INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/01/20

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年01月20日(Sun)▲ページの先頭へ
『タンホイザー』とナチズム:異教とファシズム/全体主義
以下のエッセイで、ワグナーの『タンホイザー』の異教性とナチズムとの共通性を述べているが、私は疑問に思った。そう、ユングがナチズムを北欧神話の神オーディンの復活だと考えていたのを想起する。
http://www2u.biglobe.ne.jp/
~BLUEMAGI/NorseMythj.htm
http://blog.so-net.ne.jp/plant/
2007-04-03

 私はそのような考えが短絡的ではないかと思うのである。神話学的心理学を歴史上問題のある事象にあてはめるのは危険であると思うのである。例えば、太平洋戦争における日本軍は、神道的神話の顕現であると言えるのだろうか。天照大神を反映する全体主義であったのか。とてもそうとは言えないだろう。
 「聖処女」の犠牲によって肉欲の地獄から救われるという神話がどうして、ナチズムと関係するのか。「聖処女」の犠牲がユダヤ人虐殺と関係すると言うのか?
 私の直感では、ナチズムのユダヤ人虐殺は、二項対立から来ている。つまり、自我のもつ同一性主義から来ているのである。だから、国学的ナショナリズムに近いと思うのである。つまり、自我同一性ナショナリズム=全体主義である。これに政治経済状況が強く絡んでいるのである。今は簡単に言うが、神話が関係するというなら、異教神話ではなく、父権神話が関係するのである。これは、ヤハウェのユダヤ・キリスト教神話と見てもいいのである。つまり、ナチズムは、パラドクシカルであるが、ユダヤ・キリスト教的である。
 後で整理したい。

p.s. 参考に、『タンホイザー』の粗筋があるが、興味深い。これは、単純な、精神性と肉欲性との二項対立である。これは二元論であり、いかにも西洋文化である。エリザベート(聖母マリア・キリスト教)とヴェヌス(ヴィーナス・異教)の対立という形式である。
 しかし、これは偽りの対立である。異教とは、つまり、女神的宗教とは、本来、性愛と聖性が一致していたのである(神殿娼婦、聖娼がいた)
http://critic.exblog.jp/461734
http://web.kyoto-inet.or.jp/
people/tiakio/antiGM/hetaira.html
。天上のヴィーナスと地上のヴィーナスがあり、地上のヴィーナスは、天上のヴィーナスの反映である(ネオプラトニズム的解釈であるが)。
 とまれ、『タンホイザー』はこのような異教本来の枠組みを失った西洋文化、それも近代文化の作品と言えよう。言い換えると、本来の異教精神では、エリザベートとヴェヌスとは一体なのである。だから、中世を背景とするなら、そのようになるのが本来的だと思うのである。
 だから、この分裂・二元論は何を物語るのか。やはり、同一性中心主義による近代合理主義/近代的自我のもつ分裂性・二元論性である。同一性主義による自我は善悪二元論を形成するだろう。しかし、この自我による「道徳」の起因は何か。(ウィリアム・ブレイクなら、この「道徳」を激烈苛烈に批判したものである。)
 先の「同一性、差異、差異共振性について」の考察から見ると、差異=他者の否定に基づく自我同一性道徳である。これは、二項対立であるから、自我同一性が優位であり、差異=他者が劣位である。つまり、自我同一性は正しく、差異=他者は正しくないという価値判断がそこに発生するのであり、これが父権的道徳の起源であろう。(ここで、ニーチェの傑作である『道徳の系譜』を想起するといいだろう。精神の貴族は、自己において価値基盤をもつのであり、自我同一性においてではないのである。自己とは、自己差異、つまり、差異共振性である。それに対して、「道徳」は、差異=他者を否定した自我同一性に存する。)
 さらに質せば、なぜ、自我同一性は、自己優越を感じるのか。この問題は以前、何度も考えたが、そのときは、自我同一性は、起源として、超越性であるので、他者に対して優位をもつというものであった。さて、それでいいだろうか。
 ここで、先に考察した「同一性、差異、差異共振性について」の論考に従えば、差異共振性から同一性が生起する。この同一性が原自我である。ここには、実は、差異共振性が「実存」している。だから、原自我は揺らいでいるのである。同一性でありながらも、差異共振性の揺らぎがあるのである。(思うに、太母文化とは、この差異共振性が太母として中心化されていたのだろう。同一性=原自我は、太母の内に存するのである。イシス/オシリス神話である。)
 私は今、創世記の冒頭を想起しているのである。神霊が原自我に当たるのではないだろうか。そして、水が差異共振性である。そして、それにはたらきかけて、神霊は、天地創造するのである。だから、同一性=原自我の能動的作用があり、それが必然的に自己優越性を意味するのではないだろうか。つまり、意識の問題である。本来、原自己と原他者の共振によって、原自我が生まれたのであるが、それが忘却されているのである。自己認識方程式の左辺が忘却されているのである。
 ここで少し想像すると、差異共振性の「海」ないしは「水」(p.s. これは、より正確に言えば、光の海ないし光の水であろう。火と水の融合である。御水取りはこの象徴であろう。)から、同一性=原自我は生まれたのであるが、出自を忘却しているのである。それで、母体が「海」や「水」になっているのである。思うに、「海」や「水」は、一種投影ではないだろうか。つまり、同一性=原自我の基盤(インフラ)には、差異共振性=「海」・「水」があるのであるが、それを同一性=原自我は外界の投影するのではないのか。ユング心理学で言えば、シャドウ(影)である。
 ここは微妙なところなので丁寧に考えよう。同一性=原自我(+1)は、確かに、母体の差異共振性を内在、潜在、実存させている。しかしながら、同一性の知は、当然、その差異共振性を真に理解できない。いわば、差異共振性は、影や暈のようになるのである。そして、同一性=原自我は、いわば、宙ぶらりんの状態に置かれるのである。 しかるに、同一性=原自我は、そのような中途半端な様態から離脱すべく、独立する志向をもつと考えられるのである。つまり、同一性=原自我の独立・自立である。そして、その同一性=原自我の独立・自立志向が、差異=他者の否定となるのである。
 その前に、同一性=原自我は、他者に自己投影する。そこに、同一性の投影像を観る。この同一性=原自我の投影像が同一性主義の基盤になると言えよう。ここにおいて、差異=他者は否定されてゆくのである。同一性が中心化されて同一性主義ないしは同一性中心主義となり、差異=他者をそれに応じて、裁断するのである。正に、二項対立の力学があるのである。
 問題の核心は、投影像にあると言えよう。投影されているのは、本来、差異共振性である「海」や「水」であろう。そこに、同一性=原自我は、同一性の投影を見るのである。ここには、奇妙な二重性が生じているのである。投影像は、差異共振性であると同時に、同一性像である。つまり、ここには、抑圧が生じていると考えられるのである。差異共振性を同一性に縮約する抑圧である。そう、この同一性への縮約・圧縮の力学が、同一性主義=自我に優位性を付与しているものではないか。つまり、本来、差異共振性が源泉・根源であり、ここがエネルギー源である。それ故に、ここを取り込むことにより、同一性=原自我は同一性主義=自我になるのではないだろうか。
 先に、差異=他者の否定と言ったが、実際、ここでは、微妙である。差異共振的差異・他者の否定と言う方が正確であろう。とまれ、投影像を介して、同一性=原自我は同一性主義=自我を形成するのであり、そのときの差異共振的差異・他者を同一性へと縮約・圧縮したときの力ないしはエネルギーによって、同一性主義=自我は、差異=他者に対して、優位の意識をもてるのである。だから、同一性主義=自我の力とは、真に独立・自立した力ではなくて、差異=他者に依存しているのである。これは、確認すべきことである。平たく言えば、自我とは、見栄坊・虚栄家である。
 また、これまでの述べたように、エネルギーの活性化の問題があるのである。同一性主義=自我は、縮約・圧縮した差異共振性からエネルギーを取り込んでいるが、しかし、それは、いわば、エントロピーの増加であり、エネルギーは枯渇するのである。(これは、端的に、うつ病の症状であろう。)
 つまり、同一性主義=自我は、内なる差異共振性に対して、壁をつくっているので、差異共振エネルギーを注入することができないのである。同一性主義という壁が心の領域に生じているのである。言い換えると、同一性主義=自我と差異共振エネルギーが乖離・分裂しているのである。だから、統合失調症の症状でもあるのである。
 新たに差異共振エネルギーを取り込む回路を創る必要があるのである。ここで、陰陽論に用いれば、同一性主義とは、陽主義であり、差異主義とは、陰主義であり、太極が差異共振性であろう。
 最後に、差異共振エネルギーの縮約・圧縮の力学について考察したい。これはおそらく、反動エネルギーである。差異共振エネルギーに同一性の力が圧力をかけるのである。そのとき、反動エネルギーが発生するのである。それが、縮約・圧縮ではないだろうか。
 だから、差異共振エネルギーが十分あるときは、反動エネルギーも強度をもつが、差異共振エネルギーが枯渇すると、反動エネルギーも少なくなり、自我は力を失い、うつ病等の心の病になると考えられるのである。ここで留めたい。
 

********************************

プラガル終止

2008年01月16日(水)


 今日はお医者さんの日で、書けないことばかりなので、先日のオペラの話。

 チェコのブルノ歌劇場の公演で、主役ハインリヒ・フォン・タンホイザーを演じたエルネスト・グリサレスは、本来はイタリアオペラの歌手だそうで、ドイツ風のヘルデン・テノール(英雄のテノール)を歌うにはちょっと声量不足だったが、あとは、聖処女エリザベート役のダナ・ブレショヴァーも、タンホイザーの親友のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ役のリヒァルト・ハーンも、きわめて声量も表現力も豊かで、それはもうすばらしかった。3幕の、ヴォルフラムの「夕星の歌」の前後は、泣いちゃったなあ。合唱が、スラブの合唱団にしてはやや細身で、もう一息迫力がほしかった。もっとも、劇場(兵庫県芸術文化センター大ホール)が大きすぎたのかもしれない。オペラは、あんな大きな劇場を想定しては作られていない。

 最後、エリザベートの死の贖罪で救われたタンホイザーが死ぬとき、合唱があって、最後の最後に「巡礼の合唱」のモティーフが出てから、オーケストラだけのコーダに入る。その最後が、なんとプラガル終止をしている。プラガル終止というのは、ファ・ラ・ドの和音からド・ミ・ソの和音に入る進行で曲を終わることで、通称アーメン終止というように、讃美歌の最後につけられる「アーメン」の部分の和声進行だ。

 そうなんだ、このオペラは、ワーグナーが書いた巨大なミサ曲なんだ。ただし、それは、キリスト教を装っているが、きわめて異教的だ。聖処女の犠牲によって肉欲の罪に穢れた騎士が救われるなんて、正真正銘の原始宗教だ。「人身御供」だの「人柱」だのというたぐいの話だ。そういうきわめて原始宗教的な信仰を、19世紀にもなってからワーグナーが宣揚しようとしたのはどうしてだろう。たぶんドイツ民族のアイデンティティ確立のためだと思う。

 ということは、ワーグナーのオペラの台本の構造分析をすると、ドイツ人の深層構造がわかるということだ。いや、それは実はわかっていて、その具体的な現象化がナチズムだったのだ。だから、今では誰もその深層構造には触れないようにしているのかもしれない。現代のドイツ人たち(といっても、知っているのはアドレリアンたちだが)の奇妙な内的混乱は、たぶんそのことと関係があるのだろうと思う。彼らは、表層的にはナチズムを拒否しながら、しかも「聖処女の犠牲で肉欲地獄から救済される騎士」という深層の物語を相変わらず信じ続けているので、困っているのだろう。ナチズムに代わる新しい現象化ができないでいるのだと思う。

 ともあれ、オペラ『タンホイザー』は、こんにちも神聖なプラガル終止で荘厳な「アーメン」を唱えながら異教的な典礼を終わるのだ。ドイツ人は、それを聴くたびに、深層構造を思い出して、表面的には混乱に陥りつつも、内的には恍惚にひたるのだろう。ちょっと恐いね。


http://jalsha.cside8.com/
diary/2008/01/16.html
野田俊作の補正項

******************

参考:

■台本

リヒャルト・ワーグナー

■時

13世紀はじめ

■所

チューリンゲンのヴァルトブルク

■おもな登場人物
ヘルマン
チューリンゲンの領主
エリザベート
ヘルマンの姪
タンホイザー
吟遊詩人、騎士。エリザベートと愛し合っていた。
ヴォルフラム
同じく吟遊詩人、騎士。タンホイザーの友人。エリザベートに淡い恋心を抱いている。
ヴェーヌス
ヴェーヌスベルクに住む快楽の女神

■あらすじ(参考:渡辺護著「ワーグナーの作品」)

■背景

ドイツ中世では、騎士たちもミンネゼンガー(恋愛歌人)として歌う習慣がありましたが、その一人、タンホイザーは、エリザベートとの清い愛があったにもかかわらず、官能の愛を求め、ヴェーヌスベルクにおもむいて、妖艶なヴェーヌスのとりこになっていました。

■第1幕

第1場
 ヴェーヌスベルクの洞窟の中で、タンホイザーとヴェーヌスが歓楽的な愛にふけっています。

第2場
 ヴェーヌスの美しさをたたえながらも、故郷への思いが押さえきれなくなったタンホイザーは、ヴェーヌスと分かれる決心をします。ヴェーヌスは何とかひき止めようとしますが、タンホイザーの意志は堅いものがありました。タンホイザーが去ると同時にヴェーヌスベルクは崩れ落ち、消え去ります。

第3場
 タンホイザーは、いつの間にかヴァルトブルクの城が見える谷に立っています。巡礼の行列が近づき、また遠のいてゆくのを見つめていたタンホイザーは、感動し、地に頭をたれて泣きます。

第4場
 ヘルマンと騎士たちが通りかかり、昔の仲間のタンホイザーをみとめて喜びます。タンホイザーは、官能の情欲におぼれた自分の罪の重さを思い、旧友たちの厚情を容易には受け入れることができませんが、エリザベートが待っていると聞かされると、勇気付けられ、仲間に加わります。

■第2幕

第1場
 ヴァルトブルク城内にある歌の殿堂の広間。エリザベートが登場し、タンホイザーがふたたび歌合戦に参加する喜びを歌います。

第2場
 ヴォルフラムに導かれたタンホイザーが、エリザベートと再会します。喜び合う二人ですが、ヴォルフラムは苦しいあきらめに至らなければなりません。

第3場
 タンホイザーとヴォルフラムが去ったあと、ヘルマンが現われ、エリザベートに優しく歌合戦が近づきつつあることを知らせ、幸運を祈ります。

第4場
 歌合戦を見に、騎士や貴婦人が入場、最後に歌手たちも入場してきます。歌合戦の始まりです。ヴォルフラムをはじめとする騎士たちは、清らかな愛をたたえる歌を歌いますが、タンホイザーはそれらにことごとく反論を唱え、恍惚となってヴェーヌスをたたえます。騎士たちは憤激してタンホイザーに切りかかりますが、エリザベートがそれを押しとどめ命乞いをします。タンホイザーも正気に返って呆然となります。ヘルマンは、このような大罪の許しを乞うには、ローマへ行って教皇の許しを得るほかはないと言い、教皇の許しが得られるまで帰ってくることはならぬと宣言します。タンホイザーは「ローマへ!」と叫んで、遠くを通る巡礼たちの群に加わるため、去って行きます。

■第3幕

第1場
 ヴァルトブルク山麓、エリザベートがマリア像の前でタンホイザーのために祈っています。ヴォルフラムが現われ、彼女に同情して歌います。そこに、罪をあがなった巡礼が通りかかります。エリザベートはその中にタンホイザーの姿を探しますが、無駄でした。彼女はマリア像に祈りを捧げ、タンホイザーの罪が許されるなら自分の命を捨てても良いと言います。

第2場
 一人残ったヴォルフラムは、空にやさしく輝く星がエリザベートの道を照らしてくれるようにと歌います(夕星の歌)。

第3場
 消沈した姿のタンホイザーが現われます。苦しいローマ行きの模様をヴォルフラムに語りますが、教皇から許しを得られなかったタンホイザーは、今やヴェーヌスのみを求めようとしています。ヴェーヌスが現われ、タンホイザーを迎えようとしますが、ヴォルフラムが「エリザベート!」と叫ぶと、タンホイザーは狂気よりさめ、ヴェーヌスは地中へ消え去ります。その時、エリザベートは死骸となって運ばれてきたのです。タンホイザーも、彼女の遺体の前でこときれます。そこへ、若い巡礼たちの一行が、緑の葉の生えた杖を持ってきます。教皇の予言では、それはタンホイザーが救われたしるし。彼は、エリザベートの犠牲によって、救済されたのでした。

http://www.ne.jp/asahi/j
urassic/page/rule_f/tanhauser.htm



同一性と差異と差異共振性について:その2:二つの否定について
http://ameblo.jp/renshi/
entry-10066731252.html
先に、このタイトルで考察したが、これは、まだまだ論じたりない、又実に興味深い論点なので、さらに考察を行ないたい。
 問題は、差異共振性(Media Point)の「カオスモス」(暈のようなもの:量子様態であろう)から、同一性が発生するが、それは言語形成と言っていいだろう。つまり、言語的同一性の形成である。しかしながら、同時にそれは、物質の形成と言ってもいいと考えられる。つまり、言語とは、一種の物質であると考えられるのである。
 当然、同一性は、差異を否定するのであるが、差異とは他者である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1では、-iである。しかし、問題は、先にも触れたが、同一性と同一性主義との区別である。+1が同一性であり、-1が同一性主義であると述べたのである。
 しかし、ここでは、同一性は差異を否定するのであるから、(+i)・[-(-i)]=-1となるのではないのか。そうすると、それは、同一性ではなくて、同一性主義になるのである。この矛盾をどう見るのか。
 丁寧に考えよう。差異共振性(Media Point)から同一性が発生する際に、差異を否定すると言ったが、正しくは、差異共振性の否定であろう。つまり、正に、自己認識方程式(+i)*(- i)⇒+1の⇒の事象が発生していると考えられるのである。*の共振が・の積に転換して、+1が発生するのである。換言すると、共振性*の否定としての積・が生じて、同一性+1が発生するということである。
 では、どうして、同一性の発生のとき、差異=他者を否定すると言ってしまった(しまう)のか。これは、知覚の現象の問題であろう。知覚において、とりわけ、視覚において、対象としての差異=他者が存するが、対象としての差異=他者とは既に、同一性=物質であり、これを主体の意識は否定して、同一性の自我を形成すると考えられるのである。つまり、自我形成においては、差異=他者の否定-(-i)が生じるのであり、同一性ではなくて、同一性主義が生起するのである。
 ということで、同一性形成とは、差異共振性の「否定」であり、同一性主義形成とは差異の「否定」であるということになった。この二つの「否定」はそれぞれ意味が異なるだろう。
 前者に関しては、量子論を考えるといいと思う。差異共振性である量子が「否定」されて、同一性の物質へと転換されると考えられるのである。そして、物質(=同一性)の極性においてMedia Point(差異共振性)が潜んでいると考えられるのである。そこは、物質の不連続点、すなわち、特異点であり、イデア的超越性が作用するのである。結局、第一の「否定」では、差異=他者-iは否定されないのであり、否定されるのは、差異共振性である。
 では、後者の「否定」について考えよう。これは複雑である。第一には、差異=他者の否定であり、(+i)×[-(-i)]=-1である。しかしながら、現象においては、(+i)*(-i)の事象が発生していると考えられるのである。つまり、差異共振性も発生しているのである。
 まとめると、意識現象は、差異共振性があり、また、同一性があり、そして、同一性主義(自我)があるのであり、結局、三相性があるのである。同一性であるが、それは、この場合、原自我であろう。
 結局、意識現象における「否定」は、差異=他者の否定であるが、それは、原自我による「否定」であり、それは、同時に、差異共振性の否定なのである。つまり、二重の否定がここにはあると考えられるのである。即ち、差異=他者の否定であり、差異共振性の否定である。
 結局、意識現象において、±1の事態が発生していると考えられるのである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1を展開させて、自我認識方程式(+i)*(-i)⇒±1が考えられるのである。
 そして、自我の分裂性は、この±1に発現していると考えられるのである。+1においては、差異共振性は「実存」しているのであり、-1においては、差異共振性は排除されているのである。両者、「否定」様態であるが、意味が異なるのである。明確に区別するために、前者の「否定」を潜在的否定、後者の「否定」を排除的否定と、暫定的に呼びたい。
 ここで、近代的自我/近代合理主義を考えると、それは、後者の排除的否定が中心化されて、後者が喪失されているのである。つまり、自我中心主義となり、差異共振性がまったく排除されているのである。言い換えると、差異=他者の否定が、差異共振性を排除的に否定しているのである。パラノイア/モノマニア化である。
 そして、この同一性中心主義化とは、近代における数量主義が原因であると言えよう。つまり、唯物論化である。これが、同一性中心主義を決定したと考えられるのである。
 では、なぜ、数量主義・唯物論化が生じたのかとなる。それは、これまで述べ尽くしたように、同一性への傾斜である。つまり、父権的傾斜である。これで本稿を終える。


同一性と差異と差異共振性との関係について:言葉三元論と言語二元論:トランス・モダン・サイエンスへ
先に、差異と同一性について検討したが、不整合が生じたので、ここで再検討したい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10066558387.html
http://ameblo.jp/renshi/entry-10066611008.html

自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、+iを同一性、-iを差異、そして、左辺の(+i)*(-i)を差異共振性と先に考えたが、考察において、不整合が生じたので、ここで再検討したい。
 問題は、最初、言葉において、+iを知=同一性とし、-iを心魂性として、両者の差異共振性が、知心言(知魂言)になると説いたことから発している。その後、+iを近代合理主義、-iを非合理主義(狂気情動)とし、両者の二元論・二項対立によって否定・排除・隠蔽されたものとして、差異共振性が第三項であるが、それこそ、エネルギーの根源・源泉であり、その抑圧は、心的病気、うつ病や統合失調症を生むだろうというようなことを述べたのである。
 不整合は、心魂性とは、端的に言えば、差異共振性であり、最初に言ったように、-iではないのであり、心魂性の様相について生じているのである。つまり、最初に-iが心魂性であり、次に(+i)*(-i)の差異共振性を心魂性と言ったのである。
 最初は言語の問題についてである。知心言ないしは知魂言としての言語において、同一性(知)と差異(心魂性)との差異共振性が発現していると考えたのである。そのときの私の勘違いは、差異を心魂性としたことである。そして、先ず、言葉を同一性と差異との共振性にあると見たことである。
 さて、ここで言葉について考察すると、言語と言葉では意味が違うだろう。言語と言ったとき、言葉から発話的具体性を捨象しているように思える。端的に言えば、言葉から心魂性、心魂的波動、精神性を捨象しているのである。だから、言語学とは別に、言葉学が必要であると考えられる。例えば、音声学で言えば、言葉の声のもつ心的波動を捨象して、言葉の声(言声と造語しようか)の同一性の形式の対立、つまり、構造対立だけを扱っているのである。声の差異共振性である心魂性・精神性を捨象して、声の同一性形式・同一性対立構造を扱っている構造主義になっていると考えられるのである。これは、明らかに、近代合理主義の狂気の一環である。狂気の学問である。つまり、声という差異を抽象して、同一性である音声を取り出すのである。そして、音声の二項対立・対立構造を取り出して、体系化しているのである。
 今、論考の不整合について、整理するといいだろう。私は今、声を差異と言い、音声学の音声を同一性と言った。そして、私が言う差異共振性である心魂性とは、声(言声)=差異に存し得るものである。
 言葉(声言)は、観念的知(同一性)と言声(差異)の結合であり、言声=差異には、差異共振性=心魂性を存在し得るのである。
 ということで、試論の不整合を修正すると、先に言った知心言・知魂言としての言葉・声言とは、同一性(知)と差異(声)との結合であるが、両者の結合において、特に、差異(声)に存し得る差異共振性=心魂性が発現した言葉であるということになるだろう。これで、不整合は取り除かれたと言えよう。
 では、ついでに、音声学の同一性主義についてさらに触れたい。これは、差異である声を同一性化して、音声(ないしは音韻)という抽象形式を取り出しているのである。差異=声の同一性化がここにはあるのであり、差異=声を捨象した同一性主義、近代合理主義、近代科学になっているのである。
 この視点から、ソシュール言語学やデリダ哲学を考えると興味深いだろう。言葉を同一性(知)と差異(声)との結合であると上述したが、ソシュールは、原観念と原音声との一体化として言語を考えていた。そして、言語における意味するものをシニフィアン、そして、意味されるものをシニフィエと呼んだのは、よく知られていることである。ソシュールの構造主義言語学の問題は、シニフィアンを同一性に限定したことである。ソシュールは同一性に基礎をもつ差異をとり出して、その差異の構造を共時性の体系と見たのであるが、基礎は同一性なのであり、その差異とは、同一性の対立・極性なのである。例えば、petとbet におけるpと bとの音韻の相違である。pとbが同形の無声子音と有声子音ということで対立しているのである。この場合、同形が同一性であり、無声と有声が対立であり、この二項対立が構造になっているのである。つまり、同一性における肯定と否定との極性・二元論が構造を形成しているのである。ここでは、pやbの声・言声のもつ心魂性が捨象されているのである。思うに、破裂音であるpやbは、常識的に見て、なにか吐き出す志向性があると言えよう。そして、pの方が軽く、b の方が重いと考えられよう(日本語でも、英語、また、その他の言語でもおそらくそうだろう)。言い換えると、声の心象性が捨象されると言えよう。
 ということで、簡単ではあるが、ソシュール構造主義言語学とは、声を同一性化し、同一性の対立性・二元性を体系化した言語であり、声の差異ないしは心象性が捨象されているのである。
 次に、『声と現象』において、フッサール現象学を批判したデリダを見てみよう。デリダは、声を形而上学の現前が存するものとして批判し、エクリチュールを擁護する。確かに、ソシュールにおける同一性化された声を見る限り、その批判は正しい。つまり、同一性主義(デリダのいうロゴス中心主義)批判として正しい。しかしながら、声に差異ないしは差異共振性を見るならば、途端にデリダの批判は成立しなくなるのである。デリダ哲学の破綻が生じるのである。当然、フッサール現象学批判も成り立たなくなるのである。(これで、簡単ながら、ポスト・モダン批判となる。)エクリチュール擁護論も成り立たなくなるのである。声に同一性主義を見るというのは、確かに、ソシュール言語学に基づくならば正しいが、それは、一面的な、抽象主義的な考えに過ぎないのである。
 では、デリダの痕跡=差延とは何だろうか。それは、簡単に言えば、同一性(声)の表現には、記号という「差異」が必要であるが、その「差異」が痕跡=差延であると言えるのではないだろうか。これは、どういうことかと言えば、観念的同一性に付随する記号表現である感覚的差異の必然性を意味しているのである。これは、プラトニック・シナジー理論(不連続的差異共振論)から言えば、デリダのいう観念的同一性、つまり、同一性主義とは、同一性志向性であり、当然、同一性表現を伴うのである。思うに、同一性主義を+1とするなら、同一性表現は-1であろう。あるいは、逆に、同一性主義を-1とするなら、同一性表現は+1であろう。後者の方がよさそうである。だから、デリダの痕跡=差延とは、実軸上の極性のことであると言えよう。
 これまで、デリダ哲学は、Media Pointの虚軸性=超越性を否定したと述べてきたが、正に、その通りなのである。差延とは、±1の揺らぎに過ぎないのである。それは、ハイデガー哲学の本来的存在と等価であると思われるのである。だから、デリダ哲学の独創性はかなり疑わしいと思われる。ここで、本稿を終える。


   




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