ポエニ戦争:ローマVSカルタゴ:西洋VS東洋:同一性主義と差異共振主義の混淆としてのキリスト教:Ver 2






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2008年10月27日(Mon)
ポエニ戦争:ローマVSカルタゴ:西洋VS東洋:同一性主義と差異共振主義の混淆としてのキリスト教:Ver 2
ポエニ戦争とは、ローマがカルタゴを滅ぼして、地中海の覇権を勝ち取った戦争であるが、カルタゴとは、フェニキア人(東洋人)の建てた国である。だから、この戦争は西洋VS東洋を意味すると考えられるのである。
 古代ローマの勝利とは、直感では、同一性主義の勝利である。古代ギリシアにも同一性主義の要素はあったが、古代ギリシアには、それ以前にMedia Pointの震源があった。これをおそらく古代ローマは破壊したのである。
 そして、その後、古代ローマは「イエス」教を国教化する。これは、「イエス」教の同一性主義化である(P.S. つまり、キリスト教の誕生である)。ヤハウェ化である。イエスの教えの差異共振性がここで、抑圧阻害されるのである。そう、カトリックは、東洋的女神教と父権的ヤハウェ教との妥協であり、前者を女神を崇拝する民衆を引き寄せるために、狡猾に利用しているのである。【P.S.  私は以前も触れたが、教父たちと同一性主義的金融資本の「談合」、癒着、取り引き、乃至は、共謀・結託があったのではないかと勘ぐっているのである。「ロゴスの受肉」という説が作られたが、それは、同一性主義金融資本としての「神」とイエスとの妥協案ではなかったのか。教父たちが怪しいのである。古代ローマにおける同一性主義金融資本の実態を知りたいものである。P.P.S. 「ロゴス」であるが、これは思うに、本来は「イデア」と見るべきではないだろうか。「ロゴス」の問題は複雑である。「コトバ」の問題と関係するのである。思うに、1)「イデア」としての「ロゴス」、2)「コトバ」としての「ロゴス」、そして、3)同一性主義としての「ロゴス」があるだろう。後で深く検討したいが、「ロゴスの受肉」としての「イエス・キリスト」とは、ヤハウェが関係するので、同一性主義としての「ロゴス」の「受肉」の面が強いだろう。
 思うに、「コトバ」も精神spiritである。しかし、同一性主義としての「コトバ」と同一性としての「コトバ」があるのではないだろうか。前者は差異を否定するが、後者は差異と結びつく。そうならば、同一性としての「コトバ」とは、1)「イデア」としての「ロゴス」と通じることになるだろう。
 整理すると、「コトバ」としての「ロゴス」とは、中間的であり、1)「イデア」としての「ロゴス」と3)同一性主義としての「ロゴス」の両義性をもつということになる。そう、混淆ないしは混同、混乱である。それは、プラトン哲学とアリストテレス哲学の混同とも言えよう。
 結局、「イデア」と「ロゴス」の関係の問題となる。「イデア」とは本来、即非論理であり、「ロゴス」は同一性論理(同一性主義論理そのものではない)である。即非論理は同一性を包摂している差異共振論理である。だから、「イデア」とは「ロゴス」を包摂していると考えられるのである。しかしながら、即非論理を喪失したとき、「ロゴス」は同一性論理から同一性主義へと展開されうる。今の段階では、「ロゴス」は、「イデア」を喪失して、同一性主義論理になったと作業仮説しておく。その原因は、やはり、ヤハウェの介入である。ヤハウェの同一性主義が、「ロゴス」に介入して、「ロゴス」は同一性主義論理に変容したのではないか。「イデア」⇒「ロゴス」が、ヤハウェの侵入によって、同一性主義化されたのではないか。それに「ロゴスの受肉」説は感染していると考えられるのである。デリダ哲学がいちばんの批判対象としたロゴス中心主義とは、正しく言えば、同一性主義であり、それは、ヤハウェ主義に源泉があると言うべきである。しかし、デリダは、同一性主義批判を同一性自体にも向けてしまったのである。だから、ロゴス中心主義という表現になるのである。結局、西欧文明はキリスト教による同一性主義と「ロゴス」の混同という知的汚染・混線・混濁があるので、デリダは、批判を同一性(「ロゴス」)にまで向けてしまって、構築と脱構築とのシーソー・ゲームの袋小路に陥ったと言えよう。
 とまれ、以上は、問題提起である。】

追記:三位一体説であるが、これは、Media Pointで解明できるだろう。思うに、イエスは、Media Pointを正に超天才的に体現していた人物であったと考えられる。Media Pointの権化、そう、宇宙的なMedia Pointの権化であったと言えるのではないだろうか。だから、この点では、「神」である。しかし、同時に、人間である。だから、「神」即人間である。また、Media Pointは、超越エネルギーを放出するのであるが、これが聖霊として表現されたと考えられるのである。これがPS理論による三位一体説の解明の試みである。
 問題は、ヤハウェである。三位一体の「神」とは、イデア界ないしイデアそのものであろう。それは、ヤハウェではありえない。というか、ヤハウェとは、「神」の同一性主義という様態、アスペクトである。「神」の一面であるヤハウェを「神」そのものとするのは、錯誤である。


   




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カレンダ
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