INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/01

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年01月31日(Thu)▲ページの先頭へ
検討課題:美学について:美を論ずることの必要性
今というか、ここ数日間は出張で忙しいので、更新が少なくなるので、本件はその後検討することになるが、美学を論じることが必要なように思えている。英語でAestheticsというが、どうもこの用語が曲者である。端的に言えば、感性論である。そう、感性という言葉も曲者である。今は簡単に触れるだけだが、senseは、身体的感覚と心的感覚の両方に跨(またが)っているだろう。簡単に言えば、感覚と心である。
 プラトニック・シナジー理論は、ここでも強力な解明力をもっているだろう。問題は、Media Pointである。ここは、心と身体との交点・接点でもある。差異と同一性との交点・接点でもある。
 美は本来、Media Pointの様態に存するだろう(即非様態)。しかしながら、現代、Media Pointが喪失されたままであり、同一性感覚が中心化されている。そこで、感性と言ったとき、それは、Media Pointではなく、同一性感覚の意味になってしまうのではないだろうか。
 後で、心と感覚ないしは感性について詳論する予定であるが、今日、感性は心や魂を喪失していると思われるのである。私は、心感性というような言葉を考えたことがあるが、それはそのような意味合いからである。
 今検討できないのは、残念であるが、日常的に、不快な言葉遣いが多く、耐え難いのであるが、それは、美意識が喪失しているからである。美とは、単に感覚・感性的なものというよりは、差異的なものであり、理性的なものであると思うのである。秩序と関係しているのである。それも非線形的秩序である。
 そう、政治の醜悪さにも耐え難い。やはり、美がないのである。理性が政治から消えているのである。そう、現代日本は、美を失っているのである。耐え難いポップスなど。もっとも、世界においても、美が喪失しているが。


参照:

英語のウィキペディア
http://en.wikipedia.org/wiki/Aesthetics
美学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

美学(びがく)あるいは感性学は、美 や芸術 あるいは趣味 の問題を扱う哲学 である。伝統的美学は、美とは何か(美の本質)、どのようなものが美しいのか(美の基準)、美は何のためにあるのか(美の価値)といった問題に取り組んできた。いわば美の形而上学ともいえよう。審美学という訳語は旧称であるが、その提唱者は森鴎外 である。広義の美学は道徳 的な美や自然 の美を含むが、芸術の哲学とされることも多い。今日では、美の概念そのものの探究より、個別の美的経験・芸術領域・芸術と他の人間活動との関係の研究がさかんである。
名称

ドイツの哲学者アレクサンダー・バウムガルテン が1750年 に『美学』 (Aesthetica) を出版したことが、美学が哲学 の一領域として定式化される一つの契機となった(バウムガルテンは、最初の著作『詩についての哲学的省察』の中で既に、詩の美学的価値の原理的考察を思考する学として aesthetica という学を予告している)。

この aesthetica という語は、ギリシア語 aisthesis の形容詞 aisthtike をラテン語化したもので、二つの語義を持っていた。一つは「感性的なるもの」であり、他方は、「学問」(episteme)という語が省略(ギリシア語での慣例による)された語義である「感性学」である。

バウムガルテンがどちらの意味でこの語を使用しているかはその諸著においても曖昧であるが、遅くとも『美学』以降では、後者の意、さらに詳しく言えば「感性的認識論 scientia cognitionis sensitivae」の意で用いていることは明らかである。

バウムガルテンによれば「美は感性的認識の完全性である」(『美学』14節)であるから、aesthetica(「感性的認識論」)は「美について考察する学 ars pulcre cogitandi」(同1節)である。一方、「完全な感性的言語 oratio sensitiva perfecta」(「詩」を指している)を典型とする芸術一般は美にかかわるから、aesthetica は「芸術理論 theoria artium liberalium」(同1節)である。

( aesthetica = 感性的認識論 = 美について考察する学 = 芸術理論 )

バウムガルテンの体系においては、美や芸術に関する学的考察である感性的認識論は、理性的認識論との対比において「疑似理性の学 ars analogi rationis」であり、「下位の認識論 gnoseologia inferior」(同1節)として位置づけられた。

[編集 ] 歴史

その淵源はプラトン にまで遡る。イマヌエル・カント の『判断力批判』、シェリング の『芸術の哲学』講義、ヘーゲル の『美学』講義などを経て、フィードラーの「上からの美学」批判を受け、現代に至る。現代美学において特筆すべきは、・実存主義 ・分析哲学 ・ポスト構造主義 によるアプローチであろう。

[編集 ] バウムガルテンの「美学」

バウムガルテン (A.G.Baumgarten,1714-62)は、ライプニッツ・ヴォルフ学派の系統に属す。「美学」(aesthetics/英)という学問の名称は、彼が、「感性 」を表すギリシャ語 から作ったラテン語 の造語「Aesthetica」に由来する。彼はフランクフルト 大学で1742年からこの「美学」の講義を始め、その後も再度の講義要請があったことから、もとの講義内容に若干の加筆修正を行い、これをラテン語 で出版した。『美学(Aesthetica)』第1巻は1750年、更に第2巻が1758年に出版された。

引用

美学(自由学芸の理論、下級認識論、美しく思いをなす技術 、理性類似物の技術)は、感性的認識学の学である。(第1節)

美学の目的は、感性的認識そのものの完全性にある。然るに、この完全性とは美である。そして、感性的認識そのものの不完全性は避けられねばならず、この不完全性は醜である。(第14節)

美学の出発点は、知性的認識の学としての論理学 を感性的認識の学で補完することにあった。

[編集 ] 日本の美学

日本語の「美学」は、中江兆民 がVeronの著作を訳して『維氏美学』と邦題を付けたことによる。日本の高等教育機関における美学教育の嚆矢は東京美術学校 および東京大学 におけるフェノロサ のヘーゲル美学を中心とした講義、森林太郎(森鴎外 )による東京大学におけるE. V. ハルトマン美学ら当時の同時代ドイツ美学についての講演、およびラファエル・フォン・ケーベル (ケーベル先生の呼称で知られる)による東京大学での美学講義である。また京都 においては京都工芸学校においてデザイン教育を中心とする西洋美学および美術史の教育がなされた。なお東京大学は独立の一講座として大塚保治 を教授に任命、美学講座を開いた世界で最初(1899年 )の大学である。

日本における主要な美学関連学会 としては美学会があり、雑誌『美学』(年四回)および欧文誌 Aesthetics (隔年)を発行している。毎年十月に行われる全国大会のほか、年五回関東および関西で研究発表会が開催される。なお2001年の国際美学会議(4年おき開催)は日本で行われた。

[編集 ] 日本の美意識

近代以前の日本には、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての「美学」はない。しかし、いき 、わび などの個別の美意識 は、古くから存在しており、また茶道 や日本建築 、伝統工芸品 などを通して、さまざまな形で実践されてきた。また、歌論、能楽論、画論などの個別の分野での業績はあるものの、孤立した天才の偉業という色彩が濃く、一枚岩の美学ではない。これらの美意識は、自然と密接に関連しているが、西洋美学は、近代以前はもっぱら「人間」を中心に据えた「芸術」のために発展した。そのため、日本の美意識は、西洋美学の視点からは、十分に記述・説明することができない。近代以前の日本の事物について、「芸術」という視点を持つ美学から論じると、学問的文脈を無視した議論となり、慎重を期すべきである。日本人自身も、日本の美意識を、明快に定義・説明することが困難であるのが現状である。今後、複数の視点を生かした研究が待たれる。

[編集 ] おもなトピック一覧

[編集 ] 古今和歌集仮名序

紀貫之 は『古今和歌集 』仮名序で、和歌が純粋な心の結実であるとした(「やまと歌はひとつ心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」)。そして和歌が天地開闢の時から出来したと述べ、和歌に結集する芸術は、生きとし生けるものの生の表現が人間にあってその精華を開花させたものであるとした。

[編集 ] 歌論

[編集 ] 世阿弥の演劇論

[編集 ] 本居宣長

[編集 ] 岡倉天心

[編集 ] 大西克礼

[編集 ] 近代の美学

* カント
* シラー
* ヘーゲル

[編集 ] 近代以降の美学

* ニーチェ
* ショーペンハウアー
* ハイデガー
* メルロ=ポンティ
* アドルノ
* グリーンバーグ
* ボードリヤール
* フレドリック・ジェイムソン
* ハル・フォスター
* ロザリンド・クラウス

[編集 ] 関連項目

* 美術史
* 美意識
* 哲学
* 批評
* 詩学
* 芸術学 (Kunstwissenschaft)
* カルチュラル・スタディーズ (cultural studies)
* 分析美学
* 芸術制度論
* 美
* 醜
* 審美
* 崇高
* イロニー
* フモール
* アレゴリー
* 図像学
* 想像力 、構想力 、制度論
* エロス
* ランナウェイ説 または、『 平均美人説 』 

[編集 ] 外部リンク

* (百科事典)「Aesthetics」 - インターネット哲学百科事典 にある「美学」についての項目。(英語)


 美術 < 芸術 と文化

絵画 - 版画 - 浮世絵 - 書 - イラストレーション - 彫刻 - 工芸 - 陶芸 - デザイン - 写真 - 映画 - 舞台芸術 - 建築 - 庭園

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"http://ja.wikipedia.org/
wiki/%E7%BE%8E%E5%AD%A6 " より作成

カテゴリ : 美学 | 美 | 美術


2008年01月29日(Tue)▲ページの先頭へ
市場哲学:市場とは何か:トランス・モダン市場経済:差異共振化された市場経済
差異価値と同一性価値との関係を考察しているトランス・モダン経済論が途中であるが、市場についてどう考えるのかという点がまったく触れられていないので、それを考察する必要がある。
 端的に、市場とは何か、である。例えば、私が古楽のいい演奏のCDを買いたいという立場にあり、お店に行って買うことになるとしよう。
 この買いたいという心的欲動は何であろうか。欲望なのか。確かに、いい音楽への渇望がある。それが満たされないとストレスになる。つまり、心に、差異共振エネルギーを音楽の波動で与えて、心を充電する必要があるということなのだろう。
 とまれ、ここには、買い手における欲求・欲動がある。欲望なのだろうか。欲望というと、あまりに生々しい表現である。音楽を欲望すると言うだろうか。欲求であり、心的欲動である。心欲と造語してもいいだろう。
 思うに、いったい欲とは何か。物質的欲から心的ないしは精神的、美的欲まである。音楽の場合、美的欲求でもある。絵画でもそうであろう。映画もそうだろう(もっとも、流行に遅れまいという、世俗的欲もあるだろう)。
 とまれ、個体の欲を満たすために、市場において、欲を満たす商品・品物・物を購入するのである。このとき、売り手に対価を支払うのである。
 そう、この対価において、差異価値と同一性価値の関係が発生しているのである。買い手にとり、ある商品は差異価値である。売り手にとっては、同一性価値の可能性である。ここで、価値の非対称性が生じている。買い手は、差異価値をもつ商品に購入に対して、対価である貨幣を支払う。それは、売り手によって提示された同一性価値である。つまり、市場において、差異価値と同一性価値(貨幣)との関係が相互転換すると言えるだろう。買い手には、差異価値への心的欲動があり、手元には、同一性価値である貨幣がある。それに対して、売り手は、買い手が欲する差異価値があり、それを同一性価値(貨幣)に交換したいと強く望んでいる。
 言い換えると、質(差異)と量(同一性)との交換が市場経済であると言えよう。つまり、それは、哲学的には、不可能な事態なのである。差異と同一性という異質なもの同士を相互転換させているのである。これは、実に不思議、いわば、手品・魔法・魔術である。マルクスが『資本論』で商品の形而上学を驚異をもって言及していたのを想起する。
 ハリー・ポッター等のファンタジーがブームであるが、実際、市場の様態とは、ファンタジーそのものである。現実のファンタジーであるから、凄みがあるのである。(p.s. 思うに、今日のバーチャルな経済とは、超越的エネルギーが同一性へと流出しているために発生していると見ることができないだろうか。超越的エネルギーを回帰、フィードバックさせるべきであろう。後で検討。)
 貨幣が同一性価値を保障しているので、市場社会において、人々は、同一性価値である貨幣を目指して生産することになるのである。そして、貨幣の有効性を利用して金融業が発達するのである。同一性価値が同一性価値を増殖するのである。ここには、差異価値という原点から離脱した行為があると言えよう。
 問題は、欲・心的欲動である。差異価値への心的欲動がある。それを手に入れるには、交換価値である貨幣を獲得して、購入する必要があるのである。貨幣獲得のために、賃金仕事に関わることになるのである。それは、個の差異価値を多かれ少なかれ抑圧して、会社・企業の経済活動のために従事することになる。もっとも、天職に従事する場合があるがそれは、希少である。
 生きるため、それは、個の差異価値を肯定するためであるが、働くことになる。差異価値のために、同一性価値である貨幣を獲得するために働くのである。そう、個において、差異価値と同一性価値は結びつくことになるだろう。この結びつきであるが、それは、何か。
 具体的に考えよう。食事のため、お米を得る必要がある。それは、私の物質的身体を維持するために必要なものである。これは、心的欲求というよりは、物質的欲求である。身体的欲求である。お米を手に入れるためには、その価格に等価の貨幣をもつ必要がある。つまり、私の物質的欲求のために、同一性価値である貨幣が必要なのである。
 では、私の物質的欲求とは何だろうか。それは、同一性価値の欲求なのだろうか。否、そうではないだろう。「私の」という点が重要である。つまり、差異価値なのである。差異価値の欲求を満たすために、同一性価値である貨幣が必要なのである。言い換えると、差異価値の更新のために、同一性価値である貨幣が必要なのである。
 だから、人は、差異価値を維持するために、同一性価値である貨幣を獲得するために働くわけであるが、ここで、差異価値と同一性価値が連結するのがわかるのである。つまり、個としての欲において、差異価値と同一性価値がつながっていると言える。
 では、個としての欲とは何だろうか。ここでは、身体を例として考えると、身体保持・更新の必要性が欲であろう。すると、これは、Media Point(差異共振性)から同一性が形成されるときの力学と同質の問題であることがわかるだろう。
 そう、ここで注意すべきは、同一性の構造形式と同一性という物質との違いである。身体は、Media Pointないしは遺伝子から、その構造形式を保持されるものであるが、物質的身体という同一性=物質自体は、身体の構造形式とは区別されるのである。そして、物質的身体の更新の必要が欲ということだろう。
 そう、作業仮説的に言えば、身体の同一性構造から同一性物質身体が形成されるが、そのときのエネルギーの補充の必要が欲ということだろう。端的に、食欲である。(性欲は次元が少し異なるだろう。)
 結局、身体の差異価値(「わたしの」身体という意味である)は、エネルギーを補充するために、欲を発生させて、充足させるために、同一性価値である貨幣獲得のために働くのである。
 しかしながら、貨幣獲得の目的は、差異価値にあるのであり、同一性価値は、本来、手段・媒介・媒体に過ぎない。
 しかし、自明のように、欲という作用が基盤となり、同一性価値自体に対して、欲が発生すると考えられるのである。本来、差異価値のためのエネルギー補充のために、欲が発生するのであるが、市場経済においては、欲を媒介にして、同一性価値自体への欲が発生すると言えるのである。そして、これは、同一性である自我において、発達すると言えるであろう。これは、当然、所有欲へとつながるのである。我欲である。
 結局、欲を媒介として、同一性価値=貨幣の市場経済が成立すると言える。ということで、ここで倒錯が生まれると言えよう。本来、差異価値を満たすものであった交換が、同一性価値を欲求する方向へと転換するのである。価値の倒錯が発生するのである。これが極端化したのが、たとえば、サブプライムローンである。言い換えると、市場経済は、今日、倒錯経済であると言えるだろう。
 原始市場経済においては、問題はないだろう。差異価値が同一性価値=貨幣を介して、交換されるだけである。資本主義で問題なのは、同一性価値=貨幣が超肥大化していることである。欲の超肥大化、自我の超肥大化である。(私にはここには、前頭葉ではなく、脳の違う局所が作用しているように思えるのである。おそらく動物的な脳である。情動脳である。視床下部が作用しているのではないだろうか。この問題は後で検討したい。)
 とまれ、《欲》が中心点である。これは、哲学的には、連続化・同一性化、すなわち、連続的同一性化と言えるだろう。これは、不連続的差異論が問題にした事象である。
 これは、人間という自然にとっての、一つの自然事象である。アダム・スミスが見えざる手と言ったが、その意識には、自然のヴィジョンがあったのだろう。
 確かに、一つの自然事象であるが、絶対的事象ではない。自然の基盤は、連続的同一性ではなくて、差異共振性、Media Pointであるからである。だから、自然の事象である市場経済であるが、それは、連続的同一性の経済であり、絶対的ではないのである。しかしながら、ここで短絡的に市場経済を否定するということにはならないのは、自明であろう。
 結局、連続的同一性=欲が支配して、市場経済がカオス化されるわけであるが、いったん連続的同一性=欲を切断して、本源の差異共振性=Media Pointに回帰することで、市場は質的に新しいものになると考えられるだろう。即ち、根源の差異価値へ回帰して、差異価値自体を評価する経済が考えられるのである。これは、パラダイム・シフトである。
 《欲》を切断して、差異共振エネルギーへと転換することである。言い換えると、差異共振「欲」のようなものが存することになるだろう。そして、この「欲」を満たす市場経済がありうるのではないだろうか。それは、これまでの市場経済とは質的に異なるだろう。差異共振化された市場経済である。(Kaisetsu氏の「市場化された場における共同体主義」を参照。)そう、モダン/ポスト・モダンにおいては、連続的同一性=欲が支配的であったが、この、いわば、トランス・モダン市場経済においては、差異共振「欲」が作用していて、これまでの同一性欲動を超える、トランス同一性欲動・差異共振欲動が作用しているのである。正確に言えば、同一性欲動を包摂した差異共振欲動が作用しているということである。高次元市場経済とも言える。
 このトランス・モダン・マーケットにおいては、欲動は垂直化ないしは虚軸化しているのであり、そのような欲動に見合う売買がなされることになるのである。では、資本はどうなるのだろうか。これまで主導的であった同一性価値資本ではなくて、差異価値資本、差異共振価値資本が重視されるようになるだろう。だから、これは、差異共振市場経済である。トランス資本主義である。若者であった資本主義が大人である差異共振経済へとトランスフォーム(変換・変容・変態)するのである。情報資本とは、差異価値資本である。また、差異共振共同体を志向する企業も差異共振資本をもっていると言えよう。同一性資本から差異共振資本へ。トランス・キャピタルである。
 そう、政治も差異共振社会へと指導する必要があるのである。それによって、経済が資本主義経済から差異共振経済へと変換するための触媒になると考えられる。 

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参考:
第2章 市場経済のしくみについて
http://home.owari.ne.jp/
~fukuzawa/zin4-2.htm
橋本裕「経済学入門」より

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参照:
★ 2008年1月28日 月曜日、17時半更新

未曾有の全世界的経済破綻を目前にして、こうした破綻とグローバリゼーションと呼ばれる金儲け優先思想による人間疎外がなぜ起きるのか? その真実を見極めるべき時期に来ている。
 いったい何が問題だったのか? 筆者は、「金余りが金を滅ぼす」と指摘してきたが、なぜ実体経済に満足できず、人間疎外を省みることなく、さらなる余剰利益を求め続けたのか? その本当の意味を理解しない限り、人間社会は何度でも同じ過ちを繰り返すことになる。

 筆者は、この数年、余談のなかで、これらの金儲け思想の根源に「競争主義」があると指摘してきた。「人を追いつめて競争に勝利する」という発想、競争を人生の目的としてきた世界中の人たちが、今、自らの論理の帰結として破綻に直面している。
 世界を動かす原動力は、国家や軍事バランス、指導者の力量などではない。その正体は人の心にすぎない。「心の法則」こそ、地上における、あらゆる問題の根源にある。
 人々が競争心を抱き、埋没し、人間社会を根源で支える必要な要素すら見失って暴走してゆくプロセスに、心の法則がある。
 人が、どのような心の悩みを抱え、それが現実社会の破綻に結びついていったプロセスを説明しないかぎり、破綻に至った真の原因は理解できず、これから何をなすべきかも決して見えてこない。

 一方で、人の心を弄ぶかのような、一部ユダヤ教徒による壮大な歴史的陰謀が、競争主義社会を演出する上で極めて重大な影響を与えた事実も否めない。
 世界中の王族、金持ち、権力者をフリーメーソンという秘密結社に組織し、33位階の序列差別を与え、他人を出し抜いて自分がエラクなる上昇志向の競争主義こそ、彼らの陰謀の根源にある。彼らの思想は、上流階級社会を作り、特権意識に夢中になった人たちを競争主義に洗脳して、彼らの金融システムの奴隷として飼いならすことであり、「カネを支配するものが世界を真に支配する」という信念に基づいて、世界を経済基盤から彼らに都合のよいように作り変えてきた。
 この巨大な陰謀が、現代社会に至って、「資本集中と人間疎外」という結実になった、と考えても間違いないと思う。だが、それだけで、世界がこれほど悪くなるわけではない。それは、やはり、一人一人の心の奥底に潜む何かが作用していると考えるべきで、それを明らかにすることこそ、問題の本質を見て、解決を導く方法だろうと思う。


★ 2008年1月27日 日曜日、10時半更新
 
余談

 株が値戻し傾向にあるにもかかわらず、世界的経済破綻の趨勢は変わらないと指摘してきた。今、株を買っている人たちは、問題の本質を見ようとせず、自分の破滅的損失を認めたくない心理から、現実を直視できないで、目先の値上がりで何とか安心したい気持ちだけで買っている。こうした投資家心理が、巨大投資家のリスク転嫁に利用されると書いてきた。これは過去の、すべての恐慌破綻に共通するメカニズムであって、これがあるから株のプロは辛うじて身を持ちこたえることができてきた。

 今、回復基調と勘違いした人が多いにもかかわらず、本当はサブプライム問題を端緒として、個人カードローン、自動車ローンなど底なし沼の様相を呈している。加えて、アメリカのローン転嫁を保証してきた最大のシステム、モノライン問題が浮上している。(以下「宇宙の法則研究会」資料から引用)

 モノラインとは、有価証券の発行者から保証料を受け取り、債務不履行(デフォルト)の際に元利払いを肩代わりする保険会社の一種で、保証は金融商品に限定しているため、「単一の事業」を意味するモノラインと呼ばれている。米国のモノライン業界団体は12社、保証額は昨年末時点で合計2兆4000億ドル(約260兆円)にものぼる。さらにこれらのモノライン保険会社は、米国の地方債の約5割、証券化商品の約2割の保証を手掛けている。
 今年の1月17日に米国株が下落したのは、ムーディーズがモノライン会社の格付けを引き下げ方向で見直すとしたことで、この日モノラインのMBIAは31.2%の大幅安、アンバック・フィナンシャル・グループは51.9%の急落となったことが最大の要因である。
 このように金融商品の支払いを保証するモノラインがサブプライムローンの保証急増で破たんすれば、サブプライムと無関係の保険会社にも損失が連鎖的に出ることが予想される。現状としてはほとんどのモノライン保険会社が、軒並み自己資本の100倍という巨額の保証契約を引き受けているため連鎖倒産を免れない。

 これまで経済大国・米国を影から支えていたのはこのモノライン保険会社であったので、保険会社倒産による巨額の損失とともに、その存在が失われれば米国経済の息の根が止められてしまう可能性がある。米国政府はこのモノライン保険会社の救済に動き出しているという情報があるが、金額がたかだか1兆数千億円程度では救済にはならない。金額としては、桁がひとつ違うと言ってもよい。

 さらに、世界経済を混乱させる不安要因がもうひとつある。それは高騰した原油問題だ。原油が1バーレルあたり100ドルまでに跳ね上がったのは、それだけの需要があったわけではなく、世界的な金余り現象により投機筋からの価格吊り上げだった。米国をはじめ世界中が景気後退に入れば、原油はだぶつき、高値に吊り上げた投機筋の経営状態が悪化することになる。

現在、世界中で動いている金融機関のマネーは総額150兆ドルで、日本円にして1京6千兆円(1万6000兆円)もの巨額になる。この金額は実態経済の3.2倍にもあたり、デリバティブによるレバレッジ投資がいかに天文学的なものになっているかを証明するものだ。そのような金融機関のマネーの数パーセントでも焦げ付けば、サブプライムローン問題以上に世界の金融は大きくガタツクことになり、修復不能の状態に陥るのは間違いない。
 予想では今年の夏になると原油価格は、1バーレルあたり70ドル台の実勢価格にもどると思われる。(夏場になると、石油の需要は冬場に比べて大幅に減少)そうなったときに、世界中のヘッジファンド、さらにはヘッジファンドを支えてきた多くの金融機関が次々と破綻する事態は免れないことになる。
 その際に最大に影響を受けるのは、我が日本の金融機関だ。自民党の圧力に屈した日銀がゼロ金利ならびに超低金利を永年続けてきたことで、日本人が持つ金融資産はキャピタル・マネーフライトと呼ばれ海外に貸し出されてきた。その総額は、日本人が持つといわれる金融資産1500兆円の半分の700兆円である。その貸出先には、多くのヘッジファンドが含まれている。間違いなくその700兆円は、二度と日本に戻ってくることはない。ほとんどが焦げ付きとなる。

 そういった事態が起こる直前には、日本の金融金融機関の多くが「預金封鎖」をせざるを得ない状況に陥ると思われる。預金の払い戻しをしようにも、貸出先で焦げ付きキャッシュが金庫から消えてしまうからだ。従って筆者(宇宙の法則研究会)の予測では、現在の「資本主義」が重大な局面を迎えるのは今年、 2008年の夏ということになる。
(以上、引用資料を再構成)
http://www1.odn.ne.jp/
~cam22440/yoti01.htm                 

東海アマ地震予知情報



検討問題:資本の差異化とは何か:差異価値に基づく同一性価値のエネルゲイア化?
先に私は、資本の差異化ということを言ったが、考えてみると、あいまいな観念であると思う。いったい資本とは何か、である。同一性価値(同一性交換価値)の資本(金融資本)なのか、それとも、差異価値(質価値:差異共振価値)としての資本なのか、両方が考えられるだろう。
 しかしながら、後者は通常、同一性価値の基準によって評価されているだろう。たとえば、ある企業の創造性の価値は、売り上げ等の同一性価値によって評価されるだろう。つまり、現実の資本主義において諸価値が、同一性価値によって評価されているということである。つまり、差異価値が差異価値として評価されるのではなくて、同一性価値という異質な価値基準によって評価されているということである。ここに諸価値の混乱・混同・混沌があると言えよう。つまり、わかりやすく言えば、価値評価が狂っているのである。
 ある価値を価値そのものとして評価するのではなくて、同一性価値によって評価するという現実があるのである。つまり、差異である価値を同一性という貨幣交換価値によって評価するという現実が資本主義にはあるのである。
 ここには、同一性主義が支配していると言えよう。そして、私は、同一性主義を狂気・妄想・悪・エゴイズム・闇(無明)等であると考えているのである。しかし、これが現実である資本主義の正体である。
 結局、真如(しんにょ)・真実・真相を認識する必要があるのである。即ち、価値を価値そのものとして認識し評価することである。つまり、価値とは本来、差異価値なのであり、差異価値として認識評価すべきであるということである。
 そう、ニーチェが説いたように価値転換が必要なのである。同一性中心主義(デリダのロゴス中心主義)を解体・脱構築して、差異価値を評価すべきなのである。ただし、同一性価値は同一性価値として評価すべきである。つまり、差異価値と同一性価値を明確に分離して、それぞれ評価すべしということである。現代資本主義は、両者を混淆しているのである。ポスト・モダン理論がそうであったのである。
 では、本件の問題にもどると、資本とは何か、である。差異価値が資本なのか、同一性価値が資本なのか。思うに、資本という概念ないしは観念は、混乱しているのではないだろうか。つまり、二つの価値を混同して資本と呼んでいるのではないだろうか。差異価値も資本であり、同一性価値も資本である。そして、差異価値「資本」は、同一性価値によって評価されているのである。つまり、同一性価値(正確に言えば、貨幣価値)が中心化されて、資本となり、その価値基準から差異価値も評価されて資本とされているということであり、つまり、同一性価値=資本の視点から差異価値が評価されて資本となっているのである。いわば、差異同一性価値資本となっているのである。同一性価値資本が中心化されて、差異価値が否定・排除・隠蔽されているのである。ここに要注意である。そう、ここが根本的なポイントである。(マルクスなら、「ここがロドスだ、ここで跳べ」と言っただろう。)
 この価値評価の混同によって、資本主義はカオス・無秩序をもたらしているのである。結局、繰り返すが、差異価値を差異価値として、同一性価値を同一性価値として、純粋に評価することが科学的であるのである。(そう、資本主義は、価値混同において、非哲学的・非科学的・非理性的でなのである。)
 結局、物質的且つ非物質的生産・創造において、差異価値共振性があり、そこから、差異価値(製品・商品・生産物)が発生するのである。そして、この差異価値を同一性価値(交換価値・貨幣価値)を介して、販売するのである。同一性価値とは物質的価値であり、その観点から、生産・創造は評価されることになるのである。しかしながら、これは、いわば、仮象的評価である。仮面的評価である。ここには、いわば、虚偽があるのである。あるいは、誤謬があるのである。
 交換において、あくまで、差異価値は差異価値である。しかるに、同一性価値としての交換価値が評価されてしまうからである。ここに混乱があるのである。
 つまり、同一性価値としての交換価値=貨幣価値は仮象・仮面に過ぎないのであり、本体・真実・真如として、差異価値が存しているのである。言い換えると、差異価値がイデア・本体であり、同一性価値=交換価値=貨幣価値とは、仮象・仮面、仏教で言えば、空に過ぎないということである。これを現代の経済学は理解していないのである。
 途中。


2008年01月27日(Sun)▲ページの先頭へ
料理の哲学:料理と差異共振性:同一性結合体の解体と差異共振創造
鈴木雅明指揮によるバッハ・コレギウム・ジャパンによるヘンデルの名作・オラトリオ『メサイア』の心胸を明るく元気づける、見事な演奏(鈴木氏は、バッハよりもヘンデルの方がよりあっているのではないだろうか。つまり、鈴木氏の音楽性は旋律をくっきり浮き彫りにするのであるが、それは、バッハよりヘンデルに向いていると考えられるからである。)を聴きながら、台所で、カレーを作るため、鍋の野菜のぐつぐつ煮え具合を見ながら、考えた。
 ジャガイモ、ニンジン、たまねぎ、肉が煮える。野菜がくずれて、溶けて、エキスになる。例えば、個体としてのジャガイモである有機体が火によるエネルギーで揺すぶられて、根源要素への還元されるだろう。同一性有機体が解体されて、ジャガイモの差異に還元されると仮定しよう。
 煮詰められて、ジャガイモの差異(差異1)、ニンジンの差異(差異2)、タマネギの差異(差異3)、肉の差異(差異4)へと還元されて、四者が差異共振するのではないだろうか。つまり、差異1*差異2*差異3*差異4という差異共振様態がそこには現象するのではないだろうか。(第三部が始まった。)
 この差異共振様態が料理の味の元となるのだろう。そして、そこへカレー・ルーを入れて、さらに弱火で煮込み、味をより深化させるのである。これも、さらなる差異共振化と言えるだろう。
 つまり、料理とは、食材に熱エネルギーを与えて、同一性有機体を解体させて、差異に還元して、差異共振様態を形成することであると言えるのではないだろうか。
 正確に言えば、同一性有機体の解体というのは、野菜の分子に分解されるということだろう。だから、分子差異になるということである。分子差異1*分子差異2*分子差異3*分子差異4との分子差異共振様態が料理である。
 だから、問題は、野菜有機体は何であるのかである。野菜の分子が結合して、野菜自体になる。分子は本来同一性ではあるが、同一性と同一性と結合して、集合化するのである。この同一性結合体が形成されるとき、エネルギーを放出しているはずである。同一性*同一性⇒同一性集合体+エネルギーである。
 料理のときの熱エネルギーは、この式を反対にするものであろう。即ち、同一性集合体+エネルギー⇒同一性(野菜分子)*同一性(野菜分子)である。この同一性を、理論的には、差異と考えることができるのである。
 問題は、分子を結合して、集合体にしている力である。同一性と同一性とを連結する力である。これを問題にしないといけないのである。(盛り上がりがすばらしい。これまで聴いた最高の『メサイア』である。)
 同一性結合力とでも借りに呼んでおこう。これが、物質体を形成しているのである。そして、これを、料理の場合、火が食材という物質体を解体させて、同一性共振様態に還元するのである。
 この同一性結合力とはどういうものだろうか。同一性の連結力とは何か、である。これは、単純に、積の力ではないのか。差異共振力が*であるなら、連結力は・ではないのか。そうとすれば、料理の場合、熱エネルギーは、この積の連結力を解体すると言えよう。つまり、熱エネルギーで揺さぶり、連結力・を差異共振力*に転換しているのではないのか。言い換えると、連結力に熱エネルギーを与えて、物質体のMedia Pointを活性化・賦活・励起することではないのか。つまり、物質のMedia Point=差異共振化である。ここにおいて、物質は、他の物質と差異共振化して、新しい物質(料理)を形成すると思われるのである。思うに、文化とはこのようなものであろう。同一性のままでは、同質のままで、差異共振の質(特異性)をもたないのである。
 以上の料理哲学を経済に適用すると、同一性の物質のままでは、同質であり、高い質・差異共振性を創造できない。量的経済、土建屋的公共投資経済では、社会は進展しないのである。それは、積の経済(量の経済)であり、(国家財政の負債を拡大するだけで、)差異共振経済(質の経済)ではないのである。
 また、金融資本中心主義(サブプライムローンはその狂気である)も、積の経済であり、量的増加のみであり、質的成長はないのであり、バブルとなる運命で、不況ないしいは恐慌が襲うことになるのである。景気循環を起すのである。
 思うに、現代資本主義は、サブプライムローン問題に見られるように、壁にぶつかっているのである。その壁とは、既述したように、同一性・連続性・構造の壁である。モダン/ポスト・モダンの壁である。袋小路である。同一性の積だけを求めているのである。同一性主義とは、狂気なのである。結局、差異共振性へと転換する必要があるということである。
 結局、同一性主義を乗り越えるため、差異共振性をもたらすには、エネルギーを与える必要があるのである。経済の場合は、熱エネルギーというわけにはいかない。ここには、企画等のアイデアのエネルギーが必要である。差異共振的アイデアがエネルギーとなり、同一性結合体に揺さぶりをかけて、解体させて差異共振化させるのである。
 これまでの近代主義的量的同一性経済からトランス・モダン経済へと転換するには、同一性結合体を解体する必要があるのであり、それは、構造改革というよりは、構造解体である。そして、差異共振革新が必要である。ここでは、近代主義的発想をしている人間、とりわけ、近代的知識人・官僚・政治家は足かせである。ここでは、「素人」の方が適しているのである。
 とまれ、同一性構造体となった資本に揺さぶりをかけて、解体する必要があるのではないだろうか。つまり、資本の差異化である。同一性としての資本ではなく、差異としての資本である。差異資本である。そして、多様な差異資本を共振させて、差異共振資本経済、トランス・モダン経済の構築が可能であると考えられるのである。
 そう、資本の差異とは何か。資本の同一性結合体・同一性構造を解体(脱構築・脱構造)したとき現われる資本の「分子」である。おそらく、「量子」と呼んだ方が現代的である。資本の「量子」である。資本の「量子」と資本の「量子」の「核融合」があるのではないだろうか。だから、資本「核融合」である。
 とまれ、資本の差異化、資本のエネルゲイア化が必要である。今日は、資本のエンテレイケイア主導なのである。資本エネルゲイアによって、同一性構造体を解体できるのである。
 資本エネルゲイアとは、資本の特異性である。特異性としての資本である。ここから、差異共振化が生起するのである。今は、ここで留める。後で、もう少し具体的に展開したい。

p.s. 信用力creditとは何か。先に、私は差異と言ったが、少し違うだろう。信用力とは、資本主義経済においては、同一性結合力への信頼だろう。思うに、本来、信用とは、差異から発すべきものである。しかし、資本主義経済では、同一性結合力が価値となり、それに信用が置かれるのである。同一性主義の反射作用である。同一性主義は、反理性主義なので、信用力は、狂気・妄想となるのである。マクベス投機である。そう、ここには、差異を喪失した資本主義、モダン/ポスト・モダン経済の帰結がある。同一性の鏡像反射が信用力であり、それも妄想なのである。

p.p.s. 同一性とは何か、が問題である。確かに、差異の同一性化が物質であり、それは、それで実在的である。しかし、マネーの場合の同一性とは、同一性主義である。これは、差異(理性)を否定しているので、非理性主義になるのである。リスクは差異にあると思うが、差異を否定しているので、真のリスクが消えてしまうのである。
 物質は+1であるが、同一性主義は-1である。-1は妄想・狂気・悪・闇である。パラノイアである。モダン/ポスト・モダンはこれである。そう、金融資本主義とは、この-1の妄想の世界の事象であると言えよう。ポスト唯物論である。悪魔の帝国である。後でさらに検討したい。
 

参照:

− 特選アラカルト −

 ▽バッハ・コレギウム・ジャパンのヘンデル2大作品

「オラトリオ“エジプトのイスラエル人”」    ヘンデル作曲
                   (1時間23分37秒)
                  (ソプラノ)野々下由香里
                   (ソプラノ)松井 亜希
                    (アルト)上杉 清仁
                   (テノール)藤井 雄介
                     (バス)浦野 智行
                     (バス)渡辺 祐介
        (合唱、管弦楽)バッハ・コレギウム・ジャパン
                     (指揮)鈴木 雅明
  〜東京オペラシティ・コンサートホールで収録〜
                  <2007/11/23>

「オラトリオ“救世主”」            ヘンデル作曲
                   (2時間18分58秒)
                  (ソプラノ)イエレ・スー
         (カウンターテナー)スティーヴン・ウォレス
           (テノール)ハンス・イエルク・マンメル
                (バス)ドミニク・ヴェルナー
        (合唱、管弦楽)バッハ・コレギウム・ジャパン
                     (指揮)鈴木 雅明
  〜東京・サントリーホールで収録〜
                  <2007/12/24>
http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/
program/ch.cgi?area=001&ch=07


資本主義のヴィジョンについて:トランス・モダン経済としての超越資本主義:差異⇒同一性⇒新差異
英語で、資本主義経済の言葉(growth, stock, capital, invest,develop, profit, etc)を見ると、なにか植物や栽培のイメージがある。植民地主義は、遊牧的イメージであるが、用語には、農耕のイメージがある。(聖書の神は、「生めよ、増やせよ、地に満ちよ」と言った。creditは信仰から来ているだろう。だから、資本主義と聖書ないしはキリスト教とは強く結びついていると考えられる。私は、ユダヤ・キリスト教の唯一神は貨幣神であると先には言った。そう、唯一神を脱構築すべきなのである。ヤハウェからエローヒームへと転換すべきである。新多神教である。)
 後で検討したいが、どうも西洋人のイメージには、資本主義は、農業や遊牧のイメージがあるのではないのだろうか。ならば、企業やビジネスは、農業・牧畜のイメージで形成されることになる。ここには、育てる、成長させるイメージが重要である。しかしながら、金融資本中心主義は、返って、反対ではないだろうか。差異価値ではなく、同一性価値から富を増殖するという結果から「成長」させるという一種本末転倒があるのではないだろうか。差異価値から成長させる、つまり、差異価値自体を成長させ、さらには、豊かな結果を生むというならば、本来的だと思われる。つまり、脱資本主義/トランス・キャピタリズムとして、差異価値経済、トランス・モダン経済がありうるのである。換言すると、同一性価値(交換価値)を包摂した差異中心的経済(差異共振経済)がありうるのである。Kaisetsu氏の「市場化された場における共同体主義」である。
 簡単に言えば、差異価値⇒同一性価値⇒新差異価値のフィードバック型トランス・キャピタリズムである。このフィードバックを「トランス」のイメージで捉えることができるだろう。トランス資本主義、超越資本主義である。


2008年01月26日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:「観る」とは、理論的にどういうことか:イデアの何が観るのか。
1)「観る」とは、理論的にどういうことか:イデアの何が観るのか。原知+iと原身体-iの共振*において、ヴィジョン=エイドス=イデア=テオーリアが形成される。この原映像において、何が観ているのか。そう、感覚とは何か。今、直感で言うと、差異共振態が原感覚である。+iが原知であり、-iが原身体であり、その両者の共振態に原感覚があるのではないのか。また、そこには、原感情(共感性)があるだろう。
 そう、共振態において、+iの側面が感覚で、-iの側面が感情ではないだろうか。つまり、感覚と感情は表裏一体ということではないのか。また、欲望は、感情よりも、より-i・原身体側に存しているのではないのか。

2)映画を観るとはどういうことか:ヴィジョンの問題:夢と映画

3)今日、芸術が死んでいるのは、Media Point(差異共振性・差異即非性)を閉鎖させているからである。美術にしろ、音楽にしろ、文学にしろ、伝統的な芸術が死んでいる。(宮崎駿のアニメとは、Media Pointが開いているのである。だから、生き生きとしたヴィジョンがあるのである。)。Media Pointとは、「魂」と言える。
 しかし、個体の「魂」とどう関係するのか。つまり、今の私の考えでは、魂は、虚軸(虚界)の超越的双極差異であり、それは、Media Pointとは区別される。そう、魂とMedia Pointとの関係をどう見るのか、である。魂=イデアは、Media Point=開口部に流出するものであろう。そして、芸術は、本来、後者の表現であろう。『国家』におけるプラトンの芸術批判は同一性の模倣としての芸術批判と見ることができるのであり、Media Pointの表現としての真正な芸術を批判しているのではないと考えられる。(すぐれたファンタジーはMedia Pointの表現である。神話もそうである。また、すぐれた小説や詩もそうである。)
 
4)感覚欲望とマーヤーとMedia Pointの関係:この問題は、簡単に言えば、連続性と不連続性の問題である。モダン/ポスト・モダンとトランス・モダンの問題でもある。感覚欲望は、外的対象と志向する。このとき、Media Pointから発したエネルギーは外的対象と連続化される。つまり、自我と連続し、不連続なMedia Pointは見失われる。
 ここから見ると、仏教の偉大さがわかる。仏教は、空という概念によって、連続性を断ち切るのである。色即是空。しかるのち、現象へと戻るのである。空即是色。空はMedia Pointである。しかし、空をゼロとするのは、後退である。それは、構造点に過ぎない。つまり、ポスト・モダン的差異である。
 また、イデア論も仏教と同質である。現象を仮象とすることで、いったん現象から切れるのである。現象からの不連続化である。しかし、イデアを分有する仮象という概念がプラトンにはあるのである。
 問題は、感覚現象が不連続化したとき、感覚欲望はどうなるのかである。直感では、感覚は同一性構造から外れる(脱構築・脱構造化)ので、当然、欲望も脱構築・脱構造化されるのである。私の言葉では、「間(ま)」が生まれるのである。そう、外的対象が他者になるのである。差異化である。
 では、「間」化されたとき、感覚欲望だったものはどうなるのか。つまり、エネルギーはすべてが感覚欲望とはならなくて、差異共振エネルギー化するのだと思う。これが、社会倫理・秩序道徳の源泉である。
 ここで、カント哲学を考えると、カントは、構造的同一性主義であるが、差異を物自体や実践理性にゆだねたと言えよう。そして、カントの超越論性とは構造主義的であり、フッサールの超越論性とは、脱構造主義的である。

5)3に関連して、魂=イデアとMedia Pointの関係についてさらに考えたい:思うに、Media Pointとは、端的に、イデアと物質との境界であり、イデアでもないし、物質でもない。実に不思議な領域である。
 私はイデアはヴィジョンであると言うが、そのヴィジョンは、Media Pointで形成されるだろう。しかし、Media Pointとは別である。ここが微妙である。夢はMedia Pointのヴィジョンであり、魂=イデアそのもののヴィジョンではない。この「差異」が重要である。
 魂=イデアそのもののヴィジョンとは、いわば純粋である。しかるに、Media Pointのヴィジョンとは、屈折しているだろう。何故なら、即非様態にあるからである。思うに、プラトンがイデアの表現として円や円運動をあげているが、それは、魂=イデアそのもののヴィジョンだろう。
 では、宇宙の円や円運動や渦巻き運動とは何だろうか。それは、オイラーの定理の現象様態ではないのか。つまり、時間化された様態ではないのか。だから、Media Pointの表現ではないということだろう。
 思うに、不連続的差異論の頃、イデア界と現象界とを重ねて考えていた。イデア差異が現象差異となるのである。おそらく、イデア界と現象界との相関性があるように思える。これについては、新たに考察したい。


2008年01月25日(Fri)▲ページの先頭へ
現代資本主義論とトランス・モダン経済のための諸考察:その1
私は経済(尚、ここには、政治的経済ないしは経済的政治の意味が込められている)の素人であるが、素人なりに、現代経済に対して強い疑念・疑問・疑義をもっている。また、強い不安ももっている。
 端的に言えば、経済学に対する不信感が強いのである。つまり、平たく言えば、金儲けのための経済技術になっていて、経済学ではないのではないだろうか、という疑念があるのである。
 とまれ、これから、素人なりに、哲学的に、現代経済を探求していきたい。哲学・理論的研究は、ポスト・モダンを乗り越えた、トランス・モダンとなっているが、トランス・モダンの視点は、経済へ向けられたときどうなるのか、それを考察していきたい。
 
 さて、最初に、いったい現代資本主義の原動力は何か、利益のシステムとは何か、経済と社会との関係は何か、等々を考えてみたい。もっとも、本質は素人談義なので、無知は承知で考察するので、間違っている点があれば指摘していただきたい。
 先ず、哲学的に言えば、資本主義は、差異価値を同一性価値へと展開していく経済システムである。基盤は差異価値である。それが、商業的行為によって、同一性価値(貨幣価値)に還元され、その同一性価値の増加(「経済成長」)を目指すシステムであるということである。
 問題は、基盤の差異価値が同一性価値によって支配されるということである。いわば、自分の母体を食らう子供のようなものである。とまれ、この矛盾、二重価値に目を向ける必要がある。
 この二重価値性の問題は、価値の転倒に存すると言えよう。前提となる差異価値が同一性価値によって支配されて、同一性価値中心主義が生起するということである。これが、金融資本中心主義となる。今日の資本主義はこれである。同一性価値としての金融資本が、いわば、自立したもののように、グローバル経済を動かしているのである。
 この同一性価値としての金融資本は、同一性観念として存在するのであり、哲学的には、構造的なものであり、実は、物質的なものではない。だから、現代資本主義を唯物論的と呼ぶのは、正しくはない。本当は、数量的同一性構造論である。もっとも、これが、唯物論と強く結びついているのである。
 また、確認すべき重要な点は、差異価値を同一性価値へと還元するということは、必然性があるものの、そこには暴力が作用しているということである。この暴力は、自然のもつ暴力である。しかしながら、問題点は、同一性価値中心主義となり、暴力が恒常化することである。具体的に言えば、戦争が経済にとって恒常化することである。
 換言すると、差異から同一性への転換は、一つの自然の暴力である。誰でも、生存するためには、暴力をふるうのである。しかしながら、問題は、この同一性暴力が中心化されて、暴力主義が肯定されることである。この点にも注意しなくてはならない。
 整理すると、資本主義経済とは、差異価値を同一性価値へと展開し、その同一性価値が中心化された経済であり、また、差異価値から同一性価値への転換は、一つの自然の暴力であり、必然的であるが、同一性価値中心主義によって、暴力が中心化されてしまっているということである。
 このように見ると、現代資本主義の問題点がわかりやすくなるだろう。(ここで、休みを入れる。仕事がたまっている。)


2008年01月24日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:1.Media Pointと科学、2.虚軸からの1/4回転と脳(左脳・右脳)と身体、3.視覚と三次元:トランス・モダン・ルネサンス
1)Media Pointと近代科学:近代以前の思想家(洋の東西を問わず)は、Media Pointから発して思考していたように思える。例えば、天という発想は、そうである。つまり、超越的観念をもって思想を説いていたのである。しかるに、近代科学の勃興によって、経験的知性が重視されて、それまでの超越的観念が否定されていった。もっとも、近代科学の初期においては、探究者は、まだ、超越的観念を保持していた。コペルニクス、ニュートン、ケプラー等は、神的観念をもっていた。だから、近代科学が進展して、超越的観念が否定されていったと見るのが正しい。
 とまれ、超越的観念は、Media Pointがそれなりに生動していたことを意味するだろう。しかし、近代合理主義が中心化されると、Media Pointが否定・抑圧・排除されるようになるのである。典型的なのが、唯物論である。フォイエルバッハの『キリスト教の本質』に、神的観念を心情へと還元する思想が熱烈に述べられている。つまり、Media Pointが同一性主義へと圧縮される心的作業が行われたということである。言い換えると、Media Pointから同一性主義へのパラダイム転換、これが、近代の思想的意味である。しかしながら、Media Point的な観念は文系的観念として、そして、同一性主義は近代科学・近代合理主義として二分化していき、文系と理系の分裂を生み出したのである。文学・芸術で言えば、ロマン主義と近代合理主義の分裂を見ることができる。
 それから、資本主義の全面的進展によって、同一性主義である近代合理主義・近代的自我が主流になり、Media Point的観念は次第に傍流になっていった。近代科学・近代合理主義・近代的自我の勝利が訪れたように見えた。この同一性主義を批判する思想・哲学・理論に関しては、最近までは、ポスト・モダン理論が存在した。しかし、挫折した。そして、グローバリゼーション全開となり、今日・現代を迎えているのである。しかし、サブプライムローン問題でわかるように、ポスト・モダンを経た近代科学・近代合理主義・近代的自我は、遂には、崩壊したと言えよう。
 これまで、プラトニック・シナジー理論で解明したように、近代主義において喪失・忘却されたMedia Pointが新生したと言えるのである。近代の分裂を乗り越えて、Media Pointに基づく、同一性を包摂した超越的差異論が誕生したのである。近代科学も乗り越えられて、トランス・モダン・サイエンスとなったと考えられるのである。それは、トランス・モダン哲学と一致することになったのである。文理一体理論が誕生したのである。
 

2)虚軸界(虚界)から実軸界(実界)への転換の様相について:左右の問題:虚軸から反時計回りに1/4回転したとき、+iは-1に、-iは+1になる。 +iは原知であり、-iは原身体である。そして、-1は同一性主義であり、+1は同一性である。思うに、-1が脳であり、しかも、左脳であり、+1が身体であり、しかも、右脳ではないのか。
 そして、先に、内的身体におけるMedia Pointの存在を言ったが、それは、+1の身体(右脳)の内部にMedia Pointがあるということになり、確かに、+1は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺を潜在させていると考えられるから理論的に正しいことになるだろう。
 そして、-1であるが、それは、同一性主義であり、左脳(脳)であり、これは、自己認識方程式の左辺をもっていないので、そこからは、Media Pointに達することは絶対的に不可能ということ明証できるだろう。つまり、近代的知識人(近代合理主義・近代的自我の持ち主)は、Media Pointに達することができずに、エゴイズム・自己中心主義・私利私欲・悪意・狂気・傲慢等に陥ることになろう。漱石の『こころ』はそれをえぐり出していると言えよう。


3)人間の五感、とりわけ、視覚は、三次元空間に適合しているように見える。なにかそれは不思議に思える。どうして、高次元を三次元と同様に知覚できないのか。どうして、諸感覚は三次元に限定されやすいのか。
 人間の知の形式が同一性形式であり、それが感覚を限定しているということなのかもしれない。つまり、自我同一性形式が主導的なので、感覚が同一性に限定されるということなのかもしれない。
 もし、同一性主義に限定されなければ、感覚は今とは異なるものではないだろうか。
 結局、問題は、感覚が同一性を生み出しているのか、それとも、自我同一性が感覚を同一性に限定しているのか、である。
 少し具体例をあげて明快にしよう。たとえば、遠くの山岳を眺望しているとしよう。あるいは、東の方向の道路の上方に月がのぼったとしよう。遠い山に対して、距離感を喪失して、なにか近くに山容を感じたりするだろう。また、同様に、月が道路のすぐ上にあるように見えたりするだろう。これをどう説明するのか。
 感覚は、絶対的には、三次元的ではないと思う。遠近法とは、視覚によるというよりは、透視画法や器具に基づくと言えよう。遠近法による三次元意識によって、感覚が規定されているということではないだろうか。これは、フッサールの『危機』の問題意識と通じるだろう。
 とまれ、同一性主義意識では、三次元空間の感覚を発生させると言えるのではないだろうか。だから、この近代主義的意識を超えれば、高次元空間感覚は可能であろう。
 そして、すぐれたアーティストはそのような空間を構築してきたと言えるだろう。そう、Media Pointから発する超越光の視覚をもっていたと考えられるのである。
 とまれ、近代において、同一性感覚、同一性視覚が確立したことは認めなくてはならないのであろう。トランス・モダンとは、この同一性を包摂して高次元空間感覚を形成すると考えられる。そう、新たなルネサンスである。トランス・モダン・ルネサンスである。


2008年01月23日(Wed)▲ページの先頭へ
エーテル体とアストラル体:差異共振エネルギーと原身体エネルギー:「キリスト」は天照大神だ
ここでも直感で言おう。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺が差異共振性であり、それが、根源である。それは、イデアであり、原心と原身体とが一如である。+iが原心=原知であり、-iが原身体である。知が生じるとき、既に、身体も生じている。そして、そこには、感覚も感情もある。おそらく、感覚・感情と一体化していいだろう。
 思うに、知エネルギーがあり、また、身体エネルギーがある。それぞれ、+iと-iである。そして、それらが共振して感覚・感情エネルギーが発生している。美の感情とは、そこに存していると考えられる。そう、真善美の感情がそこに存しているだろう。倫理・道徳の感情でもある。
 人智学のシュタイナーは、人間を1.自己(ichが自我と訳されているが、自己が正しいと思う)/2.アストラル体/3.エーテル体/4.物質身体の四層に分けている。プラトニック・シナジー理論から見ると、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺に自己/アストラル体/エーテル体が存しているように思えるのである。すなわち、上に述べた、原知エネルギーが自己、感覚・感情エネルギーがアストラル体、原身体エネルギーがエーテル体ではないだろうか。
 だから、アストラル体とは、本来、原知エネルギーと原身体エネルギーとの差異共振エネルギーであるように考えられる。そして、Media Pointから同一性へと展開するときに、差異共振エネルギーが束縛されて、自我感情・利己主義的感情が生起すると考えられる。【だから、感情とは、脱同一性主義化すれば、差異共振エネルギーへと還元されるのである。それは、共感(造語すれば、共情、共心:p.s. 仁という字は、人偏に二人である。明敏である。)である。】
 以上で、ざっとであるが、人智学のシュタイナーの唱えるアストラル体とエーテル体を解明したことにする。
 最後に、先の問題である「エーテル界におけるキリストが見える」とは何を意味するのかという問を再度検討しよう。
 エーテル体は原身体エネルギーであることがわかった。-iのエネルギーである。だから、エーテル界とは、原身体エネルギーの宇宙である。言い換えると、原生命エネルギーの宇宙、正に、「気」の宇宙である。だから、「気」の宇宙においてキリストが見えるということになる。そして、キリストとは、超越光のことである。太陽系では、超越太陽のことである。だから、「気」の宇宙において、超越太陽が見えるということになる。
 私見では、超越太陽ないしは超越光を見るのは簡単だと思う。澄んだ青空を満たす陽光にそれが存しているのを感じればいいのである。光に神々しさを感じればいいのである。それが超越光だと思う。また、若い頃、夏の海岸で見る紺碧の空の太陽の輝きに、眩みを感じたが、その眩みが超越光の存在を示唆していると思う。
 考えてみれば、超越光とは、(+i)*(-i)であり、そこには、「気」のエネルギーを含んでいるのである。だから、「気」の宇宙において見えるというのは当然であると思う。
 しかしながら、以上の考察からわかるのは、超越光が見えるのは、「気」の宇宙に限定されるということではなくて、Media Pointを開いたときに、見えるものであり、Media Pointを開くとは、身体に存する心を開くことである。同一性の知は一つの支点であり、そこから不連続に、身体の心を開くことである。この身体の心を開くということが、シュタイナーのいうエーテル体と関係するのかもしれない。思うに、身体の心とは、-iであろう。原身体である。確かに、そこにおいて、 Media Pointは開けると言えよう。だから、言い直すと、「エーテル界において、キリストが見える」というシュタイナーの予言は、原身体-iを、同一性の知である不連続化させ、かつ、原知+iと共振させたときに発現・顕現・現前するMedia Pointを媒介にした差異共振エネルギーである超越光が視覚されるということになるだろう。
 これで解明は済んだが、後、問題なのは、Media Pointと超越光(超越エネルギー)の関係である。原身体-iを同一性から不連続化させて、+iの原知と共振化させるときに、 Media Pointが発現・顕現・現前すると言ったが、このとき、Media Pointと超越光(超越エネルギー)との関係はどうなのか、ということである。
 これは、実に微妙、霊妙な問題である。+iと-iを共振させたとき、超越エネルギーが流入すると言っていいだろう。それは、超越性の現前である。では、 Media Pointはどこに存しているのか。それは、超越性が現前する内的身体でいいのではないだろうか。身体の内部にMedia Pointは存するのである。
 (付録的に、考察しよう。私は道教を考えている。丹田を考えている。三つの丹田がある。上丹田、中丹田、下丹田がある。どうも、中丹田が、Media Pointのように思える。そして、上丹田が+iであり、下丹田が-iである。これは、思いつきである。)
 最後に、簡単にまとめると、シュタイナーの予言内容とは、きわめて、東洋文化的であるということになる。「気」の宇宙において、キリストが見えるとは、結局、東洋身体論的な精神エネルギーの活性化であると考えられるのである。プラトニック・シナジー理論で言えば、Media Pointの形成とそれによる超越エネルギーの流入である。
 端的に、シュタイナーのキリストとは、超越光、超越太陽、天照大御神である。


遺伝子とは何か:イデアか、構造か、ゲノム(情報物質)か?
遺伝子とは何か、考察したい。ゲノム、DNAと遺伝子は同じなのか。直感では、遺伝子はイデアではないのか。そして、Media Pointの実軸性(実性ないしは実点と仮に呼ぶ)において、痕跡=差延が生じる。構造点である。これが、ゲノムないしはDNAの領域ではないのか。問題が複雑なのは、心と身体が関係するからである。
 身体の遺伝子はわかりやすいが、心の遺伝子があるのか。魂をイデアとするなら、魂が遺伝子になることになる。それでいいのか。
 もし、魂=イデアが遺伝子ならば、それが、身体の遺伝子をも含んでいることになる。それでいいのだろうか。もしそうならば、心と身体の遺伝子はどう区別がつくのだろうか。オカルティズムのように、霊と物質を区別するのか。それは、二元論である。
 また、根本的に、心と身体の問題がある。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は、原心(原魂)の差異共振志向性が、身体をも作り出すと考えるだろう。つまり、+iを形相、-iを質料とみたとき、両者の共振融合によって、心身一如(いちにょ)が形成されるのではないだろうか。知且つ身体である。意識即身体である。正確には、知・即非・身体、意識・即非・身体の即非態であろう。
 とまれ、プラトニック・シナジー理論では、イデアから心身一如、心身即非を説明すると考えられる。だから、イデアを遺伝子とするならば、遺伝子とは、心の遺伝子でもあり、身体の遺伝子でもあるということになるだろう。これは、実に興味深い考え方だと思う。オカルティズムのような霊と物質的身体の二元論を回避できるのである。
 心と身体の共通の遺伝子ということで、イデア=魂が考えられることになる。つまり、遺伝子=イデア=魂である。
 では、この観点から見直すと、遺伝子とゲノム・DNAは区別されることになる。前者はイデア情報であり、後者はイデア情報物質であるからである。そして、ここで、Media Pointを考えると、差異共振様態にあるのが、遺伝子=イデア=魂である。Media Pointの実性が、ゲノム・DNAではないかと作業仮説してみるのである。構造点であり、構造性をもっている。
 問題は、遺伝子とゲノム・DNA(以下、単に、ゲノムとするl)との関係である。遺伝子は情報化された量子である。そして、その痕跡が構造点であるが、しかしながら、構造点とゲノムは別のものではないのか。つまり、構造点は、いわば、構造としてのゲノムであり、物質であるゲノムではないからである。だから、整理すると、

遺伝子⇒構造⇒ゲノム

となるのではないだろうか。丁寧に表記すると、

遺伝子(イデア)⇒構造(Media Point実軸)⇒ゲノム(情報物質)

ではないか。今日、遺伝子(イデア)とゲノム(物質)が同一視、混同されているということになる。
 とまれ、構造とは不思議なものである。それは、イデアではないし、物質でもない。イデアの写しであり、また、物質の原型である。アリストテレスの言う形相はこれだろう。また、プラトンのイデアもこれに近いときがある。しかしながら、イデアと構造の区別は絶対的でなくてはならない。これが決定的である。(ポスト・モダン哲学の誤りは、これらを混同していることにあるだろう。)
 とまれ、構造とは、イデアと物質との境界である。しかし、連続的境界である。ここが決定的ポイントである。それに対して、Media Point自体は、不連続的境界、即非的境界である。これまでの哲学・思想は、構造とMedia Pointを区別できなかったのである。混淆していたのである。(ドゥルーズ哲学が完全な混淆であり、連続的差異の哲学である。デリダ哲学は、構造自体における揺らぎを認識したが、イデア自体を同一性と見て、超越性を否定してしまい、袋小路に陥ったのである。)
 結局、遺伝子(イデア)と構造とゲノム(情報物質)の三者を区別した。ここで、形状について考えると、二重螺旋とは、遺伝子の時間的形状と言えるだろう。遺伝子自体は、原二重螺旋であろう。構造は二重螺旋構造であり、ゲノムは二重螺旋物質ということではないだろうか。
 今日のゲノム研究の問題点は、単に物質レベルの研究であり、構造にも、遺伝子=イデアにも達していないことであろう。そう、ここで、情報物質であるゲノムを理論化すると、構造から発生する構造物質と言えよう。新たに図式化すると、

遺伝子(イデア)⇒Medai Point⇒構造⇒ゲノム(構造物質)⇒生命体

となるだろう。付加して言うと、DNAを変化させることで、生命体は変化するだろうが、根本の構造や遺伝子は変化しないのではないだろうか。

 
参考:

Gene findings: Disease-by-disease
Genetic test
Scientists analysed DNA from 17,000 people

A team of UK researchers have identified several genes and regions of the genome involved in seven common diseases - but what are the implications for people suffering from the conditions?

http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/6727043.stm

Detailed gene map 'within grasp'
By Helen Briggs
BBC News science reporter

Image: Sanger Institute
The map will relate genetic variation to particular diseases
One thousand people are to have their genomes mapped in a major effort to understand how genes influence disease.

To date, only a handful of humans have had their genes analysed in this way, including scientists Craig Venter and James Watson, and anonymous volunteers.

Teams in the UK, US and China say the project will create the most useful catalogue ever of genetic variation.
Any two humans are genetically more than 99% identical: variations can explain why some get certain diseases.
http://news.bbc.co.uk/2/hi/
science/nature/7201994.stm


2008年01月22日(Tue)▲ページの先頭へ
米国から自立するチャンス:資金を米国国債ではなく内需へ:農業*都市差異共振共同体への投資
これでは、超無能亡国破滅腹切り必至経済財政担当相である。
 今が、アメリカから自立するチャンスである。資金をアメリカ国債ではなく、自国経済に回すのである。内需を質的に向上させることである。つまり、赤字漬けとなる公共投資ではなく、「農村」と都市とをつなぐ文化経済cultural economyを創造すべきである。【cultureの語源はよく知られたように、「耕す」である
参照:culture:中英語←ラテン語cultumacrra(耕作された土地)Yahoo 辞書】そこには、教養教育も当然入るべきである。
 農業共同体と都市共同体との共振が必要である。新しいアイデアで農業共同体を構築し、そこへ投資し、そこからの農業生産物を都市共同体へと販売するのであり、農業共同体には、芸術創造共同体がなくてはならない。そのためには、都市共同体の創造的エネルギーが付与されなくてはならないだろう。当然、差異共振であり、都市共同体が一方的になってはいけない。そう、農業/都市差異共振共同体のための投資をすべきなのである。自己保存(コナトゥス)が必要である。今や、アメリカに貢ぐ必然性がないのである。

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今の時点で景気対策考えていない=大田経済財政担当相

1月22日11時15分配信 ロイター

今の時点で景気対策考えていない=大田経済財政担当相

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 1月22日、大田経済財政担当相、日経平均株価が1万3000円を割り込み下げ幅を拡大させていることに関し「今の時点で景気対策は考えていない」と言明。昨年1月撮影(2008年 ロイター/Kim Kyung-Hoon)
 [東京 22日 ロイター] 大田弘子経済財政担当相は22日の閣議後の会見で、日経平均株価が1万3000円を割り込み下げ幅を拡大させていることに関連して「今の時点で景気対策は考えていない」と述べた。
 日銀の金融政策に対しては「状況を十分認識して決定されると思う」と語った。
 歯止めがかからない株安・円高への政策対応について、大田担当相は「株の下落が世界的に連鎖しているが、基本は米国発だ」とし、「日本でどうこうということは今の時点では難しい。むしろ、世界的に協調して考えていかなければならないことだ」と指摘。大きく動揺している金融資本市場動向を注意深くみていくと語った。
 さらに金融政策に関しては「この事態は日銀も共有し同じ状況をみている。(きょうの金融政策決定会合では)状況を十分認識して決定されると思う」と述べ、日銀の判断を尊重する考えを示した。
 一方、景気認識では「下振れリスクは確かに高まっているが、データで把握する限り、生産・輸出はまだしっかりしている。一部に弱さはあるものの、景気回復の基調は続いている」と述べ、株安に歯止めがかからないが、今の時点で景気対策は考えていないと強調。リスク要因の米国経済動向や原油高・住宅投資動向などについて「これまで以上に綿密にウオッチしていかなければならない」と述べた。
 (ロイター日本語ニュース 吉川 裕子編集委員)

最終更新:1月22日11時15分
ロイター
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080122-00000830-reu-bus_all

<大田経財相>「景気回復基調は続いている。対策考えず」

1月22日11時17分配信 毎日新聞

 大田弘子経済財政担当相は22日の閣議後会見で、株価急落に関連し、「景気の下振れリスクは確かに高まっているが、データでは生産・輸出はしっかりしており、一部に弱さはあるものの景気の回復基調は続いている」との認識を表明した。さらに、「(株価下落は)米国発なので、日本でどうこうするのはなかなか難しい。今の時点で景気対策ということは考えていない」と述べた。【三島健二】

【関連記事】 大田経財相:もはや「経済一流」ではない 国会冒頭演説で
【関連記事】 国会:大田担当相が経済演説 「新たな成長モデル創出を」
【関連記事】 大田経済財政担当相:景気の現状「減速とは考えていない」
【関連記事】 月例経済報告:「米景気減速」を先行き懸念要因に明記
【関連記事】 原油高騰:政府の対策、「選挙向け」色濃く 与党主導、恩恵は一部のみ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20080122-00000031-mai-bus_all

国会:大田担当相が経済演説 「新たな成長モデル創出を」

 大田弘子経済財政担当相は18日、衆院本会議で経済演説を行い、世界経済の変化についていけない日本は「もはや『経済は一流』と呼ばれる状況ではなくなった」との危機感を表明した。その上で、人口減少と急速なグローバル化の中で経済成長を持続させるため「新たな成長のモデルをつくり出す必要がある」との考えを示した。

 成長力強化の重要なポイントとして(1)世界とつながるオープンな経済システム構築(2)サービス産業の活性化と生産性向上(3)人材力の向上−−の3点を指摘。成長戦略を強化・再構築し、今春をめどに具体化させる方針を示した。【三島健二】
http: //mainichi.jp/select/biz/news/
20080118k0000e010092000c.html?inb=yt



モダン/ポスト・モダン文化バブルと漢籍教養:物質的逆境と真の文化社会創造:トランス・モダンの訪れ
今日、聴く気のないCDをブックオフに売った。二束三文である。一枚平均50円〜70円である。ポピュラー音楽ならば、60〜70年代のものは、もうほとんど聴かないと思うが、売る気にはならなかった。それらは、心・魂の記念・記録である。また、クラシック音楽classical musicであるが、バロック音楽を含めて古楽のものは手放したくなかった。ロマン派以降は売ってしまった。
 この売るか売らないかの基準は何だろうか。結局、音楽の特異性があるかどうかであろう。言い換えると、差異共振性があるか否かであろう。私は70年代初期のポピュラー音楽には、精神性があると言ってきたが、それは、差異共振性と言える。また、古楽であるが、それも精神性があるのである。やはり、差異共振性があるということなのである。
 ということで、基準は、精神性=差異共振性の有無である。すると、ロマン派以降や70年代後半以降の音楽は何なのか、ということになるだろう。とくにポピュラー音楽は、クズ・カスと言えよう。ロマン派以降は、若気の至りである。
 結局、まとめていうと、文化バブルであると思う。モダン/ポスト・モダンの文化バブルだと思う。霊学のシュタイナーは、近代が終った後、人類は近代を異質なものとして見るだろうというようなことを言っていたように思える。(どうも記憶があいまいである。)
 トランス・モダンの視点に立つと、近代という時代は、中世とは違った意味で暗黒であることがわかる。大暗黒である。戦争等による殺戮は、中世をはるかに越えている。結局、シュタイナーが言うように、西洋近代は唯物論の時代である(あった)のである。今日、唯物論の時代の、いわば、断末魔を迎えているのである。終末論的、「黙示録」的終末論的である。
 トランス・モダンの視点から観ると、ほんとうに、近代とは特殊な時代である。人類史における特異な時代である。近代以前、そして、これから迎えるだろうトランス・モダンにおいては、精神性、超越的精神性を人類は積極的に肯定していた(する)のである。この点から言うと、人類史の大汚点のようなエポックであった(ある)。精神の光を喪失した闇の時代なのである。ジョージ・ハリスンが、Living in the Material Worldで歌った"Who can see it"他は、トランス・モダンの歌である(itはヒンズー教の光を指している)。彼は、超越光を見ていたのである。そして、これから、多くの人が見るようになるだろう。そう、シュタイナーは20世紀前半から人類はエーテル体におけるキリストを見るようになると予言していた。(シュタイナーのキリストとは、 Media Pointの超越光のことと見ることができるのである。)
 さて、文化バブルのことに戻ると、結局、日本では、近代以前の書籍が復興すると考えられる。漢籍が再重視されるようになろう。漢籍には、魂がある。また、日本の古文も復興するだろう。そして、仏教、とりわけ、神道が復興するだろう。東洋・日本の美術も復興するだろう。そう、日本・東洋ルネサンスである。
 物質的には、暗黒の時代に入るが、逆境こそ、魂・心を磨くときである。近代という悪夢を乗り越えて、ほんとうの文化世界を創造するときなのである。トランス・モダンへと飛翔すべきである。

参照:


Artist: George Harrison
Album: Living In The Material World
Title: Who Can See It

I've been held up,
I've been run down
I can see quite clearly now
Through those past years,
When i played towing the line.
I only ask, that what i feel,
Should not be denied me now,
As it's been earned, and
I have seen my life belongs to me
My love belongs to who can see it

I've lived in fear,
I've been out there,
I've been 'round and
Seen my share
Of this sad world
And all the hate,
That it's stirred
I only ask,
That what i know,
Should not be denied me now
As it's been learned,
And i have seen my life belongs to me
My love belongs to who can see it

I only ask, that what i feel,
Should not be denied me now
As it's been earned, and
I have seen my life belongs to me

My love belongs to who can see it.

My love belongs to who . . .

http://lyrics.astraweb.com/display/155/
george_harrison..living_in_the_material_world
..who_can_see_it.html


Artist: George Harrison
Album: Living In The Material World
Title: The Light That Has Lighted The World

I've heard how some people, have said
That i've changed
That i'm not what i was
How it really is a shame
The thoughts in their heads,
Manifest on their brow
Like bad scars from ill feelings
They themselves arouse
So hateful of anyone that is happy
Or 'free'
They live all their lives,
Without looking to see
The light that has lighted the world

It's funny how people, just won't
Accept change
As if nature itself - they'd prefer
Re-arranged
So hard to move on
When you're down in a hole
Where there's so little chance,
To experience soul

I'm greatful to anyone,
That is happy or 'free'
For giving me hope
While i'm looking to see

The light that has lighted the world

http://lyrics.astraweb.com/display/
460/george_harrison..living_in_the_material_world.
.the_light_that_has_lighted_the_world.html


2008年01月21日(Mon)▲ページの先頭へ
『タンホイザー』とナチズム:異教とファシズム/全体主義:同一性主義=自我の発生について
以下のエッセイで、ワグナーの『タンホイザー』の異教性とナチズムとの共通性を述べているが、私は疑問に思った。そう、ユングがナチズムを北欧神話の神オーディンの復活だと考えていたのを想起する。
http://www2u.biglobe.ne.jp
/~BLUEMAGI/NorseMythj.htm
http://blog.so-net.ne.jp
/plant/2007-04-03

 私はそのような考えが短絡的ではないかと思うのである。神話学的心理学を歴史上問題のある事象にあてはめるのは危険であると思うのである。例えば、太平洋戦争における日本軍は、神道的神話の顕現であると言えるのだろうか。天照大神を反映する全体主義であったのか。とてもそうとは言えないだろう。
 「聖処女」の犠牲によって肉欲の地獄から救われるという神話がどうして、ナチズムと関係するのか。「聖処女」の犠牲がユダヤ人虐殺と関係すると言うのか?
 私の直感では、ナチズムのユダヤ人虐殺は、二項対立から来ている。つまり、自我のもつ同一性主義から来ているのである。だから、国学的ナショナリズムに近いと思うのである。つまり、自我同一性ナショナリズム=全体主義である。これに政治経済状況が強く絡んでいるのである。今は簡単に言うが、神話が関係するというなら、異教神話ではなく、父権神話が関係するのである。これは、ヤハウェのユダヤ・キリスト教神話と見てもいいのである。つまり、ナチズムは、パラドクシカルであるが、ユダヤ・キリスト教的である。
 後で整理したい。

p.s. 参考に、『タンホイザー』の粗筋があるが、興味深い。これは、単純な、精神性と肉欲性との二項対立である。これは二元論であり、いかにも西洋文化である。エリザベート(聖母マリア・キリスト教)とヴェヌス(ヴィーナス・異教)の対立という形式である。
 しかし、これは偽りの対立である。異教とは、つまり、女神的宗教とは、本来、性愛と聖性が一致していたのである(神殿娼婦、聖娼がいた)
http://critic.exblog.jp/461734
http://web.kyoto-inet.or.jp/
people/tiakio/antiGM/hetaira.html
。天上のヴィーナスと地上のヴィーナスがあり、地上のヴィーナスは、天上のヴィーナスの反映である(ネオプラトニズム的解釈であるが)。
 とまれ、『タンホイザー』はこのような異教本来の枠組みを失った西洋文化、それも近代文化の作品と言えよう。言い換えると、本来の異教精神では、エリザベートとヴェヌスとは一体なのである。だから、中世を背景とするなら、そのようになるのが本来的だと思うのである。
 だから、この分裂・二元論は何を物語るのか。やはり、同一性中心主義による近代合理主義/近代的自我のもつ分裂性・二元論性である。同一性主義による自我は善悪二元論を形成するだろう。しかし、この自我による「道徳」の起因は何か。(ウィリアム・ブレイクなら、この「道徳」を激烈苛烈に批判したものである。)
 先の「同一性、差異、差異共振性について」の考察から見ると、差異=他者の否定に基づく自我同一性道徳である。これは、二項対立であるから、自我同一性が優位であり、差異=他者が劣位である。つまり、自我同一性は正しく、差異=他者は正しくないという価値判断がそこに発生するのであり、これが父権的道徳の起源であろう。(ここで、ニーチェの傑作である『道徳の系譜』を想起するといいだろう。精神の貴族は、自己において価値基盤をもつのであり、自我同一性においてではないのである。自己とは、自己差異、つまり、差異共振性である。それに対して、「道徳」は、差異=他者を否定した自我同一性に存する。)
 さらに質せば、なぜ、自我同一性は、自己優越を感じるのか。この問題は以前、何度も考えたが、そのときは、自我同一性は、起源として、超越性であるので、他者に対して優位をもつというものであった。さて、それでいいだろうか。
 ここで、先に考察した「同一性、差異、差異共振性について」の論考に従えば、差異共振性から同一性が生起する。この同一性が原自我である。ここには、実は、差異共振性が「実存」している。だから、原自我は揺らいでいるのである。同一性でありながらも、差異共振性の揺らぎがあるのである。(思うに、太母文化とは、この差異共振性が太母として中心化されていたのだろう。同一性=原自我は、太母の内に存するのである。イシス/オシリス神話である。)
 私は今、創世記の冒頭を想起しているのである。神霊が原自我に当たるのではないだろうか。そして、水が差異共振性である。そして、それにはたらきかけて、神霊は、天地創造するのである。だから、同一性=原自我の能動的作用があり、それが必然的に自己優越性を意味するのではないだろうか。つまり、意識の問題である。本来、原自己と原他者の共振によって、原自我が生まれたのであるが、それが忘却されているのである。自己認識方程式の左辺が忘却されているのである。
 ここで少し想像すると、差異共振性の「海」ないしは「水」(p.s. これは、より正確に言えば、「光の海」ないし「光の水」であろう。火と水の融合である。御水取りはこの象徴であろう。)から、同一性=原自我は生まれたのであるが、出自を忘却しているのである。それで、母体が「海」や「水」になっているのである。思うに、「海」や「水」は、一種投影ではないだろうか。つまり、同一性=原自我の基盤(インフラ)には、差異共振性=「海」・「水」があるのであるが、それを同一性=原自我は外界の投影するのではないのか。ユング心理学で言えば、シャドウ(影)である。
 ここは微妙なところなので丁寧に考えよう。同一性=原自我(+1)は、確かに、母体の差異共振性を内在、潜在、実存させている。しかしながら、同一性の知は、当然、その差異共振性を真に理解できない。いわば、差異共振性は、影や暈のようになるのである。そして、同一性=原自我は、いわば、宙ぶらりんの状態に置かれるのである。
 しかるに、同一性=原自我は、そのような中途半端な様態から離脱すべく、独立する志向をもつと考えられるのである。つまり、同一性=原自我の独立・自立である。そして、その同一性=原自我の独立・自立志向が、差異=他者の否定となるのである。
 その前に、同一性=原自我は、他者に自己投影する。そこに、同一性の投影像を観る。この同一性=原自我の投影像が同一性主義の基盤になると言えよう。ここにおいて、差異=他者は否定されてゆくのである。同一性が中心化されて同一性主義ないしは同一性中心主義となり、差異=他者をそれに応じて、裁断するのである。正に、二項対立の力学があるのである。
 問題の核心は、投影像にあると言えよう。投影されているのは、本来、差異共振性である「海」や「水」であろう。そこに、同一性=原自我は、同一性の投影を見るのである。ここには、奇妙な二重性が生じているのである。投影像は、差異共振性であると同時に、同一性像である。つまり、ここには、抑圧が生じていると考えられるのである。差異共振性を同一性に縮約する抑圧である。そう、この同一性への縮約・圧縮の力学が、同一性主義=自我に優位性を付与しているものではないか。つまり、本来、差異共振性が源泉・根源であり、ここがエネルギー源である。それ故に、ここを取り込むことにより、同一性=原自我は同一性主義=自我になるのではないだろうか。
 先に、差異=他者の否定と言ったが、実際、ここでは、微妙である。差異共振的差異・他者の否定と言う方が正確であろう。とまれ、投影像を介して、同一性=原自我は同一性主義=自我を形成するのであり、そのときの差異共振的差異・他者を同一性へと縮約・圧縮したときの力ないしはエネルギーによって、同一性主義=自我は、差異=他者に対して、優位の意識をもてるのである。だから、同一性主義=自我の力とは、真に独立・自立した力ではなくて、差異=他者に依存しているのである。これは、確認すべきことである。平たく言えば、自我とは、見栄坊・虚栄家である。
 また、これまでの述べたように、エネルギーの活性化の問題があるのである。同一性主義=自我は、縮約・圧縮した差異共振性からエネルギーを取り込んでいるが、しかし、それは、いわば、エントロピーの増加であり、エネルギーは枯渇するのである。(これは、端的に、うつ病の症状であろう。)
 つまり、同一性主義=自我は、内なる差異共振性に対して、壁をつくっているので、差異共振エネルギーを注入することができないのである。同一性主義という壁が心の領域に生じているのである。言い換えると、同一性主義=自我と差異共振エネルギーが乖離・分裂しているのである。だから、統合失調症の症状でもあるのである。
 新たに差異共振エネルギーを取り込む回路を創る必要があるのである。ここで、陰陽論に用いれば、同一性主義とは、陽主義であり、差異主義とは、陰主義であり、太極が差異共振性であろう。(p.s.  この点に関しては、慎重に、精緻に考えるべきである。太極はMedia Pointであり、差異共振性である。そして、同一性志向性が陽であり、差異志向性が陰ではないだろうか。そして、同一性主義とは、陽が極限化した場合で、陰=差異志向性が無のようになる事態ではないか。とまれ、既述したが、陽を+i、陰を-i、太極を(+i)*(-i)とすればいいと思われるのである。ここで少し議論すると、問題として、どうして、同一性の場合、陰陽が反発するのかということがある。通常は陰陽の極性は引きつけるはずである。どうしたことなのか。これは、やはり、陰陽力学で考えるといいのかもしれない。つまり、陰や陽への傾斜する事態を考えればいいのではないだろうか。陽極へと傾斜するときに、同一性へ傾斜する。そして、陰極のときは、差異へと傾斜する。つまり、太極の流動ダイナミクスである。この考え方は、既に何度も試みてはいる。とまれ、それを作業仮説とすると、陽極へ傾斜して同一性主義となり、陰極へ傾斜して差異主義となるとしよう。前者が近代主義とするなら、後者はポスト・モダンである。問題は、差異共振性を新たに発見することである。特異点・不連続点であるMedia Pointを発見すべきなのである。これによって、太極の連続的振り子運動は乗り越えられるのである。太極の本体へと回帰すべきなのである。同一性と差異との共振、つまり、差異共振性を新たに発見すべきなのである。
p.p.s. ここで、同一性と差異との共振として差異共振を言ったが、差異共振ならば、差異と差異との共振ではないのか、という素朴な疑問が生じるだろう。この場合、同一性は+iであり、差異は-iである。そして、単純に言って、+iを差異と言うことができるのである。これで説明は済むわけだが、もう少し、測深して言うと、同一性+iは、自己内部を思考すると、差異-iに達する。しかし、差異へ傾斜すると、差異主義となり、それは、同一性主義の反転に過ぎなくなる。問題は、+iと-iとの共振するMedia Pointを感知することである。思うに、差異へと測深し出した同一性は、同一性主義から脱して、特異なエネルギーに到達すると思える。これがMedia Pointの様態である。そして、同一性を支点にしつつ、Media Pointの差異共振様態に到達していると考えられる。だから、そこでは、同一性以外の+iと-iとの差異共振が生起しているように思えるのである。同一性以外の+iとは何だろうか。それは、陽としての差異ではないだろうか。そして、-iは陰としての差異である。陽差異と陰差異との陰陽差異共振が発生していることになるのである。)
 最後に、差異共振エネルギーの縮約・圧縮の力学について考察したい。これはおそらく、反動エネルギーである。差異共振エネルギーに同一性の力が圧力をかけるのである。そのとき、反動エネルギーが発生するのである。それが、縮約・圧縮ではないだろうか。
 だから、差異共振エネルギーが十分あるときは、反動エネルギーも強度をもつが、差異共振エネルギーが枯渇すると、反動エネルギーも少なくなり、自我は力を失い、うつ病等の心の病になると考えられるのである。ここで留めたい。

参照:
共同体って何?

bunkatekikeikan09.gif

文化庁「農林水産業に関連する文化的景観の保護に関する調査研究(報告)」リンク より拝借致しました。

このブログのタイトルにもありますが「共同体社会」って一体どんな社会なのか?改めて考えてみるとぼんやりと「みんなで協働している社会」って感じぐらいのイメージしか沸いてきません。日常においても度々共同体という言葉は耳にすることがありますが、どんな社会のことを言うのか?って現代の人々にとっては意外とイメージできないのかなぁって感じています。ちょっと前の日本の社会にも「村落共同体があった」とよく言われます。そこで、改めて
   
    m030 「共同体」とはどんな社会なのか?どんな状態の社会? Shocked
    m030 なんで共同体なのか?(本質は?) Shocked
    m030 共同って何するの m002 Shocked

といろいろと疑問が沸いてきます。何となく「共同体」っていい社会だったように思いますが、その本質を理解することが一番大切かなと思います。そのことを端的に書かれているものが「るいネット」にありますので紹介します。

http://blog.jinruisi.net/
blog/2007/10/000274.html


知られざる人類婚姻史と共同体社会


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プラガル終止

2008年01月16日(水)


 今日はお医者さんの日で、書けないことばかりなので、先日のオペラの話。

 チェコのブルノ歌劇場の公演で、主役ハインリヒ・フォン・タンホイザーを演じたエルネスト・グリサレスは、本来はイタリアオペラの歌手だそうで、ドイツ風のヘルデン・テノール(英雄のテノール)を歌うにはちょっと声量不足だったが、あとは、聖処女エリザベート役のダナ・ブレショヴァーも、タンホイザーの親友のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ役のリヒァルト・ハーンも、きわめて声量も表現力も豊かで、それはもうすばらしかった。3幕の、ヴォルフラムの「夕星の歌」の前後は、泣いちゃったなあ。合唱が、スラブの合唱団にしてはやや細身で、もう一息迫力がほしかった。もっとも、劇場(兵庫県芸術文化センター大ホール)が大きすぎたのかもしれない。オペラは、あんな大きな劇場を想定しては作られていない。

 最後、エリザベートの死の贖罪で救われたタンホイザーが死ぬとき、合唱があって、最後の最後に「巡礼の合唱」のモティーフが出てから、オーケストラだけのコーダに入る。その最後が、なんとプラガル終止をしている。プラガル終止というのは、ファ・ラ・ドの和音からド・ミ・ソの和音に入る進行で曲を終わることで、通称アーメン終止というように、讃美歌の最後につけられる「アーメン」の部分の和声進行だ。

 そうなんだ、このオペラは、ワーグナーが書いた巨大なミサ曲なんだ。ただし、それは、キリスト教を装っているが、きわめて異教的だ。聖処女の犠牲によって肉欲の罪に穢れた騎士が救われるなんて、正真正銘の原始宗教だ。「人身御供」だの「人柱」だのというたぐいの話だ。そういうきわめて原始宗教的な信仰を、19世紀にもなってからワーグナーが宣揚しようとしたのはどうしてだろう。たぶんドイツ民族のアイデンティティ確立のためだと思う。

 ということは、ワーグナーのオペラの台本の構造分析をすると、ドイツ人の深層構造がわかるということだ。いや、それは実はわかっていて、その具体的な現象化がナチズムだったのだ。だから、今では誰もその深層構造には触れないようにしているのかもしれない。現代のドイツ人たち(といっても、知っているのはアドレリアンたちだが)の奇妙な内的混乱は、たぶんそのことと関係があるのだろうと思う。彼らは、表層的にはナチズムを拒否しながら、しかも「聖処女の犠牲で肉欲地獄から救済される騎士」という深層の物語を相変わらず信じ続けているので、困っているのだろう。ナチズムに代わる新しい現象化ができないでいるのだと思う。

 ともあれ、オペラ『タンホイザー』は、こんにちも神聖なプラガル終止で荘厳な「アーメン」を唱えながら異教的な典礼を終わるのだ。ドイツ人は、それを聴くたびに、深層構造を思い出して、表面的には混乱に陥りつつも、内的には恍惚にひたるのだろう。ちょっと恐いね。


http://jalsha.cside8.com/
diary/2008/01/16.html
野田俊作の補正項

************

参考:

■台本

リヒャルト・ワーグナー

■時

13世紀はじめ

■所

チューリンゲンのヴァルトブルク

■おもな登場人物
ヘルマン
チューリンゲンの領主
エリザベート
ヘルマンの姪
タンホイザー
吟遊詩人、騎士。エリザベートと愛し合っていた。
ヴォルフラム
同じく吟遊詩人、騎士。タンホイザーの友人。エリザベートに淡い恋心を抱いている。
ヴェーヌス
ヴェーヌスベルクに住む快楽の女神

■あらすじ(参考:渡辺護著「ワーグナーの作品」)

■背景

ドイツ中世では、騎士たちもミンネゼンガー(恋愛歌人)として歌う習慣がありましたが、その一人、タンホイザーは、エリザベートとの清い愛があったにもかかわらず、官能の愛を求め、ヴェーヌスベルクにおもむいて、妖艶なヴェーヌスのとりこになっていました。

■第1幕

第1場
 ヴェーヌスベルクの洞窟の中で、タンホイザーとヴェーヌスが歓楽的な愛にふけっています。

第2場
 ヴェーヌスの美しさをたたえながらも、故郷への思いが押さえきれなくなったタンホイザーは、ヴェーヌスと分かれる決心をします。ヴェーヌスは何とかひき止めようとしますが、タンホイザーの意志は堅いものがありました。タンホイザーが去ると同時にヴェーヌスベルクは崩れ落ち、消え去ります。

第3場
 タンホイザーは、いつの間にかヴァルトブルクの城が見える谷に立っています。巡礼の行列が近づき、また遠のいてゆくのを見つめていたタンホイザーは、感動し、地に頭をたれて泣きます。

第4場
 ヘルマンと騎士たちが通りかかり、昔の仲間のタンホイザーをみとめて喜びます。タンホイザーは、官能の情欲におぼれた自分の罪の重さを思い、旧友たちの厚情を容易には受け入れることができませんが、エリザベートが待っていると聞かされると、勇気付けられ、仲間に加わります。

■第2幕

第1場
 ヴァルトブルク城内にある歌の殿堂の広間。エリザベートが登場し、タンホイザーがふたたび歌合戦に参加する喜びを歌います。

第2場
 ヴォルフラムに導かれたタンホイザーが、エリザベートと再会します。喜び合う二人ですが、ヴォルフラムは苦しいあきらめに至らなければなりません。

第3場
 タンホイザーとヴォルフラムが去ったあと、ヘルマンが現われ、エリザベートに優しく歌合戦が近づきつつあることを知らせ、幸運を祈ります。

第4場
 歌合戦を見に、騎士や貴婦人が入場、最後に歌手たちも入場してきます。歌合戦の始まりです。ヴォルフラムをはじめとする騎士たちは、清らかな愛をたたえる歌を歌いますが、タンホイザーはそれらにことごとく反論を唱え、恍惚となってヴェーヌスをたたえます。騎士たちは憤激してタンホイザーに切りかかりますが、エリザベートがそれを押しとどめ命乞いをします。タンホイザーも正気に返って呆然となります。ヘルマンは、このような大罪の許しを乞うには、ローマへ行って教皇の許しを得るほかはないと言い、教皇の許しが得られるまで帰ってくることはならぬと宣言します。タンホイザーは「ローマへ!」と叫んで、遠くを通る巡礼たちの群に加わるため、去って行きます。

■第3幕

第1場
 ヴァルトブルク山麓、エリザベートがマリア像の前でタンホイザーのために祈っています。ヴォルフラムが現われ、彼女に同情して歌います。そこに、罪をあがなった巡礼が通りかかります。エリザベートはその中にタンホイザーの姿を探しますが、無駄でした。彼女はマリア像に祈りを捧げ、タンホイザーの罪が許されるなら自分の命を捨てても良いと言います。

第2場
 一人残ったヴォルフラムは、空にやさしく輝く星がエリザベートの道を照らしてくれるようにと歌います(夕星の歌)。

第3場
 消沈した姿のタンホイザーが現われます。苦しいローマ行きの模様をヴォルフラムに語りますが、教皇から許しを得られなかったタンホイザーは、今やヴェーヌスのみを求めようとしています。ヴェーヌスが現われ、タンホイザーを迎えようとしますが、ヴォルフラムが「エリザベート!」と叫ぶと、タンホイザーは狂気よりさめ、ヴェーヌスは地中へ消え去ります。その時、エリザベートは死骸となって運ばれてきたのです。タンホイザーも、彼女の遺体の前でこときれます。そこへ、若い巡礼たちの一行が、緑の葉の生えた杖を持ってきます。教皇の予言では、それはタンホイザーが救われたしるし。彼は、エリザベートの犠牲によって、救済されたのでした。



http://www.ne.jp/asahi/jurassic
/page/rule_f/tanhauser.htm


2008年01月20日(Sun)▲ページの先頭へ
『タンホイザー』とナチズム:異教とファシズム/全体主義
以下のエッセイで、ワグナーの『タンホイザー』の異教性とナチズムとの共通性を述べているが、私は疑問に思った。そう、ユングがナチズムを北欧神話の神オーディンの復活だと考えていたのを想起する。
http://www2u.biglobe.ne.jp/
~BLUEMAGI/NorseMythj.htm
http://blog.so-net.ne.jp/plant/
2007-04-03

 私はそのような考えが短絡的ではないかと思うのである。神話学的心理学を歴史上問題のある事象にあてはめるのは危険であると思うのである。例えば、太平洋戦争における日本軍は、神道的神話の顕現であると言えるのだろうか。天照大神を反映する全体主義であったのか。とてもそうとは言えないだろう。
 「聖処女」の犠牲によって肉欲の地獄から救われるという神話がどうして、ナチズムと関係するのか。「聖処女」の犠牲がユダヤ人虐殺と関係すると言うのか?
 私の直感では、ナチズムのユダヤ人虐殺は、二項対立から来ている。つまり、自我のもつ同一性主義から来ているのである。だから、国学的ナショナリズムに近いと思うのである。つまり、自我同一性ナショナリズム=全体主義である。これに政治経済状況が強く絡んでいるのである。今は簡単に言うが、神話が関係するというなら、異教神話ではなく、父権神話が関係するのである。これは、ヤハウェのユダヤ・キリスト教神話と見てもいいのである。つまり、ナチズムは、パラドクシカルであるが、ユダヤ・キリスト教的である。
 後で整理したい。

p.s. 参考に、『タンホイザー』の粗筋があるが、興味深い。これは、単純な、精神性と肉欲性との二項対立である。これは二元論であり、いかにも西洋文化である。エリザベート(聖母マリア・キリスト教)とヴェヌス(ヴィーナス・異教)の対立という形式である。
 しかし、これは偽りの対立である。異教とは、つまり、女神的宗教とは、本来、性愛と聖性が一致していたのである(神殿娼婦、聖娼がいた)
http://critic.exblog.jp/461734
http://web.kyoto-inet.or.jp/
people/tiakio/antiGM/hetaira.html
。天上のヴィーナスと地上のヴィーナスがあり、地上のヴィーナスは、天上のヴィーナスの反映である(ネオプラトニズム的解釈であるが)。
 とまれ、『タンホイザー』はこのような異教本来の枠組みを失った西洋文化、それも近代文化の作品と言えよう。言い換えると、本来の異教精神では、エリザベートとヴェヌスとは一体なのである。だから、中世を背景とするなら、そのようになるのが本来的だと思うのである。
 だから、この分裂・二元論は何を物語るのか。やはり、同一性中心主義による近代合理主義/近代的自我のもつ分裂性・二元論性である。同一性主義による自我は善悪二元論を形成するだろう。しかし、この自我による「道徳」の起因は何か。(ウィリアム・ブレイクなら、この「道徳」を激烈苛烈に批判したものである。)
 先の「同一性、差異、差異共振性について」の考察から見ると、差異=他者の否定に基づく自我同一性道徳である。これは、二項対立であるから、自我同一性が優位であり、差異=他者が劣位である。つまり、自我同一性は正しく、差異=他者は正しくないという価値判断がそこに発生するのであり、これが父権的道徳の起源であろう。(ここで、ニーチェの傑作である『道徳の系譜』を想起するといいだろう。精神の貴族は、自己において価値基盤をもつのであり、自我同一性においてではないのである。自己とは、自己差異、つまり、差異共振性である。それに対して、「道徳」は、差異=他者を否定した自我同一性に存する。)
 さらに質せば、なぜ、自我同一性は、自己優越を感じるのか。この問題は以前、何度も考えたが、そのときは、自我同一性は、起源として、超越性であるので、他者に対して優位をもつというものであった。さて、それでいいだろうか。
 ここで、先に考察した「同一性、差異、差異共振性について」の論考に従えば、差異共振性から同一性が生起する。この同一性が原自我である。ここには、実は、差異共振性が「実存」している。だから、原自我は揺らいでいるのである。同一性でありながらも、差異共振性の揺らぎがあるのである。(思うに、太母文化とは、この差異共振性が太母として中心化されていたのだろう。同一性=原自我は、太母の内に存するのである。イシス/オシリス神話である。)
 私は今、創世記の冒頭を想起しているのである。神霊が原自我に当たるのではないだろうか。そして、水が差異共振性である。そして、それにはたらきかけて、神霊は、天地創造するのである。だから、同一性=原自我の能動的作用があり、それが必然的に自己優越性を意味するのではないだろうか。つまり、意識の問題である。本来、原自己と原他者の共振によって、原自我が生まれたのであるが、それが忘却されているのである。自己認識方程式の左辺が忘却されているのである。
 ここで少し想像すると、差異共振性の「海」ないしは「水」(p.s. これは、より正確に言えば、光の海ないし光の水であろう。火と水の融合である。御水取りはこの象徴であろう。)から、同一性=原自我は生まれたのであるが、出自を忘却しているのである。それで、母体が「海」や「水」になっているのである。思うに、「海」や「水」は、一種投影ではないだろうか。つまり、同一性=原自我の基盤(インフラ)には、差異共振性=「海」・「水」があるのであるが、それを同一性=原自我は外界の投影するのではないのか。ユング心理学で言えば、シャドウ(影)である。
 ここは微妙なところなので丁寧に考えよう。同一性=原自我(+1)は、確かに、母体の差異共振性を内在、潜在、実存させている。しかしながら、同一性の知は、当然、その差異共振性を真に理解できない。いわば、差異共振性は、影や暈のようになるのである。そして、同一性=原自我は、いわば、宙ぶらりんの状態に置かれるのである。 しかるに、同一性=原自我は、そのような中途半端な様態から離脱すべく、独立する志向をもつと考えられるのである。つまり、同一性=原自我の独立・自立である。そして、その同一性=原自我の独立・自立志向が、差異=他者の否定となるのである。
 その前に、同一性=原自我は、他者に自己投影する。そこに、同一性の投影像を観る。この同一性=原自我の投影像が同一性主義の基盤になると言えよう。ここにおいて、差異=他者は否定されてゆくのである。同一性が中心化されて同一性主義ないしは同一性中心主義となり、差異=他者をそれに応じて、裁断するのである。正に、二項対立の力学があるのである。
 問題の核心は、投影像にあると言えよう。投影されているのは、本来、差異共振性である「海」や「水」であろう。そこに、同一性=原自我は、同一性の投影を見るのである。ここには、奇妙な二重性が生じているのである。投影像は、差異共振性であると同時に、同一性像である。つまり、ここには、抑圧が生じていると考えられるのである。差異共振性を同一性に縮約する抑圧である。そう、この同一性への縮約・圧縮の力学が、同一性主義=自我に優位性を付与しているものではないか。つまり、本来、差異共振性が源泉・根源であり、ここがエネルギー源である。それ故に、ここを取り込むことにより、同一性=原自我は同一性主義=自我になるのではないだろうか。
 先に、差異=他者の否定と言ったが、実際、ここでは、微妙である。差異共振的差異・他者の否定と言う方が正確であろう。とまれ、投影像を介して、同一性=原自我は同一性主義=自我を形成するのであり、そのときの差異共振的差異・他者を同一性へと縮約・圧縮したときの力ないしはエネルギーによって、同一性主義=自我は、差異=他者に対して、優位の意識をもてるのである。だから、同一性主義=自我の力とは、真に独立・自立した力ではなくて、差異=他者に依存しているのである。これは、確認すべきことである。平たく言えば、自我とは、見栄坊・虚栄家である。
 また、これまでの述べたように、エネルギーの活性化の問題があるのである。同一性主義=自我は、縮約・圧縮した差異共振性からエネルギーを取り込んでいるが、しかし、それは、いわば、エントロピーの増加であり、エネルギーは枯渇するのである。(これは、端的に、うつ病の症状であろう。)
 つまり、同一性主義=自我は、内なる差異共振性に対して、壁をつくっているので、差異共振エネルギーを注入することができないのである。同一性主義という壁が心の領域に生じているのである。言い換えると、同一性主義=自我と差異共振エネルギーが乖離・分裂しているのである。だから、統合失調症の症状でもあるのである。
 新たに差異共振エネルギーを取り込む回路を創る必要があるのである。ここで、陰陽論に用いれば、同一性主義とは、陽主義であり、差異主義とは、陰主義であり、太極が差異共振性であろう。
 最後に、差異共振エネルギーの縮約・圧縮の力学について考察したい。これはおそらく、反動エネルギーである。差異共振エネルギーに同一性の力が圧力をかけるのである。そのとき、反動エネルギーが発生するのである。それが、縮約・圧縮ではないだろうか。
 だから、差異共振エネルギーが十分あるときは、反動エネルギーも強度をもつが、差異共振エネルギーが枯渇すると、反動エネルギーも少なくなり、自我は力を失い、うつ病等の心の病になると考えられるのである。ここで留めたい。
 

********************************

プラガル終止

2008年01月16日(水)


 今日はお医者さんの日で、書けないことばかりなので、先日のオペラの話。

 チェコのブルノ歌劇場の公演で、主役ハインリヒ・フォン・タンホイザーを演じたエルネスト・グリサレスは、本来はイタリアオペラの歌手だそうで、ドイツ風のヘルデン・テノール(英雄のテノール)を歌うにはちょっと声量不足だったが、あとは、聖処女エリザベート役のダナ・ブレショヴァーも、タンホイザーの親友のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ役のリヒァルト・ハーンも、きわめて声量も表現力も豊かで、それはもうすばらしかった。3幕の、ヴォルフラムの「夕星の歌」の前後は、泣いちゃったなあ。合唱が、スラブの合唱団にしてはやや細身で、もう一息迫力がほしかった。もっとも、劇場(兵庫県芸術文化センター大ホール)が大きすぎたのかもしれない。オペラは、あんな大きな劇場を想定しては作られていない。

 最後、エリザベートの死の贖罪で救われたタンホイザーが死ぬとき、合唱があって、最後の最後に「巡礼の合唱」のモティーフが出てから、オーケストラだけのコーダに入る。その最後が、なんとプラガル終止をしている。プラガル終止というのは、ファ・ラ・ドの和音からド・ミ・ソの和音に入る進行で曲を終わることで、通称アーメン終止というように、讃美歌の最後につけられる「アーメン」の部分の和声進行だ。

 そうなんだ、このオペラは、ワーグナーが書いた巨大なミサ曲なんだ。ただし、それは、キリスト教を装っているが、きわめて異教的だ。聖処女の犠牲によって肉欲の罪に穢れた騎士が救われるなんて、正真正銘の原始宗教だ。「人身御供」だの「人柱」だのというたぐいの話だ。そういうきわめて原始宗教的な信仰を、19世紀にもなってからワーグナーが宣揚しようとしたのはどうしてだろう。たぶんドイツ民族のアイデンティティ確立のためだと思う。

 ということは、ワーグナーのオペラの台本の構造分析をすると、ドイツ人の深層構造がわかるということだ。いや、それは実はわかっていて、その具体的な現象化がナチズムだったのだ。だから、今では誰もその深層構造には触れないようにしているのかもしれない。現代のドイツ人たち(といっても、知っているのはアドレリアンたちだが)の奇妙な内的混乱は、たぶんそのことと関係があるのだろうと思う。彼らは、表層的にはナチズムを拒否しながら、しかも「聖処女の犠牲で肉欲地獄から救済される騎士」という深層の物語を相変わらず信じ続けているので、困っているのだろう。ナチズムに代わる新しい現象化ができないでいるのだと思う。

 ともあれ、オペラ『タンホイザー』は、こんにちも神聖なプラガル終止で荘厳な「アーメン」を唱えながら異教的な典礼を終わるのだ。ドイツ人は、それを聴くたびに、深層構造を思い出して、表面的には混乱に陥りつつも、内的には恍惚にひたるのだろう。ちょっと恐いね。


http://jalsha.cside8.com/
diary/2008/01/16.html
野田俊作の補正項

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参考:

■台本

リヒャルト・ワーグナー

■時

13世紀はじめ

■所

チューリンゲンのヴァルトブルク

■おもな登場人物
ヘルマン
チューリンゲンの領主
エリザベート
ヘルマンの姪
タンホイザー
吟遊詩人、騎士。エリザベートと愛し合っていた。
ヴォルフラム
同じく吟遊詩人、騎士。タンホイザーの友人。エリザベートに淡い恋心を抱いている。
ヴェーヌス
ヴェーヌスベルクに住む快楽の女神

■あらすじ(参考:渡辺護著「ワーグナーの作品」)

■背景

ドイツ中世では、騎士たちもミンネゼンガー(恋愛歌人)として歌う習慣がありましたが、その一人、タンホイザーは、エリザベートとの清い愛があったにもかかわらず、官能の愛を求め、ヴェーヌスベルクにおもむいて、妖艶なヴェーヌスのとりこになっていました。

■第1幕

第1場
 ヴェーヌスベルクの洞窟の中で、タンホイザーとヴェーヌスが歓楽的な愛にふけっています。

第2場
 ヴェーヌスの美しさをたたえながらも、故郷への思いが押さえきれなくなったタンホイザーは、ヴェーヌスと分かれる決心をします。ヴェーヌスは何とかひき止めようとしますが、タンホイザーの意志は堅いものがありました。タンホイザーが去ると同時にヴェーヌスベルクは崩れ落ち、消え去ります。

第3場
 タンホイザーは、いつの間にかヴァルトブルクの城が見える谷に立っています。巡礼の行列が近づき、また遠のいてゆくのを見つめていたタンホイザーは、感動し、地に頭をたれて泣きます。

第4場
 ヘルマンと騎士たちが通りかかり、昔の仲間のタンホイザーをみとめて喜びます。タンホイザーは、官能の情欲におぼれた自分の罪の重さを思い、旧友たちの厚情を容易には受け入れることができませんが、エリザベートが待っていると聞かされると、勇気付けられ、仲間に加わります。

■第2幕

第1場
 ヴァルトブルク城内にある歌の殿堂の広間。エリザベートが登場し、タンホイザーがふたたび歌合戦に参加する喜びを歌います。

第2場
 ヴォルフラムに導かれたタンホイザーが、エリザベートと再会します。喜び合う二人ですが、ヴォルフラムは苦しいあきらめに至らなければなりません。

第3場
 タンホイザーとヴォルフラムが去ったあと、ヘルマンが現われ、エリザベートに優しく歌合戦が近づきつつあることを知らせ、幸運を祈ります。

第4場
 歌合戦を見に、騎士や貴婦人が入場、最後に歌手たちも入場してきます。歌合戦の始まりです。ヴォルフラムをはじめとする騎士たちは、清らかな愛をたたえる歌を歌いますが、タンホイザーはそれらにことごとく反論を唱え、恍惚となってヴェーヌスをたたえます。騎士たちは憤激してタンホイザーに切りかかりますが、エリザベートがそれを押しとどめ命乞いをします。タンホイザーも正気に返って呆然となります。ヘルマンは、このような大罪の許しを乞うには、ローマへ行って教皇の許しを得るほかはないと言い、教皇の許しが得られるまで帰ってくることはならぬと宣言します。タンホイザーは「ローマへ!」と叫んで、遠くを通る巡礼たちの群に加わるため、去って行きます。

■第3幕

第1場
 ヴァルトブルク山麓、エリザベートがマリア像の前でタンホイザーのために祈っています。ヴォルフラムが現われ、彼女に同情して歌います。そこに、罪をあがなった巡礼が通りかかります。エリザベートはその中にタンホイザーの姿を探しますが、無駄でした。彼女はマリア像に祈りを捧げ、タンホイザーの罪が許されるなら自分の命を捨てても良いと言います。

第2場
 一人残ったヴォルフラムは、空にやさしく輝く星がエリザベートの道を照らしてくれるようにと歌います(夕星の歌)。

第3場
 消沈した姿のタンホイザーが現われます。苦しいローマ行きの模様をヴォルフラムに語りますが、教皇から許しを得られなかったタンホイザーは、今やヴェーヌスのみを求めようとしています。ヴェーヌスが現われ、タンホイザーを迎えようとしますが、ヴォルフラムが「エリザベート!」と叫ぶと、タンホイザーは狂気よりさめ、ヴェーヌスは地中へ消え去ります。その時、エリザベートは死骸となって運ばれてきたのです。タンホイザーも、彼女の遺体の前でこときれます。そこへ、若い巡礼たちの一行が、緑の葉の生えた杖を持ってきます。教皇の予言では、それはタンホイザーが救われたしるし。彼は、エリザベートの犠牲によって、救済されたのでした。

http://www.ne.jp/asahi/j
urassic/page/rule_f/tanhauser.htm



同一性と差異と差異共振性について:その2:二つの否定について
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10066731252.html
先に、このタイトルで考察したが、これは、まだまだ論じたりない、又実に興味深い論点なので、さらに考察を行ないたい。
 問題は、差異共振性(Media Point)の「カオスモス」(暈のようなもの:量子様態であろう)から、同一性が発生するが、それは言語形成と言っていいだろう。つまり、言語的同一性の形成である。しかしながら、同時にそれは、物質の形成と言ってもいいと考えられる。つまり、言語とは、一種の物質であると考えられるのである。
 当然、同一性は、差異を否定するのであるが、差異とは他者である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1では、-iである。しかし、問題は、先にも触れたが、同一性と同一性主義との区別である。+1が同一性であり、-1が同一性主義であると述べたのである。
 しかし、ここでは、同一性は差異を否定するのであるから、(+i)・[-(-i)]=-1となるのではないのか。そうすると、それは、同一性ではなくて、同一性主義になるのである。この矛盾をどう見るのか。
 丁寧に考えよう。差異共振性(Media Point)から同一性が発生する際に、差異を否定すると言ったが、正しくは、差異共振性の否定であろう。つまり、正に、自己認識方程式(+i)*(- i)⇒+1の⇒の事象が発生していると考えられるのである。*の共振が・の積に転換して、+1が発生するのである。換言すると、共振性*の否定としての積・が生じて、同一性+1が発生するということである。
 では、どうして、同一性の発生のとき、差異=他者を否定すると言ってしまった(しまう)のか。これは、知覚の現象の問題であろう。知覚において、とりわけ、視覚において、対象としての差異=他者が存するが、対象としての差異=他者とは既に、同一性=物質であり、これを主体の意識は否定して、同一性の自我を形成すると考えられるのである。つまり、自我形成においては、差異=他者の否定-(-i)が生じるのであり、同一性ではなくて、同一性主義が生起するのである。
 ということで、同一性形成とは、差異共振性の「否定」であり、同一性主義形成とは差異の「否定」であるということになった。この二つの「否定」はそれぞれ意味が異なるだろう。
 前者に関しては、量子論を考えるといいと思う。差異共振性である量子が「否定」されて、同一性の物質へと転換されると考えられるのである。そして、物質(=同一性)の極性においてMedia Point(差異共振性)が潜んでいると考えられるのである。そこは、物質の不連続点、すなわち、特異点であり、イデア的超越性が作用するのである。結局、第一の「否定」では、差異=他者-iは否定されないのであり、否定されるのは、差異共振性である。
 では、後者の「否定」について考えよう。これは複雑である。第一には、差異=他者の否定であり、(+i)×[-(-i)]=-1である。しかしながら、現象においては、(+i)*(-i)の事象が発生していると考えられるのである。つまり、差異共振性も発生しているのである。
 まとめると、意識現象は、差異共振性があり、また、同一性があり、そして、同一性主義(自我)があるのであり、結局、三相性があるのである。同一性であるが、それは、この場合、原自我であろう。
 結局、意識現象における「否定」は、差異=他者の否定であるが、それは、原自我による「否定」であり、それは、同時に、差異共振性の否定なのである。つまり、二重の否定がここにはあると考えられるのである。即ち、差異=他者の否定であり、差異共振性の否定である。
 結局、意識現象において、±1の事態が発生していると考えられるのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を展開させて、自我認識方程式(+i)*(-i)⇒±1が考えられるのである。
 そして、自我の分裂性は、この±1に発現していると考えられるのである。+1においては、差異共振性は「実存」しているのであり、-1においては、差異共振性は排除されているのである。両者、「否定」様態であるが、意味が異なるのである。明確に区別するために、前者の「否定」を潜在的否定、後者の「否定」を排除的否定と、暫定的に呼びたい。
 ここで、近代的自我/近代合理主義を考えると、それは、後者の排除的否定が中心化されて、後者が喪失されているのである。つまり、自我中心主義となり、差異共振性がまったく排除されているのである。言い換えると、差異=他者の否定が、差異共振性を排除的に否定しているのである。パラノイア/モノマニア化である。
 そして、この同一性中心主義化とは、近代における数量主義が原因であると言えよう。つまり、唯物論化である。これが、同一性中心主義を決定したと考えられるのである。
 では、なぜ、数量主義・唯物論化が生じたのかとなる。それは、これまで述べ尽くしたように、同一性への傾斜である。つまり、父権的傾斜である。これで本稿を終える。


同一性と差異と差異共振性との関係について:言葉三元論と言語二元論:トランス・モダン・サイエンスへ
先に、差異と同一性について検討したが、不整合が生じたので、ここで再検討したい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10066558387.html
http://ameblo.jp/renshi/entry-10066611008.html

自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、+iを同一性、-iを差異、そして、左辺の(+i)*(-i)を差異共振性と先に考えたが、考察において、不整合が生じたので、ここで再検討したい。
 問題は、最初、言葉において、+iを知=同一性とし、-iを心魂性として、両者の差異共振性が、知心言(知魂言)になると説いたことから発している。その後、+iを近代合理主義、-iを非合理主義(狂気情動)とし、両者の二元論・二項対立によって否定・排除・隠蔽されたものとして、差異共振性が第三項であるが、それこそ、エネルギーの根源・源泉であり、その抑圧は、心的病気、うつ病や統合失調症を生むだろうというようなことを述べたのである。
 不整合は、心魂性とは、端的に言えば、差異共振性であり、最初に言ったように、-iではないのであり、心魂性の様相について生じているのである。つまり、最初に-iが心魂性であり、次に(+i)*(-i)の差異共振性を心魂性と言ったのである。
 最初は言語の問題についてである。知心言ないしは知魂言としての言語において、同一性(知)と差異(心魂性)との差異共振性が発現していると考えたのである。そのときの私の勘違いは、差異を心魂性としたことである。そして、先ず、言葉を同一性と差異との共振性にあると見たことである。
 さて、ここで言葉について考察すると、言語と言葉では意味が違うだろう。言語と言ったとき、言葉から発話的具体性を捨象しているように思える。端的に言えば、言葉から心魂性、心魂的波動、精神性を捨象しているのである。だから、言語学とは別に、言葉学が必要であると考えられる。例えば、音声学で言えば、言葉の声のもつ心的波動を捨象して、言葉の声(言声と造語しようか)の同一性の形式の対立、つまり、構造対立だけを扱っているのである。声の差異共振性である心魂性・精神性を捨象して、声の同一性形式・同一性対立構造を扱っている構造主義になっていると考えられるのである。これは、明らかに、近代合理主義の狂気の一環である。狂気の学問である。つまり、声という差異を抽象して、同一性である音声を取り出すのである。そして、音声の二項対立・対立構造を取り出して、体系化しているのである。
 今、論考の不整合について、整理するといいだろう。私は今、声を差異と言い、音声学の音声を同一性と言った。そして、私が言う差異共振性である心魂性とは、声(言声)=差異に存し得るものである。
 言葉(声言)は、観念的知(同一性)と言声(差異)の結合であり、言声=差異には、差異共振性=心魂性を存在し得るのである。
 ということで、試論の不整合を修正すると、先に言った知心言・知魂言としての言葉・声言とは、同一性(知)と差異(声)との結合であるが、両者の結合において、特に、差異(声)に存し得る差異共振性=心魂性が発現した言葉であるということになるだろう。これで、不整合は取り除かれたと言えよう。
 では、ついでに、音声学の同一性主義についてさらに触れたい。これは、差異である声を同一性化して、音声(ないしは音韻)という抽象形式を取り出しているのである。差異=声の同一性化がここにはあるのであり、差異=声を捨象した同一性主義、近代合理主義、近代科学になっているのである。
 この視点から、ソシュール言語学やデリダ哲学を考えると興味深いだろう。言葉を同一性(知)と差異(声)との結合であると上述したが、ソシュールは、原観念と原音声との一体化として言語を考えていた。そして、言語における意味するものをシニフィアン、そして、意味されるものをシニフィエと呼んだのは、よく知られていることである。ソシュールの構造主義言語学の問題は、シニフィアンを同一性に限定したことである。ソシュールは同一性に基礎をもつ差異をとり出して、その差異の構造を共時性の体系と見たのであるが、基礎は同一性なのであり、その差異とは、同一性の対立・極性なのである。例えば、petとbet におけるpと bとの音韻の相違である。pとbが同形の無声子音と有声子音ということで対立しているのである。この場合、同形が同一性であり、無声と有声が対立であり、この二項対立が構造になっているのである。つまり、同一性における肯定と否定との極性・二元論が構造を形成しているのである。ここでは、pやbの声・言声のもつ心魂性が捨象されているのである。思うに、破裂音であるpやbは、常識的に見て、なにか吐き出す志向性があると言えよう。そして、pの方が軽く、b の方が重いと考えられよう(日本語でも、英語、また、その他の言語でもおそらくそうだろう)。言い換えると、声の心象性が捨象されると言えよう。
 ということで、簡単ではあるが、ソシュール構造主義言語学とは、声を同一性化し、同一性の対立性・二元性を体系化した言語であり、声の差異ないしは心象性が捨象されているのである。
 次に、『声と現象』において、フッサール現象学を批判したデリダを見てみよう。デリダは、声を形而上学の現前が存するものとして批判し、エクリチュールを擁護する。確かに、ソシュールにおける同一性化された声を見る限り、その批判は正しい。つまり、同一性主義(デリダのいうロゴス中心主義)批判として正しい。しかしながら、声に差異ないしは差異共振性を見るならば、途端にデリダの批判は成立しなくなるのである。デリダ哲学の破綻が生じるのである。当然、フッサール現象学批判も成り立たなくなるのである。(これで、簡単ながら、ポスト・モダン批判となる。)エクリチュール擁護論も成り立たなくなるのである。声に同一性主義を見るというのは、確かに、ソシュール言語学に基づくならば正しいが、それは、一面的な、抽象主義的な考えに過ぎないのである。
 では、デリダの痕跡=差延とは何だろうか。それは、簡単に言えば、同一性(声)の表現には、記号という「差異」が必要であるが、その「差異」が痕跡=差延であると言えるのではないだろうか。これは、どういうことかと言えば、観念的同一性に付随する記号表現である感覚的差異の必然性を意味しているのである。これは、プラトニック・シナジー理論(不連続的差異共振論)から言えば、デリダのいう観念的同一性、つまり、同一性主義とは、同一性志向性であり、当然、同一性表現を伴うのである。思うに、同一性主義を+1とするなら、同一性表現は-1であろう。あるいは、逆に、同一性主義を-1とするなら、同一性表現は+1であろう。後者の方がよさそうである。だから、デリダの痕跡=差延とは、実軸上の極性のことであると言えよう。
 これまで、デリダ哲学は、Media Pointの虚軸性=超越性を否定したと述べてきたが、正に、その通りなのである。差延とは、±1の揺らぎに過ぎないのである。それは、ハイデガー哲学の本来的存在と等価であると思われるのである。だから、デリダ哲学の独創性はかなり疑わしいと思われる。ここで、本稿を終える。


2008年01月19日(Sat)▲ページの先頭へ
同一性と差異の関係:同一性と差異の二項対立と差異共振性:不連続的差異共振論としてのPS理論
同一性がどうして差異を否定するのかについて再考したい。
 端的に言えば、同一性は差異を必然的に否定するのである。
(+i)・-(-i)⇒-1である。-(-i)の最初の-が否定である。差異-iの否定である。-1は同一性主義であろう。
 しかるに、否定された差異-iは「実存」しているが、同一性+iは、それを認識できない。そして、-iのエネルギーが+iへと作用する。すると、それは、(-i)・-(+i)⇒-1となる。この-1は何であろうか。差異から同一性へと作用した結果の-1とは何か。それは、非合理主義ではないのか。つまり、狂気ではないのか。あるいは、非合理的衝動である。そう、だから、同一性主義とは、非合理的衝動を喚起するということではないのか。言い換えると、近代合理主義は、非合理主義を伴うということでいいのではないのか。私がこれまで、さんざん、近代合理主義/近代的自我は狂気であると言ったのは、差異からの同一性への作用によると見ていいのではないのか。即ち、近代合理主義=非合理主義(狂気)である。(どうも、ヤハウェがこの原型ではないのか。後で検討したい。また、サブプライムローンも、このタイプだと思うのである。一般に投機はそうなるだろう。)
 問題は、差異共振性である。それは、同一性と差異との間に潜在しているのである。教養とは本来、この差異共振性を意識化するものではなかったか。同一性と差異との間に、差異共振性=心魂が作用する。しかるに、同一性と差異との意識二元論の間にあるので、差異共振性=心魂はそれに結びつけられるのである。言い換えると、ポスト・モダン様態になるのである。即ち、二元論的枠組みに差異共振性=心魂が囚われるのである。
 しかしながら、差異共振性=心魂は、本来、不連続なのである。それを不連続的差異論が明らかにしたのである。(不連続的差異論は、正しくは、不連続的差異共振論ということだろう。それは、プラトニック・シナジー理論である。不連続的差異共振論としてのプラトニック・シナジー理論である。)
 ここで神秘主義を考えると、それは、先に霊的身体論ということを言ったが、それは、同一性主義への反動としての差異共振主義のことではないだろうか。つまり、非合理主義(感情・情動)と結びついた差異共振主義のように思える。ロマン主義はそのような側面があるだろう。
 近代合理主義(近代科学)とロマン主義との二項対立とは、実は、正しくないのである。近代合理主義と非合理主義と差異共振主義との三元論が本来生じているのであり、神秘とは、差異共振性から発していると見ないといけないのである。
 さて、問題は、近代合理主義と差異共振性との関係である。差異共振性とは、平たく言えば、共感性である。そして、近代合理主義は、共感性を排除すると考えられるが、ここが核心的問題点である。
 整理すると、同一性は差異を否定する。このとき、同時に、差異共振性も否定しているのである。つまり、同一性主義にとって、差異や差異共振性は否定の対象なのである。しかし、同一性主義は、無意識の差異の作用から非合理主義(情動・狂気)を伴っているのである。思うに、このとき、同一性中心主義(パラノイア、モノマニア)とでもいうものが形成されるのであり、差異共振性が徹底的に排除されるのである。
 そして、排除された差異共振性は、実は、真のエネルギーの根源・源泉なのであり、その排除は、意識主体のエネルギーを枯渇させるといえよう。これが、たとえば、うつ病ではないだろうか。また、当然、統合失調症ともなろう。
 わかりやすく言えば、同一性/差異と差異共振性とが分裂しているのである。前者が中心化されて近代的自我の狂気となるのである。そして、差異共振性のエネルギーが塞止められているのである。これは、同一性中心主義と差異共振主義との分裂である。
 後で、同一性、差異、差異共振性との関連を明快にしたい。


2008年01月17日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:同一性主義の狂気について:同一性交換価値のモノマニアとしての資本主義
1)同一性主義狂気について:これは、サブプライムローン批判を目指している。直感では、同一性価値を追求して、バブルとなり、崩壊した。この同一性価値追求は狂気だと思うのである。先にも述べたが、同一性価値が基盤であり、差異価値を排除しているのであり、同一性中心主義である。同一性=量を増大(=成長)の追求であり、そのため、差異=質を看過・軽視・無視するのである。
 つまり、ここには、同一性の論理しかない世界があるのである。単純に考えると、信用力とは差異である。それに対して、利子等は同一性である。リスクは本来は、差異と同一性との相互関係で決められるべきものであるが、サブプライムの場合、同一性価値の視点で決められたように思われる。何故なら、信用力が低いとは、差異の弱さであるからである。差異と同一性の両者を共通に量のレベルでは扱ってはならないのであるが、この問題では、差異を量=同一性化したと思う。
 つまり、差異は本来、不連続なのであり、同一性は適用できないはずであるが、同一性=量化したように思えるのである。この点はこれで留める。
 次に、同一性の連鎖について考察したい。これは、私がマクベス投機と呼んだものである。おそらく、同一性連鎖の妄想というものがあると思うのである。これは、理性を麻痺させるのである。これは、なにか酔いと同じだと思うのである。前頭葉がはたらいていないと思うのである。とにかく、同一性連鎖快感があると思うのである。(p.s. 同一性連鎖快感は、脳のどこではたらいているのか。)
 つまり、同一性は、同一性を排他的に追求するのであるが、ここに妄想的快感が発生していると考えられるのである。これは攻撃的快感である。差異を否定する攻撃的快感である。つまり、力=暴力=権力の快感である。問題は、排他的に同一性を追求する欲望の力学である。それは何か。(私は『指輪物語』の「一つの指輪」を想起している。)
 単純に言えば、父権暴力である。しかし、その秘密は何か。直感では、同一性狂気というものが中心にあるのであるが、それは何か。同一性の中心化・絶対化でもある。批判を許さぬ絶対的衝動でもある。独善・独断・専断性である。自己盲目性である。
 それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1 で言えば、+iだけの世界である。差異である-iが存在しない、+iだけの世界である。(+i)・(+i)=-1の世界ではないだろうか。+1が物質現象とするなら、-1は、同一性主義ではないだろうか。
 そう、+iの同一性志向だけがあり、-iが阻害されているのである。純粋同一性主義である。ここでは、同一性=量しか存在しないのである。だから、当然、同一性価値だけを追求すると考えられるのである。これが、現代の資本主義であり、サブプライムローンである。つまり、近代合理主義の極致がここに出現していると考えられるのである。ユダヤ・キリスト教の帰結であろう。
 これは、明らかに、パラノイアであり、世界は崩壊するだろう。新しい世界は差異共振世界である。トランス・モダン世界である。
 後で整理し、検討を続けたい。

2)「もののあわれ」について:本居宣長批判:これは何回か論じたが、整理する必要がある。結局、やはり、同一性に関係するのである。自我同一性の基盤から、宣長は、「もののあわれ」に達したのだと思うのである。自我同一性から神道・アニミズムを捉えようとしたのである。自我同一性が基礎にあるから、当然、二項対立・二元論となり、排他的になるのである。大和心と漢意の二元論となるのである。
 この自我同一性主義的神道論が国家神道の基盤になったのではないだろうか。


2008年01月16日(Wed)▲ページの先頭へ
和歌(やまとうた)と神道:精神文化と詩歌:差異共振心性とアニミズム:神道ルネサンスへ向けて
昨日の朝日新聞の朝刊の歌壇・俳壇で、読書の和歌の投稿欄があって、少し読んでみたが、あまりの拙さに、ショックを受けた。現代日本人の感受性が鈍磨・麻痺してしまっているということだろう。当然と言えば、当然であるが。でも、ひど過ぎる。あまりにひど過ぎるのである。
 情緒がなく、音楽もないのである。断絃の時である。今日、帰りにブックオフによって、探したら古今和歌集があり、買おうかと思ったが、思いとどまり、インターネットで探すことにした。
 とまれ、読んで心が潤い、満たされた。私としては、新古今の方が色彩感が鮮やかで好きであるが、古今集でも和歌への渇きは癒された。
 でも、どうして和歌・短歌が急に読みたくなったのか。なぜ、俳句ではないのか。俳句は乾いた詩であり、和歌はウェットな詩、つまり、叙情詩・リリックなのである。どうも私の気分が、ウェットな方へ今傾斜しているのである。(今日の、末世の悽愴殺伐とした世相に対する、心の渇きがあるのだろう。)
 以下の二番目の資料(『不連続な読書日記』)に、本居宣長の「もののあわれ」に関する興味深い記事がある。後で考察してみたいが、一言いうと、宣長の言わんとしたことはよくわかるのであり、それは、差異共振性である。Media Pointの心性・共感性である。これは、神道的心性と言えよう。思うに、宣長の誤りは、これを大和心として、民族主義化したことである。この共感性は、孔子にも、老子にも存するものである。
 つまり、こういうことだろう。神道的心性とは、本来、普遍的なのである。だから、中国にも存するものなのであり、太母文化のあるところには存するのである。ただし、日本においては、神道的心性という様態となっているのである。万教帰一である。(p.s. 神道的心性とは、アニミズムである。)
 さらに、「もののあわれ」という表現が感情主義的であり、正確に理論化されていないのが嫌みなのである。これは、端的に、差異共振感情ないしは、差異共振共感性である。
 国学のナショナリズムは問題であるが、しかしながら、神道的心性=アニミズム精神は、戦後の連合国占領と売国政治による近代合理主義の導入によって、破滅させられたと言えよう。日本の自然国土の破壊は、これと関係すると言えよう。民族的文化が否定されて、自然が破壊されたのである。精神文化・魂の文化が破壊されて、自然や心が破壊されたのである。折口信夫が、太平洋戦争で、日本の神が敗れたと言ったのは、正鵠を射ていたのである。ユダヤ・キリスト教の神=同一性・合理主義の神に、神道=アニミズムの神が敗れたのである。(宮崎駿の作品は、神道ルネサンスである。プラトニック・シナジー理論は、新アニミズム論でもあるだろう。後で詳論したい。)
 後で整理したい。

p.s. 問題は、神道精神が明治維新と敗戦後でどうなったのかである。前者は、国家神道となり、ナショナリズム化した。後者では神道精神自体が否定されたのである。つまり、自国精神文化の否定という恐ろしい自体が生じたのである。亡国的事件の発生である。
 しかしながら、本当に、民族伝統に根差しているものならば、簡単に否定することはできないはずである。これは、いったいどうしたことなのか。
 思うに、世俗化によって、アニミズム的な心性は衰退してしまっていたということだろう。折口信夫は戦後、新神道の可能性を唱えていたが、それは、そのような意味合いもあるのではないだろうか。折口は、日本人の宗教性が衰退していたことを述べていたのである。
 結局、正に、復興・復活・再生が必要であると言えよう。神道精神の復興が必要である。アメリカ的近代合理主義に洗脳されて、すっかり、日本精神文化が衰退・衰滅してしまった今日である。もっとも、神道ルネサンスは、螺旋的回帰である。近代を経由した高次元における神道ルネサンスである。

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やまとうた

http://www.asahi-net.or.jp/
~sg2h-ymst/yamatouta/

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2008-01-15 システムと情緒──『日本語の奇跡』CommentsAdd Star

 山口謠司著『日本語の奇跡──〈アイウエオ〉と〈いろは〉の発明』(新潮新書)を読んだ。

 日本という国の歴史そのものでもある日本語の変遷の過程を、コンパクトな新書に収めきるのはどだい無理な話だ。「書き足りない」と著者はあとがきに書いているが、それは当然のことだと思う。

 情報の圧縮には必ず残余が伴うのであって、読後、それが余韻というか残り香のように漂うようであれば、成功といってよい。しかし、通読後の第一印象は「書きすぎている」もしくは「書き散らかされている」というものだった。

 初学者にとって充分すぎる情報が、必ずしも順序だてて整然と構成されているとは思えない叙述のなかに、飛び飛びにちりばめられている。だから、にわか仕込みの断片的な知識が頭の中でとぐろを巻いて、鮮明な読後感に集約していかない。

 それに、本書の表題にいう「奇跡」の実質がいまひとつ掴めない。

 日本語はトルコ語、モンゴル語、朝鮮語 の同類で、基本となる語に助詞や助動詞が付属して文法的な関係を示す膠着語 に属する。これに対して、古来、文明を創り上げてきた国々の言葉は、ギリシャ語、ラテン語といったヨーロッパの言語やアラビア語 、インドのサンスクリット語など、語尾変化によって文法的な関係を示す屈折語 と、中国語のように語の配列の順序で文法的な関係を示す孤立語 とに分類される。

http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20080115
不連続な読書日記


2008年01月15日(Tue)▲ページの先頭へ
内的光の太母文化と父権的抑圧:女性の内的解放のトランス・モダン:四次元現象界から高次元現象界へ:Ver2
ウィリアム・ブレイクの詩でMental Travellerという象徴的な詩がある。それは、女性に支配された人間の生死を説くものである。ブレイクは、女性の意志を忌み嫌っていた。また、自然の生殖generationを嫌っていた。植物の生命を嫌っていた。そう、物質的世界を嫌っていて。一種、グノーシス主義である。(以下最初で、女性に対する中傷に当たることを言ったが、結果として、否定することになっていることをお断りしたい。)
 私は女性の愛情とは、同一性の生産・再生産に向けられた物質的生命体の性愛ではないだろうかと思ったのである。漱石は夫人に精神がないと嘆いていた。かつては、「女性は子宮で考えると」と俗に言われていた。「子宮」は正に、同一性の生産工場ではないだろうか。
 女性は、同一性を愛するのであり、差異を愛さないのではないだろうかとふと思ったのである。言い換えると、女性は現象を愛するのであり、超越性を愛さないのではないだろうか。もっとも、多くの例外があることは知っているが、あえて、一般的に言っているのである。もし、そうだとすると、太母子について考え直さないといけない。なぜなら、それは、同一性の生産・再生産になるからである。(また、生殖と資本主義の生産・成長についても考えなくてはならないだろう。)
 直感では、女性の愛情は現象と一如であり、精神と物質が融合しているのである。思うに、精神(差異)が現象(同一性)へと展開するのである。つまり、差異が同一性へと無碍に化成するのである。いわば、ドゥルーズの連続的差異である。しかし、それは、差異なのかと思う。差異ならば、同一性へと無碍に展開しないからである。
 どうやら、ここに女性の秘密がありそうである。差異があるが、Media Point において、連続化し、同一性=現象化する。この連続化が、女性の場合、男性よりも強度が強いのではないだろうか。男性の場合、差異から同一性が展開するとき、すべて同一性へと展開するのではなくて、差異が、純粋差異が残っているのである。だから、差異と同一性の齟齬があり、心的葛藤が生じるのである。
 垂直軸と水平軸との不連続性が、男性の場合には残っていると思うのである。それに対して、女性の場合は、不連続性が連続性で糊塗されるのではないのか。(連続性の糊塗とは、いわば、化粧である。)この差異が同一性へと連続的に同化吸収されるメカニズムは何なのか、これが問題である。 
 直感では、そこに、酔いがある。陶酔がある。幻惑がある。差異が同一性に酔うのである。心理学的には、ナルシシズムである。イデア論から言うと、差異は超越光であり、同一性は光である。すると、ナルシシズムとは、超越光よりも暗い光の影像に酔うことになるだろう。
 洞窟の影像に酔うのである。ということは、女性は内的な光が男性よりも暗いのではないだろうか。(勿論、例外の高貴な女性は存する。)内的光が暗いとはどういうことなのか。これも直感では、イデア振動が弱いというか、振動数が小さいのではないだろうか。
 そうすると、Media Pointでの変換において、同一性へと生成するが、そのとき、内的光は、現象性へと転化して、剰余の内的光が少なくなるということではないのか。
 男性の場合、高い振動数があり、同一性への転換によっても、剰余の内的光があり、それが、差異となるのではないだろうか。だから、女性には、内的な光は見えないことになるだろう。超越光は見えないのである。そう、女性には月の光が合うと言えよう。しかし、天照大神はどうなるのか。卑弥呼(日巫女、日観女、火見女、日巳女、霊巫女http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045220.html )はどうなのか。この問題を考えないといけない。女性は内的光を失ったのではないのか。
 思うに、本来、女性は内的光を見ていたが、父権宗教社会となり、それに従うことなった。本来、女性は太陽女神(天照御大神)を観ていたのである。しかし、父権社会になり、内的光・内的ヴィジョンが衰退したのではないだろうか。そのため、女性の視覚は同一性現象へと強く傾斜したのではないだろうか。つまり、女性の視覚は、父権社会によって、抑圧され洗脳されているのかもしれない。
 そう考えると、一見、現代社会において、女性は自由になったように見えるが、内的視覚・内的ヴィジョンの喪失という一種致命的な代償を払っているのではないのか。
 この問題は文化史・ジェンダー論的に実に本質的である。父権文化とは、同一性への傾斜であり、差異を否定する。この同一性主義文化において、女性の差異は否定・抑圧される。そして、女性が本来もっていた内的光が否定されて、洗脳される。しかし、民主主義の社会となり、男女同権等々と女性の権利が認められた。しかしながら、近代主義は同一性主義であり、女性の差異を認めていない。思うに、民主主義的同一性主義では、女性の差異を認めないのである。つまり、女性の忘却された内的光という差異を認めないのである。
 そう考えると、冒頭で、女性の愛情は同一性生産に向けられた物質的生命体の性愛ではないかと、中傷的なことを述べたが、それはおそらく皮相な事実であり、本来は女性が抑圧されていることの結果と見なくはならないのだろう。女性は、父権的同一性主義に洗脳されて、女性の本来の差異を喪失しているのである。この事態が、冒頭のような皮相な見解を生むことになったと言えよう。(p.s. 女性抑圧の事実から見て、西洋植民地主義による黒人や諸先住民精神文化の抑圧もあったと考えることができる。つまり、自己文化を喪失させられて、貶められたのである。そう、日本もそうである。神道文化を、連合軍占領と売国政治によって喪失させられ、文化的誇りを奪われ、貶められているのである。アメリカ的近代合理主義による隷属化である。)
 トランス・モダンとは、プラトニック・シナジー理論とは、女性の真の解放をもたらすだろう。それは、神道文化の復興でもある。
 
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 次に、超越光(正しく言えば、超越的エネルギー)の振動の問題である。超越的差異の即非共振という振動であるが、それは、端的に、どういうことなのか。つまり、そのイデア振動が、Media Pointにおいて、現象化するとはどういうことなのか。可視化するというのは、どういうことなのか。私は超越光は可視的であると思っているのである。つまり、差異共振視覚(視識)があるのであり、それで、超越光を視識するのである。
 可視化とは、端的に言えば、陽光が当たるということである。陽光がなければ、物質は闇である。しかしながら、光のあたらない物質・物体も、エネルギーであるから、超越光からできているのである。
 しかしながら、闇であるというのはどういうことなのか。それは、端的に、+1ということではないのか。それとも、-1ということなのか。これは、難問である。
 考えれば、光の当たらない物質の闇とは闇以前の闇、いわば、原闇であろう。この物質の原闇とは何だろうか。それは、内的には、光ではないのか。ただ、光が当たらないために、闇なのであり、それの実体は、内的光なのではないのか。つまり、原闇とは光であるということになるだろう。
 この考えは興味深い。何故なら、ダークマターの問題に関係しそうだからである。人間にとって、通常、光が当たらないと、ものは見えずに、無いと思ってしまう。つまり、可視化していないと、ものは存在していないと思ってしまうのである。
 問題は現象である。物質は光に当たらなくても現象しているのである。つまり、現象には、可視的現象と不可視的現象の二種類があるということではないだろうか。
 また、さらに考えると、超高振動のエネルギーを考えることができる。これは、同一性化しても、当然、不可視である。これも、不可視的現象に入れることができるだろう。
 そう、天文学を考えると、結局、可視的現象、可視的物質から計算しても、法則とはあわないことになり、ダークマターやダークエネルギーが考えられるようになり、今日では、その実在はほぼ確信されていると言えよう。それらは、ここで言う不可視的現象と関係するのではないだろうか。
 不可視なので、現象しているとは思われなかったのである。(これは、民衆の問題とも通じるだろう。民衆はいわば不可視に現象しているのである。官僚たちは、民衆が不可視である。資本主義の問題も、この点から見ないといけない。差異価値から同一性価値をつくっているのであるが、差異価値は不可視の価値である。)だから、不可視的現象としてのダークマターとダークエネルギーである。
 さて、ここで、光の可視性の問題を考えよう。可視性とは、当然、可視光性ということである。太陽系においては、日中は、陽光やその反射を見るのであり、夜は、電灯の光を見るのである。
 光とは、同一性でありながらも、同時に、差異共振性である。光の即非性があるのであるが、今日、ほとんど同一性の光しか見ていないのである。これは、視覚(視識)が同一性に限定されているからである。光は、同一性光であり、差異共振光(超越光)である。だから、視覚(視識)が超越性に開かれていれば、後者を視覚(視識)することはできるのである。
 さて、次に、光と物質の闇の関係について考察しよう。まず、光が物質の闇に当たるとしよう。そうすると、光が反射して、物質は可視的になる。物質に吸収されるエネルギーがあり、また、反射するエネルギーがあるということになる。 
 今は直感で言うのだが、物質に放射され、反射した光であるが、それは、超越光であり、かつ、同一性光であろう。そして、それを視覚するとき、超越光を受容するとき、差異共振性において、超越光として視覚し、同一性光は同一性光として視覚するのではないだろうか。
 先に、「観る」とは何かと問題提起したが、「観る」とは、内的光と外的光との差異共振的視覚(視識)であると言えよう。もっとも、差異共振性には、同一性を包摂しているのであるが。
 そう考えると、物質的科学においては、差異共振エネルギーを看過し、可視同一性現象に限定されているので、差異共振エネルギーが欠損しているということになるだろう。それが、ダークエネルギーに関係するように思えるのである。また、ダークマターについて言うと、やはり、物質自体が差異共振エネルギーをもっていると考えられることから、物質自体がダークマターではないのかと空想してみるのである。
 とまれ、現象界には、単に、同一性物質や同一性エネルギーだけではなく、差異共振物質(ダークマター)や差異共振エネルギー(ダークエネルギー)に満ちていると言えよう。そして、それは、Media Pointを介した高次元宇宙に存していると言えるだろう。これまでの、量子論や天文学は、四次元時空間に限定されていたので、超越性を取り込むことができずに、ダークマターやダークエネルギー等を抱え込み、理論的に解明できないのであるが、プラトニック・シナジー理論のように虚軸の差異共振的高次元を想定することで、解明できるように思えるのである。
 そう、現象宇宙は本来、高次元宇宙なのであるが、同一性主義に支配されているので、虚軸の超越的差異共振次元を看過して、四次元時空間に閉塞されているのである。資本主義がこの四次元時空間世界の経済である。しかしながら、トランス・モダン経済を考えると、それは、高次元経済であり、差異共振経済であると考えられるのである。トランス・モダン・エヴォリューションは近い。


2008年01月14日(Mon)▲ページの先頭へ
内的光の太母文化と父権的抑圧:女性の内的解放のトランス・モダン:四次元現象界から高次元現象界へ
ウィリアム・ブレイクの詩でmental travellerという象徴的な詩がある。それは、女性に支配された人間の生死を説くものである。ブレイクは、女性の意志を忌み嫌っていた。また、自然の生殖generationを嫌っていた。植物の生命を嫌っていた。そう、物質的世界を嫌っていて。一種、グノーシス主義である。(以下最初で、女性に対する中傷に当たることを言ったが、結果として、否定することになっていることをお断りしたい。)
 私は女性の愛情とは、同一性の生産・再生産に向けられた物質的生命体の性愛ではないだろうかと思ったのである。漱石は夫人に精神がないと嘆いていた。かつては、「女性は子宮で考えると」と俗に言われていた。「子宮」は正に、同一性の生産工場ではないだろうか。
 女性は、同一性を愛するのであり、差異を愛さないのではないだろうかとふと思ったのである。言い換えると、女性は現象を愛するのであり、超越性を愛さないのではないだろうか。もっとも、多くの例外があることは知っているが、あえて、一般的に言っているのである。もし、そうだとすると、太母子について考え直さないといけない。なぜなら、それは、同一性の生産・再生産になるからである。(また、生殖と資本主義の生産・成長についても考えなくてはならないだろう。)
 直感では、女性の愛情は現象と一如であり、精神と物質が融合しているのである。思うに、精神(差異)が現象(同一性)へと展開するのである。つまり、差異が同一性へと無碍に化成するのである。いわば、ドゥルーズの連続的差異である。しかし、それは、差異なのかと思う。差異ならば、同一性へと無碍に展開しないからである。
 どうやら、ここに女性の秘密がありそうである。差異があるが、Media Point において、連続化し、同一性=現象化する。この連続化が、女性の場合、男性よりも強度が強いのではないだろうか。男性の場合、差異から同一性が展開するとき、すべて同一性へと展開するのではなくて、差異が、純粋差異が残っているのである。だから、差異と同一性の齟齬があり、心的葛藤が生じるのである。
 垂直軸と水平軸との不連続性が、男性の場合には残っていると思うのである。それに対して、女性の場合は、不連続性が連続性で糊塗されるのではないのか。(連続性の糊塗とは、いわば、化粧である。)この差異が同一性へと連続的に同化吸収されるメカニズムは何なのか、これが問題である。 
 直感では、そこに、酔いがある。陶酔がある。幻惑がある。差異が同一性に酔うのである。心理学的には、ナルシシズムである。イデア論から言うと、差異は超越光であり、同一性は光である。すると、ナルシシズムとは、超越光よりも暗い光の影像に酔うことになるだろう。
 洞窟の影像に酔うのである。ということは、女性は内的な光が男性よりも暗いのではないだろうか。(勿論、例外の高貴な女性は存する。)内的光が暗いとはどういうことなのか。これも直感では、イデア振動が弱いというか、振動数が小さいのではないだろうか。
 そうすると、Media Pointでの変換において、同一性へと生成するが、そのとき、内的光は、現象性へと転化して、剰余の内的光が少なくなるということではないのか。
 男性の場合、高い振動数があり、同一性への転換によっても、剰余の内的光があり、それが、差異となるのではないだろうか。だから、女性には、内的な光は見えないことになるだろう。超越光は見えないのである。そう、女性には月の光が合うと言えよう。しかし、天照大神はどうなるのか。卑弥呼(日巫女、日観女?、霊観子?、日巳女?)はどうなのか。この問題を考えないといけない。女性は内的光を失ったのではないのか。
 思うに、本来、女性は内的光を見ていたが、父権宗教社会となり、それに従うことなった。本来、女性は太陽女神(天照御大神)を観ていたのである。しかし、父権社会になり、内的光・内的ヴィジョンが衰退したのではないだろうか。そのため、女性の視覚は同一性現象へと強く傾斜したのではないだろうか。つまり、女性の視覚は、父権社会によって、抑圧され洗脳されているのかもしれない。
 そう考えると、一見、現代社会において、女性は自由になったように見えるが、内的視覚・内的ヴィジョンの喪失という一種致命的な代償を払っているのではないのか。
 この問題は文化史・ジェンダー論的に実に本質的である。父権文化とは、同一性への傾斜であり、差異を否定する。この同一性主義文化において、女性の差異は否定・抑圧される。そして、女性が本来もっていた内的光が否定されて、洗脳される。しかし、民主主義の社会となり、男女同権等々と女性の権利が認められた。しかしながら、近代主義は同一性主義であり、女性の差異を認めていない。思うに、民主主義的同一性主義では、女性の差異を認めないのである。つまり、女性の忘却された内的光という差異を認めないのである。
 そう考えると、冒頭で、女性の愛情は同一性生産に向けられた物質的生命体の性愛ではないかと、中傷的なことを述べたが、それはおそらく皮相な事実であり、本来は女性が抑圧されていることの結果と見なくはならないのだろう。女性は、父権的同一性主義に洗脳されて、女性の本来の差異を喪失しているのである。この事態が、冒頭のような皮相な見解を生むことになったと言えよう。
 トランス・モダンとは、プラトニック・シナジー理論とは、女性の真の解放をもたらすだろう。それは、神道文化の復興でもある。
 
*****************
 
 次に、超越光(正しく言えば、超越的エネルギー)の振動の問題である。超越的差異の即非共振という振動であるが、それは、端的に、どういうことなのか。つまり、そのイデア振動が、Media Pointにおいて、現象化するとはどういうことなのか。可視化するというのは、どういうことなのか。私は超越光は可視的であると思っているのである。つまり、差異共振視覚(視識)があるのであり、それで、超越光を視識するのである。
 可視化とは、端的に言えば、陽光が当たるということである。陽光がなければ、物質は闇である。しかしながら、光のあたらない物質・物体も、エネルギーであるから、超越光からできているのである。
 しかしながら、闇であるというのはどういうことなのか。それは、端的に、+1ということではないのか。それとも、-1ということなのか。これは、難問である。
 考えれば、光の当たらない物質の闇とは闇以前の闇、いわば、原闇であろう。この物質の原闇とは何だろうか。それは、内的には、光ではないのか。ただ、光が当たらないために、闇なのであり、それの実体は、内的光なのではないのか。つまり、原闇とは光であるということになるだろう。
 この考えは興味深い。何故なら、ダークマターの問題に関係しそうだからである。人間にとって、通常、光が当たらないと、ものは見えずに、無いと思ってしまう。つまり、可視化していないと、ものは存在していないと思ってしまうのである。
 問題は現象である。物質は光に当たらなくても現象しているのである。つまり、現象には、可視的現象と不可視的現象の二種類があるということではないだろうか。
 また、さらに考えると、超高振動のエネルギーを考えることができる。これは、同一性化しても、当然、不可視である。これも、不可視的現象に入れることができるだろう。
 そう、天文学を考えると、結局、可視的現象、可視的物質から計算しても、法則とはあわないことになり、ダークマターやダークエネルギーが考えられるようになり、今日では、その実在はほぼ確信されていると言えよう。それらは、ここで言う不可視的現象と関係するのではないだろうか。
 不可視なので、現象しているとは思われなかったのである。(これは、民衆の問題とも通じるだろう。民衆はいわば不可視に現象しているのである。官僚たちは、民衆が不可視である。資本主義の問題も、この点から見ないといけない。差異価値から同一性価値をつくっているのであるが、差異価値は不可視の価値である。)だから、不可視的現象としてのダークマターとダークエネルギーである。
 さて、ここで、光の可視性の問題を考えよう。可視性とは、当然、可視光性ということである。太陽系においては、日中は、陽光やその反射を見るのであり、夜は、電灯の光を見るのである。
 光とは、同一性でありながらも、同時に、差異共振性である。光の即非性があるのであるが、今日、ほとんど同一性の光しか見ていないのである。これは、視覚(視識)が同一性に限定されているからである。光は、同一性光であり、差異共振光(超越光)である。だから、視覚(視識)が超越性に開かれていれば、後者を視覚(視識)することはできるのである。
 さて、次に、光と物質の闇の関係について考察しよう。まず、光が物質の闇に当たるとしよう。そうすると、光が反射して、物質は可視的になる。物質に吸収されるエネルギーがあり、また、反射するエネルギーがあるということになる。 
 今は直感で言うのだが、物質に放射され、反射した光であるが、それは、超越光であり、かつ、同一性光であろう。そして、それを視覚するとき、超越光を受容するとき、差異共振性において、超越光として視覚し、同一性光は同一性光として視覚するのではないだろうか。
 先に、「観る」とは何かと問題提起したが、「観る」とは、内的光と外的光との差異共振的視覚(視識)であると言えよう。もっとも、差異共振性には、同一性を包摂しているのであるが。
 そう考えると、物質的科学においては、差異共振エネルギーを看過し、可視同一性現象に限定されているので、差異共振エネルギーが欠損しているということになるだろう。それが、ダークエネルギーに関係するように思えるのである。また、ダークマターについて言うと、やはり、物質自体が差異共振エネルギーをもっていると考えられることから、物質自体がダークマターではないのかと空想してみるのである。
 とまれ、現象界には、単に、同一性物質や同一性エネルギーだけではなく、差異共振物質(ダークマター)や差異共振エネルギー(ダークエネルギー)に満ちていると言えよう。そして、それは、Media Pointを介した高次元宇宙に存していると言えるだろう。これまでの、量子論や天文学は、四次元時空間に限定されていたので、超越性を取り込むことができずに、ダークマターやダークエネルギー等を抱え込み、理論的に解明できないのであるが、プラトニック・シナジー理論のように虚軸の差異共振的高次元を想定することで、解明できるように思えるのである。
 そう、現象宇宙は本来、高次元宇宙なのであるが、同一性主義に支配されているので、虚軸の超越的差異共振次元を看過して、四次元時空間に閉塞されているのである。資本主義がこの四次元時空間世界の経済である。しかしながら、トランス・モダン経済を考えると、それは、高次元経済であり、差異共振経済であると考えられるのである。トランス・モダン・エヴォリューションは近い。


同一性主義のもつ心的脆弱さについて:差異の排除と邪心:Media Pointの構造点と超越点:第二版
これは私の経験からも言えることだが、同一性主義(近代合理主義/近代的自我)を信奉する人間の心には、有り体に言えば、弱さ、一種の脆弱さがあると思うのである。この心的脆弱さと同一性主義の関係を考察したい。
 これは、心的エネルギーの問題である。同一性主義へと志向しないと心的エネルギーが強化されないということなのだろう。
 心的エネルギーとは、Media Pointという心身の原点の様相である。(心身の観点から言えば、Media Pointは、イデア点でもいいだろう。イデア振動点、イデア波動点でもある。)Media Point(以下、暫定的に、イデア点とする)は、ここでは、差異の側面と同一性の側面が併存しているが、両者は対極的であり、引きつけあったり、反発したりしているのである。極性があるのである。
 この極性様態は、いわば、デリダの差延様態である。Aという事態に対して、イデア点は、Aでもあり、非Aでもあるという反応を起こすのである。
 この即非的様態が、主体における弱さを生み出すのではないだろうか。だから、主体は、ある事態に対して、同一性態勢を構築するのではないだろうか。これにより、イデア点の差異側面を排除して、同一性データで事態に対処して、「安心」するのである。
 結局、この同一性態勢が同一性主義となり、近代合理主義/近代的自我となるだろう。それは、差異を恐れているのである。この差異への恐怖が、いわば、邪悪な心性となるのだろう。猜疑心、嫉妬、悪意、侮蔑、妄想、等々の邪心を生み出すだろう。
 当然、同一性主義は、心的脆弱さへの保障であるから、自我肯定・自尊心・慢心・傲岸さ等を生むのである。自我主義(無明)・利己主義である。【p.s.  ここで、経済について言うと、サブプライムローン問題についてであるが、それは、正に、同一性主義に駆動されていて、非理性主義(理性はMedia Pointの知に存する)なのである。つまり、心的脆弱さから発する同一性主義とは、ただただ同一性=同一性交換価値を追求する狂気であるということになるのである。パラノイアとも言えよう(メルヴィルの『白鯨』の白鯨モゥビィ・ディックを追求する偏執狂・モノマニアのエイハブ船長である)。同一性価値が排除的中心価値となり、差異・差異共振価値を排除しているのである。p.p.s. 同一性が同一性をさらに追求する連鎖があるのである。これを同一性連鎖ないしは過剰同一性主義と呼んでもいいだろう。これが狂気である(p.s.  真理とは、差異を基盤とした同一性の構築にあり、常に、差異と同一性との絶えざる創造的対話によって進展していくものと考えられる。しかるに、同一性主義は、同一性に基盤をおいて、さらに、同一性を追求するので、没真理・誤謬・妄想・妄念、端的に、狂気なのである。)。差異排除である。同一性以外に差異を認識すれば、同一性に対する相対的認識(真の理性認識)が生まれて、同一性に対する批判精神が生まれて、たとえば、サブプライムローンに没入することはなかったはずである。そう、批判精神とは、差異の感識・意識・知から発していると言えよう。現代日本人に批判精神が欠落しているのは、差異がないからである。また、マスコミが鋭敏な批判精神が欠落して、御用新聞・御用メディアとなっている原因も、やはり、差異の精神が欠如しているからである。(批判と非難は異なる。)「マス」(多量、大量、塊)という発想がいかにも同一性主義である。マスコミの終焉があると言えよう。ミクロ・コミ/ミクロ・メディアの時代である。そう、また、戦後の終焉である。トランス・ポスト・ウォーである。】
 以上で、本件は解明が終わったが、付加して、同一性主義と構造主義との関係をみたいのである。同一性主義とは、イデア点における同一性の極大化である。そして、構造主義とは、イデア点における同一性志向性を中心化させたものである。
 そう見ると、両者は、イデア点における差異の排除と同一性の中心化という点で共通していると言えよう。つまり、近代合理主義と構造主義は一致するということであろう。ただし、構造主義は、同一性主義の自覚という点では、一歩前進してはいるのである。言い換えると、構造という発想自体が、超越論性をもっていて、それが、単なる同一性主義とは区別されるということになる。
 そして、構造はイデア点にあるのであるが、正確に言えば、イデア点の実軸に存しているのである。私は先にそれを構造点と呼んだのである。整理すると、

Media Point(イデア点)⇒構造点⇒構造主義⇒同一性主義

となる。
 ここでついでながら、ポスト・モダンの意味について再確認すると、ポスト・モダンないしはポスト構造主義とは、構造点を指摘した理論であった。デリダの場合、それが差延であり、ドゥルーズの場合は、差異(微分)であった。
 しかしながら、差延という概念において、差異と同一性との、連続性と不連続性との揺らぎ(脱構築性)を説いた点では、デリダ哲学の方が、ドゥルーズ哲学よりも進んでいたと言えよう(これまでは、デリダ哲学にも、差異と同一性との連続性を見たが、それは間違いであったので訂正しておきたい)。
 とは言え、デリダはフッサールを批判して、ハイデガーを肯定的に捉えているので、フッサール現象学のブレークスルーであった超越性の観念を否定してしまい、構造点の揺らぎで留まり、袋小路に陥ったと考えられるのである。
 結局、ポスト・モダン理論とは、Media Pointの構造点を指摘した理論であり、デリダはそこの実軸における揺らぎを指摘し、ドゥルーズはそれを連続化して差異を微分化したのであり、両者はフッサールが到達したイデア点の超越性には届かなかったのである。いわば、Media Pointの超越点には達しなかったのである。
 これまで述べてきたように、ポスト・モダン理論は、ハイデガー哲学の影響下にあると考えられるのであり、フッサール現象学(ハイデガー哲学は、似非現象学である。ハイデガー哲学は、あえて言えば、構造点哲学である。)を看過しているのである。正確に言えば、フッサール現象学(あえて言えば、超越点哲学である。)のブレークスルーである超越性(超越論的主観性)を理解できなかったのである。
 ここでさらに追求するなら、どうして、フッサール現象学のブレークスルー(本当は、イデア論的高次元の再発見である)が看過・無視されたのか、である。哲学史上は、いちおう、現象学の画期性を説かれているが、それが真に理解されなかったと考えられるのである。この原因は、やはり、これまで述べてきたように、フッサールの「弟子」のハイデガーであると考えられるのである。
 超越論的主観性から存在への切り替えが問題である。存在については、後述するが、問題点をあげると、フッサールに残っていた同一性の志向性が揚げ足を取られたと思うのである。
 さて、存在について言うと、ハイデガーは華々しく、と言うか、野心的に、乃至は、はったり的に、西洋哲学史における存在忘却と言うが、存在をプラトニック・シナジー理論的に見ると、それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における-iを中心化した哲学ではないだろうか。確かに、西洋哲学においては、+iが常に中心化されてきた。だから、-iが忘却されてきたというは、ある意味では正しいが、しかしながら、差異共振性という根源を考えると、それは、同一性主義に対する反動なのである。確かに、ある主の差異主義であるが、それは、同一性を否定するのである。つまり、反動的差異主義なのである。これは、ポスト・モダンのアイロニカルな没入とほぼ同じ事態である。-iを過大視して、反動化するのである。認識という同一性に対して、存在という差異を言うが、反動的に同一性に没入するのである。
 ハイデガーの説く本来的存在とは、正に、差異をもつものの同一性(自我)へと収斂するのである。そして、それは、無に対しているのである。この無は反動によって、差異共振性を否定したところに発生する無である。暗い無である。(仏教等の無・虚無は、明るい無と言えよう。)
 最後に推測的に補足すると、後期ハイデガーであるが、結局、差異の反動から神秘主義へと展開しているように思えるのである。問題はやはり反動であるから、神秘的同一性に帰してしまうことである。これは、差異共振的一(いつ)ないしは即非的一とは似て非なるものである。神秘的同一性は、全体主義に通じると考えられるのである。【D.H.ロレンスの神秘思想は、一見、ハイデガー哲学に似ているが、基本的には異なると見るべきである。ロレンスは基本的には、三元論であり、差異共振性を聖霊として考えているのである。確かに、一時期、ハイデガーのように、-i=身体性(=存在)へと傾斜したが(dark Godを説いた)、晩年期には、それから脱して、差異共振性へと回帰したと考えられる。】


同一性主義のもつ心的脆弱さについて:差異の排除と邪心:Media Pointの構造点と超越点
これは私の経験からも言えることだが、同一性主義(近代合理主義/近代的自我)を信奉する人間の心には、有り体に言えば、弱さ、一種の脆弱さがあると思うのである。この心的脆弱さと同一性主義の関係を考察したい。
 これは、心的エネルギーの問題である。同一性主義へと志向しないと心的エネルギーが強化されないということなのだろう。
 心的エネルギーとは、Media Pointという心身の原点の様相である。(心身の観点から言えば、Media Pointは、イデア点でもいいだろう。イデア振動点、イデア波動点でもある。)Media Point(以下、暫定的に、イデア点とする)は、ここでは、差異の側面と同一性の側面が併存しているが、両者は対極的であり、引きつけあったり、反発したりしているのである。極性があるのである。
 この極性様態は、いわば、デリダの差延様態である。Aという事態に対して、イデア点は、Aでもあり、非Aでもあるという反応を起こすのである。
 この即非的様態が、主体における弱さを生み出すのではないだろうか。だから、主体は、ある事態に対して、同一性態勢を構築するのではないだろうか。これにより、イデア点の差異側面を排除して、同一性データで事態に対処して、「安心」するのである。
 結局、この同一性態勢が同一性主義となり、近代合理主義/近代的自我となるだろう。それは、差異を恐れているのである。この差異への恐怖が、いわば、邪悪な心性となるのだろう。猜疑心、嫉妬、悪意、侮蔑、妄想、等々の邪心を生み出すだろう。
 当然、同一性主義は、心的脆弱さへの保障であるから、自我肯定・自尊心・慢心・傲岸さ等を生むのである。自我主義(無明)である。【p.s.  ここで、経済について言うと、サブプライムローン問題についてであるが、それは、正に、同一性主義に駆動されていて、非理性主義(理性はMedia Pointの知に存する)なのである。つまり、心的脆弱さから発する同一性主義とは、ただただ同一性=同一性交換価値を追求する狂気であるということになるのである。パラノイアとも言えよう(メルヴィルの『白鯨』の白鯨モゥビィ・ディックを追求する偏執狂・モノマニアのエイハブ船長である)。同一性価値が排除的中心価値となり、差異・差異共振価値を排除しているのである。】
 以上で、本件は解明が終わったが、付加して、同一性主義と構造主義との関係をみたいのである。同一性主義とは、イデア点における同一性の極大化である。そして、構造主義とは、イデア点における同一性志向性を中心化させたものである。
 そう見ると、両者は、イデア点における差異の排除と同一性の中心化という点で共通していると言えよう。つまり、近代合理主義と構造主義は一致するということであろう。ただし、構造主義は、同一性主義の自覚という点では、一歩前進してはいるのである。言い換えると、構造という発想自体が、超越論性をもっていて、それが、単なる同一性主義とは区別されるということになる。
 そして、構造はイデア点にあるのであるが、正確に言えば、イデア点の実軸に存しているのである。私は先にそれを構造点と呼んだのである。整理すると、

Media Point(イデア点)⇒構造点⇒構造主義⇒同一性主義

となる。
 ここでついでながら、ポスト・モダンの意味について再確認すると、ポスト・モダンないしはポスト構造主義とは、構造点を指摘した理論であった。デリダの場合、それが差延であり、ドゥルーズの場合は、差異(微分)であった。
 しかしながら、差延という概念において、差異と同一性との、連続性と不連続性との揺らぎ(脱構築性)を説いた点では、デリダ哲学の方が、ドゥルーズ哲学よりも進んでいたと言えよう(これまでは、デリダ哲学にも、差異と同一性との連続性を見たが、それは間違いであったので訂正しておきたい)。
 とは言え、デリダはフッサールを批判して、ハイデガーを肯定的に捉えているので、フッサール現象学のブレークスルーであった超越性の観念を否定してしまい、構造点の揺らぎで留まり、袋小路に陥ったと考えられるのである。
 結局、ポスト・モダン理論とは、Media Pointの構造点を指摘した理論であり、デリダはそこの実軸における揺らぎを指摘し、ドゥルーズはそれを連続化して差異を微分化したのであり、両者はフッサールが到達したイデア点の超越性には届かなかったのである。いわば、Media Pointの超越点には達しなかったのである。
 これまで述べてきたように、ポスト・モダン理論は、ハイデガー哲学の影響下にあると考えられるのであり、フッサール現象学(ハイデガー哲学は、似非現象学である。ハイデガー哲学は、あえて言えば、構造点哲学である。)を看過しているのである。正確に言えば、フッサール現象学(あえて言えば、超越点哲学である。)のブレークスルーである超越性(超越論的主観性)を理解できなかったのである。
 ここでさらに追求するなら、どうして、フッサール現象学のブレークスルー(本当は、イデア論的高次元の再発見である)が看過・無視されたのか、である。哲学史上は、いちおう、現象学の画期性を説かれているが、それが真に理解されなかったと考えられるのである。この原因は、やはり、これまで述べてきたように、フッサールの「弟子」のハイデガーであると考えられるのである。
 超越論的主観性から存在への切り替えが問題である。存在については、後述するが、問題点をあげると、フッサールに残っていた同一性の志向性が揚げ足を取られたと思うのである。
 さて、存在について言うと、ハイデガーは華々しく、と言うか、野心的に、乃至は、はったり的に、西洋哲学史における存在忘却と言うが、存在をプラトニック・シナジー理論的に見ると、それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における-iを中心化した哲学ではないだろうか。確かに、西洋哲学においては、+iが常に中心化されてきた。だから、-iが忘却されてきたというは、ある意味では正しいが、しかしながら、差異共振性という根源を考えると、それは、同一性主義に対する反動なのである。確かに、ある主の差異主義であるが、それは、同一性を否定するのである。つまり、反動的差異主義なのである。これは、ポスト・モダンのアイロニカルな没入とほぼ同じ事態である。-iを過大視して、反動化するのである。認識という同一性に対して、存在という差異を言うが、反動的に同一性に没入するのである。
 ハイデガーの説く本来的存在とは、正に、差異をもつものの同一性(自我)へと収斂するのである。そして、それは、無に対しているのである。この無は反動によって、差異共振性を否定したところに発生する無である。暗い無である。(仏教等の無・虚無は、明るい無と言えよう。)
 最後に推測的に補足すると、後期ハイデガーであるが、結局、差異の反動から神秘主義へと展開しているように思えるのである。問題はやはり反動であるから、神秘的同一性に帰してしまうことである。これは、差異共振的一(いつ)ないしは即非的一とは似て非なるものである。神秘的同一性は、全体主義に通じると考えられるのである。【D.H.ロレンスの神秘思想は、一見、ハイデガー哲学に似ているが、基本的には異なると見るべきである。ロレンスは基本的には、三元論であり、差異共振性を聖霊として考えているのである。確かに、一時期、ハイデガーのように、-i=身体性(=存在)へと傾斜したが(dark Godを説いた)、晩年期には、それから脱して、差異共振性へと回帰したと考えられる。】


2008年01月13日(Sun)▲ページの先頭へ
宗教性とは何か:知を介した「心」のエネルギー:心身の源泉としてのイデア振動
今は簡単に述べるが、机に散らかっている、もう聴く気がしないCDを見て、いい音楽の宗教性ということを思った。
 ブックオフに売ってしまいたいCDと取っておきたいCDが分別され、後者には、宗教性があると思った。宗教性とは何だろうか。前者にも宗教音楽があるが、演奏には宗教性が感じられないのである。
 どうも、私の感識において、いい演奏と悪い演奏がはっきり区別されてきたようである。かつてはいいと思った演奏も今聴くとつまらないのである。宗教性の有無が弁別の徴である。
 宗教性と言っても、信仰有無ではないのである。私には特定の信仰はない。ただ、超越的エネルギーは信じているのである。だから、それが宗教性と言えるが、説明が必要である。
 直感で言うと、宗教性とは、リリシズムである。しかし、いったん知を介したそれである。これは、トランス・モダン・リリシズムと言えるだろう。
 このリリシズムのエネルギーが宗教性である。思うに、これは、単に音楽だけでなく、芸術の判断基準である。美術も文学も映画等も、これがあるかどうかで優劣が決まると思う。
 今日、芸術が死んでいるのは、モダニズムによるリリシズムの破壊によると考える。クラシック音楽(classical music)で言えば、現代音楽は、一般には、死んだものだろう。20初期において、死んでしまったのだ。根源的なエネルギーがあるが、今や、知を介して、「心」に響くものでなくては芸術とはならない。
 では、宗教性、トランス・モダン・リリシズムは、プラトニック・シナジー理論ではどう解明できるだろうか。そう、それは、端的に、差異共振性である。差異共振様態である。
 今はここで留めておく。思うに今日、時による淘汰が起こっていると思う。カラヤンは元より、バースタインも淘汰されるだろう。もっとも、少数のいいものは残るだろうが。
 そう、現在は、黙示録のエポックなのである。モダンとポスト・モダンの死滅、そして、トランス・モダンの生成である。

p.s. また、心というものも検討し直す必要がある。私が考えている心とは、心なのか。そうではなくて、イデア・エネルギーではないのか。つまり、 Media Pointのエネルギーではないのか。そこから、心と身体が発生するのである。つまり、心と身体を創造する根源を考えなくてはならない。
 以前、魂質という言葉を考えた。つまり、魂と質料が一如のものである。それは折衷的である。魂という言葉を使うことができるかもしれない。魂が心と身体に分化するということになる。Media Pointである。Media Point Energyである。これが、宗教性であり、心と身体を生み出すものである。
 魂という言葉は精神的傾斜がある。だから、イデアの方がいい。イデアが心をつくり、身体もつくるのである。イデアが知を形成し、また、感覚をつくるのである。認識が同時に存在なのである。
 思うに、イデアの振動の違いによって、心となり、身体となるのではないだろうか。そう、イデア振動である。これが源泉・根源・源流である。


2008年01月11日(Fri)▲ページの先頭へ
トールキンのいう準創造とは何か:同一性主義から差異共振主義へ:近代からトランス・モダンへ
今は余裕がないので、詳しく論じられないが、トールキンが『指輪物語』で目指しているのは何だろうかと思う。ファンタジーを一見逃避的であるが、それほど単純ではない。
 私は『指輪物語』を読んで、ヴィジョンのもつ現実喚起力を感じた。簡単に言えば、想像力である。また、私はダンテの『神曲』も想起した。ヴィジョンの力とは、夢のもつ力と同質だと思う。
 とまれ、今簡単に言うと、言語という同一性をもちいて、ヴィジョンを喚起する。このヴィジョンは何なのかということである。リアリズムならば、言語同一性が、同一性主義へと展開して、四次元時空間的現象世界を喚起する。しかし、ファンタジーは、言語同一性がヴィジョンへと展開する。これはどういうことなのか。
 そう、内的なヴィジョンと言語同一性が結びつくのである。内的なヴィジョンとは、端的に、差異共振的なエネルギー、つまり、超越的光のヴィジョンである。だから、夢のヴィジョンときわめて似ていると思う。そう、同一性を包摂した差異共振的ヴィジョンであり、トランス・モダン的想像力と言えそうである。今日、ファンタジー・ブームが続いているのは、トランス・モダン的想像力が一般にはたらいているからではないだろうか。同一性主義のように四次元時空間にヴィジョンを展開するエネルギーが少なくなり、差異共振的なエネルギーが活性化しているので、ファンタジーを受け入れられているのではないだろうか。つまり、同一性主義への志向から、差異共振主義への志向へとエネルギーが傾斜しているからではないのか。
 トランス・モダンとしてのファンタジーである。これは、ファッションでも確認できたことである。


2008年01月10日(Thu)▲ページの先頭へ
同一性主義の視覚と差異共振視覚が混淆している近代文化
同一性主義の視覚と差異共振視覚が混淆している近代文化:トランス・モダンと魂

簡明化するため、前者を同一性視覚、後者を差異視覚と呼ぼう。この二種類の異質な視覚が混淆し、分裂しているのである。思うに、芸術上のモダニズムとは、この混淆様態にあったが、主導的であったのは、同一性視覚である。そのために、近代主義に囚われたままであった。
 思うに、シュタイナーのオカルティズムも、この面があると思う。モダンの同一性主義に囚われて、差異共振エネルギーを把握しようとしたのである。彼の説く霊・スピリットとは、同一性から見た差異共振エネルギーであり、構造化されたそれである。だから、いわば、霊的唯物論なのである。同一性の枠・フレームから差異共振エネルギー(超越エネルギー)を捉えようとしたのである。しかしながら、それでは、近代主義のままである。霊・スピリットではなく、イデアなのである。エイドス・テオーリアを捉えなくてはならないのである。
 ところで、プラトン哲学の魂とはどうなるだろうか。そう、世界霊魂という発想がプラトンにあった。それもどうなるのか。一つの魂も結局、世界霊魂だと思う。一即全である。ウィリアム・ブレイクが説くような神秘思想は正しいのである。(思うに、神秘学とオカルティズムは異なるだろう。前者は、心で感じた思想であり、直截的なのであるが、後者は頭で創った霊的思想である。モダニズムである。)
 結局、「わたし」の「魂」とは、世界・宇宙霊魂anima mundiである(漫画『風の谷のナウシカ』にもこの思想はある)。それは、Media Point である。思うに、Media Point は一(いつ)であり、全であり、また、多である。ただし、即非様相である。つまり、「わたし」という物質的個体は多様性の一つである。自我的個体である。これは否定できない。物質的個体としての自我としての「わたし」である。しかしながら、「わたし」は個・差異・自己・魂としては全であり、多である。永遠である。アダム・カダモンである。この物質的個体と心的一との即非態があるのである。
 では、問題は、物質的個体としての自我の「わたし」の記憶はどうなるのかである。たとえば、オフィスの窓から見える桜の樹の知覚・記憶はどうなるのか。記憶もエネルギーである。つまり、同一性の記憶とはどうなるのか、ということである。ここは、微妙・霊妙なポイントである。思うに、魂の同一性の感受性があり、それが、記憶しているのではないだろうか。つまり、Media Pointにおいて、記憶されるのではないだろうか。これが、プラトンの言う想起に通じるだろう。あるいは、前世の記憶に通じるだろう。
 そう、魂は一であり、同時に、多なのである。私の魂は、特異性である。私以外の何者のものではないのである。この魂がいわば永遠の記憶をもつのである。物質的身体が消滅するとき、魂はMedia Point に還元されるのである。これがあの世・イデア界・彼岸である。そこで、叡知を学び、この世での学習の清算をするのである。そして、不合格ならば、再び、この世に生まれ変わるのである。魂の永遠の旅である。魂の永遠回帰である。そう、来世では、また、生まれ変わった人たちに出会うのであろう。
 
 ところで、同一性主義の視覚と差異共振主義の視覚の混淆の問題にもどって、さらに精緻に考えたい。つまり、この混淆様態はどうなっているのか、ということである。前者は後者を排除するので、パラドクシカルである。前者は後者を排除しようとする。相互否定、絶対矛盾である。
 しかしながら、両者は併存しているのである。もっとも、二元論的になっているが。問題は同一性である。差異共振主義は同一性を包摂するのである。だから、同一性という点では、両者は共通性をもつのである。つまり、矛盾する両者の共通点として、同一性があるのである。

____________

A

同一性主義

四次元・現象次元
____________

B

同一性

____________

C

差異共振主義

五次元・高次元

____________

以上の図から、AとCは、矛盾するが、Bにおいて共通すると言える。では、視覚においてどうなるのだろうか。
 ここは実に微妙である。同一性自体にも違いがあると思う。先に、仮象について論じたとき分けたように、アポロの美があるのである。それは、同一性ではあっても、超越性をもっているのである。だから、上図は不十分である。

__________

A

同一性主義

__________

B

構造的同一性

__________

C

超越的同一性

__________

D

差異共振性

__________

(注意:先にヤハウェを超越的同一性と言ったが、Cの超越的同一性はそれとは意味が異なる。ヤハウェは、CからBへの志向性であると思う。だから、構造的同一性と呼ぶのが適切ではないだろうか。)

アポロの美とは、Cのこととなる。そして、物質的同一性はBとなるのであり、近代主義における表面性を意味する。
 では、本件の問題に戻るとどうなるだろうか。つまり、同一性主義と差異共振主義の混淆である。思うに、混淆という概念は、間違ってはいないが、不十分でである。同一性主義は、AとBであり、CとDを抑圧しているのである。端的に、二項対立構造である。つまり、分裂である。だから、分裂的混淆様態というのが正しいことになる。
 もっと精緻に言うと、同一性主義視覚は、同一性において、BとCを混同しているのではないのか。そう、これは、実に微妙であるが、そのように思えるのである。近代主義は、CとDとを抑圧するが、同一性の点で、CとBと混同して知覚認識しているのではないだろうか。構造とイデアの混同と言ってもいいだろう。一種錯視である。(思うに、フッサールは、Cを捉えたが、それを、Bのように記述しているのではないのか。ハイデガーは、Cを看過して、Bを存在としたのではないだろうか。)
 先に問題として、美と奇麗さであるが、Bが奇麗さであり、Cが美であるが、近代主義では混同しているので、美と奇麗さを混同するのである。美人と麗人を混同するのである。だから、本来、アポロ的な美も、奇麗さと混同されているのである。錯誤があるのである。【思うに、ウィリアム・ブレイクも、この点を指摘していたように思う。ヴァラValaとエマネーション(流出:emanation)の違いである。】
 また、差異共振性を否定しているので、同一性主義は、当然、心の美(魂の美)を感識することができないのである。たとえば、ご来光も、同一性の範疇で捉えるので、それが、差異共振性をもっていることを視識できないのである。
(ここで、先の考察を訂正する必要がある。アポロの美を超越的同一性に限定したが、超越光は単にアポロ的美だけでなく、ディオニュソス的な光の美をもたらすのではないか。ご来光に見るのは、単にアポロ的美だけでなく、ディオニュソス的美でもないのか。つまり、古典主義的美だけでなく、ロマン主義的美でもあるということではないのか。そう、アポロとディオニュソスとは一つであろう。イシスとオシリスは一つであろう。聖母子である。超越光とは、ディオニュソスであり、且つ、アポロである。
 ここで、今想起していることを記すと、Media Pointにおいて、超越的エネルギー(超越的エネルゲイア)があり、それが、ディオニュソス/アポロである。ディオニュソスは、思うに、総体であり、アポロはその原形である。あるいは、原同一性である。
 そして、それが、実軸化すると、同一性構造になるのである。この超越性から同一性構造への志向性がヤハウェないしはヤハウェ衝動であろう。(この同一性構造を存在にしたのが、ハイデガーである。フッサールは、超越性を超越論的主観性という用語において捉えたと考えられるのである。ハイデガーは、フッサールのブレークスルーを完全に看過した。いわば、邪悪な弟子である。)
 とまれ、超越的エネルギーに戻ると、総体がディオニュソスと言ったが、振動がディオニュソスと言うほうが的確であるようだ。そして、その振動のもつ「形相」・エイドス・イデア・テオーリアがアポロと考えられるのである。
 そして、それの実軸点が構造点である。この構造点は、構造であり、かつ、ポスト・モダンの差異の点である。丁寧に説明すると、虚軸性を喪失した実軸だけの点が構造点であり、構造である。しかし、この原点において、なんらか虚軸性が関わるのが、ポスト・モダンである。しかしながら、デリダは、原点(Media Point・特異点)に痕跡=差延を見るだけであり、超越性を否定し、ドゥルーズは、原点を連続性=同一性の側から捉えてしまい、微分=連続的差異にしてしまったのである。
 今は、ここで留めたい。

p.s. 本件の問題について、まとめると、同一性視覚と差異視覚の混淆についてであるが、結局、簡単に言えば、両者を連続化しているということになるだろう。だから、差異・超越性が、同一性化されているのである。二番目の図から言うと、BとCとを混同しているのである。本当は、BとCとは、即非関係にあるのである。

p.p.s. ここで、プラトンの『ティマイオス』を考えると、有名な、あらゆるを受容した形をとるコーラとは、ディオニュソス=振動のことではないだろうか。そして、デミウルゴス(創造神)が創る宇宙であるが、彼は、構造的同一性から作るように思えるのである。つまり、既に、実軸化したところから構築するのである。
 とまれ、プラトンはまったく正しく観ていたと思う。イデアとは、Media Pointの超越性である。そして、現象はMedia Pointを介して、実軸化された影像である。『国家』の有名な洞窟の比喩で言うと、洞窟の外部の太陽がイデア(善のイデア)であり、洞窟の開口部がMedia Pointであり、影絵の実物が構造(Media Pointの実軸)であり、スクリーンの映像が現象であろう。


2008年01月09日(Wed)▲ページの先頭へ
西洋近代の終焉:同一性中心主義から差異共振性への超越的上昇:トランス・モダン・エヴォリューション
我ながら、以下の駄文は長過ぎるというか冗長である。ポイントを簡単に述べたい。

 西洋近代とは、太母文化(差異文化)と父権文化(同一性・連続性文化)の折衷であるが、父権文化が主導的なのである。しかし、今日、差異が賦活されているので、前者へと回帰する志向にあるのである。しかるに、父権文化の連続性のために、前者へと純粋に回帰できない反動の事態が起きている。ポスト・モダン思想がそうであった。
 しかし、プラトニック・シナジー理論は、差異への純粋な回帰を説いている思想であり、反動を乗り越えることができ、それは、トランス・モダンの世界的潮流を解明しているのである。
 現代日本は、近代主義(同一性主義・近代合理主義)に洗脳されている(近代的自我の形成)ので、この動きに気づかず、反動的な自滅に向かっている。同一性主義から差異へと意識・知性を転換する必要がある。

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直前の論考のタイトルを変更した。

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先の論http://ameblo.jp/renshi/
entry-10064779052.html
の追記が長くなったので、ここで独立させることにする。

以下の拙文では、同一性視覚ということが近代的自我形成の契機となっている。同一性視覚も同一性志向性も同じである。最初に、同一性視覚/志向性が生まれたのである。これが、いわば、人類の「原罪」である。しかし、これは、根因は自然にあるのである。だから、自然の「原罪」である。自然は、人類が同一性を先行させるように生んだのである。
 しかしながら、太母文化社会については、考えないといけない。それは、同一性が先行していない。それは、同一性と差異とが未分化であると考えられる。だから、自然の「原罪」云々は誤りである。ここで訂正したい。
 結局、父権文化が西欧近代において主導的になり、同一性が先行することになり、近代的自我/近代合理主義が生起したのである。
 そうすると、本文で述べたMedia Pointからの同一性志向の先行性という考えは、父権文化に当てはまる考えであり、太母文化には、当てはまらないということになる。
 しかしである。Media Pointを太極と見れば、陰陽原理が作用するので、同一性化=陽化の先行性はそれなりに肯定できるのかもしれない。しかし、易において、陽から始まるのだろうか。調べてみよう。
 よくわからないが、やはり、陽の方が陰より先行しているようである。しかしながら、陰陽という言い方は、陰が先だから、なにか易には強いている面があるように思える。
 とまれ、前父権文化において、Media Point=太極太母文化があったと考えられる。これは、陰陽バランスの文化であり、陽へと傾斜すれば、陰へのバランスを取る智慧をもっている。陽=同一性、陰=差異とすれば、同一性と差異とのバランスをとっていたの文化である。偉大な文化である。
 しかるに、人類文化史において、父権文化が主導的になる。そうすると、Media Point=太極太母文化が崩壊して、陽=同一性へと傾斜した文化になり、陰=差異は否定されることになるのである。ユダヤ・キリスト教西洋文明はこの徹底化である。
 ということは、太母文化における同一性と父権文化における同一性とは意味が異なるのである。太母文化においては、同一性は徹底化されることはなく、差異がそれを補完するのである。同一性の志向性に対して、差異の志向性が発生するという対極性があったのである。
 それに対して、父権文化では、同一性が徹底化して、差異が否定・排除・隠蔽されるのである。同一性中心主義である。結局、同一性への志向性は、二種類あるということになる。太母型同一性化と父権型同一性化である。太極型(三元論型)と二元論型である。言い換えると、差異共振型と同一性中心主義型である。
 思うに、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1は、両方を含んでいると言えよう。即ち、左辺は太母型(太極型)であり、右辺は父権型(二項対立型)であるということになる。これで明快になる。
 私がこれまで、異常に執念深く、執拗に批判的解明を追求してきた近代的自我とは、右辺中心主義であり、左辺を否定・排除・隠蔽しているのである。
 しかしながら、西欧近代ではなく、西洋近代文化の問題は、単に、右辺中心主義だけではなく、左辺を賦活させていることである。これは、既述したように、ルネサンスとプロテスタンティズムの併存を意味するのである。(これは、イエス・キリスト自体に源流があると言えよう。そう、占星術では、イエス・キリストは双魚宮・魚座を意味するのであり、おそろしく的確である。)差異と同一性を併存させているが、しかし、同一性が支配的・主導的なのである。(民主主義の問題もこの視点から見る必要がある。)
 整理すると、西洋近代文化とは、同一性主差異従の関係にあると言えよう。単純な父権文化ではないのである。
 また、さらに考えなくてはいけないのは、太母型と父権型に分類したが、先に述べたように、父権型とは太母型の反転と見られるのであるから、根本は太母文化であり、父権文化はその派生であるということである。
 だから、西洋近代文化は、実に複雑な様態であることがわかるのである。(イエス・キリスト型、双魚宮型と見ればいいのであるが。双魚宮の尾の紐を、差異と同一性との連続性と見ることができよう。)そして、ポスト・モダンとは、その様態における差異ないしは太母文化への志向性であったが、差異が同一性と連続化しているので、純粋に、差異、即ち、Media Point=太極へと回帰できなかったのである。ポスト・モダン思想の限界を確認することが必須である。
 結局、整理すると、西洋近代において、 Media Pointの発動があったが、それが父権文化によって、いわば、歪んだものになっているのである。父権的同一性主義志向(連続性への志向)が太母的差異主義志向を抑圧しているのである。ここでは、二つの志向性が矛盾しているのであるが、結局、自然・コスモスの生成流動を考えると、明らかに、同一性から差異へと進行していると見ることができるのである。つまり、Media Pointの回転において、同一性=陽の主導性が終焉して、差異=陰の主導性へと転換していると考えられるのである。これは、当然ながら、Media Point=太極=太母文化の復活を意味しているのである。
 思うに、数千年ないしは何千年に渡る人類父権文化の支配が今や終焉を迎えている自然・コスモス状況になったと思われるのである。同一性中心主義の支配が終焉しつつあるのである。それは、太極で言えば、陽(=同一性中心主義)中心主義が終り、陰が新たに発動しているのである。つまり、本来のMedia Point、太極原理が発現していると考えられるのである。
 陽極(同一性)の支配が終り、陰極(差異)が賦活され出したのである。しかしながら、同一性とは本来的に、連続性であり、差異を差異として認識不可能なのである。この同一性と差異との異質性に注目しなくてはならない。同一性=連続性の反動がここで起るのである(参照:アイロニカルな没入)。差異が飛翔しようとしても、同一性=連続性の拘束によって、同一性へと逆戻りしてしまうのである。つまり、モダンの乗り越えのつもりがモダンへと回帰するのである(これは、例えば、かつては、日本のポスト・モダンの旗手であった柄谷行人氏の今日のモダン回帰を見ればいいだろう。また、ブッシュ/ネオコンもそうである。そして、サブプライムローン問題もそうである。小泉似非改革もそうである。)
 いわば、人類文化史の鬼門に達していると言えよう。思うに、現在は、人類史上、最大の転換点・分岐点に達しているのではないだろうか。
 賦活された差異へと純粋に飛躍することができないである。超大反動である。だから、様々な狂気・傲慢・暴力・犯罪が起るのである。結局、父権文化=同一性中心主義の縛りを突破することが最大の課題である。これがあるために、賦活された差異が否定・抑圧・隠蔽されて諸々の狂気を生みだしているのである。
 しかし、不連続的差異論、さらにその深化・進展であるプラトニック・シナジー理論が生まれて、理論的には、この同一性中心主義の縛りが突破されたのである。これは、端的に、ユダヤ・キリスト教西洋文明の終焉を意味すると考えられるのである。つまり、新たな差異の文化、Media Point=太極・太母の文化が発動し出したと言えるのである。それは、トランス・モダンの動きである。それは、今日の世界の動き・潮流に見いだすことができるのである。
 そう、ここで経済について言うと、同一性中心主義であった資本主義もこれで終焉することになるだろう。もはや、同一性(=同一性貨幣)ではなくて、差異を人類が追求するようになるからである。(因みに言うと、ゴールドが人気があるというのは、同一性価値ではなく、差異として価値があるからと考えられよう。)
 そして、差異とは、端的に、差異共振性なのである。だから、経済も、差異共振経済となるだろう。それは、トランス資本主義である。差異共振価値が中心化されて同一性価値は手段となるのである。主従逆転するのである。
 最後に、日本についてであるが、近代主義に洗脳されて、同一性を機械的に追求して、差異が衰滅してしまった社会になっている。これは、今日、おそろしく危険・危機的な状態にあると言えよう。
 日本人が差異へと目覚めないと、世界の差異への動きの中で、消滅してしまうかもしれない。カルタゴの運命である。その可能性が出てきた。
 では、日本人が差異・差異共振性へと覚醒するためには、どうしたらいいのだろうか。それは、独りとなり、独りの心に蠢く声に耳を傾けることではないだろうか。独りの身体に蠢く声やエネルギーに耳を傾けることだと思う。そう、身体内部の心にある振動・波動・エネルギー、それが、差異である。
 
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近代同一性主義の狂気について

近代同一性主義とは、差異を完全に否定してしまう観念システムであり、差異に理性を見出す立場から見ると、これは完全な狂気である。
 これまで述べてきたように、同一性は視覚と関係する。ここでは発生的に考察する必要がある。思うに、人類文化は、近代以前においては、Media Pointが開かれた心性をもってきたと考えられる。しかるに、近代において、これが否定される事態となったのである。近代以前の集合的共同体が解体して、同一性自我(自我同一性)が支点となったのである。
 問題は、同一性自我と視覚との関係である。近代以前は、視覚はMedia Pointから発していたため、超越的光を見ることができたと考えられる。もっとも、宗教観念に染まった形であったと思われる。とまれ、少なくとも、視覚は、本源的視覚であった。私の表現では、ヴィジョン的視覚であった(ヴィジョンとは、Media Pointのもつ超越的光の影像である)。そこにおいては、外界との共振性があり、まだ、自我同一性は未発達であった。集合的心性であったと考えられる。(もっとも、西欧においては、中世において、個の文化が生まれてはいるが、それは、少数者であると思われる。)
 しかるに、近代化の過程において、自我同一性が形成されていくわけであるが、それには、外界認識において、同一性的投影を行い、それによる同一性認識によって、自我同一性を形成していったように思えるのである。
 問題は、同一性的投影である。これは、それまでのMedia Point的な共振的様態を否定して、即ち、内的な差異を否定して、同一性を外的に投ずるということである。ここで視覚の分裂が生じているのである。本来、ヴィジョン的視覚があったが、同一性的投影によって、ヴィジョン性は否定されて、同一性イメージが形成されたのである。これは他者否定的な映像であり、利己主義的な映像なのである。つまり、二項対立・二元論的な視覚像である。
 結局、近代同一性主義とは、同一性視覚によって基礎づけられていると考えられるのである。そして、他の感覚も同一性視覚によって、規定されたと言っていいだろう。そして、これが経験論の感覚を導くと考えられるのである。ロックのタブロ・ラサとは、同一性感覚によってもたらされたものと考えられる。
 文化史的に言えば、同一性視覚とは、遠近法を生んだと言うことができる。東洋文化においては、とりわけ日本文化においては、西欧文化の導入以前においては、近代西欧とは異なり、Media Pointが開かれていて、遠近法は形成されなかったのである。
 ということで、近代同一性主義を形成を同一性視覚から導いた。そして、当然ながら、真の理性の基盤であるMedia Point、差異を否定しているので、これは、自我中心主義、利己主義となり、暴力・狂気的な自己となるのである。
 さて、問題は、どうして同一性視覚が投影されるのか、という点を説明する必要がある。上で、集合的心性、集合的共同体の解体を述べたが、同一性視覚とは、これに関係すると言えよう。即ち、近代以前においては、集合性ないしは共同体性が自己を拘束していて、同一性視覚の形成を抑えていたと考えられるのである。しかし、集合性・共同体性が解体すると、同一性視覚の形成が促されることになり、結局、自我同一性が形成されることになったと考えられる。社会史的には、集合性・共同体性の解体とは、資本主義の発達がもたらしたと見ることができよう。
 今日、この同一性視覚に基づく近代同一性主義が狂気となっているのである。もっとも、世界的には、トランス・モダンの潮流があるので、問題なのは、日本人である。戦後という特殊な歴史によって、近代合理主義万能の価値観を形成したので、近代同一性主義狂気の度合いが強いのである。端的に、トランス・モダンの潮流の中で、反動様態となると考えられるのである。この反動が狂気をもたらしていると考えられるのである。そう、何度も既述したが、Media Pointからのエネルギーが活性化して、自我=同一性主義に押し寄せ、それを自我=同一性主義が塞き止めようとするが、塞き止められたエネルギーが反動的に自我に狂気をもたらすと考えられる。つまり、自我の理解できない差異のエネルギーが押し寄せるが、それを塞き止めようとする力に対して反動のエネルギーが発動して、非合理的な衝動、すなわち、狂気をもたらすのである。つまり、非合理な情動=狂気が発動するということである。言い換えると、差異のエネルギーを抑圧する暴力的衝動である。
 これは実に危機的な危険な事態である。トランス・モダンの芽を破壊するのである。思うに、この近代同一性主義狂気は、これからますます度合いを強めて、当人を破壊して行くだろう。心の病が増加するのである。また、凶悪犯罪も増加するのである。
 近代主義からのエクソダスが必要である。
 最後に、うつ病について考察してみよう。これは、私見では、Media Pointのエネルギーの発露を抑圧するところから発病するのだと思う。同一性主義の自我回路ができあがり、それは、差異エネルギーを排除するのである。しかしながら、エネルギーの源泉は差異であるから、差異を閉ざすと、エネルギーが枯渇する。これがうつ病の原因ではないだろうか。近代同一性主義は、狂気であり、自滅に至るのである。


近代的自我の発生:再々・・・考:同一性化が差異化に先行するという根本的志向性がある
以下のように走り書きしたが、結局、近代的自我の形成の問題にまた戻ることになる。既に、少なくとも百回は論じているのではないかと思えるが、ここで確認したい。
 結局、Media Pointの新たな発動(ルネサンス)によって、どうして、同一性が差異を否定することになったのか、ということが核心である。これまでの議論から言えば、南欧イタリア・ルネサンスで発動したプロト・モダンが、西欧において、プロテスタンティズムによって、モダン化されたということになる。言い換えると、南欧モダンが西欧モダンへと転換したのである。
 この切り替えが、同一性による差異の否定を意味するのである。つまり、太母的な南欧文化から父権的な西欧文化へとモダンが展開したということである。これはこれでいいが、問題は、単に西欧だけでなく、世界にそれが伝搬したということから、ある必然性・一般性をもっていた観念の動きであることがわかるので、その意味を解明する必要があるのである。
 結局、これまで述べたことの確認となるが、第一に、Media Pointから同一性の志向が発動する。これは、太極原理から言えば、陽化である。この原理から同一性が先行して、差異が否定されたと考えられる。しかしながら、第二に、差異の志向性が生まれる。これが、ポスト・モダンであるが、同一性と連続化しているので、差異は純粋化されない。そして、第三に、差異が同一性から切り離される。これが、トランス・モダンである。
 結局、近代的自我の形成とは、Media Point=太極の根源的志向性によって生じたということになる。つまり、同一性への志向性が先行し、その後、差異へ志向するという方向性が根本にあることが原因であるということになる。ただし、西欧近代が特殊なのは、(それまでは、あるいは他の地域では、同一性への志向性が先行していても、本源的な差異、すなわち、Media Pointのエネルゲイアが残されていたということ、つまり、差異共振性が共同体のルールとしてなんらか存在していたと考えられるのであるが、)同一性への強い傾斜があるということである。これはユダヤ・キリスト教によってもたらされたと考えられるのである。(イタリアの場合は、ユダヤ・キリスト教と言っても、地中海の太母文化が強いので、ユダヤ・キリスト教が弱められているのである。しかしながら、イギリスにおいては、異教的なケルト文化があったのに、どうして同一性化されたのか、ということが解明されなくてはならない。思うに、イタリアに比べて、共同体の破壊が激しかったことが原因だと思うのである。後でさらに検討したい。)
 ということで本件を終えたい。

p.s. イギリスにおける共同体破壊は、直接的には、歴史上の囲い込み運動によってもたらされたと考えられる。結局、そこには、貨幣経済の浸透があるのである。しかしながら、共同体の破壊は、それ以前に文化破壊があったように思えるのである。つまり、ケルト文化の衰退があったと思われるのである。つまり、精神的文化の衰退があり、貨幣経済が浸透して、共同体の破壊が生じたのではないかと思われるのである。プロテスタンティズムが発生するというのは、従来の精神的文化の崩壊に対する、新たな精神的文化の発生を意味すると思われる。
 そして、イギリスにおけるケルト文化性であるが、それは、近代化によって、逆に活性化されていったのではないだろうか。つまり、衰退し埋もれていたケルト文化が、危機的に、新たに覚醒化したのではないだろうか。言い換えると、衰退していたMedia Pointが活性化したということになる。
 ここで、近代日本について考えると、似たような面があるだろう。日本の神道文化・仏教文化は衰退していたが、明治維新によって、(排仏毀釈はあったが、)それなりに活性化したのではないだろうか。ただ、問題は戦後文化である。アメリカの近代合理主義が中心化して、伝統的精神文化が衰退してしまった点である。ここでは、活性化ではなくて、衰退があるのである。逆に言えば、それほど、洗脳効果があったということになるだろう。それに対して、三島由紀夫の爆発的反抗もあったが。
 もっとも、今日、日本の危機は深まり、破局的になっている。日本精神文化ルネサンスが必要になっているのである。それは、同時に、社会・政治・経済的な復興につながることになるのである。

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近代同一性主義の狂気について

近代同一性主義とは、差異を完全に否定してしまう観念システムであり、差異に理性を見出す立場から見ると、これは完全な狂気である。
 これまで述べてきたように、同一性は視覚と関係する。ここでは発生的に考察する必要がある。思うに、人類文化は、近代以前においては、Media Pointが開かれた心性をもってきたと考えられる。しかるに、近代において、これが否定される事態となったのである。近代以前の集合的共同体が解体して、同一性自我(自我同一性)が支点となったのである。
 問題は、同一性自我と視覚との関係である。近代以前は、視覚はMedia Pointから発していたため、超越的光を見ることができたと考えられる。もっとも、宗教観念に染まった形であったと思われる。とまれ、少なくとも、視覚は、本源的視覚であった。私の表現では、ヴィジョン的視覚であった(ヴィジョンとは、Media Pointのもつ超越的光の影像である)。そこにおいては、外界との共振性があり、まだ、自我同一性は未発達であった。集合的心性であったと考えられる。(もっとも、西欧においては、中世において、個の文化が生まれてはいるが、それは、少数者であると思われる。)
 しかるに、近代化の過程において、自我同一性が形成されていくわけであるが、それには、外界認識において、同一性的投影を行い、それによる同一性認識によって、自我同一性を形成していったように思えるのである。
 問題は、同一性的投影である。これは、それまでのMedia Point的な共振的様態を否定して、即ち、内的な差異を否定して、同一性を外的に投ずるということである。ここで視覚の分裂が生じているのである。本来、ヴィジョン的視覚があったが、同一性的投影によって、ヴィジョン性は否定されて、同一性イメージが形成されたのである。これは他者否定的な映像であり、利己主義的な映像なのである。つまり、二項対立・二元論的な視覚像である。
 結局、近代同一性主義とは、同一性視覚によって基礎づけられていると考えられるのである。そして、他の感覚も同一性視覚によって、規定されたと言っていいだろう。そして、これが経験論の感覚を導くと考えられるのである。ロックのタブロ・ラサとは、同一性感覚によってもたらされたものと考えられる。
 文化史的に言えば、同一性視覚とは、遠近法を生んだと言うことができる。東洋文化においては、とりわけ日本文化においては、西欧文化の導入以前においては、近代西欧とは異なり、Media Pointが開かれていて、遠近法は形成されなかったのである。
 ということで、近代同一性主義を形成を同一性視覚から導いた。そして、当然ながら、真の理性の基盤であるMedia Point、差異を否定しているので、これは、自我中心主義、利己主義となり、暴力・狂気的な自己となるのである。
 さて、問題は、どうして同一性視覚が投影されるのか、という点を説明する必要がある。上で、集合的心性、集合的共同体の解体を述べたが、同一性視覚とは、これに関係すると言えよう。即ち、近代以前においては、集合性ないしは共同体性が自己を拘束していて、同一性視覚の形成を抑えていたと考えられるのである。しかし、集合性・共同体性が解体すると、同一性視覚の形成が促されることになり、結局、自我同一性が形成されることになったと考えられる。社会史的には、集合性・共同体性の解体とは、資本主義の発達がもたらしたと見ることができよう。
 今日、この同一性視覚に基づく近代同一性主義が狂気となっているのである。もっとも、世界的には、トランス・モダンの潮流があるので、問題なのは、日本人である。戦後という特殊な歴史によって、近代合理主義万能の価値観を形成したので、近代同一性主義狂気の度合いが強いのである。端的に、トランス・モダンの潮流の中で、反動様態となると考えられるのである。この反動が狂気をもたらしていると考えられるのである。そう、何度も既述したが、Media Pointからのエネルギーが活性化して、自我=同一性主義に押し寄せ、それを自我=同一性主義が塞き止めようとするが、塞き止められたエネルギーが反動的に自我に狂気をもたらすと考えられる。つまり、自我の理解できない差異のエネルギーが押し寄せるが、それを塞き止めようとする力に対して反動のエネルギーが発動して、非合理的な衝動、すなわち、狂気をもたらすのである。つまり、非合理な情動=狂気が発動するということである。言い換えると、差異のエネルギーを抑圧する暴力的衝動である。
 これは実に危機的な危険な事態である。トランス・モダンの芽を破壊するのである。思うに、この近代同一性主義狂気は、これからますます度合いを強めて、当人を破壊して行くだろう。心の病が増加するのである。また、凶悪犯罪も増加するのである。
 近代主義からのエクソダスが必要である。
 最後に、うつ病について考察してみよう。これは、私見では、Media Pointのエネルギーの発露を抑圧するところから発病するのだと思う。同一性主義の自我回路ができあがり、それは、差異エネルギーを排除するのである。しかしながら、エネルギーの源泉は差異であるから、差異を閉ざすと、エネルギーが枯渇する。これがうつ病の原因ではないだろうか。近代同一性主義は、狂気であり、自滅に至るのである。


2008年01月08日(Tue)▲ページの先頭へ
オバマ候補が唱えているのは、「大連立」の動きである:超党派志向とは差異共振主義であろう
オバマ候補が訴えているのは、超党派による大変革である。彼は何を求めているのか。アメリカ国民は何を求めているのか。それは、ブッシュ/ネオコンないしは新自由主義的な政治経済の否定であり、国民のための社会政策を目指したものである。問題は、超党派bipartisanということである。
 これは、直感では、正に、差異共振主義である。私が先に小沢一郎の政治姿勢の核心にあるものと見たものと同じである。思うに、今日、世界政治潮流は、差異共振主義へと転換していると思われるのである。
 これは、Kaisetsu氏の説く「市場化された場における共同体主義」である。巨視的に見て、同一性主義である資本主義的政治が破綻というか破産してしまったのではないかと思う。それは、サブプライムローン問題に端的に現れているし、そもそも、ブッシュ/ネオコンに現れていたのである。(日本で言えば、小泉/竹中売国・亡国似非改革路線である。)
 現代、田中宇(さかい)氏や北野幸伯(よしのり)氏が説くように、世界政治経済は多極化へと展開しているように見える。これは、表層である。しかしながら、深層=基層では、差異共振主義ないしは差異共振共同体圏志向性であると考えられるのである。EUが正に、そうであると考えられるし、ロシア、イラン、そして、中国他もそうではないだろうか。この差異共振主義のエネルギーとして精神的エネルギーがある。EUの場合はカトリックであり、ロシアはロシア正教会であり、イランは言うまでもなく、中国は孔子である。
 世界は、ポスト・モダン的グローバリズムを超えて、トランス・モダンの差異共振主義へと「進化」しているのである。おそらく、相転移という用語を使っていいと思うのである。
 世界のトランス・モダンの潮流を日本人は理解しないといけない。小沢一郎は慧眼である。もっとも、いったんは、自民党を下野させた方がいいようであるが。

Obama is promising something very different, what skeptics call an oxymoron: sweeping bipartisan change.

"I think the American people are hungry for something different and can be mobilized around big changes, not incremental changes, not small changes," Obama said Saturday night. "I think that there are a whole host of Republicans, and certainly independents, who have lost trust in their government, who don't believe anybody is listening to them, who are staggering under rising costs of health care, college education, don't believe what politicians say. And we can draw those independents and some Republicans into a working coalition, a working majority for change."

http://www.washingtonpost.com/
wp-dyn/content/article/2008/01/06/AR2
008010602402.html?wpisrc=newsletter

参考1:

2008/01/08-10:15 2大政党は「争いに終始」=既存政治批判、大統領選出馬は明言せず−NY市長  【ニューヨーク7日時事】米大統領選への出馬が取りざたされるブルームバーグ・ニューヨーク市長は7日、オクラホマ州ノーマンの大学で開かれた超党派の政治討論会に出席し、民主、共和両党は政争に明け暮れていると危機感を表明した。ただ同氏は「わたしは候補者ではない」と述べるにとどまり、出馬について明確な立場を示さなかった。
 米メディアなどによると、同氏はこの中で「人々は協力することをやめ、政府は機能不全に陥っている。米国は停滞しつつある」と警告した。討論会には、ヘーゲル上院議員(共和)、ナン元上院議員(民主)ら16人も参加し、財政赤字などの具体的課題に取り組む「挙国一致政府」樹立に向けた方策を示すよう、大統領選の各候補者に求めた共同声明を発表した。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200801
/2008010800228&rel=y&g=int

参考2:
未明投票区でオバマ氏「圧勝」=ヒラリー氏はゼロ−米予備選

1月8日17時2分配信 時事通信

 【マンチェスター8日時事】8日投開票の米大統領選のニューハンプシャー州予備選で、日付が変わった直後に特別に実施される投票区で、民主党のオバマ上院議員が10票中7票を獲得して「圧勝」した。
 この投票区はカナダとの国境に近い寒村の集落ディクスビルノッチ。ここでの未明投票は予備選の開幕を彩る伝統行事となっている。有効投票総数は民主、共和両党合わせてもわずか17。
 オバマ氏以外の民主党候補の得票はエドワーズ元上院議員が2、リチャードソン・ニューメキシコ州知事が1で、ヒラリー・クリントン上院議員はゼロ。共和党側の結果は、マケイン上院議員4、ロムニー前マサチューセッツ州知事2、ジュリアーニ前ニューヨーク市長1だった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=
20080108-00000098-jij-int

参考3:
オバマ暗殺の恐怖…米初の黒人大統領の夢も危険度UP
2008/1/5 17:01
アイオワ州の党員集会に勝利した民主党のバラク・オバマ上院議員(46)。圧倒的な強さを誇るといわれたヒラリー・クリントン上院議員(60)を窮地に追いやり、米国史上初の黒人大統領の誕生も夢ではなくなってきた。だが、米国と黒人の歴史には、「暗殺」という暗い過去がある。昨年5月には、シークレット・サービスの護衛がついたオバマ氏。アイオワ大会で優位に立ったことで、ますます暗殺の危険度が増してきた。

 勝利の歓喜もそこそこに、次の決戦場となるニューハンプシャー州(8日に予備選)に移動したオバマ氏は、「もし、ここで勝てれば、私は次の米国大統領だ」と力強く宣言した。

 ニューハンプシャーは、しばしばアイオワと違った結果をもたらしてきた。だが、8日の決戦でもオバマ氏が勝利すれば、関係者の間でも「流れは一気にオバマ氏に傾く」との見方が強い。

 作家のロバート・ホワイティング氏は「黒人がわずか3%のアイオワでオバマ氏が勝ったことはすごいことだ。アメリカの人種差別意識が薄くなった証拠だ」といい、オバマ氏の一連の言動に対し、「あのジョン・F・ケネディを彷彿させる」と語った。

 だが、オバマ氏への期待が増せば増すほど、暗殺の危惧も高まる。

 米政治史を語るうえで、「黒人」と「暗殺」は切り離せない暗い関係があるからだ。

 奴隷解放のリンカーン大統領、公民権運動に理解を示したケネディ大統領。黒人問題に深く関わった歴代大統領はいずれも非業の死をとげている。やはり解放運動を推進した黒人指導者、マーティン・ルーサー・キング、マルコムXの両氏も暗殺されている。

 大統領を目指すオバマ氏にも、おぞましい死の影が忍び寄っている。

 昨年5月には、悪名高い白人至上主義者KKK(クークラックスクラン)のメンバーがオバマ暗殺を計画しているとの情報が浮上し、直後にシークレット・サービスの護衛がついた。

 ヤフーの「ANSWERS」(ユーザーからの質問にユーザーが答える掲示板サイト)にはズバリ、「もしオバマ氏がアメリカの大統領になったら、暗殺されるだろうか」との露骨な質問が書きまれた。

 これには、「ナンセンス」「おまえはヒラリーを大統領にしたいのか」などの反論が寄せられるなど議論が沸騰した。

 また、動画サイトにはオバマ氏が頭に銃口を突きつけられ、卑猥な言葉を投げかけられている写真が流され、削除と掲載が何度も繰り返された。

 こうした暗殺情報は、いわゆる無責任な書き込みだけではない。

 ニューヨーク・タイムズ紙は昨年10月、黒人の有権者が多いサウスカロライナで、美容院の黒人経営者を取材し、「米史上初の黒人大統領と初の女性大統領のどちらが、彼女たち黒人女性を魅了しているのか」と質問した。当地はオバマ陣営が重点的に“戸別訪問”してきた場所でもある。

 61歳のクララさんという女性の黒人美容師は、こう答えている。

 「黒人候補が大統領になるというのは素晴らしいことだけど、私はオバマ氏には投票しない。なぜなら、彼が大統領になったら暗殺される。なら、当選させず、彼の命を助けたほうが賢明でしょう」

 こうした懸念は、黒人の間に根強くあるのか。CNNテレビによると、米国の白人の65%が「アメリカは黒人大統領を受け入れる用意ができてる」と答えたのに対して、黒人は54%だった。白人にくらべ、黒人大統領の誕生にはまだまだ懐疑的のようだ。

 ホワイティング氏は「一般紙やテレビでは暗殺に関した記事はまだない。あえて記事にすることで批判の矢面に立ちたくにないのだろうが、アメリカ人の多くがそれを心配しているのは事実だ」と話している。
http://netallica.yahoo.co.jp/news/21008



検討問題:『指輪物語』の「一つの指輪」と北欧神話/父権神話
リン・カーターの『ロード・オブ・ザ・リング:「指輪物語」完全読本』(角川文庫)を読むと、トールキンの霊感のベースに北欧神話があるのがよくわかる。北欧神話については、まだよくわからないが、それでも、直感では、なにか貨幣を問題にしているように思えたのである。(飛躍するが、物理学者、天文学者は神話を読むといいと思う。何故なら、神話は超越的エネルギーの多様な作用を扱っていると思えるからである。ダークエネルギーは、神話的である。神とは端的に、超越的エネルギーである。)
 とまれ、先の私のアイデア、即ち、「一つに指輪」とは貨幣神のことではないかという考えが強くなっている。つまり、ヤハウェである。そして、それは、資本主義に帰結したと考えられるのである。
 私が注目している点は、龍殺しである。トールキンの『指輪物語』の前身である『ホビット』では、宝物を隠している龍スマウグを退治することになっている。「一つの指輪」との結びつきは不明であるが、『指輪物語』では、「一つの指輪」をめぐって、闇の王サウロンとの戦いが行われるので、なんらか龍殺し、龍退治と関係していると考えられる。
 神話学者ジョーゼフ・キャンベルの視点からみると、龍とは、太母である。そして、それが闇の王となるというのは、「一つの指輪」と関係させて、龍=太母が反転して、ヤハウェになったということではないだろうか。つまり、『指輪物語』とは、ヤハウェ=貨幣神退治の物語ではないのか、という考えが浮かぶのである。
 「一つの指輪」を山に捨てるというのは、結局、龍=太母へと回帰させることではないのか。つまり、トランス・モダンである。これは、同一性主義から差異共振主義を意味しているのではないのか、ということである。確かに、考えすぎかもしれない、あるいは、妄想かもしれないが、捨てがたい考えなのである。


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カレンダ
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