INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/01/14

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年01月14日(Mon)▲ページの先頭へ
内的光の太母文化と父権的抑圧:女性の内的解放のトランス・モダン:四次元現象界から高次元現象界へ
ウィリアム・ブレイクの詩でmental travellerという象徴的な詩がある。それは、女性に支配された人間の生死を説くものである。ブレイクは、女性の意志を忌み嫌っていた。また、自然の生殖generationを嫌っていた。植物の生命を嫌っていた。そう、物質的世界を嫌っていて。一種、グノーシス主義である。(以下最初で、女性に対する中傷に当たることを言ったが、結果として、否定することになっていることをお断りしたい。)
 私は女性の愛情とは、同一性の生産・再生産に向けられた物質的生命体の性愛ではないだろうかと思ったのである。漱石は夫人に精神がないと嘆いていた。かつては、「女性は子宮で考えると」と俗に言われていた。「子宮」は正に、同一性の生産工場ではないだろうか。
 女性は、同一性を愛するのであり、差異を愛さないのではないだろうかとふと思ったのである。言い換えると、女性は現象を愛するのであり、超越性を愛さないのではないだろうか。もっとも、多くの例外があることは知っているが、あえて、一般的に言っているのである。もし、そうだとすると、太母子について考え直さないといけない。なぜなら、それは、同一性の生産・再生産になるからである。(また、生殖と資本主義の生産・成長についても考えなくてはならないだろう。)
 直感では、女性の愛情は現象と一如であり、精神と物質が融合しているのである。思うに、精神(差異)が現象(同一性)へと展開するのである。つまり、差異が同一性へと無碍に化成するのである。いわば、ドゥルーズの連続的差異である。しかし、それは、差異なのかと思う。差異ならば、同一性へと無碍に展開しないからである。
 どうやら、ここに女性の秘密がありそうである。差異があるが、Media Point において、連続化し、同一性=現象化する。この連続化が、女性の場合、男性よりも強度が強いのではないだろうか。男性の場合、差異から同一性が展開するとき、すべて同一性へと展開するのではなくて、差異が、純粋差異が残っているのである。だから、差異と同一性の齟齬があり、心的葛藤が生じるのである。
 垂直軸と水平軸との不連続性が、男性の場合には残っていると思うのである。それに対して、女性の場合は、不連続性が連続性で糊塗されるのではないのか。(連続性の糊塗とは、いわば、化粧である。)この差異が同一性へと連続的に同化吸収されるメカニズムは何なのか、これが問題である。 
 直感では、そこに、酔いがある。陶酔がある。幻惑がある。差異が同一性に酔うのである。心理学的には、ナルシシズムである。イデア論から言うと、差異は超越光であり、同一性は光である。すると、ナルシシズムとは、超越光よりも暗い光の影像に酔うことになるだろう。
 洞窟の影像に酔うのである。ということは、女性は内的な光が男性よりも暗いのではないだろうか。(勿論、例外の高貴な女性は存する。)内的光が暗いとはどういうことなのか。これも直感では、イデア振動が弱いというか、振動数が小さいのではないだろうか。
 そうすると、Media Pointでの変換において、同一性へと生成するが、そのとき、内的光は、現象性へと転化して、剰余の内的光が少なくなるということではないのか。
 男性の場合、高い振動数があり、同一性への転換によっても、剰余の内的光があり、それが、差異となるのではないだろうか。だから、女性には、内的な光は見えないことになるだろう。超越光は見えないのである。そう、女性には月の光が合うと言えよう。しかし、天照大神はどうなるのか。卑弥呼(日巫女、日観女?、霊観子?、日巳女?)はどうなのか。この問題を考えないといけない。女性は内的光を失ったのではないのか。
 思うに、本来、女性は内的光を見ていたが、父権宗教社会となり、それに従うことなった。本来、女性は太陽女神(天照御大神)を観ていたのである。しかし、父権社会になり、内的光・内的ヴィジョンが衰退したのではないだろうか。そのため、女性の視覚は同一性現象へと強く傾斜したのではないだろうか。つまり、女性の視覚は、父権社会によって、抑圧され洗脳されているのかもしれない。
 そう考えると、一見、現代社会において、女性は自由になったように見えるが、内的視覚・内的ヴィジョンの喪失という一種致命的な代償を払っているのではないのか。
 この問題は文化史・ジェンダー論的に実に本質的である。父権文化とは、同一性への傾斜であり、差異を否定する。この同一性主義文化において、女性の差異は否定・抑圧される。そして、女性が本来もっていた内的光が否定されて、洗脳される。しかし、民主主義の社会となり、男女同権等々と女性の権利が認められた。しかしながら、近代主義は同一性主義であり、女性の差異を認めていない。思うに、民主主義的同一性主義では、女性の差異を認めないのである。つまり、女性の忘却された内的光という差異を認めないのである。
 そう考えると、冒頭で、女性の愛情は同一性生産に向けられた物質的生命体の性愛ではないかと、中傷的なことを述べたが、それはおそらく皮相な事実であり、本来は女性が抑圧されていることの結果と見なくはならないのだろう。女性は、父権的同一性主義に洗脳されて、女性の本来の差異を喪失しているのである。この事態が、冒頭のような皮相な見解を生むことになったと言えよう。
 トランス・モダンとは、プラトニック・シナジー理論とは、女性の真の解放をもたらすだろう。それは、神道文化の復興でもある。
 
*****************
 
 次に、超越光(正しく言えば、超越的エネルギー)の振動の問題である。超越的差異の即非共振という振動であるが、それは、端的に、どういうことなのか。つまり、そのイデア振動が、Media Pointにおいて、現象化するとはどういうことなのか。可視化するというのは、どういうことなのか。私は超越光は可視的であると思っているのである。つまり、差異共振視覚(視識)があるのであり、それで、超越光を視識するのである。
 可視化とは、端的に言えば、陽光が当たるということである。陽光がなければ、物質は闇である。しかしながら、光のあたらない物質・物体も、エネルギーであるから、超越光からできているのである。
 しかしながら、闇であるというのはどういうことなのか。それは、端的に、+1ということではないのか。それとも、-1ということなのか。これは、難問である。
 考えれば、光の当たらない物質の闇とは闇以前の闇、いわば、原闇であろう。この物質の原闇とは何だろうか。それは、内的には、光ではないのか。ただ、光が当たらないために、闇なのであり、それの実体は、内的光なのではないのか。つまり、原闇とは光であるということになるだろう。
 この考えは興味深い。何故なら、ダークマターの問題に関係しそうだからである。人間にとって、通常、光が当たらないと、ものは見えずに、無いと思ってしまう。つまり、可視化していないと、ものは存在していないと思ってしまうのである。
 問題は現象である。物質は光に当たらなくても現象しているのである。つまり、現象には、可視的現象と不可視的現象の二種類があるということではないだろうか。
 また、さらに考えると、超高振動のエネルギーを考えることができる。これは、同一性化しても、当然、不可視である。これも、不可視的現象に入れることができるだろう。
 そう、天文学を考えると、結局、可視的現象、可視的物質から計算しても、法則とはあわないことになり、ダークマターやダークエネルギーが考えられるようになり、今日では、その実在はほぼ確信されていると言えよう。それらは、ここで言う不可視的現象と関係するのではないだろうか。
 不可視なので、現象しているとは思われなかったのである。(これは、民衆の問題とも通じるだろう。民衆はいわば不可視に現象しているのである。官僚たちは、民衆が不可視である。資本主義の問題も、この点から見ないといけない。差異価値から同一性価値をつくっているのであるが、差異価値は不可視の価値である。)だから、不可視的現象としてのダークマターとダークエネルギーである。
 さて、ここで、光の可視性の問題を考えよう。可視性とは、当然、可視光性ということである。太陽系においては、日中は、陽光やその反射を見るのであり、夜は、電灯の光を見るのである。
 光とは、同一性でありながらも、同時に、差異共振性である。光の即非性があるのであるが、今日、ほとんど同一性の光しか見ていないのである。これは、視覚(視識)が同一性に限定されているからである。光は、同一性光であり、差異共振光(超越光)である。だから、視覚(視識)が超越性に開かれていれば、後者を視覚(視識)することはできるのである。
 さて、次に、光と物質の闇の関係について考察しよう。まず、光が物質の闇に当たるとしよう。そうすると、光が反射して、物質は可視的になる。物質に吸収されるエネルギーがあり、また、反射するエネルギーがあるということになる。 
 今は直感で言うのだが、物質に放射され、反射した光であるが、それは、超越光であり、かつ、同一性光であろう。そして、それを視覚するとき、超越光を受容するとき、差異共振性において、超越光として視覚し、同一性光は同一性光として視覚するのではないだろうか。
 先に、「観る」とは何かと問題提起したが、「観る」とは、内的光と外的光との差異共振的視覚(視識)であると言えよう。もっとも、差異共振性には、同一性を包摂しているのであるが。
 そう考えると、物質的科学においては、差異共振エネルギーを看過し、可視同一性現象に限定されているので、差異共振エネルギーが欠損しているということになるだろう。それが、ダークエネルギーに関係するように思えるのである。また、ダークマターについて言うと、やはり、物質自体が差異共振エネルギーをもっていると考えられることから、物質自体がダークマターではないのかと空想してみるのである。
 とまれ、現象界には、単に、同一性物質や同一性エネルギーだけではなく、差異共振物質(ダークマター)や差異共振エネルギー(ダークエネルギー)に満ちていると言えよう。そして、それは、Media Pointを介した高次元宇宙に存していると言えるだろう。これまでの、量子論や天文学は、四次元時空間に限定されていたので、超越性を取り込むことができずに、ダークマターやダークエネルギー等を抱え込み、理論的に解明できないのであるが、プラトニック・シナジー理論のように虚軸の差異共振的高次元を想定することで、解明できるように思えるのである。
 そう、現象宇宙は本来、高次元宇宙なのであるが、同一性主義に支配されているので、虚軸の超越的差異共振次元を看過して、四次元時空間に閉塞されているのである。資本主義がこの四次元時空間世界の経済である。しかしながら、トランス・モダン経済を考えると、それは、高次元経済であり、差異共振経済であると考えられるのである。トランス・モダン・エヴォリューションは近い。


同一性主義のもつ心的脆弱さについて:差異の排除と邪心:Media Pointの構造点と超越点:第二版
これは私の経験からも言えることだが、同一性主義(近代合理主義/近代的自我)を信奉する人間の心には、有り体に言えば、弱さ、一種の脆弱さがあると思うのである。この心的脆弱さと同一性主義の関係を考察したい。
 これは、心的エネルギーの問題である。同一性主義へと志向しないと心的エネルギーが強化されないということなのだろう。
 心的エネルギーとは、Media Pointという心身の原点の様相である。(心身の観点から言えば、Media Pointは、イデア点でもいいだろう。イデア振動点、イデア波動点でもある。)Media Point(以下、暫定的に、イデア点とする)は、ここでは、差異の側面と同一性の側面が併存しているが、両者は対極的であり、引きつけあったり、反発したりしているのである。極性があるのである。
 この極性様態は、いわば、デリダの差延様態である。Aという事態に対して、イデア点は、Aでもあり、非Aでもあるという反応を起こすのである。
 この即非的様態が、主体における弱さを生み出すのではないだろうか。だから、主体は、ある事態に対して、同一性態勢を構築するのではないだろうか。これにより、イデア点の差異側面を排除して、同一性データで事態に対処して、「安心」するのである。
 結局、この同一性態勢が同一性主義となり、近代合理主義/近代的自我となるだろう。それは、差異を恐れているのである。この差異への恐怖が、いわば、邪悪な心性となるのだろう。猜疑心、嫉妬、悪意、侮蔑、妄想、等々の邪心を生み出すだろう。
 当然、同一性主義は、心的脆弱さへの保障であるから、自我肯定・自尊心・慢心・傲岸さ等を生むのである。自我主義(無明)・利己主義である。【p.s.  ここで、経済について言うと、サブプライムローン問題についてであるが、それは、正に、同一性主義に駆動されていて、非理性主義(理性はMedia Pointの知に存する)なのである。つまり、心的脆弱さから発する同一性主義とは、ただただ同一性=同一性交換価値を追求する狂気であるということになるのである。パラノイアとも言えよう(メルヴィルの『白鯨』の白鯨モゥビィ・ディックを追求する偏執狂・モノマニアのエイハブ船長である)。同一性価値が排除的中心価値となり、差異・差異共振価値を排除しているのである。p.p.s. 同一性が同一性をさらに追求する連鎖があるのである。これを同一性連鎖ないしは過剰同一性主義と呼んでもいいだろう。これが狂気である(p.s.  真理とは、差異を基盤とした同一性の構築にあり、常に、差異と同一性との絶えざる創造的対話によって進展していくものと考えられる。しかるに、同一性主義は、同一性に基盤をおいて、さらに、同一性を追求するので、没真理・誤謬・妄想・妄念、端的に、狂気なのである。)。差異排除である。同一性以外に差異を認識すれば、同一性に対する相対的認識(真の理性認識)が生まれて、同一性に対する批判精神が生まれて、たとえば、サブプライムローンに没入することはなかったはずである。そう、批判精神とは、差異の感識・意識・知から発していると言えよう。現代日本人に批判精神が欠落しているのは、差異がないからである。また、マスコミが鋭敏な批判精神が欠落して、御用新聞・御用メディアとなっている原因も、やはり、差異の精神が欠如しているからである。(批判と非難は異なる。)「マス」(多量、大量、塊)という発想がいかにも同一性主義である。マスコミの終焉があると言えよう。ミクロ・コミ/ミクロ・メディアの時代である。そう、また、戦後の終焉である。トランス・ポスト・ウォーである。】
 以上で、本件は解明が終わったが、付加して、同一性主義と構造主義との関係をみたいのである。同一性主義とは、イデア点における同一性の極大化である。そして、構造主義とは、イデア点における同一性志向性を中心化させたものである。
 そう見ると、両者は、イデア点における差異の排除と同一性の中心化という点で共通していると言えよう。つまり、近代合理主義と構造主義は一致するということであろう。ただし、構造主義は、同一性主義の自覚という点では、一歩前進してはいるのである。言い換えると、構造という発想自体が、超越論性をもっていて、それが、単なる同一性主義とは区別されるということになる。
 そして、構造はイデア点にあるのであるが、正確に言えば、イデア点の実軸に存しているのである。私は先にそれを構造点と呼んだのである。整理すると、

Media Point(イデア点)⇒構造点⇒構造主義⇒同一性主義

となる。
 ここでついでながら、ポスト・モダンの意味について再確認すると、ポスト・モダンないしはポスト構造主義とは、構造点を指摘した理論であった。デリダの場合、それが差延であり、ドゥルーズの場合は、差異(微分)であった。
 しかしながら、差延という概念において、差異と同一性との、連続性と不連続性との揺らぎ(脱構築性)を説いた点では、デリダ哲学の方が、ドゥルーズ哲学よりも進んでいたと言えよう(これまでは、デリダ哲学にも、差異と同一性との連続性を見たが、それは間違いであったので訂正しておきたい)。
 とは言え、デリダはフッサールを批判して、ハイデガーを肯定的に捉えているので、フッサール現象学のブレークスルーであった超越性の観念を否定してしまい、構造点の揺らぎで留まり、袋小路に陥ったと考えられるのである。
 結局、ポスト・モダン理論とは、Media Pointの構造点を指摘した理論であり、デリダはそこの実軸における揺らぎを指摘し、ドゥルーズはそれを連続化して差異を微分化したのであり、両者はフッサールが到達したイデア点の超越性には届かなかったのである。いわば、Media Pointの超越点には達しなかったのである。
 これまで述べてきたように、ポスト・モダン理論は、ハイデガー哲学の影響下にあると考えられるのであり、フッサール現象学(ハイデガー哲学は、似非現象学である。ハイデガー哲学は、あえて言えば、構造点哲学である。)を看過しているのである。正確に言えば、フッサール現象学(あえて言えば、超越点哲学である。)のブレークスルーである超越性(超越論的主観性)を理解できなかったのである。
 ここでさらに追求するなら、どうして、フッサール現象学のブレークスルー(本当は、イデア論的高次元の再発見である)が看過・無視されたのか、である。哲学史上は、いちおう、現象学の画期性を説かれているが、それが真に理解されなかったと考えられるのである。この原因は、やはり、これまで述べてきたように、フッサールの「弟子」のハイデガーであると考えられるのである。
 超越論的主観性から存在への切り替えが問題である。存在については、後述するが、問題点をあげると、フッサールに残っていた同一性の志向性が揚げ足を取られたと思うのである。
 さて、存在について言うと、ハイデガーは華々しく、と言うか、野心的に、乃至は、はったり的に、西洋哲学史における存在忘却と言うが、存在をプラトニック・シナジー理論的に見ると、それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における-iを中心化した哲学ではないだろうか。確かに、西洋哲学においては、+iが常に中心化されてきた。だから、-iが忘却されてきたというは、ある意味では正しいが、しかしながら、差異共振性という根源を考えると、それは、同一性主義に対する反動なのである。確かに、ある主の差異主義であるが、それは、同一性を否定するのである。つまり、反動的差異主義なのである。これは、ポスト・モダンのアイロニカルな没入とほぼ同じ事態である。-iを過大視して、反動化するのである。認識という同一性に対して、存在という差異を言うが、反動的に同一性に没入するのである。
 ハイデガーの説く本来的存在とは、正に、差異をもつものの同一性(自我)へと収斂するのである。そして、それは、無に対しているのである。この無は反動によって、差異共振性を否定したところに発生する無である。暗い無である。(仏教等の無・虚無は、明るい無と言えよう。)
 最後に推測的に補足すると、後期ハイデガーであるが、結局、差異の反動から神秘主義へと展開しているように思えるのである。問題はやはり反動であるから、神秘的同一性に帰してしまうことである。これは、差異共振的一(いつ)ないしは即非的一とは似て非なるものである。神秘的同一性は、全体主義に通じると考えられるのである。【D.H.ロレンスの神秘思想は、一見、ハイデガー哲学に似ているが、基本的には異なると見るべきである。ロレンスは基本的には、三元論であり、差異共振性を聖霊として考えているのである。確かに、一時期、ハイデガーのように、-i=身体性(=存在)へと傾斜したが(dark Godを説いた)、晩年期には、それから脱して、差異共振性へと回帰したと考えられる。】


同一性主義のもつ心的脆弱さについて:差異の排除と邪心:Media Pointの構造点と超越点
これは私の経験からも言えることだが、同一性主義(近代合理主義/近代的自我)を信奉する人間の心には、有り体に言えば、弱さ、一種の脆弱さがあると思うのである。この心的脆弱さと同一性主義の関係を考察したい。
 これは、心的エネルギーの問題である。同一性主義へと志向しないと心的エネルギーが強化されないということなのだろう。
 心的エネルギーとは、Media Pointという心身の原点の様相である。(心身の観点から言えば、Media Pointは、イデア点でもいいだろう。イデア振動点、イデア波動点でもある。)Media Point(以下、暫定的に、イデア点とする)は、ここでは、差異の側面と同一性の側面が併存しているが、両者は対極的であり、引きつけあったり、反発したりしているのである。極性があるのである。
 この極性様態は、いわば、デリダの差延様態である。Aという事態に対して、イデア点は、Aでもあり、非Aでもあるという反応を起こすのである。
 この即非的様態が、主体における弱さを生み出すのではないだろうか。だから、主体は、ある事態に対して、同一性態勢を構築するのではないだろうか。これにより、イデア点の差異側面を排除して、同一性データで事態に対処して、「安心」するのである。
 結局、この同一性態勢が同一性主義となり、近代合理主義/近代的自我となるだろう。それは、差異を恐れているのである。この差異への恐怖が、いわば、邪悪な心性となるのだろう。猜疑心、嫉妬、悪意、侮蔑、妄想、等々の邪心を生み出すだろう。
 当然、同一性主義は、心的脆弱さへの保障であるから、自我肯定・自尊心・慢心・傲岸さ等を生むのである。自我主義(無明)である。【p.s.  ここで、経済について言うと、サブプライムローン問題についてであるが、それは、正に、同一性主義に駆動されていて、非理性主義(理性はMedia Pointの知に存する)なのである。つまり、心的脆弱さから発する同一性主義とは、ただただ同一性=同一性交換価値を追求する狂気であるということになるのである。パラノイアとも言えよう(メルヴィルの『白鯨』の白鯨モゥビィ・ディックを追求する偏執狂・モノマニアのエイハブ船長である)。同一性価値が排除的中心価値となり、差異・差異共振価値を排除しているのである。】
 以上で、本件は解明が終わったが、付加して、同一性主義と構造主義との関係をみたいのである。同一性主義とは、イデア点における同一性の極大化である。そして、構造主義とは、イデア点における同一性志向性を中心化させたものである。
 そう見ると、両者は、イデア点における差異の排除と同一性の中心化という点で共通していると言えよう。つまり、近代合理主義と構造主義は一致するということであろう。ただし、構造主義は、同一性主義の自覚という点では、一歩前進してはいるのである。言い換えると、構造という発想自体が、超越論性をもっていて、それが、単なる同一性主義とは区別されるということになる。
 そして、構造はイデア点にあるのであるが、正確に言えば、イデア点の実軸に存しているのである。私は先にそれを構造点と呼んだのである。整理すると、

Media Point(イデア点)⇒構造点⇒構造主義⇒同一性主義

となる。
 ここでついでながら、ポスト・モダンの意味について再確認すると、ポスト・モダンないしはポスト構造主義とは、構造点を指摘した理論であった。デリダの場合、それが差延であり、ドゥルーズの場合は、差異(微分)であった。
 しかしながら、差延という概念において、差異と同一性との、連続性と不連続性との揺らぎ(脱構築性)を説いた点では、デリダ哲学の方が、ドゥルーズ哲学よりも進んでいたと言えよう(これまでは、デリダ哲学にも、差異と同一性との連続性を見たが、それは間違いであったので訂正しておきたい)。
 とは言え、デリダはフッサールを批判して、ハイデガーを肯定的に捉えているので、フッサール現象学のブレークスルーであった超越性の観念を否定してしまい、構造点の揺らぎで留まり、袋小路に陥ったと考えられるのである。
 結局、ポスト・モダン理論とは、Media Pointの構造点を指摘した理論であり、デリダはそこの実軸における揺らぎを指摘し、ドゥルーズはそれを連続化して差異を微分化したのであり、両者はフッサールが到達したイデア点の超越性には届かなかったのである。いわば、Media Pointの超越点には達しなかったのである。
 これまで述べてきたように、ポスト・モダン理論は、ハイデガー哲学の影響下にあると考えられるのであり、フッサール現象学(ハイデガー哲学は、似非現象学である。ハイデガー哲学は、あえて言えば、構造点哲学である。)を看過しているのである。正確に言えば、フッサール現象学(あえて言えば、超越点哲学である。)のブレークスルーである超越性(超越論的主観性)を理解できなかったのである。
 ここでさらに追求するなら、どうして、フッサール現象学のブレークスルー(本当は、イデア論的高次元の再発見である)が看過・無視されたのか、である。哲学史上は、いちおう、現象学の画期性を説かれているが、それが真に理解されなかったと考えられるのである。この原因は、やはり、これまで述べてきたように、フッサールの「弟子」のハイデガーであると考えられるのである。
 超越論的主観性から存在への切り替えが問題である。存在については、後述するが、問題点をあげると、フッサールに残っていた同一性の志向性が揚げ足を取られたと思うのである。
 さて、存在について言うと、ハイデガーは華々しく、と言うか、野心的に、乃至は、はったり的に、西洋哲学史における存在忘却と言うが、存在をプラトニック・シナジー理論的に見ると、それは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1における-iを中心化した哲学ではないだろうか。確かに、西洋哲学においては、+iが常に中心化されてきた。だから、-iが忘却されてきたというは、ある意味では正しいが、しかしながら、差異共振性という根源を考えると、それは、同一性主義に対する反動なのである。確かに、ある主の差異主義であるが、それは、同一性を否定するのである。つまり、反動的差異主義なのである。これは、ポスト・モダンのアイロニカルな没入とほぼ同じ事態である。-iを過大視して、反動化するのである。認識という同一性に対して、存在という差異を言うが、反動的に同一性に没入するのである。
 ハイデガーの説く本来的存在とは、正に、差異をもつものの同一性(自我)へと収斂するのである。そして、それは、無に対しているのである。この無は反動によって、差異共振性を否定したところに発生する無である。暗い無である。(仏教等の無・虚無は、明るい無と言えよう。)
 最後に推測的に補足すると、後期ハイデガーであるが、結局、差異の反動から神秘主義へと展開しているように思えるのである。問題はやはり反動であるから、神秘的同一性に帰してしまうことである。これは、差異共振的一(いつ)ないしは即非的一とは似て非なるものである。神秘的同一性は、全体主義に通じると考えられるのである。【D.H.ロレンスの神秘思想は、一見、ハイデガー哲学に似ているが、基本的には異なると見るべきである。ロレンスは基本的には、三元論であり、差異共振性を聖霊として考えているのである。確かに、一時期、ハイデガーのように、-i=身体性(=存在)へと傾斜したが(dark Godを説いた)、晩年期には、それから脱して、差異共振性へと回帰したと考えられる。】


   




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