INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/01/06

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年01月06日(Sun)▲ページの先頭へ
仮象とは何か:同一性現象は仮象かそれとも「実象」か:現象はイデアを映した影像である:第2版
仮象とは何か。
この問題については、以前、かなり検討したが、以下のように可視の物質現象界を「あやかし」と見る見方は、なかなか刺激的見方なので、もう一度検討してみたい。今は余裕がないので、詳述できないが(p.s. 結局、詳述した)、簡単に予見を述べておこう。
 以下の鈴木氏の考え方はきわめて伝統的な見方とは言える。心が本体であり、物質は仮象(マーヤー)であるというインド思想的な見方である。一見、仏教やプラトン哲学にも通じるように見えるのである(p.s. これは仏教やプラトン哲学とは異なる。既述したことだが、色即是空、空即是色の思想は、現象をそれなりに肯定しているし、プラトン哲学には、分有という観念があり、それは、同一性がイデアを分有するということである。)。
 これまでの私の見解は、同一性=物質ということで、物質現象界の「実象」性(じつしょうせい:造語)を認めるものである。
 しかしながら、最近、私は現象界の「美」、同一性の「美」(p.s. 後段で述べるように、美と綺麗さを分けることが正しいと考える)に対して、たいへん疑問をもつようになっている。化粧的装飾性に対して、私は、いわば、敵意のようなものをもっているのである。
 私が先に説いたのは、肉体的感覚(視覚)を介しての、心の美、差異共振的美のことである。そう、感覚の替わりに、感識という言葉を使用したらどうかと示唆した。だから、視覚は視識であり、等々である。
 つまり、源泉において、諸感識があり、そこに視識がある。それが、同一性化して、肉体的視覚に重なる。そして、肉体的視覚に吸収されると、それは、もはや、源泉の視識性を喪失して、同一性視識となる。
 とまれ、根源的な視識があり、それが、同一性視識となる。根源的視識とは、差異共振視識である。それが、同一性化するのである。そして、根源的視識と同一性視識の関係は、即非的視識となるのである。問題は、即非的視識と同一性主義化した視識である。前者は同一性視識を包摂しているのであるから、論点は、同一性視識にある。核心的問題は、同一性視識の美である。たとえば、奇麗(きれい)に清掃された部屋の奇麗さである。それを美とも呼びえるかもしれない。しかし、奇麗さが妥当であろう。そう、奇麗さと美とは異なるだろう。
 しかし、たとえば、ある女性が美人であると言ったとき、それはどういうことなのか。顔の造りが整っている、端正なのか、それとも、表情・顔貌が美しいのか。通常は、前者であろう(p.s. 本来的には、両方が一致する場合であろうが、ここで、議論上、二分化した。)。心的な側面よりは、肉体的側面を評価していう言葉だろう。肉体的な「美」とは、本来的ではないだろう。それは、奇麗さの分類だろう。奇麗な女性である。それが正しい用法である。
 しかし、この奇麗さは確かに、「あやかし」の面がある。奇麗な顔立ちでも、心が鬼という場合は大いにあるだろう。外観と内面の不一致である。この場合は、端的に、外観は仮象・「あやかし」である。
 この同一性の「美」をどうみるのか。「美」ではなく、快感というべきなのだろう。同一性の快感である。あるいは、同一性の奇麗さである。
 しかしながら、そのように分別しても、問題は、根源的視識の様相である。それは、差異共振する美を視識するのである。夕焼けに共振美を感じるのである。感動した夕焼けには、なにか神々しい心象がある。
 ここで、単なる奇麗さとは異なるのである。つまり、超越性が美にはあると考えられるのである。あるいは、高次元性が美にあるのと考えれるのである。
 しかしながら、外観において、神々しい美があるのではないだろうか。夕焼けのように。それはあり得るであろう。超越性をもった外観があるのではないだろうか。端的に、夕焼けが超越性をもった外観である。
 では、超越性をもった外観とは何か、である。夕焼けの場合、あらゆる夕焼けに超越性を感じるというよりは、あるときの、ある場所の夕焼けにとりわけ超越性を感じるだろう。とまれ、ある夕焼けの色と輝きに、神々しさがある。それは、清澄感であり、崇高さである。つまり、外観に超越性がいわば透き通って存するのである。反射していると言ってもいいかもしれない。おそらく、そこに、超越光があると言っていいだろう。思うに、日没、入り日とは、Media Pointなのではないだろうか。
 そのように考えると、人間の外観においても、超越性が存するということは考えられるのである。心の反映としての超越性ではなく、身体・肉体に存する超越性である。そして、思うに、古代ギリシア人は、このように、人体に美・超越性を直覚・直観したのではないだろうか。だから、それは、外観ではあるが、「まやかし」ではないだろう。真如(しんにょ)ないしは実相(じっそう)である。
 では、ここに少なくとも二つの美があることになる。外観の美と心の美である。こう見ると、古典主義とは前者を志向し、ロマン主義は後者を志向したと言えるように思えるのである。
 とまれ、端的に、外観の超越性とは何だろうか。身体の超越性とは何だろうか。それは、思うに、身体・人体のエイドス・イデア=テオーリアではないだろうか。今はそういうことにしておきたい。
 そして、ここでも先に述べたイデアと構造の相違があるのである。イデアは美であるが、構造は奇麗さであろう。化粧は後者なのである。形式快感である。そう、近代文化は、この区別ができないのである。致命的な盲目さである。
 最後に付け加えて言うと、古代ギリシアには、ロマン主義的美(心の美)はなかったのであろうか。これは、ヘーゲル美学にも関係する事柄である。また、ニーチェ哲学の問題でもある。
 つまり、ディオニュソスとアポロの問題である。ここで、簡単に言うと、ディオニュソスがロマン主義であり、アポロが古典主義である。これで、疑問に答えたことになる。そう、古代ギリシア人は、二つの美、二つの超越性を感識していたことになる。畏るべき古代ギリシア人である。通常、ディオニュソスの美は感識していた古代人は多いだろうが、アポロの美を感識した古代人は稀有ではないだろうか。
 では、ニーチェの『悲劇の誕生』の問題に答えるとどうなるだろうか。これは実に霊妙・微妙な問題である。ニーチェは、ギリシア悲劇のベースには、ディオニュソスがあり、それがアポロ文化を生むと言ったのである。つまり、ロマン主義ないしは心の美が基盤にあり、それから、古典主義ないしは外観の美が生まれたということになる。
 ここで、プラトニック・シナジー理論から、つまり、Media Pointを中心点として考察しよう。森羅万象はMedia Pointから生まれるのである。宇宙の臍(へそ)である。ここでは、超越性と現象性が即非様相にあるのである。心をMedia Pointと見ると、心と現象性とが即非様相にあることになる。
 そう、現象性、たとえば、身体・人体であるが、それも、ある心の表出である。これがアポロの美となるだろう。つまり、身体・人体のイデア・エイドス=テオーリアがあり、それが、外観に照り映えているのである。
 そう考えると、ニーチェの考えはまったく的確、正鵠(せいこく)を射ていたと言える。今、思いついたが、やはり、イシスとオシリスの関係ではないのか。イシスがディオニュソスであり、オシリスがアポロである。極言すれば、オシリスとはイシスの一部なのである。つまり、アポロはディオニュソスの一部なのである。その一部が照り映(は)えているのがオシリスやアポロであるということではないだろうか。
 そう、D.H.ロレンスがdark Godと言ったのを想起するし、また、天文学のダークエネルギーを想起する。この場合、dark、ダークは不可視と把捉しないといけない。即ち、イシスやディオニュソスは不可視であるということになるだろう。超越性である。虚軸の超越性である。超越光である。超越エネルギーである。そして、これらが、 Media Pointで可視化したのが、現象界ということだろう。
 問題は、この不可視性と可視性である。ここで、鈴木氏の問題、「あやかし」の問題に返るのである。そう、不可視性という考え方も問題があるのではないだろうか。夕焼けにおいて、美は視識するのである。心で視識すると言ってもいいが、やはり、視識はするのである。だから、不可視ではないのである。
 そう、超越性は即非的に、現象性に照り映えているのである。それがニーチェが天才的に説いたディオニュソスとアポロの関係ではないか。だから、darkやダークという言い方は、不正確であると言えよう。それは、現象中心性から超越性を見んとしているのである。
 だから、「あやかし」という表現は間違いであるということになるだろう。マーヤーという考え方も間違いである。
 現象は仮象ではあっても、「あやかし」や「マーヤー」ではないのである。現象はいわば、映象(えいしょう:造語)、ないしは、照象(しょうしょう:造語)である。現象はイデア界を映した影像なのである。

p.s. 現象界を影像界と呼ぶのが適切だろう。

p.p.s. 影象(えいしょう)界とも呼べよう。そう、映象(えいしょう)界でもいいだろう。

3p.s. アポロの美に関して、上の議論では、最初は、それは心の美ではなく、外観の美であると言い、その後、それは一種心の美の表出であると述べている。この見解は齟齬に感じられないことはないので、少し説明する。
 先ず、最初に述べた心の美と外観の美の区別であるが、これは、どちらかと言えば、厳密に分類したときの場合であり、後者の、心の美の表出としての外観の美とは、心の美を広義にとった場合である。即ち、心を諸超越的エネルギーにとって、その中で、身体・人体・外観を形成するものがあるということであり、そのとき、心の美の映出としての外観の美があるということである。

*******************

1億3千万の日本国民の凡そ1%の130万人でも、見た目の物質現象界が「あやかし」であって、
「充実」や「よろこび」や「しあわせ感」という見えない心の中の世界こそが本物であることを見抜けばよい。
国民の1%が覚醒すると一気に「日本人全体の魂の充実」への次元変化が加速するのです。
心象界の喜びがさらに良性な現象を生むのです。
そうした心象の喜びから現象の創造その繰り返しによる人生修行のスパイラルアップがこの世の仕組みになっている。
http://subtleeng.thd-web.jp/e6094.html
鈴木 俊輔 の サトルの泉


仮象とは何か:同一性現象は仮象かそれとも「実象」か:現象はイデアを映した影像である
仮象とは何か。
この問題については、以前、かなり検討したが、以下のように可視の物質現象界を「あやかし」と見る見方は、なかなか刺激的見方なので、もう一度検討して見たい。今は余裕がないので、詳述できないが、簡単に予見を述べておこう。
 以下の鈴木氏の考え方はきわめて伝統的な見方とは言える。心が本体であり、物質は仮象(マーヤー)であるというインド思想的な見方である。一見、仏教やプラトン哲学にも通じるように見えるのである。
 これまでの私の見解は、同一性=物質ということで、物質現象界の「実象」性(じつしょうせい:造語)を認めるものである。
 しかしながら、最近、私は現象界に美、同一性の美に対して、たいへん疑問をもつようになっている。化粧的装飾性に対して、私は、いわば、敵意のようなものをもっているのである。
 私が先の説いたのは、肉体的感覚(視覚)を介しての、心の美、差異共振的美のことである。そう、感覚の替わりに、感識という言葉を使用したらどうかと示唆した。だから、視覚は視識であり、等々である。
 つまり、源泉において、諸感識があり、そこに視識がある。それが、同一性化して、肉体的視覚に重なる。そして、肉体的視覚に吸収されると、それは、もはや、源泉の視識性を喪失して、同一性視識となる。
 とまれ、根源的な視識があり、それが、同一性視識となる。根源的視識とは、差異共振視識である。それが、同一性化するのである。そして、根源的視識と同一性視識の関係は、即非的視識となるのである。問題は、即非的視識と同一性主義化した視識である。前者は同一性視識を包摂しているのであるから、論点は、同一性視識にある。核心的問題は、同一性視識の美である。たとえば、奇麗に清掃された部屋や奇麗である。それを美とも呼びえるかもしれない。しかし、奇麗が妥当であろう。そう、奇麗と美とは異なるだろう。
 しかし、たとえば、ある女性が美人であると言ったとき、それはどういうことなのか。顔の造りが整っている、端正なのか、それとも、表情・顔貌が美しいのか。通常は、前者であろう。心的な側面よりは、肉体的側面を評価していう言葉だろう。肉体的な「美」とは、本来的ではないだろう。それは、奇麗の分類だろう。奇麗な女性である。それが正しい用法である。
 しかし、この奇麗は確かに、「あやかし」の面がある。奇麗な顔立ちでも、心が鬼という場合は多いにあるだろう。外観と内面の不一致である。この場合は、端的に、外観は仮象・「あやかし」である。
 この同一性の「美」をどうみるのか。「美」ではなく、快感というべきなのだろう。同一性の快感である。あるいは、同一性の奇麗である。
 しかしながら、そのように分別しても、問題は、根源的視識の様相である。それは、差異共振する美を視識するのである。夕焼けに共振美を感じるのである。感動した夕焼けには、なにか神々しい心象がある。
 ここで、単なる奇麗とは異なるのである。つまり、超越性が美にはあると考えられるのである。あるいは、高次元性が美にあるのと考えれるのである。
 しかしながら、外観において、神々しい美があるのではないだろうか。夕焼けのように。それはあり得るであろう。超越性をもった外観があるのではないだろうか。端的に、夕焼けが超越性をもった外観である。
 では、超越性をもった外観とは何か、である。夕焼けの場合、あらゆる夕焼けに超越性を感じるというよりは、あるときの、ある場所の夕焼けにとりわけ超越性を感じるだろう。とまれ、ある夕焼けの色と輝きに、神々しさがある。それは、清澄感であり、崇高さである。つまり、外観に超越性がいわば透き通って存するのである。反射していると言ってもいいかもしれない。おそらく、そこに、超越光があると言っていいだろう。思うに、日没、入り日とは、Media Pointなのではないだろうか。
 そのように考えると、人間の外観においても、超越性を存するということは考えられるのである。心の反映としての超越性ではなく、身体・肉体に存する超越性である。そして、思うに、古代ギリシア人は、このように、人体に美・超越性を直覚・直観したのではないだろうか。だから、それは、外観ではあるが、「まやかし」ではないだろう。真如である。
 では、ここに少なくとも二つの美があることになる。外観の美と心の美である。こう見ると、古典主義とは前者を志向し、ロマン主義は後者を志向したと言えるように思えるのである。
 とまれ、端的に、外観の超越性とは何だろうか。身体の超越性とは何だろうか。それは、思うに、身体・人体のエイドス・イデア=テオーリアではないだろうか。今はそういうことにしておきたい。
 そして、ここでも先に述べたイデアと構造の相違があるのである。イデアは美であるが、構造は奇麗さであろう。化粧は後者なのである。形式快感である。そう、近代文化は、この区別ができないのである。致命的な盲目さである。
 最後に付け加えて言うと、古代ギリシアには、ロマン主義的美(心の美)はなかったのであろうか。これは、ヘーゲル美学にも関係する事柄である。また、ニーチェ哲学の問題でもある。
 つまり、ディオニュソスとアポロの問題である。ここで、簡単に言うと、ディオニュソスがロマン主義であり、アポロが古典主義である。これで、疑問に答えたことになる。そう、古代ギリシア人は、二つの美、二つの超越性を感識していたことになる。畏るべき古代ギリシア人である。通常、ディオニュソスの美は感識していた古代人は多いだろうが、アポロの美を感識した古代人は稀有ではないだろうか。
 では、ニーチェの『悲劇の誕生』の問題に答えるとどうなるだろうか。これは実に霊妙・微妙な問題である。ニーチェは、ギリシア悲劇のベースには、ディオニュソスがあり、それがアポロ文化を生むと言ったのである。つまり、ロマン主義ないしは心の美が基盤にあり、それから、古典主義ないしは外観の美が生まれたということになる。
 ここで、プラトニック・シナジー理論から、つまり、Media Pointを中心点として考察しよう。森羅万象はMedia Pointから生まれるのである。宇宙の臍である。ここでは、超越性と現象性が即非様相にあるのである。心をMedia Pointと見ると、心と現象性とが即非様相にあることになる。
 そう、現象性、たとえば、身体・人体であるが、それも、ある心の表出である。これがアポロの美となるだろう。つまり、身体・人体のイデア・エイドス=テオーリアがあり、それが、外観に照り映えているのである。
 そう考えると、ニーチェの考えはまったく的確、正鵠を射ていたと言える。今、思いついたが、やはり、イシスとオシリスの関係ではないのか。イシスがディオニュソスであり、オシリスがアポロである。極言すれば、オシリスとはイシスの一部なのである。つまり、アポロはディオニュソスの一部なのである。その一部が照り映えているのがオシリスやアポロであるということではないだろうか。
 そう、D.H.ロレンスがdark Godと言ったのを想起するし、また、天文学のダークエネルギーを想起する。この場合、dark、ダークは不可視と把捉しないといけない。即ち、イシスやディオニュソスは不可視であるということになるだろう。超越性である。虚軸の超越性である。超越光である。超越エネルギーである。そして、これらが、 Media Pointで可視化したのが、現象界ということだろう。
 問題は、この不可視性と可視性である。ここで、鈴木氏の問題、「あやかし」の問題に返るのである。そう、不可視性という考え方も問題があるのではないだろうか。夕焼けにおいて、美は視識するのである。心で視識すると言ってもいいが、やはり、視識はするのである。だから、不可視ではないのである。
 そう、超越性は即非的に、現象性に照り映えているのである。それがニーチェが天才的に説いたディオニュソスとアポロの関係ではないか。だから、darkやダークという言い方は、不正確であると言えよう。それは、現象性から超越性を見んとしているのである。
 だから、「あやかし」という表現は間違いであるということになるだろう。マーヤーという考え方も間違いである。
 現象は仮象ではあっても、「あやかし」や「マーヤー」ではないのである。現象はいわば、映象(えいしょう:造語)、ないしは、照象(しょうしょう:造語)である。現象はイデア界を映した影像なのである。

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1億3千万の日本国民の凡そ1%の130万人でも、見た目の物質現象界が「あやかし」であって、
「充実」や「よろこび」や「しあわせ感」という見えない心の中の世界こそが本物であることを見抜けばよい。
国民の1%が覚醒すると一気に「日本人全体の魂の充実」への次元変化が加速するのです。
心象界の喜びがさらに良性な現象を生むのです。
そうした心象の喜びから現象の創造その繰り返しによる人生修行のスパイラルアップがこの世の仕組みになっている。
http://subtleeng.thd-web.jp/e6094.html
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