INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY - 2008/01
PROTOMODERN PHILOSOPHY:
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カテゴリ
INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧 (866)
相対性理論/量子力学/生命科学/遺伝子問題 (28)
不連続的差異論 (1) 哲学/日本哲学の創造 (17) ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明/新東洋文明 (39) ポスト近代的自我/ポスト唯物論 (27) プラトニック・シナジー理論 (125) 新東洋文明:新霊性new spirituality:日本伝統文化 (20) 詩・和歌・俳句・漢詩・連詩・創作 (5) 神話・宗教:古事記・聖書・ケルト神話 (34) 音楽(クラシック・ポピュラー) (9) メディア・ポイント Media Point/高次元・超次元・五次元 (100) 検討問題・課題 (42) 日本覚醒計画:日本の政治・経済 (36) 教育/女男差異/ジェンダー/新母性論 (9) フッサール/ハイデガー現象学 (21) トランス・モダン/トランス・モダン叡知学 (31) (+i)*(-i)⇒+1(自己認識方程式):同一性と差異と差異共振性 (116) 文学・哲学・美術・アート・映画・舞台・アニメ・漫画 (87) 英語・外国語学習 (3) トランス・モダン社会/差異共振シナジー経済/差異共振共同体 (81) |
2008年01月31日(Thu)▲ページの先頭へ
検討課題:美学について:美を論ずることの必要性
今というか、ここ数日間は出張で忙しいので、更新が少なくなるので、本件はその後検討することになるが、美学を論じることが必要なように思えている。英語でAestheticsというが、どうもこの用語が曲者である。端的に言えば、感性論である。そう、感性という言葉も曲者である。今は簡単に触れるだけだが、senseは、身体的感覚と心的感覚の両方に跨(またが)っているだろう。簡単に言えば、感覚と心である。
プラトニック・シナジー理論は、ここでも強力な解明力をもっているだろう。問題は、Media Pointである。ここは、心と身体との交点・接点でもある。差異と同一性との交点・接点でもある。 美は本来、Media Pointの様態に存するだろう(即非様態)。しかしながら、現代、Media Pointが喪失されたままであり、同一性感覚が中心化されている。そこで、感性と言ったとき、それは、Media Pointではなく、同一性感覚の意味になってしまうのではないだろうか。 後で、心と感覚ないしは感性について詳論する予定であるが、今日、感性は心や魂を喪失していると思われるのである。私は、心感性というような言葉を考えたことがあるが、それはそのような意味合いからである。 今検討できないのは、残念であるが、日常的に、不快な言葉遣いが多く、耐え難いのであるが、それは、美意識が喪失しているからである。美とは、単に感覚・感性的なものというよりは、差異的なものであり、理性的なものであると思うのである。秩序と関係しているのである。それも非線形的秩序である。 そう、政治の醜悪さにも耐え難い。やはり、美がないのである。理性が政治から消えているのである。そう、現代日本は、美を失っているのである。耐え難いポップスなど。もっとも、世界においても、美が喪失しているが。 参照: 英語のウィキペディア http://en.wikipedia.org/wiki/Aesthetics 美学 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション , 検索 美学(びがく)あるいは感性学は、美 や芸術 あるいは趣味 の問題を扱う哲学 である。伝統的美学は、美とは何か(美の本質)、どのようなものが美しいのか(美の基準)、美は何のためにあるのか(美の価値)といった問題に取り組んできた。いわば美の形而上学ともいえよう。審美学という訳語は旧称であるが、その提唱者は森鴎外 である。広義の美学は道徳 的な美や自然 の美を含むが、芸術の哲学とされることも多い。今日では、美の概念そのものの探究より、個別の美的経験・芸術領域・芸術と他の人間活動との関係の研究がさかんである。 名称 ドイツの哲学者アレクサンダー・バウムガルテン が1750年 に『美学』 (Aesthetica) を出版したことが、美学が哲学 の一領域として定式化される一つの契機となった(バウムガルテンは、最初の著作『詩についての哲学的省察』の中で既に、詩の美学的価値の原理的考察を思考する学として aesthetica という学を予告している)。 この aesthetica という語は、ギリシア語 aisthesis の形容詞 aisthtike をラテン語化したもので、二つの語義を持っていた。一つは「感性的なるもの」であり、他方は、「学問」(episteme)という語が省略(ギリシア語での慣例による)された語義である「感性学」である。 バウムガルテンがどちらの意味でこの語を使用しているかはその諸著においても曖昧であるが、遅くとも『美学』以降では、後者の意、さらに詳しく言えば「感性的認識論 scientia cognitionis sensitivae」の意で用いていることは明らかである。 バウムガルテンによれば「美は感性的認識の完全性である」(『美学』14節)であるから、aesthetica(「感性的認識論」)は「美について考察する学 ars pulcre cogitandi」(同1節)である。一方、「完全な感性的言語 oratio sensitiva perfecta」(「詩」を指している)を典型とする芸術一般は美にかかわるから、aesthetica は「芸術理論 theoria artium liberalium」(同1節)である。 ( aesthetica = 感性的認識論 = 美について考察する学 = 芸術理論 ) バウムガルテンの体系においては、美や芸術に関する学的考察である感性的認識論は、理性的認識論との対比において「疑似理性の学 ars analogi rationis」であり、「下位の認識論 gnoseologia inferior」(同1節)として位置づけられた。 [編集 ] 歴史 その淵源はプラトン にまで遡る。イマヌエル・カント の『判断力批判』、シェリング の『芸術の哲学』講義、ヘーゲル の『美学』講義などを経て、フィードラーの「上からの美学」批判を受け、現代に至る。現代美学において特筆すべきは、・実存主義 ・分析哲学 ・ポスト構造主義 によるアプローチであろう。 [編集 ] バウムガルテンの「美学」 バウムガルテン (A.G.Baumgarten,1714-62)は、ライプニッツ・ヴォルフ学派の系統に属す。「美学」(aesthetics/英)という学問の名称は、彼が、「感性 」を表すギリシャ語 から作ったラテン語 の造語「Aesthetica」に由来する。彼はフランクフルト 大学で1742年からこの「美学」の講義を始め、その後も再度の講義要請があったことから、もとの講義内容に若干の加筆修正を行い、これをラテン語 で出版した。『美学(Aesthetica)』第1巻は1750年、更に第2巻が1758年に出版された。 引用 美学(自由学芸の理論、下級認識論、美しく思いをなす技術 、理性類似物の技術)は、感性的認識学の学である。(第1節) 美学の目的は、感性的認識そのものの完全性にある。然るに、この完全性とは美である。そして、感性的認識そのものの不完全性は避けられねばならず、この不完全性は醜である。(第14節) 美学の出発点は、知性的認識の学としての論理学 を感性的認識の学で補完することにあった。 [編集 ] 日本の美学 日本語の「美学」は、中江兆民 がVeronの著作を訳して『維氏美学』と邦題を付けたことによる。日本の高等教育機関における美学教育の嚆矢は東京美術学校 および東京大学 におけるフェノロサ のヘーゲル美学を中心とした講義、森林太郎(森鴎外 )による東京大学におけるE. V. ハルトマン美学ら当時の同時代ドイツ美学についての講演、およびラファエル・フォン・ケーベル (ケーベル先生の呼称で知られる)による東京大学での美学講義である。また京都 においては京都工芸学校においてデザイン教育を中心とする西洋美学および美術史の教育がなされた。なお東京大学は独立の一講座として大塚保治 を教授に任命、美学講座を開いた世界で最初(1899年 )の大学である。 日本における主要な美学関連学会 としては美学会があり、雑誌『美学』(年四回)および欧文誌 Aesthetics (隔年)を発行している。毎年十月に行われる全国大会のほか、年五回関東および関西で研究発表会が開催される。なお2001年の国際美学会議(4年おき開催)は日本で行われた。 [編集 ] 日本の美意識 近代以前の日本には、西洋のような一貫した形での思索の集大成としての「美学」はない。しかし、いき 、わび などの個別の美意識 は、古くから存在しており、また茶道 や日本建築 、伝統工芸品 などを通して、さまざまな形で実践されてきた。また、歌論、能楽論、画論などの個別の分野での業績はあるものの、孤立した天才の偉業という色彩が濃く、一枚岩の美学ではない。これらの美意識は、自然と密接に関連しているが、西洋美学は、近代以前はもっぱら「人間」を中心に据えた「芸術」のために発展した。そのため、日本の美意識は、西洋美学の視点からは、十分に記述・説明することができない。近代以前の日本の事物について、「芸術」という視点を持つ美学から論じると、学問的文脈を無視した議論となり、慎重を期すべきである。日本人自身も、日本の美意識を、明快に定義・説明することが困難であるのが現状である。今後、複数の視点を生かした研究が待たれる。 [編集 ] おもなトピック一覧 [編集 ] 古今和歌集仮名序 紀貫之 は『古今和歌集 』仮名序で、和歌が純粋な心の結実であるとした(「やまと歌はひとつ心を種としてよろずの言の葉とぞなれりける」)。そして和歌が天地開闢の時から出来したと述べ、和歌に結集する芸術は、生きとし生けるものの生の表現が人間にあってその精華を開花させたものであるとした。 [編集 ] 歌論 [編集 ] 世阿弥の演劇論 [編集 ] 本居宣長 [編集 ] 岡倉天心 [編集 ] 大西克礼 [編集 ] 近代の美学 * カント * シラー * ヘーゲル [編集 ] 近代以降の美学 * ニーチェ * ショーペンハウアー * ハイデガー * メルロ=ポンティ * アドルノ * グリーンバーグ * ボードリヤール * フレドリック・ジェイムソン * ハル・フォスター * ロザリンド・クラウス [編集 ] 関連項目 * 美術史 * 美意識 * 哲学 * 批評 * 詩学 * 芸術学 (Kunstwissenschaft) * カルチュラル・スタディーズ (cultural studies) * 分析美学 * 芸術制度論 * 美 * 醜 * 審美 * 崇高 * イロニー * フモール * アレゴリー * 図像学 * 想像力 、構想力 、制度論 * エロス * ランナウェイ説 または、『 平均美人説 』 [編集 ] 外部リンク * (百科事典)「Aesthetics」 - インターネット哲学百科事典 にある「美学」についての項目。(英語) 美術 < 芸術 と文化 絵画 - 版画 - 浮世絵 - 書 - イラストレーション - 彫刻 - 工芸 - 陶芸 - デザイン - 写真 - 映画 - 舞台芸術 - 建築 - 庭園 ウィキポータル:美術 - デザイン - 写真 - 映画 - 舞台芸術 - 建築 "http://ja.wikipedia.org/ wiki/%E7%BE%8E%E5%AD%A6 " より作成 カテゴリ : 美学 | 美 | 美術
2008年01月29日(Tue)▲ページの先頭へ
市場哲学:市場とは何か:トランス・モダン市場経済:差異共振化された市場経済
差異価値と同一性価値との関係を考察しているトランス・モダン経済論が途中であるが、市場についてどう考えるのかという点がまったく触れられていないので、それを考察する必要がある。
端的に、市場とは何か、である。例えば、私が古楽のいい演奏のCDを買いたいという立場にあり、お店に行って買うことになるとしよう。 この買いたいという心的欲動は何であろうか。欲望なのか。確かに、いい音楽への渇望がある。それが満たされないとストレスになる。つまり、心に、差異共振エネルギーを音楽の波動で与えて、心を充電する必要があるということなのだろう。 とまれ、ここには、買い手における欲求・欲動がある。欲望なのだろうか。欲望というと、あまりに生々しい表現である。音楽を欲望すると言うだろうか。欲求であり、心的欲動である。心欲と造語してもいいだろう。 思うに、いったい欲とは何か。物質的欲から心的ないしは精神的、美的欲まである。音楽の場合、美的欲求でもある。絵画でもそうであろう。映画もそうだろう(もっとも、流行に遅れまいという、世俗的欲もあるだろう)。 とまれ、個体の欲を満たすために、市場において、欲を満たす商品・品物・物を購入するのである。このとき、売り手に対価を支払うのである。 そう、この対価において、差異価値と同一性価値の関係が発生しているのである。買い手にとり、ある商品は差異価値である。売り手にとっては、同一性価値の可能性である。ここで、価値の非対称性が生じている。買い手は、差異価値をもつ商品に購入に対して、対価である貨幣を支払う。それは、売り手によって提示された同一性価値である。つまり、市場において、差異価値と同一性価値(貨幣)との関係が相互転換すると言えるだろう。買い手には、差異価値への心的欲動があり、手元には、同一性価値である貨幣がある。それに対して、売り手は、買い手が欲する差異価値があり、それを同一性価値(貨幣)に交換したいと強く望んでいる。 言い換えると、質(差異)と量(同一性)との交換が市場経済であると言えよう。つまり、それは、哲学的には、不可能な事態なのである。差異と同一性という異質なもの同士を相互転換させているのである。これは、実に不思議、いわば、手品・魔法・魔術である。マルクスが『資本論』で商品の形而上学を驚異をもって言及していたのを想起する。 ハリー・ポッター等のファンタジーがブームであるが、実際、市場の様態とは、ファンタジーそのものである。現実のファンタジーであるから、凄みがあるのである。(p.s. 思うに、今日のバーチャルな経済とは、超越的エネルギーが同一性へと流出しているために発生していると見ることができないだろうか。超越的エネルギーを回帰、フィードバックさせるべきであろう。後で検討。) 貨幣が同一性価値を保障しているので、市場社会において、人々は、同一性価値である貨幣を目指して生産することになるのである。そして、貨幣の有効性を利用して金融業が発達するのである。同一性価値が同一性価値を増殖するのである。ここには、差異価値という原点から離脱した行為があると言えよう。 問題は、欲・心的欲動である。差異価値への心的欲動がある。それを手に入れるには、交換価値である貨幣を獲得して、購入する必要があるのである。貨幣獲得のために、賃金仕事に関わることになるのである。それは、個の差異価値を多かれ少なかれ抑圧して、会社・企業の経済活動のために従事することになる。もっとも、天職に従事する場合があるがそれは、希少である。 生きるため、それは、個の差異価値を肯定するためであるが、働くことになる。差異価値のために、同一性価値である貨幣を獲得するために働くのである。そう、個において、差異価値と同一性価値は結びつくことになるだろう。この結びつきであるが、それは、何か。 具体的に考えよう。食事のため、お米を得る必要がある。それは、私の物質的身体を維持するために必要なものである。これは、心的欲求というよりは、物質的欲求である。身体的欲求である。お米を手に入れるためには、その価格に等価の貨幣をもつ必要がある。つまり、私の物質的欲求のために、同一性価値である貨幣が必要なのである。 では、私の物質的欲求とは何だろうか。それは、同一性価値の欲求なのだろうか。否、そうではないだろう。「私の」という点が重要である。つまり、差異価値なのである。差異価値の欲求を満たすために、同一性価値である貨幣が必要なのである。言い換えると、差異価値の更新のために、同一性価値である貨幣が必要なのである。 だから、人は、差異価値を維持するために、同一性価値である貨幣を獲得するために働くわけであるが、ここで、差異価値と同一性価値が連結するのがわかるのである。つまり、個としての欲において、差異価値と同一性価値がつながっていると言える。 では、個としての欲とは何だろうか。ここでは、身体を例として考えると、身体保持・更新の必要性が欲であろう。すると、これは、Media Point(差異共振性)から同一性が形成されるときの力学と同質の問題であることがわかるだろう。 そう、ここで注意すべきは、同一性の構造形式と同一性という物質との違いである。身体は、Media Pointないしは遺伝子から、その構造形式を保持されるものであるが、物質的身体という同一性=物質自体は、身体の構造形式とは区別されるのである。そして、物質的身体の更新の必要が欲ということだろう。 そう、作業仮説的に言えば、身体の同一性構造から同一性物質身体が形成されるが、そのときのエネルギーの補充の必要が欲ということだろう。端的に、食欲である。(性欲は次元が少し異なるだろう。) 結局、身体の差異価値(「わたしの」身体という意味である)は、エネルギーを補充するために、欲を発生させて、充足させるために、同一性価値である貨幣獲得のために働くのである。 しかしながら、貨幣獲得の目的は、差異価値にあるのであり、同一性価値は、本来、手段・媒介・媒体に過ぎない。 しかし、自明のように、欲という作用が基盤となり、同一性価値自体に対して、欲が発生すると考えられるのである。本来、差異価値のためのエネルギー補充のために、欲が発生するのであるが、市場経済においては、欲を媒介にして、同一性価値自体への欲が発生すると言えるのである。そして、これは、同一性である自我において、発達すると言えるであろう。これは、当然、所有欲へとつながるのである。我欲である。 結局、欲を媒介として、同一性価値=貨幣の市場経済が成立すると言える。ということで、ここで倒錯が生まれると言えよう。本来、差異価値を満たすものであった交換が、同一性価値を欲求する方向へと転換するのである。価値の倒錯が発生するのである。これが極端化したのが、たとえば、サブプライムローンである。言い換えると、市場経済は、今日、倒錯経済であると言えるだろう。 原始市場経済においては、問題はないだろう。差異価値が同一性価値=貨幣を介して、交換されるだけである。資本主義で問題なのは、同一性価値=貨幣が超肥大化していることである。欲の超肥大化、自我の超肥大化である。(私にはここには、前頭葉ではなく、脳の違う局所が作用しているように思えるのである。おそらく動物的な脳である。情動脳である。視床下部が作用しているのではないだろうか。この問題は後で検討したい。) とまれ、《欲》が中心点である。これは、哲学的には、連続化・同一性化、すなわち、連続的同一性化と言えるだろう。これは、不連続的差異論が問題にした事象である。 これは、人間という自然にとっての、一つの自然事象である。アダム・スミスが見えざる手と言ったが、その意識には、自然のヴィジョンがあったのだろう。 確かに、一つの自然事象であるが、絶対的事象ではない。自然の基盤は、連続的同一性ではなくて、差異共振性、Media Pointであるからである。だから、自然の事象である市場経済であるが、それは、連続的同一性の経済であり、絶対的ではないのである。しかしながら、ここで短絡的に市場経済を否定するということにはならないのは、自明であろう。 結局、連続的同一性=欲が支配して、市場経済がカオス化されるわけであるが、いったん連続的同一性=欲を切断して、本源の差異共振性=Media Pointに回帰することで、市場は質的に新しいものになると考えられるだろう。即ち、根源の差異価値へ回帰して、差異価値自体を評価する経済が考えられるのである。これは、パラダイム・シフトである。 《欲》を切断して、差異共振エネルギーへと転換することである。言い換えると、差異共振「欲」のようなものが存することになるだろう。そして、この「欲」を満たす市場経済がありうるのではないだろうか。それは、これまでの市場経済とは質的に異なるだろう。差異共振化された市場経済である。(Kaisetsu氏の「市場化された場における共同体主義」を参照。)そう、モダン/ポスト・モダンにおいては、連続的同一性=欲が支配的であったが、この、いわば、トランス・モダン市場経済においては、差異共振「欲」が作用していて、これまでの同一性欲動を超える、トランス同一性欲動・差異共振欲動が作用しているのである。正確に言えば、同一性欲動を包摂した差異共振欲動が作用しているということである。高次元市場経済とも言える。 このトランス・モダン・マーケットにおいては、欲動は垂直化ないしは虚軸化しているのであり、そのような欲動に見合う売買がなされることになるのである。では、資本はどうなるのだろうか。これまで主導的であった同一性価値資本ではなくて、差異価値資本、差異共振価値資本が重視されるようになるだろう。だから、これは、差異共振市場経済である。トランス資本主義である。若者であった資本主義が大人である差異共振経済へとトランスフォーム(変換・変容・変態)するのである。情報資本とは、差異価値資本である。また、差異共振共同体を志向する企業も差異共振資本をもっていると言えよう。同一性資本から差異共振資本へ。トランス・キャピタルである。 そう、政治も差異共振社会へと指導する必要があるのである。それによって、経済が資本主義経済から差異共振経済へと変換するための触媒になると考えられる。 ********************* 参考: 第2章 市場経済のしくみについて http://home.owari.ne.jp/ ~fukuzawa/zin4-2.htm 橋本裕「経済学入門」より ********************* 参照: ★ 2008年1月28日 月曜日、17時半更新 未曾有の全世界的経済破綻を目前にして、こうした破綻とグローバリゼーションと呼ばれる金儲け優先思想による人間疎外がなぜ起きるのか? その真実を見極めるべき時期に来ている。 いったい何が問題だったのか? 筆者は、「金余りが金を滅ぼす」と指摘してきたが、なぜ実体経済に満足できず、人間疎外を省みることなく、さらなる余剰利益を求め続けたのか? その本当の意味を理解しない限り、人間社会は何度でも同じ過ちを繰り返すことになる。 筆者は、この数年、余談のなかで、これらの金儲け思想の根源に「競争主義」があると指摘してきた。「人を追いつめて競争に勝利する」という発想、競争を人生の目的としてきた世界中の人たちが、今、自らの論理の帰結として破綻に直面している。 世界を動かす原動力は、国家や軍事バランス、指導者の力量などではない。その正体は人の心にすぎない。「心の法則」こそ、地上における、あらゆる問題の根源にある。 人々が競争心を抱き、埋没し、人間社会を根源で支える必要な要素すら見失って暴走してゆくプロセスに、心の法則がある。 人が、どのような心の悩みを抱え、それが現実社会の破綻に結びついていったプロセスを説明しないかぎり、破綻に至った真の原因は理解できず、これから何をなすべきかも決して見えてこない。 一方で、人の心を弄ぶかのような、一部ユダヤ教徒による壮大な歴史的陰謀が、競争主義社会を演出する上で極めて重大な影響を与えた事実も否めない。 世界中の王族、金持ち、権力者をフリーメーソンという秘密結社に組織し、33位階の序列差別を与え、他人を出し抜いて自分がエラクなる上昇志向の競争主義こそ、彼らの陰謀の根源にある。彼らの思想は、上流階級社会を作り、特権意識に夢中になった人たちを競争主義に洗脳して、彼らの金融システムの奴隷として飼いならすことであり、「カネを支配するものが世界を真に支配する」という信念に基づいて、世界を経済基盤から彼らに都合のよいように作り変えてきた。 この巨大な陰謀が、現代社会に至って、「資本集中と人間疎外」という結実になった、と考えても間違いないと思う。だが、それだけで、世界がこれほど悪くなるわけではない。それは、やはり、一人一人の心の奥底に潜む何かが作用していると考えるべきで、それを明らかにすることこそ、問題の本質を見て、解決を導く方法だろうと思う。 ★ 2008年1月27日 日曜日、10時半更新 余談 株が値戻し傾向にあるにもかかわらず、世界的経済破綻の趨勢は変わらないと指摘してきた。今、株を買っている人たちは、問題の本質を見ようとせず、自分の破滅的損失を認めたくない心理から、現実を直視できないで、目先の値上がりで何とか安心したい気持ちだけで買っている。こうした投資家心理が、巨大投資家のリスク転嫁に利用されると書いてきた。これは過去の、すべての恐慌破綻に共通するメカニズムであって、これがあるから株のプロは辛うじて身を持ちこたえることができてきた。 今、回復基調と勘違いした人が多いにもかかわらず、本当はサブプライム問題を端緒として、個人カードローン、自動車ローンなど底なし沼の様相を呈している。加えて、アメリカのローン転嫁を保証してきた最大のシステム、モノライン問題が浮上している。(以下「宇宙の法則研究会」資料から引用) モノラインとは、有価証券の発行者から保証料を受け取り、債務不履行(デフォルト)の際に元利払いを肩代わりする保険会社の一種で、保証は金融商品に限定しているため、「単一の事業」を意味するモノラインと呼ばれている。米国のモノライン業界団体は12社、保証額は昨年末時点で合計2兆4000億ドル(約260兆円)にものぼる。さらにこれらのモノライン保険会社は、米国の地方債の約5割、証券化商品の約2割の保証を手掛けている。 今年の1月17日に米国株が下落したのは、ムーディーズがモノライン会社の格付けを引き下げ方向で見直すとしたことで、この日モノラインのMBIAは31.2%の大幅安、アンバック・フィナンシャル・グループは51.9%の急落となったことが最大の要因である。 このように金融商品の支払いを保証するモノラインがサブプライムローンの保証急増で破たんすれば、サブプライムと無関係の保険会社にも損失が連鎖的に出ることが予想される。現状としてはほとんどのモノライン保険会社が、軒並み自己資本の100倍という巨額の保証契約を引き受けているため連鎖倒産を免れない。 これまで経済大国・米国を影から支えていたのはこのモノライン保険会社であったので、保険会社倒産による巨額の損失とともに、その存在が失われれば米国経済の息の根が止められてしまう可能性がある。米国政府はこのモノライン保険会社の救済に動き出しているという情報があるが、金額がたかだか1兆数千億円程度では救済にはならない。金額としては、桁がひとつ違うと言ってもよい。 さらに、世界経済を混乱させる不安要因がもうひとつある。それは高騰した原油問題だ。原油が1バーレルあたり100ドルまでに跳ね上がったのは、それだけの需要があったわけではなく、世界的な金余り現象により投機筋からの価格吊り上げだった。米国をはじめ世界中が景気後退に入れば、原油はだぶつき、高値に吊り上げた投機筋の経営状態が悪化することになる。 現在、世界中で動いている金融機関のマネーは総額150兆ドルで、日本円にして1京6千兆円(1万6000兆円)もの巨額になる。この金額は実態経済の3.2倍にもあたり、デリバティブによるレバレッジ投資がいかに天文学的なものになっているかを証明するものだ。そのような金融機関のマネーの数パーセントでも焦げ付けば、サブプライムローン問題以上に世界の金融は大きくガタツクことになり、修復不能の状態に陥るのは間違いない。 予想では今年の夏になると原油価格は、1バーレルあたり70ドル台の実勢価格にもどると思われる。(夏場になると、石油の需要は冬場に比べて大幅に減少)そうなったときに、世界中のヘッジファンド、さらにはヘッジファンドを支えてきた多くの金融機関が次々と破綻する事態は免れないことになる。 その際に最大に影響を受けるのは、我が日本の金融機関だ。自民党の圧力に屈した日銀がゼロ金利ならびに超低金利を永年続けてきたことで、日本人が持つ金融資産はキャピタル・マネーフライトと呼ばれ海外に貸し出されてきた。その総額は、日本人が持つといわれる金融資産1500兆円の半分の700兆円である。その貸出先には、多くのヘッジファンドが含まれている。間違いなくその700兆円は、二度と日本に戻ってくることはない。ほとんどが焦げ付きとなる。 そういった事態が起こる直前には、日本の金融金融機関の多くが「預金封鎖」をせざるを得ない状況に陥ると思われる。預金の払い戻しをしようにも、貸出先で焦げ付きキャッシュが金庫から消えてしまうからだ。従って筆者(宇宙の法則研究会)の予測では、現在の「資本主義」が重大な局面を迎えるのは今年、 2008年の夏ということになる。 (以上、引用資料を再構成) http://www1.odn.ne.jp/ ~cam22440/yoti01.htm 東海アマ地震予知情報 検討問題:資本の差異化とは何か:差異価値に基づく同一性価値のエネルゲイア化?
先に私は、資本の差異化ということを言ったが、考えてみると、あいまいな観念であると思う。いったい資本とは何か、である。同一性価値(同一性交換価値)の資本(金融資本)なのか、それとも、差異価値(質価値:差異共振価値)としての資本なのか、両方が考えられるだろう。
しかしながら、後者は通常、同一性価値の基準によって評価されているだろう。たとえば、ある企業の創造性の価値は、売り上げ等の同一性価値によって評価されるだろう。つまり、現実の資本主義において諸価値が、同一性価値によって評価されているということである。つまり、差異価値が差異価値として評価されるのではなくて、同一性価値という異質な価値基準によって評価されているということである。ここに諸価値の混乱・混同・混沌があると言えよう。つまり、わかりやすく言えば、価値評価が狂っているのである。 ある価値を価値そのものとして評価するのではなくて、同一性価値によって評価するという現実があるのである。つまり、差異である価値を同一性という貨幣交換価値によって評価するという現実が資本主義にはあるのである。 ここには、同一性主義が支配していると言えよう。そして、私は、同一性主義を狂気・妄想・悪・エゴイズム・闇(無明)等であると考えているのである。しかし、これが現実である資本主義の正体である。 結局、真如(しんにょ)・真実・真相を認識する必要があるのである。即ち、価値を価値そのものとして認識し評価することである。つまり、価値とは本来、差異価値なのであり、差異価値として認識評価すべきであるということである。 そう、ニーチェが説いたように価値転換が必要なのである。同一性中心主義(デリダのロゴス中心主義)を解体・脱構築して、差異価値を評価すべきなのである。ただし、同一性価値は同一性価値として評価すべきである。つまり、差異価値と同一性価値を明確に分離して、それぞれ評価すべしということである。現代資本主義は、両者を混淆しているのである。ポスト・モダン理論がそうであったのである。 では、本件の問題にもどると、資本とは何か、である。差異価値が資本なのか、同一性価値が資本なのか。思うに、資本という概念ないしは観念は、混乱しているのではないだろうか。つまり、二つの価値を混同して資本と呼んでいるのではないだろうか。差異価値も資本であり、同一性価値も資本である。そして、差異価値「資本」は、同一性価値によって評価されているのである。つまり、同一性価値(正確に言えば、貨幣価値)が中心化されて、資本となり、その価値基準から差異価値も評価されて資本とされているということであり、つまり、同一性価値=資本の視点から差異価値が評価されて資本となっているのである。いわば、差異同一性価値資本となっているのである。同一性価値資本が中心化されて、差異価値が否定・排除・隠蔽されているのである。ここに要注意である。そう、ここが根本的なポイントである。(マルクスなら、「ここがロドスだ、ここで跳べ」と言っただろう。) この価値評価の混同によって、資本主義はカオス・無秩序をもたらしているのである。結局、繰り返すが、差異価値を差異価値として、同一性価値を同一性価値として、純粋に評価することが科学的であるのである。(そう、資本主義は、価値混同において、非哲学的・非科学的・非理性的でなのである。) 結局、物質的且つ非物質的生産・創造において、差異価値共振性があり、そこから、差異価値(製品・商品・生産物)が発生するのである。そして、この差異価値を同一性価値(交換価値・貨幣価値)を介して、販売するのである。同一性価値とは物質的価値であり、その観点から、生産・創造は評価されることになるのである。しかしながら、これは、いわば、仮象的評価である。仮面的評価である。ここには、いわば、虚偽があるのである。あるいは、誤謬があるのである。 交換において、あくまで、差異価値は差異価値である。しかるに、同一性価値としての交換価値が評価されてしまうからである。ここに混乱があるのである。 つまり、同一性価値としての交換価値=貨幣価値は仮象・仮面に過ぎないのであり、本体・真実・真如として、差異価値が存しているのである。言い換えると、差異価値がイデア・本体であり、同一性価値=交換価値=貨幣価値とは、仮象・仮面、仏教で言えば、空に過ぎないということである。これを現代の経済学は理解していないのである。 途中。
2008年01月27日(Sun)▲ページの先頭へ
料理の哲学:料理と差異共振性:同一性結合体の解体と差異共振創造
鈴木雅明指揮によるバッハ・コレギウム・ジャパンによるヘンデルの名作・オラトリオ『メサイア』の心胸を明るく元気づける、見事な演奏(鈴木氏は、バッハよりもヘンデルの方がよりあっているのではないだろうか。つまり、鈴木氏の音楽性は旋律をくっきり浮き彫りにするのであるが、それは、バッハよりヘンデルに向いていると考えられるからである。)を聴きながら、台所で、カレーを作るため、鍋の野菜のぐつぐつ煮え具合を見ながら、考えた。
ジャガイモ、ニンジン、たまねぎ、肉が煮える。野菜がくずれて、溶けて、エキスになる。例えば、個体としてのジャガイモである有機体が火によるエネルギーで揺すぶられて、根源要素への還元されるだろう。同一性有機体が解体されて、ジャガイモの差異に還元されると仮定しよう。 煮詰められて、ジャガイモの差異(差異1)、ニンジンの差異(差異2)、タマネギの差異(差異3)、肉の差異(差異4)へと還元されて、四者が差異共振するのではないだろうか。つまり、差異1*差異2*差異3*差異4という差異共振様態がそこには現象するのではないだろうか。(第三部が始まった。) この差異共振様態が料理の味の元となるのだろう。そして、そこへカレー・ルーを入れて、さらに弱火で煮込み、味をより深化させるのである。これも、さらなる差異共振化と言えるだろう。 つまり、料理とは、食材に熱エネルギーを与えて、同一性有機体を解体させて、差異に還元して、差異共振様態を形成することであると言えるのではないだろうか。 正確に言えば、同一性有機体の解体というのは、野菜の分子に分解されるということだろう。だから、分子差異になるということである。分子差異1*分子差異2*分子差異3*分子差異4との分子差異共振様態が料理である。 だから、問題は、野菜有機体は何であるのかである。野菜の分子が結合して、野菜自体になる。分子は本来同一性ではあるが、同一性と同一性と結合して、集合化するのである。この同一性結合体が形成されるとき、エネルギーを放出しているはずである。同一性*同一性⇒同一性集合体+エネルギーである。 料理のときの熱エネルギーは、この式を反対にするものであろう。即ち、同一性集合体+エネルギー⇒同一性(野菜分子)*同一性(野菜分子)である。この同一性を、理論的には、差異と考えることができるのである。 問題は、分子を結合して、集合体にしている力である。同一性と同一性とを連結する力である。これを問題にしないといけないのである。(盛り上がりがすばらしい。これまで聴いた最高の『メサイア』である。) 同一性結合力とでも借りに呼んでおこう。これが、物質体を形成しているのである。そして、これを、料理の場合、火が食材という物質体を解体させて、同一性共振様態に還元するのである。 この同一性結合力とはどういうものだろうか。同一性の連結力とは何か、である。これは、単純に、積の力ではないのか。差異共振力が*であるなら、連結力は・ではないのか。そうとすれば、料理の場合、熱エネルギーは、この積の連結力を解体すると言えよう。つまり、熱エネルギーで揺さぶり、連結力・を差異共振力*に転換しているのではないのか。言い換えると、連結力に熱エネルギーを与えて、物質体のMedia Pointを活性化・賦活・励起することではないのか。つまり、物質のMedia Point=差異共振化である。ここにおいて、物質は、他の物質と差異共振化して、新しい物質(料理)を形成すると思われるのである。思うに、文化とはこのようなものであろう。同一性のままでは、同質のままで、差異共振の質(特異性)をもたないのである。 以上の料理哲学を経済に適用すると、同一性の物質のままでは、同質であり、高い質・差異共振性を創造できない。量的経済、土建屋的公共投資経済では、社会は進展しないのである。それは、積の経済(量の経済)であり、(国家財政の負債を拡大するだけで、)差異共振経済(質の経済)ではないのである。 また、金融資本中心主義(サブプライムローンはその狂気である)も、積の経済であり、量的増加のみであり、質的成長はないのであり、バブルとなる運命で、不況ないしいは恐慌が襲うことになるのである。景気循環を起すのである。 思うに、現代資本主義は、サブプライムローン問題に見られるように、壁にぶつかっているのである。その壁とは、既述したように、同一性・連続性・構造の壁である。モダン/ポスト・モダンの壁である。袋小路である。同一性の積だけを求めているのである。同一性主義とは、狂気なのである。結局、差異共振性へと転換する必要があるということである。 結局、同一性主義を乗り越えるため、差異共振性をもたらすには、エネルギーを与える必要があるのである。経済の場合は、熱エネルギーというわけにはいかない。ここには、企画等のアイデアのエネルギーが必要である。差異共振的アイデアがエネルギーとなり、同一性結合体に揺さぶりをかけて、解体させて差異共振化させるのである。 これまでの近代主義的量的同一性経済からトランス・モダン経済へと転換するには、同一性結合体を解体する必要があるのであり、それは、構造改革というよりは、構造解体である。そして、差異共振革新が必要である。ここでは、近代主義的発想をしている人間、とりわけ、近代的知識人・官僚・政治家は足かせである。ここでは、「素人」の方が適しているのである。 とまれ、同一性構造体となった資本に揺さぶりをかけて、解体する必要があるのではないだろうか。つまり、資本の差異化である。同一性としての資本ではなく、差異としての資本である。差異資本である。そして、多様な差異資本を共振させて、差異共振資本経済、トランス・モダン経済の構築が可能であると考えられるのである。 そう、資本の差異とは何か。資本の同一性結合体・同一性構造を解体(脱構築・脱構造)したとき現われる資本の「分子」である。おそらく、「量子」と呼んだ方が現代的である。資本の「量子」である。資本の「量子」と資本の「量子」の「核融合」があるのではないだろうか。だから、資本「核融合」である。 とまれ、資本の差異化、資本のエネルゲイア化が必要である。今日は、資本のエンテレイケイア主導なのである。資本エネルゲイアによって、同一性構造体を解体できるのである。 資本エネルゲイアとは、資本の特異性である。特異性としての資本である。ここから、差異共振化が生起するのである。今は、ここで留める。後で、もう少し具体的に展開したい。 p.s. 信用力creditとは何か。先に、私は差異と言ったが、少し違うだろう。信用力とは、資本主義経済においては、同一性結合力への信頼だろう。思うに、本来、信用とは、差異から発すべきものである。しかし、資本主義経済では、同一性結合力が価値となり、それに信用が置かれるのである。同一性主義の反射作用である。同一性主義は、反理性主義なので、信用力は、狂気・妄想となるのである。マクベス投機である。そう、ここには、差異を喪失した資本主義、モダン/ポスト・モダン経済の帰結がある。同一性の鏡像反射が信用力であり、それも妄想なのである。 p.p.s. 同一性とは何か、が問題である。確かに、差異の同一性化が物質であり、それは、それで実在的である。しかし、マネーの場合の同一性とは、同一性主義である。これは、差異(理性)を否定しているので、非理性主義になるのである。リスクは差異にあると思うが、差異を否定しているので、真のリスクが消えてしまうのである。 物質は+1であるが、同一性主義は-1である。-1は妄想・狂気・悪・闇である。パラノイアである。モダン/ポスト・モダンはこれである。そう、金融資本主義とは、この-1の妄想の世界の事象であると言えよう。ポスト唯物論である。悪魔の帝国である。後でさらに検討したい。 参照: − 特選アラカルト − ▽バッハ・コレギウム・ジャパンのヘンデル2大作品 「オラトリオ“エジプトのイスラエル人”」 ヘンデル作曲 (1時間23分37秒) (ソプラノ)野々下由香里 (ソプラノ)松井 亜希 (アルト)上杉 清仁 (テノール)藤井 雄介 (バス)浦野 智行 (バス)渡辺 祐介 (合唱、管弦楽)バッハ・コレギウム・ジャパン (指揮)鈴木 雅明 〜東京オペラシティ・コンサートホールで収録〜 <2007/11/23> 「オラトリオ“救世主”」 ヘンデル作曲 (2時間18分58秒) (ソプラノ)イエレ・スー (カウンターテナー)スティーヴン・ウォレス (テノール)ハンス・イエルク・マンメル (バス)ドミニク・ヴェルナー (合唱、管弦楽)バッハ・コレギウム・ジャパン (指揮)鈴木 雅明 〜東京・サントリーホールで収録〜 <2007/12/24> http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/ program/ch.cgi?area=001&ch=07 資本主義のヴィジョンについて:トランス・モダン経済としての超越資本主義:差異⇒同一性⇒新差異
英語で、資本主義経済の言葉(growth, stock, capital, invest,develop, profit, etc)を見ると、なにか植物や栽培のイメージがある。植民地主義は、遊牧的イメージであるが、用語には、農耕のイメージがある。(聖書の神は、「生めよ、増やせよ、地に満ちよ」と言った。creditは信仰から来ているだろう。だから、資本主義と聖書ないしはキリスト教とは強く結びついていると考えられる。私は、ユダヤ・キリスト教の唯一神は貨幣神であると先には言った。そう、唯一神を脱構築すべきなのである。ヤハウェからエローヒームへと転換すべきである。新多神教である。)
後で検討したいが、どうも西洋人のイメージには、資本主義は、農業や遊牧のイメージがあるのではないのだろうか。ならば、企業やビジネスは、農業・牧畜のイメージで形成されることになる。ここには、育てる、成長させるイメージが重要である。しかしながら、金融資本中心主義は、返って、反対ではないだろうか。差異価値ではなく、同一性価値から富を増殖するという結果から「成長」させるという一種本末転倒があるのではないだろうか。差異価値から成長させる、つまり、差異価値自体を成長させ、さらには、豊かな結果を生むというならば、本来的だと思われる。つまり、脱資本主義/トランス・キャピタリズムとして、差異価値経済、トランス・モダン経済がありうるのである。換言すると、同一性価値(交換価値)を包摂した差異中心的経済(差異共振経済)がありうるのである。Kaisetsu氏の「市場化された場における共同体主義」である。 簡単に言えば、差異価値⇒同一性価値⇒新差異価値のフィードバック型トランス・キャピタリズムである。このフィードバックを「トランス」のイメージで捉えることができるだろう。トランス資本主義、超越資本主義である。
2008年01月26日(Sat)▲ページの先頭へ
検討問題:「観る」とは、理論的にどういうことか:イデアの何が観るのか。
1)「観る」とは、理論的にどういうことか:イデアの何が観るのか。原知+iと原身体-iの共振*において、ヴィジョン=エイドス=イデア=テオーリアが形成される。この原映像において、何が観ているのか。そう、感覚とは何か。今、直感で言うと、差異共振態が原感覚である。+iが原知であり、-iが原身体であり、その両者の共振態に原感覚があるのではないのか。また、そこには、原感情(共感性)があるだろう。
そう、共振態において、+iの側面が感覚で、-iの側面が感情ではないだろうか。つまり、感覚と感情は表裏一体ということではないのか。また、欲望は、感情よりも、より-i・原身体側に存しているのではないのか。 2)映画を観るとはどういうことか:ヴィジョンの問題:夢と映画 3)今日、芸術が死んでいるのは、Media Point(差異共振性・差異即非性)を閉鎖させているからである。美術にしろ、音楽にしろ、文学にしろ、伝統的な芸術が死んでいる。(宮崎駿のアニメとは、Media Pointが開いているのである。だから、生き生きとしたヴィジョンがあるのである。)。Media Pointとは、「魂」と言える。 しかし、個体の「魂」とどう関係するのか。つまり、今の私の考えでは、魂は、虚軸(虚界)の超越的双極差異であり、それは、Media Pointとは区別される。そう、魂とMedia Pointとの関係をどう見るのか、である。魂=イデアは、Media Point=開口部に流出するものであろう。そして、芸術は、本来、後者の表現であろう。『国家』におけるプラトンの芸術批判は同一性の模倣としての芸術批判と見ることができるのであり、Media Pointの表現としての真正な芸術を批判しているのではないと考えられる。(すぐれたファンタジーはMedia Pointの表現である。神話もそうである。また、すぐれた小説や詩もそうである。) 4)感覚欲望とマーヤーとMedia Pointの関係:この問題は、簡単に言えば、連続性と不連続性の問題である。モダン/ポスト・モダンとトランス・モダンの問題でもある。感覚欲望は、外的対象と志向する。このとき、Media Pointから発したエネルギーは外的対象と連続化される。つまり、自我と連続し、不連続なMedia Pointは見失われる。 ここから見ると、仏教の偉大さがわかる。仏教は、空という概念によって、連続性を断ち切るのである。色即是空。しかるのち、現象へと戻るのである。空即是色。空はMedia Pointである。しかし、空をゼロとするのは、後退である。それは、構造点に過ぎない。つまり、ポスト・モダン的差異である。 また、イデア論も仏教と同質である。現象を仮象とすることで、いったん現象から切れるのである。現象からの不連続化である。しかし、イデアを分有する仮象という概念がプラトンにはあるのである。 問題は、感覚現象が不連続化したとき、感覚欲望はどうなるのかである。直感では、感覚は同一性構造から外れる(脱構築・脱構造化)ので、当然、欲望も脱構築・脱構造化されるのである。私の言葉では、「間(ま)」が生まれるのである。そう、外的対象が他者になるのである。差異化である。 では、「間」化されたとき、感覚欲望だったものはどうなるのか。つまり、エネルギーはすべてが感覚欲望とはならなくて、差異共振エネルギー化するのだと思う。これが、社会倫理・秩序道徳の源泉である。 ここで、カント哲学を考えると、カントは、構造的同一性主義であるが、差異を物自体や実践理性にゆだねたと言えよう。そして、カントの超越論性とは構造主義的であり、フッサールの超越論性とは、脱構造主義的である。 5)3に関連して、魂=イデアとMedia Pointの関係についてさらに考えたい:思うに、Media Pointとは、端的に、イデアと物質との境界であり、イデアでもないし、物質でもない。実に不思議な領域である。 私はイデアはヴィジョンであると言うが、そのヴィジョンは、Media Pointで形成されるだろう。しかし、Media Pointとは別である。ここが微妙である。夢はMedia Pointのヴィジョンであり、魂=イデアそのもののヴィジョンではない。この「差異」が重要である。 魂=イデアそのもののヴィジョンとは、いわば純粋である。しかるに、Media Pointのヴィジョンとは、屈折しているだろう。何故なら、即非様態にあるからである。思うに、プラトンがイデアの表現として円や円運動をあげているが、それは、魂=イデアそのもののヴィジョンだろう。 では、宇宙の円や円運動や渦巻き運動とは何だろうか。それは、オイラーの定理の現象様態ではないのか。つまり、時間化された様態ではないのか。だから、Media Pointの表現ではないということだろう。 思うに、不連続的差異論の頃、イデア界と現象界とを重ねて考えていた。イデア差異が現象差異となるのである。おそらく、イデア界と現象界との相関性があるように思える。これについては、新たに考察したい。
2008年01月25日(Fri)▲ページの先頭へ
現代資本主義論とトランス・モダン経済のための諸考察:その1
私は経済(尚、ここには、政治的経済ないしは経済的政治の意味が込められている)の素人であるが、素人なりに、現代経済に対して強い疑念・疑問・疑義をもっている。また、強い不安ももっている。
端的に言えば、経済学に対する不信感が強いのである。つまり、平たく言えば、金儲けのための経済技術になっていて、経済学ではないのではないだろうか、という疑念があるのである。 とまれ、これから、素人なりに、哲学的に、現代経済を探求していきたい。哲学・理論的研究は、ポスト・モダンを乗り越えた、トランス・モダンとなっているが、トランス・モダンの視点は、経済へ向けられたときどうなるのか、それを考察していきたい。 さて、最初に、いったい現代資本主義の原動力は何か、利益のシステムとは何か、経済と社会との関係は何か、等々を考えてみたい。もっとも、本質は素人談義なので、無知は承知で考察するので、間違っている点があれば指摘していただきたい。 先ず、哲学的に言えば、資本主義は、差異価値を同一性価値へと展開していく経済システムである。基盤は差異価値である。それが、商業的行為によって、同一性価値(貨幣価値)に還元され、その同一性価値の増加(「経済成長」)を目指すシステムであるということである。 問題は、基盤の差異価値が同一性価値によって支配されるということである。いわば、自分の母体を食らう子供のようなものである。とまれ、この矛盾、二重価値に目を向ける必要がある。 この二重価値性の問題は、価値の転倒に存すると言えよう。前提となる差異価値が同一性価値によって支配されて、同一性価値中心主義が生起するということである。これが、金融資本中心主義となる。今日の資本主義はこれである。同一性価値としての金融資本が、いわば、自立したもののように、グローバル経済を動かしているのである。 この同一性価値としての金融資本は、同一性観念として存在するのであり、哲学的には、構造的なものであり、実は、物質的なものではない。だから、現代資本主義を唯物論的と呼ぶのは、正しくはない。本当は、数量的同一性構造論である。もっとも、これが、唯物論と強く結びついているのである。 また、確認すべき重要な点は、差異価値を同一性価値へと還元するということは、必然性があるものの、そこには暴力が作用しているということである。この暴力は、自然のもつ暴力である。しかしながら、問題点は、同一性価値中心主義となり、暴力が恒常化することである。具体的に言えば、戦争が経済にとって恒常化することである。 換言すると、差異から同一性への転換は、一つの自然の暴力である。誰でも、生存するためには、暴力をふるうのである。しかしながら、問題は、この同一性暴力が中心化されて、暴力主義が肯定されることである。この点にも注意しなくてはならない。 整理すると、資本主義経済とは、差異価値を同一性価値へと展開し、その同一性価値が中心化された経済であり、また、差異価値から同一性価値への転換は、一つの自然の暴力であり、必然的であるが、同一性価値中心主義によって、暴力が中心化されてしまっているということである。 このように見ると、現代資本主義の問題点がわかりやすくなるだろう。(ここで、休みを入れる。仕事がたまっている。)
2008年01月24日(Thu)▲ページの先頭へ
検討問題:1.Media Pointと科学、2.虚軸からの1/4回転と脳(左脳・右脳)と身体、3.視覚と三次元:トランス・モダン・ルネサンス
1)Media Pointと近代科学:近代以前の思想家(洋の東西を問わず)は、Media Pointから発して思考していたように思える。例えば、天という発想は、そうである。つまり、超越的観念をもって思想を説いていたのである。しかるに、近代科学の勃興によって、経験的知性が重視されて、それまでの超越的観念が否定されていった。もっとも、近代科学の初期においては、探究者は、まだ、超越的観念を保持していた。コペルニクス、ニュートン、ケプラー等は、神的観念をもっていた。だから、近代科学が進展して、超越的観念が否定されていったと見るのが正しい。
とまれ、超越的観念は、Media Pointがそれなりに生動していたことを意味するだろう。しかし、近代合理主義が中心化されると、Media Pointが否定・抑圧・排除されるようになるのである。典型的なのが、唯物論である。フォイエルバッハの『キリスト教の本質』に、神的観念を心情へと還元する思想が熱烈に述べられている。つまり、Media Pointが同一性主義へと圧縮される心的作業が行われたということである。言い換えると、Media Pointから同一性主義へのパラダイム転換、これが、近代の思想的意味である。しかしながら、Media Point的な観念は文系的観念として、そして、同一性主義は近代科学・近代合理主義として二分化していき、文系と理系の分裂を生み出したのである。文学・芸術で言えば、ロマン主義と近代合理主義の分裂を見ることができる。 それから、資本主義の全面的進展によって、同一性主義である近代合理主義・近代的自我が主流になり、Media Point的観念は次第に傍流になっていった。近代科学・近代合理主義・近代的自我の勝利が訪れたように見えた。この同一性主義を批判する思想・哲学・理論に関しては、最近までは、ポスト・モダン理論が存在した。しかし、挫折した。そして、グローバリゼーション全開となり、今日・現代を迎えているのである。しかし、サブプライムローン問題でわかるように、ポスト・モダンを経た近代科学・近代合理主義・近代的自我は、遂には、崩壊したと言えよう。 これまで、プラトニック・シナジー理論で解明したように、近代主義において喪失・忘却されたMedia Pointが新生したと言えるのである。近代の分裂を乗り越えて、Media Pointに基づく、同一性を包摂した超越的差異論が誕生したのである。近代科学も乗り越えられて、トランス・モダン・サイエンスとなったと考えられるのである。それは、トランス・モダン哲学と一致することになったのである。文理一体理論が誕生したのである。 2)虚軸界(虚界)から実軸界(実界)への転換の様相について:左右の問題:虚軸から反時計回りに1/4回転したとき、+iは-1に、-iは+1になる。 +iは原知であり、-iは原身体である。そして、-1は同一性主義であり、+1は同一性である。思うに、-1が脳であり、しかも、左脳であり、+1が身体であり、しかも、右脳ではないのか。 そして、先に、内的身体におけるMedia Pointの存在を言ったが、それは、+1の身体(右脳)の内部にMedia Pointがあるということになり、確かに、+1は、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺を潜在させていると考えられるから理論的に正しいことになるだろう。 そして、-1であるが、それは、同一性主義であり、左脳(脳)であり、これは、自己認識方程式の左辺をもっていないので、そこからは、Media Pointに達することは絶対的に不可能ということ明証できるだろう。つまり、近代的知識人(近代合理主義・近代的自我の持ち主)は、Media Pointに達することができずに、エゴイズム・自己中心主義・私利私欲・悪意・狂気・傲慢等に陥ることになろう。漱石の『こころ』はそれをえぐり出していると言えよう。 3)人間の五感、とりわけ、視覚は、三次元空間に適合しているように見える。なにかそれは不思議に思える。どうして、高次元を三次元と同様に知覚できないのか。どうして、諸感覚は三次元に限定されやすいのか。 人間の知の形式が同一性形式であり、それが感覚を限定しているということなのかもしれない。つまり、自我同一性形式が主導的なので、感覚が同一性に限定されるということなのかもしれない。 もし、同一性主義に限定されなければ、感覚は今とは異なるものではないだろうか。 結局、問題は、感覚が同一性を生み出しているのか、それとも、自我同一性が感覚を同一性に限定しているのか、である。 少し具体例をあげて明快にしよう。たとえば、遠くの山岳を眺望しているとしよう。あるいは、東の方向の道路の上方に月がのぼったとしよう。遠い山に対して、距離感を喪失して、なにか近くに山容を感じたりするだろう。また、同様に、月が道路のすぐ上にあるように見えたりするだろう。これをどう説明するのか。 感覚は、絶対的には、三次元的ではないと思う。遠近法とは、視覚によるというよりは、透視画法や器具に基づくと言えよう。遠近法による三次元意識によって、感覚が規定されているということではないだろうか。これは、フッサールの『危機』の問題意識と通じるだろう。 とまれ、同一性主義意識では、三次元空間の感覚を発生させると言えるのではないだろうか。だから、この近代主義的意識を超えれば、高次元空間感覚は可能であろう。 そして、すぐれたアーティストはそのような空間を構築してきたと言えるだろう。そう、Media Pointから発する超越光の視覚をもっていたと考えられるのである。 とまれ、近代において、同一性感覚、同一性視覚が確立したことは認めなくてはならないのであろう。トランス・モダンとは、この同一性を包摂して高次元空間感覚を形成すると考えられる。そう、新たなルネサンスである。トランス・モダン・ルネサンスである。
2008年01月23日(Wed)▲ページの先頭へ
エーテル体とアストラル体:差異共振エネルギーと原身体エネルギー:「キリスト」は天照大神だ
ここでも直感で言おう。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺が差異共振性であり、それが、根源である。それは、イデアであり、原心と原身体とが一如である。+iが原心=原知であり、-iが原身体である。知が生じるとき、既に、身体も生じている。そして、そこには、感覚も感情もある。おそらく、感覚・感情と一体化していいだろう。
思うに、知エネルギーがあり、また、身体エネルギーがある。それぞれ、+iと-iである。そして、それらが共振して感覚・感情エネルギーが発生している。美の感情とは、そこに存していると考えられる。そう、真善美の感情がそこに存しているだろう。倫理・道徳の感情でもある。 人智学のシュタイナーは、人間を1.自己(ichが自我と訳されているが、自己が正しいと思う)/2.アストラル体/3.エーテル体/4.物質身体の四層に分けている。プラトニック・シナジー理論から見ると、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺に自己/アストラル体/エーテル体が存しているように思えるのである。すなわち、上に述べた、原知エネルギーが自己、感覚・感情エネルギーがアストラル体、原身体エネルギーがエーテル体ではないだろうか。 だから、アストラル体とは、本来、原知エネルギーと原身体エネルギーとの差異共振エネルギーであるように考えられる。そして、Media Pointから同一性へと展開するときに、差異共振エネルギーが束縛されて、自我感情・利己主義的感情が生起すると考えられる。【だから、感情とは、脱同一性主義化すれば、差異共振エネルギーへと還元されるのである。それは、共感(造語すれば、共情、共心:p.s. 仁という字は、人偏に二人である。明敏である。)である。】 以上で、ざっとであるが、人智学のシュタイナーの唱えるアストラル体とエーテル体を解明したことにする。 最後に、先の問題である「エーテル界におけるキリストが見える」とは何を意味するのかという問を再度検討しよう。 エーテル体は原身体エネルギーであることがわかった。-iのエネルギーである。だから、エーテル界とは、原身体エネルギーの宇宙である。言い換えると、原生命エネルギーの宇宙、正に、「気」の宇宙である。だから、「気」の宇宙においてキリストが見えるということになる。そして、キリストとは、超越光のことである。太陽系では、超越太陽のことである。だから、「気」の宇宙において、超越太陽が見えるということになる。 私見では、超越太陽ないしは超越光を見るのは簡単だと思う。澄んだ青空を満たす陽光にそれが存しているのを感じればいいのである。光に神々しさを感じればいいのである。それが超越光だと思う。また、若い頃、夏の海岸で見る紺碧の空の太陽の輝きに、眩みを感じたが、その眩みが超越光の存在を示唆していると思う。 考えてみれば、超越光とは、(+i)*(-i)であり、そこには、「気」のエネルギーを含んでいるのである。だから、「気」の宇宙において見えるというのは当然であると思う。 しかしながら、以上の考察からわかるのは、超越光が見えるのは、「気」の宇宙に限定されるということではなくて、Media Pointを開いたときに、見えるものであり、Media Pointを開くとは、身体に存する心を開くことである。同一性の知は一つの支点であり、そこから不連続に、身体の心を開くことである。この身体の心を開くということが、シュタイナーのいうエーテル体と関係するのかもしれない。思うに、身体の心とは、-iであろう。原身体である。確かに、そこにおいて、 Media Pointは開けると言えよう。だから、言い直すと、「エーテル界において、キリストが見える」というシュタイナーの予言は、原身体-iを、同一性の知である不連続化させ、かつ、原知+iと共振させたときに発現・顕現・現前するMedia Pointを媒介にした差異共振エネルギーである超越光が視覚されるということになるだろう。 これで解明は済んだが、後、問題なのは、Media Pointと超越光(超越エネルギー)の関係である。原身体-iを同一性から不連続化させて、+iの原知と共振化させるときに、 Media Pointが発現・顕現・現前すると言ったが、このとき、Media Pointと超越光(超越エネルギー)との関係はどうなのか、ということである。 これは、実に微妙、霊妙な問題である。+iと-iを共振させたとき、超越エネルギーが流入すると言っていいだろう。それは、超越性の現前である。では、 Media Pointはどこに存しているのか。それは、超越性が現前する内的身体でいいのではないだろうか。身体の内部にMedia Pointは存するのである。 (付録的に、考察しよう。私は道教を考えている。丹田を考えている。三つの丹田がある。上丹田、中丹田、下丹田がある。どうも、中丹田が、Media Pointのように思える。そして、上丹田が+iであり、下丹田が-iである。これは、思いつきである。) 最後に、簡単にまとめると、シュタイナーの予言内容とは、きわめて、東洋文化的であるということになる。「気」の宇宙において、キリストが見えるとは、結局、東洋身体論的な精神エネルギーの活性化であると考えられるのである。プラトニック・シナジー理論で言えば、Media Pointの形成とそれによる超越エネルギーの流入である。 端的に、シュタイナーのキリストとは、超越光、超越太陽、天照大御神である。 遺伝子とは何か:イデアか、構造か、ゲノム(情報物質)か?
遺伝子とは何か、考察したい。ゲノム、DNAと遺伝子は同じなのか。直感では、遺伝子はイデアではないのか。そして、Media Pointの実軸性(実性ないしは実点と仮に呼ぶ)において、痕跡=差延が生じる。構造点である。これが、ゲノムないしはDNAの領域ではないのか。問題が複雑なのは、心と身体が関係するからである。
身体の遺伝子はわかりやすいが、心の遺伝子があるのか。魂をイデアとするなら、魂が遺伝子になることになる。それでいいのか。 もし、魂=イデアが遺伝子ならば、それが、身体の遺伝子をも含んでいることになる。それでいいのだろうか。もしそうならば、心と身体の遺伝子はどう区別がつくのだろうか。オカルティズムのように、霊と物質を区別するのか。それは、二元論である。 また、根本的に、心と身体の問題がある。しかしながら、プラトニック・シナジー理論は、原心(原魂)の差異共振志向性が、身体をも作り出すと考えるだろう。つまり、+iを形相、-iを質料とみたとき、両者の共振融合によって、心身一如(いちにょ)が形成されるのではないだろうか。知且つ身体である。意識即身体である。正確には、知・即非・身体、意識・即非・身体の即非態であろう。 とまれ、プラトニック・シナジー理論では、イデアから心身一如、心身即非を説明すると考えられる。だから、イデアを遺伝子とするならば、遺伝子とは、心の遺伝子でもあり、身体の遺伝子でもあるということになるだろう。これは、実に興味深い考え方だと思う。オカルティズムのような霊と物質的身体の二元論を回避できるのである。 心と身体の共通の遺伝子ということで、イデア=魂が考えられることになる。つまり、遺伝子=イデア=魂である。 では、この観点から見直すと、遺伝子とゲノム・DNAは区別されることになる。前者はイデア情報であり、後者はイデア情報物質であるからである。そして、ここで、Media Pointを考えると、差異共振様態にあるのが、遺伝子=イデア=魂である。Media Pointの実性が、ゲノム・DNAではないかと作業仮説してみるのである。構造点であり、構造性をもっている。 問題は、遺伝子とゲノム・DNA(以下、単に、ゲノムとするl)との関係である。遺伝子は情報化された量子である。そして、その痕跡が構造点であるが、しかしながら、構造点とゲノムは別のものではないのか。つまり、構造点は、いわば、構造としてのゲノムであり、物質であるゲノムではないからである。だから、整理すると、 遺伝子⇒構造⇒ゲノム となるのではないだろうか。丁寧に表記すると、 遺伝子(イデア)⇒構造(Media Point実軸)⇒ゲノム(情報物質) ではないか。今日、遺伝子(イデア)とゲノム(物質)が同一視、混同されているということになる。 とまれ、構造とは不思議なものである。それは、イデアではないし、物質でもない。イデアの写しであり、また、物質の原型である。アリストテレスの言う形相はこれだろう。また、プラトンのイデアもこれに近いときがある。しかしながら、イデアと構造の区別は絶対的でなくてはならない。これが決定的である。(ポスト・モダン哲学の誤りは、これらを混同していることにあるだろう。) とまれ、構造とは、イデアと物質との境界である。しかし、連続的境界である。ここが決定的ポイントである。それに対して、Media Point自体は、不連続的境界、即非的境界である。これまでの哲学・思想は、構造とMedia Pointを区別できなかったのである。混淆していたのである。(ドゥルーズ哲学が完全な混淆であり、連続的差異の哲学である。デリダ哲学は、構造自体における揺らぎを認識したが、イデア自体を同一性と見て、超越性を否定してしまい、袋小路に陥ったのである。) 結局、遺伝子(イデア)と構造とゲノム(情報物質)の三者を区別した。ここで、形状について考えると、二重螺旋とは、遺伝子の時間的形状と言えるだろう。遺伝子自体は、原二重螺旋であろう。構造は二重螺旋構造であり、ゲノムは二重螺旋物質ということではないだろうか。 今日のゲノム研究の問題点は、単に物質レベルの研究であり、構造にも、遺伝子=イデアにも達していないことであろう。そう、ここで、情報物質であるゲノムを理論化すると、構造から発生する構造物質と言えよう。新たに図式化すると、 遺伝子(イデア)⇒Medai Point⇒構造⇒ゲノム(構造物質)⇒生命体 となるだろう。付加して言うと、DNAを変化させることで、生命体は変化するだろうが、根本の構造や遺伝子は変化しないのではないだろうか。 参考: Gene findings: Disease-by-disease Genetic test Scientists analysed DNA from 17,000 people A team of UK researchers have identified several genes and regions of the genome involved in seven common diseases - but what are the implications for people suffering from the conditions? http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/6727043.stm Detailed gene map 'within grasp' By Helen Briggs BBC News science reporter Image: Sanger Institute The map will relate genetic variation to particular diseases One thousand people are to have their genomes mapped in a major effort to understand how genes influence disease. To date, only a handful of humans have had their genes analysed in this way, including scientists Craig Venter and James Watson, and anonymous volunteers. Teams in the UK, US and China say the project will create the most useful catalogue ever of genetic variation. Any two humans are genetically more than 99% identical: variations can explain why some get certain diseases. http://news.bbc.co.uk/2/hi/ science/nature/7201994.stm
2008年01月22日(Tue)▲ページの先頭へ
米国から自立するチャンス:資金を米国国債ではなく内需へ:農業*都市差異共振共同体への投資
これでは、超無能亡国破滅腹切り必至経済財政担当相である。
今が、アメリカから自立するチャンスである。資金をアメリカ国債ではなく、自国経済に回すのである。内需を質的に向上させることである。つまり、赤字漬けとなる公共投資ではなく、「農村」と都市とをつなぐ文化経済cultural economyを創造すべきである。【cultureの語源はよく知られたように、「耕す」である 参照:culture:中英語←ラテン語cultumacrra(耕作された土地)Yahoo 辞書】そこには、教養教育も当然入るべきである。 農業共同体と都市共同体との共振が必要である。新しいアイデアで農業共同体を構築し、そこへ投資し、そこからの農業生産物を都市共同体へと販売するのであり、農業共同体には、芸術創造共同体がなくてはならない。そのためには、都市共同体の創造的エネルギーが付与されなくてはならないだろう。当然、差異共振であり、都市共同体が一方的になってはいけない。そう、農業/都市差異共振共同体のための投資をすべきなのである。自己保存(コナトゥス)が必要である。今や、アメリカに貢ぐ必然性がないのである。 ******************** 今の時点で景気対策考えていない=大田経済財政担当相 1月22日11時15分配信 ロイター 今の時点で景気対策考えていない=大田経済財政担当相 拡大写真 1月22日、大田経済財政担当相、日経平均株価が1万3000円を割り込み下げ幅を拡大させていることに関し「今の時点で景気対策は考えていない」と言明。昨年1月撮影(2008年 ロイター/Kim Kyung-Hoon) [東京 22日 ロイター] 大田弘子経済財政担当相は22日の閣議後の会見で、日経平均株価が1万3000円を割り込み下げ幅を拡大させていることに関連して「今の時点で景気対策は考えていない」と述べた。 日銀の金融政策に対しては「状況を十分認識して決定されると思う」と語った。 歯止めがかからない株安・円高への政策対応について、大田担当相は「株の下落が世界的に連鎖しているが、基本は米国発だ」とし、「日本でどうこうということは今の時点では難しい。むしろ、世界的に協調して考えていかなければならないことだ」と指摘。大きく動揺している金融資本市場動向を注意深くみていくと語った。 さらに金融政策に関しては「この事態は日銀も共有し同じ状況をみている。(きょうの金融政策決定会合では)状況を十分認識して決定されると思う」と述べ、日銀の判断を尊重する考えを示した。 一方、景気認識では「下振れリスクは確かに高まっているが、データで把握する限り、生産・輸出はまだしっかりしている。一部に弱さはあるものの、景気回復の基調は続いている」と述べ、株安に歯止めがかからないが、今の時点で景気対策は考えていないと強調。リスク要因の米国経済動向や原油高・住宅投資動向などについて「これまで以上に綿密にウオッチしていかなければならない」と述べた。 (ロイター日本語ニュース 吉川 裕子編集委員) 最終更新:1月22日11時15分 ロイター http://headlines.yahoo.co.jp/ hl?a=20080122-00000830-reu-bus_all <大田経財相>「景気回復基調は続いている。対策考えず」 1月22日11時17分配信 毎日新聞 大田弘子経済財政担当相は22日の閣議後会見で、株価急落に関連し、「景気の下振れリスクは確かに高まっているが、データでは生産・輸出はしっかりしており、一部に弱さはあるものの景気の回復基調は続いている」との認識を表明した。さらに、「(株価下落は)米国発なので、日本でどうこうするのはなかなか難しい。今の時点で景気対策ということは考えていない」と述べた。【三島健二】 【関連記事】 大田経財相:もはや「経済一流」ではない 国会冒頭演説で 【関連記事】 国会:大田担当相が経済演説 「新たな成長モデル創出を」 【関連記事】 大田経済財政担当相:景気の現状「減速とは考えていない」 【関連記事】 月例経済報告:「米景気減速」を先行き懸念要因に明記 【関連記事】 原油高騰:政府の対策、「選挙向け」色濃く 与党主導、恩恵は一部のみ http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a =20080122-00000031-mai-bus_all 国会:大田担当相が経済演説 「新たな成長モデル創出を」 大田弘子経済財政担当相は18日、衆院本会議で経済演説を行い、世界経済の変化についていけない日本は「もはや『経済は一流』と呼ばれる状況ではなくなった」との危機感を表明した。その上で、人口減少と急速なグローバル化の中で経済成長を持続させるため「新たな成長のモデルをつくり出す必要がある」との考えを示した。 成長力強化の重要なポイントとして(1)世界とつながるオープンな経済システム構築(2)サービス産業の活性化と生産性向上(3)人材力の向上−−の3点を指摘。成長戦略を強化・再構築し、今春をめどに具体化させる方針を示した。【三島健二】 http: //mainichi.jp/select/biz/news/ 20080118k0000e010092000c.html?inb=yt モダン/ポスト・モダン文化バブルと漢籍教養:物質的逆境と真の文化社会創造:トランス・モダンの訪れ
今日、聴く気のないCDをブックオフに売った。二束三文である。一枚平均50円〜70円である。ポピュラー音楽ならば、60〜70年代のものは、もうほとんど聴かないと思うが、売る気にはならなかった。それらは、心・魂の記念・記録である。また、クラシック音楽classical musicであるが、バロック音楽を含めて古楽のものは手放したくなかった。ロマン派以降は売ってしまった。
この売るか売らないかの基準は何だろうか。結局、音楽の特異性があるかどうかであろう。言い換えると、差異共振性があるか否かであろう。私は70年代初期のポピュラー音楽には、精神性があると言ってきたが、それは、差異共振性と言える。また、古楽であるが、それも精神性があるのである。やはり、差異共振性があるということなのである。 ということで、基準は、精神性=差異共振性の有無である。すると、ロマン派以降や70年代後半以降の音楽は何なのか、ということになるだろう。とくにポピュラー音楽は、クズ・カスと言えよう。ロマン派以降は、若気の至りである。 結局、まとめていうと、文化バブルであると思う。モダン/ポスト・モダンの文化バブルだと思う。霊学のシュタイナーは、近代が終った後、人類は近代を異質なものとして見るだろうというようなことを言っていたように思える。(どうも記憶があいまいである。) トランス・モダンの視点に立つと、近代という時代は、中世とは違った意味で暗黒であることがわかる。大暗黒である。戦争等による殺戮は、中世をはるかに越えている。結局、シュタイナーが言うように、西洋近代は唯物論の時代である(あった)のである。今日、唯物論の時代の、いわば、断末魔を迎えているのである。終末論的、「黙示録」的終末論的である。 トランス・モダンの視点から観ると、ほんとうに、近代とは特殊な時代である。人類史における特異な時代である。近代以前、そして、これから迎えるだろうトランス・モダンにおいては、精神性、超越的精神性を人類は積極的に肯定していた(する)のである。この点から言うと、人類史の大汚点のようなエポックであった(ある)。精神の光を喪失した闇の時代なのである。ジョージ・ハリスンが、Living in the Material Worldで歌った"Who can see it"他は、トランス・モダンの歌である(itはヒンズー教の光を指している)。彼は、超越光を見ていたのである。そして、これから、多くの人が見るようになるだろう。そう、シュタイナーは20世紀前半から人類はエーテル体におけるキリストを見るようになると予言していた。(シュタイナーのキリストとは、 Media Pointの超越光のことと見ることができるのである。) さて、文化バブルのことに戻ると、結局、日本では、近代以前の書籍が復興すると考えられる。漢籍が再重視されるようになろう。漢籍には、魂がある。また、日本の古文も復興するだろう。そして、仏教、とりわけ、神道が復興するだろう。東洋・日本の美術も復興するだろう。そう、日本・東洋ルネサンスである。 物質的には、暗黒の時代に入るが、逆境こそ、魂・心を磨くときである。近代という悪夢を乗り越えて、ほんとうの文化世界を創造するときなのである。トランス・モダンへと飛翔すべきである。 参照: Artist: George Harrison Album: Living In The Material World Title: Who Can See It I've been held up, I've been run down I can see quite clearly now Through those past years, When i played towing the line. I only ask, that what i feel, Should not be denied me now, As it's been earned, and I have seen my life belongs to me My love belongs to who can see it I've lived in fear, I've been out there, I've been 'round and Seen my share Of this sad world And all the hate, That it's stirred I only ask, That what i know, Should not be denied me now As it's been learned, And i have seen my life belongs to me My love belongs to who can see it I only ask, that what i feel, Should not be denied me now As it's been earned, and I have seen my life belongs to me My love belongs to who can see it. My love belongs to who . . . http://lyrics.astraweb.com/display/155/ george_harrison..living_in_the_material_world ..who_can_see_it.html Artist: George Harrison Album: Living In The Material World Title: The Light That Has Lighted The World I've heard how some people, have said That i've changed That i'm not what i was How it really is a shame The thoughts in their heads, Manifest on their brow Like bad scars from ill feelings They themselves arouse So hateful of anyone that is happy Or 'free' They live all their lives, Without looking to see The light that has lighted the world It's funny how people, just won't Accept change As if nature itself - they'd prefer Re-arranged So hard to move on When you're down in a hole Where there's so little chance, To experience soul I'm greatful to anyone, That is happy or 'free' For giving me hope While i'm looking to see The light that has lighted the world http://lyrics.astraweb.com/display/ 460/george_harrison..living_in_the_material_world. .the_light_that_has_lighted_the_world.html
2008年01月21日(Mon)▲ページの先頭へ
『タンホイザー』とナチズム:異教とファシズム/全体主義:同一性主義=自我の発生について
以下のエッセイで、ワグナーの『タンホイザー』の異教性とナチズムとの共通性を述べているが、私は疑問に思った。そう、ユングがナチズムを北欧神話の神オーディンの復活だと考えていたのを想起する。
http://www2u.biglobe.ne.jp /~BLUEMAGI/NorseMythj.htm http://blog.so-net.ne.jp /plant/2007-04-03 私はそのような考えが短絡的ではないかと思うのである。神話学的心理学を歴史上問題のある事象にあてはめるのは危険であると思うのである。例えば、太平洋戦争における日本軍は、神道的神話の顕現であると言えるのだろうか。天照大神を反映する全体主義であったのか。とてもそうとは言えないだろう。 「聖処女」の犠牲によって肉欲の地獄から救われるという神話がどうして、ナチズムと関係するのか。「聖処女」の犠牲がユダヤ人虐殺と関係すると言うのか? 私の直感では、ナチズムのユダヤ人虐殺は、二項対立から来ている。つまり、自我のもつ同一性主義から来ているのである。だから、国学的ナショナリズムに近いと思うのである。つまり、自我同一性ナショナリズム=全体主義である。これに政治経済状況が強く絡んでいるのである。今は簡単に言うが、神話が関係するというなら、異教神話ではなく、父権神話が関係するのである。これは、ヤハウェのユダヤ・キリスト教神話と見てもいいのである。つまり、ナチズムは、パラドクシカルであるが、ユダヤ・キリスト教的である。 後で整理したい。 p.s. 参考に、『タンホイザー』の粗筋があるが、興味深い。これは、単純な、精神性と肉欲性との二項対立である。これは二元論であり、いかにも西洋文化である。エリザベート(聖母マリア・キリスト教)とヴェヌス(ヴィーナス・異教)の対立という形式である。 しかし、これは偽りの対立である。異教とは、つまり、女神的宗教とは、本来、性愛と聖性が一致していたのである(神殿娼婦、聖娼がいた) http://critic.exblog.jp/461734 http://web.kyoto-inet.or.jp/ people/tiakio/antiGM/hetaira.html 。天上のヴィーナスと地上のヴィーナスがあり、地上のヴィーナスは、天上のヴィーナスの反映である(ネオプラトニズム的解釈であるが)。 とまれ、『タンホイザー』はこのような異教本来の枠組みを失った西洋文化、それも近代文化の作品と言えよう。言い換えると、本来の異教精神では、エリザベートとヴェヌスとは一体なのである。だから、中世を背景とするなら、そのようになるのが本来的だと思うのである。 だから、この分裂・二元論は何を物語るのか。やはり、同一性中心主義による近代合理主義/近代的自我のもつ分裂性・二元論性である。同一性主義による自我は善悪二元論を形成するだろう。しかし、この自我による「道徳」の起因は何か。(ウィリアム・ブレイクなら、この「道徳」を激烈苛烈に批判したものである。) 先の「同一性、差異、差異共振性について」の考察から見ると、差異=他者の否定に基づく自我同一性道徳である。これは、二項対立であるから、自我同一性が優位であり、差異=他者が劣位である。つまり、自我同一性は正しく、差異=他者は正しくないという価値判断がそこに発生するのであり、これが父権的道徳の起源であろう。(ここで、ニーチェの傑作である『道徳の系譜』を想起するといいだろう。精神の貴族は、自己において価値基盤をもつのであり、自我同一性においてではないのである。自己とは、自己差異、つまり、差異共振性である。それに対して、「道徳」は、差異=他者を否定した自我同一性に存する。) さらに質せば、なぜ、自我同一性は、自己優越を感じるのか。この問題は以前、何度も考えたが、そのときは、自我同一性は、起源として、超越性であるので、他者に対して優位をもつというものであった。さて、それでいいだろうか。 ここで、先に考察した「同一性、差異、差異共振性について」の論考に従えば、差異共振性から同一性が生起する。この同一性が原自我である。ここには、実は、差異共振性が「実存」している。だから、原自我は揺らいでいるのである。同一性でありながらも、差異共振性の揺らぎがあるのである。(思うに、太母文化とは、この差異共振性が太母として中心化されていたのだろう。同一性=原自我は、太母の内に存するのである。イシス/オシリス神話である。) 私は今、創世記の冒頭を想起しているのである。神霊が原自我に当たるのではないだろうか。そして、水が差異共振性である。そして、それにはたらきかけて、神霊は、天地創造するのである。だから、同一性=原自我の能動的作用があり、それが必然的に自己優越性を意味するのではないだろうか。つまり、意識の問題である。本来、原自己と原他者の共振によって、原自我が生まれたのであるが、それが忘却されているのである。自己認識方程式の左辺が忘却されているのである。 ここで少し想像すると、差異共振性の「海」ないしは「水」(p.s. これは、より正確に言えば、「光の海」ないし「光の水」であろう。火と水の融合である。御水取りはこの象徴であろう。)から、同一性=原自我は生まれたのであるが、出自を忘却しているのである。それで、母体が「海」や「水」になっているのである。思うに、「海」や「水」は、一種投影ではないだろうか。つまり、同一性=原自我の基盤(インフラ)には、差異共振性=「海」・「水」があるのであるが、それを同一性=原自我は外界の投影するのではないのか。ユング心理学で言えば、シャドウ(影)である。 ここは微妙なところなので丁寧に考えよう。同一性=原自我(+1)は、確かに、母体の差異共振性を内在、潜在、実存させている。しかしながら、同一性の知は、当然、その差異共振性を真に理解できない。いわば、差異共振性は、影や暈のようになるのである。そして、同一性=原自我は、いわば、宙ぶらりんの状態に置かれるのである。 しかるに、同一性=原自我は、そのような中途半端な様態から離脱すべく、独立する志向をもつと考えられるのである。つまり、同一性=原自我の独立・自立である。そして、その同一性=原自我の独立・自立志向が、差異=他者の否定となるのである。 その前に、同一性=原自我は、他者に自己投影する。そこに、同一性の投影像を観る。この同一性=原自我の投影像が同一性主義の基盤になると言えよう。ここにおいて、差異=他者は否定されてゆくのである。同一性が中心化されて同一性主義ないしは同一性中心主義となり、差異=他者をそれに応じて、裁断するのである。正に、二項対立の力学があるのである。 問題の核心は、投影像にあると言えよう。投影されているのは、本来、差異共振性である「海」や「水」であろう。そこに、同一性=原自我は、同一性の投影を見るのである。ここには、奇妙な二重性が生じているのである。投影像は、差異共振性であると同時に、同一性像である。つまり、ここには、抑圧が生じていると考えられるのである。差異共振性を同一性に縮約する抑圧である。そう、この同一性への縮約・圧縮の力学が、同一性主義=自我に優位性を付与しているものではないか。つまり、本来、差異共振性が源泉・根源であり、ここがエネルギー源である。それ故に、ここを取り込むことにより、同一性=原自我は同一性主義=自我になるのではないだろうか。 先に、差異=他者の否定と言ったが、実際、ここでは、微妙である。差異共振的差異・他者の否定と言う方が正確であろう。とまれ、投影像を介して、同一性=原自我は同一性主義=自我を形成するのであり、そのときの差異共振的差異・他者を同一性へと縮約・圧縮したときの力ないしはエネルギーによって、同一性主義=自我は、差異=他者に対して、優位の意識をもてるのである。だから、同一性主義=自我の力とは、真に独立・自立した力ではなくて、差異=他者に依存しているのである。これは、確認すべきことである。平たく言えば、自我とは、見栄坊・虚栄家である。 また、これまでの述べたように、エネルギーの活性化の問題があるのである。同一性主義=自我は、縮約・圧縮した差異共振性からエネルギーを取り込んでいるが、しかし、それは、いわば、エントロピーの増加であり、エネルギーは枯渇するのである。(これは、端的に、うつ病の症状であろう。) つまり、同一性主義=自我は、内なる差異共振性に対して、壁をつくっているので、差異共振エネルギーを注入することができないのである。同一性主義という壁が心の領域に生じているのである。言い換えると、同一性主義=自我と差異共振エネルギーが乖離・分裂しているのである。だから、統合失調症の症状でもあるのである。 新たに差異共振エネルギーを取り込む回路を創る必要があるのである。ここで、陰陽論に用いれば、同一性主義とは、陽主義であり、差異主義とは、陰主義であり、太極が差異共振性であろう。(p.s. この点に関しては、慎重に、精緻に考えるべきである。太極はMedia Pointであり、差異共振性である。そして、同一性志向性が陽であり、差異志向性が陰ではないだろうか。そして、同一性主義とは、陽が極限化した場合で、陰=差異志向性が無のようになる事態ではないか。とまれ、既述したが、陽を+i、陰を-i、太極を(+i)*(-i)とすればいいと思われるのである。ここで少し議論すると、問題として、どうして、同一性の場合、陰陽が反発するのかということがある。通常は陰陽の極性は引きつけるはずである。どうしたことなのか。これは、やはり、陰陽力学で考えるといいのかもしれない。つまり、陰や陽への傾斜する事態を考えればいいのではないだろうか。陽極へと傾斜するときに、同一性へ傾斜する。そして、陰極のときは、差異へと傾斜する。つまり、太極の流動ダイナミクスである。この考え方は、既に何度も試みてはいる。とまれ、それを作業仮説とすると、陽極へ傾斜して同一性主義となり、陰極へ傾斜して差異主義となるとしよう。前者が近代主義とするなら、後者はポスト・モダンである。問題は、差異共振性を新たに発見することである。特異点・不連続点であるMedia Pointを発見すべきなのである。これによって、太極の連続的振り子運動は乗り越えられるのである。太極の本体へと回帰すべきなのである。同一性と差異との共振、つまり、差異共振性を新たに発見すべきなのである。 p.p.s. ここで、同一性と差異との共振として差異共振を言ったが、差異共振ならば、差異と差異との共振ではないのか、という素朴な疑問が生じるだろう。この場合、同一性は+iであり、差異は-iである。そして、単純に言って、+iを差異と言うことができるのである。これで説明は済むわけだが、もう少し、測深して言うと、同一性+iは、自己内部を思考すると、差異-iに達する。しかし、差異へ傾斜すると、差異主義となり、それは、同一性主義の反転に過ぎなくなる。問題は、+iと-iとの共振するMedia Pointを感知することである。思うに、差異へと測深し出した同一性は、同一性主義から脱して、特異なエネルギーに到達すると思える。これがMedia Pointの様態である。そして、同一性を支点にしつつ、Media Pointの差異共振様態に到達していると考えられる。だから、そこでは、同一性以外の+iと-iとの差異共振が生起しているように思えるのである。同一性以外の+iとは何だろうか。それは、陽としての差異ではないだろうか。そして、-iは陰としての差異である。陽差異と陰差異との陰陽差異共振が発生していることになるのである。) 最後に、差異共振エネルギーの縮約・圧縮の力学について考察したい。これはおそらく、反動エネルギーである。差異共振エネルギーに同一性の力が圧力をかけるのである。そのとき、反動エネルギーが発生するのである。それが、縮約・圧縮ではないだろうか。 だから、差異共振エネルギーが十分あるときは、反動エネルギーも強度をもつが、差異共振エネルギーが枯渇すると、反動エネルギーも少なくなり、自我は力を失い、うつ病等の心の病になると考えられるのである。ここで留めたい。 参照: 共同体って何? bunkatekikeikan09.gif 文化庁「農林水産業に関連する文化的景観の保護に関する調査研究(報告)」リンク より拝借致しました。 このブログのタイトルにもありますが「共同体社会」って一体どんな社会なのか?改めて考えてみるとぼんやりと「みんなで協働している社会」って感じぐらいのイメージしか沸いてきません。日常においても度々共同体という言葉は耳にすることがありますが、どんな社会のことを言うのか?って現代の人々にとっては意外とイメージできないのかなぁって感じています。ちょっと前の日本の社会にも「村落共同体があった」とよく言われます。そこで、改めて m030 「共同体」とはどんな社会なのか?どんな状態の社会? Shocked m030 なんで共同体なのか?(本質は?) Shocked m030 共同って何するの m002 Shocked といろいろと疑問が沸いてきます。何となく「共同体」っていい社会だったように思いますが、その本質を理解することが一番大切かなと思います。そのことを端的に書かれているものが「るいネット」にありますので紹介します。 http://blog.jinruisi.net/ blog/2007/10/000274.html 知られざる人類婚姻史と共同体社会 ******************** プラガル終止 2008年01月16日(水) 今日はお医者さんの日で、書けないことばかりなので、先日のオペラの話。 チェコのブルノ歌劇場の公演で、主役ハインリヒ・フォン・タンホイザーを演じたエルネスト・グリサレスは、本来はイタリアオペラの歌手だそうで、ドイツ風のヘルデン・テノール(英雄のテノール)を歌うにはちょっと声量不足だったが、あとは、聖処女エリザベート役のダナ・ブレショヴァーも、タンホイザーの親友のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ役のリヒァルト・ハーンも、きわめて声量も表現力も豊かで、それはもうすばらしかった。3幕の、ヴォルフラムの「夕星の歌」の前後は、泣いちゃったなあ。合唱が、スラブの合唱団にしてはやや細身で、もう一息迫力がほしかった。もっとも、劇場(兵庫県芸術文化センター大ホール)が大きすぎたのかもしれない。オペラは、あんな大きな劇場を想定しては作られていない。 最後、エリザベートの死の贖罪で救われたタンホイザーが死ぬとき、合唱があって、最後の最後に「巡礼の合唱」のモティーフが出てから、オーケストラだけのコーダに入る。その最後が、なんとプラガル終止をしている。プラガル終止というのは、ファ・ラ・ドの和音からド・ミ・ソの和音に入る進行で曲を終わることで、通称アーメン終止というように、讃美歌の最後につけられる「アーメン」の部分の和声進行だ。 そうなんだ、このオペラは、ワーグナーが書いた巨大なミサ曲なんだ。ただし、それは、キリスト教を装っているが、きわめて異教的だ。聖処女の犠牲によって肉欲の罪に穢れた騎士が救われるなんて、正真正銘の原始宗教だ。「人身御供」だの「人柱」だのというたぐいの話だ。そういうきわめて原始宗教的な信仰を、19世紀にもなってからワーグナーが宣揚しようとしたのはどうしてだろう。たぶんドイツ民族のアイデンティティ確立のためだと思う。 ということは、ワーグナーのオペラの台本の構造分析をすると、ドイツ人の深層構造がわかるということだ。いや、それは実はわかっていて、その具体的な現象化がナチズムだったのだ。だから、今では誰もその深層構造には触れないようにしているのかもしれない。現代のドイツ人たち(といっても、知っているのはアドレリアンたちだが)の奇妙な内的混乱は、たぶんそのことと関係があるのだろうと思う。彼らは、表層的にはナチズムを拒否しながら、しかも「聖処女の犠牲で肉欲地獄から救済される騎士」という深層の物語を相変わらず信じ続けているので、困っているのだろう。ナチズムに代わる新しい現象化ができないでいるのだと思う。 ともあれ、オペラ『タンホイザー』は、こんにちも神聖なプラガル終止で荘厳な「アーメン」を唱えながら異教的な典礼を終わるのだ。ドイツ人は、それを聴くたびに、深層構造を思い出して、表面的には混乱に陥りつつも、内的には恍惚にひたるのだろう。ちょっと恐いね。 http://jalsha.cside8.com/ diary/2008/01/16.html 野田俊作の補正項 ************ 参考: ■台本 リヒャルト・ワーグナー ■時 13世紀はじめ ■所 チューリンゲンのヴァルトブルク ■おもな登場人物 ヘルマン チューリンゲンの領主 エリザベート ヘルマンの姪 タンホイザー 吟遊詩人、騎士。エリザベートと愛し合っていた。 ヴォルフラム 同じく吟遊詩人、騎士。タンホイザーの友人。エリザベートに淡い恋心を抱いている。 ヴェーヌス ヴェーヌスベルクに住む快楽の女神 ■あらすじ(参考:渡辺護著「ワーグナーの作品」) ■背景 ドイツ中世では、騎士たちもミンネゼンガー(恋愛歌人)として歌う習慣がありましたが、その一人、タンホイザーは、エリザベートとの清い愛があったにもかかわらず、官能の愛を求め、ヴェーヌスベルクにおもむいて、妖艶なヴェーヌスのとりこになっていました。 ■第1幕 第1場 ヴェーヌスベルクの洞窟の中で、タンホイザーとヴェーヌスが歓楽的な愛にふけっています。 第2場 ヴェーヌスの美しさをたたえながらも、故郷への思いが押さえきれなくなったタンホイザーは、ヴェーヌスと分かれる決心をします。ヴェーヌスは何とかひき止めようとしますが、タンホイザーの意志は堅いものがありました。タンホイザーが去ると同時にヴェーヌスベルクは崩れ落ち、消え去ります。 第3場 タンホイザーは、いつの間にかヴァルトブルクの城が見える谷に立っています。巡礼の行列が近づき、また遠のいてゆくのを見つめていたタンホイザーは、感動し、地に頭をたれて泣きます。 第4場 ヘルマンと騎士たちが通りかかり、昔の仲間のタンホイザーをみとめて喜びます。タンホイザーは、官能の情欲におぼれた自分の罪の重さを思い、旧友たちの厚情を容易には受け入れることができませんが、エリザベートが待っていると聞かされると、勇気付けられ、仲間に加わります。 ■第2幕 第1場 ヴァルトブルク城内にある歌の殿堂の広間。エリザベートが登場し、タンホイザーがふたたび歌合戦に参加する喜びを歌います。 第2場 ヴォルフラムに導かれたタンホイザーが、エリザベートと再会します。喜び合う二人ですが、ヴォルフラムは苦しいあきらめに至らなければなりません。 第3場 タンホイザーとヴォルフラムが去ったあと、ヘルマンが現われ、エリザベートに優しく歌合戦が近づきつつあることを知らせ、幸運を祈ります。 第4場 歌合戦を見に、騎士や貴婦人が入場、最後に歌手たちも入場してきます。歌合戦の始まりです。ヴォルフラムをはじめとする騎士たちは、清らかな愛をたたえる歌を歌いますが、タンホイザーはそれらにことごとく反論を唱え、恍惚となってヴェーヌスをたたえます。騎士たちは憤激してタンホイザーに切りかかりますが、エリザベートがそれを押しとどめ命乞いをします。タンホイザーも正気に返って呆然となります。ヘルマンは、このような大罪の許しを乞うには、ローマへ行って教皇の許しを得るほかはないと言い、教皇の許しが得られるまで帰ってくることはならぬと宣言します。タンホイザーは「ローマへ!」と叫んで、遠くを通る巡礼たちの群に加わるため、去って行きます。 ■第3幕 第1場 ヴァルトブルク山麓、エリザベートがマリア像の前でタンホイザーのために祈っています。ヴォルフラムが現われ、彼女に同情して歌います。そこに、罪をあがなった巡礼が通りかかります。エリザベートはその中にタンホイザーの姿を探しますが、無駄でした。彼女はマリア像に祈りを捧げ、タンホイザーの罪が許されるなら自分の命を捨てても良いと言います。 第2場 一人残ったヴォルフラムは、空にやさしく輝く星がエリザベートの道を照らしてくれるようにと歌います(夕星の歌)。 第3場 消沈した姿のタンホイザーが現われます。苦しいローマ行きの模様をヴォルフラムに語りますが、教皇から許しを得られなかったタンホイザーは、今やヴェーヌスのみを求めようとしています。ヴェーヌスが現われ、タンホイザーを迎えようとしますが、ヴォルフラムが「エリザベート!」と叫ぶと、タンホイザーは狂気よりさめ、ヴェーヌスは地中へ消え去ります。その時、エリザベートは死骸となって運ばれてきたのです。タンホイザーも、彼女の遺体の前でこときれます。そこへ、若い巡礼たちの一行が、緑の葉の生えた杖を持ってきます。教皇の予言では、それはタンホイザーが救われたしるし。彼は、エリザベートの犠牲によって、救済されたのでした。 http://www.ne.jp/asahi/jurassic /page/rule_f/tanhauser.htm
2008年01月20日(Sun)▲ページの先頭へ
『タンホイザー』とナチズム:異教とファシズム/全体主義
以下のエッセイで、ワグナーの『タンホイザー』の異教性とナチズムとの共通性を述べているが、私は疑問に思った。そう、ユングがナチズムを北欧神話の神オーディンの復活だと考えていたのを想起する。
http://www2u.biglobe.ne.jp/ ~BLUEMAGI/NorseMythj.htm http://blog.so-net.ne.jp/plant/ 2007-04-03 私はそのような考えが短絡的ではないかと思うのである。神話学的心理学を歴史上問題のある事象にあてはめるのは危険であると思うのである。例えば、太平洋戦争における日本軍は、神道的神話の顕現であると言えるのだろうか。天照大神を反映する全体主義であったのか。とてもそうとは言えないだろう。 「聖処女」の犠牲によって肉欲の地獄から救われるという神話がどうして、ナチズムと関係するのか。「聖処女」の犠牲がユダヤ人虐殺と関係すると言うのか? 私の直感では、ナチズムのユダヤ人虐殺は、二項対立から来ている。つまり、自我のもつ同一性主義から来ているのである。だから、国学的ナショナリズムに近いと思うのである。つまり、自我同一性ナショナリズム=全体主義である。これに政治経済状況が強く絡んでいるのである。今は簡単に言うが、神話が関係するというなら、異教神話ではなく、父権神話が関係するのである。これは、ヤハウェのユダヤ・キリスト教神話と見てもいいのである。つまり、ナチズムは、パラドクシカルであるが、ユダヤ・キリスト教的である。 後で整理したい。 p.s. 参考に、『タンホイザー』の粗筋があるが、興味深い。これは、単純な、精神性と肉欲性との二項対立である。これは二元論であり、いかにも西洋文化である。エリザベート(聖母マリア・キリスト教)とヴェヌス(ヴィーナス・異教)の対立という形式である。 しかし、これは偽りの対立である。異教とは、つまり、女神的宗教とは、本来、性愛と聖性が一致していたのである(神殿娼婦、聖娼がいた) http://critic.exblog.jp/461734 http://web.kyoto-inet.or.jp/ people/tiakio/antiGM/hetaira.html 。天上のヴィーナスと地上のヴィーナスがあり、地上のヴィーナスは、天上のヴィーナスの反映である(ネオプラトニズム的解釈であるが)。 とまれ、『タンホイザー』はこのような異教本来の枠組みを失った西洋文化、それも近代文化の作品と言えよう。言い換えると、本来の異教精神では、エリザベートとヴェヌスとは一体なのである。だから、中世を背景とするなら、そのようになるのが本来的だと思うのである。 だから、この分裂・二元論は何を物語るのか。やはり、同一性中心主義による近代合理主義/近代的自我のもつ分裂性・二元論性である。同一性主義による自我は善悪二元論を形成するだろう。しかし、この自我による「道徳」の起因は何か。(ウィリアム・ブレイクなら、この「道徳」を激烈苛烈に批判したものである。) 先の「同一性、差異、差異共振性について」の考察から見ると、差異=他者の否定に基づく自我同一性道徳である。これは、二項対立であるから、自我同一性が優位であり、差異=他者が劣位である。つまり、自我同一性は正しく、差異=他者は正しくないという価値判断がそこに発生するのであり、これが父権的道徳の起源であろう。(ここで、ニーチェの傑作である『道徳の系譜』を想起するといいだろう。精神の貴族は、自己において価値基盤をもつのであり、自我同一性においてではないのである。自己とは、自己差異、つまり、差異共振性である。それに対して、「道徳」は、差異=他者を否定した自我同一性に存する。) さらに質せば、なぜ、自我同一性は、自己優越を感じるのか。この問題は以前、何度も考えたが、そのときは、自我同一性は、起源として、超越性であるので、他者に対して優位をもつというものであった。さて、それでいいだろうか。 ここで、先に考察した「同一性、差異、差異共振性について」の論考に従えば、差異共振性から同一性が生起する。この同一性が原自我である。ここには、実は、差異共振性が「実存」している。だから、原自我は揺らいでいるのである。同一性でありながらも、差異共振性の揺らぎがあるのである。(思うに、太母文化とは、この差異共振性が太母として中心化されていたのだろう。同一性=原自我は、太母の内に存するのである。イシス/オシリス神話である。) 私は今、創世記の冒頭を想起しているのである。神霊が原自我に当たるのではないだろうか。そして、水が差異共振性である。そして、それにはたらきかけて、神霊は、天地創造するのである。だから、同一性=原自我の能動的作用があり、それが必然的に自己優越性を意味するのではないだろうか。つまり、意識の問題である。本来、原自己と原他者の共振によって、原自我が生まれたのであるが、それが忘却されているのである。自己認識方程式の左辺が忘却されているのである。 ここで少し想像すると、差異共振性の「海」ないしは「水」(p.s. これは、より正確に言えば、光の海ないし光の水であろう。火と水の融合である。御水取りはこの象徴であろう。)から、同一性=原自我は生まれたのであるが、出自を忘却しているのである。それで、母体が「海」や「水」になっているのである。思うに、「海」や「水」は、一種投影ではないだろうか。つまり、同一性=原自我の基盤(インフラ)には、差異共振性=「海」・「水」があるのであるが、それを同一性=原自我は外界の投影するのではないのか。ユング心理学で言えば、シャドウ(影)である。 ここは微妙なところなので丁寧に考えよう。同一性=原自我(+1)は、確かに、母体の差異共振性を内在、潜在、実存させている。しかしながら、同一性の知は、当然、その差異共振性を真に理解できない。いわば、差異共振性は、影や暈のようになるのである。そして、同一性=原自我は、いわば、宙ぶらりんの状態に置かれるのである。 しかるに、同一性=原自我は、そのような中途半端な様態から離脱すべく、独立する志向をもつと考えられるのである。つまり、同一性=原自我の独立・自立である。そして、その同一性=原自我の独立・自立志向が、差異=他者の否定となるのである。 その前に、同一性=原自我は、他者に自己投影する。そこに、同一性の投影像を観る。この同一性=原自我の投影像が同一性主義の基盤になると言えよう。ここにおいて、差異=他者は否定されてゆくのである。同一性が中心化されて同一性主義ないしは同一性中心主義となり、差異=他者をそれに応じて、裁断するのである。正に、二項対立の力学があるのである。 問題の核心は、投影像にあると言えよう。投影されているのは、本来、差異共振性である「海」や「水」であろう。そこに、同一性=原自我は、同一性の投影を見るのである。ここには、奇妙な二重性が生じているのである。投影像は、差異共振性であると同時に、同一性像である。つまり、ここには、抑圧が生じていると考えられるのである。差異共振性を同一性に縮約する抑圧である。そう、この同一性への縮約・圧縮の力学が、同一性主義=自我に優位性を付与しているものではないか。つまり、本来、差異共振性が源泉・根源であり、ここがエネルギー源である。それ故に、ここを取り込むことにより、同一性=原自我は同一性主義=自我になるのではないだろうか。 先に、差異=他者の否定と言ったが、実際、ここでは、微妙である。差異共振的差異・他者の否定と言う方が正確であろう。とまれ、投影像を介して、同一性=原自我は同一性主義=自我を形成するのであり、そのときの差異共振的差異・他者を同一性へと縮約・圧縮したときの力ないしはエネルギーによって、同一性主義=自我は、差異=他者に対して、優位の意識をもてるのである。だから、同一性主義=自我の力とは、真に独立・自立した力ではなくて、差異=他者に依存しているのである。これは、確認すべきことである。平たく言えば、自我とは、見栄坊・虚栄家である。 また、これまでの述べたように、エネルギーの活性化の問題があるのである。同一性主義=自我は、縮約・圧縮した差異共振性からエネルギーを取り込んでいるが、しかし、それは、いわば、エントロピーの増加であり、エネルギーは枯渇するのである。(これは、端的に、うつ病の症状であろう。) つまり、同一性主義=自我は、内なる差異共振性に対して、壁をつくっているので、差異共振エネルギーを注入することができないのである。同一性主義という壁が心の領域に生じているのである。言い換えると、同一性主義=自我と差異共振エネルギーが乖離・分裂しているのである。だから、統合失調症の症状でもあるのである。 新たに差異共振エネルギーを取り込む回路を創る必要があるのである。ここで、陰陽論に用いれば、同一性主義とは、陽主義であり、差異主義とは、陰主義であり、太極が差異共振性であろう。 最後に、差異共振エネルギーの縮約・圧縮の力学について考察したい。これはおそらく、反動エネルギーである。差異共振エネルギーに同一性の力が圧力をかけるのである。そのとき、反動エネルギーが発生するのである。それが、縮約・圧縮ではないだろうか。 だから、差異共振エネルギーが十分あるときは、反動エネルギーも強度をもつが、差異共振エネルギーが枯渇すると、反動エネルギーも少なくなり、自我は力を失い、うつ病等の心の病になると考えられるのである。ここで留めたい。 ******************************** プラガル終止 2008年01月16日(水) 今日はお医者さんの日で、書けないことばかりなので、先日のオペラの話。 チェコのブルノ歌劇場の公演で、主役ハインリヒ・フォン・タンホイザーを演じたエルネスト・グリサレスは、本来はイタリアオペラの歌手だそうで、ドイツ風のヘルデン・テノール(英雄のテノール)を歌うにはちょっと声量不足だったが、あとは、聖処女エリザベート役のダナ・ブレショヴァーも、タンホイザーの親友のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ役のリヒァルト・ハーンも、きわめて声量も表現力も豊かで、それはもうすばらしかった。3幕の、ヴォルフラムの「夕星の歌」の前後は、泣いちゃったなあ。合唱が、スラブの合唱団にしてはやや細身で、もう一息迫力がほしかった。もっとも、劇場(兵庫県芸術文化センター大ホール)が大きすぎたのかもしれない。オペラは、あんな大きな劇場を想定しては作られていない。 最後、エリザベートの死の贖罪で救われたタンホイザーが死ぬとき、合唱があって、最後の最後に「巡礼の合唱」のモティーフが出てから、オーケストラだけのコーダに入る。その最後が、なんとプラガル終止をしている。プラガル終止というのは、ファ・ラ・ドの和音からド・ミ・ソの和音に入る進行で曲を終わることで、通称アーメン終止というように、讃美歌の最後につけられる「アーメン」の部分の和声進行だ。 そうなんだ、このオペラは、ワーグナーが書いた巨大なミサ曲なんだ。ただし、それは、キリスト教を装っているが、きわめて異教的だ。聖処女の犠牲によって肉欲の罪に穢れた騎士が救われるなんて、正真正銘の原始宗教だ。「人身御供」だの「人柱」だのというたぐいの話だ。そういうきわめて原始宗教的な信仰を、19世紀にもなってからワーグナーが宣揚しようとしたのはどうしてだろう。たぶんドイツ民族のアイデンティティ確立のためだと思う。 ということは、ワーグナーのオペラの台本の構造分析をすると、ドイツ人の深層構造がわかるということだ。いや、それは実はわかっていて、その具体的な現象化がナチズムだったのだ。だから、今では誰もその深層構造には触れないようにしているのかもしれない。現代のドイツ人たち(といっても、知っているのはアドレリアンたちだが)の奇妙な内的混乱は、たぶんそのことと関係があるのだろうと思う。彼らは、表層的にはナチズムを拒否しながら、しかも「聖処女の犠牲で肉欲地獄から救済される騎士」という深層の物語を相変わらず信じ続けているので、困っているのだろう。ナチズムに代わる新しい現象化ができないでいるのだと思う。 ともあれ、オペラ『タンホイザー』は、こんにちも神聖なプラガル終止で荘厳な「アーメン」を唱えながら異教的な典礼を終わるのだ。ドイツ人は、それを聴くたびに、深層構造を思い出して、表面的には混乱に陥りつつも、内的には恍惚にひたるのだろう。ちょっと恐いね。 http://jalsha.cside8.com/ diary/2008/01/16.html 野田俊作の補正項 ****************** 参考: ■台本 リヒャルト・ワーグナー ■時 13世紀はじめ ■所 チューリンゲンのヴァルトブルク ■おもな登場人物 ヘルマン チューリンゲンの領主 エリザベート ヘルマンの姪 タンホイザー 吟遊詩人、騎士。エリザベートと愛し合っていた。 ヴォルフラム 同じく吟遊詩人、騎士。タンホイザーの友人。エリザベートに淡い恋心を抱いている。 ヴェーヌス ヴェーヌスベルクに住む快楽の女神 ■あらすじ(参考:渡辺護著「ワーグナーの作品」) ■背景 ドイツ中世では、騎士たちもミンネゼンガー(恋愛歌人)として歌う習慣がありましたが、その一人、タンホイザーは、エリザベートとの清い愛があったにもかかわらず、官能の愛を求め、ヴェーヌスベルクにおもむいて、妖艶なヴェーヌスのとりこになっていました。 ■第1幕 第1場 ヴェーヌスベルクの洞窟の中で、タンホイザーとヴェーヌスが歓楽的な愛にふけっています。 第2場 ヴェーヌスの美しさをたたえながらも、故郷への思いが押さえきれなくなったタンホイザーは、ヴェーヌスと分かれる決心をします。ヴェーヌスは何とかひき止めようとしますが、タンホイザーの意志は堅いものがありました。タンホイザーが去ると同時にヴェーヌスベルクは崩れ落ち、消え去ります。 第3場 タンホイザーは、いつの間にかヴァルトブルクの城が見える谷に立っています。巡礼の行列が近づき、また遠のいてゆくのを見つめていたタンホイザーは、感動し、地に頭をたれて泣きます。 第4場 ヘルマンと騎士たちが通りかかり、昔の仲間のタンホイザーをみとめて喜びます。タンホイザーは、官能の情欲におぼれた自分の罪の重さを思い、旧友たちの厚情を容易には受け入れることができませんが、エリザベートが待っていると聞かされると、勇気付けられ、仲間に加わります。 ■第2幕 第1場 ヴァルトブルク城内にある歌の殿堂の広間。エリザベートが登場し、タンホイザーがふたたび歌合戦に参加する喜びを歌います。 第2場 ヴォルフラムに導かれたタンホイザーが、エリザベートと再会します。喜び合う二人ですが、ヴォルフラムは苦しいあきらめに至らなければなりません。 第3場 タンホイザーとヴォルフラムが去ったあと、ヘルマンが現われ、エリザベートに優しく歌合戦が近づきつつあることを知らせ、幸運を祈ります。 第4場 歌合戦を見に、騎士や貴婦人が入場、最後に歌手たちも入場してきます。歌合戦の始まりです。ヴォルフラムをはじめとする騎士たちは、清らかな愛をたたえる歌を歌いますが、タンホイザーはそれらにことごとく反論を唱え、恍惚となってヴェーヌスをたたえます。騎士たちは憤激してタンホイザーに切りかかりますが、エリザベートがそれを押しとどめ命乞いをします。タンホイザーも正気に返って呆然となります。ヘルマンは、このような大罪の許しを乞うには、ローマへ行って教皇の許しを得るほかはないと言い、教皇の許しが得られるまで帰ってくることはならぬと宣言します。タンホイザーは「ローマへ!」と叫んで、遠くを通る巡礼たちの群に加わるため、去って行きます。 ■第3幕 第1場 ヴァルトブルク山麓、エリザベートがマリア像の前でタンホイザーのために祈っています。ヴォルフラムが現われ、彼女に同情して歌います。そこに、罪をあがなった巡礼が通りかかります。エリザベートはその中にタンホイザーの姿を探しますが、無駄でした。彼女はマリア像に祈りを捧げ、タンホイザーの罪が許されるなら自分の命を捨てても良いと言います。 第2場 一人残ったヴォルフラムは、空にやさしく輝く星がエリザベートの道を照らしてくれるようにと歌います(夕星の歌)。 第3場 消沈した姿のタンホイザーが現われます。苦しいローマ行きの模様をヴォルフラムに語りますが、教皇から許しを得られなかったタンホイザーは、今やヴェーヌスのみを求めようとしています。ヴェーヌスが現われ、タンホイザーを迎えようとしますが、ヴォルフラムが「エリザベート!」と叫ぶと、タンホイザーは狂気よりさめ、ヴェーヌスは地中へ消え去ります。その時、エリザベートは死骸となって運ばれてきたのです。タンホイザーも、彼女の遺体の前でこときれます。そこへ、若い巡礼たちの一行が、緑の葉の生えた杖を持ってきます。教皇の予言では、それはタンホイザーが救われたしるし。彼は、エリザベートの犠牲によって、救済されたのでした。 http://www.ne.jp/asahi/j urassic/page/rule_f/tanhauser.htm 同一性と差異と差異共振性について:その2:二つの否定について
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10066731252.html 先に、このタイトルで考察したが、これは、まだまだ論じたりない、又実に興味深い論点なので、さらに考察を行ないたい。 問題は、差異共振性(Media Point)の「カオスモス」(暈のようなもの:量子様態であろう)から、同一性が発生するが、それは言語形成と言っていいだろう。つまり、言語的同一性の形成である。しかしながら、同時にそれは、物質の形成と言ってもいいと考えられる。つまり、言語とは、一種の物質であると考えられるのである。 当然、同一性は、差異を否定するのであるが、差異とは他者である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1では、-iである。しかし、問題は、先にも触れたが、同一性と同一性主義との区別である。+1が同一性であり、-1が同一性主義であると述べたのである。 しかし、ここでは、同一性は差異を否定するのであるから、(+i)・[-(-i)]=-1となるのではないのか。そうすると、それは、同一性ではなくて、同一性主義になるのである。この矛盾をどう見るのか。 丁寧に考えよう。差異共振性(Media Point)から同一性が発生する際に、差異を否定すると言ったが、正しくは、差異共振性の否定であろう。つまり、正に、自己認識方程式(+i)*(- i)⇒+1の⇒の事象が発生していると考えられるのである。*の共振が・の積に転換して、+1が発生するのである。換言すると、共振性*の否定としての積・が生じて、同一性+1が発生するということである。 では、どうして、同一性の発生のとき、差異=他者を否定すると言ってしまった(しまう)のか。これは、知覚の現象の問題であろう。知覚において、とりわけ、視覚において、対象としての差異=他者が存するが、対象としての差異=他者とは既に、同一性=物質であり、これを主体の意識は否定して、同一性の自我を形成すると考えられるのである。つまり、自我形成においては、差異=他者の否定-(-i)が生じるのであり、同一性ではなくて、同一性主義が生起するのである。 ということで、同一性形成とは、差異共振性の「否定」であり、同一性主義形成とは差異の「否定」であるということになった。この二つの「否定」はそれぞれ意味が異なるだろう。 前者に関しては、量子論を考えるといいと思う。差異共振性である量子が「否定」されて、同一性の物質へと転換されると考えられるのである。そして、物質(=同一性)の極性においてMedia Point(差異共振性)が潜んでいると考えられるのである。そこは、物質の不連続点、すなわち、特異点であり、イデア的超越性が作用するのである。結局、第一の「否定」では、差異=他者-iは否定されないのであり、否定されるのは、差異共振性である。 では、後者の「否定」について考えよう。これは複雑である。第一には、差異=他者の否定であり、(+i)×[-(-i)]=-1である。しかしながら、現象においては、(+i)*(-i)の事象が発生していると考えられるのである。つまり、差異共振性も発生しているのである。 まとめると、意識現象は、差異共振性があり、また、同一性があり、そして、同一性主義(自我)があるのであり、結局、三相性があるのである。同一性であるが、それは、この場合、原自我であろう。 結局、意識現象における「否定」は、差異=他者の否定であるが、それは、原自我による「否定」であり、それは、同時に、差異共振性の否定なのである。つまり、二重の否定がここにはあると考えられるのである。即ち、差異=他者の否定であり、差異共振性の否定である。 結局、意識現象において、±1の事態が発生していると考えられるのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を展開させて、自我認識方程式(+i)*(-i)⇒±1が考えられるのである。 そして、自我の分裂性は、この±1に発現していると考えられるのである。+1においては、差異共振性は「実存」しているのであり、-1においては、差異共振性は排除されているのである。両者、「否定」様態であるが、意味が異なるのである。明確に区別するために、前者の「否定」を潜在的否定、後者の「否定」を排除的否定と、暫定的に呼びたい。 ここで、近代的自我/近代合理主義を考えると、それは、後者の排除的否定が中心化されて、後者が喪失されているのである。つまり、自我中心主義となり、差異共振性がまったく排除されているのである。言い換えると、差異=他者の否定が、差異共振性を排除的に否定しているのである。パラノイア/モノマニア化である。 そして、この同一性中心主義化とは、近代における数量主義が原因であると言えよう。つまり、唯物論化である。これが、同一性中心主義を決定したと考えられるのである。 では、なぜ、数量主義・唯物論化が生じたのかとなる。それは、これまで述べ尽くしたように、同一性への傾斜である。つまり、父権的傾斜である。これで本稿を終える。 同一性と差異と差異共振性との関係について:言葉三元論と言語二元論:トランス・モダン・サイエンスへ
先に、差異と同一性について検討したが、不整合が生じたので、ここで再検討したい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10066558387.html http://ameblo.jp/renshi/entry-10066611008.html 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、+iを同一性、-iを差異、そして、左辺の(+i)*(-i)を差異共振性と先に考えたが、考察において、不整合が生じたので、ここで再検討したい。 問題は、最初、言葉において、+iを知=同一性とし、-iを心魂性として、両者の差異共振性が、知心言(知魂言)になると説いたことから発している。その後、+iを近代合理主義、-iを非合理主義(狂気情動)とし、両者の二元論・二項対立によって否定・排除・隠蔽されたものとして、差異共振性が第三項であるが、それこそ、エネルギーの根源・源泉であり、その抑圧は、心的病気、うつ病や統合失調症を生むだろうというようなことを述べたのである。 不整合は、心魂性とは、端的に言えば、差異共振性であり、最初に言ったように、-iではないのであり、心魂性の様相について生じているのである。つまり、最初に-iが心魂性であり、次に(+i)*(-i)の差異共振性を心魂性と言ったのである。 最初は言語の問題についてである。知心言ないしは知魂言としての言語において、同一性(知)と差異(心魂性)との差異共振性が発現していると考えたのである。そのときの私の勘違いは、差異を心魂性としたことである。そして、先ず、言葉を同一性と差異との共振性にあると見たことである。 さて、ここで言葉について考察すると、言語と言葉では意味が違うだろう。言語と言ったとき、言葉から発話的具体性を捨象しているように思える。端的に言えば、言葉から心魂性、心魂的波動、精神性を捨象しているのである。だから、言語学とは別に、言葉学が必要であると考えられる。例えば、音声学で言えば、言葉の声のもつ心的波動を捨象して、言葉の声(言声と造語しようか)の同一性の形式の対立、つまり、構造対立だけを扱っているのである。声の差異共振性である心魂性・精神性を捨象して、声の同一性形式・同一性対立構造を扱っている構造主義になっていると考えられるのである。これは、明らかに、近代合理主義の狂気の一環である。狂気の学問である。つまり、声という差異を抽象して、同一性である音声を取り出すのである。そして、音声の二項対立・対立構造を取り出して、体系化しているのである。 今、論考の不整合について、整理するといいだろう。私は今、声を差異と言い、音声学の音声を同一性と言った。そして、私が言う差異共振性である心魂性とは、声(言声)=差異に存し得るものである。 言葉(声言)は、観念的知(同一性)と言声(差異)の結合であり、言声=差異には、差異共振性=心魂性を存在し得るのである。 ということで、試論の不整合を修正すると、先に言った知心言・知魂言としての言葉・声言とは、同一性(知)と差異(声)との結合であるが、両者の結合において、特に、差異(声)に存し得る差異共振性=心魂性が発現した言葉であるということになるだろう。これで、不整合は取り除かれたと言えよう。 では、ついでに、音声学の同一性主義についてさらに触れたい。これは、差異である声を同一性化して、音声(ないしは音韻)という抽象形式を取り出しているのである。差異=声の同一性化がここにはあるのであり、差異=声を捨象した同一性主義、近代合理主義、近代科学になっているのである。 この視点から、ソシュール言語学やデリダ哲学を考えると興味深いだろう。言葉を同一性(知)と差異(声)との結合であると上述したが、ソシュールは、原観念と原音声との一体化として言語を考えていた。そして、言語における意味するものをシニフィアン、そして、意味されるものをシニフィエと呼んだのは、よく知られていることである。ソシュールの構造主義言語学の問題は、シニフィアンを同一性に限定したことである。ソシュールは同一性に基礎をもつ差異をとり出して、その差異の構造を共時性の体系と見たのであるが、基礎は同一性なのであり、その差異とは、同一性の対立・極性なのである。例えば、petとbet におけるpと bとの音韻の相違である。pとbが同形の無声子音と有声子音ということで対立しているのである。この場合、同形が同一性であり、無声と有声が対立であり、この二項対立が構造になっているのである。つまり、同一性における肯定と否定との極性・二元論が構造を形成しているのである。ここでは、pやbの声・言声のもつ心魂性が捨象されているのである。思うに、破裂音であるpやbは、常識的に見て、なにか吐き出す志向性があると言えよう。そして、pの方が軽く、b の方が重いと考えられよう(日本語でも、英語、また、その他の言語でもおそらくそうだろう)。言い換えると、声の心象性が捨象されると言えよう。 ということで、簡単ではあるが、ソシュール構造主義言語学とは、声を同一性化し、同一性の対立性・二元性を体系化した言語であり、声の差異ないしは心象性が捨象されているのである。 次に、『声と現象』において、フッサール現象学を批判したデリダを見てみよう。デリダは、声を形而上学の現前が存するものとして批判し、エクリチュールを擁護する。確かに、ソシュールにおける同一性化された声を見る限り、その批判は正しい。つまり、同一性主義(デリダのいうロゴス中心主義)批判として正しい。しかしながら、声に差異ないしは差異共振性を見るならば、途端にデリダの批判は成立しなくなるのである。デリダ哲学の破綻が生じるのである。当然、フッサール現象学批判も成り立たなくなるのである。(これで、簡単ながら、ポスト・モダン批判となる。)エクリチュール擁護論も成り立たなくなるのである。声に同一性主義を見るというのは、確かに、ソシュール言語学に基づくならば正しいが、それは、一面的な、抽象主義的な考えに過ぎないのである。 では、デリダの痕跡=差延とは何だろうか。それは、簡単に言えば、同一性(声)の表現には、記号という「差異」が必要であるが、その「差異」が痕跡=差延であると言えるのではないだろうか。これは、どういうことかと言えば、観念的同一性に付随する記号表現である感覚的差異の必然性を意味しているのである。これは、プラトニック・シナジー理論(不連続的差異共振論)から言えば、デリダのいう観念的同一性、つまり、同一性主義とは、同一性志向性であり、当然、同一性表現を伴うのである。思うに、同一性主義を+1とするなら、同一性表現は-1であろう。あるいは、逆に、同一性主義を-1とするなら、同一性表現は+1であろう。後者の方がよさそうである。だから、デリダの痕跡=差延とは、実軸上の極性のことであると言えよう。 これまで、デリダ哲学は、Media Pointの虚軸性=超越性を否定したと述べてきたが、正に、その通りなのである。差延とは、±1の揺らぎに過ぎないのである。それは、ハイデガー哲学の本来的存在と等価であると思われるのである。だから、デリダ哲学の独創性はかなり疑わしいと思われる。ここで、本稿を終える。
2008年01月19日(Sat)▲ページの先頭へ
同一性と差異の関係:同一性と差異の二項対立と差異共振性:不連続的差異共振論としてのPS理論
同一性がどうして差異を否定するのかについて再考したい。 端的に言えば、同一性は差異を必然的に否定するのである。 (+i)・-(-i)⇒-1である。-(-i)の最初の-が否定である。差異-iの否定である。-1は同一性主義であろう。 しかるに、否定された差異-iは「実存」しているが、同一性+iは、それを認識できない。そして、-iのエネルギーが+iへと作用する。すると、それは、(-i)・-(+i)⇒-1となる。この-1は何であろうか。差異から同一性へと作用した結果の-1とは何か。それは、非合理主義ではないのか。つまり、狂気ではないのか。あるいは、非合理的衝動である。そう、だから、同一性主義とは、非合理的衝動を喚起するということではないのか。言い換えると、近代合理主義は、非合理主義を伴うということでいいのではないのか。私がこれまで、さんざん、近代合理主義/近代的自我は狂気であると言ったのは、差異からの同一性への作用によると見ていいのではないのか。即ち、近代合理主義=非合理主義(狂気)である。(どうも、ヤハウェがこの原型ではないのか。後で検討したい。また、サブプライムローンも、このタイプだと思うのである。一般に投機はそうなるだろう。) 問題は、差異共振性である。それは、同一性と差異との間に潜在しているのである。教養とは本来、この差異共振性を意識化するものではなかったか。同一性と差異との間に、差異共振性=心魂が作用する。しかるに、同一性と差異との意識二元論の間にあるので、差異共振性=心魂はそれに結びつけられるのである。言い換えると、ポスト・モダン様態になるのである。即ち、二元論的枠組みに差異共振性=心魂が囚われるのである。 しかしながら、差異共振性=心魂は、本来、不連続なのである。それを不連続的差異論が明らかにしたのである。(不連続的差異論は、正しくは、不連続的差異共振論ということだろう。それは、プラトニック・シナジー理論である。不連続的差異共振論としてのプラトニック・シナジー理論である。) ここで神秘主義を考えると、それは、先に霊的身体論ということを言ったが、それは、同一性主義への反動としての差異共振主義のことではないだろうか。つまり、非合理主義(感情・情動)と結びついた差異共振主義のように思える。ロマン主義はそのような側面があるだろう。 近代合理主義(近代科学)とロマン主義との二項対立とは、実は、正しくないのである。近代合理主義と非合理主義と差異共振主義との三元論が本来生じているのであり、神秘とは、差異共振性から発していると見ないといけないのである。 さて、問題は、近代合理主義と差異共振性との関係である。差異共振性とは、平たく言えば、共感性である。そして、近代合理主義は、共感性を排除すると考えられるが、ここが核心的問題点である。 整理すると、同一性は差異を否定する。このとき、同時に、差異共振性も否定しているのである。つまり、同一性主義にとって、差異や差異共振性は否定の対象なのである。しかし、同一性主義は、無意識の差異の作用から非合理主義(情動・狂気)を伴っているのである。思うに、このとき、同一性中心主義(パラノイア、モノマニア)とでもいう |