INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/02

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年02月29日(Fri)▲ページの先頭へ
自我とMedia Pointの関係:+1の近代的自我によるMPの否定としての-1の身体性
先に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、多神教力学と一神教力学を区別した。即ち、前者は、両辺が、いわば、開いているのであり、後者は、左辺が否定されて、右辺だけが開いているのである。そして、前者はエネルゲイア(活動態)であり、後者はエンテレケイア(終局態)であると言った。
 精神分析的に言えば、一神教力学は、左辺を抑圧・排除しているのである。(精神分析のいう「それ」は、物質的な性であり、精神的な性を見ていないのが根本的な欠陥であり、ユング心理学は、性を飛ばして、単に精神性へと飛躍しているのが問題である。ここでは、多神教的精神的性が問題であると思う。)
 しかし、抑圧・排除とは、実際は「実存」しているということである。プラトニック・シナジー理論で言えば、Media Pointが「実存」しているということである。(思うに、実存主義とは、Media Pointを震源とした思想であったと考えられるが、ニーチェやキルケゴールの二番煎じ・亜流であったと思われる。)
 だから、一神教力学、あるいは、近代的自我/近代合理主義力学では、この「実存」しているMedia Pointを「抑圧」しているということである。(今日、心の病が蔓延しているのは、近代的自我/近代合理主義の同一性中心主義の縛りが緩み、Media Pointの被抑圧が解除され始め、Media Pointの能動的エネルギーが発動しているためだと思われる。つまり、被抑圧の解除と抑圧の強化との齟齬が生じているために、病理状態になっていると考えられるのである。)この抑圧・被抑圧力学を自己認識方程式で見ると、どうなるだろうか。これが、本稿のテーマである。
 ⇒+1の力が、Media Pointを抑圧しているのである。それは無意識の抑圧であると考えられる。(思うに、この無意識の抑圧というのが、非合理的である。つまり、近代的自我/近代合理主義は基本的に非合理主義なのである。)抑圧されたMedia Pointとは、近代的自我から見ると-(+1)ということで、-1ではないだろうか。(そして、それがポスト・モダンになるのではないだろうか。これまで、私は、ゼロ点が、ポスト・モダンではないのかと思ってきたが、近代主義への反動として、 -1ではないだろうか。構造主義がゼロ点であろう。そして、神秘主義・オカルト主義も-1ではないだろうか。この問題はあとで検討したいが、一言言えば、近代的自我は連続性をもつので、差異も連続化させてしまうのである。ドゥルーズ哲学の場合が典型的であろう。差異=微分にしているのであるから。また、デリダ哲学の場合、差延とは、言わば、差異と同一性との未分化様態を意味すると考えられるが、それは、超越性を欠落させているので、±1の様態を意味するのではないだろうか。)
 とにかく、近代的自我(一般に自我)によるMedia Pointの遮断であるが、繰り返すが、+1によるMedia Pointの否定なのであるが、その否定されたMedia Pointは、近代的自我にどう振る舞うのだろうか。これまで、非合理衝動となると言ってきたのだが。
 端的に、Media Pointのエネルギーはどうなるのか、である。それは、否定されているために、-1になっているということでいいのではないだろうか。本来(+i)*(-i)の超越的エネルギーをもっているのであるが、それが否定されて-1ではないのか。
 そして、私が今想定しているのは、-1とは身体ではないのか、ということである。物質的身体ではなくて、内的身体のことである。先の考察に基づけば、 Media Point=魂=身体/共同体の身体のことである。つまり、-1には、Media Pointが含まれているのではないのかと思っているのである。
 以前、サマセット・モームの『月と六ペンス』における主人公(ストリックランド:ゴーギャンをモデル)の身体的霊性について述べたが、それが、ここであてはまると考えられるのである。即ち、近代的自我/近代合理主義への否定が芸術家にあり、その否定における意識には、霊性・精神性が生起しているのである。
 近代的自我/近代合理主義への否定とは、当然、内的身体性になると考えられるのである。この内的身体性が-1ではないのか、そして、そこには、差異共振性、即ち、(+i)*(-i)が内包されているのではないのか、ということである。
 ここで単純にモデル化すれば、Media Pointは-1と通じていて、+1とは切断されているということになるだろう。言い換えると、+1とはMedia Pointの間には壁が形成されているということである。つまり、+1に拠るMedia Pointの否定は、-1ということであろう。
 そうならば、問題は、-1の空間・場である。+1の空間とは、自我の空間であり、物資的身体の空間である。心身二元論の空間である。今、想定しているのは、-1の空間とは、内的身体であるということである。内的身体とは心的身体ということである。例えば、日本語で肚や「腑に落ちる」の腑であるし、英語では、heart(心臓と心)のようなものである。つまり、内臓と精神性の融合したものである。
 思うに、この内的身体=心的身体という考えは正しいだろう。何故なら、Media Pointとは、知と存在との共振性であるからである。言い換えると、心と物質的身体(厳密には、原形相と原質料)との共振性であるからである。当然、 Media Pointは内的身体=心的身体の空間に存しているのである。
 だから、近代的自我ないしは自己同一性主義によるMedia Pointの否定とは、当然、この内的身体=心的身体の否定にともなうと考えられるのである。
 問題は、この内的身体=心的身体の否定の位相である。つまり、Media Pointを内包していると考えられる内的身体=心的身体は、当然、自己意識をもつのであるが、その自己意識は自我意識そのものではない。もっとも、自己意識には、自我意識の側面は含まれてはいるが。とまれ、自己意識は内的身体=心的身体を基盤としているのであり、自身は内的身体=心的身体の先端であるということになるだろう。この先端とは端的には、頭であろう。(日本語で、心頭という言い方があるが、先端とは、この心頭の頭である。)
 結局、内的身体=心的身体と自己意識とは当然、連続的である。そして、自己意識の先端にある自我意識(自己同一性意識)が、近代化して、近代的自我/近代合理主義を形成する。それは、当然、Media Pointを内包する内的身体=心的身体を否定するものである。
 そして、近代主義を乗り越える試みである脱近代主義は、当然、この否定されたMedia Pointを内包する内的身体=心的身体を復活させるのである。
 脱近代主義は、この内的身体=心的身体(差異)を肯定し、近代的自我/近代合理主義(同一性)をするのであるが、最高に核心的問題は、自我意識と内的身体=心的身体の自己意識とは、連続態であることなのである。だから、意識が差異へと回帰しても、それは、同一性(自我意識)との連続性を保持・維持したままなのである。つまり、意識は、連続性をもって、内的身体=心的身体(自己意識=差異)に接するということである。だから、内的身体=心的身体に内包されているMedia Pointを連続性の視点から見てしまうという結果にほとんどなるのである。とりわけ、同一性中心主義(ロゴス中心主義)が支配的な西洋文化においては、そうであると考えられるのである。
 言い換えると、内的身体=心的身体-1が差異共振性である(+i)*(-i)を内包していることを認識できないのである。
 ここで、ポスト・モダン哲学について述べるが適切である。ドゥルーズ哲学の場合は、差異共振性を-1へと同化吸収させてしまい。差異=微分にしたのである。即ち、-1という差異と+1という連続同一性とを結合したのである。それに対して、デリダ哲学の場合は、-1における差延=痕跡を問題にして、+1の連続同一性との区別と両者の混淆性を指摘したように考えられるのである。つまり、差異共振性の痕跡のみを差延として取りあげて、差異共振性自体は否定しているのである。
 ということで、以上から、-1がもつ意味を考察した。結局、-1とは、自己同一性主義(近代的自我/近代合理主義)による、Media Pointを内包する内的身体=心的身体の否定を意味するのであり、それは、正に豊饒な空間を意味するのである。私が以前述べた身体的霊性をもつ空間と言えるのである。(オカルティズムは、それを同一性から逆に捉えて、霊にしてしまっているのである。倒錯である。)
 そして、この身体的霊性が、鈴木大拙が『日本的霊性』で指摘した日本の宗教性・精神性の核であると考えられるのである。そう、言い換えると、「大地」である。精神の大地である。(例えば、円空の彫刻には、この身体的霊性の野生のエネルギーが表現されているだろう。思うに、仏像は本来そういう意味をもっていたのではないだろうか。)
 さらに言うと、ポピュラー音楽のもつ大地の血とは、正に、この身体的霊性の生命であると言えよう。思うに、クラシック音楽も元々はこの身体的霊性から発しているのであるが、そのエネルギーを喪失して、洗練されたものになってしまっている。原初のエネルゲイアである身体的霊性を喪失しているのである。また、現代の美術もそういう傾向があるだろう。(「モダン・アート」とは、本来、そのような方向性をもっていたのであるが、モダニズムによって、同一性=構造へと還元された。例えば、モンドリアンやマレーヴィチらのように)。
 ここでついでながら言うと、地霊という観念であるが、それは、正に、土地という身体がもつMedia Pointのエネルギー=超越的波動であろう。龍脈という観念もほぼ同様であろう。
 最後に、身体的現象学を説いたメルロ=ポンティであるが、彼の言う身体とは、内的身体=心的身体と外的身体=物質的身体との連続性における身体であると考えられるのである。だから、それは、ポスト・モダン哲学の先駆であると考えられるのである。
 ポスト・モダンはハイデガーやメルロ=ポンティが元祖であり、トランス・モダンはニーチェやフッサールが元祖であると考えられる。また、ロシアのウスペンスキーがトランス・モダンをそこに含めることができる。彼の思想は、鈴木大拙が大乗仏教・禅の思想から取りだした即非の論理に通じるものであるが、即非の論理ほど明晰化されてはいない。日本では、トランス・モダンの原点は鈴木大拙であるが、絶対矛盾的自己同一の思想の西田幾多郎や偶然性の論理の九鬼周造にも確認できよう。
 最後に、仏教・大乗仏教について、本件の視点から言うと、それは、原トランス・モダン思想と言うべきである。空の論理は明らかに、Media Pointのもつ差異(差異共振性)・即非・同一性とを説いていると考えられるのである。
 問題は日本の仏教界である。この仏教のもつ哲学的叡知を喪失して、仏教が否定する世俗主義にどっぷり染まっていることである。つまり、反仏教としての日本仏教界である。有り体には、葬式仏教である。仏教は死んだら仏になることを説いているだろうか。そんなことは説いていないのである。『金剛般若経』的に言えば、死んだら仏にはならないのである。だから、仏になるのである。この仏・即非・非仏を理解していないのである。仏とは、ある意識のことである。 Media Pointの意識である。それは、形而上学ではなく、理論的かつ実践的なものである。実践理性としての仏である。


2008年02月27日(Wed)▲ページの先頭へ
ニュー・エコノミーへ向けて:投資と贈与:スケッチ1
ニュー・エコノミーへ向けて:投資と贈与:スケッチ1

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

経済の素人として、新しい経済のための構想を夢想したい。総合的視点から考察したい。
 今考えているのは、極性力学である。プラス・エネルギーがあれば、マイナス・エネルギーがあると考えられる。そこで思うに、投資は前者であり、贈与は後者である。結局、両者の共振的状態が社会の発展をもたらすのではないだろうか。
 投資は生産であり、贈与は消費と言っていいだろう。今日の問題は、生産に対して、消費が釣り合っていないことに存するのではないだろうか。消費と言っても、遊興的消費ではなく、積極的消費、能動的消費である。例えば、子供を育てる教育は、これに当たる。また、医療・福祉・環境保持もこれではないだろうか。
 問題は、生産・投資による利益が消費・贈与へと向けられていない点にあるのではないのか。また、生産・投資がそれ自体の発展へと十分に向けられていない点にあるのではないのか。
 問題は、行政府という中間存在・管理存在の機能である。税金を権力で取り、それらを管理すること、社会機構を維持しようとするのであるが、税金という資本の消費が、所謂、利権型公共投資となり、社会消費・社会贈与へと向かっていない点にあるのではないのか。
 私は企業が投資/贈与型ニュー・エコノミーになればいいと今思っている。それは、政府自体は、当然縮小するのである。企業自体が行政府的役割をもつようになるのであり、政府は法的役割中心に収縮するのである。もっとも、社会体にとっての中枢機能である教育・医療・福祉・農業等々の維持に関して、法的且つ経済的に政府が責任をもつべきではないだろうか。
 とまれ、簡単に整理すると、ニュー・エコノミーとは、投資/贈与の太極型経済であるというこである。それは、自由共同体資本主義である。それは、トランス・モダン資本主義である。
 国家主義的制約を資本主義と市民がのりこえて、自由共同体の創造へと転換するのである。以上は思いつき、素描に過ぎない。また、新たに検討したい。

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超越エネルギーの諸作用について:紋様とは何か:同一性形態と差異形態

テーマ:プラトニック・シナジー理論

超越エネルギーの諸作用について:紋様とは何か:同一性形態と差異形態

(注:以下、アゲハチョウの雌雄の差異を羽の紋様に見たが、実際は、雌雄の羽の違いは少ない。鳥の場合、毛の模様の違いが雌雄で大きいのである。だから、以下の試論は、その点勘違いがあるので、ここで予めお断りしたい。例をアゲハチョウではなく、鳥に限定すれば問題はないのである。また、後、フェロモン等に関する嗅覚について述べていないのも、不十分な点があるだろう。おそらく、匂いの感覚にも、超越エネルギーがあるのではないだろうか。)

ファッション哲学から派生して、蝶の羽の紋様や鳥の毛の模様等とは何だろうか、それらは、同一性=物質化以外の超越エネルギーによる作用ではないだろうかと思ったのである。
 蝶の羽の紋様等については、生物学等の知見があるだろうが、単純に考えて、いったいそれらは何の役に立っているのだろうか。擬態ということが言われるが、では、蝶の羽の紋様は何の擬態なのだろうか。
 ここで仮説は、それらは、超越エネルギーによる現象的形象であるということである。端的に言えば、同一性=物質化以外の超越エネルギーの形象化であり、それは、一種の差異化であるということである。
 先に自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における左辺の極性転換について言及したが、即ち、(+i)*(-i)と(-i)*(+i)の双極の様相もあるということであるが、例えば、前者を原オス、後者を原メスとすれば、両者は同一性=物質化としては、蝶であるが、例えば、アゲハチョウの場合は、前者と後者の質的差異が羽の紋様に顕現すると言えないだろうか。つまり、Media Point からの超越エネルギーの発動は、一方では同一性=物質化へと作用し、他方では差異=紋様化へと作用するのではないだろうか。
 Media Point におけるイデア振動が同一性的発現と差異的発現を引き起こしているのではないだろうか。そして、後者は、なんらか超越エネルギーを反照・映出・照応しているのではないのか。つまり、蝶における同一性=物質化した現象自体は、超越エネルギーの「変態」であり、そこには、超越エネルギーは物質エネルギーになっていると考えられる。E=mc^2である。しかしながら、蝶の羽の紋様形態・形象は、確かに、それも超越エネルギーの一種の物質化ではあるが、同時に、差異的顕現ではないだろうか、ということである。換言すると、即非的現象ではないのか、ということである。蝶の羽の紋様は、同一性=物質化・即非・差異化ではないのか、ということである。そして、その差異的顕現には、超越エネルギー自体が映出されているのではないのか、ということである。端的に言えば、蝶の羽の紋様は、超越エネルギーを放出・発出しているということである。
 そして、たとえば、オスの羽にある紋様、鳥ならば、オスの毛の模様から発する超越エネルギーに魅かれて、メスは性的に引き寄せられるのではないだろうか。(これは、単に、視覚的形象だけでなく、聴覚的形象にも当てはまるだろう。たとえば、鳥の囀りであるが、この「歌声」には、単に物質的音波だけでなく、超越的エネルギーが振動・波動として顕現しているのではないだろうか。囀りの超越的音楽、イデア音楽、コスモス・自然音楽である。円空の「木にだにも御形を移すありがたや、法の御音は谷のひびきか」という和歌があるが、せせらぎにも、仏法の超越的音楽があると言えよう。これらについては、別稿で検討したい。)
 この性的ということは、意味深長である。ここには、超越性が含まれているのである。つまり、聖性があるのである。宗教史的に言えば、多神教のもっている性と聖性との融合がここに見られるということである。(また、イギリスの作家、ウィリアム・ブレイクやD.H.ロレンスが性の聖性を唱えたのも自然の復興として考えることができるだろう。)
 以上、蝶の羽の紋様や鳥の毛の模様は、超越的エネルギーの差異的顕現であることを試論として述べたが、帰納的に敷延すれば、自然の形象すべてそのように言えないだろうか。たとえば、螺旋や渦巻き(陰陽のシンボル、三つ巴、勾玉、ヘルメスの二重螺旋等)であるが、それは、強く鋭く、超越エネルギーを喚起するのではないだろうか。文化史的には、永遠の形象と考えられているが、それは、端的に、超越エネルギーの差異的顕現の形象と考えることができるだろう。


2008年02月25日(Mon)▲ページの先頭へ
女性のエロチシズムとプラトニズム:超越的エネルギーとしてのファッション
先に以下のようにメモ書きした。

「女性のエロチシズムと超越エネルギーとしてのファッション

テーマ:美術・アート

ファッションについて、その超越エネルギー性ないしはファンタジー性を指摘したが、女性のエロチシズムは本来、Media Pointの開放系における超越的エネルギー(差異共鳴エネルギー)と考えられるので、ファッション志向とは女性のエロチシズムを意味するものではないだろうか。後でもう少し丁寧に考察したい。」
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10075309493.html

どうも、女性のエロスないしはセクシュアリティとは、プラトン主義的ではないかということがだんだん確信に近くなってきた。上記する以前に、私はプラトンとは女性ではなかったのかとふと「妄想」したものである。
 考えてみると、イデア論とは、前父権主義・前アーリア民族、即ち、母権文化の最後の名残を受けて生じた哲学であると私は考えている。つまり、太母神を哲学的に理論化したものがイデア論ではないのか思っている。また、確かに、古代ギリシアの父権文化の影響下に生まれたものであることも確かである。しかし、ベースは太母文化である。
 よく知られたようにプラトン哲学はエロースの哲学、イデア界へのエロースの哲学である。そして、また、美少年を愛することに存する哲学である。異性愛ではないのである。
 先に私は、女性作家が描く裸婦の不思議なエロチシズムについて言った。それは、一種同性愛的なエロチシズムである。それを、私は、プラトニック・エロチシズムとも言ったりした。
 そのようなことから考えると、やはり、女性のエロチシズムは、超越的エロチシズム、つまり、プラトニック・エロチシズムであると考えられるのである。それは、感覚を超越するエロチシズムである。官能を超越するエロチシズムである。もっとも、官能・感覚性を否定するのではなく、それを介して、超越性へと志向するエネルギーということである。
 ここからいろいろなことが考えられる。西洋哲学が起源のプラトン哲学をいまだに捉えられないのは、それが本質的に女性のエロチシズムの哲学であるからではないのか。ユダヤ・キリスト教西洋文明とは、ハードな父権文化である。父権主義、同一性中心主義(ロゴス中心主義)では、プラトン哲学は捉えられないと考えられるのである。
 そう、また、女性が一見どうしてプラトン哲学に魅かれないのかという問題もある。女性の本質はプラトニストだと思う。だから、プラトン哲学は自明なのではないだろうか。女性の意地悪さがあるだろう。
 そう、また、プラトン哲学は、東洋文化、とりわけ、神道・多神教・太母文化が把捉することができるはずである。プラトニック・シナジー理論が日本で生まれたのは、その点で必然性があると考えられる。後でさらに考察してみたい。

p.s. ニーチェがもし真理が女性のようなものだとしたら、これまで、哲学は真理を捉えそこなってきたのであり、鞭をもって女性(真理)のところへ行かなくてはならない云々と言っていた。
 真理が女性のようなものというのは、正しいが、鞭をもっては、どうだろうか。確かにじゃじゃ馬的性質もあるだろう。
 馬で思い出したが、白い馬と黒い馬の比喩があった。これは、前者がプラトニック・エロースであり、後者は感覚中心の欲望である。前者が女性のエロースであり、後者が男性のエロースではないのか。天上のエロース(天上のヴィーナス)と地上のエロース(地上のヴィーナス)。
 ニーチェのディオニュソスにしろ、ツァラトゥストラにしろ、それは、太陽神である。天照大神である。ニーチェは、ほとんど、トランス・モダンであった。
 
参考:
パイドロス
美について

プラトン 著、藤沢令夫 訳
岩波文庫


それは、ものの名前を制定した古人たちもまた、狂気(マニアー)というものを、恥ずべきものとも、非難すべきものとも、考えていなかったということである。
(中略)
神から授けられる狂気は、人間から生まれる正気の分別よりも立派なものであるということを、古人はまさしく証言しているのである。

p.53-54

ある夏の日の昼下がり、アテナイの郊外にあるイリソス川のほとりで行われた二人きりの対話。話題は美と恋(エロース)について──美しい自然に囲まれた舞台設定はそのテーマを見事に際立たせる。
エロスがテーマであっても『饗宴』のようなドギツさはなく、プラトニック・ラブの本質が燦然と輝くばかりに描かれる。とくに翼を持つ魂のイメージ──翼を持つ馭者が翼を持つ二頭立ての馬の手綱を操るイメージ──はあまりにも美しく、その飛翔する想像力には、まったく痺れてしまう。まさに宇宙的な広がりを見せ、イデアへの憧憬を募らせる。

ハンサム・ガイ、パイドロスを悩ましていたのは弁論家リュシアスのパラドックスであった。リュシアスは、恋する者よりも恋していない者に身をまかすべきだ、と、つまり恋愛は有害であると主張していた。その弁論家特有の巧妙な「テクスト」を読むだけで、パイドロスはリュシアスの詭弁に洗脳されそうになる。
無論、そんなことはあってはならない、とばかりに恋愛の達人ソクラテスは、リュシアスの「テクスト」に挑む。

この作品で面白いのは、実際にリュシアスが登場して対話を行うのではなく、リュシアスの「テクスト」について吟味をするという、まるでロラン・バルトのような「読み」(弁論術)をソクラテスがすることだ。まずはその「テクスト」の文体や構成を精緻に調べる。それから「内容」について反論するという変則的な「対決」が行われる。

内容的には、リュシアスの主張する「恋している者は狂気に獲り付かれている」ということに対し、ソクラテスは「狂気」こそが素晴らしいもので、神による贈り物であることを証明する方法を取っていく。

こういった中でプラトンの天才が伺えるのは、一見無関係のような弁論術と恋(エロス)がある時点で結びつくという「はなれわざ」を見せていることだ。すなわちここで翼のある馬(ペガサス)を乗りこなす馭者のイメージ=翼を持つ魂のイメージが天空(イデア)から地上へと降臨する。

それでは、そもそも弁論術とは、これを全体としてみるならば、言論による魂の誘導であるとはいえるのではないだろうか。

p.96

さすがプラトン。他にも、蝉はムーサの誕生に歓んだあまり食べることや飲むことも忘れて歌い続けた人たちが変身したものであるとか、魂が天球の外側に立ち世界を観照するとかいった、忘れ難いイメージが炸裂する。

しかしなんと言っても、この作品のテーマである美と恋(エロス)を翼のある魂のイメージと結びつけた以下の言説が最高であろう。つまり、
魂の翼を潤すためには、恋人(美少年)が放出する美の微粒子が必要なのだ、ということ。

Project Gutenberg による英文テクスト
Plato "Phaedrus"
http://w_passage.at.infoseek.co.jp
/book/i-nonfiction10.htm

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哲学講義19 - プラトン(7) 美のイデアとエロス -
今回は、プラトンの美とエロスについてお話します。(原語では、エロスではなくエロースですが、ここでは表記にはこだわりません。)プラトンの考える美やエロスについて述べる前に、余談を一つ。


「ベニスに死す」という映画があります。トーマス・マン原作の同名タイトルの小説をもとに、ルキノ・ヴィスコンティが映画にしたもので、昔、淀川長治という映画評論家が、世界で三本の指に入る美しい映画だと評していた記憶が残っています。小説では、主人公グスタフ・フォン・アッシェンバッハは作家ですが、映画では音楽家として描かれています。マーラーの5番アダージェットが映画のテーマ曲になっていることなどから、映画でのアッシェンバッハは、マーラーを模したものと想像されます。

体調不良のため、ベニスへ休暇旅行に出かけたアッシェンバッハが、滞在先でタッジオという名の美少年に出会い、年がいもなくこの美少年に一目ぼれして後を追いかけ、最後は、恋の病のためか、体調不良が悪化したためか、当地で流行していた伝染病がうつったためか、わかりませんが、タッジオを見ながら死んでしまう、という筋の話です。

全体に情景描写の多い映画で、初めて見る人には少々退屈に思える映画かもしれません。私はこの映画を高校生のときに友人に連れられて初めて見に行ったのですが、その時には、友人は満喫していましたが、私は退屈で仕方がなく、半分眠りながら見ていました。それでもタッジオ役のビヨルン・アンデルセンが美少年であることだけは、印象に残り、その後、どういうわけか、何度もこの映画を見ることになりました。

美とは、努力とは無関係に、突然現れるものか、美とは、努力の結果、現れるものか。アッシェンバッハは、作曲活動を通じて美を創造しようと努力しており、その意味で、美を努力の賜物と考えていたように思えます。そのアッシェンバッハがタッジオに出合ってその美を見たとき、美は努力と無関係に突然現れるものだという意見が脳裏をよぎることになったのかもしれません。

アッシェンバッハがタッジオの美を目の当たりにするとき、何を見ているのか。タッジオの美を見るときの、「美」が一体いかなるものなのか、と言われても、この映画をご覧になったことのない方には、何のことかわからないと思いますので、余談はこれくらいにして、プラトンにとっての「美」や「エロス」がどういうものだったのかを見ていくことにしましょう。
http://matsuura05.exblog.jp/d2004-02-19
古代ギリシア哲学と現代倫理学のページ


2008年02月24日(Sun)▲ページの先頭へ
グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である
グローバル時代におけるトランス・モダン知身体:身体なき知は邪悪であり、知なき身体は迷妄である

テーマ:トランス・モダン・コスモス

プラトニック・シナジー理論とは、文理融合理論であり、いわば、統一理論を志向している。個別の諸学に対する統一的フレームを与えると考えられる。
 この新しい知は、決定的に、トランス・モダン・インテリジェンスであり、近代主義からの切断を説いている。それは、近代的自我=近代合理主義=唯物論の乗り越えである。
 しかるに、現代日本において、政治・経済・文化の中枢部では、時代遅れの近代主義が主導的であり、日本の国力を衰退させているのである。また、国民は一般に快楽に浸っていて、知的麻痺状態である。恐るべき亡国状況である。
 今日の世界主義時代において、日本の状態は端的に反動状態であり、ほとんどのものが賞味期限が切れているのである。つまり、同一性の反復だけであり、創造性・質的発展が欠落しているのである。自己保身に陥っているのである。エネルギーが枯渇しているのである。
 この新しい知であるが、私は、知身体と言う方が時代に即したものではないかと思える。知とは本来、基盤を身体(Media Point)にもっているのであり、また、身体は同一性知性を形成させつつ、己(おのれ)へと再帰するのである。身体と知との即非様相があるのである。
 日本近代、とりわけ、日本戦後近代主義は、同一性知性(近代合理主義)を中心にしたものであり、根源の身体を喪失した知なのである。つまり、日本の身体を喪失した近代的知なのである。欧米模倣の知なのである。
 確かに、哲学・思想において、身体論が流行ったが、それは、近代主義への反動という面が強かったと言えよう(アイロニカルな没入)。
 結局、身体と知との結合・融合が必要なわけであるが、それが明晰に理論化、そして、実践化されなかったのである。
 とりわけ、日本の哲学・思想の混乱はひどい。本来、国民に新しい世界主義の時代に対応する知を提供すべきなのに、ポスト・モダン等々あるいは欧米文化の紹介に留まっているのである。
 とまれ、新しい世界時代に対応する新知として、私は、トランス・モダン知身体という考えを提示したい。身体なき知は皮相であり、知なき身体は盲目である。
 政治家・官僚・役人・財界人・文化人等々は、身体なき知(近代合理主義)=利権主義に留まっているので、新しい方策が生まれず、亡国状況となっていると考えられる。また、軽薄な映像文化が流行るが、それは、盲目の感性主義、知なき身体主義である。
 トランス・モダン知身体、そして、トランス・モダン知身体共同体を創造構築(創構)する必要があるのである。そう、人類は、文明進化の時代に入っているのである。同一性主義へと帰結したユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉があり、差異共振主義の新しい文明へと進化すべき現代状況なのである。
 実質的には、インターネットの役割が決定的であろう。これは、トランス・モダン・メディアである。これまでの知はモダンないしはポスト・モダンに過ぎず、グローバル時代において古色蒼然としているのである。これまでの知は反古である。
 トランス・モダン知身体社会創造へと向かうべきである。この新文明進化を、これまで政治・経済・学芸等を独占してきた支配層がいちばん恐れているのである。彼らは不要なのである。近代主義/ポスト・モダン的知はもはや廃棄物である。
 ヨハネ黙示録に倣えば、新しい天と地が到来しつつあるのである。

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「共同-体」とMedia Point=魂=身体⇔トランス・モダン共同体

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

共同‐体(コルプス) (単行本)
ジャン・リュック ナンシー (著), Jean‐Luc Nancy (原著), 大西 雅一郎 (翻訳)

ようやく、単行本で90ページに満たない本書を読み終えたが、既に述べているような感想は変わらなかった。原著は、1992年発行(邦訳は1996年発行)であり、グローバリゼーションが始動していた時期のものである。
 本書はブレークスルー的画期性と凡庸性をもっている。身体論から共同体論へと展開させている点が画期的であろう。しかしながら、身体を物質に限定している点が、唯物論的残滓であると思う。また、文学者気取りのレトリック(修辞)が多く、鼻につくのである。
 画期性は、ポスト・モダンの差異と同一性との連続性(ドゥルーズ)ないしは混淆(デリダ)を乗り越えている点である。だから、不連続的差異論の先駆者ではある。そして、身体=共同体において、ほぼMedia Pointの不連続点を捉えているので、プラトニック・シナジー理論の一つの先駆に見られるだろう。
 しかしながら、一番大きな問題点は、唯物論的視点である。身体=共同体=物質である。これでは、左翼的視点に留まってしまうのである。思うに、著書自体に矛盾があると思う。超越性でもなく、内在性でもない身体=共同体という発想をしているが、それは、正にMedia Pointの説明であると私は思った。Media Point の虚軸性は、超越的であるが、実軸性は内在性であり、しかも、それらが即非的位相にあるのである。即ち、超越的・即非・内在的である。以前、私は内在的超越性ということをいい、その後、それを否定して、そのままにしていたが、内在的・即非・超越的というのが、Media Point=魂=身体の様相であると考えられる。
 このように、鋭敏な洞察がありながら、物質主義に留まっているのである。(例えば、以下の引用の「重さ」という観念が、唯物論的なものだと考えられる。 Media Pointは、知・即非・存在であるから、軽み・即非・重みとなるのである。)これが、本書の画期的洞察をだいなしにしている。思うに、この物質主義的視点から、レトリックの多用が生じているのではないだろうか。ただ、物質的事柄を羅列するレトリックがあるのである。どういうことかと言えば、物質主義的視点があるので、物質的事物を羅列することになっていると考えられるのである。
 とまれ、本書から意義深い箇所を引用したい。そこで述べられている「プシュケ」とは、魂であり、同時に、身体であると考えられる。プラトニック・シナジー理論のMedia Pointである。だから、まとめると、Media Point=知・即非・存在=「プシュケ」=魂=身体=共同体である。

★★★引用開始★★★

【まさにこうした仕方で〈プシュケ〉は延長であるが、〈プシュケ〉はそのことについて何も知らない。〈プシュケ〉はここでは、「物質」の深奥の、基底をなす下位-層に則して先行措定されるのでもなく、自己-の-知という既に与えられた上位-層に則して先行措定されるのでもない限りにおける身体の名である。先行措定の二つの様態ともに潜勢態(ピュイサンス)のうちに留まったままで、その中で加えて両者は、あらゆる伝統を横断する形で、お粗末なほど観念論的な唯物論や、意味の起源(志向性、根源的時間性)といった常により狭隘な罠に自らしがみつく観念論として、止めどなく崩壊し衰弱していく---
----それに対して諸身体は到来しつつあり、諸身体の様々なアトムのクリナメン〔微小偏倚〕は既に場を持ち=生起し、既に様々な場を開き、世界のあらゆる裂開において互いに端から端までその様々な重さであることを実践している。だがこれは、確かに、「知」の事柄ではない、それは、重さであることの中に到来し、重みを量られるべきものとして奪いかつ与える身体の事柄である。それは「意味の根源」でも「根源の意味」でもない。それは、意味には根源はないからであり、それこそがそれそのもの、「意味」そのもの、根源ーなきー存在、延長ーされるべくー到来すること、創造されるーこと、あるいは重さであることであるからだ。
 紛れもなくこのことに対して=向けて、〈プシュケ〉は延長として現前するのであり、このことに対して=向けて〈プシュケ〉は間を割り裂かれ(アンテレッセ)、無限に外部転位される、〈プシュケ〉が負荷として担い、配慮し、情動=触発されるのはまさにこのことからであり、まさにこのようにして〈プシュケ〉は「現勢態(アクト)にある身体の形式」なのである。現勢態にある諸身体のみが存在し、各身体は〈プシュケ〉である、もしくは様々なアトムまた/あるいはソレ《renshi注:精神分析の基盤の無意識》の延長を通して独異な形で様態化された様々なプシュケ〔精神、自在鏡〕の配置である。】  p. 68

★★★引用終了★★★
 

参考:

ナンシーの著作は、多くが日本語に訳されています。その中心概念である共同性に焦点を当てて見ました。積極的な議論の一つの種になれば幸いです。

Nancy, Jean-Luc ジャン・リュック・ナンシー 1940年生まれ

略歴

1940年7月26日、フランスのボルドー近くのコデラン生まれ。1962年に哲学学位を取得した直後から、カール・マルクス、イマニュエル・カント、フリードリッヒ・ニーチェ、アンドレ・ブルトンといった著者についての本を出版。パリで哲学教授資格を取った後、1968年コルマールで短期間教師を務め、その後ストラスブールの哲学研究所の助手になる。現在もストラスブールに居住し仕事をしている。1973年にはポール・リクールの指導の元でカントについての論文で博士号を取得し、その直後からストラスブールの人文科学部で「助教授」をつとめる。1987年にはトゥールーズで、ジャック・デリダやジャン=フランソワ・リオタールらが審査員となり、国家博士号を授与される。ジェラール・グラネルの監修のもとに書かれたカント、シェリング、ハイデッガーの著作における自由の問題を扱った博士論文は、1988年に『自由の経験』として出版された。とはいえ、1987年以前から、すでに彼はアカデミックなキャリアを積み重ねていた。1970年代から80年代にかけてベルリン自由大学やカリフォルニア大学など様々なところで客員教授を務めていたほか、哲学教授として、東ヨーロッパを中心にフランス外務省の文化委員を務めていた。

しかし1980年代末に重病に陥り心臓移植を受け、その活動は突然終わりを迎えた。さらにガンとの闘病が重なり、その回復を遅らせた。これらの病気のために彼のキャリアは大きく変わり、今まで自分が務めていたほとんどの委員職を辞任しなければならなかった。最近また活動を再開したが、こういった闘病期間の間も驚くべきことに執筆や出版活動は精力的に続けていた。政治や社会や哲学的な話題に関わる彼の著作の多くは1990年代に出版されたが、2000年には自分の病気についての著作『侵入者』も書いている。そして60代になった今日、人間として哲学者として今まで以上に活発に世界中を飛び回っている。

http://www.saysibon.com/
yoriai_sub/jinbutsuarchive/NANCY.htm






2008年02月23日(Sat)▲ページの先頭へ
自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1について:差異共振方程式(+i)*(-i)⇒±1?
昨日、女性が描く裸婦には、いわば、エロティシズム(男性のもの:例えば、バタイユのそれ:「エロチシズムとは死に至るまでの生の高揚である」)がないと言ったが、これは、いったい何を意味しているのか。このような簡単なことが意外にわからないのである。【p.s.  思うに、当然ながら、そこには、男性のエロチシズムはないが、女性のエロチシズムがあるのではないだろうか。女性のエロチシズムとは、本当は、D. H. ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』にあるようなものである。差異共振的エロチシズムであり、これは、言うならば、プラトニック・エロチシズムであろう。】
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で考えてみると、例えば、女性の作家が+iで裸婦が-iであり、ヌード作品が+1になると考えられなくもないが、これでは、男性の作家の場合と区別がつかない。
 ここで思考実験すると、女性の画家が裸婦を描くときは、例えば、(-i)*(-i)⇒-1乃至は、(+i)*(+i)⇒-1になるのではないのだろうか。
 差異ではなくて、いわば、同一性共振である。-1は共感性ではないだろうか。この共感性が、女性が描く裸婦の絵画に表現されているのではないのだろうか。
 さらに敷延して言うと、民主主義とは、このようなものではないのか。平等とは、-1を意味するのではないのか。
 思うに、差異共振であるが、それは、いわば、差異を自己同一性として捉えようとすることではないのか。ここは、きわめて根本的な問題である。
 他者である差異を認めることとは、自己において、他者を容認することである。自己の中に、他者=差異を確認することである。それは、正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の位相である。
 ここで振り返ると、自我同一性とは、+iが差異共振性を否定したところに成立する。つまり、右辺である。
 今思ったのは、自己認識方程式の⇒を等号に変えれば、問題がないのではないだろうか。即ち、自己認識方程式(+i)*(-i)=+1である。思うに、⇒の場合が、同一性主義を意味するのであり、等号の場合は、差異共振性をも意味しているように思われるのである。
 言い換えると、父権文化(一神教文化)が(+i)*(-i)⇒+1であり、母権文化(多神教文化)が(+i)*(-i)=+1ではないのか、ということである。
 この視点を、裸婦の作品に適用すると、男性が描く裸婦は前者であり、+1というエロチシズムが生まれるが、女性が描く裸婦は+1であるものの、左辺の差異共振性が同時存在するので、エロチシズムが否定されるのではないだろうか。これが、私が昨日言った、エロチシズムがあるようでないという即非様相を説明するのではないだろうか。つまり、差異共振等式(+i)*(-i)=+1というものが仮説できて、これは、右辺であると、同時に、左辺であるということではないのか。この場合の「同時に」とは明らかに、即非性である。だから、等号は、実は不等号でもある。だから、等号の換わりに⇔を使用する方が的確であろう。即ち、差異共振方程式(+i)*(-i)⇔+1である。
 そうすると、上述した同一性共振の-1の仮定は不要になるのである。後でもう少し検討したい。

p.s. -1の意味が問題として残っている。差異共振した場合の内面を考えよう。【ここで問題としているのは、トランス・モダン的差異共振であり、プレ・モダン的差異共振ではない。言い換えると、いったん、同一性自己+1を形成した後の差異共振形成のことである。即ち、(+i)*(-i)⇒+1⇒(+i)*(-i)である。最後の(+i)*(-i)は、高次の差異共振性であり、最初の(+ i)*(-i)⇒+1とは質的に異なるのである。この点については、表記の仕方を含めて、後でさらに検討したい。】
 差異共振した場合、他者=差異-iは、自己における他者・差異となっているだろう。もっとも、同一性として同化されたわけではない。あくまでも、他者=差異-iである。しかしながら、共振様相においては、単なる他者=差異-iでもない。この共振状態における他者=差異-iとは何だろうか。
 当然、即非様態における他者=差異-iである。「私」は「私」でありながら、「他者」である。あるいは、「私」は「私」ではなく、「他者」であり、且つ、「他者」ではない、等々である。思うに、思うに、「私」は「私」ではなく、「他者」であるというのが、-1のことではないだろうか。同一性自己は+1 であり、差異的自己が-1なのではないだろうか。そう、「他者」である自己が-1ではないだろうか。
 すると、自己認識・差異共振方程式は、(+i)*(-i)⇒±1となるのではないだろうか。そして、ここで、本件のテーマにもどれば、女性の描く裸婦とは、やはり、-1でいいのではないだろうか。とまれ、後で整理したい。

参照:エトルリア美術(エトルリアとは古代イタリアないしはイタリア先住民の国である。ローマ帝国に滅ぼされた。)。イギリスの作家D. H. ロレンスは『エトルリアの地』で、エトルリアが東洋的な古代文明を最後の残りであることを説いている。つまり、母権文化であるということである。また、ロレンスは今日のイタリア人が、ローマ帝国の人間の末裔であるというよりは、エトルリアの末裔であると述べているが、それは、イタリア人に接したものならば、首肯できることであろう。


画像をクリックすると大きなサイズで見られます。
http://en.wikipedia.org/wiki
/Image:Etruskisches_Paar.jpg
http://www.japanitalytravel.com
/lazio/etruschi.html
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/
publish_db/2000Afterlife/01/0101.html
Etruscan art
From Wikipedia, the free encyclopedia
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Etruscan wall-painting

Etruscan art was the form of figurative art produced by the Etruscan civilization in northern Italy between the 9th and 2nd centuries BC. Particularly strong in this tradition were figurative sculpture in terracotta (particularly life-size on sarcophagi or temples) and cast bronze, wall-painting and metalworking (especially engraved bronze mirrors).

http://en.wikipedia.org/
wiki/Etruscan_art


自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1について:差異共振方程式(+i)*(-i)=or⇔+1
画像付きの記事は以下にあります。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10074783128.html

昨日、女性が描く裸婦には、いわば、エロティシズム(男性のもの:例えば、バタイユのそれ:「エロチシズムとは死に至るまでの生の高揚である」)がないと言ったが、これは、いったい何を意味しているのか。このような簡単なことが意外にわからないのである。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1で考えてみると、例えば、女性の作家が+iで裸婦が-iであり、ヌード作品が+1になると考えられなくもないが、これでは、男性の作家の場合と区別がつかない。
 ここで思考実験すると、女性の画家が裸婦を描くときは、例えば、(-i)*(-i)⇒-1乃至は、(+i)*(+i)⇒-1になるのではないのだろうか。
 差異ではなくて、いわば、同一性共振である。-1は共感性ではないだろうか。この共感性が、女性が描く裸婦の絵画に表現されているのではないのだろうか。
 さらに敷延して言うと、民主主義とは、このようなものではないのか。平等とは、-1を意味するのではないのか。
 思うに、差異共振であるが、それは、いわば、差異を自己同一性として捉えようとすることではないのか。ここは、きわめて根本的な問題である。
 他者である差異を認めることとは、自己において、他者を容認することである。自己の中に、他者=差異を確認することである。それは、正に、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の位相である。
 ここで振り返ると、自我同一性とは、+iが差異共振性を否定したところに成立する。つまり、右辺である。
 今思ったのは、自己認識方程式の⇒を等号に変えれば、問題がないのではないだろうか。即ち、自己認識方程式(+i)*(-i)=+1である。思うに、⇒の場合が、同一性主義を意味するのであり、等号の場合は、差異共振性をも意味しているように思われるのである。
 言い換えると、父権文化(一神教文化)が(+i)*(-i)⇒+1であり、母権文化(多神教文化)が(+i)*(-i)=+1ではないのか、ということである。
 この視点を、裸婦の作品に適用すると、男性が描く裸婦は前者であり、+1というエロチシズムが生まれるが、女性が描く裸婦は+1であるものの、左辺の差異共振性が同時存在するので、エロチシズムが否定されるのではないだろうか。これが、私が昨日言った、エロチシズムがあるようでないという即非様相を説明するのではないだろうか。つまり、差異共振等式(+i)*(-i)=+1というものが仮説できて、これは、右辺であると、同時に、左辺であるということではないのか。この場合の「同時に」とは明らかに、即非性である。だから、等号は、実は不等号でもある。だから、等号の換わりに⇔を使用する方が的確であろう。即ち、差異共振方程式(+i)*(-i)⇔+1である。
 そうすると、上述した同一性共振の-1の仮定は不要になるのである。後でもう少し検討したい。

参照:エトルリア美術(エトルリアとは古代イタリアないしはイタリア先住民の国である。ローマ帝国に滅ぼされた。)。イギリスの作家D. H. ロレンスは『エトルリアの地』で、エトルリアが東洋的な古代文明を最後の残りであることを説いている。つまり、母権文化であるということである。また、ロレンスは今日のイタリア人が、ローマ帝国の人間の末裔であるというよりは、エトルリアの末裔であると述べているが、それは、イタリア人に接したものならば、首肯できることであろう。



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Etruscan_art


Etruscan art
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Etruscan wall-painting
Etruscan wall-painting

Etruscan art was the form of figurative art produced by the Etruscan civilization in northern Italy between the 9th and 2nd centuries BC. Particularly strong in this tradition were figurative sculpture in terracotta (particularly life-size on sarcophagi or temples) and cast bronze, wall-painting and metalworking (especially engraved bronze mirrors).

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2008年02月20日(Wed)▲ページの先頭へ
エネルギーの問題:Media Point の発するエネルギー波動とは、差異波動なのか同一性波動(
エネルギーの問題:Media Point の発するエネルギー波動とは、差異波動なのか同一性波動(物質波動)なのか:電磁波とは差異波動なのか、同一性波動なのか:それは、差異/同一性的即非波動であろう

ドゥルーズ&ガタリがよく使用する術語に《強度》があり、これは知的社会では、人口に膾炙した。しかし、これは、いわゆる物質的エネルギーを超えた力を指すものとして、つまり、差異の力ないしは差異のエネルギーとして考えられたものであろう。私も不連続的差異論の形成前後はよく使用した。
 今考えると、《強度》を差異的エネルギーと見ていいのだろうかという疑問が起こるのである。プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)は、 Media Pointにおける差異共振性を意味するが、それは、同時に、差異共振性のもつ同一性志向をも包摂するのである。つまり、同一性=物質をも包摂すると見ていいのである。そして、そのMedia Pointの差異共振性とは、差異共振エネルギーであり、本質的には、イデア・エネルギー(エネルゲイア)である。そこでは、イデアが物質へと変換が行われるのである。電磁波とは、この差異共振エネルギーを本来さすものと考えられるが、現代の唯物科学では、電磁波のもつイデア・エネルギーを認識できないのである。
 さて、《強度》であるが、それは、差異エネルギーではなくて、差異共振エネルギー=イデア・エネルギー(エネルゲイア)と考えられる。それは、同一性=微粒子と同一性=微粒子との間であるMedia Point(「差異」)に存しているのであり、それが、同一性=微粒子=物質と同一性=微粒子=物質とを振動させていると思われるのである。
 唯物科学では、この振動を物質エネルギー(E=mc^2)と考えるが、それは、正しくは、Trans-Energy=m(+ic)*(-ic)と考えるべきなのである。あるいは、差異共振エネルギーである。これが、《強度》の正体だと考えられるのである。
 因みに言えば、気功等の《気》も、やはり、差異共振エネルギー(イデア・エネルギー=エネルゲイア)と見るべきである。そうすると、《気》の視点から、生命はどう説明されるだろうか。《気》が生命力そのものであるから、差異共振エネルギーが生命力となる。そして、気的身体と呼ばれるものは、差異共振エネルギー体と考えられよう。つまり、物質的身体を包摂する様態で、気的身体があることになる。
 【(以下、思考実験である。)この気的身体とは、差異共振エネルギーであるから、正に、陰陽身体である。そして、+iが陽であり、-iが陰である。そして、前者が原形相であり、後者が原質料ではないだろうか。思うに、ノエシスとは前者であり、ノエマとは後者ではないだろうか。そして、両者の接点・交点に感覚や感情が生じるのではないだろうか。
 さらに言えば、差異共振エネルギー波動は、波動情報をもっていると考えられる。これが、遺伝子の本当の正体ではないだろうか。この波動情報が物質形成すると考えられるのである。この波動情報の物質的貯蔵庫がゲノムと考えられるのである。つまり、遺伝子は本来、波動情報=イデアであると考えられるのである。それが、Media Pointにおいて、差異共振エネルギーとなり、物質形成すると思われるのである。
 そして、波動情報の物質的貯蔵庫(いわば、ハードディスク)=ゲノムとは、Media Pointにおける二つの極性を保存した構造であると思われるのである。(作業仮説的に、二つの極性を+i:-iと+1:-1とする。Kaisetsu氏の考え方も参考。) 
 ここで秩序立って考えるならば、遺伝情報とは、イデア情報であり、それは、デュナミスではないだろうか。それが、Media Point において、エネルギー化する。エネルゲイア化である。そして、それが、実軸においては、構造となると考えられる。つまり、Media Point のもつ構造点である。これが、ゲノムの原型ではないだろうか。そして、ここから同一性=物質化したものが、ゲノム自体ではないだろうか。
 非常に微妙な領域である。Media Point の実軸は構造点であり、それは、物質ではないが、物質との境界である。ゲノムの原型である。そして、それが、同一性=物質化したものが、ゲノムということである。だから、それは、やはり、+1と表記されるだろう。】


2008年02月19日(Tue)▲ページの先頭へ
差異を排除する同一性力学について:補遺:何故、同一性自己は、差異的他者を憎悪するのか
多神教文化から一神教文化が発生すると言ったが、それは、エネルゲイアからエンテレケイアへの移行であるが、そのとき、超越神と父権的自我の対が発生するが、それは、Media Point を否定する力学をもっている。この否定力学が意識的には、憎悪である。ルサンチマン(怨恨)である。
 換言すると、同一性志向性とは、差異共振性を自己否定する力学をもっているのである。多神教力学とは、差異共振力学であるが、一神教力学とは自己否定力学なのである。そう、自己嫌悪力学とも言えるだろう。だから、ナルシシズムと自己嫌悪の混淆した自己力学である。そう、根本的に不幸な自己力学である。(キリストが汝自身を愛する如く、隣人を愛せよと言ったが、父権文化においては、自己自身を愛することは不可能である。)
 とまれ、ここで簡単に確認することは、同一性志向性という力学が自己否定力学であることである。そして、これは、意識的には自己嫌悪力学であることである。この内的否定、自己否定が、影となり、他者へと投影されると考えられるだろう。
 正確に言えば、同一性自我(正確には、同一性自己であるが、自己否定の自己と不整合になるので、同一性自我と呼んでおく。後で、用語について、検討したい。)とは、ナルシシズムと自己否定の混合であり、ナルシシズムは傲慢さにつながり、これと自己嫌悪が結びついて、他者へと影を投影して、他者を憎悪否定すると考えられるのである。
 思うに、否定した自己性、すなわち、否定した差異共振性(Media Point )の波動を発出する他者に対して、とりわけ、憎悪否定暴力を向けると考えられるのである。自己否定したナルシシズム的同一性自我は、差異共振性を抑圧しているのであり、その抑圧を解除するような、差異共振波動を発信する他者に対しては、とりわけ、憎悪攻撃的になると考えられる。歴史的に言えば、魔女狩りとはそのようなものであったと思われる。魔女とは、本来、多神教・太母文化における祭司であり、Media Point を体現し、差異共振波動をもっていたと考えられるからである。また、これは、ユダヤ・キリスト教西洋文明の植民地主義にも適用できる事柄であると思う。また、西洋文明がイスラム文明を嫌うのは、後者には、Media Pointをそれなりにもっているからだと思う。聖書にあるように、ヤハウェは多神教を憎悪するのである。【イスラム教の一神教性とは、本来、ゼロ神教性とでもいうべきものだと思う。Media Point のゼロの神がアッラーではないだろうか。それが、ユダヤ・キリスト教の一神教の影響を受けて、多神教を排他していると思うのである。】
 ところで、本テーマにもどると、同一性志向性が自己否定力学をもつということは、有り体に言うと一体どういうことなのだろうか。私は、以前、裏返しになるということを指摘したものである。差異という自己をねじるようにして否定して、同一性自我へと転換すると考えたのである。そう、これが、虚軸から実軸への1/4回転であろう。垂直軸から水平軸への1/4回転によって、いわば、自己否定が生起すると考えられるのである。(虚軸的)超越性から同一性現象へと変換するというのは、確かに、自己否定と言えよう。思うに、これは、心的に苦痛を与えているのではないだろうか。「至福」の虚軸的超越性(楽園)から、苦しみに満ち満ちた実軸的現象性へと変換するのは、恐ろしい苦痛があるのではないだろうか。それとも歓喜があるのだろうか。これは仏教的問いである。思うに、現象への誕生とは、原初的トラウマを形成するのではないだろうか。根源的苦・悲哀(悲苦)である。
 少し整理しよう。1/4回転によって、差異共振性から同一性現象へと変換する。これは、差異共振性という自己を否定する力学を意味するのである。自己否定とは、自己憎悪・自己嫌悪である。根源的ルサンチマンである。そして、鏡像によるナルシシズムとそれによる傲りをもつのである。ある意味で、同一性自我現象とは最悪である。釈迦牟尼の気持ちは理解できる。悲である。この世は悲である。苦悲である。そして、この悲苦の輪廻からの脱却を意味する悟りを開いたのである。開悟・悟達である。
 この開悟は、Media Point の認識を意味すると思う。ここにこそ、大悲(だいひ)があるのだろう。キリスト教の愛も本来はこれを意味するはずである。キリストとブッダの類似性があるのである。
 思うに、根源的悲苦と開悟の歓喜とを天秤に比べたらどうなるのだろうか。生を苦と見るのか、歓喜と見るのか。ペシミズムとオプティミズムである。やはり、前者ではないだろうか。だから、大悲である。とまれ、この問題はおいておこう。
 結局、自己否定である同一性自我とは、自己憎悪をもち、いわば、悲劇的である。そう、根源的にペシミズム的である。でも、どうして、そのようになっているのかである。キリスト教では、原罪があるからだとするが、それは説得力がないだろう。原罪とは自己否定のことだと考えられるからである。説明にならないのである。
 仏教はペシミズムである。それは、自己否定という同一性現象の事実にあっているのである。ここには、なにか、「存在」の秘密が隠されているだろう。そもそも、不都合なことがどうして起こる必要があるのか、である。苦悲である現象界へどうして誕生する必要があるのかである。仏教は、だから、「科学」的である。叡知的である。般若である。輪廻からの解脱、もう生まれないことである。(私も個人的にはその気持ちに近い。ジョージ・ハリスンがGive me love で、free from birthと歌っているが、同感する。)
 しかしながら、これについては、既に答えているのである。同一性自我に現象することに発して、自己に目覚めることの意味があるのである。自己覚醒である。もし、現象しないならば、同一性自我は形成されない。虚軸的自己のままならば、一種ニルヴァーナ(涅槃)状態である。デュナミス(可能態)である。双子のままである。個はないのである。そう、同一性自我、つまり、物質的自我を経験することの意味があるのであろう。
 虚軸的自己は、物質的自我を知らない。いわば、永遠の夢の様態である。同一性=物質的自我となることで、目覚めるものは何か。当然、同一性自我である。あるいは、単に、同一性である。もし、現象化しないならば、自己は同一性をもつことなく、差異共振様態のままである。双子のままである。そこには、「わたし」が不在なのであろう。自我の不在である。ということは、潜在的自我がもともと存しているということになるだろう。それがフッサールのノエシスだろう。潜在的であるノエシスがあるのである。同一性志向性があるのである。差異共振性のもつノエシスの成就としての同一性自我があるのであろう。
 ここから考えると、仏教の意義が明らかになるだろう。悟りとは、現象化によってもつ同一性自我から脱却して形成する根源的な差異共振性の認識を意味するだろう。一種の回帰である。未生の「天国」への回帰である。
 しかしながら、そうならば、ブッダが望んだようには、輪廻から脱却できないのではないだろうか。つまり、死んだ後も、再び、差異共振性の様態に回帰するが、そこからまたノエシスの志向性によって、現象化すると考えられるからである。正に、永劫回帰である。死生永劫回帰である。輪廻転生である。
 それとも、輪廻サイクルから脱却する方法があるのだろうか。物質化から逃れる方法があるのだろうか。
 オカルティストたちが、よく、脱物質化・霊化のことを言うが、これは、死んだら誰でもそうなるのだ。根源的なノエシスを考えると、やはり、物質化は必然だと思うのである。
 さて、整理すると、同一性化とは、自己否定であり、自己憎悪である。しかし、同時に、ナルシシズムを形成する。つまり、自己憎悪を隠蔽するように、鏡像的自我世界が生まれるのである。しかし、それは、自己逃避である。結局、内的な自己悲劇に向かい合うことから、差異共振性への叡知へと向かうことになるのである。自己否定である自己憎悪を乗り越えて、差異共振性、Media Pointへと向かうのである。自己否定から自己肯定へである。これは、スピノザ哲学の方法でもある。ロマン主義の方法でもある。(ベートーヴェンの歓喜の歌はもともとは、ドイツ・ロマン派詩人シラーの詩であった。)
 結局、まとめると、現象における苦・悲を味わいながら、差異共振性という実践的叡知へと向かうことを運命づけられているのが人間なのであろう。苦や悲がなければ、同一性自我から脱却して、差異共振叡知(般若)へと覚醒することはないのだろう。悲劇的認識は必然なのである。
 最後に、以上の視点から、現代世界の世界の問題を言うと、同一性自我である近代的自我と近代合理性が中心化された資本主義が支配する世界であるが、それは、基本的には、自己認識を知らない、自己否定の世界なのである。そこでは、無明が支配しているのである。自己憎悪に満ち満ちているのを知らずにいる世界である。そして、狡猾なものが愚かな大衆を支配している世界である。しかし、狡猾な者こそ、いちばん同一性自我に染まっているのである。最も無明の者が無明の者を支配しているのである。
 脱同一性主義が必要なのである。それは、差異共振性への道である。それは、差異共振叡知を実践する生活であると言えよう。


2008年02月17日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性中心主義の末路:超越神の真空化と差異共響エネルギーの反動化:差異共響価値創造資本主義:Ver3
超越神の穴について考えて、はやくも行き詰まってしまったので、方便の意味も含めて、視点を変えて考えよう。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、同一性志向性が発生した後の、左辺の状態について考えよう。これまで述べたことを繰り返すと、多神教的意識においては、Media Pointが開放の状態で、両辺がそれなりに知覚されているが、一神教(ユダヤ・キリスト教)的意識においては、Media Pointが閉鎖されて、かつ、それが分化して、左辺が超越神となり、右辺が父権的自我となるということであった。言い換えると、一神教的意識(父権的意識)においては、Media Pointが否定・排除・隠蔽される(抑圧)されるということである。
 後者は、父権的自我ないしは近代的自我の様態であると考えられる。これは、同一性志向性の帰結として、考えられるだろう(あるいは、そのように仮説する)。
 後者の初期においては、超越神・「父」・「天」が、価値として存していた。それは、いわば、超越的価値であり、道徳になったと言えよう。儒教の価値観の根源もここにあるだろう。【思うに、フロイトが言った超自我の根源はこれであろう。】父権的価値である。
 ここにあるのは、二項対立的な、同一性中心主義である。デリダのいうロゴス中心主義である。そして、これが、今日の資本主義を動かしている形而上学的原理である。構造主義的原理である。そう、結局、ポスト・モダン理論は、このロゴス中心主義を解体できなかったのである。デリダの脱構築主義は、実質的には、ロゴス中心主義、すなわち、同一性中心主義、同一性自我中心主義(同一性自己中心主義の方がより正確かもしれない)を脱構築・解体できなかったのである。【私見では、結局のところ、資本主義自体が解体、乃至は、自壊し始めているのである。同一性中心主義が過剰になり、たとえば、サブプライムローン問題を引き起こしたのである。これは、同一性中心主義狂気と考えられる。】
 この同一性中心主義が自壊するというのは、どういうことなのだろうか。超越神・一神教的二項対立(この用語は実は、不正確である。優劣絶対的二元論とでも言った方がいいかもしれない)価値観が支配している。超越神・超越的価値が同一性価値を保障しているのである。つまり、資本主義経済で言うならば、同一性価値である貨幣価値を保障しているのは、超越神・超越的価値なのである。言い換えると、超越神価値がある限り、同一性価値=貨幣価値=交換価値は絶対的に保障されることになるのである。ユダヤ・キリスト教的価値観が資本主義経済を保障しているのである。【もっとも、ユダヤ・キリスト教的価値観の世俗・物質的帰結が資本主義経済であると言う方が、論理的であろう。】
 さて、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における一神教(ユダヤ・キリスト教)的力学は、以上述べたように、左辺(超越神)と右辺(同一性)とに絶対的に分離するというものである。そして、Media Pointがそこでは、抑圧されて、隠蔽されているということである(Split Media )。【思うに、西洋文化とは、このユダヤ・キリスト教文明の表看板とは別に、Media Point的文化を取り戻そうとする志向性をもっていると言えよう。ルネサンスがそうであるし、また、芸術、哲学、神秘学等もそうである。つまり、人類の大根本・根元である東洋文化を取り戻そうとしているのである。双魚宮(魚座)文化としての西洋文明である。p.s. トランス・モダン=差異共振文化は、宝瓶宮(水瓶座)文化である。新東洋文化期である。】
 ここで多神教的力学を見ると、それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺を共存させているのであり、Media Pointを中心的価値観としてもっているのである。だから、例えば、神道では、三柱の神(三つ巴)という根本原理が生まれるのである。【つまり、三柱の神(三つ巴)とは、左辺の差異共振・共鳴・共響性を意味するということである。p.s. 因みに、ケルトの渦巻文様には、三つ巴のポリフォニーが見事に見られる。】
 多神教文化とは、ConMedia文化であると言えよう。それに対して、一神教文化とは、いわば、DisMedia文化であろう。問題は、この相違の原因である。母権文化(太母文化)と父権文化の発生力学は何かである。母権力学と父権力学である。
 これまでの考え方では、同一性志向性の最終段階が父権文化であり、いわば、その過程が母権文化(多神教文化)である。言い換えれば、エネルゲイア文化が母権(太母)・多神教文化であり、エンテレケイア文化が父権・一神教文化ということになる。【エネルゲイアとは、エネルギーであり、活動態であり、エンテレケイアとは終局態であり、帰結である。つまり、同一性・物質である。】
 だから、母権(太母)・多神教文化の進展として父権・一神教文化があるということであり、それは、一つのサイクルと考えられるだろう。つまり、あるエネルゲイア(エネルギー)の放出の過程としてのサイクルであり、父権・一神教文化において、終焉するということであり、また、新たなエネルゲイア(エネルギー)の発生・発出・放出が考えられるということである。つまり、新たな母権(太母)・多神教文化が誕生するということである。
 この母権/父権文化のプロセス・サイクルであるが、これまで、私は、太極原理が根本にあると考えてきたのであり、太極原理のもつ螺旋的回帰性を考えているのである。【ここで少し言うと、占星術・占星知は、この太極原理と関係していると推測しているのである。これは、これで、また、大研究を必要とするのである。】とりあえず、以上で、母権文化と父権文化の力学を統一的に説明できるのである。
 そのように統一的に、即ち、太極原理の視点から見ると、当然、父権文化は解体することがわかるのである。正に、自然(じねん)である。これを自然(しぜん)と見ることは、完全な誤りである。これは、いくら強調しても強調し過ぎることはない。無為自然(むいじねん)の自然である。
 ここで、所期のテーマにもどると、超越神の穴・空虚・影・闇はどういう力学をもつのか、という問題である。太極原理から見ると、明らかに、それは、エネルギーを喪失したのであり、もはや、そのあり方、即ち、父権・一神教文化の様式からは、新しいエネルギーは生まれないということを意味する。父権・一神教文化のエネルギーの枯渇が生じているのである。そして、この真空は何を意味するのかということなのである。真空はどういう力学をもつのか、ということである。それは、価値観の根拠の喪失である。つまり、既成価値の無価値化である。つまり、同一性価値の無価値化である。同一性価値・貨幣交換価値の無価値化である。【p.s.  同一性価値の無価値化と言ったが、手段としての同一性価値は当然残るであろう。差異共響価値資本における量的計算は同一性価値=貨幣に拠るだろう。】
 また、恐怖の情動が生起するだろう。そして、内なる闇(シャドウ)を外界へと投影して、仮想敵を作るだろう。たとえば、悪魔としてのイスラム過激派(アルカイダ)である。
 問題は、真空自体の力学である。それは何か。思うに、同一性価値を固持するための衝動・情動が起きると思われるのである。もはや、超越的次元からは、創造的エネルギーが発生しないから、同一性価値固持・維持のための「力」をどこからか必要とするのである。いったい、どこから、その「力」を得るのだろうか。その衝動・情動の発生はどこからなのだろうか。
 推察するに、それは、永遠のエネルギーの源泉であるMedia Pointから発する差異共響エネルギー(差異共振・共鳴・共感・共心エネルギー)の突き上げからではないだろうか。当然、反動エネルギーとなっているのである。【差異共響エネルギーを純粋に取り込むには、同一性価値自体が解体する必要があるのである。つまり、自我(近代的自我)自体が解体して、差異を受容する自己(自己身体)へと変質する必要があると考えられるのである。差異共鳴身体へと変容させる必要があるのである。しかしながら、同一性は同一性であり、それは、必然的なものなので、同一性を包摂する差異共響性が必要である。(この点は既述済みなのでここでは説明しない。)p.s. 同一性自己を差異共鳴身体へと変質させる仕組みについては後で説明したい。同一性と差異共鳴身体との融合である。】
 Media Pointから発するエネルギーを自己同一性主義は、いわば塞止めているのであるが、しかし、それ自身は枯渇しているので、その他者の差異共響エネルギーに突き上げられ、衝動・情動に突き動かされるのである。つまり、非合理主義化がそこにはあるのである。これが狂気なのである。
 自我はもともと優越感をもっているので、狂気と傲慢さが混合した複合的な病理状態になるのである。うつ病、パラノイア、「分裂症」等の複合的な病理症状となるのである。端的に、自我の精神病化である。
 とまれ、超越神の空虚化とは、結局、Media Pointの差異共響エネルギーを反動化させた非合理主義・狂気衝動を近代的自我にもたらすものであるということになった。これがある意味でポスト・モダンの様態である。自我の精神病化である。
 Media Pointのエネルギーが活火山の如く、「どっどど、どどうど、どどうど、どうど」と活動しているのであるが、それを自己同一性は塞止め、その反動エネルギーで狂気化しているのである。言い換えると、同一性価値への非合理主義的衝動・情動が生起するということである。つまり、貨幣交換価値への見境のない衝動が生じるのである。狂気の貨幣交換価値への衝動が生まれるのである。それが、マネー・ゲームでありサブプライムローンである。狂気の同一性中心主義である。
 狂気の同一性中心主義(金融資本自由主義)は、社会・自然・文化を破壊する。それは、いわば、人類・地球世界のガン細胞である。
 結局、Media Pointの純粋差異共響エネルギーを肯定することになるのではあるが、それ以前に、倒錯同一性中心主義はどうなるのだろうか。過度の冷酷無残凄惨陰惨な格差・狂気・犯罪・戦争等々をもたらすだろう。しかし、ポスト・モダン資本主義自体にどのような影響を与えるのであろうか。
 簡単に言うと、差異価値から同一性価値を引きだしている資本主義システムであるが、「狂気」の同一性中心主義は自身の母体である差異価値を破壊して、自壊することになると考えられるのである。正に、ガン細胞さながらである。エントロピー増大である。
 結局、過剰な同一性価値から差異価値へと還流させる差異共響価値経済が必然であることになると考えられるのである。差異共響価値投資が中心化されると考えられるのである。これは、差異共同体価値投資ということである。
 そう、同一性資本主義から差異共振資本主義への転換である。トランス・モダン・キャピタリズムである。

p.s. 差異価値から同一性価値へと変換するのが資本主義ならば、同一性価値を差異価値へとフィードバックする差異共振経済とは、資本主義を乗り越えたものと考えられるので、トランス・キャピタリズムである。超越資本主義である。


2008年02月16日(Sat)▲ページの先頭へ
同一性中心主義の末路:超越神の真空化と差異共響エネルギーの反動化:差異共響価値創造資本主義:Ver2
超越神の穴について考えて、はやくも行き詰まってしまったので、方便の意味も含めて、視点を変えて考えよう。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、同一性志向性が発生した後の、左辺の状態について考えよう。これまで述べたことを繰り返すと、多神教的意識においては、Media Pointが開放の状態で、両辺がそれなりに知覚されているが、一神教(ユダヤ・キリスト教)的意識においては、Media Pointが閉鎖されて、かつ、それが分化して、左辺が超越神となり、右辺が父権的自我となるということであった。言い換えると、一神教的意識(父権的意識)においては、Media Pointが否定・排除・隠蔽される(抑圧)されるということである。
 後者は、父権的自我ないしは近代的自我の様態であると考えられる。これは、同一性志向性の帰結として、考えられるだろう(あるいは、そのように仮説する)。
 後者の初期においては、超越神・「父」・「天」が、価値として存していた。それは、いわば、超越的価値であり、道徳になったと言えよう。儒教の価値観の根源もここにあるだろう。【思うに、フロイトが言った超自我の根源はこれであろう。】父権的価値である。
 ここにあるのは、二項対立的な、同一性中心主義である。デリダのいうロゴス中心主義である。そして、これが、今日の資本主義を動かしている形而上学的原理である。構造主義的原理である。そう、結局、ポスト・モダン理論は、このロゴス中心主義を解体できなかったのである。デリダの脱構築主義は、実質的には、ロゴス中心主義、すなわち、同一性中心主義、同一性自我中心主義(同一性自己中心主義の方がより正確かもしれない)を脱構築・解体できなかったのである。【私見では、結局のところ、資本主義自体が解体、乃至は、自壊し始めているのである。同一性中心主義が過剰になり、たとえば、サブプライムローン問題を引き起こしたのである。これは、同一性中心主義狂気と考えられる。】
 この同一性中心主義が自壊するというのは、どういうことなのだろうか。超越神・一神教的二項対立(この用語は実は、不正確である。優劣絶対的二元論とでも言った方がいいかもしれない)価値観が支配している。超越神・超越的価値が同一性価値を保障しているのである。つまり、資本主義経済で言うならば、同一性価値である貨幣価値を保障しているのは、超越神・超越的価値なのである。言い換えると、超越神価値がある限り、同一性価値=貨幣価値=交換価値は絶対的に保障されることになるのである。ユダヤ・キリスト教的価値観が資本主義経済を保障しているのである。【もっとも、ユダヤ・キリスト教的価値観の世俗・物質的帰結が資本主義経済であると言う方が、論理的であろう。】
 さて、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における一神教(ユダヤ・キリスト教)的力学は、以上述べたように、左辺(超越神)と右辺(同一性)とに絶対的に分離するというものである。そして、Media Pointがそこでは、抑圧されて、隠蔽されているということである(Split Media )。【思うに、西洋文化とは、このユダヤ・キリスト教文明の表看板とは別に、Media Point的文化を取り戻そうとする志向性をもっていると言えよう。ルネサンスがそうであるし、また、芸術、哲学、神秘学等もそうである。つまり、人類の大根源である東洋文化を取り戻そうとしているのである。双魚宮(魚座)文化としての西洋文明である。】
 ここで多神教的力学を見ると、それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺を共存させているのであり、Media Pointを中心的価値観としてもっているのである。だから、例えば、神道では、三柱の神(三つ巴)という根本原理が生まれるのである。【つまり、三柱の神とは、左辺の差異共振・共鳴・共響性を意味するということである。】
 多神教文化とは、ConMedia文化であると言えよう。それに対して、一神教文化とは、いわば、DisMedia文化であろう。問題は、この相違の原因である。母権文化(太母文化)と父権文化の発生力学は何かである。母権力学と父権力学である。
 これまでの考え方では、同一性志向性の最終段階が父権文化であり、いわば、その過程が母権文化(多神教文化)である。言い換えれば、エネルゲイア文化が母権(太母)・多神教文化であり、エンテレケイア文化が父権・一神教文化ということになる。【エネルゲイアとは、エネルギーであり、活動態であり、エンテレケイアとは終局態であり、帰結である。つまり、同一性・物質である。】
 だから、母権(太母)・多神教文化の進展として父権・一神教文化があるということであり、それは、一つのサイクルと考えられるだろう。つまり、あるエネルゲイア(エネルギー)の放出の過程としてのサイクルであり、父権・一神教文化において、終焉するということであり、また、新たなエネルゲイア(エネルギー)の発生・発出・放出が考えられるということである。つまり、新たな母権(太母)・多神教文化が誕生するということである。
 この母権/父権文化のプロセス・サイクルであるが、これまで、私は、太極原理が根本にあると考えてきたのであり、太極原理のもつ螺旋的回帰性を考えているのである。【ここで少し言うと、占星術・占星知は、この太極原理と関係していると推測しているのである。これは、これで、また、大研究を必要とするのである。】とりあえず、以上で、母権文化と父権文化の力学を統一的に説明できるのである。
 そのように統一的に、即ち、太極原理の視点から見ると、当然、父権文化は解体することがわかるのである。正に、自然(じねん)である。これを自然(しぜん)と見ることは、完全な誤りである。これは、いくら強調しても強調し過ぎることはない。無為自然(むいじねん)の自然である。
 ここで、所期のテーマにもどると、超越神の穴・空虚・影・闇はどういう力学をもつのか、という問題である。太極原理から見ると、明らかに、それは、エネルギーを喪失したのであり、もはや、そのあり方、即ち、父権・一神教文化の様式からは、新しいエネルギーは生まれないということを意味する。父権・一神教文化のエネルギーの枯渇が生じているのである。そして、この真空は何を意味するのかということなのである。真空はどういう力学をもつのか、ということである。それは、価値観の根拠の喪失である。つまり、既成価値の無価値化である。つまり、同一性価値の無価値化である。同一性価値・貨幣交換価値の無価値化である。【p.s. 同一性価値の無価値化と言ったが、手段としての同一性価値は当然残るであろう。差異共響価値資本における量的計算は同一性価値=貨幣に拠るだろう。】
 また、恐怖の情動が生起するだろう。そして、内なる闇(シャドウ)を外界へと投影して、仮想敵を作るだろう。たとえば、悪魔としてのイスラム過激派(アルカイダ)である。
 問題は、真空自体の力学である。それは何か。思うに、同一性価値を固持するための衝動・情動が起きると思われるのである。もはや、超越的次元からは、創造的エネルギーが発生しないから、同一性価値固持・維持のための「力」をどこからか必要とするのである。いったい、どこから、その「力」を得るのだろうか。その衝動・情動の発生はどこからなのだろうか。
 推察するに、それは、永遠のエネルギーの源泉であるMedia Pointから発する差異共響エネルギー(差異共振・共鳴・共感・共心エネルギー)の突き上げからではないだろうか。当然、反動エネルギーとなっているのである。【差異共響エネルギーを純粋に取り込むには、同一性価値自体が解体する必要があるのである。つまり、自我(近代的自我)自体が解体して、差異を受容する自己(自己身体)へと変質する必要があると考えられるのである。差異共鳴身体へと変容させる必要があるのである。しかしながら、同一性は同一性であり、それは、必然的なものなので、同一性を包摂する差異共響性が必要である。(この点は既述済みなのでここでは説明しない。)p.s. 同一性自己を差異共鳴身体へと変質させる仕組みについては後で説明したい。同一性と差異共鳴身体との融合である。】
 Media Pointから発するエネルギーを自己同一性主義は、いわば塞止めているのであるが、しかし、それ自身は枯渇しているので、その他者の差異共響エネルギーに突き上げられ、衝動・情動に動かされるのである。つまり、非合理主義化がそこにはあるのである。これが狂気なのである。
 自我はもともと優越感をもっているので、狂気と傲慢さが混合した複合的な病理状態になるのである。うつ病、パラノイア、「分裂症」等の複合的な病理症状となるのである。端的に、自我の精神病化である。
 とまれ、超越神の空虚化とは、結局、Media Pointの差異共響エネルギーを反動化させた非合理主義・狂気衝動を近代的自我にもたらすものであるということになった。これがある意味でポスト・モダンの様態である。自我の精神病化である。
 Media Pointのエネルギーが活火山の如く、「どっどど、どどうど」と活動しているのであるが、それを自己同一性は塞止め、その反動エネルギーで狂気化しているのである。言い換えると、同一性価値への非合理主義的衝動・情動が生起するということである。つまり、貨幣交換価値への見境のない衝動が生じるのである。狂気の貨幣交換価値への衝動が生まれるのである。それが、マネー・ゲームでありサブプライムローンである。狂気の同一性中心主義である。
 狂気の同一性中心主義(金融資本自由主義)は、社会・自然・文化を破壊する。それは、いわば、人類・地球世界のガン細胞である。
 結局、Media Pointの純粋差異共響エネルギーを肯定することになるのではあるが、それ以前に、倒錯同一性中心主義はどうなるのだろうか。格差・狂気・犯罪・戦争等々をもたらすだろう。しかし、ポスト・モダン資本主義自体にどのような影響を与えるのであろうか。
 簡単に言うと、差異価値から同一性価値を引きだしている資本主義システムであるが、「狂気」の同一性中心主義は自身の母体である差異価値を破壊して、自壊することになると考えられるのである。正に、ガン細胞さながらである。エントロピー増大である。
 結局、過剰な同一性価値から差異価値へと還流させる差異共響価値経済が必然であることになると考えられるのである。差異共響価値投資が中心化されると考えられるのである。これは、差異共同体価値投資ということである。
 そう、同一性資本主義から差異共振資本主義への転換である。トランス・モダン・キャピタリズムである。


同一性中心主義の末路:超越神の真空化と差異共響エネルギーの反動化:差異共響価値創造資本主義
超越神の穴について考えて、はやくも行き詰まってしまったので、方便の意味も含めて、視点を変えて考えよう。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、同一性志向性が発生した後の、左辺の状態について考えよう。これまで述べたことを繰り返すと、多神教的意識においては、Media Pointが開放の状態で、両辺がそれなりに知覚されているが、一神教(ユダヤ・キリスト教)的意識においては、Media Pointが閉鎖されて、かつ、それが分化して、左辺が超越神となり、右辺が父権的自我となるということであった。言い換えると、一神教的意識(父権的意識)においては、Media Pointが否定・排除・隠蔽される(抑圧)されるということである。
 後者は、父権的自我ないしは近代的自我の様態であると考えられる。これは、同一性志向性の帰結として、考えられるだろう(あるいは、そのように仮説する)。
 後者の初期においては、超越神・「父」・「天」が、価値として存していた。それは、いわば、超越的価値であり、道徳になったと言えよう。儒教の価値観の根源もここにあるだろう。(思うに、フロイトが言った超自我の根源はこれであろう。)父権的価値である。
 ここにあるのは、二項対立的な、同一性中心主義である。デリダのいうロゴス中心主義である。そして、これが、今日の資本主義を動かしている形而上学的原理である。構造主義的原理である。そう、結局、ポスト・モダン理論は、このロゴス中心主義を解体できなかったのである。デリダの脱構築主義は、実質的には、ロゴス中心主義、すなわち、同一性中心主義、同一性自我中心主義(同一性自己中心主義の方がより正確かもしれない)を脱構築・解体できなかったのである。(私見では、結局のところ、資本主義自体が解体、乃至は、自壊し始めているのである。同一性中心主義が過剰になり、たとえば、サブプライムローン問題を引き起こしたのである。これは、同一性中心主義狂気と考えられる。)
 この同一性中心主義が自壊するというのは、どういうことなのだろうか。超越神・一神教的二項対立(この用語は実は、不正確である。優劣絶対的二元論とでも言った方がいいかもしれない)価値観が支配している。超越神・超越的価値が同一性価値を保障しているのである。つまり、資本主義経済で言うならば、同一性価値である貨幣価値を保障しているのは、超越神・超越的価値なのである。言い換えると、超越神価値がある限り、同一性価値=貨幣価値=交換価値は絶対的に保障されることになるのである。ユダヤ・キリスト教的価値観が資本主義経済を保障しているのである。(もっとも、ユダヤ・キリスト教的価値観の世俗・物質的帰結が資本主義経済であると言う方が、論理的であろう。)
 さて、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における一神教(ユダヤ・キリスト教)的力学は、以上述べたように、左辺(超越神)と右辺(同一性)とに絶対的に分離するというものである。そして、Media Pointがそこでは、抑圧されて、隠蔽されているということである(Split Media )。【思うに、西洋文化とは、このユダヤ・キリスト教文明の表看板とは別に、Media Point的文化を取り戻そうとする志向性をもっていると言えよう。ルネサンスがそうであるし、また、芸術、哲学、神秘学等もそうである。つまり、人類の大根源である東洋文化を取り戻そうとしているのである。双魚宮(魚座)文化としての西洋文明である。】
 ここで多神教的力学を見ると、それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺を共存させているのであり、Media Pointを中心的価値観としてもっているのである。だから、例えば、神道では、三柱の神(三つ巴)という根本原理が生まれるのである。(つまり、三柱の神とは、左辺の差異共振・共鳴・共響性を意味するということである。)
 多神教文化とは、ConMedia文化であると言えよう。それに対して、一神教文化とは、いわば、DisMedia文化であろう。問題は、この相違の原因である。母権文化(太母文化)と父権文化の発生力学は何かである。母権力学と父権力学である。
 これまでの考え方では、同一性志向性の最終段階が父権文化であり、いわば、その過程が母権文化(多神教文化)である。言い換えれば、エネルゲイア文化が母権(太母)・多神教文化であり、エンテレケイア文化が父権・一神教文化ということになる。(エネルゲイアとは、エネルギーであり、活動態であり、エンテレケイアとは終局態であり、帰結である。つまり、同一性・物質である。)
 だから、母権(太母)・多神教文化の進展として父権・一神教文化があるということであり、それは、一つのサイクルと考えられるだろう。つまり、あるエネルゲイア(エネルギー)の放出の過程としてのサイクルであり、父権・一神教文化において、終焉するということであり、また、新たなエネルゲイア(エネルギー)の発生・発出・放出が考えられるということである。つまり、新たな母権(太母)・多神教文化が誕生するということである。
 この母権/父権文化のプロセス・サイクルであるが、これまで、私は、太極原理が根本にあると考えてきたのであり、太極原理のもつ螺旋的回帰性を考えているのである。(ここで少し言うと、占星術・占星知は、この太極原理と関係していると推測しているのである。これは、これで、また、大研究を必要とするのである。)とりあえず、以上で、母権文化と父権文化の力学を統一的に説明できるのである。
 そのように統一的に、即ち、太極原理の視点から見ると、当然、父権文化は解体することがわかるのである。正に、自然(じねん)である。これを自然(しぜん)と見ることは、完全な誤りである。これは、いくら強調しても強調し過ぎることはない。無為自然(むいじねん)の自然である。
 ここで、所期のテーマにもどると、超越神の穴・空虚・影・闇はどういう力学をもつのか、という問題である。太極原理から見ると、明らかに、それは、エネルギーを喪失したのであり、もはや、そのあり方、即ち、父権・一神教文化の様式からは、新しいエネルギーは生まれないということを意味する。父権・一神教文化のエネルギーの枯渇が生じているのである。そして、この真空は何を意味するのかということなのである。真空はどういう力学をもつのか、ということである。それは、価値観の根拠の喪失である。つまり、既成価値の無価値化である。つまり、同一性価値の無価値化である。同一性価値・貨幣交換価値の無価値化である。
 また、恐怖の情動が生起するだろう。そして、内なる闇(シャドウ)を外界へと投影して、仮想敵を作るだろう。たとえば、悪魔としてのイスラム過激派(アルカイダ)である。
 問題は、真空自体の力学である。それは何か。思うに、同一性価値を固持するための衝動・情動が起きると思われるのである。もはや、超越的次元からは、創造的エネルギーが発生しないから、同一性価値固持・維持のための「力」をどこからか必要とするのである。いったい、どこから、その「力」を得るのだろうか。その衝動・情動の発生はどこからなのだろうか。
 推察するに、それは、永遠のエネルギーの源泉であるMedia Pointから発する差異共響エネルギー(差異共振・共鳴・共感・共心エネルギー)の突き上げからではないだろうか。当然、反動エネルギーとなっているのである。【差異共響エネルギーを純粋に取り込むには、同一性価値自体が解体する必要があるのである。つまり、自我(近代的自我)自体が解体して、差異を受容する自己(自己身体)へと変質する必要があると考えられるのである。差異共鳴身体へと変容させる必要があるのである。しかしながら、同一性は同一性であり、それは、必然的なものなので、同一性を包摂する差異共響性が必要である。(この点は既述済みなのでここでは説明しない。)】
 Media Pointから発するエネルギーを自己同一性主義は、いわば塞止めているのであるが、しかし、それ自身は枯渇しているので、その他者の差異共響エネルギーに突き上げられ、衝動・情動に動かされるのである。つまり、非合理主義化がそこにはあるのである。これが狂気なのである。
 自我はもともと優越感をもっているので、狂気と傲慢さが混合した複合的な病理状態になるのである。うつ病、パラノイア、「分裂症」等の複合的な病理症状となるのである。端的に、自我の精神病化である。
 とまれ、超越神の空虚化とは、結局、Media Pointの差異共響エネルギーを反動化させた非合理主義・狂気衝動を近代的自我にもたらすものであるということになった。これがある意味でポスト・モダンの様態である。自我の精神病化である。
 Media Pointのエネルギーが活火山の如く、「どっどど、どどうど」と活動しているのであるが、それを自己同一性は塞止め、その反動エネルギーで狂気化しているのである。言い換えると、同一性価値への非合理主義的衝動・情動が生起するということである。つまり、貨幣交換価値への見境のない衝動が生じるのである。狂気の貨幣交換価値への衝動が生まれるのである。それが、マネー・ゲームでありサブプライムローンである。狂気の同一性中心主義である。
 狂気の同一性中心主義(金融資本自由主義)は、社会・自然・文化を破壊する。それは、いわば、人類・地球世界のガン細胞である。
 結局、Media Pointの純粋差異共響エネルギーを肯定することになるのではあるが、それ以前に、倒錯同一性中心主義はどうなるのだろうか。格差・狂気・犯罪・戦争等々をもたらすだろう。しかし、ポスト・モダン資本主義自体にどのような影響を与えるのであろうか。
 簡単に言うと、差異価値から同一性価値を引きだしている資本主義システムであるが、「狂気」の同一性中心主義は自身の母体である差異価値を破壊して、自壊することになると考えられるのである。正に、ガン細胞さながらである。エントロピー増大である。
 結局、過剰な同一性価値から差異価値へと還流させる差異共響価値経済が必然であることになると考えられるのである。差異共響価値投資が中心化されると考えられるのである。これは、差異共同体価値投資ということである。
 そう、同一性資本主義から差異共振資本主義への転換である。トランス・モダン・キャピタリズムである。


超越神はどこに行ったのか:近代的自我の末路としての精神病
先に、 同一性による差異の排除力学という長年(近代的自我の狂気という問題意識から数えると、10年は考え続けてきた)に渡る問題がようやく解決できたのであるが、http://ameblo.jp/renshi/
entry-10072754057.html
その副産物として、超越神の穴(喪失)が問題として浮上してきた。つまり、こういうことである。超越神と父権的自我(近代的自我はここに含まれる)が同時生起するのであり、これは、プロテスタンティズムにおいても生起したと考えられるが、近代合理主義の進展とともに、超越神が衰退してくる(世俗化)が、そのとき、超越神の穴はどうなるのか、である。
 もっとも、アメリカ人の90パーセントは信仰者であるということで、それなりに超越神は生きているのだろうが、しかしながら、衰退は否めないだろう。つまり、超越神のもつエネルギーが初期プロテスタンティズムのようにはもはやなく、衰退していると考えられるということである。
 では、その超越神の穴はどうなるのか、という問題である。言い換えると、近代合理主義をもつ近代的自我はどうなるのか、ということでもある。
 思うに、ハイデガーが直面したのも、この穴であろう。そして、それを「存在」で覆おうとしたのではないのか。近代的ニヒリズムである。そう、言うの忘れていたが、ニーチェの言及した神の死とは、以上の事態を指したものである。
 超越神の空虚の意味である。いったいこれは何を意味するのか。超越神の死とは何を意味するのか。ユダヤ・キリスト教の神の死とは何を意味するのか。
 先の考察に由れば、Media Pointが二分化されて、Split Mediaとなり、超越神と父権的自我(近代的自我)が生まれる。しかし、これは、同一性志向性というエネルギー(物質エネルギー)を放出するのである。すると、当然、エネルギーの消滅が起こるのである。残るのは、超越神の穴と父権的自我(近代的自我)である。
 この空虚を満たすことが、西洋近代文化の一つの側面であった。思うに、アメリカ人が信仰をもつというのは、この点から見て、逆説的であろう。つまり、空虚だから、信仰で満たそうとするのだろう。
 私の直感では、空虚は実に恐ろしいものである。おそらく、それを隠蔽するために、近代合理主義を強化すると考えられるのである。つまり、過度の近代合理主義が起こるのである。空虚に蓋にするようにして、近代合理主義の意志をもつのである。
 しかしながら、問題は、空虚のもつ力学である。(これは、ほぼポスト・モダン問題である。この点については既述済みなので、ここでは述べない。)超越神のエネルギーがあるときは、父権的自我は、それに対応するような姿勢をとるだろう。しかしながら、超越神が空虚になったとき、思うに、それは、闇になるのである。その闇が父権的自我にはたらきかけると思われるのである。端的に言えば、その闇が、父権的自我の影の支配者になっていると思われるのである。言い換えると、超越神の影が父権的自我を支配すると思われるのである。だから、父権的自我は、いわば、無意識の支配を受けているのである。
 では、超越神の穴・超越神の影の力学とはどのようなものだろうか。ここでも直感で言おう。その闇は父権的自我を襲うのである。狂気となって父権的自我を襲うのである。これはどういうことなのか。
 これは、単純である。超越神の穴・影・闇とは、虚軸に存するのであり、それは、実軸にある父権的自我は認識不可能なのである。超越次元における穴・空虚・影・闇なので、父権的自我にとっては、まったく得体の知れないものなのである。だから、それはただ非合理衝動となって父権的自我を襲うのだと思う。狂気衝動である。
 そして、また、枯渇したエネルギーを満たすには、Media Pointを開く必要があるのであるが、父権的自我は、Media Pointを抑圧しているので、新鮮なエネルギーが得られずに、さらに枯渇するのである。いわば、うつ病的状態になると考えられるのである。
 結局、狂気とうつ病が襲うのである。狂気は父権的自我を衝動化するのである。非合理衝動で突き動かし、Media Pointを抑圧するように攻撃・暴力的になるのである。それは、パラノイア的であり、また、分裂的である。
 父権的自我である近代的自我の運命とはこのようなものである。つまり、父権的文明の破滅の事態が生じるということになるのである。


2008年02月15日(Fri)▲ページの先頭へ
同一性による差異の排除力学について:Media Pointの開放(多神教)と閉鎖(一神教)
ある意味で性懲りなくであるが、理論的には精緻化を目指しての反復であるが、本件について考察したい。
 いったいなぜ、この問題に明晰な解明が為されないのだろうか。考えてみると、この問題は今から4年前の不連続的差異論のときからのものである。
 不連続的差異論の生まれたときの考えを想起すると、メディア平面というものを仮定して、その一面では不連続的差異が他面では連続的差異が存するとしたのである。そして、同一性は当然、後者の連続的差異から発生するのである。連続的差異が構造とも言っていいものである。
 この考えから見ると、メディア平面が境界となって、差異、即ち、不連続的差異を排除しているのであり、それは、きわめて明快である。いわば、メディア平面が壁となり、不連続的差異を隠蔽しているのである。
 直観的に言えば、メディア平面が不連続的差異をシャットアウトしているのである。しかるに、プラトニック・シナジー理論で考えると、同一性による差異の排除の説明が不明瞭となるのである。これはどうしたことなのか。
 思うに、プラトニック・シナジー理論の視点を不連続的差異論に適用すれば、プラトニック・シナジー理論が明快になるのではないだろうか。即ち、差異共振性は、不連続的差異の側面に存し、同一性は他の側面に存するとすればいいのではないだろうか。
 では、多神教において、差異共振性が認識されているというのは、どう説明がつくのだろうか。それは、メディア平面の両面を認識していたということになるだろう。つまり、差異共振面は、神(神道で言えば、三柱の神)の側面であり、同一性面は現象面(多神的現象)であるという理解ではないだろうか。ニーチェで言えば、ディオニュソスとアポロの両面である。
 では、問題は、一神教、父権的宗教・神話(宗教と神話をほとんど区別していないが、宗教は、信仰・儀礼生活をもつものであるのに対して、神話は信仰・儀礼が物語へと転換したものであると言えよう)の場合、メディア平面を喪失して、というか、メディア平面の一面=現象面と超越神の二元論になってしまうことの意味であろう。後者の超越神の次元が重要である。
 これは、多神教の視点から見ると、差異共振面が隠れたのである。プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Pointや虚軸次元が隠れたと言えよう。しかしながら、単純に、実軸次元の現象界だけが生じたのではなく、隠れた差異共振面、Media Pointが超越神になったということではないだろうか。
 この超越神化が最重要なポイントである。つまり、ここには、一種の切断があるのである。問題は、超越神化をどう理論的に説明するのかである。
 思うに、やはり、エネルギーの発出を見るべきである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における、同一性志向性である⇒が一神教の志向性であると思う。そして、⇒の左辺が超越神化されたのであり、右辺が被造物と考えられる。この同一性化のために、左辺の差異共振性は一神教化されたと言えるだろう。考えてみると、聖書において、ヤハウェとエローヒーム(神の複数)の二つの神の名があるのであるが、エローヒームが多神教の名残と言えるだろう。つまり、差異共振性の名残であろう。それが、同一性志向性によって、一神教化へと進展して、ヤハウェが中心化されたと言えるだろう。だから、聖書の段階では、多神教と一神教の間で揺らいでいたと言えるだろう。そして、ユダヤ教とキリスト教がそれを一神教に固定・ドグマ化したと言えるのではないだろうか。
 とまれ、以上から、本テーマが解明されたのではないだろうか。整理すると、多神教においては、Media Pointが実存していて、虚軸の差異共振性・超越性と実軸の同一性とが共存・共立しているのであるのに対して、一神教においては、エネルギーの賦活と放出によって、同一性志向性が強化されて、虚軸性と実軸性とが分離して、前者が超越神となり、後者が被造物になったのであり、同一性志向性によって、虚軸性は多神教から一神教へと転換されたと考えられるということである。
 そう考えると、簡単に言うと、⇒の起点と終点が共存している(Media Pointが開放系となっている)のが多神教であり、起点と終点が分離して(Media Pointが変質して、二分化・二元論化された:Split Mediaと呼べるだろう)、終点が強化されたのが一神教であると言えるのではないだろうか。
 また、言い換えると、前者は太極が生動しているのであるが、後者は太極が極限化して、陽が極大化した様態ではないだろうか。そのために、陰が超越神化されたように思えるのである。そうすると、興味深いことに、ヤハウェとは、陰の神になるのである。確かに、嫉妬深い神であり、一種ヒステリー状態である。悪い意味で女性的である。月である。ここで想起するのは、神秘学者のシュタイナーが、ヤハウェを月に留まった太陽霊と考えていたことである。
 すると、今日、トランス・モダンを迎え、Media Pointが回帰することになるのであるが、それは、太極の回帰であり、真の太陽神の回帰であろう。新たな天の岩戸の開扉である。神道の復活、新神道の誕生である。


2008年02月14日(Thu)▲ページの先頭へ
同一性中心主義の解体へ向けて:日本語言論と神仏文化のルネサンスへ向けて
我々が陥っている近代主義の「ブラックホール」からのエクソダスの方法について述べたい。
 差異と同一性については、うんざりするほど述べてきたが、また後で別稿で言いたいと思うのであるが、ここでは、言論の最重要性について述べたい。これは、同時に、メディアの問題であるし、また、現代日本語の有り様の問題でもある。
 日本社会が今日おそろしく停滞し混迷していて、危機的状況であるのは、一つは言論が生きていないことにあると思う。幸い、ブログというミクロ・メディアを今日手にすることができたので、自由に言論を発することができるようになり、これは、「民主主義」の大きな前進である。
 しかしながら、ブログのある種の限界も見えてきているだろう。それは、多様なブログが存在しているが、社会に重要な提言をするブログが一般には注目されずに終っているということである。つまり、ブログのパブリック性の問題である。とまれ、これについては、ここではこれ以上述べない。
 私は今日、日本社会・政治・経済・文化が途方もない危機に陥っていると考えている。一言で言えば、知的麻痺状態である。文化的痴呆状態である。この根因の一つには、言論が衰退していることにあると思う。(言論をここでは広義にとる。文学も言論として取りたい。)
 そう、言葉、日本語、口語・文章語の衰退でもある。つまり、言論と言語・言葉の衰退が今日生じて、日本総体の衰退の原因ともなり、またそれと平行していると考えられるのである。
 私事であるが、最近、古い日本語を読み、その鮮烈さに感銘を受けたのである。岡倉天心の『茶の本』(村岡博訳:先にも述べたが、これは達意の名訳である)、徳富蘆花の『自然と人生』(一部)、宮沢賢治の「ビジテリアン大祭」等であるが(さらに以前には、聖書の古文訳を読み、その生命に驚いた)、それぞれ、今から見ると、確かに、古風であるが、それでも、今日に通じる生き生きとした日本語である。日本語の古典である。
 どれも、戦前であることに注目すべきであろう。三島由紀夫の文体よりもはるかに律動があるのである。おそらく、日本人は、戦後において、精神を喪失したのである。そう、生きた言論を生むのは、精神である。魂であり、心である。それを、日本人は喪失したのである。
 三島由紀夫がいみじくも言った「断絃の時」とは、戦後において生じたと言えよう。日本人の精神の死である。
 これについては既に何度も述べたので詳述しないが、一言いえば、日本の伝統文化である神仏文化が否定されたことであり、近代合理主義が金科玉条になったことである。
 そう、近代科学主義が戦後日本を支配し、今日も支配しているのである。言い換えると、唯物論が支配しているのである。これは、金融資本主義を跋扈させるのである。自由主義経済社会、自由主義・民主主義社会とは、本来、個(己・自己・自)の自由な発展に基づく社会である。
 しかるに、唯物的科学・技術が支配的であると、それは、個を自我に限定して、近代的自我に変質させてしまうのであり、それが戦後・現代日本に生じたことだと考えられるのである。
 個(以下、個己)の自由な発展ではなく、近代的自我の我が侭が中心化されてしまったのである。もっとも、これは、日本だけでなく、世界において大なり小なり起ったことと考えられる。
 西洋におけるルネサンスとプロテスタンティズムは、自由な個己の勃興を意味したのであり、それが、明治維新日本にも文化的に押し寄せたと言えよう。しかしながら、近代西洋自体、文化的に混乱して、近代合理主義と個己主義とが混交していたのである。それが日本に押し寄せたのである。
 強く指摘すべきことは、明治維新以後の日本において、精神文化が芽生えたことがあげられるだろう。ある意味で明治日本とは、日本文化ルネサンスであったと考えられるのである。漱石を始め、優れた文豪が生まれ、また、宗教・哲学・科学等においても独創的な探求が生まれた。
 簡潔に言えば、明治維新後において、日本文化ルネサンスが生まれたのであり、それは、日本的個己主義が創造されたのである。そして、それは、実は、差異共振主義であったと考えられるのである。宮沢賢治の思想はコスモス的であるが、それは、宇宙的差異共振主義、宇宙的差異共同体主義である。
 問題は、明治維新後の日本文化ルネサンスとは別に、軍国主義が発生して、自国や外国を地獄に突き落としたことである。戦後、連合国占領軍によって、「日本改造」が行なわれて、日本文化のエッセンスである神仏文化が根こそぎにされたのである。それは、恐るべきヴァンダリズムであったと言えよう。
 戦後日本とは、肝を抜かれた日本であり、文化的に死せる日本であったと言えよう。もっとも、戦後民主主義は、それなりに市民・国民に希望を与えた。しかしながら、自国の文化を喪失した上での民主主義であり、それは浅薄なものである。民主主義は本来西洋文明の土壌の上で発達したものである。
 とまれ、近代主義という限定があったとは言え、民主主義は、個己を認める政治理念であると評価することができるだろう。しかしながら、今日、近代主義が飽和した状態において、民主主義は生ける屍になってしまった。
 個己主義を肯定するならば、近代主義を越えて、トランス・モダンへと進化する必要があるのである。それは、ある意味で、明治維新・日本文化ルネサンスへと螺旋的に回帰することになるだろう。神仏文化を取り戻したトランス・モダン・ジャパンになるだろう。
 そう、これは、当然ながら、近代科学主義・唯物論を超越することになるのである。また、これは、現代の同一性交換価値中心の金融資本主義を超越することになるのである。当然、戦後を支配した、自民党近代主義を超越することになるのである。公共投資利権政治を超越することになるのである。
 このトランス・モダン・ジャパンへと進化するには、ここで私が一番主張したいことである日本語言論のルネサンスが必要なのである。言葉、言葉、言葉である。言葉はいわば思想・精神・知性の容れ物であるが、いわば、相即不離である。言葉の衰退は思想・精神・知性の衰退であり、逆も同様である。
 今日、同一性中心主義である金融資本主義が権力化している。それは、自由な言論を封殺するものである。また、メディアを買収して、御用記事を書かせるのである。そう、金融資本主義という化け物が支配しているのである。これは父権的同一性中心主義の帰結である。
 これを突破するためにも、自由な言論が必要なのである。金権力は暴力で支配するのである。その支配に対抗するには、言論のルネサンスが必要があるし、日本語のルネサンスが必要であるし、日本伝統文化である神仏文化の復興が必要なのである。
 それは、当然、唯物論の超克でもある。戦後の唯物科学教育を乗り越える必要があるのである。心、魂の死からの復活が必要なのである。そう、日本語の古典に帰る必要がある。温故活魂である。魂言復活である。


差異共振主義である己由共振体経済へ向けて:食料における同一性価値中心主義が問題だろう
食料における同一性価値中心主義が問題なのではないだろうか。確かに、安価なものは魅力的である。百円ショップや99円ショップに目が行くのである。しかしながら、差異価値を考えると、単純に経済合理主義では済まないないだろう。同一性価値と差異価値とのバランスが必要である。
 商品価値と交換価値の問題。後で検討。

愚痴:それにしても、私のような経済の素人が、経済「学」を考えなくてはならないとは、どういうことなのか。経済理性学があってしかるべきである。経済合理主義ではなく、経済理性学である。
 経済理性学が生まれないのは、経済は欲望・権力・暴力・狂気・獣性等と関係しているので、反理性主義に陥るからではないだろうか。そう、経済哲学が必要なのだろう。
 つまり、自由主義経済とは何かという問題が根幹となるだろう。プロト・モダンにおいては、差異共振性が発現していたと考えられるが、エネルギーの放出の結果、同一性中心主義になってしまったのである。つまり、自由主義が自我中心主義・利己主義に転じたのである。
 自由とは、本来、差異において、Media Pointに存するのである。民主主義も本源は、差異にあったのであるが、それが、同様の結果となっているのである。つまり、近代の末期・終末に現代、達していると考えられるのである。ポスト・モダンは、真のポスト・モダンではなく、過渡期であった。真のポスト・モダンは、トランス・モダンである。
 だから、トランス・モダン自由主義経済を考えるべきであろう。これは、差異共振主義経済ということであり、差異共振共同体経済である。(民主主義も差異共振化すべきである。)
 このトランス・モダン自由主義とは、自由差異共振主義とも言えるだろう。ここでは、単に経済だけでなく、政治が重要なハブとなるのである。差異共振主義理念によって、共振社会体(共同体)を構築するような政策が重要になるだろう。
 後で検討したい。 

p.s. 英語では、freedomはfree fromで束縛からの自由であり、liberalは、自由人の自由である。東洋文化において、自には、優れて哲学・宗教的な意味がある。自然(じねん)、自性(じしょう)、等。「おのずから」である。これは、自己・「こころ」・魂からということである。Media Pointからということである。そう、老子の無為自然は、「むいじねん」であろう。
 この意味で自由を考えるべきである。言葉が誤用されているので、自由を個由・己由とするといいのかもしれない。個由主義、己由主義である。己由主義経済、これは、同一性を包摂した差異共振経済を意味していると考えられる。己由共振体経済である。

[中国製ギョーザ]人為的混入を否定、共同捜査提案…中国
2008年02月13日22時44分
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 【北京・浦松丈二】中国製冷凍ギョーザの中毒事件で、中国国家品質監督検査検疫総局の魏伝忠副総局長(次官級)は13日、記者会見し、「(有機リン系殺虫剤の)人為的混入の形跡は見つかっていない」と述べた。一方で、公安当局が独自に捜査を進めているとして、日本の警察当局と中国の公安当局による共同捜査を提案した。

 魏副総局長によると、日本生活協同組合連合会から提供を受けた冷凍ギョーザを調べた結果、殺虫剤は検出されなかったという。12日には、李長江総局長(閣僚級)らが製造元「天洋食品」の工場を再び視察したほか、生産記録を詳しく調べたというが、「生産から輸出までの各段階で異常はなく、人為的な破壊の可能性はほぼ存在していない」と強調した。

 殺虫剤が密閉された包装袋内部から検出されたことについても「開封したものを再び密封することは可能だ」と述べ、工場内での人為的な混入を裏付けることにはならないとする認識を示した。

 一方、公安省が6人の専門家による捜査チームを現地に派遣したほか、河北省の公安当局が工場従業員への事情聴取を行ったことも明らかにした。さらに、「中日の警察当局が共同調査機構を設立するよう提案する」と表明し、日本の警察当局者の訪中受け入れにも前向きな姿勢を示した。

 中国当局者が捜査経過を公表するのは極めて異例。日本での対中感情の悪化を懸念しているとみられる。

http://news.livedoor.com/article/detail/3508769/


2008年02月13日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:同一性志向性とは何か:超越的双極差異(イデア)のMedia Pointゼロ度相互否定(相互反射)仮説
⇒+1の同一性暴力の意味について考えたい。差異共振性を否定するその暴力の起源は何か。差異共振性というエネルゲイアの結果であるエンテレケイアの同一性がどうして、差異共振性という母体を否定するのか。言い換えると、生成した物質はどうして、根源のイデアを否定するのか、ということである。この排除の力はどこから発生するのか。
 ここで思考実験すると、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺が、Media Pointにおいて、相互否定作用を起こすと仮定しよう。即ち、(+i)⇔(-i)であり、(+i)^2・(-i)^2となるとしよう。即ち、(-1)・ (-1)=+1である。これが、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺ではないのか。
 もしそうならば、同一性は差異共振性において、双極差異が相互否定した結果、生成することになる。深層において、確かに、Media Pointが実存するが、それを否定・排除・隠蔽するように同一性・自我が発生するということではないのか。
 もしそうだとするなら、問題は、太母宗教(多神教)と父権宗教(一神教)との違いの説明である。先に、前者は自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺を残し、後者は左辺を否定・排除して、右辺中心であると言ったのであるが、それをどう説明できるのか、ということである。
 思うに、前者は、多元(多神)的同一性の発生過程を捉えているのであり、そのため、左辺を残しているのではないのか。差異共振性から双極差異が相互否定化して物質化(現象化)するという創造(造化)を捉えていると言えるのではないだろうか。例えば、神道の場合、三柱の神(三つ巴)による造化(産霊むすひ:結びと言っていいのではないだろうか)ということで、左辺から右辺へ生成を把捉しているのではないだろうか。
 端的に言えば、Media Pointを把握・理解しているということである。つまり、認識が自我認識ではなく、差異認識、差異共振認識を行なっているということである。
 それに対して、父権宗教(一神教:主にユダヤ・キリスト教)の場合は、差異共振性を否定した同一性の形成が中心化されているということではないだろうか。つまり、双極差異の自己否定から発しているのであり、それ以前の根源の差異共振性が隠蔽されているということではないだろうか。ヤハウェは「我在りて、在り余れる神なり」という神であるから、当然、自我の神である。「光あれ」とは、正に、自我発生を意味するだろう。即ち、⇒+1である。つまり、創世記の神霊は、同一性の神霊ということだろう。根源の双極差異を相互否定させる同一性の神霊である。即ち、(+i)・[-(-i)]における-(-i)の最初の-が同一性の神霊と考えられる。同一性・相互否定・自乗の神霊である。そう、物質現象の神霊と言える。だから、創造神というのは、その意味で、正しいのである。
 ならば、さらに問題は、この同一性とはどこから発しているのか、である。つまり、同一性志向性はどこから発しているのか、である。作業仮説であるが、ゼロ度反射、Media Pointにおけるゼロ度反射を仮定しよう。ここにおいて、双極差異±iは自己反射して、各々、(+i)^2=-1と(-i)^2=-1になるのではないだろうか。そして、それらの積が+1ということではないだろうか。
 もしそうながら、同一性志向性とは、Media Pointゼロ度自己反射から生成するということになるだろう。言い換えると、Media Pointゼロ度とは、鏡なのではないだろうか。そして、ゼロ度自己反射=鏡(Media Point Mirror)によって、鏡像、双極鏡像が発生するのではないだろうか。そして、この双極鏡像が一体化して、同一性=物質=自我現象が発生するのではないだろうか。
 また、(+i)^2=-1と(-i)^2=-1の箇所であるが、正しくは、(+i)^2⇒-1と(-i)^2⇒-1であり、前者が心、後者が身体になるのではないだろうか。つまり、心身二元論の発生である。正確に言えば、西洋心身二元論の発生である。mind&bodyの二元論である。
 それに対して、東洋太母文明では、Media Pointを心と捉えていたと思う。だから、心と言ったとき、西洋文化と東洋文化では混乱・混同が生じるのである。また、魂と言ったとき、それは、超越的双極差異のことを指すだろう。つまり、イデアである。では、霊とは何かと言えば、それは、魂と心の両面を指すのではないだろうか。そうならば、Media Pointの心を明確にするために、気心・魂心とでも呼ぶべきかもしれない。
 とまれ、西洋の心とは、いわば、同一性化された心である。自我的な心である。物質化された心である。因みに、スピノザの心身平行論を考えると、それは、上記の心身二元論をベースにしているわけであるが、平行論において、心は、実は、Media Pointの心、すなわち、気心・魂心が入っていると考えることができよう。今はここで留めることにする。


差異共振性(双子)と同一性(自我・片割れ):エネルギーのエンテレケイア(終点)としての父権暴力:Ver 2
先に、民主主義に関して、同一性における差異・特異性の必要を述べたが、それは正しいのであろうか。認識の問題であり、根本的である。
 認識するとき、対象(差異)を初め同一性化(言語化)するように思われる。知覚において、ある対象が存するが、それは、判然としていない。それを同一性化=言語化して把握するのである。そして、言語化とは一種の物質化であると思う。
 しかし、微妙な問題は、差異の排除の問題である。初期知覚(原知覚)において、差異をなんらか捉えていると思われるのである。つまり、認識主体の Media Pointから対象を「知覚」しているのある。即ち、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の様相である。差異共振相である。しかしながら、認識主体は、同一性化=言語化へと進展するのである。このとき、差異が排除されるのである。しかしながら、認識主体は、最初は、差異が同一性から切り離されるのを知っていると思われるのである。つまり、認識主体は、自己が、いわば、双子であるのを知っているの思うのである。【自己認識方程式(+i)*(-i) ⇒+1の左辺は双子を意味しているように思えるのである。】
 つまり、初めに、差異共振(双子)ありき、である。その後、言葉が発生するのである。言葉への意志が⇒で、言葉が+1であろう。そして、これが、自我でもあり、また、同一性認識でもある。これは、また、物質でもあろう。【ヨハネの福音書では、初めにロゴス(言葉)ありき、になっているが、それは、ミスリーディングないしは誤りであると考えられる。しかし、ロゴスを理性とするならば、それは、正しいだろう。真の理性は、Media Pointに存すると考えられるからである。根本理性ないしは超越理性である。】
 同一性認識が形成されるとき、自我は、最初は排除した片割れを知っていると思うのであるが、その後、自我が進展すると、それを忘却すると思われるのである。双子であった自己を忘却して、単体の自我であると思い込むのである。自己盲目・無明の発生である。この事態が双子の神話や兄弟殺しの神話に表現されていると思うのである。カストルとポルックス、海幸・山幸、カインのアベル殺し等々である。【因みに、最古の叙事詩と考えられている『ギルガメシュ叙事詩』であるが、英雄ギルガメシュと朋友のエンキドゥーも一種双子ないしは兄弟の神話を意味しよう。そして、エンキドゥーが犠牲として亡くなるというのは、一種の兄弟殺しを意味するのではないだろうか。父権制は、双子・兄弟から兄弟殺しへの転換をも意味すると考えられる。参照:ディオスクロイ
http://ja.wikipedia.org/wiki/
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%AA%E3%82%B9%E3%82%A
F%E3%83%AD%E3%82%A4

 そして、この問題に鏡像が関係してくるのである。ここに哲学的根本問題があると言っても過言ではないだろう。【メルロ・ポンティがこの問題を探求したが、後一歩及ばなかったのではないかと推測される。】思うに、双子は賢者・知者なのである。あるいは、ソフィア(叡知・知恵)である。しかし、それが同一性化=言語化へと向かうとき、双子を否定して、自我知を形成するのである。双子は、無意識となるが、自我知を認識しているのである。つまり、ここでは、自我とは、第三者であろう。ということは、三つ子となるのではないだろうか。それとも、双子を一人と考えて、二人と数えるのか。この問題はおいておこう。
 とまれ、自我中心主義が発生する以前は、差異共振の双子と同一性の自我が存しているのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺の状態が「知覚」されているのである。そして、この自己認識の光学は実に不思議である。本当は、双子が根源的光(超越光)であり、自我が派生した物質的光(ほぼ現象光)であり、いわば、前者が光であり、後者が闇であるが、それが反転して、前者が闇、後者が光となるのである。おそらく、また、前者が無、後者が有と認識されるのである。【ヤコブ・ベーメ等の神秘主義者が、根源を闇と表現したのは、この反転した様態においてと見るべきであろう。あるいは、三島由紀夫が無と見たものも同様である。仏教の絶対無も同様であろう。】思うに、ニーチェが自身の哲学の光学についてよく述べていたが、それもこの意味で解すべきであろう。ニーチェの初期のディオニュソスとアポロという概念も同様であると考えられる。
 ここで宗教・神話について触れると、太母神話は、自己認識方程式の両辺を肯定的に残しているのであるが、父権神話は、左辺を否定して、右辺を肯定する力学になっているのである。言い換えると、光学の反転・逆転が生じているのである。価値観の逆転があるのである。
 さて、冒頭で述べた、私説の民主主義批判における、同一性における差異・特異性の問題であるが、これは、結局、これまで述べてきた、超越性と同一性との即非性の問題に帰結することがわかるのである。対象は同一性であると同時に、差異(差異共振性)であるということである。これを、比喩的に、双子認識と言ってもいいだろう。それに対して、同一性・自我の認識を片割れ認識と言ってもいいだろう。とまれ、同一性における差異・特異性の問題はこれで解明されたこととしたい。
 結局、民主主義は片割れ認識しかなく、不幸な認識の状態であると言えよう。それは、自己認識・双子認識が欠落しているのである。【p.s. ここは、少し短絡的かもしれない。民主主義は、根源的には、Media Pointから発しているが、それが、同一性認識に吸収されてしまっているのである。これは、キリスト教の隣人愛と同質の様態であるように思える。また、本居宣長の大和心とも通じるように思える。結局、Media Pointの自我同一性化である。このとき、差異共振性・共感性(造語して、共心性)は、自我感情移入になると思われるのである。後で精査したい。】
 最後に、太母神話と父権神話の力学について、また、検討したい。これに関係する事柄は、これまで、百回くらいは論じた問題である。
 結局、どうして、自我は差異共振性を否定するような力学を帯びるのかということである。太母神話・多神教の場合は、同一性(エジプト神話で言えば、オシリス、ギリシア神話では、アポロ、神道では日御子)が生じても、差異共振性(イシス、ディオニュソス、天之御中主神)が顕在しているのに対して、父権神話では、たとえば、バビロニア神話のように、英雄マルクトが、母なる怪獣ティアマトを殺戮して、そこから天地を創造するのである。【聖書では、太母神は、無になっているだろう。】
 いったい、この力学はどこから発生したものなのか。差異共振性(双子)を否定する力はどこから生まれたのかである。父権暴力の発生である。
 私はこれまで、太極原理から説明したが、それでも、判然としていないのである。つまり、理屈にはなるが、解明ではないのである。あるいは、同一性への根源的な傾斜ということで説明したが、それでも、釈然としないのである。
 ここで少し迂回しよう。直感では、父権暴力は、弱さをもっているのである。自己を見つめられないと(内観できない、省察できない)いう弱さをもっているのである。だから、ある刺激に対して、反動的に反応するのである。自我同一性をもって反応するのである。つまり、認識主体が、内観が欠落して、外界観察のみなのである。
 ここで、先に述べた、+1が(+i)*(-i)を否定するということを想起して考察しよう。+1とは、自我認識・同一性認識・物質認識・外界認識である。この認識は、(+i)*(-i)を認識できないのである。【ここは、ほとんどカントの純粋理性批判である。カントの理性は、混乱しているのではないだろうか。同一性と差異が混淆しているのではないだろうか。つまり、差異共振知と同一性知が混淆していると考えれる。そこで、アンチノミーが発生すると考えられるのである。もっとも、カントは、Media Pointを同一性論理で捉えようとしたとは言えるのではないだろうか。カントには、即非の論理の発想が全くなかったのである。とまれ、後で検討したい。】+1が優位になったとき、(+i)*(-i)が排除されることになるのである。
 問題は、+1が優位になる力学である。言い換えると、近代主義の力学である。デカルト哲学である。これは、意外に簡単なことなのではないのか。つまり、エネルギーの進展の問題である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、エネルギーの方向性を示しているのではないのか。つまり、左辺から右辺へとエネルギーが流れて、右辺へと帰結するということではないのか。換言すると、エネルゲイア(活動態)がエンテレケイア(終局態)になるということではないのか、ということである。
 そう考えると、父権暴力とは、エネルギーの帰結として発生するということになるだろう。物質暴力と言ってもいいだろう。同一性暴力でもいい。だから、当然、エネルギー様態は左辺から右辺へと傾斜しているということであり、当然、自我同一性は、差異共振性を否定することになると言えるのである。これで説明できた。
 では、父権的自己(自我主義)の弱さとは何か。それは、源泉である差異共振性、即ち、Media Pointを継続して排除せざるをえない状態にあることにあるのではないだろうか。つまり、差異共振性の否定を反復しないといけないと考えられるのである。本源に実存するものを反復的に否定しなくてはいけないである。つまり、一種病理的な状態にあるのである。【p.s. フロイトの反復強迫の概念は、この点から、捉え直されるべきであろう。そう、全般に、精神分析仮説は、プラトニック・シナジー理論の視点から、書き換えられるべきである。ついでに言えば、ユング心理学もそうである。結局、プラトニック・シナジー理論は心理学の革新でもある。それは、超越的心理学である。】このために、父権的自己(自我主義)は、仮想敵を必要とするのである。内的な否定・シャドウを投影するのである。【この内的な否定が、ニーチェの言うルサンチマンである。あるいは、ユダヤ・キリスト教的な憎悪である。キリスト教の愛とは、ニーチェがいみじくも喝破したように、憎悪と一如であろう。自我愛=隣人愛とは、差異共振性という共感性を否定しているのである。p.s. 罪の赦しとは何か、後で検討したい。】
 永遠のエネルギーの源泉であるMedia Point(差異共振性)を否定する父権暴力のユダヤ・キリスト教西洋文明がようやく終焉しつつあるのであるが、これは、東洋で言えば、儒教的父権文明の終焉であろう。
 新しい太母文明が生まれることになるが、夜明け前の闇は深く、超激震が襲うのである。 


差異共振性(双子)と同一性(自我・片割れ):エネルギーのエンテレケイア(終点)としての父権暴力
先に、民主主義に関して、同一性における差異・特異性の必要を述べたが、それは正しいのであろうか。認識の問題であり、根本的である。
 認識するとき、対象(差異)を初め同一性化(言語化)するように思われる。知覚において、ある対象が存するが、それは、判然としていない。それを同一性化=言語化して把握するのである。そして、言語化とは一種の物質化であると思う。
 しかし、微妙な問題は、差異の排除の問題である。初期知覚(原知覚)において、差異をなんらか捉えていると思われるのである。つまり、認識主体の Media Pointから対象を「知覚」しているのある。即ち、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺の様相である。差異共振相である。しかしながら、認識主体は、同一性化=言語化へと進展するのである。このとき、差異が排除されるのである。しかしながら、認識主体は、最初は、差異が同一性から切り離されるのを知っていると思われるのである。つまり、認識主体は、自己が、いわば、双子であるのを知っているの思うのである。【自己認識方程式(+i)*(-i) ⇒+1の左辺は双子を意味しているように思えるのである。】
 つまり、初めに、差異共振(双子)ありき、である。その後、言葉が発生するのである。言葉への意志が⇒で、言葉が+1であろう。そして、これが、自我でもあり、また、同一性認識でもある。これは、また、物質でもあろう。【ヨハネの福音書では、初めにロゴス(言葉)ありき、になっているが、それは、ミスリーディングないしは誤りであると考えられる。しかし、ロゴスを理性とするならば、それは、正しいだろう。私は、真の理性は、Media Pointに存すると言っているのである。】
 同一性認識が形成されるとき、自我は、最初は排除した片割れを知っていると思うのであるが、その後、自我が進展すると、それを忘却すると思われるのである。双子であった自己を忘却して、単体の自我であると思い込むのである。自己盲目・無明の発生である。この事態が双子の神話や兄弟殺しの神話に表現されていると思うのである。海幸・山幸、カインのアベル殺し等々である。
 そして、この問題に鏡像が関係してくるのである。ここに哲学的根本問題があると言っても過言ではないだろう。(メルロ・ポンティがこの問題を探求したが、後一歩及ばなかったのではないかと推測される。)思うに、双子は賢者・知者なのである。あるいは、ソフィア(叡知・知恵)である。しかし、それが同一性化=言語化へと向かうとき、双子を否定して、自我知を形成するのである。双子は、無意識となるが、自我知を認識しているのである。つまり、ここでは、自我とは、第三者であろう。ということは、三つ子となるのではないだろうか。それとも、双子を一人と考えて、二人と数えるのか。この問題はおいておこう。
 とまれ、自我中心主義が発生する以前は、差異共振の双子と同一性の自我が存しているのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の両辺の状態が「知覚」されているのである。そして、この自己認識の光学は実に不思議である。本当は、双子が根源的光(超越光)であり、自我が派生した物質的光(ほぼ現象光)であり、いわば、前者が光であり、後者が闇であるが、それが反転して、前者が闇、後者が光となるのである。おそらく、前者が無、後者が有と認識されるのである。(ヤコブ・ベーメ等の神秘主義者が、根源を闇と表現したのは、この反転した様態においてと見るべきであろう。あるいは、三島由紀夫が無と見たものも同様である。仏教の絶対無も同様であろう。)思うに、ニーチェが自身の哲学の光学についてよく述べたいたが、それもこの意味で解すべきであろう。ニーチェの初期のディオニュソスとアポロという概念も同様であると考えられる。
 ここで宗教・神話について触れると、太母神話は、自己認識方程式の両辺を肯定的に残しているのであるが、父権神話は、左辺を否定して、右辺を肯定する力学になっているのである。言い換えると、光学の反転・逆転が生じているのである。価値観の逆転があるのである。
 さて、冒頭で述べた、私説の民主主義批判における、同一性における差異・特異性の問題であるが、これは、結局、これまで述べてきた、超越性と同一性との即非性の問題に帰結することがわかるのである。対象は同一性であると同時に、差異(差異共振性)であるということである。これを、比喩的に、双子認識と言ってもいいだろう。それに対して、同一性・自我の認識を片割れ認識と言ってもいいだろう。とまれ、同一性における差異・特異性の問題はこれで解明されたこととしたい。
 結局、民主主義は片割れ認識しかなく、不幸な認識の状態であると言えよう。それは、自己認識・双子認識していないのである。
 最後に、太母神話と父権神話の力学について、また、検討したい。これは、これまで、百回くらいは論じた問題である。
 結局、どうして、自我は差異共振性を否定するような力学を帯びるのかということである。太母神話・多神教の場合は、同一性(エジプト神話で言えば、オシリス、ギリシア神話では、アポロ、神道では日御子)が生じても、差異共振性(イシス、ディオニュソス、天之御中主神)が顕在しているのに対して、父権神話では、たとえば、バビロニア神話のように、英雄マルクトが、母なる怪獣ティアマトを殺戮して、そこから天地を創造するのである。(聖書では、太母神は、無になっているだろう。)
 いったい、この力学はどこから発生したものなのか。差異共振性(双子)を否定する力はどこから生まれたのかである。父権暴力の発生である。
 私はこれまで、太極原理から説明したが、それでも、判然としていないのである。つまり、理屈にはなるが、解明ではないのである。あるいは、同一性への根源的な傾斜ということで説明したが、それでも、釈然としないのである。
 ここで少し迂回しよう。直感では、父権暴力は、弱さをもっているのである。自己を見つめられないという弱さをもっているのである。だから、ある刺激に対して、反動的に反応するのである。自我同一性をもって反応するのである。つまり、認識主体が、内観が欠落して、外界観察のみなのである。
 ここで、先に述べた、+1が(+i)*(-i)を否定するということを想起して考察しよう。+1とは、自我認識・同一性認識・物質認識・外界認識である。この認識は、(+i)*(-i)を認識できないのである。(ここは、ほとんどカントの純粋理性批判である。カントの理性は、混乱しているのではないだろうか。同一性と差異が混淆しているのではないだろうか。つまり、差異共振知と同一性知が混淆していると考えれる。そこで、アンチノミーが発生すると考えられるのである。もっとも、カントは、Media Pointを同一性論理で捉えようとしたとは言えるのではないだろうか。カントには、即非の論理の発想が全くなかったのである。とまれ、後で検討したい。)+1が優位になったとき、(+i)*(-i)が排除されることになるのである。
 問題は、+1が優位になる力学である。言い換えると、近代主義の力学である。デカルト哲学である。これは、意外に簡単なことなのではないのか。つまり、エネルギーの進展の問題である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、エネルギーの方向性を示しているのではないのか。つまり、左辺から右辺へとエネルギーが流れて、右辺へと帰結するということではないのか。換言すると、エネルゲイア(活動態)がエンテレケイア(終局態)になるということではないのか、ということである。
 そう考えると、父権暴力とは、エネルギーの帰結として発生するということになるだろう。物質暴力と言ってもいいだろう。同一性暴力でもいい。だから、当然、エネルギー様態は左辺から右辺へと傾斜しているということであり、当然、自我同一性は、差異共振性を否定することになると言えるのである。これで説明できた。
 では、父権的自己(自我主義)の弱さとは何か。それは、源泉である差異共振性、即ち、Media Pointを継続して排除せざるをえない状態にあることにあるのではないだろうか。つまり、差異共振性の否定を反復しないといけないと考えられるのである。本源に実存するものを反復的に否定しなくてはいけないである。つまり、一種病理的な状態にあるのである。このために、父権的自己(自我主義)は、仮想敵を必要とするのである。内的な否定・シャドウを投影するのである。(この内的な否定が、ニーチェの言うルサンチマンである。あるいは、ユダヤ・キリスト教的な憎悪である。キリスト教の愛とは、ニーチェがいみじくも説いたように、憎悪と一如であろう。自我愛=隣人愛とは、差異共振性という共感性を否定しているのである。)
 永遠のエネルギーの源泉であるMedia Point(差異共振性)を否定する父権暴力のユダヤ・キリスト教西洋文明がようやく終焉しつつあるのであるが、これは、東洋で言えば、儒教的父権文明の終焉であろう。
 新しい太母文明が生まれることになるが、夜明け前の闇は深く、超激震が起こるのである。 


2008年02月12日(Tue)▲ページの先頭へ
民主主義の平等の発生について:平等とは何か:ポスト民主主義としての差異共振政
日本国憲法を読めば、そこには、精神貴族的価値が盛り込まれているのがわかる。文化的生活とは、精神貴族的生活ということである。民主主義の価値とは、精神貴族的価値であり、それは、差異価値である。
 さて、民主主義で一番の問題は平等である。確かに、国民主権・主権在民も問題であるが、それ以上に平等が一番のポイントであると思う。
 アメリカの有名な独立宣言には、God created us equal.(神が我々を平等に造った。)がある。いわば、民権神授説である。平等神授説である。これを解明しなくてはならない。
 キリスト教的水平主義である。超越神が人知を超えた高みに存し、個々の人間を平等に愛しているということが根源にあるだろう。つまり、超越神の視線から、人間を見て、平等観が生まれていると言えるのである。そう、無限の高みから、有限の個体としての人間を見たら、平等に見えるのだろう。
 しかしながら、ここには、差異がない。平等という発想には、差異がないのである。これをどう説明するのかである。
 ここで発想・見方を変えよう。プロト・デモクラシー(原民主主義)において、Media Pointの開かれていて、差異共振エネルギーが賦活されていたとしよう。(これは、基本的には、ルネサンスと同じ心的様態であると私は思う。)
 その心的様態にあって、個人の利益を擁護する必要が生じたと考えられるのである。北米の場合は、宗主国イギリスに対する独立の必要が起こるし、フランスでは、王権に対して市民の個人の利益を守ることが目指され、啓蒙主義からフランス革命へと発展した。
 つまり、先にも述べたが、それらにおいて、差異共振エネルギーが自我同一性・近代的自我へと展開していると思われるのである。言い換えると、差異が同一性へと連続的に発現している様態である。(思うに、今日、民主主義を主張する人もこのような様態に近いと思えるのである。)
 この差異の同一性への展開であるが、それは、他者に対して、同一性を投影するのである。しかしながら、源泉には、差異共振エネルギーがあるから、その同一性像は一種共感性をもっていると考えられるのである。
 ここは、精緻に考えるべきである。差異共振エネルギーが同一性化へと作用する。ここで、他者に対して、同一性像を投影されるのである。つまり、他者は同一性として存在を与えられることになるのではないだろうか。つまり、他者の差異性を排除したところに形成される同一性像を他者はもつということではないだろうか。同一性としての他者である。だから、他者ではなくて、同一性の個体である。
 問題は、それに対する共感性である。差異共振エネルギーが連続・同一性化するのであるから、そこには、癒着的感情が生じると思われるのである。だから、正しく言えば、共感性ではなくて、同情である。同一性感情である。これは、自我同一性の感情である。共感性とは似て非なるものである。
 以上から、平等という観念は、差異共振エネルギーが連続・同一性へと展開するときに発生する観念であると考えられるのである。他者の差異を排除した同一性投影像と自我同一性感情(同情)とが結合して観念と言えるだろう。
 だから、端的に言えば、平等観念とは、近代的自我・近代合理主義と一体の観念システム(イデオロギー)であると言えよう。
 これで、解明は終わった。やはり、差異を肯定すると、差異共振性を肯定すると、民主主義も解体する必要があるのである。しかしながら、同一性を包摂した差異主義であるから、平等性は包摂することになると思えるのである。同一性平等である。同一性価値である。しかし、それは、差異共振性のための、インフラである。結局、民主主義を包摂した差異共振主義ということになるのだろう。

p.s. しかしながら、どうも、釈然としない気持ちがある。直感と、以上の結論が合致していないからである。私の直感では、差異共振性とは、差異である他者との共振であり、そこには、同一性はないからである。
 具体的に考えよう。たとえば、老人で病気で手術をしなくてはならない、弱々しい人がいるとしよう。見ているだけで、気の毒である。その老人は、同一性なのだろうか。人間という同一性はあるだろう。その同一性から、私はその老人を気の毒と思うのか。そんなはずはないだろう。病院の看護師は、老人に親身に世話をする。それは、やはり、老人を同一性と見てそうするのか。そんなはずはない。
 看護師が老人を親身に世話をするのは、老人を差異として捉えているからではないのか。もし、同一性ならば、機械である。個物である。ロボットである。もっとも、ロボットを擬人化して、扱うこともあろうが。看護師は、その他の患者に対しても、親身に世話をする。差異共振性がそこにはあると言うべきである。
 では、以上で述べた同一性を包摂した差異共振性の考え方は、どこがおかしいのだろうか。やはり、病院で考えよう。看護師は患者A、患者B、患者 C、・・・を原則として親身に看護する。患者という概念・観念は確かに同一性である。しかしながら、個々の患者は差異である。看護師にとり、患者は、差異である。
 看護師にとり、患者という同一性は基本的な前提に過ぎず、同一性における差異・特異性が重要なのである。そう、これがポイントであろう。同一性における差異・特異性の肯定である。これを民主主義の考察にも適用すればいいのだろう。
 国家内に個々の人間がいる。国民・市民である。それは、同一性である。しかし、重要なのは、同一性における差異・特異性なのである。民主主義の平等の観念の最大の問題点は、同一性における差異・特異性を見ていない点である。同一性における平等を見ているだけであり、同一性においてある差異・特異性を排除しているのである。だから、選挙において、成人男女の一人一人(同一性)に選挙権が与えられるのである。しかしながら、最近の大阪府知事でわかるように、この同一性平等が問題なのである。差異・特異性を考慮せずに、一様一律に選挙権を与えているのであるし、同様に、被選挙権を与えているのである。これは、目茶苦茶である。近代的自我・近代合理主義の最悪の部分である。
 言い換えると、仏作って魂入れずが、民主主義なのである。だから、民主主義は本来、乗り越えられるべきである。差異・特異性に即した政治を考えるべきである。
 結局、同一性を包摂した差異共振主義の観念とは、同一性という形式は前提とするが、本体は、差異であるということである。政治で言えば、個々の人間に対して、国民・市民としての形式を認めるが、それは、単に容器であって、中身は、個々の人間が満たさなくてはならないということである。つまり、民主主義とは、空の器なのである。あるいは、理念である。それは、差異価値であり、差異共振価値である。
 民主主義とは、差異価値・差異共振価値を実現するための形式・便宜に過ぎないのであって、それ自体では意味がないのである。病院における患者という言葉と同じである。大事なのは、個々の患者である。ここでは、唯名論の方が正しいのである。
 民主主義は、だから、言葉なのである。それは、実質がないのである。実質は、個々の人間が本来満たさなくてはならないものなのである。(しかしながら、一般に多数の人間は我が侭でそのような殊勝なことはしないのである。)
 結局、目指すべきは、差異共振主義なのである。差異共振主義の政治があれば、国民・市民の差異・特異性に寄与するような政治が行われるようになると言えよう。 
 民主主義は、封建制のヒエラルキーを解体し、そして、同一性平等観念を形成した。しかしながら、それは、中身がない形式主義なのである。当然、質が低下するのである。結局、近代主義である民主主義を乗り越える必然性があると言えよう。トランス・モダンとは、やはり、トランス・デモクラシーである。あるいは、ポスト民主主義である。民主主義を包摂した差異共振政ではなくて、民主主義を乗り越えた差異共振政が必然となっていると考えられるのである。


2008年02月11日(Mon)▲ページの先頭へ
民主主義とは何か:プロト・デモクラシーと差異共振主義:トランス・デモクラシーとMedia Pointへの回帰:新神道的差異共振政
民主主義とは何か:プロト・デモクラシーと差異共振主義:トランス・デモクラシーとMedia Pointへの回帰:新神道的差異共振政

民主主義は、おおまかに言って市民主義である。しかし、市民とは、何かである。自由を求めて、対話する個人が市民であろう。そして、自由とは、第一義的には、封建制からの自由であった。これは、自由主義を意味した。この自由主義が問題である。結局、自由な個人を尊重する思想であるが、個人が自我なのか個(差異)なのか区別がついていないのである。結局、近代とは何かの問題である。
 個人と個とは異なる。明確に区別するために、個を差異、差異人、差異者、差異家と呼んでいいだろう。結局、自由主義は、自我自由主義と差異自由主義とが、混淆しているのである。前者は、金融資本主義になった。しかし、今日、時代の進展から、前者を乗り越えて、後者を価値評価とすべき時代になったと言えよう。自我自由主義とは自我中心主義・利己主義である。
 では、本論に戻ると、民主主義は、自我民主主義と差異民主主義が混淆していると言えよう。自民党は前者である。そして、後者は前者を乗り越えたものである。これは、超越的民主主義である。しかし、民主主義の言葉を使用すべきなのだろうか。一人一人は、平等というよりは、差異である、他者である。他者=差異に対して、差異共振主義が機能するのであり、決して、平等主義ではないだろう。
 例えば、新しい大阪府知事に対して、平等に対応すべきなのか。おそらく、法律的には、平等の扱いを受けるだろう。しかしながら、実質は、知事にふさわしくない人格である。人品卑しいのである。これはどう見たらいいのか。つまり、民主主義には、本来、精神貴族的価値が入っているのである。差異価値が入っているのである。平等原則は、この貴族的価値が前提のことなのである。つまり、差異共振価値が前提で、平等原則が生きるのである。精神貴族的価値が前提で平等原則が生きるのである。
 だから、民主主義を進展させるには、差異化する必要があるのである。差異共振化する必要があるのである。あるいは、超越化が必要なのである。だから、少なくとも、差異共振的民主主義ないしは超越的民主主義という必要があるのだろう。アメリカの詩人ホイットマンの唱えた民主主義とは、そのようなものと考えられる。
 それは、言い換えると、Media Point的民主主義である。そう、私としては、心人主義ないしは心民主義である。後でさらに検討したい。

p.s.  自由であるが、これは、文字から見ると、自(みずから、おのずから)に由るということである。みずから、おのずから、とは、実は深い意味がある。つまり、それは、自己の源泉からということであり、魂や心からということである。正しく言えば、Media Pointからである。とまれ、自己由来が自由である。今日、自我由来を自由と考えているのである。自我と自己は絶対的に異なるのである。自我は頭中心主義であるが、自己は肚に土台があるのである。この点も後で述べたい。

p.p.s. これは、換言すれば、プロト・モダンの問題である。ルネサンスとプロテスタンティズムの問題である。プロト・デモクラシー、原民主主義は、優れたものであった。それは、プロト・モダンとしてのルネサンスやプロテスタンティズムがそうであることと同様である。
 そこには、Media Pointの純粋なエネルギーが作用・作動していたと考えられる。しかるに、精神・意識の構造から、それが、自我同一性へと帰結したのである。近代的自我・近代合理主義へと帰結したのである。これは、デカルト哲学にも見られる事象であろう。つまり、コギト哲学とは、本来、Media Pointから発していたが、それをデカルトは、自我同一性へと限定して言ったのである。特異性としての個から、自我同一性への近代的自我へと展開したのである。
 結局、エネルゲイア(Media Point)はエンテレケイア(自我同一性)に帰結して、前者が忘却されたのである。民主主義も、初期においては、Media Pointのエネルゲイア(差異共振主義)をもっていたが、それが、自我同一性平等主義へと帰結したのである。つまり、起源はMedia Pointなのである。超越的エネルギーなのである。それを、理念化したのが、民主主義である。しかし、その理念化は不十分なのである。民主主義は、乗り越えられて、差異共振主義へと進展すべきである。トランス・デモクラシーである。

3p.s. Kaisetsu氏が新たな王政復古を唱えられているが、これは、実際的には正しいだろう。何故なら、多くの「市民」とは、超越性、差異共振性が理解できないからである。民衆は、一般に、自己と自我の区別がつかないのである。自己や差異共振性を表現する政治体制が必要となるだろう。それが、王政ということなのだろう。精神貴族価値があることを「市民」に提示するには、実際的に、そうするしかないだろう。民衆は一般に目に見えるものしか信じないからである。偶像崇拝者だからである。新多神教を体現する政治があっていけないのか。米国は政教不分離の国である。キリスト教的民主主義の国である。
 新神道国家日本があってもいいわけである、理論的には。新天皇制があってもいいわけである。民衆は救世主を求めるのである。問題は、差異共振的救世主が必要であることである。善悪二元論的な救世主ではないのである。
 この新神道政治とは、形式的には民主制を維持するだろう(神道的民主制)。しかしならが、実質では、差異価値を重視する。つまり、差異価値を基準として、選挙権・被選挙権を付与することになるだろう。つまり、民主制の資格試験を設けることになるのである(神道的差異民主制、乃至は、新神道的差民主義)。とまれ、後でさらに検討したい。

4p.s. 新神道的差異共振政である。


英国における多文化主義と国家主義との衝突
イギリスにおける多文化主義と国家主義との衝突で極めて重大な問題である。英国国教会のカンタベリー大主教が、イスラム法(シャリーア)を認めるべきであるという発言から端を発しているものであり、それへの非難が轟々と噴出している状況である。
 これは、言い換えると、多元論と一元論、多神教と一神教との戦いである。大主教がイスラム法を一部認めるべきであるという述べたのは、ある意味で、大英断である。これを認めると、一神教の一枚岩は解体すると言えよう。

p.s. 大主教のローワン・ウィリアムズ博士は、ウェールズ人である。ケルト文化圏の出身である。ケルト文化は神道文化と酷似しているのである。多神教である。

p.p.s. 大主教は、南ウェールズのスワンジー出身である。さらに驚いたことに、博士論文は、ロシアのヴラジミール・ロースキーの研究である。ロースキーは、20世紀東方キリスト教の大研究家である。そう、神秘的な東方キリスト教を説いていると思う。つまり、極言すれば、東洋思想を説いているのである。ヒンズー教(ヨガ)、仏教、道教と共通するものをもっているのである。また、イスラム教であるが、井筒俊彦氏が明らかにしたように、一神教とは言え、東洋宗教的な本質をもっているのである。私はこれまで、ユダヤ・キリスト教とイスラム教を同じ一神教として見るべきではないと説いてきた。イスラム教のタウヒード(一性いつせい)は、Media Pointのもつ一性と見ることができるのである。
 結局、東洋の宗教・哲学とは、Media Pointを源泉にもつ知性システム(これこそ、真の理性システムであると言いたい。差異理性・即非理性システムである。)である。西洋哲学は、東洋哲学というべきプラトン哲学を源泉にもちながら、同一性に傾斜した哲学である。同一性への傾斜は、当然ながら、ユダヤ・キリスト教に拠るのである。
 とまれ、いよいよ、ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明のエポックに入ったと言えようが、大陣痛をともなうのである。

キリスト教東方の神秘思想 (単行本)
V. ロースキィ (著), 宮本 久雄 (翻訳)



Sharia law may result in 'legal apartheid'

By Jonathan Wynne-Jones, Religious Affairs Correspondent
Last Updated: 2:37am GMT 10/02/2008

Senior religious leaders attack multiculturalism and sharia law today, warning that they are "disastrous", socially divisive and are destroying Britain's culture and values.
# Leader: A defender of the faith needs better judgment
# Your View: Is Sharia law in Britain unavoidable?
# Video: Storm of Archbishop's sharia law comments
# Archbishop of Canterbury responds to criticism
# Profile: Dr Rowan Williams

Lord Carey sharia law may result in 'legal apartheid'
Lord Carey condemns multiculturalism as 'disastrous'

Lord Carey and Cardinal Cormac Murphy-O'Connor rebut the call of the Archbishop of Canterbury, Dr Rowan Williams, for Islamic law to be recognised in Britain.

Lord Carey, the former archbishop of Canterbury, said: "His acceptance of some Muslim laws within British law would be disastrous for the nation. He has overstated the case for accommodating Islamic legal codes.
http://www.telegraph.co.uk/news/
main.jhtml?xml=/news/2008/02/10/nsharia110.xml


Biography
Archbishop of Canterbury

Rowan Douglas Williams was born in Swansea, south Wales on 14 June 1950, into a Welsh-speaking family, and was educated at Dynevor School in Swansea and Christ's College Cambridge where he studied theology. He studied for his doctorate – in the theology of Vladimir Lossky, a leading figure in Russian twentieth-century religious thought – at Wadham College Oxford, taking his DPhil in 1975. After two years as a lecturer at the College of the Resurrection, near Leeds, he was ordained deacon in Ely Cathedral before returning to Cambridge.

http://www.archbishopofcanterbury.org/73

シャリーア
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シャリーア (شريعة Shari'a) は、イスラーム教 における宗教に基づく法体系(世俗法的規定も含むため、単なる宗教法という説明は不正確)。イスラーム法、イスラーム聖法などとも呼ばれる。原義は「水場へいたる道」。シャルウともいう。

イスラム教
教義と信仰

アッラーフ • イスラーム
六信 • 五行
タウヒード • ジハード
モスク • マドラサ  
カアバ • ハッジ
指導者

ムハンマド
ハディージャ • アーイシャ
アブー=バクル
ウマル • ウスマーン
アリー • ファーティマ
預言者 • カリフ
イマーム • ウラマー
法と規範

クルアーン • シャリーア
スンナ • ハディース
歴史的展開と潮流

ウンマ • ハワーリジュ派
スンナ派 • シーア派
スーフィズム
ワッハーブ運動
イスラム主義
充実している項目

イスラム銀行
イスラーム建築
オスマン帝国
ムハンマド・アリー
さらに詳しく知る

イスラーム用語一覧
Category:イスラム教

シャリーアは宗教によって定められる法ではあるが、その内容は宗教的規定にとどまらず民法 、刑法 、訴訟法 、行政法 、支配者論、国家論、国際法 、戦争法 にまでおよぶ幅広いものである。シャリーアのうち主に宗教に関わる部分をイバーダート(儀礼的規範)、世俗的生活に関わる部分をムアーマラート(法的規範)と称する。イバーダートは個々人と神との関係を規定した垂直的な規範、ムアーマラートは社会における諸個人間の関係を規定した水平的な規範と位置づけられる。

かつてムスリムの間ではシャリーアは人間ではなく神が定めた絶対の掟であり、人間としての正しい生き方を具体的に示すものと広く見做された。したがって現在でも保守派ムスリムの間ではシャリーアは全てのムスリムが守るべき普遍的規範 であり、その意味でシャリーアへの服従はイスラームへの信仰と同義であるという主張が強い。しかし今日に於いてはトルコを含む東欧、そしてその他の地域の移民ムスリムを中心にシャリーアの人権侵害性などを批判し、世俗法を擁護する者も少なくない。

また、ウンマ (イスラーム共同体)は、伝統的イスラームに於いてこのシャリーアの理念の地上的表現としての意味を持つとされる。

主な法源 (ウスール・ル=フィクフ)は、

1. クルアーン
2. 預言者の言行(スンナ 、それを知るために用いられるのがハディース )
3. 合意(イジュマー )
4. 類推(キヤース )

の4つ。(詳細はスンナ派 を参照)

学派によって違いがあるが、基本的にはこれら諸法源に基づいて、イスラーム国家の運営からムスリム 諸個人の行為にいたるまでの広範な法解釈が行われる。法的文言のかたちをとった法源がなく、多様な解釈の可能性があるため、すべての法規定を集大成した「シャリーア法典」のようなものは存在しない。

一般に、上記四法源のうち上にあるものがより優先される。すなわちクルアーンによる法的判断が最優先され、クルアーンのみで判断ができない場合にスンナが参照され、スンナでも判断ができない場合にイジュマーやキヤースが行われる。ただし学派によってはイジュマーやキヤースを認めなかったり、その方法および効力に一定の制限を加えている場合もある。

なお、シーア派 法学では一般にイマーム のみがシャリーアを正しく解釈する能力を持つとされ、法学者を含む一般信徒による解釈より上位にある。そのためシーア派法学では歴代イマームの言行も重要な法源(ハディース)として扱われる。

運用にあたっては属人主義 による。すなわちムスリム であれば世界のどこへ行ってもシャリーアが適用される(ただしハナフィー学派 のみは別解釈をとる)一方、非ムスリムであれば、たとえイスラーム圏(ダール・アル=イスラーム)に滞在・居住していたとしても、直接にシャリーアを課されることはない。ただ、非ムスリムとムスリムのあいだに生じた何らかの関係や問題についてシャリーアが適用されることはある。またシャリーアはイスラーム圏における非ムスリムの地位についての規定を含む。このようにイスラームにおける国際法とはムスリムと非ムスリムとの間の関係に関する法であり、国家間の関係に関する法であるヨーロッパ的な国際法 とは位置付けが異なる。

シャリーア運用上のもうひとつの特徴は客観主義である。すなわち行為者の意思よりもその行為の外形に注目して判定を下す。これは、ある人間の意思を正確に忖度することは神にしかできないという考えによる。

近代以前のイスラーム世界では建前としてはシャリーアが法体系の根幹とされたが、現実には支配者の定めた世俗法(カーヌーン )や地方的慣習(アーダ 、またはウルフ)も広く併用されていた。近代に入ると西洋法系の流入によりシャリーアの運用範囲が狭められ、その権威が低下した。現在イスラム圏でもアルバニア やトルコ などでは政教分離 が確立し、シャリーアは廃止された。他のイスラム圏でもレバノン、シリアなど比較的リベラルな国では家族法などの一部に名残を留めているだけである。しかしサウディアラビア、イラン、アフガニスタンを初めとする国では未だにシャリーア、若しくはシャリーアの強い影響下にある世俗法・憲法による統治が行われており、人権侵害が厳しく批判されている。

[編集 ] シャリーアにおける人権侵害

シャリーアの人権軽視的性格として

* 棄教の禁止
* 非ムスリムとムスリムとの婚姻に関する制限
* イスラム教国内での非ムスリム の自由・財産・生命の権利の制限
* 女性の隔離(ただし、これは必ずしも差別ではないという意見もあり、論争となっている)
* 同性愛者や婚外性交渉を行った人に対する公開処刑(投石刑、斬首刑)の原則
* 早婚

などが指摘されている。

注意しなければいけないのは、ムスリムの中にもシャリーアを批判する、もしくはその精神を評価しつつも上記の人権侵害を糾弾する者も多く存在しており、上記規定を無視するムスリムが地域によっては多数派を占めることがあることである。

[編集 ] 関連項目

* イスラーム法学
* ハナフィー学派
* シャーフィイー学派
* マーリク学派
* ハンバル学派
* イジュティハード
* ムジュタヒド
* ウラマー
* イスラム教と他宗教との関係
* ムスリムと非ムスリムとの婚姻
* イスラム国家
* イスラーム教徒による性的マイノリティー迫害

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B
7%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A2 " より作成

カテゴリ : イスラム教 | 法 | イスラームと政治


2008年02月09日(Sat)▲ページの先頭へ
この不景気はこれから大不況に悪化する:衆愚民主主義から超越的民天主義へ:地天人主義
今の政府の経済無能はどういうことなのだろうか。端的に言えば、反動化しているということだろう。後ろ向きなのである。利権を維持し、公共投資をしていれば、経済は発展すると思っている(p.s. ではなく、智慧がないから、ただ旧弊墨守しているだけである)のだ。近代主義に逆戻りである。
 トランス・モダン経済とは、質的な発展を重視する経済である。差異を共振化させて創造する経済である。知恵をはたらかせて、社会体と経済体とを共振させる方途を考えなくてはならない。
 自民党と日本人の大半は、太平楽で、知能が麻痺・鈍磨・痴呆化してしまったのだ。
 思うに、民主主義を言うならば、大衆民主主義(衆愚政治)と個民主主義に分けるべきである。私は差異民主主義を以前唱えていたが。トランス・デモクラシーである。現在の民主主義を包摂した精神貴族政治である。すぐれた民の中にある「天」、すなわち、「天人」を指導者とする政治制である。民天主義である。超越的民天主義である。
 すぐれた民にある「天」とは、地天ということである。地天人である。地天人主義である。

この不景気はこれから大不況に悪化する 02月08日10時00分コメント

デイトレーダー「バカで浮気で無責任」 経産省次官の「経済オンチ」
 経済産業省の北畑隆生事務次官が2008年1月25日に行った講演で、インターネットで短期的に株売買を繰り返すデイトレーダーや投資ファンドについて「最も堕落した株主」「バカで浮気で無責任」などと発言し、物議をかもしている。北畑事務次官は2月7日の定例会見で反省の弁を述べ、また経済産業省は8 日、ホームページ上に北畑次官が講演した講演録を掲載し、「次官の真意はこれを読んでもらえればわかります」と取り繕うが、波紋が広がっている。(J- CAST)
[記事全文]


# デイトレーダーは「バカで無責任」経産省次官が失言 - 夕刊フジ
# 「デイトレーダーはバカ」経産省次官の発言 問題は脆弱さへの無知 - 産経新聞

# ジェイコム男「またか」と冷ややか…経産省次官が失言で - ZAKZAK


参照:

 経済産業省の北畑隆生事務次官「デイトレーダーは馬鹿」


この記事のURL: http://blogs.yahoo.
co.jp/warabidani/51736893.html



役人にしては正直な人だ。しかし、職分をわきまえてはいない。本当のことをし


ゃべればいいと言うものではない。


[ 憂国通信 No.610 2008/02/09]


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簡易名目で高額インター 国交省の道路中期計画 約20カ所に3000億円 建設費、最大で50倍

2008年2月9日 朝刊
写真

 国土交通省が策定した道路中期計画で、高速道路の簡易インターチェンジ(IC)整備事業として盛り込んだ五千億円の中に、道路拡幅工事を含む一カ所百数十億円のICが二十−二十五カ所あり、建設費として総額約三千億円を見込んでいることが分かった。簡易ICはサービスエリア(SA)などを利用して一カ所数億−二十億円程度でできるため、国交省は低コストをPRして二〇〇六年度から本格導入した。安価を売りにした事業に、巨額の道路工事費が含まれていたことで、強い批判を受けそうだ。 

 簡易ICはスマートICと呼ばれ、ETC車専用。主としてSAやパーキングエリア(PA)に車の出入り口を設けて一般道と結び、この場合の一カ所あたりの整備費は三億−八億円。国と地元が負担する。〇四年度から実験整備が進められ、〇六年度以降、関越・駒寄(群馬)や東名・富士川(静岡)など全国三十一カ所で導入された。

 国交省は今後十年間の道路中期計画で、全国約二百カ所のスマートIC整備費として五千億円を盛り込んだ。ところが、このうち二十−二十五カ所は、既存SAなどを利用せず、片側一車線の高速道路に建設する高額のICだった。

 この場合、ICの前後三−八キロにわたり安全のための付加車線が必要となり、道路拡幅工事費として総額二千五百億円を見込んでいた。IC施設本体もSA・PA接続方式より高額となり、国費だけで一カ所二十億円前後、全体で五百億円を予定している。平均事業費は一カ所百二十億−百五十億円となり、低コストのICと比べ、最大五十倍となる。

 一方、約二百カ所の新設ICのうち、SAなどを利用したICは約百カ所で事業費は五百億円。残りの七十五−八十カ所は、片側二車線の高速道路でSAなどを利用しないICを想定。この場合、車線拡幅が必要ないため事業費を千五百億円と見込んでいた。

 国交省は昨年十一月に発表した中期計画で、「高速ネットワークの有効活用策」として、料金引き下げとスマートIC整備を合わせて「三兆円以上」としていた。同十二月の政府・与党の見直しで二・五兆円になった。

<スマートIC> 既存ICの間に、国や自治体などが費用を分担して増設する。ETC車専用で低コストが特徴。2004年度から自治体が参加し全国51カ所で仮導入が始まり、整備効果などが認められれば本格運用に移行している。通常のICは高速道路会社が整備する。既存のICは全国に約700カ所あり、整備費は1カ所平均で約40億円。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/
national/news/CK2008020902086285.html



検討問題:自民党近代主義の終焉へ向けて:日本多神教の覚醒の時となる
テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築
何故、日本は主体的な行動がとれないのか。言い換えると、どうして、アメリカに隷属しているのかということである。これは、米軍基地、米日安保条約、日米経済関係が原因であると言われるだろう。
 しかしながら、本当は、日本人に個(特異性)としての視点がないからではないのか。もし、日本人としての個(特異性)の視点があれば、そこから発想が展開するはずである。しかるに、近代主義的視点しかないので、アメリカの言いなりになるのではないのか。近代主義は、個(特異性)を否定・排除・隠蔽する自我主義であり、近代合理性を金科玉条にしてしまうのである。もし、日本人・日本の個(特異性)のエネルギーがあれば、そこから、アメリカや世界に対して、創造的なアイデアが生まれるはずである。後で、より問題点を絞って検討したい。

p.s. 結局、日本、日本人、日本文化とは何か、という問に答えなくてはならなくなるのである。明治維新、戦後と大変化を経験した「近代日本」であるが、日本人とは何か、である。
 結局、多神教という言葉が回帰するのである。一神教によって排撃された多神教であるが、日本人の精神の奥底に眠っているのである。日本人の魂には、多神教が眠っているのである。今や、それを覚醒させるときが来たのである。


参考:
最優良格だった米国債が格下げされたら、国債の売れ行きは一気に
悪化し、国債の元利を払えなくなって、国家的な債務不履行に陥る。

2008年2月9日 土曜日

◆DJ-【米国債市場概況】新発30年債入札不調で、30年債価格は急落 2月8日 ダウ・ジョーンズ

ニューヨーク(ダウ・ジョーンズ)7日の米国債市場では、米国株式市場が反発したことに加え、財務省が実施した新発30年債の入札が不調に終わったことで、米国債相場はおおむね全面安の展開となり、30年債価格が急落した。
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/d/20080209
株式日記と経済展望


『茶の本』The Book of Tea by Okakura-Kakuzo
翻訳は裏切りだと言われるが、翻訳はまた創造でもあるだろう。

「さて禅に注意を向けてみると、それは道教の教えを強調していることがわかるであろう。禅は梵語の禅那[ぜんな](Dhyana)から出た名であってその意味は静慮[じょうりょ]である。精進[しょうじん]静慮することによって、自性了解[じしょうりょうげ]の極致に達することができると禅は主張する。静慮は悟道に入ることのできる六波羅蜜[ろっぱらみつ]の一つであって、釈迦牟尼[しゃかむに]はその後年の教えにおいて、特にこの方法を力説し、六則をその高弟迦葉[かしょう]に伝えたと禅宗徒は確言している。」 村岡博訳 岩波文庫   p. 47

「さて禅道に注意を向けてみると、それが道教の教えを強調していることがわかる。禅とは瞑想[めいそう]を意味するとサンスクリット語「ディヤーナ」から出た名である。禅は、ひたすら瞑想を通して最高の自己実現に到達しうると主張する。瞑想は仏性に達する六つの道の一つであり、禅宗徒の断言するところによれば、釈迦牟尼[シャカムニ]はその晩年の教えの中でこの方法を特に力説し、その主要な弟子カーシャパ〔迦葉かよう〕にその規則を伝えた。」 桶谷秀昭訳 講談社学術文庫 p. 45

"If now we turn our attention to Zennism we shall find that it emphasises the teachings of Taoism. Zen is a name derived from the Sanscrit word Dhyana, which siginifies meditation. It claims that through consecrated meditation may be attained supreme self-realization. Meditation is one of the six ways through which Buddhahood may be reached, and the Zen sectarians affirm that Sakyamuni laid special stress on this method in his later teachings, handing dwon the rules to his chief desciple Kashiapa. "
ibid. p. 187

原文から見ると、桶谷訳の方が原文に正直である。しかし、村岡訳の方が喚起力があるのである。例えば、meditationを静慮(じょうりょ)や、 supreme self-realizationを自性了解(じしょうりょうげ)と訳す点である。原文の意を汲んだ訳である。達意の訳である。

p.s. 村岡訳では、原文の最後の行のthe rulesを六則と訳しているが、これは、桶谷訳の方が正しい。つまり、誤訳である。しかし、大過ないものである。

p.p.s. 私は村岡訳の『茶の本』を最高に支持する。桶谷訳は凡庸な訳であり、岡倉天心の思想を的確に伝えていないと思う。この名著は、今日でも十分通じる鋭敏な思想を伝えている。岡倉天心とは、天才的な思想家である。

茶の本 (岩波文庫) (文庫)
岡倉 覚三 (著), 村岡 博 (翻訳)


2008年02月07日(Thu)▲ページの先頭へ
自我同一性のもつ反差異共振性について:どうして、自我主義は、差異に敵意をもつのか
自我同一性主義ないしは自我中心主義は、差異共振性=心を憎悪する、敵意をもつ、攻撃する、抑圧する、征服する。他者支配の衝動・情動がある。
 同一性が差異を否定することについては、さんざん述べたが、また、ここで反復することになる。差異共振性=心を否定するというのは、同一性自我にとり、それが不都合であるからである。即ち、差異共振性=心を否定して、同一性自我が形成されているからである。ここには、差異共振性への否定という暴力があるのである。差異共振性=心という共感性を否定する暴力である。
 さて、直感で捉えたことを言おう。エネルギーの問題である。自我中心主義の攻撃衝動にあるエネルギーは何だろうか。これは、否定暴力である。同一性暴力である。他者=差異を自我同一性化する暴力である。
 だから、iが-iを否定する暴力である。否、+1が+1を否定する暴力ではないだろうか。否、+1が-iを否定する暴力ではないのか。三度、否、である。+1が(+i)*(-i)を否定する暴力である。つまり、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、右辺が左辺を否定する暴力である。
 宗教で言えば、自己認識方程式は多神教(太母神宗教)的である。しかるに、自我中心主義とは、一神教的である。前者は差異共振性を肯定し、後者は差異共振性を否定しているのである。
 では、後者の力学とは何だろうか。つまり、どういう風に発生するのだろうか。これは、正に、近代合理主義・近代的自我の発生を考えればいいのではないだろうか。即ち、形成された同一性自我(「コギト」)は、同一性を基盤にして思考するのである。そのとき、現前している差異共振性は異質なもの・「異物」となるのである。「差異」・他者であるが、同一性自我にとっては、それは、理解不可能のものであり、否定・排除する対象なのである。デカルトがあいまいなものを排除したのをここで想起すればいいだろう。
 即ち、同一性自我は、主体的に、同一性中心主義的に思考して、差異共振性を否定・排除して、同一性観念知を形成する。それが、近代合理主義になるのである。そして、同一性自我が近代的自我となるのである。
 では、同一性自我の主体性・主導性とはどこから発するのだろうか。これは、これまで述べたように、陽エネルギーの傾斜でいいと考えられる。即ち、+iのエネルギーである。この原同一性のエネルギーが、+1の自我に作用して、差異共振性を否定・排除・隠蔽する近代的自我を形成すると考えられよう。これが近代主義である。
 しかるに、太極の変転作用から、陽エネルギー(+iのエネルギー)が衰退して、陰エネルギー(-1のエネルギー)が賦活されることになる。そのとき、自我中心主義である近代的自我に対して、賦活された陰エネルギーが作用・作動することになる。しかしながら、近代的自我は、この陰エネルギーを正当に受容することができないのである。何故なら、陰エネルギーは、陽エネルギーが形成した自我中心主義を解体・脱構築するからである。つまり、同一性中心主義を解体して、差異共振性を復活させようとするからである。陰エネルギーを受容すると、陽エネルギーと共振して、差異共振性が生まれるからである。
 だから、近代的自我は陰エネルギー(-iのエネルギー)を排除するのである。この排除が攻撃・憎悪・敵対エネルギーになっていると思われるのである。つまり、陰エネルギーを同一性主義が否定するのであるが、そのときの反動エネルギーが攻撃・憎悪・敵対エネルギーであると考えられるのである。思うに、(+ i)*[-(-i)]⇒-1ではないだろうか。この-1が反動的な近代的自我、私がこれまで、口が酸っぱくなるほど言った狂気ではないだろうか。自我自体は+1であるが、近代的自我となると-1であろう。そして、攻撃衝動とは、-(-i)の-(-の部分、即ち、-と-との関係にあるように思われる。
 そう、ついでに言えば、ポスト・モダンとは、陰エネルギーの活性化の精神事態に対する哲学の試みであったと考えられる。しかし、同一性主義ないしは連続性の縛り・拘束が強かったため、差異共振性をもつMedia Pointに到達することができなかったのである。
 しかしながら、時代は、陰エネルギーの活性化が強化され、差異共振性がいわば自然発生するような状況になっていると考えられるのである。即ち、トランス・モダン・エラへの進展である。プラトニック・シナジー理論は、この時代を先取りし、主導する理論であると考えられるのである。


2008年02月06日(Wed)▲ページの先頭へ
サブプライムローン問題を哲学する:同一性価値と差異関係体:資本主義の超崩壊と差異共振経済の創造
サブプライムローン問題であるが、素人の考えでは、そして、私の住宅ローンの経験から言えば、資本主義的金融は、仮定・想定・見込みの数字が、基礎・土台となって、借り手という他者(差異)を考慮していない、同一性中心主義・同一性機械主義である。簡単に言えば、同一性量の増加を見込む金融ということであり、この増加の獲得のために、競争をする。しかしながら、物件の値上がりの見込み(speculation:思弁、投機)から、ローンを組み込むというのは、実に根拠が薄いものである。これは、科学ではなくて、予想ないしは希望的観測である。つまり、願望が入っているのである。英語で言えば、仮定法である。これは、反現実的事象の表現である。そう、非科学的な金融ということになるだろう。具体的に言えば、競争があるのだから、販売も壁にぶつかり、当然、物件の値上がりという仮定が根拠薄というか、反現実的なのである。だから、反科学的な、反合理的な金融ということになるのである。
 また、さらに言うと、上記したように、借り手という他者=差異を資本主義的金融は認識していない点に大きな問題があると思う。借り手を数値化して、同一性価値にしているのである。ここでは、同一性としての個体としての借り手が存するだけである。方程式の、xやyである。数値化(数量化)=同一性によって、他者=差異を否定するのであるが、その時、何が問題になるか考えよう。
 結局、端的に、言えば、差異価値と差異共振性が否定されるということになるだろう。量による質の否定と言ってもいい。つまり、信用度の低い借り手の社会層(下層)があるだろう。これらは、単に、個体として独立して存在しているのではなく、それなりに差異価値、差異共振性として存在しているのである。ここで、有機体という概念が思い浮かぶが、有機体というよりも、もっと複雑な関係体として存在していると考えられる。とりあえず、他者=差異の関係体を差異関係体と呼んでおこう。
 これらは、単に、下層だけでなく、中層や上層と経済的に結びついているのである。だから、差異関係体とは、単に、下層関係体だけではなく、社会全体にあてはまるのである。
 結局、差異関係体において、サブプライムローンが作用するということになるのである。ここで、個体1,個体2,個体3,・・・個体nという個体を考えると、個体は、数値化されると同一性となる。すると、個体同士の相互関係(ある意味で、差異共振価値と言えよう)が見えなくなる。単に、個体1の数値、個体2の数値等が、個々独立して、見えるだけであり、ここでは、加減乗除が行なわれるのである。連続的計算である。
 そこでは、個体同士の相互関係、すなわち、差異関係体(差異共振性)が無視されているのである。相互関係の無視があるのであり、そこにおいて、サブプライムローンによって競争すれば、当然、個体の相互関係に響いてくるのである。例えば、個体1が得すれば、個体2が損するということになると考えられるのである。つまり、±ゼロである。作用・反作用の法則である。これを無視して、全体が利益を得るというのは、正に、ユートピア思想である。資本主義的金融ユートピア主義である。金融ユートピア主義である。これを、サブプライムローンは犯してしまったのである。
 また、金融工学によって、細分化して、リスクを小さくした証券であるが、これは、確かに、個々に見れば、独立した個物である。しかしながら、これが、差異関係体に投入されれば、個々の独立性が完全に失われて、関係体に属するようになるのである。つまり、証券は、関係体(「差異共振価値」)となるのである。つまり、サブプライムローン証券は、いわば、差異関係体証券(「差異共振価値」証券)になるのである。即ち、個々のリスクは小さくなったが、実質、リスクは差異関係体全体に及んだと言えるだろう。言い換えると、社会全体にリスクが及んでいると言えよう。サブプライムローンをガン細胞とすると、全身に転移しているということになるのである。これは、明らかに、社会体は御陀仏である。
 「資本主義」の超崩壊であろう。私はこれまで、ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明を唱えてきたが、どうやら、サブプライム問題が引き金になったようだ。これは、当然、日本にも打撃が及ぶ。アメリカ経済の崩壊が起れば、日本崩壊である。そう、新世界大恐慌である。もう、ケインズの手法は使えない。というか、既に使っているのである。結局、同一性(市場経済)を包摂した差異共振経済、トランス・モダン経済、トランス・キャピタリズム、Kaisetsu氏の市場化された場における共同体主義へと試行錯誤していくしかないだろう。
 近代の悪夢からエクソダスするときである。

p.s. 以上は素描なので、後で整理したい。

p.p.s. 結局、社会主義路線(国家社会主義)が戻ってくるだろう。金融機関の国有化が考えられるだろう。これは、全体主義の危険が伴うのである。そう、一気に戦前回帰である。

3p.s. 結局、超過剰資本(マネー)とは、何を意味するのだろうか。差異共振価値(差異)から超過剰資本(同一性)が生まれるのである。つまり、高度情報資本主義において、差異共振価値が質的に進展した結果、超過剰資本が生じているのであるが、その超過剰資本という同一性のエネルギー(力・暴力)が、差異(差異共振価値)のエネルギーを否定するという自己矛盾が発生しているということではないだろうか。換言すると、物質エネルギーが超越エネルギー(精神エネルギー)を抑圧していると考えられるのである。同一性構造(近代主義/ポスト・モダン)が壁になっているのである。
 結局、超越差異共振エネルギーの再生・新生へと超過剰資本をフィードバック・還流させるべきだと考えられる。

4p.s. 本文に関してだが、差異と差異との関係を差異関係体としたが、どうして、同一性関係体と言わないのか、という疑問が起こるだろう。つまり、借り手を差異としても、同一性としても、関係体においては、同じではないのか、という疑問が浮かぶだろう。
 問題は、同一性となった借り手の場合である。例えば、個体1は年収が300万円であり、借金が残っていて、返済が終わっていないとしよう。金融機関は、個体1にローンを提供するとしよう。リスクの小さいローンである。同様に、似たような経済状態の個体2に、ローンを提供するとしよう。これが、いわば、足し算されると考えられる。
 これが、借り手が同一性になった場合である。しかしながら、借り手と貸し手の相互関係があり、それが、多数の場合、複合化するのである。つまり、複合的関係がそこにはあるのである。しかし、この複合的関係が、同一性の視点からは見えないのである。盲点である。
 しかしながら、借り手を差異と捉えれば、貸し手である差異(ないしは同一性)との関係が生じる。つまり、借り手を同一性としたとき、そこには、同一性の和が発生するだけであるのに対して、借り手を差異とした場合、差異的関係が発生すると考えられるのである。つまり、相互関係が発生するのである。これが、上述した差異関係体になると考えられるのである。言い換えると、もし、他者が同一性ならば、そこには、同一性の連続性・反復があるだけであり、関係はない。他者が差異であれば、そこには、差異(同一性)と差異との関係、対話・交流が発生するということである。換言すると、差異と差異との関係とは、差異共振性ではないだろうか。貸し手と借り手との差異共振性ではないだろうか。
 とまれ、差異関係体(差異共振体)が生じると、リスクは関係体にあることがわかるようになるだろう。同一性の集合では、リスクは個別化して、分離しているが、関係体では、リスクは連動するのである。和と積との違いと言えるのかもしれない。

参照:

渡辺喜美金融・行政改革担当相:(サブプライム問題の)本質的な構造は・・・流動性危機の背景にソルベンシーの問題があり、個々の金融機関の問題というより金融システム全体の問題である可能性がある
2008.02.05 Tuesday
◆ウェブ世界からの現実世界への影響力を推し量る具体的な手法が見つからないことが、「恐怖」を生んでいるのである。一番、必要なことは、ウェブ世界、つまり、「精神世界⇒電磁作用世界」に「身体」(哲学用語)を与えることであり、金・銀本位制を復活することである。
参考:市場化された場に於ける共同体主義 (Commune principle in the dimension of perfectly privatized market)

(『市場化された場に於ける共同体主義』に関する海舌の例示:
不動産の公有化、公的統制、不動産の動産化、不動産の徹底的流動化、動産価値の飛躍的高騰化、動産流通コスト(運賃、運送費)の徹底的低廉化・無料化、ソフトウェアーの動産化、精神的価値の直接的動産化(芸術価値の飛躍的高騰化)、金・銀本位制、中間的職種の解体・廃止など)
 by 海舌
http://blog.kaisetsu.org/?eid=628017
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

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サブプライムローン問題で分かりにくいところ

 国内外の株価が急落した。米国のサブプライムローンの焦げ付き問題が原因と報じられているが、何割くらいの人が、どのような形で、原因と結果の結びつきを理解しているかが気になるところだ。「アメリカの住宅ローンの問題で、なぜ日本の株価まで下がるのか」と、ふに落ちない方もいらっしゃるだろう。

 金融関係者には常識でも、こうした問題に直接的な関心を持っていない人にとって、分かりにくい点がいくつかあるような気がする。筆者自身、いくつかのメディアの取材を受けて説明を試みたが、「ああ、ここが伝わりにくいのか」と後から気付く点が、少なくとも二つあった。

http://www.yomiuri.co.jp/
atmoney/yamazaki/at_ya_07082401.htm

山崎流マネーここに注目

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中には借り手を欺くような、丁寧に言えば説明義務を果たしていないものも報道されている。例えば、65歳のおばあさんには3万6000ドルを貸し付け、返済期間は15年というローンを組ませた。おばあさんには「毎月300ドル強支払えばいいです」と融資担当者は言う。当然、おばあさんは15年後の 80歳には完済になると思う。ところがこのローンは、80歳になっても実は元本分の返済が済まないという代物だった。


65歳のおばあさんに貸し付けたローンは80歳でも完済せず

 このおばあさんは返済途中で、そのことに気づき、ローンの支払いを拒否すると、家を取り上げられた。さすがにこの件は裁判所に持ち込まれ、元々おばあさんが80歳になった時点で、返済できるわけがないことを知りながら貸し付けた「貸し手責任」を問われ、おばあさんには損害賠償として1万4000ドルが支払われたという。

 これらのローンが組まれる前提は「買った家(貸し付けた家)が値上がり続ければ、すべての問題は問題ではなくなる」というものだった。サブプライムが伸び始めた当初、住宅価格が値上がりを続けたので、前提通りに物事が進んだ。ところが世の中、そんなに甘くない。住宅価格の騰勢は止まり、多くの地域で値下がりし始めた。

http://business.nikkeibp.co.jp/
article/manage/20070326/121720/
サブプライム問題に見る米国の病魔

* 2007年3月30日 金曜日
* 神谷 秀樹



徳冨蘆花
徳冨蘆花

テーマ:文学・哲学

『自然と人生』を少し立ち読みしたが、自然描写が、漢文調的な名文でなされている。とても、絵画的で、美しい描写である。絵画性は、トルストイに傾倒したせいだろうか。
 そう、ほとんど詩と言ってもいい、自然絵画的文章である。残念ながら、青空文庫は、本書は作業中である。
 wikipediaの下に引用を置いたが、とても音楽的かつ映像的な表現である。日本語の可能性がここにもあると言えよう。
 少し引用しよう。なお、振り仮名は一部つけ、パソコンで出ない旧漢字は平仮名にした。

「    空山流水

或年の秋、十月の末であった、自分は塩原箒川(はふきがは)の支流鹿股川(かのまたがは)の畔(ほとり)の石に腰かけて居た。前夜凩(こがらし)が烈しく吹いて、紅葉は大抵散ってしまって、川床は殆(ほと)んど真紅になって居た。右も左も見上げる程の峰が細長く青空を限って、空にも川が流れて居るかと思はれた。秋末の事で、水は痩せ、涸れに、涸れて、所謂全石の川床の真中を流れて行く。川床は峰と峰との谷間をくねって、先下がりになって居るから、遠くまで流れの末が見へる。ちょうど川の末に一高峰が立ち塞(ふさが)って、遠くから見ると川は其峰(そのみね)に吸い込まれるかの様に思はれ、又山が、「此処(ここ)に居なさい、里に出て何になる、居なさい、居なさい」と水の流れを抱き止める様にも思はれる。
・・・」

『自然と人生』岩波文庫 p. 59


徳冨蘆花
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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徳冨 蘆花(とくとみ ろか、本名は徳富健次郎、明治 元年10月25日 (1868年 12月8日 ) - 昭和 2年(1927年 )9月18日 )は、日本文学 の小説家 。近年では探偵小説 の作家としても注目されている。思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰 (猪一郎)は実兄である。本人は「徳冨」(「富」ではなく「冨」)の表記にこだわり、各種の文学事典、文学館、記念公園などは「冨」の字を採用している。
生涯

横井小楠 門下の俊英であった父・徳富一敬の次男として熊本県 水俣 に生まれる。熊本バンドの1人として同志社英学校 に学びキリスト教 の影響を受け、トルストイ に傾倒する。後年、夫人とともに外遊の際、トルストイの住む村を訪れ、トルストイと会見した。そのときの記録『順礼紀行』は、オスマン帝国 治下のエルサレム 訪問記も含めて、貴重な記録となっている。

兄の下での下積みの後、自然詩人として出発し、小説『不如帰 』はベストセラーになった。また、エッセイ『自然と人生』はその文章が賞賛され、一気に人気作家となった。しかし、国家主義的傾向を強める兄の蘇峰とは次第に不仲となり、1903年に蘇峰への「告別の辞」を発表し、絶縁状態となる。

1907年、北多摩郡 千歳村字粕谷(現・東京都 世田谷区 粕谷)に転居、死去するまでの20年間をこの地で過ごした。1910年の大逆事件 の際、幸徳秋水 らの死刑を阻止するため、蘇峰を通じて桂太郎 首相へ嘆願しようとするが間に合わず処刑されてしまう。直後に一高 での講演を依頼されると『謀叛論』の題で論じ、学生に深い感銘を与えた。

1927年 、病に倒れる。伊香保温泉 で蘇峰と再会し、「後のことは頼む」と言い残して亡くなったという。

蘆花の死後、旧邸宅は夫人より東京市に寄贈され、現在は蘆花恒春園 (面積約7万平方メートル)として開放されている。夫妻の墓のほか、徳冨蘆花旧宅も保存されている。蘆花の名前は、公園から徒歩15分の位置にある京王電鉄 京王線 芦花公園駅 にも残っている。熊本県 熊本市 には徳冨蘆花記念園、群馬県 渋川市 には徳冨蘆花記念文学館 がある。

[編集 ] 作品

* 『不如帰(ほととぎす)』
* 『灰燼』
* 『黒い目と茶色の目』
* 『思出の記』
* 『自然と人生』
* 『黒潮』
* 『寄生木(やどりぎ)』
* 『みみずのたはこと』

[編集 ] 関連項目

* 森戸辰男
* 河上丈太郎

[編集 ] 外部リンク

* 徳冨 蘆花:作家別作品リスト (青空文庫 )
* 徳冨蘆花記念文学館

"http://ja.wikipedia.org/wiki
/%E5%BE%B3%E5%86%A8%E8%98%86%E8%8A%B1 " より作成

カテゴリ : 日本の小説家 | 日本の推理作家 | 熊本県出身の人物 | 1868年生 | 1927年没

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蘆花は、「自然と人生」の中の「自然に対する五分時」―雑木林―でこういいます。  『余は斯(こ)の雑木林を愛す。
 木は楢(なら)、櫟(くぬぎ)、榛(はん)、櫨(はじ)など、猶(なお)多かるべし。大木稀にして、多くは切株より族生せる若木なり。下ばへは大抵奇麗(きれい)に払ひあり。稀に赤松黒松の挺然林(ていぜんりん)より秀でて翆蓋(すいがい)を碧空に翳(かざ)すあり。
 霜落ちて、大根ひく頃は、一林の黄葉錦してまた楓林(ふうりん)を羨まず。
 ・・・
 春来たりて、淡褐、淡緑、淡紅、淡紫、嫩黄(どんこう)など和(やわら)かなる色の限りを尽くせる新芽をつくる時は、何ぞ独り桜花に狂せむや。
 青葉の頃其林中に入りて見よ。葉々日を帯びて、緑玉、碧玉、頭上に蓋を綴れば、吾面も青く、もし仮睡(うたたね)せば夢又緑ならむ。
 ・・・ 』(講談社 日本現代文学全集 徳富蘆花 p313-314)

徳富蘆花旧宅
http://www.asahi-net.or.jp
/~hm9k-ajm/musasinobunngakusannpo
/tokutomiroka/tokutomiroka1.htm

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編者のことば
徳冨蘆花の文学
吉田正信(愛知教育大学教授)
漱石が出現する以前、文豪といえば徳冨蘆花であると見られた一時期があった。
中等教育の教材としても、かつては蘆花がすば抜けて多かった。
しかし今日の文学史においては、位置づけは傍流扱いにとどまっている。
生前の栄光については蘆花自身とまどいを見せていた。
だが戦後の不遇な扱いは、正当な評価によるものとはいえない。
蘆花に注目する識者は少なからずあり、継承すべき遺産としての再評価はいずれはなされなければならない課題であった。
他の作家に比べて遅れている蘆花研究の深化は、それを通じて近代の文学史・思想史の再検討も促すことになる、きわめて有意義な為事なのである。
明治大正期とかさなる六十年を生きた蘆花徳冨健次郎は、文学者としても人間としても興味深い独特の存在である。
読者の支持をえてロングセラーになった『不如婦』『自然と人生』『思出の記』は、蘆花によっても否定的に顧みられているが、平民主義の文学的達成として評価できる。
中絶した社会小説『黒潮』の構想には、日本だけでなく兄蘇峰との愛憎関係の解脱も託されていたと見られる。
その執筆動機は晩年の『冨士』にまで続く。
日露戦後、指針を求めての聖地とトルストイ訪問は、蘆花ならではの壮挙であった。
講演「謀叛論」は不朽の文学、とは中野好夫の弁であり、『新春』を特異な告白文学と評したのは荒正人であった。
「美的百姓」の心境を映した『みゝずのたはこと』の滋味も尽きないものである。
発狂の噂まで流れたが、人間としてはきわめて真摯。
社会だけでなく自己のなかの、理念と現実の矛盾の克服に、苦闘し悩み抜いた生涯であった。
『蘆花全集』は没後まもなく全20巻の立派な全集が編まれたが、今日では特に本文校訂などの不備のため、研究資料としては依拠しがたいという憾みがある。
その不備を補うのが今回の複刻による著作集である。
この有用性は、完全に近い全集が刊行されても、本文の手堅さゆえに失われることはない。
蘆花没後七十一年、活用されてどのような研究成果が見られるか、期待されるわけである。
http://bookweb.kinokuniya.
co.jp/htm/4820528149.html
同分類検索 徳富蘆花集
第11巻〜第20巻,別巻
ISBN:9784820528142 (4820528149)
・徳富蘆花 ・吉田正信
日本図書センタ− 1999/02出版
22cm 11冊
[A5 判] NDC分類:918.68 販売価:\147,000(税込) (本体価:\140,000)

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宮沢賢治の『ポラーノの広場』と共同体

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

宮沢賢治の『ポラーノの広場』を読んで、作者は共同体社会、思うに、組合共同体を考えていたのではないかとふと思った。積極的な意味での、アナーキズムがあるのかもしれない。ユートピア主義とも言えるだろう。社会主義や共産主義だろうか。どうも、そうではないと思う。個を重視しているからである。研究が必要である。そう、直感では、宮沢賢治は、日本文化にある、いわば、差異共同体のようなものを探求していたのではないだろうか。コスモス的差異共同体と言っていいだろう。

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 ポラーノの広場のうた
つめくさ灯ともす 夜のひろば
むかしのラルゴを うたいかわし
雲をもどよもし  夜風にわすれて
とりいれまぢかに 年ようれぬ

まさしきねがいに いさかうとも
銀河のかなたに  ともにわらい
なべてのなやみを たきぎともしつつ
はえある世界を  ともにつくらんhttp://www.aozora.gr.jp
/cards/000081/files/1935_19925.html

ポラーノの広場
宮沢賢治
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ポラーノの広場
祝祭的な場所としてのポラーノ広場をめぐる争い
 ポラーノの広場はモリーオ市の郊外にあると伝えられる野原のまん中の祭りの場所で、「そこへ夜行って歌へば、またそこで風を吸へばもう元気」がつくとか、オーケストラがあって「誰(たれ)でも上手に歌へるやうになる」と言われている。こうした祝祭的な場所を選挙のための酒盛りの場にしてしまった既得権益をもつ人たちと、むかしのをポラーノ広場を自分たちの手にとりもどそうとする若者たちとの争いが演じられる。
http://www.kenji-world.net
/works/texts/porano.html

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宮沢賢治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

賢治の作品にはコスモポリタン的な雰囲気があり、軍国的要素やナショナリズム的な要素を直接反映した作品はほとんどみられないが、賢治は24歳に国柱会に入信してから、時期によって活動・傾倒の度合いに差はあるものの生涯その一員であり続けたので、その社会的活動や自己犠牲的な思想について、当時のファシズム 的風潮や国柱会、ユートピア 思想(「新しき村 (武者小路実篤 )」、「有島共生 農場(有島武郎 )」、トルストイ ・徳富蘆花 、「満州 ・王道楽土 (農本主義 者・加藤完治 )」など)の影響を考えるべきであるという見解も見られる。 戦後は賢治の生き方や作品にみられるヒューマニズム や平和主義 的側面が注目され、特に近年はエコロジー 思想とも関連づけられて高く評価されることが多い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB



2008年02月04日(Mon)▲ページの先頭へ
極性の両相性:共振と否定:虚軸とMedia Pointにおける共振性と実軸=現象界における否定性
太極で言えば、陰と陽の極性(対極性)がある。電磁気力で言えば、N極とS極があり、電子と陽電子がある。
 素朴な根本的な疑問であるが、電磁気力では、反対の力は引きつけ合うが、自己認識方程式における+iと-iとは、ある面では反発すると考えられるが、それはどういうことなのか。
 物質形成において、反対の力(エネルギー)は共振して、同一性=物質化する。この共振、差異共振は、反対する力の引きつけである。
 では、自我同一性の場合は、どうして、反対の力が反発するのだろうか。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1から見ると、自我同一性+iと身体差異-iが反発すると思えるのである。本来、+iと-iは引きつけ合うものではないのか。この矛盾をどう考えるのかである。
 ここで、精緻に考察しよう。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺の+1とは、認識に関して言えば、正確に言えば、自我同一性ではなくて、自己同一性である。端的に、「わたし」、I、ich等である。(因みに、デカルトは、これを基盤にして、コギト哲学を展開したと言えよう。また、スピノザやライプニッツは、ここから、左辺へと進展して行ったと考えられよう。これについては、後で検討したい。)
 だから、自己同一性を形成する太極の(+i)*(-i)における+iと-iであるが、前者を自我同一性、後者を身体差異と呼ぶのは、本来的ではないのである。精緻に言えば、+iは原知性・原同一性・原形相であり、-iは原身体・原差異・原質料である。(創世記で言えば、神霊と水である。つまり、火と水である。ダビデの星である。比喩的には、光と闇でいいのかもしれない。あるいは、天と地である。)
 そう考えると、右辺の+1とは、単に、自己同一性だけでなく、身体同一性でもあるだろう。この「わたし」の身体としての同一性ではないだろうか。
 とまれ、そう考えると、極性はここでも肯定される。では、自我同一性における差異の否定はどう解明されるだろうか。
 結局、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺の自己同一性であるが、ここから、外界を認識するときが問題なのである。外界の他者=差異が存するのであるが、自己同一性は外界の他者=差異へ自己投影して、自己投影像を描くのである。ここにおいて、外界の他者=差異が否定・排除・隠蔽されるのである。この自己投影像における外界の他者=差異の否定を、-1と見たのであるがそれでいいのだろうか、ということになる。
 結局、外界の他者=差異認識の問題であるが、それを自己同一性は、自己投影して認識するのである。つまり、(+1)・(-1)=-1
ということではないだろうか。それとも、(+1)・[-(-1)]=+1だろうか。思うに、-1はそれなりに他者認識ではないのか。+1は、単に自己同一性認識ではないだろうか。後者の方が正しいのではないだろうか。
 とまれ、少なくとも、自己同一性=自我において、自己投影作用によって、他者=差異を否定してしまうことが確認できるだろう。そして、ここにおける極性 ±であるが、実数・実軸においては、それは、共振作用ではなくて、否定作用になると考えていいのではないだろうか。虚軸とMedia Pointにおいては、極性は共振化したが、実軸においては、極性は否定化になるということではないのか。
 この実軸=現象界における、自己同一性=自我の認識は、自己投影的であり、また、反射的ということであり、共振作用ではなくて、否定作用である。(だから、弁証法とは、実軸=現象界における思考法である。マルクスがヘーゲル弁証法を取り入れたのは、完全に間違いであったと言えよう。何故なら、資本主義とは、差異共振的価値を基盤にしているからである。資本主義は、差異共振価値を同一性価値へと還元するシステムであり、この点が乗り越えられる必要があるのである。)
 言い換えると、思うに、実軸=現象界においては、同一性の力forceが作用するのであり、その極性とは、否定作用=暴力作用を意味するということではないだろうか。エネルギーが共振エネルギーから同一性=暴力エネルギーになっているということではないのか。
 【例えば、2H2+02→2H20という水の生成を考えよう。周知のように、水素分子2個と酸素分子1個がエネルギーを与えられて、爆発して、水分子2個が生まれるのである。ここで、水素と酸素が結合するのであるが、ミクロにおいては、共振作用があるのではないだろうか。しかし、実軸=現象界においては、水素と酸素が共に否定されて、水が発生するということではないのか。言い換えると、水素が酸素に自己投影して、酸素を否定する。逆に、酸素は水素に自己投影化して、水素を否定する。この相互否定から、水が生起するということではないのか。この点は後で再検討したい。】
 以上を整理すると、Media Pointにおいて、虚軸では共振・共鳴作用がはたらくが、実軸では投影・否定作用がはたらくということになるだろう。Media Pointにおいて、共振から否定への転換・変換transformationが為されるということになる。言い換えると、「平和」から「戦争」へである。「平和共存」から「武力闘争」へである。また、当然、精神(イデア)から物質へでもある。(これは、実に、量子論的な事象であろう。これについては後で検討したい。)
 ここで、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において考えると、左辺は共振性であり、右辺が否定性を意味していると見ることができよう。つまり、⇒とは、同一性志向性であり、否定的暴力を意味すると言えよう。そして、ここで、ユダヤ・キリスト教の唯一神・超越神ヤハウェについて言うと、それは、やはり、左辺の共振性を否定した、正に、⇒+1の神であると言えよう。そう、やはり、資本主義と同型なのである。
 最後に自己同一性の自己投影におけるモデルについて考察したい。これは、実に中核的な問題である。思うに、精神分析はここに父の像をもってきて、理想自我を考えている。この問題は、精神分析を乗り越えることができる問題であると思う。
 今、直感で言うと、Media Pointの虚軸における超越的差異共振エネルギーがあるが、それが、理想を生む源泉であると思われる。これが、実軸においては、他者否定的自己投影作用によって、自己同一性のモデルを生むと考えられるのである。これは、いわば、超越的なモデルである。(そう、ヤハウェ等の父権的宗教の神はここに由来するだろう。)
 つまり、Media Pointの虚軸の超越性が実軸の否定的同一性の自己投影像に作用していると考えられるのである。そのために、自己同一性=自我は、「神的な」もの(自己中心主義)になると考えられるのである。狂気・妄想(パラノイア・モノマニア)はここから発すると考えられるのである。言い換えると、自己同一性のモデルとは、一神教の神である。これで説明が終った。
 では、多神教・自然宗教・女神宗教の場合はどうなのだろうか。はっきりしているのは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺も、ある意味で意識化されていることだと思う。一神教の場合は、⇒+1が意識化されて、左辺が無意識となるのである。しかし、多神教の場合は、左辺が生きていて、右辺とのバランスを取るように思われるのである。
 例えば、古代ギリシア宗教(ギリシア神話)で考えると、デーメーテール等の女神は左辺であり、右辺は主宰神のゼウスということになるのではないだろうか。神道で言えば、左辺が三柱の神であり、右辺が日御子(ひのみこ)=「天皇」であろう。
 そのように見ると、ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明とは、左辺を取り戻すことと言えよう。新多神教東洋文明である。女神が復活するのである。天照大神が復活するのである。神々の復活である。経済的には、トランス・キャピタリズムである。差異共振トランス・キャピタル、超越資本が源泉となる新経済である。

p.s. 後で、自己同一性=自我から発する競争心について考察したい。近代的自我においては、病的な競争心になっていると考えられる。


2008年02月03日(Sun)▲ページの先頭へ
左脳と右脳と自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1:Media Pointと心魂:超越的感性=美
自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を脳の仮説に適用させると、左脳が+iで、右脳が-iに相当し、脳梁が両者の共振性に関係するのではないだろうか。
 ともあれ、左脳+iの自我同一性の狂気について、新たに考えたい。これは、(+i)^2=-1となっていると考えている。+iが他者である-iを否定して、自乗化しているのである。この否定様態であるが、これは、自己中心主義である。そして、この否定様態が自動化すると、狂気にふさわしくなると言えよう。つまり、他者-iをただただ否定するという自動性の発生である。この否定的衝動と同一性観念(自我意識)が結びついているのである。
 問題は、この否定自動化の発生はどういうものだろうか。これは、自我同一性形成において発生するということでいいだろう。この自我形成にともなう否定自動作用(否定衝動)であるが、これは、他者の差異を否定しているので、外界を正しく認識していないのである。つまり、パラノイアである。他者差異こそ、真理の起点であるが、それが欠けているので、自我同一性は妄想化するのである。
 そして、他者差異-i(右脳)は、自我同一性+i(左脳)に認識を迫るようになると言えよう。これはどういうことなのだろうか。
 これまでの考え方、すなわち、太極の思想で言えば、+iのエネルギー(陽エネルギー)が作用して、それが衰退して、今度は+iのエネルギー(陰エネルギー)が作用するということになる。
 この陰エネルギーが自我同一性+iに働きかけるのである。しかしながら、自我同一性は他者・差異-iの認識は不可能なのである。なぜなら、自我同一性+ iにとって、他者・差異は絶対否定・絶対矛盾であるからである。言い換えると、同一性観念知にとり、差異身体性は認識不可能である。
 しかしながら、理性をもつには、他者である差異身体性を認識する必要があるのである。不可能を可能にしなくてはならないのである。これが、人間に課せられている生の哲学的課題である。
 比喩的にいわば、地獄落ちする必要があるのである。自我同一性の知の死が必要である。そして、差異身体性-iを受容する必要があるのである。しかしながら、このとき、反動化が生じやすい。すなわち、(-i)^2=-1となる反動である。おそらく、必然的な反動のように思える。問題は、この差異身体の反動を乗り越えて、自我同一性+iと差異身体性-iを差異共振させることである。左脳と右脳との共振である。このとき、脳梁が重要になるであろう。
 とまれ、自我同一性と差異身体性の共振性を形成するとは、Media Pointの意識化と言えよう。もともと、存在するMedia Pointの意識化である。換言すると、Media Pointの知性化である。そして、これが、理性化でもあると考えられる。
 では、心や魂、あるいは、先に言及した美とはどういうことになるだろうか。意識化ないしは知性化されたMedia Pointは、心や魂と言えるように思えるのである。もっとも、それは、知と身体との調和点である。
 では、美はどうなるのか。美も同様であろう。心や魂において、とりわけ感じられる優れた感情であろう。差異調和・秩序(コスモス)的な感情・感覚である。これは、同一性知性と差異身体感覚性の調和であり、Media Pointの超越性をもっているので、感覚・即非・「霊性」である。それを感性と呼ぶのは、やや妥協的である。だから、より正確に言えば、超越的感性である。こらならば、美を正しく捉えることになるだろう。カントの『判断力批判』で言えば、崇高を美として捉えることになるだろう。そして、カントの言う美は、超越性を喪失した同一性化された美であり、それは、現象的美であり、正しく言えば、綺麗さである。理論的に言うと、現象的感性である。


猛毒入り冷凍ギョウザ怪事件:冷凍食品私見:食品の人工性と自然性:西洋文化と東洋・日本文化
本件は怪事件と言っていいだろう。私としては、今は、誰が真犯人であるかについては、まだ一般的に調査中なので、控えたい。
 ここでは、「猛毒入り」という点ではなく、冷凍食品としてのギョウザあるいは冷凍食品について簡単に述べたい。
 個人的には、私は冷凍食品はほとんど買わない。もっとも、なにか仕出しの弁当類で食べてはいるのだろう。だが、何故、買わないのだろうか。買いだめして、冷凍庫に入れておけば便利ではないのか。確かに、そうかもしれないが、それよりは、私は食事を自分で作る方なのである。
 以前は、冷凍食品のチャーハンを買って食べたことはあるが、端的に言えば、おいしくないのである。つまり、味が足りないのである。味付けはそれなりにあるものの、チャーハンの実質の味が足りないと感じたのである。お米の味が淡泊なのである。また、冷凍のおかずであるが、味付けが濃過ぎたりするので、買いたくないのである。
 結局、冷凍食品はまずいのである。食品という感じがしないのである。まがい物の食べ物を食べているようなのである。
 だから、私としては、冷凍食品を食べる人が多いことに驚くのである。率直に言わせてもらうならば、日本人の味覚が落ちているのではないだろうか。また、食品の自然性に対する感覚を落ちているのではないだろうか。つまり、人工性に日本人が慣れてしまっているのではないか。
 そう、私はイギリスの食べ物がまずいと思う人間の一人であるが、極端に言うと、イギリスの食べ物は、食べ物の範疇に入らないのであるが、それとは少し違うが、私の意識では、冷凍食品は、食品の範疇に入らない感じである。
 でも、何故か。味以前に、食品を冷凍化することに対する疑念があるのである。確かに、肉類の保存は冷凍化が必要である。それは認めるが、それでも、肉は買っても、だいたいは、数日で食べるのである。しかし、冷凍食品は、長く保存されるものである。
 そう、やはり、食品の人工性が私の食品の自然性に対する意識に抵触するのである。それで嫌なのである。食品は自然性が必要であるという私の本能のような意識があり、それが、冷凍食品の人工性に反感をもつと考えられるのである。
 日本の伝統文化は自然の生成消滅性に関する美学である。その生成消滅性を、冷凍食品は否定するのである。つまり、日本の伝統美学に抵触しているのである。そう考えると、冷凍食品は日本伝統文化の危機である。
 ここで話題を飛躍させるが、私は、ゲゼルの消滅貨幣の考え方は好きなのである。それは、減価する貨幣であり、日本・東洋文化的なのである。ただし、地域通貨は、ゲゼルの考え方とは違うと思っている。
 サブプライム問題のように、マネーがマネーを増殖させる発想も、日本・東洋文化価値から見ると違和感があるのである。マネーは必要がなくなれば、消滅すべきではないだろうか。新たな差異価値が生じて、それに対応して貨幣が生まれるべきではないのか、と率直には思うのである。
 マネーの問題は、西洋文化、とりわけ、ユダヤ・キリスト教文化に関係していると思う。自我同一性の永遠性(復活の問題)とマネーの同一性価値はつながっていると思う。
 しかしながら、同一性は差異の一部に過ぎないのである。それは、差異の仮面と言っていいだろう。差異としての貨幣を追求したい。後で、この点について検討したい。


参考1:
中国製ギョーザ、新たに6袋からメタミドホス検出…兵庫

2月3日16時16分配信 読売新聞

 中国製冷凍ギョーザによる中毒症状が相次いだ問題で、兵庫県警は3日、同県高砂市の一家が食べたものと製造日や銘柄が同じ製品を鑑定した結果、新たに6袋の包装袋の外側から有機リン系殺虫剤「メタミドホス」が検出されたと発表した。

 袋の内側やギョーザはまだ鑑定していないが、うち1袋には穴が二つ開いていた。千葉、兵庫両県で計10人が被害に遭ったギョーザ以外からメタミドホスが検出されたのは初めてで、県警は付着した経緯を特定するため、流通過程などを調べる。

 兵庫県警によると、袋の外側からメタミドホスが検出された6袋は、高砂市の一家3人が今年1月5日に食べたのと同じ「中華deごちそう ひとくち餃子 (ギョーザ)」で、製造日も同じ昨年10月1日だった。県警が今月3日、輸入仲介商社の双日食料(東京都港区)から任意提出を受けた26袋の中に含まれていた。
 この6袋は昨年12月28日、輸入元のジェイティフーズ(JTF)大阪支店に返品され、今年1月8日、双日食料に持ち込まれた。まとめて一つのビニール袋に入れられ冷凍保存されていた。うち1袋には、袋の四隅に近い部分の表と裏にそれぞれ一つずつ直径約1ミリの穴が開いていた。針状のものが貫通したとみられ、トレーやギョーザに穴や傷はなかったという。

 一方、千葉市の母娘が昨年12月28日に食べて中毒になった製品と、千葉県市川市の一家5人が今年1月22日に中毒症状を起こした製品は、いずれも昨年10月20日に製造されたもので、包装袋に異常は確認されていない。警察当局は10月20日に製造されたギョーザには、別ルートで殺虫剤が混入した可能性もあるとみて、今後、他の製品についても鑑定を進める。

 JTFの親会社・日本たばこ産業(JT)によると、問題の6袋は、昨年12月27日に大阪府内の小売店から「パッケージの外側がねばねばしていて異臭がする」と連絡があったため商品を回収して、双日食料とともに調査を進めていたところだった。

 中の商品について味見をしたところ異常はなかったといい、製造した中国の「天洋食品」から聞き取った結果、「製造工程ではパッケージに何かが粘り着く可能性は少ない」との回答を受けたという。

 JTなどでは、任意提出に先立って、回収した製品の袋に付着していた物質を調査した結果、リン酸化合物などの特徴があることまでは確認していたという。JTでは「リン酸化合物は合成洗剤にも含まれているため、洗剤などが袋の表面に付着した可能性もあると考えていた」としている。
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080203-00000023-yom-soci


参考2:

<消費者庁はまずい>
とにかく消費者庁などつくらせないほうがいい。
消費者の苦情を理由に、まともな会社を多大に罰するのが目的となるはずである。
そして創業者を追い出したあとは、ユダヤ外資がのっとる。

たとえばグッドウイルの例を見てみたい。
http://www.goodwill.com/
果たして2重派遣があったからといってそれで営業停止処分にするのは、
明らかに行きすぎである。つまり会社を殺してしまうことが目的の
行政処分なのである。

東証一部の上場企業です。そして株主には外資ファンドが名を連ねています。
おそらく外資ファンドは株をもっている折口氏を廃して
自分たちの会社にしてしまいたいのでしょう。
http://archive.mag2.com/0000
154606/20080116032359000.html
白い恋人とGOODWILL報道も企業のっとりのためか?国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」


   




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