、こういった闘病期間の間も驚くべきことに執筆や出版活動は精力的に続けていた。政治や社会や哲学的な話題に関わる彼の著作の多くは1990年代に出版されたが、2000年には自分の病気についての著作『侵入者』も書いている。そして60代になった今日、人間として哲学者として今まで以上に活発に世界中を飛び回っている。 http://www.saysibon.com/ yoriai_sub/jinbutsuarchive/NANCY.htm
2008年02月23日(Sat)▲ページの先頭へ
自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1について:差異共振方程式(+i)*(-i)⇒±1?
昨日、女性が描く裸婦には、いわば、エロティシズム(男性のもの:例えば、バタイユのそれ:「エロチシズムとは死に至るまでの生の高揚である」)がないと言ったが、これは、いったい何を意味しているのか。このような簡単なことが意外にわからないのである。【p.s. 思うに、当然ながら、そこには、男性のエロチシズムはないが、女性のエロチシズムがあるのではないだろうか。女性のエロチシズムとは、本当は、D. H. ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』にあるようなものである。差異共振的エロチシズムであり、これは、言うならば、プラトニック・エロチシズムであろう。】
自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で考えてみると、例えば、女性の作家が+iで裸婦が-iであり、ヌード作品が+1になると考えられなくもないが、これでは、男性の作家の場合と区別がつかない。 ここで思考実験すると、女性の画家が裸婦を描くときは、例えば、(-i)*(-i)⇒-1乃至は、(+i)*(+i)⇒-1になるのではないのだろうか。 差異ではなくて、いわば、同一性共振である。-1は共感性ではないだろうか。この共感性が、女性が描く裸婦の絵画に表現されているのではないのだろうか。 さらに敷延して言うと、民主主義とは、このようなものではないのか。平等とは、-1を意味するのではないのか。 思うに、差異共振であるが、それは、いわば、差異を自己同一性として捉えようとすることではないのか。ここは、きわめて根本的な問題である。 他者である差異を認めることとは、自己において、他者を容認することである。自己の中に、他者=差異を確認することである。それは、正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の位相である。 ここで振り返ると、自我同一性とは、+iが差異共振性を否定したところに成立する。つまり、右辺である。 今思ったのは、自己認識方程式の⇒を等号に変えれば、問題がないのではないだろうか。即ち、自己認識方程式(+i)*(-i)=+1である。思うに、⇒の場合が、同一性主義を意味するのであり、等号の場合は、差異共振性をも意味しているように思われるのである。 言い換えると、父権文化(一神教文化)が(+i)*(-i)⇒+1であり、母権文化(多神教文化)が(+i)*(-i)=+1ではないのか、ということである。 この視点を、裸婦の作品に適用すると、男性が描く裸婦は前者であり、+1というエロチシズムが生まれるが、女性が描く裸婦は+1であるものの、左辺の差異共振性が同時存在するので、エロチシズムが否定されるのではないだろうか。これが、私が昨日言った、エロチシズムがあるようでないという即非様相を説明するのではないだろうか。つまり、差異共振等式(+i)*(-i)=+1というものが仮説できて、これは、右辺であると、同時に、左辺であるということではないのか。この場合の「同時に」とは明らかに、即非性である。だから、等号は、実は不等号でもある。だから、等号の換わりに⇔を使用する方が的確であろう。即ち、差異共振方程式(+i)*(-i)⇔+1である。 そうすると、上述した同一性共振の-1の仮定は不要になるのである。後でもう少し検討したい。 p.s. -1の意味が問題として残っている。差異共振した場合の内面を考えよう。【ここで問題としているのは、トランス・モダン的差異共振であり、プレ・モダン的差異共振ではない。言い換えると、いったん、同一性自己+1を形成した後の差異共振形成のことである。即ち、(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)である。最後の(+i)*(-i)は、高次の差異共振性であり、最初の(+ i)*(-i)⇒+1とは質的に異なるのである。この点については、表記の仕方を含めて、後でさらに検討したい。】 差異共振した場合、他者=差異-iは、自己における他者・差異となっているだろう。もっとも、同一性として同化されたわけではない。あくまでも、他者=差異-iである。しかしながら、共振様相においては、単なる他者=差異-iでもない。この共振状態における他者=差異-iとは何だろうか。 当然、即非様態における他者=差異-iである。「私」は「私」でありながら、「他者」である。あるいは、「私」は「私」ではなく、「他者」であり、且つ、「他者」ではない、等々である。思うに、思うに、「私」は「私」ではなく、「他者」であるというのが、-1のことではないだろうか。同一性自己は+1 であり、差異的自己が-1なのではないだろうか。そう、「他者」である自己が-1ではないだろうか。 すると、自己認識・差異共振方程式は、(+i)*(-i)⇒±1となるのではないだろうか。そして、ここで、本件のテーマにもどれば、女性の描く裸婦とは、やはり、-1でいいのではないだろうか。とまれ、後で整理したい。 参照:エトルリア美術(エトルリアとは古代イタリアないしはイタリア先住民の国である。ローマ帝国に滅ぼされた。)。イギリスの作家D. H. ロレンスは『エトルリアの地』で、エトルリアが東洋的な古代文明を最後の残りであることを説いている。つまり、母権文化であるということである。また、ロレンスは今日のイタリア人が、ローマ帝国の人間の末裔であるというよりは、エトルリアの末裔であると述べているが、それは、イタリア人に接したものならば、首肯できることであろう。 画像をクリックすると大きなサイズで見られます。 http://en.wikipedia.org/wiki /Image:Etruskisches_Paar.jpg http://www.japanitalytravel.com /lazio/etruschi.html http://www.um.u-tokyo.ac.jp/ publish_db/2000Afterlife/01/0101.html Etruscan art From Wikipedia, the free encyclopedia Jump to: navigation , search Etruscan wall-painting Etruscan art was the form of figurative art produced by the Etruscan civilization in northern Italy between the 9th and 2nd centuries BC. Particularly strong in this tradition were figurative sculpture in terracotta (particularly life-size on sarcophagi or temples) and cast bronze, wall-painting and metalworking (especially engraved bronze mirrors). http://en.wikipedia.org/ wiki/Etruscan_art 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1について:差異共振方程式(+i)*(-i)=or⇔+1
画像付きの記事は以下にあります。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10074783128.html 昨日、女性が描く裸婦には、いわば、エロティシズム(男性のもの:例えば、バタイユのそれ:「エロチシズムとは死に至るまでの生の高揚である」)がないと言ったが、これは、いったい何を意味しているのか。このような簡単なことが意外にわからないのである。 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で考えてみると、例えば、女性の作家が+iで裸婦が-iであり、ヌード作品が+1になると考えられなくもないが、これでは、男性の作家の場合と区別がつかない。 ここで思考実験すると、女性の画家が裸婦を描くときは、例えば、(-i)*(-i)⇒-1乃至は、(+i)*(+i)⇒-1になるのではないのだろうか。 差異ではなくて、いわば、同一性共振である。-1は共感性ではないだろうか。この共感性が、女性が描く裸婦の絵画に表現されているのではないのだろうか。 さらに敷延して言うと、民主主義とは、このようなものではないのか。平等とは、-1を意味するのではないのか。 思うに、差異共振であるが、それは、いわば、差異を自己同一性として捉えようとすることではないのか。ここは、きわめて根本的な問題である。 他者である差異を認めることとは、自己において、他者を容認することである。自己の中に、他者=差異を確認することである。それは、正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の位相である。 ここで振り返ると、自我同一性とは、+iが差異共振性を否定したところに成立する。つまり、右辺である。 今思ったのは、自己認識方程式の⇒を等号に変えれば、問題がないのではないだろうか。即ち、自己認識方程式(+i)*(-i)=+1である。思うに、⇒の場合が、同一性主義を意味するのであり、等号の場合は、差異共振性をも意味しているように思われるのである。 言い換えると、父権文化(一神教文化)が(+i)*(-i)⇒+1であり、母権文化(多神教文化)が(+i)*(-i)=+1ではないのか、ということである。 この視点を、裸婦の作品に適用すると、男性が描く裸婦は前者であり、+1というエロチシズムが生まれるが、女性が描く裸婦は+1であるものの、左辺の差異共振性が同時存在するので、エロチシズムが否定されるのではないだろうか。これが、私が昨日言った、エロチシズムがあるようでないという即非様相を説明するのではないだろうか。つまり、差異共振等式(+i)*(-i)=+1というものが仮説できて、これは、右辺であると、同時に、左辺であるということではないのか。この場合の「同時に」とは明らかに、即非性である。だから、等号は、実は不等号でもある。だから、等号の換わりに⇔を使用する方が的確であろう。即ち、差異共振方程式(+i)*(-i)⇔+1である。 そうすると、上述した同一性共振の-1の仮定は不要になるのである。後でもう少し検討したい。 参照:エトルリア美術(エトルリアとは古代イタリアないしはイタリア先住民の国である。ローマ帝国に滅ぼされた。)。イギリスの作家D. H. ロレンスは『エトルリアの地』で、エトルリアが東洋的な古代文明を最後の残りであることを説いている。つまり、母権文化であるということである。また、ロレンスは今日のイタリア人が、ローマ帝国の人間の末裔であるというよりは、エトルリアの末裔であると述べているが、それは、イタリア人に接したものならば、首肯できることであろう。 画像をクリックすると大きなサイズで見られます。 http://en.wikipedia.org/wiki/ Image:Etruskisches_Paar.jpg http://en.wikipedia.org/wiki/ Etruscan_art Etruscan art From Wikipedia, the free encyclopedia Jump to: navigation , search Etruscan wall-painting Etruscan wall-painting Etruscan art was the form of figurative art produced by the Etruscan civilization in northern Italy between the 9th and 2nd centuries BC. Particularly strong in this tradition were figurative sculpture in terracotta (particularly life-size on sarcophagi or temples) and cast bronze, wall-painting and metalworking (especially engraved bronze mirrors). http://en.wikipedia.org/ wiki/Etruscan_art
2008年02月20日(Wed)▲ページの先頭へ
エネルギーの問題:Media Point の発するエネルギー波動とは、差異波動なのか同一性波動(
エネルギーの問題:Media Point の発するエネルギー波動とは、差異波動なのか同一性波動(物質波動)なのか:電磁波とは差異波動なのか、同一性波動なのか:それは、差異/同一性的即非波動であろう
ドゥルーズ&ガタリがよく使用する術語に《強度》があり、これは知的社会では、人口に膾炙した。しかし、これは、いわゆる物質的エネルギーを超えた力を指すものとして、つまり、差異の力ないしは差異のエネルギーとして考えられたものであろう。私も不連続的差異論の形成前後はよく使用した。 今考えると、《強度》を差異的エネルギーと見ていいのだろうかという疑問が起こるのである。プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、 Media Pointにおける差異共振性を意味するが、それは、同時に、差異共振性のもつ同一性志向をも包摂するのである。つまり、同一性=物質をも包摂すると見ていいのである。そして、そのMedia Pointの差異共振性とは、差異共振エネルギーであり、本質的には、イデア・エネルギー(エネルゲイア)である。そこでは、イデアが物質へと変換が行われるのである。電磁波とは、この差異共振エネルギーを本来さすものと考えられるが、現代の唯物科学では、電磁波のもつイデア・エネルギーを認識できないのである。 さて、《強度》であるが、それは、差異エネルギーではなくて、差異共振エネルギー=イデア・エネルギー(エネルゲイア)と考えられる。それは、同一性=微粒子と同一性=微粒子との間であるMedia Point(「差異」)に存しているのであり、それが、同一性=微粒子=物質と同一性=微粒子=物質とを振動させていると思われるのである。 唯物科学では、この振動を物質エネルギー(E=mc^2)と考えるが、それは、正しくは、Trans-Energy=m(+ic)*(-ic)と考えるべきなのである。あるいは、差異共振エネルギーである。これが、《強度》の正体だと考えられるのである。 因みに言えば、気功等の《気》も、やはり、差異共振エネルギー(イデア・エネルギー=エネルゲイア)と見るべきである。そうすると、《気》の視点から、生命はどう説明されるだろうか。《気》が生命力そのものであるから、差異共振エネルギーが生命力となる。そして、気的身体と呼ばれるものは、差異共振エネルギー体と考えられよう。つまり、物質的身体を包摂する様態で、気的身体があることになる。 【(以下、思考実験である。)この気的身体とは、差異共振エネルギーであるから、正に、陰陽身体である。そして、+iが陽であり、-iが陰である。そして、前者が原形相であり、後者が原質料ではないだろうか。思うに、ノエシスとは前者であり、ノエマとは後者ではないだろうか。そして、両者の接点・交点に感覚や感情が生じるのではないだろうか。 さらに言えば、差異共振エネルギー波動は、波動情報をもっていると考えられる。これが、遺伝子の本当の正体ではないだろうか。この波動情報が物質形成すると考えられるのである。この波動情報の物質的貯蔵庫がゲノムと考えられるのである。つまり、遺伝子は本来、波動情報=イデアであると考えられるのである。それが、Media Pointにおいて、差異共振エネルギーとなり、物質形成すると思われるのである。 そして、波動情報の物質的貯蔵庫(いわば、ハードディスク)=ゲノムとは、Media Pointにおける二つの極性を保存した構造であると思われるのである。(作業仮説的に、二つの極性を+i:-iと+1:-1とする。Kaisetsu氏の考え方も参考。) ここで秩序立って考えるならば、遺伝情報とは、イデア情報であり、それは、デュナミスではないだろうか。それが、Media Point において、エネルギー化する。エネルゲイア化である。そして、それが、実軸においては、構造となると考えられる。つまり、Media Point のもつ構造点である。これが、ゲノムの原型ではないだろうか。そして、ここから同一性=物質化したものが、ゲノム自体ではないだろうか。 非常に微妙な領域である。Media Point の実軸は構造点であり、それは、物質ではないが、物質との境界である。ゲノムの原型である。そして、それが、同一性=物質化したものが、ゲノムということである。だから、それは、やはり、+1と表記されるだろう。】
2008年02月19日(Tue)▲ページの先頭へ
差異を排除する同一性力学について:補遺:何故、同一性自己は、差異的他者を憎悪するのか
多神教文化から一神教文化が発生すると言ったが、それは、エネルゲイアからエンテレケイアへの移行であるが、そのとき、超越神と父権的自我の対が発生するが、それは、Media Point を否定する力学をもっている。この否定力学が意識的には、憎悪である。ルサンチマン(怨恨)である。
換言すると、同一性志向性とは、差異共振性を自己否定する力学をもっているのである。多神教力学とは、差異共振力学であるが、一神教力学とは自己否定力学なのである。そう、自己嫌悪力学とも言えるだろう。だから、ナルシシズムと自己嫌悪の混淆した自己力学である。そう、根本的に不幸な自己力学である。(キリストが汝自身を愛する如く、隣人を愛せよと言ったが、父権文化においては、自己自身を愛することは不可能である。) とまれ、ここで簡単に確認することは、同一性志向性という力学が自己否定力学であることである。そして、これは、意識的には自己嫌悪力学であることである。この内的否定、自己否定が、影となり、他者へと投影されると考えられるだろう。 正確に言えば、同一性自我(正確には、同一性自己であるが、自己否定の自己と不整合になるので、同一性自我と呼んでおく。後で、用語について、検討したい。)とは、ナルシシズムと自己否定の混合であり、ナルシシズムは傲慢さにつながり、これと自己嫌悪が結びついて、他者へと影を投影して、他者を憎悪否定すると考えられるのである。 思うに、否定した自己性、すなわち、否定した差異共振性(Media Point )の波動を発出する他者に対して、とりわけ、憎悪否定暴力を向けると考えられるのである。自己否定したナルシシズム的同一性自我は、差異共振性を抑圧しているのであり、その抑圧を解除するような、差異共振波動を発信する他者に対しては、とりわけ、憎悪攻撃的になると考えられる。歴史的に言えば、魔女狩りとはそのようなものであったと思われる。魔女とは、本来、多神教・太母文化における祭司であり、Media Point を体現し、差異共振波動をもっていたと考えられるからである。また、これは、ユダヤ・キリスト教西洋文明の植民地主義にも適用できる事柄であると思う。また、西洋文明がイスラム文明を嫌うのは、後者には、Media Pointをそれなりにもっているからだと思う。聖書にあるように、ヤハウェは多神教を憎悪するのである。【イスラム教の一神教性とは、本来、ゼロ神教性とでもいうべきものだと思う。Media Point のゼロの神がアッラーではないだろうか。それが、ユダヤ・キリスト教の一神教の影響を受けて、多神教を排他していると思うのである。】 ところで、本テーマにもどると、同一性志向性が自己否定力学をもつということは、有り体に言うと一体どういうことなのだろうか。私は、以前、裏返しになるということを指摘したものである。差異という自己をねじるようにして否定して、同一性自我へと転換すると考えたのである。そう、これが、虚軸から実軸への1/4回転であろう。垂直軸から水平軸への1/4回転によって、いわば、自己否定が生起すると考えられるのである。(虚軸的)超越性から同一性現象へと変換するというのは、確かに、自己否定と言えよう。思うに、これは、心的に苦痛を与えているのではないだろうか。「至福」の虚軸的超越性(楽園)から、苦しみに満ち満ちた実軸的現象性へと変換するのは、恐ろしい苦痛があるのではないだろうか。それとも歓喜があるのだろうか。これは仏教的問いである。思うに、現象への誕生とは、原初的トラウマを形成するのではないだろうか。根源的苦・悲哀(悲苦)である。 少し整理しよう。1/4回転によって、差異共振性から同一性現象へと変換する。これは、差異共振性という自己を否定する力学を意味するのである。自己否定とは、自己憎悪・自己嫌悪である。根源的ルサンチマンである。そして、鏡像によるナルシシズムとそれによる傲りをもつのである。ある意味で、同一性自我現象とは最悪である。釈迦牟尼の気持ちは理解できる。悲である。この世は悲である。苦悲である。そして、この悲苦の輪廻からの脱却を意味する悟りを開いたのである。開悟・悟達である。 この開悟は、Media Point の認識を意味すると思う。ここにこそ、大悲(だいひ)があるのだろう。キリスト教の愛も本来はこれを意味するはずである。キリストとブッダの類似性があるのである。 思うに、根源的悲苦と開悟の歓喜とを天秤に比べたらどうなるのだろうか。生を苦と見るのか、歓喜と見るのか。ペシミズムとオプティミズムである。やはり、前者ではないだろうか。だから、大悲である。とまれ、この問題はおいておこう。 結局、自己否定である同一性自我とは、自己憎悪をもち、いわば、悲劇的である。そう、根源的にペシミズム的である。でも、どうして、そのようになっているのかである。キリスト教では、原罪があるからだとするが、それは説得力がないだろう。原罪とは自己否定のことだと考えられるからである。説明にならないのである。 仏教はペシミズムである。それは、自己否定という同一性現象の事実にあっているのである。ここには、なにか、「存在」の秘密が隠されているだろう。そもそも、不都合なことがどうして起こる必要があるのか、である。苦悲である現象界へどうして誕生する必要があるのかである。仏教は、だから、「科学」的である。叡知的である。般若である。輪廻からの解脱、もう生まれないことである。(私も個人的にはその気持ちに近い。ジョージ・ハリスンがGive me love で、free from birthと歌っているが、同感する。) しかしながら、これについては、既に答えているのである。同一性自我に現象することに発して、自己に目覚めることの意味があるのである。自己覚醒である。もし、現象しないならば、同一性自我は形成されない。虚軸的自己のままならば、一種ニルヴァーナ(涅槃)状態である。デュナミス(可能態)である。双子のままである。個はないのである。そう、同一性自我、つまり、物質的自我を経験することの意味があるのであろう。 虚軸的自己は、物質的自我を知らない。いわば、永遠の夢の様態である。同一性=物質的自我となることで、目覚めるものは何か。当然、同一性自我である。あるいは、単に、同一性である。もし、現象化しないならば、自己は同一性をもつことなく、差異共振様態のままである。双子のままである。そこには、「わたし」が不在なのであろう。自我の不在である。ということは、潜在的自我がもともと存しているということになるだろう。それがフッサールのノエシスだろう。潜在的であるノエシスがあるのである。同一性志向性があるのである。差異共振性のもつノエシスの成就としての同一性自我があるのであろう。 ここから考えると、仏教の意義が明らかになるだろう。悟りとは、現象化によってもつ同一性自我から脱却して形成する根源的な差異共振性の認識を意味するだろう。一種の回帰である。未生の「天国」への回帰である。 しかしながら、そうならば、ブッダが望んだようには、輪廻から脱却できないのではないだろうか。つまり、死んだ後も、再び、差異共振性の様態に回帰するが、そこからまたノエシスの志向性によって、現象化すると考えられるからである。正に、永劫回帰である。死生永劫回帰である。輪廻転生である。 それとも、輪廻サイクルから脱却する方法があるのだろうか。物質化から逃れる方法があるのだろうか。 オカルティストたちが、よく、脱物質化・霊化のことを言うが、これは、死んだら誰でもそうなるのだ。根源的なノエシスを考えると、やはり、物質化は必然だと思うのである。 さて、整理すると、同一性化とは、自己否定であり、自己憎悪である。しかし、同時に、ナルシシズムを形成する。つまり、自己憎悪を隠蔽するように、鏡像的自我世界が生まれるのである。しかし、それは、自己逃避である。結局、内的な自己悲劇に向かい合うことから、差異共振性への叡知へと向かうことになるのである。自己否定である自己憎悪を乗り越えて、差異共振性、Media Pointへと向かうのである。自己否定から自己肯定へである。これは、スピノザ哲学の方法でもある。ロマン主義の方法でもある。(ベートーヴェンの歓喜の歌はもともとは、ドイツ・ロマン派詩人シラーの詩であった。) 結局、まとめると、現象における苦・悲を味わいながら、差異共振性という実践的叡知へと向かうことを運命づけられているのが人間なのであろう。苦や悲がなければ、同一性自我から脱却して、差異共振叡知(般若)へと覚醒することはないのだろう。悲劇的認識は必然なのである。 最後に、以上の視点から、現代世界の世界の問題を言うと、同一性自我である近代的自我と近代合理性が中心化された資本主義が支配する世界であるが、それは、基本的には、自己認識を知らない、自己否定の世界なのである。そこでは、無明が支配しているのである。自己憎悪に満ち満ちているのを知らずにいる世界である。そして、狡猾なものが愚かな大衆を支配している世界である。しかし、狡猾な者こそ、いちばん同一性自我に染まっているのである。最も無明の者が無明の者を支配しているのである。 脱同一性主義が必要なのである。それは、差異共振性への道である。それは、差異共振叡知を実践する生活であると言えよう。
2008年02月17日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性中心主義の末路:超越神の真空化と差異共響エネルギーの反動化:差異共響価値創造資本主義:Ver3
超越神の穴について考えて、はやくも行き詰まってしまったので、方便の意味も含めて、視点を変えて考えよう。
自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、同一性志向性が発生した後の、左辺の状態について考えよう。これまで述べたことを繰り返すと、多神教的意識においては、Media Pointが開放の状態で、両辺がそれなりに知覚されているが、一神教(ユダヤ・キリスト教)的意識においては、Media Pointが閉鎖されて、かつ、それが分化して、左辺が超越神となり、右辺が父権的自我となるということであった。言い換えると、一神教的意識(父権的意識)においては、Media Pointが否定・排除・隠蔽される(抑圧)されるということである。 後者は、父権的自我ないしは近代的自我の様態であると考えられる。これは、同一性志向性の帰結として、考えられるだろう(あるいは、そのように仮説する)。 後者の初期においては、超越神・「父」・「天」が、価値として存していた。それは、いわば、超越的価値であり、道徳になったと言えよう。儒教の価値観の根源もここにあるだろう。【思うに、フロイトが言った超自我の根源はこれであろう。】父権的価値である。 ここにあるのは、二項対立的な、同一性中心主義である。デリダのいうロゴス中心主義である。そして、これが、今日の資本主義を動かしている形而上学的原理である。構造主義的原理である。そう、結局、ポスト・モダン理論は、このロゴス中心主義を解体できなかったのである。デリダの脱構築主義は、実質的には、ロゴス中心主義、すなわち、同一性中心主義、同一性自我中心主義(同一性自己中心主義の方がより正確かもしれない)を脱構築・解体できなかったのである。【私見では、結局のところ、資本主義自体が解体、乃至は、自壊し始めているのである。同一性中心主義が過剰になり、たとえば、サブプライムローン問題を引き起こしたのである。これは、同一性中心主義狂気と考えられる。】 この同一性中心主義が自壊するというのは、どういうことなのだろうか。超越神・一神教的二項対立(この用語は実は、不正確である。優劣絶対的二元論とでも言った方がいいかもしれない)価値観が支配している。超越神・超越的価値が同一性価値を保障しているのである。つまり、資本主義経済で言うならば、同一性価値である貨幣価値を保障しているのは、超越神・超越的価値なのである。言い換えると、超越神価値がある限り、同一性価値=貨幣価値=交換価値は絶対的に保障されることになるのである。ユダヤ・キリスト教的価値観が資本主義経済を保障しているのである。【もっとも、ユダヤ・キリスト教的価値観の世俗・物質的帰結が資本主義経済であると言う方が、論理的であろう。】 さて、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における一神教(ユダヤ・キリスト教)的力学は、以上述べたように、左辺(超越神)と右辺(同一性)とに絶対的に分離するというものである。そして、Media Pointがそこでは、抑圧されて、隠蔽されているということである(Split Media )。【思うに、西洋文化とは、このユダヤ・キリスト教文明の表看板とは別に、Media Point的文化を取り戻そうとする志向性をもっていると言えよう。ルネサンスがそうであるし、また、芸術、哲学、神秘学等もそうである。つまり、人類の大根本・根元である東洋文化を取り戻そうとしているのである。双魚宮(魚座)文化としての西洋文明である。p.s. トランス・モダン=差異共振文化は、宝瓶宮(水瓶座)文化である。新東洋文化期である。】 ここで多神教的力学を見ると、それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺を共存させているのであり、Media Pointを中心的価値観としてもっているのである。だから、例えば、神道では、三柱の神(三つ巴)という根本原理が生まれるのである。【つまり、三柱の神(三つ巴)とは、左辺の差異共振・共鳴・共響性を意味するということである。p.s. 因みに、ケルトの渦巻文様には、三つ巴のポリフォニーが見事に見られる。】 多神教文化とは、ConMedia文化であると言えよう。それに対して、一神教文化とは、いわば、DisMedia文化であろう。問題は、この相違の原因である。母権文化(太母文化)と父権文化の発生力学は何かである。母権力学と父権力学である。 これまでの考え方では、同一性志向性の最終段階が父権文化であり、いわば、その過程が母権文化(多神教文化)である。言い換えれば、エネルゲイア文化が母権(太母)・多神教文化であり、エンテレケイア文化が父権・一神教文化ということになる。【エネルゲイアとは、エネルギーであり、活動態であり、エンテレケイアとは終局態であり、帰結である。つまり、同一性・物質である。】 だから、母権(太母)・多神教文化の進展として父権・一神教文化があるということであり、それは、一つのサイクルと考えられるだろう。つまり、あるエネルゲイア(エネルギー)の放出の過程としてのサイクルであり、父権・一神教文化において、終焉するということであり、また、新たなエネルゲイア(エネルギー)の発生・発出・放出が考えられるということである。つまり、新たな母権(太母)・多神教文化が誕生するということである。 この母権/父権文化のプロセス・サイクルであるが、これまで、私は、太極原理が根本にあると考えてきたのであり、太極原理のもつ螺旋的回帰性を考えているのである。【ここで少し言うと、占星術・占星知は、この太極原理と関係していると推測しているのである。これは、これで、また、大研究を必要とするのである。】とりあえず、以上で、母権文化と父権文化の力学を統一的に説明できるのである。 そのように統一的に、即ち、太極原理の視点から見ると、当然、父権文化は解体することがわかるのである。正に、自然(じねん)である。これを自然(しぜん)と見ることは、完全な誤りである。これは、いくら強調しても強調し過ぎることはない。無為自然(むいじねん)の自然である。 ここで、所期のテーマにもどると、超越神の穴・空虚・影・闇はどういう力学をもつのか、という問題である。太極原理から見ると、明らかに、それは、エネルギーを喪失したのであり、もはや、そのあり方、即ち、父権・一神教文化の様式からは、新しいエネルギーは生まれないということを意味する。父権・一神教文化のエネルギーの枯渇が生じているのである。そして、この真空は何を意味するのかということなのである。真空はどういう力学をもつのか、ということである。それは、価値観の根拠の喪失である。つまり、既成価値の無価値化である。つまり、同一性価値の無価値化である。同一性価値・貨幣交換価値の無価値化である。【p.s. 同一性価値の無価値化と言ったが、手段としての同一性価値は当然残るであろう。差異共響価値資本における量的計算は同一性価値=貨幣に拠るだろう。】 また、恐怖の情動が生起するだろう。そして、内なる闇(シャドウ)を外界へと投影して、仮想敵を作るだろう。たとえば、悪魔としてのイスラム過激派(アルカイダ)である。 問題は、真空自体の力学である。それは何か。思うに、同一性価値を固持するための衝動・情動が起きると思われるのである。もはや、超越的次元からは、創造的エネルギーが発生しないから、同一性価値固持・維持のための「力」をどこからか必要とするのである。いったい、どこから、その「力」を得るのだろうか。その衝動・情動の発生はどこからなのだろうか。 推察するに、それは、永遠のエネルギーの源泉であるMedia Pointから発する差異共響エネルギー(差異共振・共鳴・共感・共心エネルギー)の突き上げからではないだろうか。当然、反動エネルギーとなっているのである。【差異共響エネルギーを純粋に取り込むには、同一性価値自体が解体する必要があるのである。つまり、自我(近代的自我)自体が解体して、差異を受容する自己(自己身体)へと変質する必要があると考えられるのである。差異共鳴身体へと変容させる必要があるのである。しかしながら、同一性は同一性であり、それは、必然的なものなので、同一性を包摂する差異共響性が必要である。(この点は既述済みなのでここでは説明しない。)p.s. 同一性自己を差異共鳴身体へと変質させる仕組みについては後で説明したい。同一性と差異共鳴身体との融合である。】 Media Pointから発するエネルギーを自己同一性主義は、いわば塞止めているのであるが、しかし、それ自身は枯渇しているので、その他者の差異共響エネルギーに突き上げられ、衝動・情動に突き動かされるのである。つまり、非合理主義化がそこにはあるのである。これが狂気なのである。 自我はもともと優越感をもっているので、狂気と傲慢さが混合した複合的な病理状態になるのである。うつ病、パラノイア、「分裂症」等の複合的な病理症状となるのである。端的に、自我の精神病化である。 とまれ、超越神の空虚化とは、結局、Media Pointの差異共響エネルギーを反動化させた非合理主義・狂気衝動を近代的自我にもたらすものであるということになった。これがある意味でポスト・モダンの様態である。自我の精神病化である。 Media Pointのエネルギーが活火山の如く、「どっどど、どどうど、どどうど、どうど」と活動しているのであるが、それを自己同一性は塞止め、その反動エネルギーで狂気化しているのである。言い換えると、同一性価値への非合理主義的衝動・情動が生起するということである。つまり、貨幣交換価値への見境のない衝動が生じるのである。狂気の貨幣交換価値への衝動が生まれるのである。それが、マネー・ゲームでありサブプライムローンである。狂気の同一性中心主義である。 狂気の同一性中心主義(金融資本自由主義)は、社会・自然・文化を破壊する。それは、いわば、人類・地球世界のガン細胞である。 結局、Media Pointの純粋差異共響エネルギーを肯定することになるのではあるが、それ以前に、倒錯同一性中心主義はどうなるのだろうか。過度の冷酷無残凄惨陰惨な格差・狂気・犯罪・戦争等々をもたらすだろう。しかし、ポスト・モダン資本主義自体にどのような影響を与えるのであろうか。 簡単に言うと、差異価値から同一性価値を引きだしている資本主義システムであるが、「狂気」の同一性中心主義は自身の母体である差異価値を破壊して、自壊することになると考えられるのである。正に、ガン細胞さながらである。エントロピー増大である。 結局、過剰な同一性価値から差異価値へと還流させる差異共響価値経済が必然であることになると考えられるのである。差異共響価値投資が中心化されると考えられるのである。これは、差異共同体価値投資ということである。 そう、同一性資本主義から差異共振資本主義への転換である。トランス・モダン・キャピタリズムである。 p.s. 差異価値から同一性価値へと変換するのが資本主義ならば、同一性価値を差異価値へとフィードバックする差異共振経済とは、資本主義を乗り越えたものと考えられるので、トランス・キャピタリズムである。超越資本主義である。
2008年02月16日(Sat)▲ページの先頭へ
同一性中心主義の末路:超越神の真空化と差異共響エネルギーの反動化:差異共響価値創造資本主義:Ver2
超越神の穴について考えて、はやくも行き詰まってしまったので、方便の意味も含めて、視点を変えて考えよう。
自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、同一性志向性が発生した後の、左辺の状態について考えよう。これまで述べたことを繰り返すと、多神教的意識においては、Media Pointが開放の状態で、両辺がそれなりに知覚されているが、一神教(ユダヤ・キリスト教)的意識においては、Media Pointが閉鎖されて、かつ、それが分化して、左辺が超越神となり、右辺が父権的自我となるということであった。言い換えると、一神教的意識(父権的意識)においては、Media Pointが否定・排除・隠蔽される(抑圧)されるということである。 後者は、父権的自我ないしは近代的自我の様態であると考えられる。これは、同一性志向性の帰結として、考えられるだろう(あるいは、そのように仮説する)。 後者の初期においては、超越神・「父」・「天」が、価値として存していた。それは、いわば、超越的価値であり、道徳になったと言えよう。儒教の価値観の根源もここにあるだろう。【思うに、フロイトが言った超自我の根源はこれであろう。】父権的価値である。 ここにあるのは、二項対立的な、同一性中心主義である。デリダのいうロゴス中心主義である。そして、これが、今日の資本主義を動かしている形而上学的原理である。構造主義的原理である。そう、結局、ポスト・モダン理論は、このロゴス中心主義を解体できなかったのである。デリダの脱構築主義は、実質的には、ロゴス中心主義、すなわち、同一性中心主義、同一性自我中心主義(同一性自己中心主義の方がより正確かもしれない)を脱構築・解体できなかったのである。【私見では、結局のところ、資本主義自体が解体、乃至は、自壊し始めているのである。同一性中心主義が過剰になり、たとえば、サブプライムローン問題を引き起こしたのである。これは、同一性中心主義狂気と考えられる。】 この同一性中心主義が自壊するというのは、どういうことなのだろうか。超越神・一神教的二項対立(この用語は実は、不正確である。優劣絶対的二元論とでも言った方がいいかもしれない)価値観が支配している。超越神・超越的価値が同一性価値を保障しているのである。つまり、資本主義経済で言うならば、同一性価値である貨幣価値を保障しているのは、超越神・超越的価値なのである。言い換えると、超越神価値がある限り、同一性価値=貨幣価値=交換価値は絶対的に保障されることになるのである。ユダヤ・キリスト教的価値観が資本主義経済を保障しているのである。【もっとも、ユダヤ・キリスト教的価値観の世俗・物質的帰結が資本主義経済であると言う方が、論理的であろう。】 さて、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における一神教(ユダヤ・キリスト教)的力学は、以上述べたように、左辺(超越神)と右辺(同一性)とに絶対的に分離するというものである。そして、Media Pointがそこでは、抑圧されて、隠蔽されているということである(Split Media )。【思うに、西洋文化とは、このユダヤ・キリスト教文明の表看板とは別に、Media Point的文化を取り戻そうとする志向性をもっていると言えよう。ルネサンスがそうであるし、また、芸術、哲学、神秘学等もそうである。つまり、人類の大根源である東洋文化を取り戻そうとしているのである。双魚宮(魚座)文化としての西洋文明である。】 ここで多神教的力学を見ると、それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺を共存させているのであり、Media Pointを中心的価値観としてもっているのである。だから、例えば、神道では、三柱の神(三つ巴)という根本原理が生まれるのである。【つまり、三柱の神とは、左辺の差異共振・共鳴・共響性を意味するということである。】 多神教文化とは、ConMedia文化であると言えよう。それに対して、一神教文化とは、いわば、DisMedia文化であろう。問題は、この相違の原因である。母権文化(太母文化)と父権文化の発生力学は何かである。母権力学と父権力学である。 これまでの考え方では、同一性志向性の最終段階が父権文化であり、いわば、その過程が母権文化(多神教文化)である。言い換えれば、エネルゲイア文化が母権(太母)・多神教文化であり、エンテレケイア文化が父権・一神教文化ということになる。【エネルゲイアとは、エネルギーであり、活動態であり、エンテレケイアとは終局態であり、帰結である。つまり、同一性・物質である。】 だから、母権(太母)・多神教文化の進展として父権・一神教文化があるということであり、それは、一つのサイクルと考えられるだろう。つまり、あるエネルゲイア(エネルギー)の放出の過程としてのサイクルであり、父権・一神教文化において、終焉するということであり、また、新たなエネルゲイア(エネルギー)の発生・発出・放出が考えられるということである。つまり、新たな母権(太母)・多神教文化が誕生するということである。 この母権/父権文化のプロセス・サイクルであるが、これまで、私は、太極原理が根本にあると考えてきたのであり、太極原理のもつ螺旋的回帰性を考えているのである。【ここで少し言うと、占星術・占星知は、この太極原理と関係していると推測しているのである。これは、これで、また、大研究を必要とするのである。】とりあえず、以上で、母権文化と父権文化の力学を統一的に説明できるのである。 そのように統一的に、即ち、太極原理の視点から見ると、当然、父権文化は解体することがわかるのである。正に、自然(じねん)である。これを自然(しぜん)と見ることは、完全な誤りである。これは、いくら強調しても強調し過ぎることはない。無為自然(むいじねん)の自然である。 ここで、所期のテーマにもどると、超越神の穴・空虚・影・闇はどういう力学をもつのか、という問題である。太極原理から見ると、明らかに、それは、エネルギーを喪失したのであり、もはや、そのあり方、即ち、父権・一神教文化の様式からは、新しいエネルギーは生まれないということを意味する。父権・一神教文化のエネルギーの枯渇が生じているのである。そして、この真空は何を意味するのかということなのである。真空はどういう力学をもつのか、ということである。それは、価値観の根拠の喪失である。つまり、既成価値の無価値化である。つまり、同一性価値の無価値化である。同一性価値・貨幣交換価値の無価値化である。【p.s. 同一性価値の無価値化と言ったが、手段としての同一性価値は当然残るであろう。差異共響価値資本における量的計算は同一性価値=貨幣に拠るだろう。】 また、恐怖の情動が生起するだろう。そして、内なる闇(シャドウ)を外界へと投影して、仮想敵を作るだろう。たとえば、悪魔としてのイスラム過激派(アルカイダ)である。 問題は、真空自体の力学である。それは何か。思うに、同一性価値を固持するための衝動・情動が起きると思われるのである。もはや、超越的次元からは、創造的エネルギーが発生しないから、同一性価値固持・維持のための「力」をどこからか必要とするのである。いったい、どこから、その「力」を得るのだろうか。その衝動・情動の発生はどこからなのだろうか。 推察するに、それは、永遠のエネルギーの源泉であるMedia Pointから発する差異共響エネルギー(差異共振・共鳴・共感・共心エネルギー)の突き上げからではないだろうか。当然、反動エネルギーとなっているのである。【差異共響エネルギーを純粋に取り込むには、同一性価値自体が解体する必要があるのである。つまり、自我(近代的自我)自体が解体して、差異を受容する自己(自己身体)へと変質する必要があると考えられるのである。差異共鳴身体へと変容させる必要があるのである。しかしながら、同一性は同一性であり、それは、必然的なものなので、同一性を包摂する差異共響性が必要である。(この点は既述済みなのでここでは説明しない。)p.s. 同一性自己を差異共鳴身体へと変質させる仕組みについては後で説明したい。同一性と差異共鳴身体との融合である。】 Media Pointから発するエネルギーを自己同一性主義は、いわば塞止めているのであるが、しかし、それ自身は枯渇しているので、その他者の差異共響エネルギーに突き上げられ、衝動・情動に動かされるのである。つまり、非合理主義化がそこにはあるのである。これが狂気なのである。 自我はもともと優越感をもっているので、狂気と傲慢さが混合した複合的な病理状態になるのである。うつ病、パラノイア、「分裂症」等の複合的な病理症状となるのである。端的に、自我の精神病化である。 とまれ、超越神の空虚化とは、結局、Media Pointの差異共響エネルギーを反動化させた非合理主義・狂気衝動を近代的自我にもたらすものであるということになった。これがある意味でポスト・モダンの様態である。自我の精神病化である。 Media Pointのエネルギーが活火山の如く、「どっどど、どどうど」と活動しているのであるが、それを自己同一性は塞止め、その反動エネルギーで狂気化しているのである。言い換えると、同一性価値への非合理主義的衝動・情動が生起するということである。つまり、貨幣交換価値への見境のない衝動が生じるのである。狂気の貨幣交換価値への衝動が生まれるのである。それが、マネー・ゲームでありサブプライムローンである。狂気の同一性中心主義である。 狂気の同一性中心主義(金融資本自由主義)は、社会・自然・文化を破壊する。それは、いわば、人類・地球世界のガン細胞である。 結局、Media Pointの純粋差異共響エネルギーを肯定することになるのではあるが、それ以前に、倒錯同一性中心主義はどうなるのだろうか。格差・狂気・犯罪・戦争等々をもたらすだろう。しかし、ポスト・モダン資本主義自体にどのような影響を与えるのであろうか。 簡単に言うと、差異価値から同一性価値を引きだしている資本主義システムであるが、「狂気」の同一性中心主義は自身の母体である差異価値を破壊して、自壊することになると考えられるのである。正に、ガン細胞さながらである。エントロピー増大である。 結局、過剰な同一性価値から差異価値へと還流させる差異共響価値経済が必然であることになると考えられるのである。差異共響価値投資が中心化されると考えられるのである。これは、差異共同体価値投資ということである。 そう、同一性資本主義から差異共振資本主義への転換である。トランス・モダン・キャピタリズムである。 同一性中心主義の末路:超越神の真空化と差異共響エネルギーの反動化:差異共響価値創造資本主義
超越神の穴について考えて、はやくも行き詰まってしまったので、方便の意味も含めて、視点を変えて考えよう。
自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、同一性志向性が発生した後の、左辺の状態について考えよう。これまで述べたことを繰り返すと、多神教的意識においては、Media Pointが開放の状態で、両辺がそれなりに知覚されているが、一神教(ユダヤ・キリスト教)的意識においては、Media Pointが閉鎖されて、かつ、それが分化して、左辺が超越神となり、右辺が父権的自我となるということであった。言い換えると、一神教的意識(父権的意識)においては、Media Pointが否定・排除・隠蔽される(抑圧)されるということである。 後者は、父権的自我ないしは近代的自我の様態であると考えられる。これは、同一性志向性の帰結として、考えられるだろう(あるいは、そのように仮説する)。 後者の初期においては、超越神・「父」・「天」が、価値として存していた。それは、いわば、超越的価値であり、道徳になったと言えよう。儒教の価値観の根源もここにあるだろう。(思うに、フロイトが言った超自我の根源はこれであろう。)父権的価値である。 ここにあるのは、二項対立的な、同一性中心主義である。デリダのいうロゴス中心主義である。そして、これが、今日の資本主義を動かしている形而上学的原理である。構造主義的原理である。そう、結局、ポスト・モダン理論は、このロゴス中心主義を解体できなかったのである。デリダの脱構築主義は、実質的には、ロゴス中心主義、すなわち、同一性中心主義、同一性自我中心主義(同一性自己中心主義の方がより正確かもしれない)を脱構築・解体できなかったのである。(私見では、結局のところ、資本主義自体が解体、乃至は、自壊し始めているのである。同一性中心主義が過剰になり、たとえば、サブプライムローン問題を引き起こしたのである。これは、同一性中心主義狂気と考えられる。) この同一性中心主義が自壊するというのは、どういうことなのだろうか。超越神・一神教的二項対立(この用語は実は、不正確である。優劣絶対的二元論とでも言った方がいいかもしれない)価値観が支配している。超越神・超越的価値が同一性価値を保障しているのである。つまり、資本主義経済で言うならば、同一性価値である貨幣価値を保障しているのは、超越神・超越的価値なのである。言い換えると、超越神価値がある限り、同一性価値=貨幣価値=交換価値は絶対的に保障されることになるのである。ユダヤ・キリスト教的価値観が資本主義経済を保障しているのである。(もっとも、ユダヤ・キリスト教的価値観の世俗・物質的帰結が資本主義経済であると言う方が、論理的であろう。) さて、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における一神教(ユダヤ・キリスト教)的力学は、以上述べたように、左辺(超越神)と右辺(同一性)とに絶対的に分離するというものである。そして、Media Pointがそこでは、抑圧されて、隠蔽されているということである(Split Media )。【思うに、西洋文化とは、このユダヤ・キリスト教文明の表看板とは別に、Media Point的文化を取り戻そうとする志向性をもっていると言えよう。ルネサンスがそうであるし、また、芸術、哲学、神秘学等もそうである。つまり、人類の大根源である東洋文化を取り戻そうとしているのである。双魚宮(魚座)文化としての西洋文明である。】 ここで多神教的力学を見ると、それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺を共存させているのであり、Media Pointを中心的価値観としてもっているのである。だから、例えば、神道では、三柱の神(三つ巴)という根本原理が生まれるのである。(つまり、三柱の神とは、左辺の差異共振・共鳴・共響性を意味するということである。) 多神教文化とは、ConMedia文化であると言えよう。それに対して、一神教文化とは、いわば、DisMedia文化であろう。問題は、この相違の原因である。母権文化(太母文化)と父権文化の発生力学は何かである。母権力学と父権力学である。 これまでの考え方では、同一性志向性の最終段階が父権文化であり、いわば、その過程が母権文化(多神教文化)である。言い換えれば、エネルゲイア文化が母権(太母)・多神教文化であり、エンテレケイア文化が父権・一神教文化ということになる。(エネルゲイアとは、エネルギーであり、活動態であり、エンテレケイアとは終局態であり、帰結である。つまり、同一性・物質である。) だから、母権(太母)・多神教文化の進展として父権・一神教文化があるということであり、それは、一つのサイクルと考えられるだろう。つまり、あるエネルゲイア(エネルギー)の放出の過程としてのサイクルであり、父権・一神教文化において、終焉するということであり、また、新たなエネルゲイア(エネルギー)の発生・発出・放出が考えられるということである。つまり、新たな母権(太母)・多神教文化が誕生するということである。 この母権/父権文化のプロセス・サイクルであるが、これまで、私は、太極原理が根本にあると考えてきたのであり、太極原理のもつ螺旋的回帰性を考えているのである。(ここで少し言うと、占星術・占星知は、この太極原理と関係していると推測しているのである。これは、これで、また、大研究を必要とするのである。)とりあえず、以上で、母権文化と父権文化の力学を統一的に説明できるのである。 そのように統一的に、即ち、太極原理の視点から見ると、当然、父権文化は解体することがわかるのである。正に、自然(じねん)である。これを自然(しぜん)と見ることは、完全な誤りである。これは、いくら強調しても強調し過ぎることはない。無為自然(むいじねん)の自然である。 ここで、所期のテーマにもどると、超越神の穴・空虚・影・闇はどういう力学をもつのか、という問題である。太極原理から見ると、明らかに、それは、エネルギーを喪失したのであり、もはや、そのあり方、即ち、父権・一神教文化の様式からは、新しいエネルギーは生まれないということを意味する。父権・一神教文化のエネルギーの枯渇が生じているのである。そして、この真空は何を意味するのかということなのである。真空はどういう力学をもつのか、ということである。それは、価値観の根拠の喪失である。つまり、既成価値の無価値化である。つまり、同一性価値の無価値化である。同一性価値・貨幣交換価値の無価値化である。 また、恐怖の情動が生起するだろう。そして、内なる闇(シャドウ)を外界へと投影して、仮想敵を作るだろう。たとえば、悪魔としてのイスラム過激派(アルカイダ)である。 問題は、真空自体の力学である。それは何か。思うに、同一性価値を固持するための衝動・情動が起きると思われるのである。もはや、超越的次元からは、創造的エネルギーが発生しないから、同一性価値固持・維持のための「力」をどこからか必要とするのである。いったい、どこから、その「力」を得るのだろうか。その衝動・情動の発生はどこからなのだろうか。 推察するに、それは、永遠のエネルギーの源泉であるMedia Pointから発する差異共響エネルギー(差異共振・共鳴・共感・共心エネルギー)の突き上げからではないだろうか。当然、反動エネルギーとなっているのである。【差異共響エネルギーを純粋に取り込むには、同一性価値自体が解体する必要があるのである。つまり、自我(近代的自我)自体が解体して、差異を受容する自己(自己身体)へと変質する必要があると考えられるのである。差異共鳴身体へと変容させる必要があるのである。しかしながら、同一性は同一性であり、それは、必然的なものなので、同一性を包摂する差異共響性が必要である。(この点は既述済みなのでここでは説明しない。)】 Media Pointから発するエネルギーを自己同一性主義は、いわば塞止めているのであるが、しかし、それ自身は枯渇しているので、その他者の差異共響エネルギーに突き上げられ、衝動・情動に動かされるのである。つまり、非合理主義化がそこにはあるのである。これが狂気なのである。 自我はもともと優越感をもっているので、狂気と傲慢さが混合した複合的な病理状態になるのである。うつ病、パラノイア、「分裂症」等の複合的な病理症状となるのである。端的に、自我の精神病化である。 とまれ、超越神の空虚化とは、結局、Media Pointの差異共響エネルギーを反動化させた非合理主義・狂気衝動を近代的自我にもたらすものであるということになった。これがある意味でポスト・モダンの様態である。自我の精神病化である。 Media Pointのエネルギーが活火山の如く、「どっどど、どどうど」と活動しているのであるが、それを自己同一性は塞止め、その反動エネルギーで狂気化しているのである。言い換えると、同一性価値への非合理主義的衝動・情動が生起するということである。つまり、貨幣交換価値への見境のない衝動が生じるのである。狂気の貨幣交換価値への衝動が生まれるのである。それが、マネー・ゲームでありサブプライムローンである。狂気の同一性中心主義である。 狂気の同一性中心主義(金融資本自由主義)は、社会・自然・文化を破壊する。それは、いわば、人類・地球世界のガン細胞である。 結局、Media Pointの純粋差異共響エネルギーを肯定することになるのではあるが、それ以前に、倒錯同一性中心主義はどうなるのだろうか。格差・狂気・犯罪・戦争等々をもたらすだろう。しかし、ポスト・モダン資本主義自体にどのような影響を与えるのであろうか。 簡単に言うと、差異価値から同一性価値を引きだしている資本主義システムであるが、「狂気」の同一性中心主義は自身の母体である差異価値を破壊して、自壊することになると考えられるのである。正に、ガン細胞さながらである。エントロピー増大である。 結局、過剰な同一性価値から差異価値へと還流させる差異共響価値経済が必然であることになると考えられるのである。差異共響価値投資が中心化されると考えられるのである。これは、差異共同体価値投資ということである。 そう、同一性資本主義から差異共振資本主義への転換である。トランス・モダン・キャピタリズムである。 超越神はどこに行ったのか:近代的自我の末路としての精神病
先に、 同一性による差異の排除力学という長年(近代的自我の狂気という問題意識から数えると、10年は考え続けてきた)に渡る問題がようやく解決できたのであるが、http://ameblo.jp/renshi/
entry-10072754057.html その副産物として、超越神の穴(喪失)が問題として浮上してきた。つまり、こういうことである。超越神と父権的自我(近代的自我はここに含まれる)が同時生起するのであり、これは、プロテスタンティズムにおいても生起したと考えられるが、近代合理主義の進展とともに、超越神が衰退してくる(世俗化)が、そのとき、超越神の穴はどうなるのか、である。 もっとも、アメリカ人の90パーセントは信仰者であるということで、それなりに超越神は生きているのだろうが、しかしながら、衰退は否めないだろう。つまり、超越神のもつエネルギーが初期プロテスタンティズムのようにはもはやなく、衰退していると考えられるということである。 では、その超越神の穴はどうなるのか、という問題である。言い換えると、近代合理主義をもつ近代的自我はどうなるのか、ということでもある。 思うに、ハイデガーが直面したのも、この穴であろう。そして、それを「存在」で覆おうとしたのではないのか。近代的ニヒリズムである。そう、言うの忘れていたが、ニーチェの言及した神の死とは、以上の事態を指したものである。 超越神の空虚の意味である。いったいこれは何を意味するのか。超越神の死とは何を意味するのか。ユダヤ・キリスト教の神の死とは何を意味するのか。 先の考察に由れば、Media Pointが二分化されて、Split Mediaとなり、超越神と父権的自我(近代的自我)が生まれる。しかし、これは、同一性志向性というエネルギー(物質エネルギー)を放出するのである。すると、当然、エネルギーの消滅が起こるのである。残るのは、超越神の穴と父権的自我(近代的自我)である。 この空虚を満たすことが、西洋近代文化の一つの側面であった。思うに、アメリカ人が信仰をもつというのは、この点から見て、逆説的であろう。つまり、空虚だから、信仰で満たそうとするのだろう。 私の直感では、空虚は実に恐ろしいものである。おそらく、それを隠蔽するために、近代合理主義を強化すると考えられるのである。つまり、過度の近代合理主義が起こるのである。空虚に蓋にするようにして、近代合理主義の意志をもつのである。 しかしながら、問題は、空虚のもつ力学である。(これは、ほぼポスト・モダン問題である。この点については既述済みなので、ここでは述べない。)超越神のエネルギーがあるときは、父権的自我は、それに対応するような姿勢をとるだろう。しかしながら、超越神が空虚になったとき、思うに、それは、闇になるのである。その闇が父権的自我にはたらきかけると思われるのである。端的に言えば、その闇が、父権的自我の影の支配者になっていると思われるのである。言い換えると、超越神の影が父権的自我を支配すると思われるのである。だから、父権的自我は、いわば、無意識の支配を受けているのである。 では、超越神の穴・超越神の影の力学とはどのようなものだろうか。ここでも直感で言おう。その闇は父権的自我を襲うのである。狂気となって父権的自我を襲うのである。これはどういうことなのか。 これは、単純である。超越神の穴・影・闇とは、虚軸に存するのであり、それは、実軸にある父権的自我は認識不可能なのである。超越次元における穴・空虚・影・闇なので、父権的自我にとっては、まったく得体の知れないものなのである。だから、それはただ非合理衝動となって父権的自我を襲うのだと思う。狂気衝動である。 そして、また、枯渇したエネルギーを満たすには、Media Pointを開く必要があるのであるが、父権的自我は、Media Pointを抑圧しているので、新鮮なエネルギーが得られずに、さらに枯渇するのである。いわば、うつ病的状態になると考えられるのである。 結局、狂気とうつ病が襲うのである。狂気は父権的自我を衝動化するのである。非合理衝動で突き動かし、Media Pointを抑圧するように攻撃・暴力的になるのである。それは、パラノイア的であり、また、分裂的である。 父権的自我である近代的自我の運命とはこのようなものである。つまり、父権的文明の破滅の事態が生じるということになるのである。
2008年02月15日(Fri)▲ページの先頭へ
同一性による差異の排除力学について:Media Pointの開放(多神教)と閉鎖(一神教)
ある意味で性懲りなくであるが、理論的には精緻化を目指しての反復であるが、本件について考察したい。
いったいなぜ、この問題に明晰な解明が為されないのだろうか。考えてみると、この問題は今から4年前の不連続的差異論のときからのものである。 不連続的差異論の生まれたときの考えを想起すると、メディア平面というものを仮定して、その一面では不連続的差異が他面では連続的差異が存するとしたのである。そして、同一性は当然、後者の連続的差異から発生するのである。連続的差異が構造とも言っていいものである。 この考えから見ると、メディア平面が境界となって、差異、即ち、不連続的差異を排除しているのであり、それは、きわめて明快である。いわば、メディア平面が壁となり、不連続的差異を隠蔽しているのである。 直観的に言えば、メディア平面が不連続的差異をシャットアウトしているのである。しかるに、プラトニック・シナジー理論で考えると、同一性による差異の排除の説明が不明瞭となるのである。これはどうしたことなのか。 思うに、プラトニック・シナジー理論の視点を不連続的差異論に適用すれば、プラトニック・シナジー理論が明快になるのではないだろうか。即ち、差異共振性は、不連続的差異の側面に存し、同一性は他の側面に存するとすればいいのではないだろうか。 では、多神教において、差異共振性が認識されているというのは、どう説明がつくのだろうか。それは、メディア平面の両面を認識していたということになるだろう。つまり、差異共振面は、神(神道で言えば、三柱の神)の側面であり、同一性面は現象面(多神的現象)であるという理解ではないだろうか。ニーチェで言えば、ディオニュソスとアポロの両面である。 では、問題は、一神教、父権的宗教・神話(宗教と神話をほとんど区別していないが、宗教は、信仰・儀礼生活をもつものであるのに対して、神話は信仰・儀礼が物語へと転換したものであると言えよう)の場合、メディア平面を喪失して、というか、メディア平面の一面=現象面と超越神の二元論になってしまうことの意味であろう。後者の超越神の次元が重要である。 これは、多神教の視点から見ると、差異共振面が隠れたのである。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Pointや虚軸次元が隠れたと言えよう。しかしながら、単純に、実軸次元の現象界だけが生じたのではなく、隠れた差異共振面、Media Pointが超越神になったということではないだろうか。 この超越神化が最重要なポイントである。つまり、ここには、一種の切断があるのである。問題は、超越神化をどう理論的に説明するのかである。 思うに、やはり、エネルギーの発出を見るべきである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における、同一性志向性である⇒が一神教の志向性であると思う。そして、⇒の左辺が超越神化されたのであり、右辺が被造物と考えられる。この同一性化のために、左辺の差異共振性は一神教化されたと言えるだろう。考えてみると、聖書において、ヤハウェとエローヒーム(神の複数)の二つの神の名があるのであるが、エローヒームが多神教の名残と言えるだろう。つまり、差異共振性の名残であろう。それが、同一性志向性によって、一神教化へと進展して、ヤハウェが中心化されたと言えるだろう。だから、聖書の段階では、多神教と一神教の間で揺らいでいたと言えるだろう。そして、ユダヤ教とキリスト教がそれを一神教に固定・ドグマ化したと言えるのではないだろうか。 とまれ、以上から、本テーマが解明されたのではないだろうか。整理すると、多神教においては、Media Pointが実存していて、虚軸の差異共振性・超越性と実軸の同一性とが共存・共立しているのであるのに対して、一神教においては、エネルギーの賦活と放出によって、同一性志向性が強化されて、虚軸性と実軸性とが分離して、前者が超越神となり、後者が被造物になったのであり、同一性志向性によって、虚軸性は多神教から一神教へと転換されたと考えられるということである。 そう考えると、簡単に言うと、⇒の起点と終点が共存している(Media Pointが開放系となっている)のが多神教であり、起点と終点が分離して(Media Pointが変質して、二分化・二元論化された:Split Mediaと呼べるだろう)、終点が強化されたのが一神教であると言えるのではないだろうか。 また、言い換えると、前者は太極が生動しているのであるが、後者は太極が極限化して、陽が極大化した様態ではないだろうか。そのために、陰が超越神化されたように思えるのである。そうすると、興味深いことに、ヤハウェとは、陰の神になるのである。確かに、嫉妬深い神であり、一種ヒステリー状態である。悪い意味で女性的である。月である。ここで想起するのは、神秘学者のシュタイナーが、ヤハウェを月に留まった太陽霊と考えていたことである。 すると、今日、トランス・モダンを迎え、Media Pointが回帰することになるのであるが、それは、太極の回帰であり、真の太陽神の回帰であろう。新たな天の岩戸の開扉である。神道の復活、新神道の誕生である。
2008年02月14日(Thu)▲ページの先頭へ
同一性中心主義の解体へ向けて:日本語言論と神仏文化のルネサンスへ向けて
我々が陥っている近代主義の「ブラックホール」からのエクソダスの方法について述べたい。
差異と同一性については、うんざりするほど述べてきたが、また後で別稿で言いたいと思うのであるが、ここでは、言論の最重要性について述べたい。これは、同時に、メディアの問題であるし、また、現代日本語の有り様の問題でもある。 日本社会が今日おそろしく停滞し混迷していて、危機的状況であるのは、一つは言論が生きていないことにあると思う。幸い、ブログというミクロ・メディアを今日手にすることができたので、自由に言論を発することができるようになり、これは、「民主主義」の大きな前進である。 しかしながら、ブログのある種の限界も見えてきているだろう。それは、多様なブログが存在しているが、社会に重要な提言をするブログが一般には注目されずに終っているということである。つまり、ブログのパブリック性の問題である。とまれ、これについては、ここではこれ以上述べない。 私は今日、日本社会・政治・経済・文化が途方もない危機に陥っていると考えている。一言で言えば、知的麻痺状態である。文化的痴呆状態である。この根因の一つには、言論が衰退していることにあると思う。(言論をここでは広義にとる。文学も言論として取りたい。) そう、言葉、日本語、口語・文章語の衰退でもある。つまり、言論と言語・言葉の衰退が今日生じて、日本総体の衰退の原因ともなり、またそれと平行していると考えられるのである。 私事であるが、最近、古い日本語を読み、その鮮烈さに感銘を受けたのである。岡倉天心の『茶の本』(村岡博訳:先にも述べたが、これは達意の名訳である)、徳富蘆花の『自然と人生』(一部)、宮沢賢治の「ビジテリアン大祭」等であるが(さらに以前には、聖書の古文訳を読み、その生命に驚いた)、それぞれ、今から見ると、確かに、古風であるが、それでも、今日に通じる生き生きとした日本語である。日本語の古典である。 どれも、戦前であることに注目すべきであろう。三島由紀夫の文体よりもはるかに律動があるのである。おそらく、日本人は、戦後において、精神を喪失したのである。そう、生きた言論を生むのは、精神である。魂であり、心である。それを、日本人は喪失したのである。 三島由紀夫がいみじくも言った「断絃の時」とは、戦後において生じたと言えよう。日本人の精神の死である。 これについては既に何度も述べたので詳述しないが、一言いえば、日本の伝統文化である神仏文化が否定されたことであり、近代合理主義が金科玉条になったことである。 そう、近代科学主義が戦後日本を支配し、今日も支配しているのである。言い換えると、唯物論が支配しているのである。これは、金融資本主義を跋扈させるのである。自由主義経済社会、自由主義・民主主義社会とは、本来、個(己・自己・自)の自由な発展に基づく社会である。 しかるに、唯物的科学・技術が支配的であると、それは、個を自我に限定して、近代的自我に変質させてしまうのであり、それが戦後・現代日本に生じたことだと考えられるのである。 個(以下、個己)の自由な発展ではなく、近代的自我の我が侭が中心化されてしまったのである。もっとも、これは、日本だけでなく、世界において大なり小なり起ったことと考えられる。 西洋におけるルネサンスとプロテスタンティズムは、自由な個己の勃興を意味したのであり、それが、明治維新日本にも文化的に押し寄せたと言えよう。しかしながら、近代西洋自体、文化的に混乱して、近代合理主義と個己主義とが混交していたのである。それが日本に押し寄せたのである。 強く指摘すべきことは、明治維新以後の日本において、精神文化が芽生えたことがあげられるだろう。ある意味で明治日本とは、日本文化ルネサンスであったと考えられるのである。漱石を始め、優れた文豪が生まれ、また、宗教・哲学・科学等においても独創的な探求が生まれた。 簡潔に言えば、明治維新後において、日本文化ルネサンスが生まれたのであり、それは、日本的個己主義が創造されたのである。そして、それは、実は、差異共振主義であったと考えられるのである。宮沢賢治の思想はコスモス的であるが、それは、宇宙的差異共振主義、宇宙的差異共同体主義である。 問題は、明治維新後の日本文化ルネサンスとは別に、軍国主義が発生して、自国や外国を地獄に突き落としたことである。戦後、連合国占領軍によって、「日本改造」が行なわれて、日本文化のエッセンスである神仏文化が根こそぎにされたのである。それは、恐るべきヴァンダリズムであったと言えよう。 戦後日本とは、肝を抜かれた日本であり、文化的に死せる日本であったと言えよう。もっとも、戦後民主主義は、それなりに市民・国民に希望を与えた。しかしながら、自国の文化を喪失した上での民主主義であり、それは浅薄なものである。民主主義は本来西洋文明の土壌の上で発達したものである。 とまれ、近代主義という限定があったとは言え、民主主義は、個己を認める政治理念であると評価することができるだろう。しかしながら、今日、近代主義が飽和した状態において、民主主義は生ける屍になってしまった。 個己主義を肯定するならば、近代主義を越えて、トランス・モダンへと進化する必要があるのである。それは、ある意味で、明治維新・日本文化ルネサンスへと螺旋的に回帰することになるだろう。神仏文化を取り戻したトランス・モダン・ジャパンになるだろう。 そう、これは、当然ながら、近代科学主義・唯物論を超越することになるのである。また、これは、現代の同一性交換価値中心の金融資本主義を超越することになるのである。当然、戦後を支配した、自民党近代主義を超越することになるのである。公共投資利権政治を超越することになるのである。 このトランス・モダン・ジャパンへと進化するには、ここで私が一番主張したいことである日本語言論のルネサンスが必要なのである。言葉、言葉、言葉である。言葉はいわば思想・精神・知性の容れ物であるが、いわば、相即不離である。言葉の衰退は思想・精神・知性の衰退であり、逆も同様である。 今日、同一性中心主義である金融資本主義が権力化している。それは、自由な言論を封殺するものである。また、メディアを買収して、御用記事を書かせるのである。そう、金融資本主義という化け物が支配しているのである。これは父権的同一性中心主義の帰結である。 これを突破するためにも、自由な言論が必要なのである。金権力は暴力で支配するのである。その支配に対抗するには、言論のルネサンスが必要があるし、日本語のルネサンスが必要であるし、日本伝統文化である神仏文化の復興が必要なのである。 それは、当然、唯物論の超克でもある。戦後の唯物科学教育を乗り越える必要があるのである。心、魂の死からの復活が必要なのである。そう、日本語の古典に帰る必要がある。温故活魂である。魂言復活である。 差異共振主義である己由共振体経済へ向けて:食料における同一性価値中心主義が問題だろう
食料における同一性価値中心主義が問題なのではないだろうか。確かに、安価なものは魅力的である。百円ショップや99円ショップに目が行くのである。しかしながら、差異価値を考えると、単純に経済合理主義では済まないないだろう。同一性価値と差異価値とのバランスが必要である。
商品価値と交換価値の問題。後で検討。 愚痴:それにしても、私のような経済の素人が、経済「学」を考えなくてはならないとは、どういうことなのか。経済理性学があってしかるべきである。経済合理主義ではなく、経済理性学である。 経済理性学が生まれないのは、経済は欲望・権力・暴力・狂気・獣性等と関係しているので、反理性主義に陥るからではないだろうか。そう、経済哲学が必要なのだろう。 つまり、自由主義経済とは何かという問題が根幹となるだろう。プロト・モダンにおいては、差異共振性が発現していたと考えられるが、エネルギーの放出の結果、同一性中心主義になってしまったのである。つまり、自由主義が自我中心主義・利己主義に転じたのである。 自由とは、本来、差異において、Media Pointに存するのである。民主主義も本源は、差異にあったのであるが、それが、同様の結果となっているのである。つまり、近代の末期・終末に現代、達していると考えられるのである。ポスト・モダンは、真のポスト・モダンではなく、過渡期であった。真のポスト・モダンは、トランス・モダンである。 だから、トランス・モダン自由主義経済を考えるべきであろう。これは、差異共振主義経済ということであり、差異共振共同体経済である。(民主主義も差異共振化すべきである。) このトランス・モダン自由主義とは、自由差異共振主義とも言えるだろう。ここでは、単に経済だけでなく、政治が重要なハブとなるのである。差異共振主義理念によって、共振社会体(共同体)を構築するような政策が重要になるだろう。 後で検討したい。 p.s. 英語では、freedomはfree fromで束縛からの自由であり、liberalは、自由人の自由である。東洋文化において、自には、優れて哲学・宗教的な意味がある。自然(じねん)、自性(じしょう)、等。「おのずから」である。これは、自己・「こころ」・魂からということである。Media Pointからということである。そう、老子の無為自然は、「むいじねん」であろう。 この意味で自由を考えるべきである。言葉が誤用されているので、自由を個由・己由とするといいのかもしれない。個由主義、己由主義である。己由主義経済、これは、同一性を包摂した差異共振経済を意味していると考えられる。己由共振体経済である。 [中国製ギョーザ]人為的混入を否定、共同捜査提案…中国 2008年02月13日22時44分 トラックバック(10 ) トラックバック 【北京・浦松丈二】中国製冷凍ギョーザの中毒事件で、中国国家品質監督検査検疫総局の魏伝忠副総局長(次官級)は13日、記者会見し、「(有機リン系殺虫剤の)人為的混入の形跡は見つかっていない」と述べた。一方で、公安当局が独自に捜査を進めているとして、日本の警察当局と中国の公安当局による共同捜査を提案した。 魏副総局長によると、日本生活協同組合連合会から提供を受けた冷凍ギョーザを調べた結果、殺虫剤は検出されなかったという。12日には、李長江総局長(閣僚級)らが製造元「天洋食品」の工場を再び視察したほか、生産記録を詳しく調べたというが、「生産から輸出までの各段階で異常はなく、人為的な破壊の可能性はほぼ存在していない」と強調した。 殺虫剤が密閉された包装袋内部から検出されたことについても「開封したものを再び密封することは可能だ」と述べ、工場内での人為的な混入を裏付けることにはならないとする認識を示した。 一方、公安省が6人の専門家による捜査チームを現地に派遣したほか、河北省の公安当局が工場従業員への事情聴取を行ったことも明らかにした。さらに、「中日の警察当局が共同調査機構を設立するよう提案する」と表明し、日本の警察当局者の訪中受け入れにも前向きな姿勢を示した。 中国当局者が捜査経過を公表するのは極めて異例。日本での対中感情の悪化を懸念しているとみられる。 http://news.livedoor.com/article/detail/3508769/
2008年02月13日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:同一性志向性とは何か:超越的双極差異(イデア)のMedia Pointゼロ度相互否定(相互反射)仮説
⇒+1の同一性暴力の意味について考えたい。差異共振性を否定するその暴力の起源は何か。差異共振性というエネルゲイアの結果であるエンテレケイアの同一性がどうして、差異共振性という母体を否定するのか。言い換えると、生成した物質はどうして、根源のイデアを否定するのか、ということである。この排除の力はどこから発生するのか。
ここで思考実験すると、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺が、Media Pointにおいて、相互否定作用を起こすと仮定しよう。即ち、(+i)⇔(-i)であり、(+i)^2・(-i)^2となるとしよう。即ち、(-1)・ (-1)=+1である。これが、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺ではないのか。 もしそうならば、同一性は差異共振性において、双極差異が相互否定した結果、生成することになる。深層において、確かに、Media Pointが実存するが、それを否定・排除・隠蔽するように同一性・自我が発生するということではないのか。 もしそうだとするなら、問題は、太母宗教(多神教)と父権宗教(一神教)との違いの説明である。先に、前者は自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺を残し、後者は左辺を否定・排除して、右辺中心であると言ったのであるが、それをどう説明できるのか、ということである。 思うに、前者は、多元(多神)的同一性の発生過程を捉えているのであり、そのため、左辺を残しているのではないのか。差異共振性から双極差異が相互否定化して物質化(現象化)するという創造(造化)を捉えていると言えるのではないだろうか。例えば、神道の場合、三柱の神(三つ巴)による造化(産霊むすひ:結びと言っていいのではないだろうか)ということで、左辺から右辺へ生成を把捉しているのではないだろうか。 端的に言えば、Media Pointを把握・理解しているということである。つまり、認識が自我認識ではなく、差異認識、差異共振認識を行なっているということである。 それに対して、父権宗教(一神教:主にユダヤ・キリスト教)の場合は、差異共振性を否定した同一性の形成が中心化されているということではないだろうか。つまり、双極差異の自己否定から発しているのであり、それ以前の根源の差異共振性が隠蔽されているということではないだろうか。ヤハウェは「我在りて、在り余れる神なり」という神であるから、当然、自我の神である。「光あれ」とは、正に、自我発生を意味するだろう。即ち、⇒+1である。つまり、創世記の神霊は、同一性の神霊ということだろう。根源の双極差異を相互否定させる同一性の神霊である。即ち、(+i)・[-(-i)]における-(-i)の最初の-が同一性の神霊と考えられる。同一性・相互否定・自乗の神霊である。そう、物質現象の神霊と言える。だから、創造神というのは、その意味で、正しいのである。 ならば、さらに問題は、この同一性とはどこから発しているのか、である。つまり、同一性志向性はどこから発しているのか、である。作業仮説であるが、ゼロ度反射、Media Pointにおけるゼロ度反射を仮定しよう。ここにおいて、双極差異±iは自己反射して、各々、(+i)^2=-1と(-i)^2=-1になるのではないだろうか。そして、それらの積が+1ということではないだろうか。 もしそうながら、同一性志向性とは、Media Pointゼロ度自己反射から生成するということになるだろう。言い換えると、Media Pointゼロ度とは、鏡なのではないだろうか。そして、ゼロ度自己反射=鏡(Media Point Mirror)によって、鏡像、双極鏡像が発生するのではないだろうか。そして、この双極鏡像が一体化して、同一性=物質=自我現象が発生するのではないだろうか。 また、(+i)^2=-1と(-i)^2=-1の箇所であるが、正しくは、(+i)^2⇒-1と(-i)^2⇒-1であり、前者が心、後者が身体になるのではないだろうか。つまり、心身二元論の発生である。正確に言えば、西洋心身二元論の発生である。mind&bodyの二元論である。 それに対して、東洋太母文明では、Media Pointを心と捉えていたと思う。だから、心と言ったとき、西洋文化と東洋文化では混乱・混同が生じるのである。また、魂と言ったとき、それは、超越的双極差異のことを指すだろう。つまり、イデアである。では、霊とは何かと言えば、それは、魂と心の両面を指すのではないだろうか。そうならば、Media Pointの心を明確にするために、気心・魂心とでも呼ぶべきかもしれない。 とまれ、西洋の心とは、いわば、同一性化された心である。自我的な心である。物質化された心である。因みに、スピノザの心身平行論を考えると、それは、上記の心身二元論をベースにしているわけであるが、平行論において、心は、実は、Media Pointの心、すなわち、気心・魂心が入っていると考えることができよう。今はここで留めることにする。 差異共振性(双子)と同一性(自我・片割れ):エネルギーのエンテレケイア(終点)としての父権暴力:Ver 2
先に、民主主義に関して、同一性における差異・特異性の必要を述べたが、それは正しいのであろうか。認識の問題であり、根本的である。
認識するとき、対象(差異)を初め同一性化(言語化)するように思われる。知覚において、ある対象が存するが、それは、判然としていない。それを同一性化=言語化して把握するのである。そして、言語化とは一種の物質化であると思う。 しかし、微妙な問題は、差異の排除の問題である。初期知覚(原知覚)において、差異をなんらか捉えていると思われるのである。つまり、認識主体の Media Pointから対象を「知覚」しているのある。即ち、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の様相である。差異共振相である。しかしながら、認識主体は、同一性化=言語化へと進展するのである。このとき、差異が排除されるのである。しかしながら、認識主体は、最初は、差異が同一性から切り離されるのを知っていると思われるのである。つまり、認識主体は、自己が、いわば、双子であるのを知っているの思うのである。【自己認識方程式(+i)*(-i) ⇒+1の左辺は双子を意味しているように思えるのである。】 つまり、初めに、差異共振(双子)ありき、である。その後、言葉が発生するのである。言葉への意志が⇒で、言葉が+1であろう。そして、これが、自我でもあり、また、同一性認識でもある。これは、また、物質でもあろう。【ヨハネの福音書では、初めにロゴス(言葉)ありき、になっているが、それは、ミスリーディングないしは誤りであると考えられる。しかし、ロゴスを理性とするならば、それは、正しいだろう。真の理性は、Media Pointに存すると考えられるからである。根本理性ないしは超越理性である。】 同一性認識が形成されるとき、自我は、最初は排除した片割れを知っていると思うのであるが、その後、自我が進展すると、それを忘却すると思われるのである。双子であった自己を忘却して、単体の自我であると思い込むのである。自己盲目・無明の発生である。この事態が双子の神話や兄弟殺しの神話に表現されていると思うのである。カストルとポルックス、海幸・山幸、カインのアベル殺し等々である。【因みに、最古の叙事詩と考えられている『ギルガメシュ叙事詩』であるが、英雄ギルガメシュと朋友のエンキドゥーも一種双子ないしは兄弟の神話を意味しよう。そして、エンキドゥーが犠牲として亡くなるというのは、一種の兄弟殺しを意味するのではないだろうか。父権制は、双子・兄弟から兄弟殺しへの転換をも意味すると考えられる。参照:ディオスクロイ http://ja.wikipedia.org/wiki/ %E3%83%87%E3%82%A3%E3%82 %AA%E3%82%B9%E3%82%A F%E3%83%AD%E3%82%A4 】 そして、この問題に鏡像が関係してくるのである。ここに哲学的根本問題があると言っても過言ではないだろう。【メルロ・ポンティがこの問題を探求したが、後一歩及ばなかったのではないかと推測される。】思うに、双子は賢者・知者なのである。あるいは、ソフィア(叡知・知恵)である。しかし、それが同一性化=言語化へと向かうとき、双子を否定して、自我知を形成するのである。双子は、無意識となるが、自我知を認識しているのである。つまり、ここでは、自我とは、第三者であろう。ということは、三つ子となるのではないだろうか。それとも、双子を一人と考えて、二人と数えるのか。この問題はおいておこう。 とまれ、自我中心主義が発生する以前は、差異共振の双子と同一性の自我が存しているのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺の状態が「知覚」されているのである。そして、この自己認識の光学は実に不思議である。本当は、双子が根源的光(超越光)であり、自我が派生した物質的光(ほぼ現象光)であり、いわば、前者が光であり、後者が闇であるが、それが反転して、前者が闇、後者が光となるのである。おそらく、また、前者が無、後者が有と認識されるのである。【ヤコブ・ベーメ等の神秘主義者が、根源を闇と表現したのは、この反転した様態においてと見るべきであろう。あるいは、三島由紀夫が無と見たものも同様である。仏教の絶対無も同様であろう。】思うに、ニーチェが自身の哲学の光学についてよく述べていたが、それもこの意味で解すべきであろう。ニーチェの初期のディオニュソスとアポロという概念も同様であると考えられる。 ここで宗教・神話について触れると、太母神話は、自己認識方程式の両辺を肯定的に残しているのであるが、父権神話は、左辺を否定して、右辺を肯定する力学になっているのである。言い換えると、光学の反転・逆転が生じているのである。価値観の逆転があるのである。 さて、冒頭で述べた、私説の民主主義批判における、同一性における差異・特異性の問題であるが、これは、結局、これまで述べてきた、超越性と同一性との即非性の問題に帰結することがわかるのである。対象は同一性であると同時に、差異(差異共振性)であるということである。これを、比喩的に、双子認識と言ってもいいだろう。それに対して、同一性・自我の認識を片割れ認識と言ってもいいだろう。とまれ、同一性における差異・特異性の問題はこれで解明されたこととしたい。 結局、民主主義は片割れ認識しかなく、不幸な認識の状態であると言えよう。それは、自己認識・双子認識が欠落しているのである。【p.s. ここは、少し短絡的かもしれない。民主主義は、根源的には、Media Pointから発しているが、それが、同一性認識に吸収されてしまっているのである。これは、キリスト教の隣人愛と同質の様態であるように思える。また、本居宣長の大和心とも通じるように思える。結局、Media Pointの自我同一性化である。このとき、差異共振性・共感性(造語して、共心性)は、自我感情移入になると思われるのである。後で精査したい。】 最後に、太母神話と父権神話の力学について、また、検討したい。これに関係する事柄は、これまで、百回くらいは論じた問題である。 結局、どうして、自我は差異共振性を否定するような力学を帯びるのかということである。太母神話・多神教の場合は、同一性(エジプト神話で言えば、オシリス、ギリシア神話では、アポロ、神道では日御子)が生じても、差異共振性(イシス、ディオニュソス、天之御中主神)が顕在しているのに対して、父権神話では、たとえば、バビロニア神話のように、英雄マルクトが、母なる怪獣ティアマトを殺戮して、そこから天地を創造するのである。【聖書では、太母神は、無になっているだろう。】 いったい、この力学はどこから発生したものなのか。差異共振性(双子)を否定する力はどこから生まれたのかである。父権暴力の発生である。 私はこれまで、太極原理から説明したが、それでも、判然としていないのである。つまり、理屈にはなるが、解明ではないのである。あるいは、同一性への根源的な傾斜ということで説明したが、それでも、釈然としないのである。 ここで少し迂回しよう。直感では、父権暴力は、弱さをもっているのである。自己を見つめられないと(内観できない、省察できない)いう弱さをもっているのである。だから、ある刺激に対して、反動的に反応するのである。自我同一性をもって反応するのである。つまり、認識主体が、内観が欠落して、外界観察のみなのである。 ここで、先に述べた、+1が(+i)*(-i)を否定するということを想起して考察しよう。+1とは、自我認識・同一性認識・物質認識・外界認識である。この認識は、(+i)*(-i)を認識できないのである。【ここは、ほとんどカントの純粋理性批判である。カントの理性は、混乱しているのではないだろうか。同一性と差異が混淆しているのではないだろうか。つまり、差異共振知と同一性知が混淆していると考えれる。そこで、アンチノミーが発生すると考えられるのである。もっとも、カントは、Media Pointを同一性論理で捉えようとしたとは言えるのではないだろうか。カントには、即非の論理の発想が全くなかったのである。とまれ、後で検討したい。】+1が優位になったとき、(+i)*(-i)が排除されることになるのである。 問題は、+1が優位になる力学である。言い換えると、近代主義の力学である。デカルト哲学である。これは、意外に簡単なことなのではないのか。つまり、エネルギーの進展の問題である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、エネルギーの方向性を示しているのではないのか。つまり、左辺から右辺へとエネルギーが流れて、右辺へと帰結するということではないのか。換言すると、エネルゲイア(活動態)がエンテレケイア(終局態)になるということではないのか、ということである。 そう考えると、父権暴力とは、エネルギーの帰結として発生するということになるだろう。物質暴力と言ってもいいだろう。同一性暴力でもいい。だから、当然、エネルギー様態は左辺から右辺へと傾斜しているということであり、当然、自我同一性は、差異共振性を否定することになると言えるのである。これで説明できた。 では、父権的自己(自我主義)の弱さとは何か。それは、源泉である差異共振性、即ち、Media Pointを継続して排除せざるをえない状態にあることにあるのではないだろうか。つまり、差異共振性の否定を反復しないといけないと考えられるのである。本源に実存するものを反復的に否定しなくてはいけないである。つまり、一種病理的な状態にあるのである。【p.s. フロイトの反復強迫の概念は、この点から、捉え直されるべきであろう。そう、全般に、精神分析仮説は、プラトニック・シナジー理論の視点から、書き換えられるべきである。ついでに言えば、ユング心理学もそうである。結局、プラトニック・シナジー理論は心理学の革新でもある。それは、超越的心理学である。】このために、父権的自己(自我主義)は、仮想敵を必要とするのである。内的な否定・シャドウを投影するのである。【この内的な否定が、ニーチェの言うルサンチマンである。あるいは、ユダヤ・キリスト教的な憎悪である。キリスト教の愛とは、ニーチェがいみじくも喝破したように、憎悪と一如であろう。自我愛=隣人愛とは、差異共振性という共感性を否定しているのである。p.s. 罪の赦しとは何か、後で検討したい。】 永遠のエネルギーの源泉であるMedia Point(差異共振性)を否定する父権暴力のユダヤ・キリスト教西洋文明がようやく終焉しつつあるのであるが、これは、東洋で言えば、儒教的父権文明の終焉であろう。 新しい太母文明が生まれることになるが、夜明け前の闇は深く、超激震が襲うのである。 差異共振性(双子)と同一性(自我・片割れ):エネルギーのエンテレケイア(終点)としての父権暴力
先に、民主主義に関して、同一性における差異・特異性の必要を述べたが、それは正しいのであろうか。認識の問題であり、根本的である。 認識するとき、対象(差異)を初め同一性化(言語化)するように思われる。知覚において、ある対象が存するが、それは、判然としていない。それを同一性化=言語化して把握するのである。そして、言語化とは一種の物質化であると思う。 しかし、微妙な問題は、差異の排除の問題である。初期知覚(原知覚)において、差異をなんらか捉えていると思われるのである。つまり、認識主体の Media Pointから対象を「知覚」しているのある。即ち、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の様相である。差異共振相である。しかしながら、認識主体は、同一性化=言語化へと進展するのである。このとき、差異が排除されるのである。しかしながら、認識主体は、最初は、差異が同一性から切り離されるのを知っていると思われるのである。つまり、認識主体は、自己が、いわば、双子であるのを知っているの思うのである。【自己認識方程式(+i)*(-i) ⇒+1の左辺は双子を意味しているように思えるのである。】 つまり、初めに、差異共振(双子)ありき、である。その後、言葉が発生するのである。言葉への意志が⇒で、言葉が+1であろう。そして、これが、自我でもあり、また、同一性認識でもある。これは、また、物質でもあろう。【ヨハネの福音書では、初めにロゴス(言葉)ありき、になっているが、それは、ミスリーディングないしは誤りであると考えられる。しかし、ロゴスを理性とするならば、それは、正しいだろう。私は、真の理性は、Media Pointに存すると言っているのである。】 同一性認識が形成されるとき、自我は、最初は排除した片割れを知っていると思うのであるが、その後、自我が進展すると、それを忘却すると思われるのである。双子であった自己を忘却して、単体の自我であると思い込むのである。自己盲目・無明の発生である。この事態が双子の神話や兄弟殺しの神話に表現されていると思うのである。海幸・山幸、カインのアベル殺し等々である。 そして、この問題に鏡像が関係してくるのである。ここに哲学的根本問題があると言っても過言ではないだろう。(メルロ・ポンティがこの問題を探求したが、後一歩及ばなかったのではないかと推測される。)思うに、双子は賢者・知者なのである。あるいは、ソフィア(叡知・知恵)である。しかし、それが同一性化=言語化へと向かうとき、双子を否定して、自我知を形成するのである。双子は、無意識となるが、自我知を認識しているのである。つまり、ここでは、自我とは、第三者であろう。ということは、三つ子となるのではないだろうか。それとも、双子を一人と考えて、二人と数えるのか。この問題はおいておこう。 とまれ、自我中心主義が発生する以前は、差異共振の双子と同一性の自我が存しているのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺の状態が「知覚」され |