INNOVATION OF PHILOSOPHY: GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience - 2008/01/03

GP陰陽哲理学 Gaussian Plane Yin-Yang Philosophience:思えば、2004年9月「海舌」氏とブログ上で遭遇し、不連続的差異論が誕生しました。その後、仮説・理論は紆余曲折的に変転しました。現時点2015年では理論名はGP陰陽哲理学です。




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2008年01月03日(Thu)▲ページの先頭へ
心と身体の関係について:遺伝子、感情、気とは何か:Media Pointと構造について:試論
Media Pointを心とする。では、身体との関係はどうなるのだろうか。あるいは、遺伝子との関係は。これは、難問である。
 基本的な論点は、Media Point=心からの同一性の発動である。これは、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺である。つまり、心の物質化があるのではないのか、ということが考えられるのである。これは、一見、霊的唯物論に似ているが、似て非なるもの、というか、正反対である。
 心の物質化ということに対して、これまでは、私の考えでは、心の構造化としての同一性があり、それに対して、それに対応する物質があるというものである。つまり、二段階説である。心⇒構造⇒物質である。最初の心の物質化を1とし、これを2とすると、

1. 心⇒物質
2. 心⇒構造⇒物質

となる。遺伝子・DNA・ゲノム等を考えると、2の説の方が優れているように思う。しかしながら、私は、さらに、感情や気を取り込みたいと考えているのである。
 その前に、遺伝子等の問題を考えたい。直感では、構造が問題点である。そして、さらに直感では、構造は二面性をもっていて、Media Pointとしての側面と同一性の側面をもっているということである。こう言うと、構造はMedia Pointと区別できにくくなる。これも問題点である。基本的には、構造は同一性構造ということである。だから、端的に、Media Pointから区別されるのである。
 構造とは、言い換えると、Media Pointの実軸の点であるということになるだろう。ここは実に微妙な点で、構造の原点であり、かつ、ポスト・モダンの原点でもあると思われるのである。この点は後で詳論したい。
 さて、構造をもう少し説明すると、それは、Media Pointの虚軸性が実軸性に変換される点である。虚軸・イデア界的太極性が、二重螺旋で表現されると思われるのである。つまり、虚軸・イデア界的情報を、実軸原点において、原時間性を内在させて、二重螺旋で表現していると思えるのである。これが、遺伝子・DNA・ゲノムではないだろうか(p.s. 結局、遺伝子とDNA・ゲノムは区別することになったので、ここで注意しておきたい。)★★★(以下のp.sを参照)
 実に微妙である。構造における原点とは、超越性・イデア界のいわば名残をもっているのである。デリダ風に言うと、超越性・イデア界性の痕跡をもっているのである(デリダ哲学自体をプラトニック・シナジー理論から脱構築する必要があるだろう。彼の哲学は分裂しているのである。フッサールを否定して、ハイデガーに肯定的で、差延という概念を取り出すが、実は、差延という概念は、否定したフッサールの超越性の痕跡と見るのが正確であると思えるのである。デリダのパラドックスがあるのである。)このイデア界の痕跡とは、非存在を示唆する存在ということである。だから、デリダがエクリチュールというのは、的確であると思う。イデア界の痕跡としてのエクリチュールとしての構造の原点である。
 この構造の原点であるが、これはいわば、シンボルやアレゴリーである。(私はシンボルもアレゴリーもほとんど同じものではないかと思っている。後で検討したい。)先に言及した、古代ギリシアのテオーリア(観る)の観念であるが、それは、構造ではなく、端的に、Media Pointの観念=エイドス=イデア=ヴィジョンであると思う。
 とまれ、構造の原点に戻ると、それは、虚軸・イデア界の痕跡=エクリチュール(=シンボル/アレゴリー)をもつのであるが、それは、不思議な現象であり、基本的には、実軸世界であるが、同時に、虚軸世界を写しているのである。おそらく、これが、遺伝子・DNA・ゲノムではないだろうか。そして、ここから、同一性物質(有機体・身体・物質的生命体)が構築されるのである。
 では、感情とはどう説明できるだろうか。それは、心であるから、基本的には、Media Pointである。しかるに、それが、物質界に対面したときに発するエネルギーではないだろうか。すると、感情とはMedia Pointが外界から触発されたエネルギー様態のことではないだろうか。言い換えると、同一性や差異によって喚起されたエネルギー様態ということではないのか。同一性が押しつけられたときは、苦の感情となるだろうし、差異共振の場合は、歓喜となるだろう。
 では、気とはどう説明できるだろうか、それは、やはり、エネルギーであるから、基本的には、Media Pointである。しかしながら、生命と直結しているので、構造に関係しているのである。つまり、Media Pointと構造との接合点が気ではないだろうか。言い換えると、Media Pointと遺伝子との接合点である。推測であるが、いわゆる万能細胞と言われる幹細胞であるが、それは、気と関係していると思う。おそらく、気のもつ多様生成性(参照:プラトンのコーラ)が関与していると思われるのである。遺伝子自体になると確定されていると思うのである。
 以上、いろいろ述べたので、後で、個別に整理したい。

p.s. 上記の★★★の箇所と関連する補足である

この点は微妙であり、きわめて重要な点である。虚軸における超越的差異共振振動があるが、それが、Media Pointにおいて、実軸化されるが、その痕跡が二重螺旋であり、DNA /ゲノムではないのか。しかしながら、遺伝子は、量子と同じであり、本来的には、虚軸の超越的差異共振振動と考えるべきではないのか。言い換えると、量子の重層化されたものが遺伝子ではないだろうか。そして、それは、魂・霊魂と同じではないだろうか。つまり、これまで示唆してきたように、遺伝子とDNA/ゲノムは区別されるということである。遺伝子はイデアであり、魂・霊魂・スピリットである。しかし、DNA/ゲノム(二重螺旋)は構造である、ということになる。もっとも、遺伝子・イデア・魂自体は、Media Pointにおいて、原二重螺旋を形成しているのではないだろうか。というか、正しくは、太極であろう。しかしながら、太極には、情報が織り込まれていると思われるのである。ここも微妙できわめて重要なポイントである。虚軸の太極的振動があるということになる。それが、Media Pointに接して、構造=DNA/ゲノムとなるのである。
 ここで整理すると、遺伝子・イデア・魂とは、虚軸の振動であり、それ自体は、Media Pointではないが、1/4回転によって、実軸化して、痕跡・エクリチュールとして、構造・DNA・ゲノムとなるということになる。
 ところで、ここで、以下言及したデリダ哲学について補足すると、痕跡=差延とは、正に、Media Pointの実軸点である。ほとんど構造と言っていいが、しかし、虚軸の痕跡という点で、構造を越えている概念であると考えられる。ただし、虚軸の超越性を完全に否定しているので、袋小路に陥ったと考えられるのである。確かに、構造主義を一歩越えて、Media Pointの実軸点に達したことは評価しなくてはならないが、そこで閉塞してしまい、差延の反復を行う羽目になったのである。これは、量子力学の閉塞と同様と考えられよう。
 ところで、ドゥルーズ哲学はこの点どう見たらいいだろうか。やはり、それなりに、Media Pointの実軸点には到達していたと思う。しかしながら、デリダとは異なり、その「差異」を同一性と連続化させてしまったのである。つまり、連続的差異=微分の発想に留まってしまったのである。この点、痕跡を説いたデリダ哲学より後退していると言えるだろう。痕跡の点でデリダは半歩、ドゥルーズより前進したのである。しかしながら、エネルギー的流動性という点では、ドゥルーズはデリダにより優れていると言えるだろう。つまり、ドゥルーズはMedia Point におけるエネルギー様態を連続化させたのである。

p.p.s. 痕跡・エクリチュールであるが、それは、正に、漢字や象形文字に表出しているだろう。占いもそれに近いだろう。しかしながら、イデア/エイドス=テオーリアであるが、それは、真に原形ではないのか。構造と原形は異なるのである。漢字や象形文字は構造であり、原形ではないと思うのである。 
 思うに、私が経験した山のイデアとは山の原形ということだろう。では、原型(ゲーテ)・元型(ユング)との関係はどうなるだろうか。例えば、ゲーテの考えた原植物であるが、それは、直感では、原形だろう。しかし、構造性も入っているようにも思える。元型であるが、それも基本は原形であろう。しかし、同様に、構造のように捉えられているのではないだろうか。河合隼雄は、構造のように捉えているのではないだろうか。これらの点に関しては後で検討したい。

3p.s. 以上のイデアと構造の区別が決定的に重要なポイントであると思う。これが西洋哲学において混同されて、イデアを同一性的な構造として誤解されてきたと考えれるのである。東洋哲学においては、イデアを直覚していたと考えられる。Media Point哲学なのである。とまれ、これらについても後で検討したい。


創世記の水と神霊について:東洋文化・太母文化の変異点としてのヤハウェ神学:新世界宗教へ
水をMedia Pointとすると、神霊とは、正に、超越的同一性であり、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の⇒ではないのか。先に私は+iを神霊と考えたが、確かに、そう考えていいのだが、神霊は物質現象を生み出す力(創造神)と考えれば、⇒である。
 問題は、この神霊・ヤハウェが、左辺を隠蔽してしまうことである。端的に言えば、左辺は多神教(三つ巴)ということだろう。推察では、エローヒーム(神の複数形)が、左辺であり、それ(即ち、エローヒーム神学:多神教神学)をヤハウェ神学(一神教神学)が簒奪することになったのではないのか。
 とまれ、創世記の水をMedia Pointと仮説して考察を続けると、東洋文化、とりわけ、太母文化においては、Media Pointからの生成が確認されるのである。自然(自ずから成る)である。しかし、創世記においては、「光あれ」という神霊の意志・言語行為がポイントである。自然ではなく、意志である。これが、父権神話・宗教の特徴である。この神霊の意志をどう考えるのかである。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1 で考えると、上述したように、⇒になるのだろう。
 そうならば、東洋文化・太母文化の自然・生成はどう考えたらいいのだろうか。それは、上述から自明なように、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の左辺を認識・意識していると考えられる。つまり、自然の創造する力(⇒)を、左辺(太極や三つ巴と見ていいだろう)に基づくもの、即ち、生成消滅するものと認識しているのである。自然(じねん)である。
 それに対して、ヤハウェ神学では、神霊の意志が創造する力なのである。キリスト教神学では、無からの創造と言うが、正確には、無ではなく、水からの創造であろう。水はMedia Pointであり、東洋文化では、自然(じねん)である。
 この相違をどう考えたらいいのだろうか。これは、既に考察済みである。即ち、原点は、Media Pointであり、太極であり、陽への志向性が極大化したときが、ヤハウェ神学が発生すると考えられるのである。⇒ないしは、⇒+1である。
 そう、ヤハウェ神学とは、東洋文化・太母文化の変態・特異点と考えられる。母胎は東洋文化・太母文化である。しかし、おそらく、陽極への志向性によって、1/4回転によって、ヤハウェ神学が生まれたのである。
 私は不連続的差異論の形成時に、裏返しということを何度も述べたが、東洋文化・太母文化の裏返しとしてのヤハウェ神学を考えることができるだろう。このとき、自然(じねん)ではなく、神霊の意志となるのである。そのとき、Media Pointを否定して、無となし、そして、無からの創造という観念が生まれるのだろう。ということで、繰り返すが、ヤハウェ神学とは、東洋文化・太母文化の一変異点であるということである。そして、それは一種癌細胞に似て、自己破壊的なのである。母体である自然を食い尽くすのである。
 とまれ、ヤハウェ神学において、自然(じねん)がいわば自己否定されて、意志的創造が中心化されたのである。そして、これが、ユダヤ・キリスト教西洋文明の土台となったのである。それは、自然に対する人間の意志の肯定である。(その点は、見事に、創世記に書かれている。) 
 これでヤハウェ神学と東洋文化・太母文化の相違について、後者を基盤として解明できたとしよう。そう、繰り返すが、ヤハウェ神学を東洋文化・太母文化の特異点・変異点として見るのが明快である。
 そのように見ると、Media Point=太極の回転から、ヤハウェの発現から、イエスの出現、そして、イスラム教の出現は、論理・必然的に説明できるだろう。そして、新しい聖霊の宗教の発現も説明できるだろう。これが、私の唱える父権統合型新太母文化・新東洋文明である新世界宗教ということになると考えられるのである。
 そして、今日、陽極大化を越えて、陰=差異への志向性が発生して、Media Point=太極へと回帰しつつあると思われるのである。トランス・モダンへの相転移である。
 私はこれまで、ユダヤ・キリスト教を徹底的に否定してきたが、以上の視点に拠るならば、ユダヤ・キリスト教は、東洋文化・太母文化すなわちMedia Point文化の一変異点であり、それに包摂されることができるのである。つまり、特異点ではあるが、畢竟、東洋文化・太母文化・Media Point文化の一局面・一文化期である(あった)ということである。だから、否定というよりは、批判的視点から、包摂することが正しいということになるだろう。だから、新たな世界宗教とは、正確に、万教帰一となるのである。それは、新太母教である。思うに、詩人ヘルダーリンが、キリスト教と異教との和解を歌っていたが、それは、正に、天才的に、Media Pointからの発想である。
 最後に、創世記の謎の「天の上の水」について触れると、水をMedia Point=自然とすると、天は、二元論における天であるから、神霊=ヤハウェと関係すると考えられるので、そして、「天の下の水」が通常の海であると考えられることから見ると、「天の上の水」とは、ヤハウェ神学にとっては不要となったMedia Point=太極=自然=太母を意味していると言えよう。だから、創世記では、その後、その言及が消えていると考えられるのである。古事記で見ると、捨てられたヒルコにある意味で似たものではないだろうか。もっとも、ヒルコは、ユダヤ神話では、アダムの最初の妻リリスと関係するだろう。


   




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