INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧
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INNOVATION OF PHILOSOPHY: NEW PLATONIC SYNERGY THEORY/一覧 (2163)
相対性理論/量子力学/生命科学/遺伝子問題 (74)
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2012年05月17日(Thu)▲ページの先頭へ
作業仮説:z軸とy軸の超越平面と超越円を前提とする
作業仮説:z軸とy軸の超越平面と超越円を前提とする
テーマ:manichaeism: 哲学 z軸の原回転もうまく説明できないので、超越軸(z軸)と虚軸(y軸)による超越平面と虚数の単位円(超越円)を前提とする。また、超越円は回転していると前提する。 そして、凸j*凹j⇒凸(+1)ないしは凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺のベクトルは回転していると考えられる。つまり、原螺旋運動が存すると考えられる。 問題は、以下のトーラス像における渦巻星雲をどう説明するのかである。 つまり、超越円において、どのように渦巻が形成されるのかを明らかにする必要がある。 凸(+1)のベクトルが原螺旋的に回転しているというのであるから、media pointにおいて、原螺旋、つまり、渦巻形状が存すると考えることができるだろう。それが、トーラス像における渦巻星雲を説明できると直観される。 結局、前提である超越平面、超越円を根源的に説明できるのかどうかが問題である。 言い換えると、始めから、超越軸z軸と虚軸y軸が存したのか、それとも、始めは超越軸だけであり、それから虚軸が派生したのか、ということである。 始めに、超越平面ないしは超越円ありきとすれば、問題はないのであるが。 現時点では、両者の可能性を残しておく。もっとも、前者の方に今は傾いているが。 追記:やはり、後者の可能性も有力である。ならば、どうやって、虚軸y軸が形成されたのかが一番の問題である。 先に、フレミング左手の法則や右手の法則から、作業仮説的に導き出したが、それでは、磁力と電気力の直交の説明が必要となり、複雑になってしまうのである。 今閃いたが、最初に超越軸ありき、としよう。そして、それが、原点(原始media point)を中心にして、実軸x軸とは垂直に回転、円運動すると仮定するのである。 当然、その時、虚軸y軸が発生するだろう。つまり、凸iと凹iの両極、双極、対極が発生するのである。 ならば、この回転、円運動の力学は何か、である。 これは謎である。もし、実軸x軸が回転していれば、超越軸の回転(超越円)は可能であるが、果たして、実軸x軸は回転しているのか。 やはり、超越平面、超越円を大前提とした方がいいのだろうか。そうならば、超越軸z軸は霊軸(霊界)であり、虚軸y軸は魂軸(意識軸)である。霊と魂は異なることになる。 しかし、陰魂凹iは、超越軸、霊界に通じていると直観されるのである。というか、media pointに通じていて、そこで、超越軸による差異共振による超光を直観するというような感じである。 コスモスは、⇒凸(+1)と思われる。また、マニ教の光の世界もそこだと思われるのである。 とまれ、霊z軸と魂y軸の直交による超越平面ないしは超越円、これは、霊魂平面ないしは霊魂円と呼んでもいいだろう。 プラトンのイデア界はそこに属すると考えられる。 また、カント哲学における純粋理性は、超越軸を想定できない状態にあると言えよう。そのために、批判限定されると考えられる。 フッサールの超越論的主観性であるが、それは、虚軸y軸における差異共振までには達したが、超越軸までには達していないように思えるのである。しかし、予感はあったであろう。 ![]() 内在平面と超越平面 テーマ:manichaeism: 哲学 ドゥルーズ(&ガタリ)が内在平面を説いたが、これは、物質と連続的な平面であり、超越平面とは当然異なるものである。 ドゥルーズ「哲学」の基本は、不連続的差異論の段階で説いたように、差異=微分であり、連続的差異を基礎とするものである。 この連続性の背景に内在平面をドゥルーズは考えたと言っていいだろう。 しかし、超越平面は、物質を超越した平面であり、純粋精神平面と言えるものである。 宇宙、自然、物質の根底に存するものであるが、現象界からは、演繹的には、証明できない世界である。 プラトンのイデア界と通ずると言っていいだろう。ただし、超越平面の「イデア」は動的なものである。 ところで、超越平面について後で、具体的に解明したい。 まだ、発想、着想段階に過ぎない。超越平面とは、想定では、z軸とy軸(虚軸)に作る平面である。それが、z軸の原回転によって形成されると直観したのであるが、果たして、それで合理的に説明できるのか。 作業仮説:超越軸z軸の原回転 テーマ:manichaeism: 哲学 なんとか、回転力学を見つけようとしたが、うまくいかない。 そこで発想・視点を変えて、超越軸z軸の根源的回転があると仮定すれば、円盤の回転、螺旋運動、渦巻の形成、言い換えると、トーラス・モデルの形成は論理的に説明できる。 また、それは先に触れた、超越的平面と現象的三次元(四次元)も説明できる。即ち、超越軸z軸と虚軸y軸の直交によって形成される平面が超越的平面(以 下、超越平面)であり、超越平面のmedia pointから発出する螺旋運動が現象的三次元(現象三次元)を形成すると考えられるからである。 ルドルフ・シュタイナーは、霊界は平面、二次元であると言っていたのを想起するのである。超越平面は霊的平面と言ってもいいだろう。 後で、さらに検討したい。 超越的平面における根源的回転:超越的平面と現象的空間(時空間) テーマ:manichaeism: 哲学 5次元ないしは6次元で考えたい。 最初に根源的超越的2次元を想定する。それが、現象3次元空間ないしは現象4次元時空間を形成すると仮定する。 根源的超越的2次元(簡略化して、超越的平面)において、根源的回転(円運動)が存するとする。 そして、それが、現象空間において、螺旋形状ないしはトーラス形状を形成すると想定する。 超越的平面の回転は、プラトンのイデア界の円に通じるだろう。そして、その現象的反映が螺旋運動、乃至は、トーラス形態とするのである。 今は発想だけである。その力学は後で検討したい。 追記:超越的平面の直交する二つの軸をα軸とβ軸ととりあえず呼んでおく。(α軸とω軸としてもいいだろうが。) そして、現象的3次元空間の軸をx軸、y軸、z軸とする。尚、時間については、保留しておく。
2012年05月13日(Sun)▲ページの先頭へ
原子とは何か:電子と光子と陽子(原子核)のトーラス体(仮説)
テーマ:science
これも思いつきであるが、簡単に記したい。 いちばん単純な水素原子を考えたい。電子は物質であるから、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の右辺である。そして、光子は太陽光と一致させて、凸iである。問題は陽子、原子核である。それは直観では、media pointである。そして、凹i(dark sun)、つまり、作業仮説では重力波ないしは重力子は、一般の量子論では、考慮されていないように思われる。 あるいは、凹iを陽子、原子核と仮定できるかもしれないが、今は、陽子、原子核をmedia pointと作業仮説して、考察する。 水素原子は、電子と陽子の間で光子を交換しているということであるが、先のトーラス・モデルで考えると、凹(−1)の電子は、超光エネルギーで外装的に螺旋形状となる。そして、コアとして、陽子、原子核があるが、それは、media pointである。そして、外装としての電子と中核としての陽子、原子核、media pointの間には、確かに、光子、凸iが、差異共振の一つの極として存しているのであり、外装(外皮、外殻)の電子と中核の陽子、原子核、media pointの中間に位置すると見ることができるのである。 しかし、光子、凸iが両者の間で交換されているという事象をPS理論はどう見るかである。(以上をA説とする。) ここで、発想を変えてみると、陽子、原子核をmedia pointではなくて、凸(+1)と見るのである。それならば、電子凹(−1)に対して、陽子、原子核は凸(+1)で、電荷的に釣り合うと言えよう。 この作業仮説でも、電子と陽子(原子核)の間に、光子を置くことは可能であるし、さらに、電子と陽子を繋ぐものとしての光子の位置が明快になると考えられる。というのは、電子凹(−1)の形成に光子凸iが積極的に作用し(光子の自乗としての電子?)、また、電子凹(−1)を牽引する陽子凸(+1)の力動に光子が差異共振において、作用しているからである。電子と陽子の形成の両面に光子は重要な作用をしているのである。(以上をB説とする。) 現時点では、B説を採用するが、PS理論的解明に拠るトーラス・モデル仮説(凸(+1)を転換点とする脱物質体化・差異共振純粋超光過程 (05/06) http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1819.html)から見ると、きわめて、不十分なことがわかる。何故なら、凹i(闇、dark sun、又は、作業仮説に拠る、重力波、重力子、あるいは、造語して、闇子[あんし])の存在がまったく看過されているからである。 つまり、量子論的原子論は、光子凸iの対極となる闇子凹iを欠いているので、まったく「片手落ち」なのである。 PS理論的トーラス・モデル仮説に拠れば、陽子、原子核を形成しているのは、光子と闇子の差異共振の超光エネルギーということになるのである。量子論において、重力の処理が問題になるのは、この闇子の存在が抜けているからではないのか。 また、先に述べたように、闇子(「重力波」、「重力子」)を仮定すれば、dark matter, dark energyの存在も解明できるのである。 そのように考えると、今日、考えられている量子論の正しさとは、近似値的正しさということになるだろう。重力を無視できるような、ミクロの世界では、量子論は正しいのであるが、宇宙大のマクロの世界では、重力の問題は重大になり、dark matter, dark energyという仮説が必要になり、量子論は限界に達しているのではないだろうか。 そう、古典力学を相対性理論や量子力学が超克したように、相対性理論や量子力学はPS理論的トーラス・モデル仮説で超克される可能性が考えられるのである。 今は作業仮説で留める。 追記:水素原子にはない中性子であるが、それは、思うに、media pointと関係していそうである。何故なら、media pointは陽子凸(プラス1)の正電荷と電子凹(−1)の負電荷の均衡点にあり、中性子の電荷ゼロに対応できるからである。 故に、作業仮説的に、media pointを中性子か、又は、その位置と考える。あるいは、トーラス・モデルの渦巻星雲に相当するのが、中性子かもしれないが。どうも、後者の方がいいような気がする。何故なら、media pointは粒子というよりは、差異共振の領域、力の衝突が起る領域だからである。その結果、中性子、陽子の核子が生成すると考えるのは、合理的である。 下のトーラス像から言うと、最下部が電子であり、渦巻星雲が中性子であり、最上部が陽子であり、中心がmedia pointである。そして、凸i(光子)と凹i(闇子)の同一性的物質を外装化する差異共振・超光エネルギーの螺旋形状は、電子が牽引された様態であると考えられる。 中性子 - Wikipedia 中性子(ちゅうせいし、neutron)は、バリオンの一種。原子核の構成要素の一つ。陽子1 個でできている水素の最も一般的な同位体1Hを唯一の例外として、すべての原子の 原子核は、陽子と中性子だけから構成されている。陽子と中性子を核子と呼ぶ。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%80%A7%E5%AD%90 ![]()
2012年05月06日(Sun)▲ページの先頭へ
凸(+1)を転換点とする脱物質体化・差異共振純粋超光過程
凸(+1)を転換点とする脱物質体化・差異共振純粋超光過程
テーマ:映画ThriveのトーラスとPS理論 映画THRIVEのトーラスとPS理論:その2:上部から下部への動き http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11242890795.html 以上において、次のように述べた。 「少なくとも、凸(+1)は転換点、折り返し点、回帰点と考えられる。 超光エネルギーは宇宙を形成し、凸(+1)に到達するのであるが、その後の問題である。 今、直観で言うと、凸(+1)までの動きは春から夏への成長の動きである、しかるに、凸(+1)から凹(−1)への外皮上の動きは秋から冬の動きである。言い換えると、生から死への動きである。つまり、成長から衰退への動きである。しかし、この衰退は内的成熟への動きである。そう、外的成長から内的成熟への動きである。 思うに、簡単に言えば、超光エネルギーの衰退があり、それが、外皮的動きとなっているのではないだろうか。物質体の衰退であるが、内的「精神」の成長である。」 映画Thriveのトーラスにおける、上部極から下部極へ移動し、言わば、外殻、外皮、外面形成する力動について、それは、超光エネルギーの衰退を意味すると述べたが、それはある意味では正しく、ある意味では間違いである。 というのは、螺旋的、乃至は、黄金比(白銀比もおそらく入れられよう)的物質体(身体)形成は確かに、そこ(凸[+1])からは衰退するから、それは、それまでの超光エネルギーから見ると、超光エネルギーの衰退を見ることは可能である。 しかしながら、視点を変えてみると、凸(+1)に到達した、超光エネルギー、乃至は、差異共振エネルギーは実は、螺旋的物質体(身体)形成過程(Aプロセス)から脱螺旋的物質体(身体)過程(Bプロセス)へと転換するのではないだろうか。 つまり、Aプロセスは同一性物質化を伴っていた、Bプロセスにおいては、同一性的物質化が消滅して、純粋な差異共振化、超光化が発生するのではないだろうか。これを聖霊プロセスと呼んでもいいだろう。 つまり、超光エネルギーは衰退するのではなく、ただ、変態したと考えられるのである。喩えれば、蛹から蝶へと変態するようなものである。そう、それをヒントにして言えば、プシュケー・プロセスとも言えよう。 思うに、それは、超越軸、超越界、神霊界、霊界における差異共振による超光形成と重なるように思えるのである。だから、聖霊プロセスなのでもあるが。 結局、Bプロセスは物質体・身体形成としては衰退過程であるが、精神形成としては成熟過程である。 さて、問題は、Bプロセスがどうして、凸(+1)からリンゴや梨のような外殻、外皮、外面である湾曲した球面を辿り、凹(−1)へと進行するのかである。その力学はどういうものか。 これは単純に、磁界を考えればいいのではないだろうか。即ち、凸(+1)をN極とし、凹(−1)をS極とするのである。磁力がN極からS極へと作用するのであり、それとほぼ同様なことが、Bプロセスに起きている考えればいいのではないだろうか。 つまり、下部極から上部極の螺旋的物質体化過程(Aプロセス)の方向、即ち、凹(−1)から凸(+1)への実軸x軸の左方から右方への方向を、純粋超光は取ることがもはやできないのであり、つまり、言わば、内的な方向を取ることはできないのであり、そのため、外的な方向を取ることになると考えられるのである。 しかしながら、内的方向とは実は、外的物質体化の過程であり、外的方向とは内的精神化の過程であるというパラドクシカルな意味合いをもっているのである。 しかし、外的方向=内的精神化の過程=Bプロセスは、凹(−1)という物質が終点であり、それは、死を意味すると言えよう。だから、その意味では、衰退消滅の過程なのである。純粋超光、純粋差異共振はそこで終了するのである。 とは言え、それは、新生の過程に入ることである。新たな螺旋的物質体(身体)の過程に入ることになるからである。輪廻転生である。即ち、 凹(−1)の物質において、純粋超光、純粋差異共振、純粋精神を宿していた物質体・身体は消滅すると考えられるが、そのとき、純粋超光、純粋差異共振、純粋精神は完全に脱物質化するのであり、それは、超越軸=超越界=神霊界=霊界に帰還すると考えられるのである。 そう、凸(+1)において、脱物質化すると言ったが、それは完全な脱物質化ではなく、脱物質化のプロセスの開始を意味するのであり、完全な脱物質化は、凹(−1)の物質において、為されると考えられるのである。説明すると、凹(−1)の物質とは無機的な物質、いわば、鉱物のようなものであり、生命的有機体はそこには存しないと考えられるのである。 今はここで留める。 ![]() (THRIVE Japanese) スライブ―いったい何が必要になるのか - YouTube ► 132:03► 132:03 www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI2012年4月5日 - 132分 - アップロード元: ThriveMovement http://www.thrivemovement.com/ 詳細は http://www.thrivemovement.com/ まで 『 力強い成長』のDVDご購入を http://www ... http://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI 物質的外装する超光エネルギー テーマ:manichaeism: 哲学 「凹i*凸iの差異共振によって、物質を巻き込んで、螺旋的な宇宙・自然世界、あるいは、トーラス的な宇宙・自然世界が形成されると言えよう。 ここで仮説であるが、差異共振によって物質を巻き込む超光(霊光)は螺旋的な力を発生させると考えるのである。そして、その螺旋力学を基体、下敷きとして、物質的螺旋が形成されると考えるのである。」 現象三次元化の力学へ向けて:超光(霊光)による螺旋的現象生成の力学についての思考実験 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11242135164.html 上記のように先に述べたが、「物質を巻き込む」という表現であるが、「物質を外装化する」内的超光エネルギーと表現する方がより適切であろう。言い換える と、精神が物質を螺旋的に、乃至は、黄金比的に外装化するのである。それは広義の生命体である。つまり、例えば、銀河系宇宙も一種の生命体と考えるのであ る。 映画THRIVEのトーラスとPS理論:その2:上部から下部への動き テーマ:映画ThriveのトーラスとPS理論 • Zero-point energy:ゼロ・ポイント・エネルギー(ゼロ点エネルギー) • 現象三次元化の力学へ向けて:超光(霊光)による螺旋的現象生成の力学についての思考実験 • 映画THRIVEのトーラスとPS理論 映画ThriveのトーラスとPS理論の比較論は以上において考察したが、まだ、トーラスのいわば外皮における動きについては述べていなかった。今は余裕がないので、簡単に予見を言うだけだが、少なくとも、凸(+1)は転換点、折り返し点、回帰点と考えられる。 超光エネルギーは宇宙を形成し、凸(+1)に到達するのであるが、その後の問題である。 今、直観で言うと、凸(+1)までの動きは春から夏への成長の動きである、しかるに、凸(+1)から凹(−1)への外皮上の動きは秋から冬の動きであ る。言い換えると、生から死への動きである。つまり、成長から衰退への動きである。しかし、この衰退は内的成熟への動きである。そう、外的成長から内的成 熟への動きである。 思うに、簡単に言えば、超光エネルギーの衰退があり、それが、外皮的動きとなっているのではないだろうか。物質体の衰退であるが、内的「精神」の成長である。 後で、精緻に検討したい。
2012年05月05日(Sat)▲ページの先頭へ
Zero-point energy:ゼロ・ポイント・エネルギー(ゼロ点エネルギー)
テーマ:energy
絶対零度において存するエネルギーのことであるが、これをPS理論から見るとどうなるだろうか。今は予見のみである。 PS理論(三次元化されたPS理論、正確には四次元ないし五次元化されたPS理論)に拠ると、超越軸・超越界凹j*凸jが根源に存するのである。それは完全に物質や物質現象(生命を含めて)を超越した世界である。そう、神霊界、霊界である。 凹j*凸j(母神*父神)はmedia pointを介して、宇宙・自然を創造するのである。この最初期のmedia pointは、物質のないゼロ点、ゼロ・ポイントと考えられるだろう。確かに、そこから宇宙創造が為されるのであるから、おそらく、無限の原エネルギー、超エネルギーが存すると考えられる。もっとも、最初は潜在的に存していたのであるから、ポテンシャル・原エネルギー(超エネルギー)である。 それが、同一性化(物質化)を牽引する差異共振化(超光・霊光化)を発動させることで、超光エネルギーが発生し、宇宙・自然創造が為されると考えられるのである。 そう、PS理論から言えば、premier media point energyがzero-point energyの正体となるだろう。 日本神話では、それは天之御中主神であろう。 ゼロ点エネルギー 零点エネルギー検証:プランク式と単振動式の比較 に移動: プランクはまた、定性的に零点エネルギーhν/2を導入した。これは以下に示す単振動のエネルギーの式のn=0の場合に相当するエネルギーである。 1. En =(n+―――)hν0 2 プランクが ... http://www.h5.dion.ne.jp/~antibody/zero%20point.htm ゼロ・ポイント・フィールド - Skeptic's Wiki ゼロ点エネルギー(ZPE). 「零点エネルギー」という言葉はごく普通に量子力学の教科書に登場する。電子などの素粒子の位置は不確定であり、「波動関数」を用いて確率論的にしか表せない。このことを古典論的に解釈すると、素粒子は静止することはなく、 ... http://skepticswiki-jp.org/wiki.cgi?page=%A5%BC%A5%ED%A1%A6%A5%DD%A5%A4%A5%F3%A5%C8%A1%A6%A5%D5%A5%A3%A1%BC%A5%EB%A5%C9 真空からエネルギーを取り出せ | 日経サイエンス 正確にどれほどの量の零点エネルギー(ゼロ点エネルギー)が真空に存在しているかは不明だ。宇宙論研究者の中には,宇宙の始まりの時点では,どこもかしこもブラックホールの内部のようなありさまで,真空エネルギーが高く,それがビッグバンを誘発したと ... www.nikkei-science.com/page/magazine/9803/zero.html 零点振動 零点振動 ・・・ 調和振動子モデルによる 1. 1次元調和 ... この第2項の係数が q → ±∞ で発散するから q = ±∞ がこの微分方程式の特異点である。 ... これを、零点振動(れいてんしんどう、Zero-point motion)といい、そのエネルギー を零点エネルギーという。 www.k2.dion.ne.jp/~yohane/000000utyuusouzou103.htm 声明:大衆レベルからフリー・エネルギー革命を開始しよう - nifty この「フリー・エネルギーと代替エネルギー特集:パート?」は、私たち自身および私たちの愛しい惑星の存続にとって、私たちがこれまで .... しかし、零点エネルギーは、エネルギーが真空―――すなわちゼロ・ポイント―――内に含まれているという科学的理論に ... http://homepage2.nifty.com/silverring/maatdrunvalofeb2editor.htm Zero-point energy - Wikipedia, the free encyclopedia Zero-point energy is the lowest possible energy that a quantum mechanical physical system may have; it is the energy of its ground state. All quantum mechanical systems undergo fluctuations even in their ground state and have an associated ... http://en.wikipedia.org/wiki/Zero-point_energy Zero Point Energy Zero point energy (ZPE), some times described as:"Zero Point Vacuum Fluctuation" or the "quantum vacuum" is understood by researchers to be a permanent, inexhaustible energetic medium pervading through space time. The energy density ... http://www.panacea-bocaf.org/zeropointenergy.htm Zero-Point Energy 5 Feb 2009 – Quantum theory predicts, and experiments verify, that so-called empty space (the vacuum) contains an enormous residual background energy known as zero-point energy or ZPE. This energy derives its name from the fact that ... www.halexandria.org/dward154.htm Tesla The Race to Zero Point Free Energy - YouTube ► 109:39 From Google Videos. Lightworks Video&Audio Hosted by Bill Jenkins, formerly of ABC Radio, this ... http://www.youtube.com/watch?v=aKWPht3fU-o Free Energy - Zero-Point Energy Extraction from the Quantum Vacuum ► 70:32 This is Tom Valone's amazing video lecture Zero-Point Energy Extraction from the Quantum Vacuum (2004 ... http://video.google.com/videoplay?docid=-5738531568036565057 現象三次元化の力学へ向けて:超光(霊光)による螺旋的現象生成の力学についての思考実験
映画THRIVEのトーラスとPS理論
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11241248426.html A案:以下の渦巻星雲の画像において、垂直軸は、PS理論ではx軸(実軸、現象軸)である。そして、下部の極が凹(−1)であり、上部の極が凸(+1)である。 ここまでは一致する。しかし、問題は、上部の垂直軸に絡まる螺旋と実際の渦巻星雲をどう捉えるかである。 上部の垂直軸に絡まる螺旋は超光による螺旋であり、渦巻星雲は、その光/物質的螺旋形態と言えるのではないだろうか。 つまり、超光(霊光)による螺旋の光・物質的現象体が渦巻星雲と考えるのである。 **************************** 先に上記のように、A案が理論的にはいいと述べたが、この点についてさらに考察してみよう。 問題は超光(霊光)のベクトルによって、物質的宇宙・自然世界、つまり、現象界が形成されると考えるが、その力学はいかなるものなのかということである。 凸iを現象太陽、凹iをdark sunとしたが、それを形成する力学が問題である。だから、超越軸(超越界)、凸j*凹jから始めないといけないことになる。 凹j*凸j⇒凹i+凸(+1) ・・・・・ A A式が超光創造根源式と作業仮設する。 凹jはいわば太母・母神であり、凸jは太父・父神である。 とまれ、media pointにおいて、超光(霊光)凸(+1)が発出される。 そう、これは、dark sunである凹iが創る超光である。ここでは、まだ、物質宇宙、現象宇宙は存在していないことになる。 物質宇宙・現象宇宙が生まれるには、 凸j*凹j⇒凸i+凹(−1) ・・・・・ B B式が必要である。現象光の凸iが生まれ、また、物質凹(−1)が発生している。しかし、B式だけでは、光と物質だけであり、まだ、生命や螺旋形態はない。 AとBが連携して、宇宙・自然世界が創造されると言えよう。即ち、凹iに凸iが共振し、また、凸と凹が牽引するのではないだろうか。 凹i*凸iの差異共振によって、物質を巻き込んで、螺旋的な宇宙・自然世界、あるいは、トーラス的な宇宙・自然世界が形成されると言えよう。 (ここに映画Thriveのトーラス像が入る。以下参照。) http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1817.html ここで仮説であるが、差異共振によって物質を巻き込む超光(霊光)は螺旋的な力を発生させると考えるのである。そして、その螺旋力学を基体、下敷きとして、物質的螺旋が形成されると考えるのである。 この螺旋原理であるが、これも仮説となるが、凸i*凹iは回転、円運動すると考えるのである。それも、ガウス平面とは垂直方向に回転すると仮定するのである。 分かりやすくするために、半径iの円盤を垂直にして、ガウス平面の虚軸y軸に置くのである。その回転する円盤の円弧に凸i*凹iは位置することになる。 そして、超光(霊光)による直進(ベクトル)は、時間を伴うので(凹iを時間とも考えている)、円弧の運動は螺旋を描くことになるのである。 これで、螺旋的物質体(宇宙・自然現象)の形成原理の説明がなんらかできた。 また、螺旋形態的物質現象の中でも、黄金比をもつものが大半ということになるのだろう。だから、差異共振の比率(ratio)として、黄金比Φが代表的になるだろう。 ところで、映画Thriveの渦巻星雲のトーラスであるが、中心を貫く下から上への流れにおいて、中間部の平面に、渦巻星雲が形成されているのである。 これをどう説明するのかである。超光(霊光)のよる螺旋は説明できたが、渦巻については説明していないのである。 上記の説明からでは、この渦巻、ないしは、渦巻星雲は、虚軸の円盤に相当するものである。 これを原螺旋円盤と名づけたい。超光(霊光)による螺旋的物質化様式において、変数があると考えられる。ある数値においては、このように原螺旋円盤を形成し、あるときは、朝顔のように螺旋形態を展開すると仮説したい。 以上で、本件の思考実験的考察を終える。 追記:現象三次元化と言ったが、時間も含まれるので、現象時空四次元化というのが正確ではある。 追記2:上のトーラス像の下方からも螺旋が生まれているようである。これをまだ説明していない。問題は物質形成において、⇒凹(−1)になり、ベクトルは左向きになるのであり、トーラス像にあてはめれば、中心から下方に向うのであり、下方から上方へではないのである。 これは大きな齟齬である。今、作業仮説的に言うと、物質形成同一性力学よりも、超光形成差異共振力学の方が、はるかに強いということがあるのではないだろうか。これは、現代宇宙科学において、物質や光のエネルギーよりもダーク・マターやダーク・エネルギーがはるかに多い(両者併せて、宇宙全体の物質エネルギーの96%を占める)と考えられていることで裏付けられるのではないだろうか。 つまり、差異共振の超光ベクトル⇒凸は物質ベクトル⇒凹よりも強力であるので、後者を前者の方向に牽引してしまうということではないだろうか。 今はここで留める。 参考: 対数螺旋 - Wikipedia 一般公開で +1 しました 取り消す 対数螺旋(たいすうらせん、logarithmic spiral)とは、自然界によく見られる螺旋の一種である。等角螺旋(とうかくらせん、equiangular spiral)、ベルヌーイの螺旋ともいい、「螺旋」の部分は螺線、渦巻線(うずまきせん)、匝線(そうせん)などとも書く。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E6%95%B0%E8%9E%BA%E6%97%8B 映画Thrive(日本語版) http://www.youtube.com/watch?v=yp0ZhgEYoBI&feature=player_embedded 映画THRIVEのトーラスとPS理論
画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11241248426.html 森羅万象、トーラスの形態(とベクトル平衡体:追記)が原形であると映画thriveでは主張されている。トーラスの問題点をPS理論から言うと、認識性がそこには反映されていないことだと思う。つまり、人間の自己認識性が見られないことである。 とまれ、実に興味深いので、PS理論と結びつけてみたい。 A案:以下の渦巻星雲の画像において、垂直軸は、PS理論ではx軸(実軸、現象軸)である。そして、下部の極が凹(−1)であり、上部の極が凸(+1)である。 ここまでは一致する。しかし、問題は、上部の垂直軸に絡まる螺旋と実際の渦巻星雲をどう捉えるかである。 上部の垂直軸に絡まる螺旋は超光による螺旋であり、渦巻星雲は、その光/物質的螺旋形態と言えるのではないだろうか。 つまり、超光(霊光)による螺旋の光・物質的現象体が渦巻星雲と考えるのである。 B案:以上の視点とは異なり、次のように考えるのも、可能性があるだろう。即ち、トーラスの垂直軸をガウス平面に直交する超越軸z軸を仮定する。だから、トーラスの下部極は、凹jであり、上部極は凸jとなる。そして、それが、ガウス平面上に渦巻星雲をもたらすと考えるのである。 C案:また、他の可能性としては、この二つの可能性を合わせたものもありえよう。 D案:四つ目の可能性としては、トーラスの垂直軸を虚軸y軸と見るものである。上部極が凸iであり、下部極が凹iである。そして、下部極から上部極への「流動」はベクトルである。そして、media pointで、実軸x軸へと展開するが、それは回転して、渦巻、螺旋を形成するのではないのか。 以上、思いつきであるが少なくとも四つの可能性を想定したが、現段階では、A案かD案がより可能性がありそうである。しかし、理論的にはA案がいいが、直観では、D案がいいのである。肚凹iから頭凸iへと氣が流れ上がるが、上がった「氣」を呼吸を介して、下部へ下降させることを私はしているのであるからである。下部⇒上部⇒下部である。 Film review: Why 'Thrive' is best avoided » Transition Culture resurrectionのブログ http://transitionculture.org/2012/01/09/film-review-why-thrive-is-best-avoided/ Thriveを観る、トーラス、フリーエネルギー、舞踊による一体感|卵の中の ... haitaka.blog19.fc2.com/blog-entry-1235.html - キャッシュ Thriveを観る、トーラス、フリーエネルギー、舞踊による一体感. 2012-02-21. 話題になっている『THRIVE』の日本語版をyoutubeで見た。 最初にトーラスが出てきたので、これは最後まで見ねば・・・と思った。 トーラスとは、↓こういう形の内側と外側がつながった ...
2012年05月04日(Fri)▲ページの先頭へ
PS理論とシュタイナー精神学:自我とアストラル体とエーテル体と物質:超越軸と虚軸と実軸の3D世界
以前、本件について比較論を行なったが、PS理論からシュタイナー精神学を言わば、取り込みたい。
今は直観で述べると、 自我=凸i ・・・・・ 純粋悟性、外的感覚、空間、電磁波 アストラル体=凹i ・・・・・ 感情、欲望、内的感覚、時間、(重力波) エーテル体=凸(+1) ・・・・・ 生命、氣、超光、自然、宇宙 物質=凹(−1) 以上のようになるが、それらはガウス平面に位置付けられている。 問題は、超越軸z軸の意義である。それらは、いわば、神霊の領域であり、感覚的には、基本的には感知できない領域である。 思うに、カント哲学の純粋理性の領域に近いが、端的にはそれを超えている。何故なら、純粋理性とは、純粋悟性と超越性との境界に存すると考えられるからである。超越軸と虚軸の交差するmedia pointに存すると考えられる。 しかしながら、純粋理性は、その力学を単にパラドックスであるアンチノミーに限定していると考えられるのである。もっとも、この点は先になるが、厳密に検討したいと考えている。 とまれ、超越軸z軸は神霊領域であり、所謂、霊界というものは、ここに存することになる。他界、異界、あの世、彼岸、天国・地獄、等はそこに存すると言えよう。 そのように見ると、人間の魂、霊魂soul-spiritであるが、それは、自我である凸iとアストラル体の凹iの共存に基本的には存するだろうが、所謂、生きている間は、実軸x軸(現象界)に存しているが、死んだとき、あるいは、生まれる以前(前世)は、そこから脱して、純粋に虚軸y軸に回帰し、また、さらに、media point化して、超越軸z軸(霊界)に帰還するのではないだろうか。 虚軸y軸はmedia pointを介して、永劫の情報を保持しているのではないだろうか。個的霊魂の情報のアーカイブのようなものではないだろうか。すると、それは、オカルティストの説くアカシャ年代記akashic records(アカシックレコード - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%89 )に相当するだろう。 そして、死後の浄化が超越軸z軸と虚軸y軸とのmedia pointで為されて、霊界への復帰するのではないだろうか。 以上、思考実験、作業仮説である。
2012年05月03日(Thu)▲ページの先頭へ
差異共振の比率が黄金比ではないのか:精神の物質に対する比:原形としてのペンタクル
「闇」が「光」と共振するとき、「光」による物質を巻き込むが、その物質形態の比率が黄金比になるのではないだろうか。
言い換えると、超光(霊光)が「光」の物質体を組織・秩序(コスモス)化するとき、発生するのが黄金比ではないのか。簡単に言えば、精神の物質に対する比率が黄金比ではないのか。そして、ピュタゴラス派がペンタクル(五芒星形)を最重要視したのは、黄金比を形成する象徴的な、典型的な図形だからと考えられる。 そう、ペンタクルは、形態的には、精神の物質に対する、言うならば、プロト・パターン、原形、そう、根源的フラクタルと考えられるだろう。 後で更に検討したい。 黄金比 http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/museum/golden/page62.html 縦と横の比率が最も均斉のとれた長方形を想像してみて下さい。それは人によって様々かもしれませんが,黄金比と呼ばれる比が最も美しいと言われています。ところで,どうしてその比率がバランスよく見えるのでしょうか。もしかしたら,その中に何か神秘的な ... 現象太陽とdark sunの交差するmedia point:超越軸と虚軸と実軸の交差するMP
先に、凸iを現象太陽、凹iをdark sunとし、両者の共振から超光(霊光)が生まれると作業仮説した。
そうすると、現象太陽とdark sunの発生が問題となる。しかしながら、既に、超越軸(ガウス平面に直交する軸)を想定している。それが、凸iと凹iを発生させると作業仮説したのである。 (思考実験:光の問題:光と物質:視覚とは何か:視覚としてのmedia point (04/18) http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1810.html) 即ち、超越軸に凸jと凹jを置き、 凸j*凹j⇒凹i+凸(+1) ・・・・・T 凸j*凹凹j⇒凸i+凹(−1) ・・・・・U という方程式を作業仮説したのである。 だから、現象太陽凸iはU式から、生まれるのであり、dark sunは、T式から生まれるのである。即ち、超越的極性において、同一性力学から現象太陽凸iが、差異共振力学からdark sun凹iが誕生すると考えられるのである。 以上のように仮説すると、media pointは超越軸とy軸(虚軸)とx軸(実軸)との三者交差が重要になる。 とまれ、現象太陽とdark sunの交差におけるmedia pointを考えると、やはり、当然、同一性力学と差異共振力学があり、いわば、現象太陽とdark sunが「渦巻いている」と思われる。これは、比喩である。 具体的に考えると、例えば、渦巻き星雲であるが、それは、dark sun主導の差異共振力学の螺旋的運動によって、現象太陽が巻き込まれて取る形態・形象ではないのか。(複数の現象太陽、複数のdark sunを一応想定する。しかし、dark sunは一つかもしれないが。) そう、それは、弦巻植物の螺旋とフラクタルな関係が考えられる。 差異共振力学とはdark energyに拠ると考えられるので、渦巻き星雲は超越的にdark energyを内在していると考えられる。 これは、直観では、Vector Modeに関係すると思われるのである。 つまり、物質的平面に現象太陽の渦巻き(渦巻星雲)を現象化させるのであるが、精神的超越的内面において、dark sun主導の差異共振のdark energyが(直線的に)力動していると考えられるのである。つまり、現象太陽凸iとdark sun凹iの差異共振によるdark energyが超光を形成しているのである。そう、超光はdark lightと言ってもいいだろう。 とまれ、現代物質宇宙科学は、dark sunを導入することで、進化するだろう。現象光だけでなく、不可視の闇の存在を肯定することで、進化するのである。そう、唯物論的科学は、精神的物質科学となるだろう。 追記:先にdark matterは存しないのではないのかと述べたが、dark sunを考えると存するのではないのか。つまり、現象太陽凸iは物質体をもっているのであるから、dark sunもそれに応ずる「体」をもっていると思われる。それが、dark matterではないのか。 それとも、凸(+1)の超光をdark matterと見るのか。後で更に検討したい。 追記2:現象太陽凸iが電磁波ならば、dark sun凹iは対応するに何であろうか。重力波であろうか。もしそう仮説するならば、ブラック・ホールは、ここに位置するのかもしれない。とまれ、思考実験である。 参照: ■ フリーエネルギーに挑戦する現代の平賀源内たち:エマモーターの衝撃 ( 2012-05-02 15:20:18 ) http://quasimoto.exblog.jp/17902189/ Kazumoto Iguchi's blog
2012年05月02日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:電磁波と物質:現象光と超光:二つの太陽:現象太陽とdark sun
テーマ:manichaeism: 哲学
これまでの考えによれば、電磁波は物質形成力学と関係する。 つまり、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の物質方程式と関係する。 私の考える光は実際のところ、超光であり、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺である。これは精神的光である。 それに対して、物質的光、現象的光(電磁波)があり、それが、物質方程式と関係するということである。 そう、先にmedia pointが視覚であると述べたことをここで取り上げたい。 つまり、media pointにおいて、同一性の光(現象光)と差異の光(超光)が併存しているのであるが、物質感覚は同一性の光を基礎としているのであり、差異の光を感知、認知しないのである。 また、現象光凸iが自乗して、⇒凹(−1)の物質になると思われる。 E=mc^2は、このことと関係するように思われる。もっとも、cは現象光である。そして、Eは物質エネルギーである。 それに対して、凸i*凹i⇒凸(+1)の超光は、dark energyをもつように思われるのである。 思うに、現象光凸iが現象太陽であり、凹iがdark sun、霊的太陽に相当する。そして、超光は現象太陽と霊的太陽の差異共振によって発生するということになる。「光」と「闇」、陽と陰との差異共振によって、超光(超越光)が誕生するのである。 追記:以下の現代物質科学による宇宙の解明であるが、やはり、唯物論ではその謎は解けないだろう。根源は精神である。「光」と「闇」であり、それが、差異共振して、超光を創り出す。そして、「光」の自乗で物質、物質エネルギーを産み出すのである。 「光」は実に二面的なのである。一方では、超光、霊光を創出するが、他方、自乗して物質形成をするのである。その点で、「光」は善であり、悪である。 参考: * 宇宙を解き明かす 神の素粒子 http://nationalgeographic.jp/nng/magazine/0803/feature04/
2012年04月29日(Sun)▲ページの先頭へ
同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会
視覚と感覚物質同一性世界
テーマ:manichaeism: 哲学 以前、視覚や視覚的美はどうして、自我(同一性自己)と結びつくのか、疑問を呈した。 視覚的美については後で述べるが、私の疑問は一種愚問であった。何故なら、視覚と感覚物質同一性世界が密接に結びついているからである。視覚は物質世界と同一性の点で親和的なのである。 では、視覚的美との結びつきはどう説明できるのか。 やはり、これも、感覚物質同一性世界との結びつきでほぼ説明できよう。ただし、美的感覚は、media pointと結びついているのである。media pointは単に感覚だけではなく、感情と深く結びついている。つまり、凹iの側面である。 しかしながら、凸iの同一性的側面が強いので、視覚的美も自我と結びつきやすいと考えられる。 同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会 テーマ:manichaeism: 哲学 リマスターされ、ブルーレイになった映画の古典『太陽がいっぱい』を見た。 これは実に理論的な作品である。自分のライバルを模倣し、且つ、ライバルを否定する(殺す)ストーリーである。 ルネ・ジラールの模倣欲望という理論に適合する作品である。 これをPS理論から解明したい。 同一性主義は他者を否定するということで、わかりやすいが、この場合の他者模倣と他者否定をどう説明するのかである。 PS理論から丁寧に見てみよう。凸i(同一性、自我)は、凹i(他者m差異)を知覚する。しかし、同一性・自我は他者・差異を自己自身に取込むことがで きない。そこで、前者の後者への対応の主要な一つは、後者を同一性化することである。つまり、後者を同一性的に否定することである。他者・差異の否定であ る。これは極端に言えば、破壊である。とまれ、これで、他者否定は説明できた。 次に、他者模倣についてである。 これは、劣等感コンプレックスと関係するだろう。つまり、同一性・自我Aより、他者Bがなんらかの点で強者、優れている者である場合を考えよう。 このとき、AはBに対して、嫉妬を感じる。そして、悪化すれば、敵意、さらに殺意を感じる。また、逆に、Bに対する支配欲も生じよう。 とまれ、もう少し条件が必要である。AとBはライバル的な横並びの関係がなくてはならないだろう。最初から、上下、高低の隔たりがある場合は、否定的になることは少ないだろう。言い換えると、AとBとの存在としての同一性が存することが必要である。 結局、同一性同士の関係の中に、他者・差異が現われるときに、ライバルへの嫉妬等の否定的感情・欲望・意志が生まれてくると考えられる。(『太陽がいっ ぱい』で言えば、当然、トムとフィリップの関係であり、フィリップの強者性(他者・差異性)はマルジュという恋人やボート等を持っている点である。) ここで他者模倣であるが、出発点において、AとBとの同一性があるので、AとBは自分を相互に重ねると言えよう。つまり、A=Bである。 しかしながら、Bには、Aにはない有利さがあるのである。それ故に、AはBを否定しようとするのである。つまり、ここで、同一性模倣(他者模倣)と他者・差異否定が同時生起するのである。 つまり、ライバルを否定して、ライバルの他者・差異性を模倣する(横取る)という事態が生じるのである。 これで解明できた。結局、同一性否定にしろ、他者模倣にしろ、根本は同一性力学、同一性暴力力学のしからしめる事態である。これは父権的暴力と言い換えることもできる。 政治・経済的に言えば、民主主義化された資本主義社会は、この同一性暴力力学・父権的暴力が支配的に発現する場であると考えられる。 追記:A=Bについてもう少し説明が必要である。同一性の一致とは、他者凹iの位置に凸iが来ることを意味する。 この他者凹iの位置がポイントである。A=Bにおいて、BはAにおける他者凹iの位置を占めているのである。そうでないならば、同一性暴力力学は作動しない。 では、凹iの位置にA=Bを置く同一性力学とは何かを考える必要がある。 本来、他者・差異であるBを同一性化(同一化)する力学とは何か。それは端的に、Aのもつ同一性力学であろう。他者・差異凹iを否定して、他者・差異凹iを同一性化しているのである。 つまり、他者・差異であるBをそもそも同一性化している暴力力学がそこにはあるのである。父権的同一性暴力力学と呼ぶことができよう。カント哲学的に言えば、悟性暴力である。 結局、模倣欲望とは、端的に、同一性暴力力学が原理であると言えよう。他者・差異の否定とは、他者・差異の模倣なのである。 簡潔に言えば、否定とは模倣であるということになる。これは、偉大な法則ではないだろうか。 参考: 太陽がいっぱい (映画) - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/太陽がいっぱい_(映画) - キャッシュ 類似ページ 太陽がいっぱい』(たいようがいっぱい、仏:Plein soleil)は、1960年のフランスとイタリアの合作映画。主演:アラン・ドロン、監督:ルネ・クレマン。 パトリシア・ハイスミスの小説「才人リプレイ君」(原題。邦訳本の題名は『太陽がいっぱい』、『リプリー』)を原作と ... ルネ・ジラール - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ルネ・ジラール - キャッシュ 類似ページ ルネ・ジラール(René Girard、1923年12月25日 - )はフランス出身の文芸批評家。アメリカ合衆国のスタンフォード大学やデューク大学で比較文学の教授を務めた。いわゆるミメーシス(模倣=擬態)の理論を考案し、欲望のミメーシスな性格の発見によって ... PS理論の生命への応用へ向けて テーマ:biology 今は余裕がないので、詳述できない。 結局、生命とは何かを、PS理論的に明快にしたい。簡単に予備考察をすれば、凸i*凹iが生命魂である。これで、植物、動物、人間の生命を説明できよう。 問題は物質的生命体の形成や意義である。 物質は凹(−1)で説明できる。では物質的生命体ないしは生命有機体はどう説明できるのか。 ここで作業仮説であるが、凸i*凹凹i⇒凹(−1)という物質方程式であるが、凸iによる凹iの否定が凹凹iであるが、この否定に対して、凹iからの反発があるはずである。それは端的に、差異共振志向、光形成志向である。 この志向が物質を巻き込んで物質生命体、生命有機体を形成するのではないのか。 その巻き込み力学は、media pointに存するのではないだろうか。そう、凸iと凹iが共振するとき、渦巻きや螺旋が形成されると推測できる。このmedia pointでの渦動、螺旋的力学が、物質凹(−1)を巻き込んで、螺旋形態の物質的生命体、生命有機体を形成するのではないだろうか。 そうならば、生命本体の核とは差異共振性である。そして、それが物質的形態を持っているのであり、その物質的形態を維持するために、食、その他の生命体の活動があると思われる。 結局、生命も光を志向しているのである。 今は以上で留める。
2012年04月18日(Wed)▲ページの先頭へ
思考実験:光の問題:光と物質:視覚とは何か:視覚としてのmedia point
(画像付きは以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11226208712.html ) 凸i*凹i⇒凸(+1) ・・・・・ A において、右辺が光である。つまり、光とは同一性(「物質」)と差異(「精神」)によって形成されているのである。 しかし、自我(凸i)は、光を物質(光子)としてのみ捉えるのである。 凸i*凹凹i⇒凹(−1) ・・・・・ B の自我方程式(と呼ぶことにする)において、右辺は物質主義、利己主義、合理主義、自我主義等を意味すると考えられる。近代・現代人はこれに陥っているのである。 問題は物質である。物質はどう記述されるのか。 同一性凸iを「物質」と上記している。問題は、同一性凸i=物質としていいかどうかである。先にはそう考えたのであるが。 直観で考えると、同一性凸iが内的他者凹iに否定的に接するときに、物質化が為されるのである。 つまり、凸i*凹凹i⇒凹(−1)である。だから、物質は右辺の凹(−1)であると思われる。 そうすると、自然は単に差異共振しているだけではなく、同一性主導があることになる。ここが極めて重要なポイントとなる。 もし、自然が差異共振事象だけならば、すべては光となり、物質は形成されないだろう。 だから、これまで、自然は差異共振現象であるとした私の考えを訂正しないといけない。 結局、自然現象とは、差異共振現象=光と同一性現象=物質の両面をもっていることになる。簡単に言えば、自然現象とは光と物質の複合体である。 ところで、このように考えると、z軸は不要になり、再び、ガウス平面だけで説明できるようになる。 では、自我凸iはどのようにして、光を認識するのか。media pointが原点であり、そこが差異共振事象の起点である。同時に、当然、同一性事象(物質事象)の起点でもある。 問題は視覚とは何かである。 ゲーテが光が視覚の原因であると述べていたと思う。そうならば、視覚は、差異共振事象が形成したものである。 直観では、視覚とは差異凹iの、同一性凸iにおけるいわば飛び地である。つまり、凸iと凹iのなんらかの連結において視覚が形成されると考えられる。 同一性凸i主導だけでは、視覚は形成されないし、差異凹i主導だけでも、視覚は形成されない。両者のなんらかの結合が視覚形成のために必要である。 この結合力学はいかなるものか。 というか、端的に、media pointが視覚ではないのか。結合力学は必要ないのである。 media pointは同一性凸iの極と差異凹iの極、両極、双極、対極をもっているのであるから、これを視覚として捉えるのは的確であると考えられるのである。端的に、視覚は正に特異点である。聴覚はそれに対して、より差異に傾斜しているだろう。いわば、視覚の裏側である。(ついでながら、古代ギリシアのアポロとは正に、media pointの表現であろう。ディオニュソスとは、同一性にとらわれない、正に、差異共振現象を指しているだろう。つまり、アポロから同一性側面を取ったものであろう。ニーチェの混乱は両者の二元論化にあるだろう。D. H. ロレンスのdark sunとは正に、差異共振事象としての光である。そう、視覚であるが、media pointの同一性側面としての視覚は、光を差異共振事象としてではなく、同一性のフィルター[精神的フィルター]を通して見ていると言えよう。思えば、以前、超越光と私がしきりに述べたが、それは、media pointの差異側面から見た差異共振事象=光[dark sun]のことであると言えよう[dark Godは凹iであろう]。光はルドルフ・シュタイナーから言えば、アフラ・マズダ=キリストである。) とまれ、以上から、自我凸iがどのように光を知覚するのか解明できた。つまり、自我は視覚であるmedia pointを介して、光を主に同一性的に、従的には差異的に、知覚するのである。 ここで、プラトンの有名な洞窟の比喩に言及すると、洞窟とは正に、同一性であり、その壁の影像とは、正に、凹(−1)である。そして、洞窟外の太陽(善のイデア)とは、正に、凸(+1)である。そして、洞窟の穴がmedia pointである。 最後に光と宗教の関係に簡単に触れよう。 いったい、差異共振事象の起因である凸i*凹i(的確には、凹i*凸i)の「存在」はどういうものなのか。始めから存するのか、それとも形成されたものなのか。 ここで、凹(−1)の問題が出てくる。凹(−1)の平方根が凸iと凹iである。そうすると、物質である凹(−1)が差異共振事象の起源であることになるだろう。 これはどういうことなのだろうか。いわば、摩訶不思議である。もし、そうならば、唯物論である。光も宗教も物質が根源になるのである。 しかし、そうではないだろう。 凸i*凹iを産出するのは、なんらかの超越性であろう。ここで、ガウス平面に直交する軸が必要になるのかもしれない。Kaisetsu氏の言う超越軸である。 先にフレミング右手の法則の視点を提起したが、ここではフレミング左手の法則を上記の視点から適用すべきだろう。 即ち、磁界の方向をz軸、導体にかかる力をx軸の凹(−1)、そして、電流の流れる方向をy軸の凹iに見るのである。 導体にかかる力を物質の力(重力)とすれば、光はその正反対の方向に位置する。(これで、重力が光を曲げることが説明できよう。そう、導体にかかる力の方向はブラックホールの方向であろう。そして、おそらく、dark matterは存在しないかもしれない。それに対して、dark energyは明らかに存するだろう。それは正に、差異共振事象としての光を意味しよう。つまり、今日の科学は、光の同一性的側面、物質的側面しか見ていないので、光の差異共振本体を捉えていないということになるのである。) ということで、超越軸を仮説してそこが凸i*凹iの起源であると考えたい。超越軸の差異共振方程式(と呼びたい)は、 凸j*凹j⇒凹i+凸(+1) ・・・・・ C である。これこそ、宗教的な光方程式(と呼びたい)と言えよう。 では、凸jと凹jとは何か。あるいはどういう神霊なのか。先に述べたように、凸jは「父神」で凹jは「母神」と考えられよう。しかしながら、差異共振は、主導的根源は凹j、「母神」に存すると考えられるのである。 そう、それが母権的文化、母権的世界である。本来のアジア、東洋の文化世界である。 それに対して、一神教は「父神」の凸jが主導的になって形成されたものである。即ち、 凸j*凹凹j⇒凸i+凹(−1) ・・・・・ D ではないだろうか。(因み、創世記におけるヤハウェは凸jであり、エローヒーム[神の複数]は凹jと考えられる。) そして、この場合はフレミング右手の法則を手がかりすることができると思う。即ち、電流の流れる方向が凸iとなるのである。(ひょっとして、陽電子の流れと言えるのかもしれない。) だから、D式は父権的一神教方程式と呼べよう。そして、C式は母権的多神教方程式とも呼べよう。 ということで、これまでの諸論考をだいぶ整理できたと考えられる。結局のところ、人間認識図は基本的には左右逆転にすればいいことになる(人間認識図の構成は左右逆転すれば、ほぼそのまま使用できよう)。また、ガウス平面に直交する超越軸z軸をつければ、ほぼ十全な認識図になると考えられる。それは、宗教的認識図と呼べよう。それは、超越論的ではなく、超越的認識図とも言えよう。 参照: resurrectionのブログ フレミングの左手の法則 - Wikipedia resurrectionのブログ フレミングの右手の法則 - Wikipedia resurrectionのブログ 《ガウス平面で表した人間認識の図》
2012年04月14日(Sat)▲ページの先頭へ
四次元モデル:x軸、y軸、z軸、α軸:下降次元変換:凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹z、凹y
テーマ:Neo-PS理論
α軸:凸α*凹α⇒凸(+1)を凸k*凹k⇒凸(+1)とする。 z軸:凸z*凹z⇒凸(+1)を凸j*凹j⇒凸(+1)とする。ただし、これは自己差異共振という理想態である。自我主導が普通なので、凸j*凹凹j⇒凹(−1)が通常態である。 y軸:凸i*凹i⇒凸(+1)はこのままであり、陰陽の氣の方程式である。 x軸:これは、ただ、凸(+1)と凹(−1)の並立する実軸である。 そして、四元数からi 2 = j 2 = k2 = ijk = −1ということになる。 問題は、四つの軸の関係である。media pointでは、交差するだろうが、そのとき、どういう力学が作用するのか。というか、もともと四つの軸が存するのか。それとも、根本のα軸のみが最初に存して、その後、残りの三つの軸が形成されたのか。 凹(−1)が自我で、凸(+1)が自然自体(物質と精神の共振体)ならば、それは、当然、他の軸、超越論的な軸から形成されたものである。だから、派生態である。 残りのy軸(氣軸:エーテル体軸)とz軸(自己軸)はどうなのだろうか。 直観では、原初はα軸しかなかったように思える。そこから、z軸やy軸が派生したように思う。 ならば、その力学はどうなるのだろうか。 先に指摘したが、 凸α*凹α⇒凸z*凹z と 凸α*凹α⇒凸y*凹y のようなものが成立すれば、いいのである。(凸z*凹z⇒凸y*凹yはないと推測する。) このいわば、降下的次元変換は差異共振では形成されない。違う力学が必要である。 差異共振によって形成されるx軸とα軸の形成する平面を直交する軸が形成されればいいことになる。 以下の図のように、フレミング右手の法則に類似した力学ははたらけばいいのである。即ち、磁界の方向がα軸凸αで、導体の動いた方向がx軸凸(+1)であり、電流の流れる方向が凹zとなる。 そして、それぞれの方向の反対(対極)を考えれば、α軸の凹α、x軸の凹(−1)、そして、z軸の凸zが形成される。 興味深いのは、z軸においては、凸z(陽)ではなく、凹z(陰)が形成されることである。そう、電流は電子(負電荷)であるから、これなりに合理性、整合性があると言えようし、また、母権的自己ないしは原始差異共振を考えると、それは凹z主導なので、これに合致することになるのである。 結局、 凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹z というような数式になる。 次に、y軸であるが、これも似たような視点でいいのではないだろうか。即ち、 凸α*凹α⇒凸(+1)⇒凹y である。やはり、凹y(陰)が形成されるのである。陰陽の氣であるから、陰が先行するのはまことに的確である。 今はここで留めるが、後で、精緻にこの力学の方程式を解明したい。 ファイル:Fleming's Right Hand Rule.png フレミングの右手の法則 再考:陰陽の氣と自我/非自我の作用:自然における同一性と差異
どうも勘違いしているのかもしれない。
先に、「光」の場合、粒子は⇒凹(マイナス)で、波動は⇒凸(+1)と述べた。 しかしながら、自然状態では、差異共振が起るのであり、同一性は生起しないと考えられる。 だから、「光」は⇒凸(+1)しかありえないと考えられる。ということなので、訂正である。 問題は、自我作用、同一性作用である。自我・同一性作用において、⇒凹(−1)が生起すると考えられる。 そして、それに抑圧され、排除される非自我は、裏面、背面で、どう作用するのだろうか。 先には差異共振作用をすると述べたが、どうだろうか。これも勘違いのように思える。 差異不共振ではないだろうか。否定された凹iの作用は反動作用になると思われる。否定的感情、否定的衝動になると思われる。それは、攻撃的衝動ではないだろうか。 そう、問題は先に述べた原始差異共振である。これは、自我作用によって、無意識化されるだろう。 とまれ、ここにおいてこそ、差異共振の原点があるのであるが、自我作用の支配の下、未発達な状態、あるいは、潜在的な状態に留まっていると考えられる。 つまり、自我作用と原始差異共振作用は矛盾・齟齬の関係にあると言えよう。 では、自我・同一性作用と自然現象との関係はどうなのだろうか。 陰陽の氣の差異共振現象が自然現象とするならば、自我・同一性作用とどう関係するのか。 凸zは純粋悟性になるが、また、外的感覚(空間)にもなるだろう。そして、否定された、また、抑圧された凹z(原始差異共振を含めて)は、それなりに、内的感覚(時間)であろう。 そう、人間身体を考慮しないといけない。人間身体は当然、自然現象である。つまり、差異共振現象である。そこに、自我/非自我が組み込まれているのである。 ここでは作業仮説であるが、こう考えたらどうだろうか。差異共振現象とは、当然、凸i*凹i⇒凸(+1)である。右辺が自然現象ないしは自然自体である。 これは当然、凸iと凹iの共振から形成されているのだから、自然現象には凸iのなんらかの要素があるということではないだろうか。凸iと凹iの即非現象と言ってもいいのであるから、やはり、凸iを基本的構成要素としてもっていると言えよう。 つまり、同一性の側面をもっているということになる。そして、それが、物質というものでないだろうか。 そして、自我・同一性作用は自然のこの物質性を認識するということではないだろうか。 この作業仮説の問題点は、果たして、凸iを凸zと同様に、同一性として見ていいのかということである。 凸zは自我・同一性作用である。しかし、凸iは自我・同一性作用ではなく、自然のもつ陽極である。 しかしながら、それを自我極ではなく、同一性極と見ることは可能ではないだろうか。 ということで、作業仮説的に、凸iを同一性として見れば、それを自然身体において、自我は同一性=物質として認識するということは考えられるのである。 では、もしそうならば、凹iは何か。凹zは非自我、内的他者、絶対的差異であるが。 少なくとも、非同一性と言えよう。つまり、差異である。同一性を物質とするならば、非同一性、差異とは何であろうか。おそらく、一種の精神である。自然の精神ということになる。 「わたし」は「山」であるというとき、「わたし」は凹zであり、「山」は凹iではないだろうか。凹zと凹iとの一種の共鳴、合一等がなければいけない。 凹zは非自我的精神であるが、凹iは単に精神ということではないだろうか。 とりあえず、そう仮定して考えたい。 すると、自然現象、自然自体とは、同一性=物質、差異=精神の共振から形成されていることになる。 そして、人間は自我・同一性(物質)作用と非自我・差異(精神)作用との二元体である。 思うに、カントが現象における基体と見ていたものは、差異=精神ではないだろうか。 そして、物質科学は、自然の物質的側面のみを捉えて、自然の精神的側面を看過していることになる。 今はここで留めて、後でさらに検討したい。
2012年04月11日(Wed)▲ページの先頭へ
差異と「差異」:内的他者としての差異と外的他者としての「差異」:陰陽の氣としての「光」と自己軸
後で検討したいが、結局、「わたし」は「山」であり、同時に、「わたし」は「わたし」であり、「山」は「山」であるという即非の論理において、「差異」の問題が生じる。
私がこれまで述べてきた差異とは、「わたし」は「山」であるというときの「山」のことである。 しかしながら、一般的には、「わたし」は「わたし」であり、「山」は「山」であるというときの「山」を「差異」と考えるだろう。 何が異なるかといえば、前者は内的他者のことであり、それに「わたし」が一致することを意味し、後者は外的他者のことであり、それと「わたし」は異なることを意味する。後者は同一性としての他者と言えよう。 思うに、内的他者への感知がポスト・モダンの最良の収穫ではないだろうか。これは、PS理論では絶対的差異である。 結局、自己とは「わたし(自我)」であり、且つ「非わたし(非自我)」なのである。この二元論(極性)がPS理論の説くところである。 そして、さらに、両者が(差異)共振するところがPS理論の核心である。 ところで、今不明なのは、電磁波や量子の位置付けである。 粒子であり、且つ、波動でもあるという、例えば、「光」の位置付けであるが、直観で言うと、粒子は⇒凹(−1)であり、波動は⇒凸(+1)である。 両者は同時生起である。だから、即非的生起と言うこともできよう。 そうすると、「光」とは、凸i☯凹i⇒凸(+1)、凹(−1)の左辺が本体と考えられる。そう、思うに、それは、氣と呼んでいいのではないだろうか。陰陽の氣が「光」であり、それが、粒子と波動を同時・即非生起させると考えられるだろう。 そうならば、「光」は自己的であると言えるのではないだろうか。それは本当なのだろうか。どうも躊躇するのである。 何故なら、自己とは自我且つ非自我(内的他者)であり、自我を陽、凸i、非自我を陰、凹iと見ていいのかすぐには首肯できないからである。 つまり、人間において、自我の作用は非自我の作用よりもはるかに強いからである。とりわけ、父権主義において。 だから、人間は陽に傾斜していると言えば済むのだろうか。陽に傾斜していても、陰陽の氣においては、陰は開いているのである。言わば、開放系である。それに対して、人間の自我は閉鎖系であり、非自我を排除しているのである。この違いが決定的であると考えられる。 やはり、ガウス平面に直交するz軸を加えて、それを自己軸とすべきように思われるのである。 この点はあらためて検討したいので、今はここで留める。 追記:自己軸であるz軸を考えると、仮に、「プラス」の軸に凸zを、「マイナス」の軸に凹zを置く。凸zが自我で、凹zが非自我となる。 自我は同一性主義であり、それは、非自我を抑圧、排除する。 とまれ、z軸のMedia Point(虚軸と実軸のmedia pointと区別する。もっとも、重なるのではあるが。)において、凸z側において、視覚や脳の原点があるのではないだろうか。思うに、第二ガウス平面(z軸とx軸の直交座標であるが、超越論的ガウス平面と言えるかもしれない。)において、凸zと凹の領域、第二象限に、脳の領域があるのかもしれない。視覚はMedia Pointの自我側に存するのではないだろうか。 それに対して、凹zと凹の領域、第三象限は、内臓の領域ではないだろうか。聴覚はMedia Pointの非自我側に存するのではないだろうか。 次に、凸zと凸の領域、第一象限であるが、それは、純粋理性、理念の領域ではないだろうか。因みに、純粋悟性は凸zの第二象限側に存するのではないだろうか。 そして、凹zと凸の領域、第四象限であるが、それは、超越界、コスモス界、真のイデア界(これは、純粋理性、理念の世界とは区別される)ではないだろうか。 ロレンスがdark sun、dark God、cosmosと呼んだものは、この領域の存すると思われる。 そう、宗教の真の光(「神」)もここに存するように思われる。マニ教の光も当然、ここである。 以上、作業仮説、思考実験である。後でさらに検討したい。
2012年04月10日(Tue)▲ページの先頭へ
カントの純粋悟性論と同一性世界:純粋理性と凸i主導のmedia pointにおける凹iの浸透様態
カントの純粋悟性論は明らかに、同一性、量、物質の世界を超越論的に捉えているものである。凸iの同一性が支配している世界である。だから、凸i*凹凹i⇒凹(−1)である。これは先にも述べたので、これ以上説明しない。
問題は、凹iを凸iの同一性支配から解放したときに事態である。これは当然、不連続的差異論の事態であり、また、PS理論の事態である。 これまで差異共振して、凸i*凹i⇒凸(+1)になると述べた。凸(+1)は精神である。 思うに、解放された自由になった凹i(「時間」)がもし差異共振しない場合はありえるのだろうか。もし可能ならば、それはどういう事態なのだろうか。 思うに、あり得るならば、それは、第四象限、コスモス、イデア界を意味するのではないだろうか。 この問題はここで留める。 次に、カントの純粋理性の問題について簡単に予見を述べたい。 純粋悟性は凸i支配を意味する。それに対して、純粋理性はその超越論的なものである。つまり、それは、第一象限を意味するかもしれない。 あるいは、簡単に言えば、凸iと凹iとの「差異」がアンチノミー、背理になっていると考えられる。もっとも、カントにおいて主導的なものは凸iであり、凹iが形成する差異共振をカントは認めていないと考えられる。 しかしながら、先に述べたように、media pointにおいて、凸iに対して、凹iに拠る差異共振が浸透しているのであり、その浸透において、カントは差異共振の曖昧な像を予感して、純粋理性の問題を捉えているようにも思える。 そう見ることができるならば、カントにおいて、ポスト・モダン、正確に言えば、構造主義抜きの同一性と差異の問題をカントは先駆的に扱っていたことになる。 ポスト・モダンが混乱したのは、超越論的なもの、認識問題を、同一性、量的視点が排除してしまったからだと思われる。 とまれ、カントの純粋理性とは、凸i主導のmedia pointにおける凹iが浸透するときの認識であると思われる。 そうすると、PS理論ははるかに、カント哲学を超えていると考えられる。 そう、以前述べたように、フッサール現象学の超越論的主観性は、カント哲学を超えて、凹iの浸透自体を捉えたように思える。しかし、完全に純粋化したかは疑問の余地がある。 純粋理性批判〈3〉 (光文社古典新訳文庫)/イマヌエル カント ¥1,100 Amazon.co.jp
2012年03月29日(Thu)▲ページの先頭へ
母権と父権における連続的自我の様態:同一性による差異共振支配の克服のための聖霊主義へ向けて
テーマ:manichaeism: 哲学
母権的自我における連続的自我と父権的自我におけるそれとの区別が不分明になっているようなので、検討したい。 母権的自我とは、原始差異共振と連続的自我の極性的二重性をもつ。 それに対して、父権的自我は、原始差異共振を否定して、連続的自我中心となっている。ここには、分裂、亀裂がある。 問題は連続的自我における否定される他者凹iの様態である。 母権的自我においては、連続的自我において否定される他者凹iは、原始差異共振があるために、言わば、完全には否定されず、肯定的な側面があると考えられる。 それに対して、父権的自我においては、連続的自我において否定される他者凹iは完全に否定されるのであり、そのために、他者凹iは否定的感情、反感、反動的衝動等になっていると考えられる。 ヤハウェについての分析で、母権的一神教と考えたが、結局、それを翻した形になり、齟齬の状態に留まっている。 ヤハウェはやはり、父権的自我の究極性のようなものと見るべきであろう。 つまり、ヤハウェとは超越的な、絶対的な純粋自我であり、超越的な、絶対的な純粋他者凹iを否定すると考えられるのである。 故に、後者の否定が前者に付随して、「我は嫉妬深い神なり」という様態になると考えられる。 とは言え、問題は、その超越性が何処から生まれているかである。 凸iだけなら、純粋自我であり、そこには超越的絶対性はないだろう。 先に、凸(+1)⇒凸i*凹iを思考実験的に提起した。 凸(+1)が真の光であり、「神」であるとすると、これが、超越的絶対性の根源であると考えられる。 だから、ヤハウェの父権主義は凸(+1)、真の光、「神」から発生していると考えられる。 ただし、凸iに極大化したものである。そう、ここで陰陽力学の役立つ。つまり、凸i*凹iは陰陽として、変動しているのであり、母権主義のときは、凹iが主で、凸iが従であり、凹iが極大化したときが、完全母権主義と考えられ、また、父権主義はその逆である。 ということで、ヤハウェは凸iの極大化の様態と考えられるのである。【そうすると、陰陽力学の力の根源は凸(+1)となる。先にも簡単に指摘したが、おそらく、凸(+1)を「父」と考えることができるだろう。】 以上の視点から現代社会、現代世界の問題が解明できよう。 日本民族であるが、やはり、これまで既述したように、基本的には二つの民族、母権的民族と父権的民族が併存しているのであり、おそらく、明治維新以前には、両者のある種の、つまり、古代ギリシア的な結合、融合があったが、明治維新後、父権的民族が支配的になり、それが、今日現代まで続いていると考えられる。 しかし、この父権的民族は狡猾であり、母権的民族の裏に言わば、隠れて、支配しているように思われるのである。例えば、官僚はそのようなものに思われる。民主主義の隠れ蓑に隠れて、日本国民を支配、操縦しているように推測されるのである。 天皇制は母権的民族文化と見るべきである。それが明治維新で父権的民族に利用されたと見るべきである。(そして、この隠れた狡猾な父権的民族は某国の権力と繋がっていると推測される。) 先に指摘したように、大半である母権的民族の日本人は新父権化して、自我と個において覚醒すべきである。(このためには、是非、外国語、とりわけ、欧米語を学ぶべきである。) 次に、中国人であるが、既述したように、やはり、母権的民族と父権的民族の並立があるが、両者が古代ギリシアや明治以前の日本においてあったような結合が稀であったのではないだろうか。もっとも、老子や易、等はそのような結合を感じさせるのであるが。 思うに、母権的民族のベースに強力な父権的民族(遊牧民族)が侵入して生まれたのが、中国(支那)のように思えるのである。だから、父権的民族が母権的民族を暴力的に支配する形をとったように思えるのである。(私見では、父権的民族としての中国人は、父権的民族のユダヤ人や欧米人と類似するのである。) 東アジア、ひいてはアジアの問題の核心にはこの力学あると推察される。 最後に簡単に資本主義の問題に触れると、やはり、ヤハウェ的一神教が根源に存すると考えられる。 それは、上述した超越的絶対的純粋自我の同一性形式が根源のように思われるのである。 しかしながら、以前何度も述べたように、資本主義は差異共振主義を内在しているのである。つまり、資本主義とは、内在する固有の差異共振主義(母権主義)と超越的絶対的純粋自我的同一性形式の絶対的矛盾の結合であると考えられるのである。宗教で言えば、ユダヤ教とキリスト教の結合に相応しよう。 しかしながら、この結合(おそらく、複合ないしは混合と言う方が的確であるかもしれない)において、主であるのは、後者であり、前者は従である。つまり、いわば、「父」が「子」を支配しているのである。 言い換えると、同一性資本主義と差異共振資本主義の複合が今日の資本主義(同一性/差異共振複合資本主義とでも呼べよう)であるが、前者は後者を支配して、世界的暴力(戦争等)を引き起こしていると考えられる。 だから、逆転する必要があるのである。それは、言うならば、聖霊資本主義であろう。PS理論的には、media point capitalismである。 純粋自我と純粋他者を差異共振させる資本主義である。それを実現するための方法等については、後で検討したい。(もっともそれについては多くのことが既述済みであるが。)
2012年03月27日(Tue)▲ページの先頭へ
物質とは何か:その2:凸i*−凹i⇒凹(−1):凹(−1)が物質である
物質とは何か:その2:凸i*−凹i⇒凹(−1):凹(−1)が物質である
テーマ:Neo-PS理論 先に、物質とは差異共振事象の同一性的仮象ではないかと述べたが、今、それとは異なる視点が生じたので、それを簡単に記したい。 結局、media pointにおいて、同一性化と差異共振事象が同時生起する。両者はなんらか結合して、いわば、複合体を形成していると考えられる。この複合体を仮に同一性的差異共振体ないしは同一性的差異共振複合体と呼んでおく。あるいは、生命体で言えば、同一性的差異共振有機体である。 問題はこの体、複合体、有機体の結合モードである。つまり、結合のmedia pointの様態である。(先には、比喩的に、メビウスの輪や三日月の光と影を提起したが。) 根源的に考察する。「母権」的認識様態においては、凹i主導であり、原始差異共振様態と連続的同一性様態が併存している。この初期様態が重要である。 この二重様態を精緻明晰に捉える必要がある。結局、凸iの様態がポイントである。凹i主導の差異共振体があり、同時に、凸i主導の連続的同一性体(連続的自我体)がある。つまり、両極性(対極性)に拠る二つのモードがここには存している。 即ち、凹i主導の差異共振体と凸i主導の連続的同一性体である。つまり、凹iと凸iの極性による複合体がここには存する。極性的複合体と呼べよう。あるいは絶対矛盾的複合体ないしは即非的複合体である。これが「母権」的認識様態である。 では、「父権」的認識様態になるとどうなるのだろうか。それは、完全に凸i主導、凸i支配となる認識様態である。 そう、簡単に言えば、極性的様態が「抑圧」されると考えられる。では、「抑圧」とは何であろうか。それは、隠蔽である。 この「抑圧」、隠蔽力学を把捉する必要がある。 しかし、この力学は「母権」的認識様態の凸i主導性による連続的同一性体という視点で捉えることができよう。 既述したように、同一性力学は凸i同一性を凹iの他者に押し付ける、押印することである。つまり、同一性型を他者(差異:正確に言えば、絶対的差異、絶対矛盾的差異)に押印することである。論理的に言えば、他者否定である。つまり、同一性力学は他者(差異)否定力学であるということである。 「母権」的認識様態は極性的様態で説明できたが、この「父権」的同一性支配的認識様態はどう解明できるのか。 思うに、ここには、分裂様態があると考えられる。本来(「母権」的認識様態においては)、極性的様態である凸iと凹iであるが、「父権」的認識様態になると、同一性支配によって極性的様態が否定されて、同一性体と差異共振体の二つに分裂すると考えられる。つまり、同一性と差異共振性を分裂させるなんらかの分離帯が形成されると推測されるのである。 この分離帯を同一性デバイドととりあえず呼ぶ。この同一性デバイドが「母権」的認識様態には存在しなかったものである。 そして、この同一性デバイドが物質を形成する原因であると考えられるのである。 この同一性デバイドとは結局、カントの感性的形式ならびに純粋悟性(形式)と考えられる。つまり、「父権」的認識様態とは感性的形式且つ純粋悟性(形式)支配の認識様態であると考えられるのである。とりあえず、両者をまとめて、同一性形式と呼ぶ。 だから、同一性形式が物質形成原因である。 そのように考えると、宇宙・自然世界と人間世界において、同一性形式支配があり、それが、物質現象を構築していると考えられる。 しかし、同一性形式イコール物質ではない。物質を形成するには、同一性形式と同時に押印される他者(差異)が必要である。前者を凸iとすれば後者は当然凹iである。 結局のところ、これまで既述したような同一性方程式を変形した、 凸i*−凹i⇒凹(−1) が物質認識方程式と考えられる。 そう、端的に、凹(−1)が物質である。(これは、連続的自我でもあるが。) ということで、現段階の結論が出たので、ここで終える。 追記:ルドルフ・シュタイナーの精神学で言えば、同一性形式とは悪魔アーリマンである。また、彼はそれをヘーゲルの「精神」であると述べてい 四次元座標としての人間認識構造? テーマ:manichaeism: 哲学 先に三次元座標を人間認識構造のモデルとして作業仮説したが、どうやら、四次元座標にした方が的確のように思えてきた。 即ち、x軸、y軸、z軸以外にα軸を考えるのである。 x軸:存在軸:凹と凸 y軸:空間/時間軸:凸kと凹k z軸:純粋悟性軸:凸jと凹j α軸:純粋理性軸:凸iと凹i とざっと思うところを書いた。 y軸は、感覚に関係する。外的感覚(外官)凸kと内的感覚(内官)凹kである。 z軸は、凸jが純粋悟性であり、凹jが純粋悟性の他者である。 α軸は、凸iが純粋理性であり、凹iが純粋理性の他者である。 以上、思考実験である。 物質とは何か テーマ:manichaeism: 哲学 既述したことだが、ルドルフ・シュタイナーは彼の精神学は、究極的には物質の究明であると述べていた。霊学を提唱した人物の言であるから、重い。 とまれ、物質とは差異共振エネルギー、差異共振事象を同一性の視点で捉えたものではないだろうか。 ある物体の質量が1kgとする。その1kgとは、同一性、量である。これは空間的事象の観測に拠るのである。問題は空間的事象である。カントは物自体は認識できないと述べた。 ここで思考実験するが、物自体を仮に凹iとすると、純粋悟性凸iは物自体凹iは把捉できない。それは、同一性を物自体凹iに押印するのである。 だから、凸iに拠る凹iへの同一性の押印が、物質ないしは物体の形成を意味するのではないだろうか。 しかし、他方では、凸i*凹iの差異共振事象がある。氣の事象、光の事象である。 思うに、物質とは現象を同一性システムで捉えたものである。現象の本体は差異共振事象であるが、物質とは差異共振事象を同一性システムによって認識したものではないだろうか。 つまり、現象、差異共振事象は同一性システムに呼応する機構をもっているということになるのではないだろうか。 というか、差異共振事象を同一性の視点から認識する結果、現象は物質現象であるということになるのではないだろうか。(物自体であるが、それは、凹i、ないし凸i*凹iの差異共振事象の両方にあてはまることにする。今の段階では。暫定的に。) つまり、物質とは本来、物質ではなく、差異共振事象であるということになるだろう。差異共振事象の仮象であるということになるだろう。 今は問題提起のみである。 z軸凸iは純粋理性、y軸凸jは純粋悟性、x軸凸は純粋光 テーマ:manichaeism: 哲学 今は指摘のみに留める。 ガウス平面の虚軸を凸iと凹iで表記したが、三次元化したとき、z軸に凸iと凹iをとり、y軸に凸jと凹jをとることにする(先にも述べたが)。 カントの純粋悟性は凸jとなり、現象、物質、現象光は凹(−1)である。そして、凸(+1)は純粋光と考えられる。これは一般には不可視である。(dark energyはこれを指しているのかもしれない。dark matterもこれかもしれない。) そして、純粋悟性を超越する純粋理性はz軸の凸iということになる。 とまれ、凹jや凹iは純粋他者であるが、どう異なるのか。これは作業仮説であるが、両者、直観ではないだろうか。 凹jは現象的直観であり、凹iは精神的直観ではないだろうか。この問題は提起のみに留める。 さて、別のことであるが、 凸i*凹i⇒凸(+1) の根本自己認識方程式であるが、これは逆転できるのではないだろうかと思ったのである。即ち、 凸(+1)⇒凸i*凹i である。 凸(+1)は真の光であり、「神」であると考えると、それが、中軸の極性、双極子を創出したのではないだろうかと思ったのである。 例えば、旧約聖書の預言者であるが、彼らは、凸(+1)の「神の呼びかけ」を聴いたのではないだろうか。 とまれ、「父」は凸(+1)⇒凸i*凹iとすると、「子」は凸i*凹i⇒凸(+1)ではないだろうか。 ならば、「聖霊」はどうなるのだろうか。それは、media pointではないだろうか。 これも検討課題である。 Cartesian coordinate system - Wikipedia, the free encyclopedia The coordinate surfaces of the Cartesian coordinates (x, y, z). The z-axis is vertical and the x-axis is highlighted in green. Thus, the red plane shows the points with x=1, the blue plane shows the points with z=1, and the yellow plane shows the points with y=−1. The three surfaces intersect at the point P (shown as a black sphere) with the Cartesian coordinates (1, −1, 1). http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11204176098.html 過去から未来への動きと未来から過去への動き テーマ:manichaeism: 哲学 凸i*凹凹i⇒凹(−1)と凸i*凹i⇒凸(+1)の光の方向であるが、前者は物質の世界であり、過去から未来へと時間が動くが、後者は精神の世界であるが、未来から過去へと時間が動くのではないだろうか。 参考: スカラー波とは - 徹底検索、堀進 - Yahoo!ブログ 超光速が相対論によって無いことになっているのは、超光速であると因果律が逆転するからである。つまり過去から未来へ伝わる波だけでなく、未来から過去へ 伝わる波も存在することになるからである。しかし、云わば量子の内部で超光速であって、外部からこの量子の動きを見ると光速以下になるようになっているの で、その範囲では因果律の逆転は起きないのである。 http://blogs.yahoo.co.jp/horisusumu8/11334501.html 徹底検索、堀進 Nikola Tesla - Wikipedia, the free encyclopedia Longitudinal wave - Wikipedia, the free encyclopedia Longitudinal waves, as known as "l-waves", which are waves that have the same direction of vibration as their direction of travel, which means that the movement of the medium is in the same direction as or the opposite direction to the motion of the wave. Mechanical longitudinal waves have been also referred to as compressional waves or compression waves. Electromagnetic Maxwell's equations lead to the prediction of electromagnetic waves in a vacuum, which are transverse (in that the electric fields and magnetic fields vary perpendicularly to the direction of propagation).[2] However, waves can exist in plasma or confined spaces. These are called plasma waves and can be longitudinal, transverse, or a mixture of both.[2] [3] Plasma waves can also occur in force-free magnetic fields. In the early development of electromagnetism there was some suggesting that longitudinal electromagnetic waves existed in a vacuum. After Heaviside's attempts to generalize Maxwell's equations, Heaviside came to the conclusion that electromagnetic waves were not to be found as longitudinal waves in "free space " or homogeneous media.[4] But Maxwell's equations do lead to the appearance of longitudinal waves under some circumstances in either plasma waves or guided waves. Basically distinct from the "free-space" waves, such as those studied by Hertz in his UHF experiments, are Zenneck waves .[5] The longitudinal mode of a resonant cavity is a particular standing wave pattern formed by waves confined in a cavity. The longitudinal modes correspond to the wavelengths of the wave which are reinforced by constructive interference after many reflections from the cavity's reflecting surfaces. Recently, Haifeng Wang et al. proposed a method that can generate a longitudinal electromagnetic (light) wave in free space, and this wave can propagate without divergence for a few wavelengths.[6] http://en.wikipedia.org/wiki/Longitudinal_wave 作業仮説:三次元座標としての認識世界 テーマ:manichaeism: 哲学 凸iと凹iをガウス平面に直交する軸(z軸)としたい。だから、ガウス平面での空間・時間方程式の記述は凸j*凹j⇒凸(+1)としたい。凸jが空間形式であり、凹jが時間形式である。それらはy軸を形成する。 そして、凸iを純粋悟性(純粋自我)、凹iを純粋他者にしたい。 凸iと凹iは時計回りにπ/2回転して、凸jと凹jに変換するとしたい。(この回転力学は後で検討したい。) z軸とy軸が超越論的軸である。x軸が経験軸(物質軸)である。そして、純粋理性とは、z軸におけるmedia pointの力学知性ではないだろうか。 今は問題提起に留める。 現代日本人は他者凹iを排除するので、異常、病的、痴愚的になっている テーマ:日本亡国の凶相 結局、現代日本の病巣とは凹iの排除にあると思う。即ち、内的他者(差異)、肚、魂の否定である。 そう、日本伝統文化の廃棄である。これは、GHQやその後の米国の洗脳に拠ると考えられる。 駄目な日本人。己の民族的文化を廃棄してしまっているのである。魂を棄てているのである。 つまり、亡魂の民である。ロボット人間である。 追記:より精緻に言えば、凸iという純粋自我「わたしich」の喪失がある。 凹iが廃棄されているのも、結局、「わたし」が存しないからである。集団我があるだけである。 結局、純粋自我(純粋悟性)凸iを表わす主語のない日本語は致命的である。日本人は外国語、とりわけ、欧米語を学ぶ必要がある。 日本語しか理解しない日本人は「未開」状態である。近代以前なのである。
2012年03月23日(Fri)▲ページの先頭へ
光のmedia point plane mode:闇が「光」となり、光が「闇」となる
光のmedia point plane mode:闇が「光」となり、光が「闇」となる
テーマ:manichaeism: 哲学 media pointにおける光のモードについて閃いたので、簡単に記す。 以下の三日月の映像が役立つ。月の光った部分に接している暗い線が、凸iの同一性反射に相当するだろう。 そして、明るい部分が凹i*凹i⇒凸(+1)の右辺である。 しかしながら、現象界、物質界においては、この明るい部分は不可視になっている。D. H. ロレンス的に言えば、dark, unseenなのである。 そして、暗黒部分を一般には視覚しているのである。つまり、思うに、三日月を容器として考え、弧を底とすると、光の容器が闇を包容している(光が闇を包 んでいる)のが、真実の世界と考えられる。つまり、現象界、物質界とは闇なのである。闇を光と見ているのが、一般の人間である。 もう少し丁寧に言うと、現実に見る光、現象光は、闇なのである。そして、真の光は不可視、dark, unseenなのである。(これが、ロレンスのdark sun, dark rayと考えられる。) プラトンの洞窟の比喩における太陽は、現象界の太陽ではなく、精神界の太陽と見るべきである。 そう、ロレンスが我々は光の背中を見ているに過ぎないと述べたが、それは正鵠を射ているのである。本当の光の背中の闇を見ているに過ぎないのである。 この闇である現象光は物質的光と言えよう。しかしながら、先に述べたように、真の光が闇である現象界に漏れ出る、沁み出ることがあるだろう。 現象の太陽から沁み出る真の太陽、精神の太陽が「見られる」ときがあるだろう。 真の太陽が正面を向ける時である。それはいつなのだろうか。 そう、簡単に言えば、差異共振精神という内的精神的光をもつべきである。その光によって、現象の太陽において、真の太陽、精神の太陽を見ることができよう。 そう、凸iが凹iに設ける同一性面、同一性鏡を突き抜けて、凹iの領域に測深すべきである。 それは、東洋的瞑想等に関係しよう。また、ロレンスの『無意識の幻想曲』に。 media pointの同一性面、三日月で言えば、明るい部分に接する暗い弧を突き抜けて、明の部分に達することである。 しかしながら、大事なのは、凸iの純粋悟性、純粋自我を伴うことである。それによって、凹iと凸iが差異共振して、真の内的光、超越光を生むのである。 今は簡単な指摘に留める。 追記:真の太陽が沁み出ると言ったが、思うに、三日月の二つの尖端から漏れ出るようにも思える。二つの両端とは何か。夜明けと日没時だろうか。もしそうなら、どうしてなのか。 思うに、夜の闇は凸(+1)の真の太陽を内在しているのではないだろうか。そして、夜明けのとき、光が到来するが、実は現象光と真の光が接するときではないのか。 日没の時は、逆に、闇が到来するが、その闇の中の真の光が現象光に接するのではないだろうか。 今はここで留める。 画像は三日月 - Wikipedia から ファシモティズム:現代のファシズム・全体主義 テーマ:日本亡国の凶相 こういう踏み絵みたいな善悪二元論の発想がファシズムの根源である。そして、愚民は没思考的なので、それに追従するのである。 共産主義や全体主義は母権的民族の反動と考えられる。新父権主義が母権的民族には必要である。 橋下市長、入れ墨・地下鉄喫煙で全庁調査指示 読売新聞 3月21日(水)23時3分配信 大阪市の児童福祉施設職員が子どもに入れ墨を見せて停職処分になるなど、市職員に不祥事が相次いでいることを受け、市の服務規律刷新プロジェクトチーム(委員長=橋下徹市長)が21日、発足した。 初会合では、入れ墨の有無などについて全庁調査を行うことを決めた。 チームは、職員が覚醒剤の使用容疑で逮捕された水道局や、全面禁煙の地下鉄駅構内での喫煙が明らかになった交通局などの幹部らで構成。橋下市長は「公務 員の職場で入れ墨が合うか、誰が考えてもわかる。ダメなものはダメという雰囲気が欠けている」と指摘し、「僕はやるといったらとことんまでやる」と、不祥 事根絶に意欲を示した。 チームは入れ墨以外にも、勤務時間中の喫煙やマイカー通勤など禁止事項に関する実態を調査。このほか、弁護士ら第三者委員が不祥事の実態解明に当たる調査チームも新設する。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120321-00001218-yom-pol 光とは何か:二つの光:同一性(物質)の光と差異共振光 テーマ:manichaeism: 哲学 思うに、光は同一性光と差異共振光に分離するのではないだろうか。当然、media pointにおいて、分離するのであるが、media pointでの両者の関係が微妙である。 今は精緻に論じられないので、思いつきに留まるが、凸iの主導性に対して、当然、凹iは一種反発をすると思われるのである。 つまり、凸iの支配は凹iを同一性化する。これは、凸iは凹iに自己反射するのであり、この自己反射の光が同一性光(物質光)のように思えるのである。言い換えると、凸iの反射光が同一性光(物質光)であり、可視の光である。 それに対して、凸iの支配に反発する凹iは独自に、凸iを包含、内包して、差異共振光を形成するように思われるのである。 両者はまったく共約(通約)不可能であると考えられる。不連続である。 D. H. ロレンスがdark sunないしはdark rayと呼んだものは後者であり、前者の視点から後者はまったく感知できないと考えられる。(media pointの二元性と言えよう。あるいは、media pointの絶対的間隙性である。) 神話学的に見ると、父権的太陽は前者であり、母権的太陽は後者であると思われる。 しかしながら、凹iは凸iを取込むのであるから、実は、凸iは凹iと共振しているのである。 つまり、凸iの主導性(父権)は、絶対的ではなく、凹iの差異共振の影響を被っていると考えられるのである。(凸iを「父」とすれば、凹iが「子」であ り、差異共振は「聖霊」であろう。kaisetsu氏的にいうと、このとき、ガウス平面に直交するz軸が形成される。超越軸、聖霊軸である。) 先に絶対的間隙性と言ったが、実はそうではなく、接触面があると言えよう。 凸iの主導性によって、media pointに同一性面ができるだろう。しかし、この同一性面の、いわば、裏面は差異共振面である。同一性と差異共振が接触しているのである。 とまれ、この接触面が重要である。ここで、同一性と差異共振が交差するのである。(だから、交差面とも言えよう。) これは、思うに、揺動面とも言えよう。常に、揺らいでいるのではないだろうか。 また、浸透面とも言えるだろう。 とまれ、この接続面をどう捉えるかが重要である。それを同一性中心にすると、精神的病気になると考えられる。また、差異共振を中心にすると、神秘主義になるように思われるのである。 現実的には、同一性(物質)と差異共振(精神)のバランスが必要である。 このバランスは両者を不連続化したときもたらされるのではないだろうか。もっとも、絶対的不連続化ではないが。 今はここで留める。 追記:以前、私はしきりに超越光が現象光において可視であると述べた。思うに、現象光はやはり、同一性(物質)の光であり、超越光は差異共振(精神)の光と見るべきであろう。 現象光において超越光が見えるというのは、上述したmedia pointにおける接触面において、現象光と超越光がいわば、融合しているということだと考えられる。 そう、正確に言うと、超越光は氣の光でもあり、精神の光でもある。氣と精神の光である。 精神の光、真の超越光は、シュタイナー的に言えば、アフラ・マズダ=キリストになるだろう。日本神話で言えば、天照大御神である。 追記2:media pointは上記の分離と融合(一種の即非性)を考えると、いわば、メビウスの輪のような構造ではないだろうか。(もっとも、メビウスの輪はいわば比喩であるが。) だから、∞の記号をmedia pointに使用してもいいかもしれない。即ち、凸i∞凹i⇒凸(+1)+凹(−1)=ゼロとなるのだろうか。それとも凸i∞凹i⇒凸(+1)*凹(−1)=凹(−1)となるのだろうか。 後者の場合、凹(−1)=e^iπではないだろうか。 今はここで留める。 参照: 天照大神 - Wikipedia 参照2: メビウスの帯 - Wikipedia 父権と母権について再考 テーマ:新母権的社会:差異共振共同体 私は一神教は母権から生まれると考え、母権的一神教という用語を提起した。 どうもまだ、不分明である。連続的同一性を形成するのは、最初、父権であると述べたが、先に母権であると判断したのである。 同一性を形成するのは、基本は父権である。凸iの主導性であろう。 しかし、凸i主導は凹凹iを生む。つまり、内的他者である凹iを否定するのである。この他者否定が否定的感情を生むのであり、それが、同一性の感情的基盤になるように思える。 つまり、同一性主義である。だから、母権からではないのである。結局、最初の考察に戻ることになる。即ち、同一性主義を形成するのは父権主義であるということである。 では、ヤハウェ的一神教はどう説明できるのだろうか。やはり、父権的同一性主義でいいのではないだろうか。 後でより厳密に検討したい。 差異共振精神の形成の様態 テーマ:media point どうして、人間によって、道徳・倫理の有無が生じるのか。 差異共振精神は真善美をもたらすものであるが、精神的感情は、スピノザが説いたように、歓喜になると思われる。 例えば、モーツァルトの音楽を聴いたとき、この歓喜の情が生起する。 だから、差異共振精神形成のためには、すぐれた芸術体験が必要であり、また、自然体験も必要である。また、知性を確立させないと、感情中心になり、ロマン主義的になる。(もっとも、ロマン主義が悪いというのではなく、感情中心主義になることを問題視しているのである。) 悪的傾向をもつ人間は、この差異共振精神形成が為されなかったと考えられる。歓喜の精神が欠落しているのである。 思うに、今日、うつ病やその他の心の病等は、この問題に関係していよう。差異共振精神の欠落があると考えられるのである。 今はざっと指摘するに留める。 追記:差異共振精神とは光の精神である。即ち、 凸i*凹i⇒凸(+1) である。右辺が光(光子)である。左辺の双極子から差異共振によって、右辺の歓喜である光が誕生するのである。 それに対して、差異共振のない、連続的同一性の自我は、闇、無明である。 凸i*凹凹i⇒凹(−1) である。内的他者凹iを否定して、闇である自我凹(−1)が生まれるのである。 ここで、純粋自我凸iと連続的自我凹(−1)を峻別する必要がある。前者はきわめて重要なものである。純粋悟性を内在していると考えられる。 では、差異共振によって誕生した光は、何であるのか。現象光なのかマニ教の光なのか。 直観では同じである。現象の光とは本来、精神の光であるが、それを連続的自我凹(−1)は物質的、同一性的に視ているのである。 そう、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の右辺は物質的光とも言えるように思える。凸(+1)が精神的光であるのと対照的に。 E=mc^2とは、思うに、物質的光の公式ではないだろうか。差異共振エネルギー(差異共振光)は、E = hνの方に近いのではないだろうか。 即ち、E=h(凸i*凹i)である。 とまれ、二つの光がある。闇(物質、同一性)である光(凹、−1)と純粋な(精神、差異である)光(凸、+1)である。 尚、本追記は、思考実験である。 追記2:キリストが言った二種類の人間は以上の区別で説明できよう。この世の人間は凹(−1)の人間であり、地の塩である人間は凸(+1)の人間である。闇の人間と光の人間である。前者は後者が見えないのである。 純粋悟性問題 テーマ:manichaeism: 哲学 純粋悟性は既述したように、凸iでいいと思う。これは純粋自我でもある。 これは、内的他者凹iに対しては同一性的に作用するので、凸i*凹凹i⇒凹(−1)となると考えられる。 これが人間の自然的一般的精神様態と言えよう。つまり、純粋悟性的精神様態である。 ここでは、自我が他者を同一性的に支配するのであり、自我は他者、自己を認識していない。無明である。 もっとも、これは、連続的同一性においてである。母権的自我においてである。 真の父権的自我は、凸iと凹iを自然的に分離するのである。換言すると、真の純粋悟性、純粋自我は、凹iと不連続的であり、他者・差異である凹iをなんらか認識しているのである。 思うに、カント哲学の物自体とは、先に述べたとこととは異なり、凹iでないかと思う。カントは凹iを感じていたが、合理的には説明できなかったと思える。 途中。 光と物質:再考 テーマ:manichaeism: 哲学 先に、光と物質は凸(+1)ということにしたが、どうも違うと思う。 凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺を光(光子)とすれば、物質は正反対、即ち、凸i*凹凹i⇒凹(−1)と考えた方がいいように思う。 即ち、光を自我的同一性によって捉えたものが物質ではないだろうか。 言い換えると、光とは差異共振エネルギーをもつ現象であるが、物質とは、それを自我的同一性的に見たものである。 だから、果たして、自然界に物質があるのかどうか問題視されよう。物質は仮象のように思える。もっとも、物質とは、差異共振エネルギーの同一性的仮構のように思える。 言い換えると、差異共振エネルギーの同一性的切り口に過ぎないように思える。本体は差異共振エネルギーである。 そうすると、オイラーの公式を組み込んだガウス平面の単位円において、右半円(虚軸を含めて)は光の世界、本体の世界であり、左半円(虚軸を含めない)は闇の世界、仮現の世界と思われる。 つまり、現象的には、光と闇は真逆になっていると考えられる。D. H. ロレンスのdark sunは実は凸(+1)であり、現象世界(物質世界)は凹(−1)と思われるのである。 今はここで留める。 消費税増税とは何ぞ哉?:権力と愚民:新父権主義へ向けて テーマ:manichaeism: 哲学 消費税増税政策はオウンゴール策である。これは、単純にわかることである。 金持ちは貧乏人から金を取りたいのである。そう、民主主義は建前に過ぎない。ブルジョワとプロレタリアがいるに過ぎない。 前者は金・資本一神教だと思う。これは、母権主義であり、真の父権主義が欠落していると考えられる。 真の父権主義とは何か。つまり、一神教が母権主義の裏返しと考えられるので、それは逆さまの母権主義であり、真正な父権主義ではないのである。 思うに、古い母権主義がもっていた原初差異共振主義に、父権主義の原型が存するのではないだろうか。 私が想起するのは、大国主命である。これが、私にとって、父権主義の原型である。 するとどういうことになるのだろうか。 これまで述べたように、母権主義は二重である。即ち、原初差異共振主義と連続的同一性(母権主義的同一性)があるのである。そして、一神教は後者が極まったものと考えられる。つまり、一神教は前者を排除していると考えられる。 前者はいわゆる多神教的要素ではないだろうか。これを排除したのが、母権主義である一神教ではないだろうか。 そう、多神教的要素とは端的に原初差異共振主義と言えよう。 結局、母権主義とは二重であり、原初父権主義と連続的同一性主義があるのである。だから、母権主義という言い方は問題があるが、今はこのままで留めておく。 とまれ、今日の問題、「トランス・モダン」とは、母権主義の原初父権主義を今日的に復活することを意味しよう。 それは新父権主義である。 <民主党>消費増税法案了承は19日以降 毎日新聞 3月16日(金)22時3分配信 拡大写真 民主党厚生労動・財務金融・総務部門・社会保障調査会・税務調査会合同会議冒頭にあいさつする前原誠司政調会長=東京都千代田区の衆院第2議員会館で2012年3月16日、藤井太郎撮影 民主党の前原誠司政調会長は16日夜、国会内で開かれた党税制調査会、社会保障と税の一体改革調査会などの合同会議で、消費増税法案を党として了承する 手続きを週明けの19日以降に先送りする考えを示した。民主党執行部は16日の了承を目指す方針を示していたが、野田佳彦首相の明言している月内の閣議決 定・法案提出には日程にまだ余裕があり、小沢一郎元代表のグループを中心とする反対派との決定的な対立を避けるため議論に時間をかけることにした。 会議は午後6時過ぎに始まり、前原氏は「政治家同士で議論しながら、よりいい法案にまとめる努力をしたい」とあいさつ。民主党執行部は16年度にさらなる増税へ向けた法整備を図る「追加増税条項」の修正によって反対派に配慮する方針で会議に臨んだ。 しかし、反対派は景気悪化時に増税を停止する「弾力条項」に「名目成長率3%」などの数値目標を設定することも強く要求。これには安住淳財務相が16日 の記者会見で「具体的な数字で規定するのは難しい。さまざまな要因を勘案して政治が判断するのが基本だ」と拒否を明言しており、同日中の決着は難しい情勢 となっていた。 会議は具体的な修正論議に入れないまま2時間近くが経過。野田グループの近藤洋介衆院議員が「きょう決めるべきだ」と発言したのに対し前原氏は「きょうは決めない。中小企業対策など論点を全部出すためにとことん議論してもらいたい」と先送りを明言した。 もともと週内の決着は難しいとの認識は党執行部側にもあり、野田首相は16日の参院予算委員会で「個別にいろいろ議論があると承知しているが、意見集約 できると思っている」と一定の時間をかけて意見集約を図る姿勢を示した。同時に「法案成立が私の大きな政治目標だ。不退転の決意で責任を果たしたい」とも 述べ、法案を月内に提出したうえで法案成立に政権の命運をかける決意も強調した。【木下訓明、光田宗義】 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120316-00000124-mai-pol 消費税法案、決着持ち越し=再増税規定の削除検討―民主 民主党は16日夜、衆院議員会館で社会保障と税の一体改革に関する政策調査会の合同会議を開き、消費増税関連法案に関する3日目の事前審査を行った。執 行部は、反対論が強い追加増税規定の削除を含め修正する方針を固めた。ただ、会議では小沢一郎元代表グループを中心とする反対派から法案への異論が続出。 執行部は当初予定していた同日中の了承取り付けを断念、決着を19日以降に持ち越した。(時事通信) [記事全文] ◇2つの焦点 ・ [図解]消費税増税関連法案の焦点と意見 - 産経新聞(3月15日) ◎追加増税 ・ <消費増税法案>「追加増税」修正へ…政府・民主 - 毎日新聞(3月16日) ・ 再増税時期、明記せず…消費税法案の付則 - 読売新聞(3月16日) ◎景気弾力条項 ・ <安住財務相>消費増税法案弾力条項「数値、非常に難しい」 - 毎日新聞(3月16日) ・ [政治クローズアップ]検証消費税 景気によっては増税凍結? - 景気条項について。Yahoo!みんなの政治 いかにして差異を認識するか:同一性認識と差異認識 テーマ:manichaeism: 哲学 母権的自我が主導の父権的自我の場合、その意識は同一性主義になると考えられる。 つまり、母権的自我のもつ凹iの感情が〜主義を作り出すから、父権的自我の同一性が主義化して、同一性主義になると考えられる。 では、父権的自我(同一性に傾斜する)はどのように差異を認識できるだろうか。 ある事柄、事象をXとすると、それは、端的に差異であるが、父権的自我はそれを言語化して、同一性化する。しかしながら、Xは差異(カントの物自体)として、存するのである。 ここで、母権的自我が重要となるだろう。凹iの存在である。つまり、父権的自我が母権的自我の凹iを直観することがポイントである。これが、差異である。凹iという差異を直観することで、事象Xは、差異として、認識されるようになるのである。 結局、内観の問題になると言えよう。外在的認識のままであると、Xは同一性のままであるが、内的認識を基盤にすると、Xは差異化されるのである。 そう、空間認識のベースに時間認識を置くのである。 簡単に記すに留める。 カントの外的感覚(外官)と内的感覚(内官) テーマ:manichaeism: 哲学 カントの述べる外的感覚とは凸iに、内的感覚とは凹iに基盤があるのではないだろうか。 当然、純粋形式もそれらにあると考えられる。つまり、空間形式は凸iに、時間形式は凹iに存すると考えられる。 問題は、差異共振化である。時間と空間の差異共振化とは何か。つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)なのか、それとも、凸i*凹凹i⇒凹(−1)なのか、である。 時間と空間の差異共振化は前者以外にはありえないだろう。それが、自然の摂理である。 しかし、時空四次元とはどうなのだろうか。それは、差異共振様態なのだろうか。 途中。 光と物質 テーマ:manichaeism: 哲学 凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸(+1)が光で、凸i*凹凹i⇒凹(−1)において、凹(−1)が自我ならば、物質はどこにあるのだろう。 この点で、Neo-PS理論が意味があると考えられる。つまり、ガウス平面に直交するz軸がいわば自我軸であり、y軸は、生命軸(氣の軸)のように考えるとわかりやすい。 とまれ、私説は混乱を含んでいる。端的に、凸i*凹i⇒凸(+1)は何であるのかである。 積を同一性化と考えると、凸(+1)は、自我化であり、商凹(−1)は差異共振化である。自然(氣)の場合、凹(−1)が自然の物質(物自体)である。 そう、やはり、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺が物質ではないだろうか。つまり、差異共振を人間は認識できないので、凸iの純粋悟性=同一性の視点から自然を認識するので、物自体が物質になるのではないだろうか。 すると、光は差異共振であり、凹(−1)ということになる。それでいいだろうか。 以上はまったく不整合状態である。 積をどう捉えるのかが問題である。それを差異共振に捉えるならば、それが光を意味する。そして、光は物質を意味するだろう。E=mc^2である。 では、商は何か。それは、・・・。 どうも、ひどく混乱しているので、後で整理したい。 追記:問題の核心は同一性力学をどう捉えるのかである。 同一性と物質はどう関係するのか。同一なのか、異なるのか。 同一性とは自我の事態であり、それから、外的対象を捉えたときに、物質が生起すると考えられる。 つまり、凹(−1)を自然とすると、それを自我は凸(+1)と捉えるのである。凹(−1)がカントの物自体である。(自我とは純粋自我凸iが外的に純粋他者凹iを認識するときの主観性である。) つまり、凸i⇒凹i⇒凸(+1)が物質である。また、光である。 それに対して、凹i⇒凸i⇒凹(−1)が物自体である。氣的身体である。 凸(+1)の光とは現象光である。それに対して、凹(−1)の光とは、いわば、氣の光である。(おそらく、D. H. ロレンスのdark sunとはこれである。) しかしながら、ここで正確に言えば、ガウス平面に直交するz軸における凸jが本来の純粋自我(アートマン)であり、凹jが純粋他者である。 「イデア」というとき、自然的「イデア」と人間的「イデア」の区別があると思われる。 結局、Neo-PS理論の見地である。即ち、ガウス平面の右半円が人間的現象界であり、左半円が自然現象界である。そして、ガウス平面に直交するz軸において、凸jが純粋自我であり、凹iが純粋他者である。 そのように見たとき、不明なのは、y軸とz軸との関係である。その力学である。 これは検討課題とする。 追記2:どうも、やはり、はっきりとしない。自我が⇒凹(−1)であり、光が⇒凸(+1)ではないのか。つまり、左半円が自我世界、闇の世界である。右半円が自然世界、光の世界である。 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)の左辺は積、差異共振を意味し、凸i*凹凹i⇒凹(−1)の左辺は同一性力学を意味するということの方がいいように思う。 後でさらに検討したい。 重力問題 テーマ:manichaeism: 哲学 次の私の論考に対して、コメントといただいた。興味深いので、検索したら、以下のような記事があった。 「2012-01-30 重力とは何か:光と物質の反作用としての重力?:闇としての重力作業 編集 重力 とは何か:光と物質 の反作用 としての重力 ?:闇としての重力 作業仮説 テーマ :science 今は直観 だけを言う。空間 を歪めるはたらき、光を曲げるはたらきをするということから 、どうも、media point に関係すると直観 される。 以前も私見を書いたが、もし、物質 が⇒のエネルギー 方向をもつなら、重力 はそれとは反対に←のエネルギー 方向をもつの ではないだろうか。光が⇒の方向ならば、重力 は←の力の方向である 。 もし、そうならば、重力 は⇒の反作用 的なもの となろう。凸i*凹i⇒凸の反作用 として、凸i*凹i←凸が形成され、その←が重力 ではないだろうか。 簡単に言えば、重力 はmedia point の方向を示していると考えられる。そして、ブラック ・ホール もこの方向にあると言えよう。そう、ブラック ・ホール はmedia point から 第三象限ないし凹を指すのかもしれない。 とまれ、以上から 考えられるのは、重力 と光は対蹠的であり、ある意味 で両極的である 。 作業仮説である が、実MPにおいて、光と物質 が発出されるならば、その裏面に重力 が形成されるのではないだろうか。やはり、反作用 の法則 、エネルギー 保存則である 。 だから 、光(現象光)に対して、闇である 。虚MPや第三象限等を志向 しているのではないのか。 あるいは、光、物質 の表面(現象)に対する裏面、背後である 。その不可視 の世界 、精神 の世界 に、重力 は通じているのではないのか。 言い換えると、現象太陽 の裏面、背後の闇の太陽 dark sun 、ないしは、霊的太陽 を意味 しているのではないのか。 光と物質 の第一象限の現実 世界 に対して、重力 は、精神 と闇の光(超越光、マニ教 の光)の霊的世界 を意味 しているのではないのか。 今はここで留めたい。 追記:先に、凸iの光(原光)と実MPの光(現象光)は異なると言ったが、そう考えなくても説明できるだろう。 即ち、現象光を同一性 の光とすれば、それは、凸iの光と一致すると思われる。 そのときは、凸iが主導となって、凹iを同一性 化しているのである 。 しかるに、凹iが主導のときが考えられる。そのときは、光ではなく、凹iの闇(原闇)が生起すると考えられる。 それは、当然、不可視 である 。闇である 。これが、重力 なのではないだろうか。方向性は、光凸iの反対であり、下降↓である か、物質 化⇒の反対の←である 。 とまれ、闇としての重力 である 。さらに後で検討 を続けたい。」 http://d.hatena.ne.jp/antares/20120130#c コメント 「 gavity man 2012/03/12 02:52 「太陽は地球を引き回す」 重力作用を考えてみると、私見では質量に2種の 働きがあるような気がする。一方は質量の最小構成要素から発生する波と他方は質量がその波と共鳴する時、質量体は飛来した反対方向に光子を排出すると光子 同志の摩擦で波の飛来した方向に力が働く、丁度光子ロケットのように、即ちこれが万有引力ではないだろうか。例として太陽と地球の引力は地球軌道の接戦方 向に作用する、太陽はあたかも地球を引き回すように。詳しくは是非URLを参考にして欲しい。」 MEBIUS - Gravity man さんのサイト(再掲、追記) MEBIUS Gravity man さんのサイト(再掲、追記) - MEBIUS - FC2 MEBIUS Gravity man さんのサイト(再掲、追記) - MEBIUS - FC2 MEBIUS - 重力とは何だろう その2 1.重力の謎 電荷のエネルギー
2012年03月13日(Tue)▲ページの先頭へ
「イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題
「イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題
テーマ:manichaeism: 哲学 直観で言うと、凸iに「イデア(エイドス)」、原像があると思う。 凸iとは私説では、純粋自我であるし、純粋言語能力(チョムスキー)である。 これは、父権的自我である。男性(凸i)が女性(凹i)に見るものは、凹iに投影した凸iの鏡像であろう。つまり、男性は女性を見ても、女性を見ているのではなく、女性に投影した自己自身を見ているのである。つまり、女性としての男性自身である。 では、女性はどうなのだろうか。女性は凹i自身であり、それは、凸iを包摂すると思う。つまり、女性は男性を男性自身として見るのではなく、男性を包み込んでしまうのである。つまり、内包化である。言い換えると、母権的自我化である。 だから、女性も男性を男性自体としては見ていないのである。 とまれ、本題に戻ると、「イデア」は男性的知性であろう。プラトンが説いた「コーラ」とは女性的感性凹iであろう。 思うに、凸i(「イデア」)が主導的であると、⇒凸(+1)であり、凹i(「コーラ」)が主導的であると⇒凹(−1)となるのではないだろうか。 前者は積であり、後者は商ではないのか。光と闇の二重世界である。 今閃いたが、第一象限が男性世界であり、第三象限が女性世界ではないだろうか。以下の左のグラフとなるのではないだろうか。 y=12/x の2つのグラフは、左の図のようになります。2つの曲線になるので、双曲線といいます。 一般に、y=a/x で、0<a なら左の図、a<0 なら右の図になります。 http://mtf.z-abc.com/?eid=415437 反比例のグラフ | 中学から数学だいすき! 「見る」とは何か:凸iと・・・:nudeとnaked: ケネス・クラークの識別 テーマ:art & design いったい、「見る」とは何なのか。直観では、経験性と超越論性が併存していると思う。 しかし、本質は超越論性ではないのか。つまり、凸iの純粋自我である。あるいは、超越論的感覚(視覚)である。 また、直観では、聴覚は凸iというよりも、凹iに関係する。これはおいておこう。 思うに、純粋視覚と経験視覚を区別すべきではないだろうか。美術とは当然、前者に関わるのであるが、現代、認識が混乱してそれが、わからなくなっていると考えられる。 ヌードとネイキッド(裸体)の区別がわからなくなっていることと同じ事態と考えられる。 ヌードは純粋視覚に関わると考えられる(例えば、古代ギリシア美術)。しかし、ネイキッド(裸体)はポルノと関わると言えよう。それは、物質的身体である。 性(sex)の問題も同様である。D. H. ロレンスが唱えた性とは、純粋視覚における純粋精神(凹i)であると思われる。(この点は検討したい。) そう、純粋視覚(凸i)とは古代ギリシアのアポロであり、純粋精神(凹i)とはディオニュソスではないだろうか。 絶対的純粋視覚において、絶対的純粋精神が生起するのであり、古代ギリシア人はそれは端的に把捉した民族ではなかったか。 今はここで留める。 追記:プラトンの黒い馬(欲望)と白い馬(精神)の区別であるが、これも、経験的自我と純粋自我の区別で説明できよう。 D. H. ロレンスは、前者から後者への転移を説いたと思われる。 母権的自我と父権的自我について再考 テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1) 後で検討したい。 ところで、PS理論であるが、私は先にNeo-PS理論を唱えたが、それまでのPS理論(後期PS理論)で十分対応できるので、一種のコンパクト化ということで、従来のPS理論、即ち、オイラーの公式を組み込んだガウス平面上の数学・哲学を継続したい。 cosθ+isinθとは実在的に何を意味するのか テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論 以下のKaisetsu氏の論考は興味深い。問題は、私の直観では、cosθ+isinθが実像として浮ばないのである。私の想像力不足かもしれないが。 とまれ、一言述べてみよう。 わかりやすく、θ=π/3(60度)としよう。そして、 P=cosθ+isinθとする。 すると、 P=1/2 +i(ルート3)/2 である。実軸1/2と虚軸(ルート3)/2である。 このPとは実在的に何を意味するのか。私説では、純粋自我(凸i)の要素が(ルート3)/2あるのであり、物質の要素が1/2あるということになる。 これは何なのか。思うに、これは、自我の様態の一つではないのか、ということである。 ここで明確に区別すると、凸iは自我ではなく、先に、原自我と呼んだものであるが、改めて、純粋自我と呼びたい。 そして、θがゼロのとき、P=凸(+1)となり、絶対的物質的自我になるということだろうか。しかし、そのとき、純粋自我はi(ゼロ)=ゼロになっている。 そうならば、無思考ということになる。(ひょっとすると、現代日本人の精神様態はこれかもしれない。)言い換えると、唯物論である。 そして、θがπ/2のとき、純粋自我状態になり、絶対的自我はゼロである。思うに、これは、同時に、θ=3π/2の位置を対蹠点としてもつのではないだろうか。端的に、凹iである。 そう、だから、P=cosθ+isinθは、他者として、対極点のQ=cos(θ+π)+isin(θ+π)を具備すると思えるのである。 これが、双極子と考えられる。 今はここで留める。 【プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係とフェルミ粒子、及び双極構造への助走(鏡像関係) 海舌 SeaTongue@Kaisetsu http://googleads.g.doubleclick.net/aclk?sa=l&ai=BTWUy305fT_GZB4KLkgXw_fBii6bupAK78c2FHMCNtwGAy9EwEAEYASDeppQKOABQxPTzy_r_____AWCJ68eE-BOgAfHLjP0DsgEJYW1lYmxvLmpwyAEB2gE2aHR0cDovL2FtZWJsby5qcC9uZW9tYW5pY2hhZWlzbS9lbnRyeS0xMTE5MDI1MzU3NC5odG1sgAIBqQK9oEDYSAVKPqgDAegDxQjoA64B6AOfBPUDCAAAxPUDAAAAEA&num=1&sig=AOD64_2N_xYb32xYqWnFvLrUrS0x2EA4Xw&client=ca-cyberagent-ameblo_js&adurl=http://www.k2.dion.ne.jp/%7Etsugawa/ モダン・アート(セザンヌ、ピカソ)とKaisetsu氏の【プランク単位系表示の人間認識図】 テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論 いろいろ述べたいことがあるが、一点に絞って簡単に予備考察を述べたい。 私の発想は、ピカソの絵画の切断的進展についてである。青の時代は確かに、繊細で、憂愁・悲哀があり、デッサンがきれいである。 実は知人からピカソの実人生での女性問題が赦せないほど杜撰であったことを聞かされたのでである。ピカソの女性問題は一般的に知られているが、それ以上のものがあり、知人は赦しがたいというものであった。 とまれ、今は道徳・倫理問題には触れないでおく。 私は想起したのは、果たして、ピカソの絵画は具象から抽象への転移において、不連続的進展があったのか否かである。ピカソのデッサン力は正に天才的であるが、キュービスム等のデフォルメの時期において、その古典的美学が継続したのか否かということである。 最初、具象的美学が抽象的美学にも継続していると私は考えたが、果たして、連続性を見ていいいのか疑問に思ったのである。 私は生で、ピカソの『ゲルニカ』を見て、魅了された。それは、音楽的であった。 その美学は青の時代と共通するのかである。 これは難しい問題である。今の直観では、共通するものと、不連続のものがあるように思えるのである。 調和という点では共通だと思う。 しかし、質がなにか異なるように思う。 キュービスム以降は、連続的同一性を破壊した「フォルム」による絵画をピカソは描いたでのである。 つまり、現象の否定である。ここがポイントである。否定された現象による「フォルム」による絵画、それが、キュービスム以降のピカソの絵画である。 思うに、イデア的美学にピカソ(あるいは、モダン・アート)は近づいたのではないだろうか。 イデアとしての「デフォルメ」である。その美学をピカソは表現したのではないのか。 端的に言えば、差異共振美学がピカソの根源にあり、それが、連続的な青の時代の絵画を形成した。 しかるに、キュービスム以降、連続性を否定して、不連続的な差異共振の美学、「デフォルメ」の美学を追求したのではないのか。 どうも、そう思われるのである。 ここで、ピカソの不道徳性・没倫理性を考えると、世間的な連続的「道徳」・「倫理」をピカソは否定したということかもしれない。この問題はここで留める。 ただし、ピカソはイデア的絵画には完全には到達していないと思う。彼は直観的であったが、哲学・理論的ではなかったと思う。 思うに、これは、結局、モダニズムの問題である。イデア的根源と経験的執着の絶対的矛盾様態をもつモダニズムとして。 とまれ、今はここで留める。 追記:肝心なことを言うのを忘れていた。以上の問題とKaisetsu氏の指摘【プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.htmlとの関連である。 どうも、モダン・アートとKaisetsu氏のオイラーの公式的に説明された人間認識図は関係するように直観されるのである。これは、後で、検討したい。 参照: http://blog.goo.ne.jp/herbie600033/e/9642a096966ba2e0ee91dc914a40cbae http://img374.imageshack.us/img374/5968/guernica1937pradomadryt3bx.jpg es posted by (C)天花一海 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.html
2012年03月07日(Wed)▲ページの先頭へ
自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我
自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1) 自我の捉え方が、あいまいになっているので、ここで整理したい。 凸iは原自我であり、超越論的同一性認識(主に悟性、言語能力)をもつ。外的な志向をもつ。外的感覚(五感)をもつようになると考えられる。 凹iは内的他者、感情感性欲望である。これは内的志向をもっている。内面に関係する。 問題は、連続化である。 1)先ず、父権主義化以前の母権主義における連続化を見ると、原初差異共振と連続的同一性(自我)の形成がある。前者が精神的認識であり、後者が自我的同 一性的認識である。しかし、両者は連続的な関係となるだろう。言い換えると、未分化的な結合関係である。原初差異共振が弱化すると、凹iの感情・欲望が強 化されて、連続的同一性(自我)は同一性主義へと向うと考えられる。 2)父権主義化したときは、つまり、凸iが主導的になったときは、凹iが否定される。凸iの悟性文化、文字言語文化が創造される。いわゆる、文明が生起する。 問題は凸i主導性と自我の関係である。凸i主導の自我が生起すると考えられる。これは、母権主義における自我とは様態が異なると考えられる。何故なら、 母権主義においては、凹iと凸iとの連続性が強いからであるのに対して、父権主義では、凸i主導で、凹iを否定する方向で作用するからである。(もっと も、古代ギリシア文化のように、基底の母権主義に対して、上層の父権主義がいわば、融合する形をとり、初めて差異共振文化が生まれたと考えられる。) 1と2から、二つの自我、母権的自我と父権的自我が存することがわかった。 先に自我方程式は凸i・凹i=+1としたが、こうすると、二つの自我の区別できないことになる。 二つの自我の様態について、その力学の細部を検討したい。 自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)であるが、このときは、凸iが自身を凹iに反射させて、凹iを同一性化すると考えたのである。このとき、凸iが主導的であり、凹iは受動的であり、凸iの同一性化を受けているのである。 この凸i主導は父権的自我を形成すると考えられる。つまり、凸iが支配的であり、凹i(差異、他者)が否定されるのである。 では、それに対して、母権的自我とはどういう様態なのだろうか。 母権的自我とは言え、人間は外界の認識のために、なんらかの連続的自我を形成する。それは、凸i主導の自我である。だから、これは、原父権的自我と言うことができよう。 しかし、母権的自我の場合、凹iの主導性があるのであるから、単純な原父権的自我ではない。 凹iの「感性」(ここには、精神、感情、欲望が入る)が作用した自我である。 だから母権的連続的自我とは原父権的自我が凹i主導性を帯びているということになる。 これは一種の分裂した自我である。父権的同一性はあるものの、それに対する母権的主導性が根強く作用しているのである。一言で言えば、感情作用が強いのである。 故に、凸iの形成する同一性であるが、それは、感情負荷が強いのである。 これが先に述べた同一性主義、同一性中心主義の基盤と考えられるのである。 それに対して、父権的同一性は二項対立的な同一性であり、超越論的である。 簡単にまとめると、父権的自我は自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸i主導で凹iを同一性化する力学において生起する凸i+1の自我である。 それに対して、母権的自我は連続的自我=原父権的自我(凸i+1)に対して、凹i主導の「感性」の負荷強度が高い自我であり、両者の両面性、二面性、二重性のある、分裂的な自我ということになる。 西洋人の自我は一般に前者であり、日本人の自我は後者であると言えよう。 (自我から自己・個への変容力学については既述してあるが、後で簡単に述べる。) 日本人が建前と本音を使い分けるのは、母権的自我で説明ができると言えよう。即ち、世間的には凸i+1の同一性自己を言うが、本心は凹i+1(物質的欲望)に存するのである。 また、これは凸iのもつ悟性を否定するので、思考の一貫性が欠落することになるのである。没論理的な日本人。 とは言え、果たして、日本人の自我を母権的自我としてだけ捉えいいのだろうか。 ある種の父権主義があるのはわかるだろう。それは、母権的自我をベースにした同一性主義による父権主義である。これは、感情色が強いので、独善的な父権 主義である。つまり、同一性知性=悟性に基づくのではなく、同一性主義、同一性中心主義の独善に基づくのである。これが、日本の上層部に支配的であり、正 確な真理を認識することなく、同一性主義の疑似父権的自我の思い込みが主導するのである。狂信、盲信、妄想等に陥りやすいのである。 さて、最後に母権的自我から自己・個へと変容するための方向性を書いてみよう。 この点では、近代科学や現代科学を学習することはいいことである。それは、父権的自我に拠るものだから、凸iが独立するのである。 さらには、哲学や数学を学ぶのがより重要である。なぜなら、哲学は凸iを介して、凹i主導のカオスに凸iの知のコントロールをもたらすと考えられるからである。 数学は凸iの超越論的知性が思考をいわば、純粋知性へと変換させて、凹iのカオスを秩序化するように思えるのである。 また、すぐれた芸術を通して、凹iが潜在する精神性へと向うことも必要である。もっとも、宗教・神話に触れることも重要である。 とまれ、一言で言うならば、凸iの知性の強化が必要である。ただし、哲学、数学的知性ももつ必要がある。 最後に一言言うと、また、直観力を形成することが必要である。 これは、凸i☯凹i⇒凹(−1)の差異共振から生まれるものと考えられる。人間認識図では第三象限に存する。 追記:直観は原初差異共振能力に潜んでいる。これは、賦活させる必要があるのである。凹i☯凸i⇒凹(−1)である。 母権的自我の凹iは凸i+1と癒着していて、原初差異共振性、凹iと凸iとの共振性を退化させているのである。 先に述べたように、凸i指導によって、凹iを独自に認識する必要がある。他者としての凹iを認識する必要があるのである。これはまったき他者である。肚である。また、コスモスである。ミクロコスモスである。新たな差異共振の開化(開花)である。 参考:人間認識図 ガウス平面で表した人間認識の図 original concept picture of kaisetsu (海舌が考えた人間認識世界の概念図) http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208 PS理論の根本的修正へ向けて テーマ:manichaeism: 哲学 私のこれまでのPS理論的ジェンダー且つ自己論的文化論は単純過ぎたようだ。 先に、第四の軸、α軸(超越軸)を想定したが、ここでは、便宜的に後期PS理論(オイラーの公式を組み込んだガウス平面を基盤とする差異/同一性理論)を使用する。 重大の問題の一つは、「自我」である。 これまで、凸i+1と捉えたが、これは単純過ぎるのである。 また、「自我」と同一性の問題がある。 いわゆる自我は凹iが基盤となり、連続化による同一性主義に拠って形成されると考えられる。 問題は、連続性である。凹iと凸iが連続化されて、同一性化された自己、即ち、自我が生まれるのである。 だから、自我と同一性は一致する。しかしながら、凸iや凹iが自我というわけではない。 凹i・凸i=+1が自我、同一性自己である。 問題は、凹i・凸iの連続体の切断、不連続化である。不連続的差異論は、連続性である「・」を切断したのである。 その結果、凹i✕凸i⇒凸(+1)となったのである。(✕を不連続化の記号とする。) この時、自我・同一性は解体するのである。だから、凹i✕凸i⇒凹(−1)である。凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(−1)である。これは、イデア化であろう。 とまれ、ここでは、凸iと凹iとの共振が最重要であり、それが、自己ないし個を形成すると言えよう。 これは、思うに、常時変動している様態をもつのである。変動自己・個、揺動自己・個である。 ここでは、凸iの知と凹iの感性の両方が重要であり、両者を陶冶的に発展させる必要があると考えられる。 もっとも、ここで、どうして連続性の切断、不連続化が生じ得るのか考えるべきである。 ここに真の教養の働きがあるように思える。あるいは、真の芸術の作用である。とりわけ、言語芸術や哲学である。 教養は、個的精神的活動を意味する。それは、凹i*凸iの連続的同一性体を解体し、質的に変容させると考えられる。即ち、なんらかの凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(−1)の作用をもたらすと思われるのである。(現代日本の劣化、退化は教養的喪失に拠ると言えよう。) ここで、シュタイナーが自我(「わたし」ich)を強調した理由を考えてみよう。 思うに、彼の自我は上述の同一性・自我ではなく、凹i*凸iないし凸i*凹iの様態に存すると思われる。 つまり、差異としての自我、個としての自我である。それは、同一性の自我ではない。 結局、連続化した自我と不連続の自我との混淆・混合・混在が一般的な自我の様態と考えられる。 不連続的差異論はこの混淆性を解体して、不連続の自我をもたらしたのである。 とまれ、今日の知的問題は、不連続の自我の形成にある。それが欠落しているために、同一性主義に陥っているのである。それは、利己主義であり、唯物論であり、全体主義である。 最後にカント哲学に触れると、超越論性とは、端的に、不連続的自我の精神に存するだろう。凸i*凹iである。 今はここで留める。 追記:先に、第四の軸を想定したが、第三軸z軸において、差異共振を考えると、それは、凹(−1)でいいのではないだろうか。つまり、第四の軸α軸は必要ないのではないだろうか。 追記2:肝心なことを書くのを忘れた。 つまり、先に述べたことに関係するが、母権主義凹i主導が同一性主義を生んだことに対して、父権主義凸i主導のもつ凸iの重要性である。 つまり、母権主義の文脈における父権主義の意義である。凸iによって、凹i主導が解体されて、凸iと凹iの差異共振が可能になるのである。 しかし、今日、ベースの凹iが劣化して、凸iが中心化し、支配的になっているのであり、母権主義の文脈が弱化していると言えよう。 だから、凸iの指導下で、凹iを新たに開拓する必要があるのである。つまり、頭凸iをもって、肚凹iを開発することである。そして、胸media pointを賦活させるのである。 追記3:母権的同一性主義の視点から、D. H. ロレンスの王冠哲学=聖霊論を考え直すことでできる。 獅子=「父」=闇であるが、それは、実は凸i主導である。そして、一角獣=「子」=光は凹i主導である。 両者の相克は、連続性におけるそれと見るべきである。そして、王冠=「聖霊」はそれを超克した様態である。それは、凸i☯凹i⇒凹(−1)である。 とまれ、一角獣=「子」=光を凹iと見ることで、ロレンスのキリスト教批判が意味が解明できる。 ロレンスは一角獣=「子」=光=凹iが連続性において、同一性主義となるのを見たのである。その帰結が機械文明なのである。それをロレンスは非自己と見 たのである。何故、非自己であるかと言えば、凹iは他者であるからである。自己ないし自我は凸iに存するのであるからである。 このような意味でロレンスの近代西欧文化、キリスト教的精神、機械文明批判は正しい。 また、獅子=「父」=闇=凸iであるが、それをロレンスは重要視したが、何故なら、それこそ、差異に通じるからである。 ただし、ロレンスは、凸iが凹iに通じることを直観していたが、連続性に囚われていたので、凸i優位と凹i劣位の二項対立に陥ってしまったのである。 しかしながら、晩年において、(新)差異共振化、凸i☯凹i⇒凹(−1)に到達したのである。 「聖霊」の力学 テーマ:manichaeism: 哲学 フィオーレのヨアキムの宗教哲学に似たD. H. ロレンスの王冠哲学をPS理論から見ると、「聖霊」はz軸に相当するように思えるのである。 「父」は凹iをベースにした凸iであり、「子」は凹iであると考えると、「聖霊」は両者の統合であるmedia pointであるが、それは、ガウス平面から屹立したz軸を意味するように思えるのである。 つまり、z軸は聖霊軸であるということになるのである。 今は指摘で留める。 追記:先に述べたように、私のこれまでの「ジェンダー」的文化論は練り直す必要がある。 母権は凹iが中心であるが、連続化によって、同一性中心主義となる(唯物論は母権主義から生まれたと考えられる)。しかし、父権は凸iが中心であり、凹iを排除する。これは悟性主義となる。超越論的同一性主義である。 文明、父権文明は凸i主導に拠るのである。帰結が西洋文明である。凹iを排除してきたのである。 だから、ポスト父権文明は新たな凹iと凸iとの共振文明である。つまり、「聖霊」文明である。 ここで、「聖霊」について、さらに考えると、それは、Neo-PS理論に拠ると、思うに、第四の軸に属するのではないだろうか。 後期PS理論では第三の軸、z軸となるが、Neo-PS理論では、第四の軸、α軸(仮称)になるのではないだろうか。そう、第四次元である。これが真の超越軸、ないし、超越論軸ではないだろうか。 これは内的時間軸とも言えるのではないだろうか。 とまれ、聖霊軸、霊軸、超越軸、精神軸、等である。それは、凸kと凹kの軸である。思うに、凹k☯凸k⇒凹(−1)であるが、media point mixによって、凸k*凹k⇒凸j, or 凸iとなるのではないだろうか。
2012年03月02日(Fri)▲ページの先頭へ
男性が女性を見ると?!?!、女性が男性を見ると!?!?:男性は凸i優位、女性は凹i優位
男性が女性を見ると?!?!、女性が男性を見ると!?!?:男性は凸i優位、女性は凹i優位
テーマ:media point 男性は女性の言動を見ると、不合理、異常、病的に思うことがあるが、女性が男性を見ると、馬鹿と思うのではないだろうか。 結局、昔から言われていることは間違ってはいない。 女性は凹iの感性感情欲望が優位なのであり、男性は凸iの原自我、同一性志向が優位であると考えれば、簡単に解明・解決できる。(尚、本稿では、後期PS理論に基づいている。Neo-PS理論の場合は三次元になるが、後期PS理論はガウス平面が知的インフラである。) だから、女性はその意味で不合理の塊と言えようし、男性は直観力の乏しい愚物である。 凸iと凹iは互いに絶対的差異であり、絶対的矛盾である。これは、そのままでは、コミュニケーションは不可能である。 しかしながら、PS理論はこれを差異共振、media pointによって簡単に解決するのである。 そう、母権と父権の相克していたD. H. ロレンスは、晩年の『逃げた雄鶏(死んだ男)』で、この矛盾をPS理論を先取りするように解決したのである。 女性は知性や理性の存在ではなく、感性、感情、直観の存在であり、男性は同一性的知性の存在である。共役不可能(通約不可能性 - Wikipedia )な存在であるが、PS理論がこの問題を解決・解明したのである。 追記:上述のことは実はそれほど重要なことではない。ある意味で陳腐な真理である。 実はそこからの発展が実に重大なのである。 即ち、私が先に自我について問題にしたが、実は同一性主義の根因は凸iではなく、凹iではないかと思われるのである。つまり、単に凸iが優位ならば、それは、悟性を意味するので、同一性を志向しても、同一性主義、同一性中心主義にはならないと考えられる。 凹i優位があるために、それが同一性に感情固着をもたらして、同一性主義、同一性中心主義になると思われるのである。 つまり、連続性が生起する時、精神的フィルターによって、同一性化が生じるが、そのとき、凸iに凹iが連続化、接着化して、凹iのもつ感情性が同一性に加わり、同一性主義、同一性中心主義になると考えられる。 ここで、飛躍して言うと、日本文化は母権主義と父権主義の結合から生まれたとこれまで述べてきたが、思うに、前者は凹i主義で、後者は凸i主義である。両者のバランスが優れた日本文化を生んできたと考えられる。そう、古代ギリシア的である。 そして、これまで、明治維新以降の近代日本、現代日本は、父権主義に傾斜してしまい、母権主義を喪失したと述べたが、本稿の視点からするとそれは、間違いである。 明治維新は一見父権主義的だが、本稿の視点から見ると、実は、ベースの凹iが強く作用して、同一性主義、同一性中心主義を生んだと考えなくてはならない。 つまり、明治維新は母権主義的なのである。これまでの考えと真逆である。 実は父権、凸iが足りないのである。そのために、凹iに支配された同一性主義が近代日本、現代日本に支配的になったのである。これで日本人の没思考性、没個性等が説明できる。 この視点をさらに敷延すると、一神教の謎も解明できる。実はルドルフ・シュタイナーがヤハウェは「キリスト」がいわば、陰化したものであると述べている を以前から不思議な考えと思っていたのであるが、本稿の凹i支配の同一性主義の視点からすると、ヤハウェの基盤は凹iに存するのであり、それが、連続化に よって、同一性主義、同一性中心主義になったと考えられるのである。 つまり、ヤハウェの本性は光(陽、凸i)ではなく、闇(陰、凹i)なのである。それが、凸iと連続化して、同一性的神、唯一神を産んだと考えられるのである。 つまり、ヤハウェは母権的なのである。女性的なのである。「我は嫉妬深い神である。」「復讐するは吾にあり。」 そして、イエス・キリストとはその連続的同一性を切断する不連続性の神であると考えられる。 つまり、凹iと凸iの癒着を断ち切ったと考えられるのである。 それは実際どういうことなのだろうか。連続的同一性の自我感情を否定して、他者への共感を説いたのである。そう、他者主義を説いたのである。 この場合、凹i−1を説いたと考えられる。第三象限である。 核心は思うに凸iによる認識を介して、他者凹iの発見することである。それまで、凹iは同一性化されて、他者ではなく、自我化されていたと考えられる。 これは、正に、差異共振、精神的差異共振、自己差異共振である。 だから、その意味では、PS理論の先駆者はイエス・キリストであると言うことが可能である。 とまれ、重要なポイントはヤハウェ(「父」)は、凹iに存するであるが、キリスト(「子」)は、人間的差異共振原理を覚醒させたと言えよう。それは、media pointの新生である。 つまり、ヤハウェは凹iに基づく、同一性原理をもたらした。それに対して、キリストは凹i☯凸i⇒凹(−1)の差異共振原理をもたらしたということになる。ヤハウェの同一性、連続性原理に対して、キリストは差異・他者原理をもたらしたということになる。 ヤハウェが母権原理ならば、キリストは父権原理を強化して、母権原理の差異・他者性の発見を説いたと思われるのである。言い換えると、父権と母権の均衡を説いたのである。だから、その意味で、キリストとは古代ギリシアの延長であると言えよう。 とまれ、今はここで留める。 追記:「聖霊」について述べていなかったが、それはどう定式化されるだろうか。 キリストが他者原理凹i⇒凹(−1)ないし凹i−1を説いたとすれば、「聖霊」は既述したように、やはり、media pointである。そう、media pointの新生的覚醒である。 Neo-PS理論で言えば、3D media pointの開花である。このとき、精神と自然と人間が融合し調和するのである。 自我(凸又は+1)の他者排除性と人間認識図 テーマ:media point 本件は検討問題ということにしておく。 一つは自我の他者排除主義について、再考したい。これは、自我、自己同一性によって簡単に説明できるが、一体、自我に拠る他者排除の意味を考えたいのである。 もう一つは、人間認識図において、自我的様態をどう位置付けることができるのかという問題である。 生成門氏のa+biの考え方に、先に疑問符を付けたが、今の感じでは、π/2回転やπ回転以外にも、自我的様態がありえそうである。 とまれ、自我は、凸i⇒凸(+1)である。凸iが原自我であり、凸(+1)が自我である。(尚、今の段階では、Neo-PS理論ではなく、ガウス平面を基盤としたPS理論を使用するが自我は凸又は+1とする。) とまれ、凸i⇒凸(+1)はもっともタイトな自我様態である。(これを1で問題にすることになるのである。) 実際は緩い自我が一般的である。心的緩さとは、つまり、media pointないし凹iが意識的にしろ、無意識的にしろ、活動しているということである。 つまり、凸iの強度と凹iの強度が併存しているのであるが、一般的には凸iが主導的である。 だから、自我一般方程式はa凸i*b凹i⇒Ego Modeとなるのではないだろうか。つまり、二つの虚数、凸iと凹iが、自我的様態を数式化するとき必要なのである。(先には、精神は双極子であると述べたが、それは、二つ虚数が必要ということと同じ事柄である。) そのように定式化したとき、問題は、オイラーの公式との関係である。 これは難しい問題だと思う。例えば、 a凸i⇒cosθ+i・sinθ となるように、aを工夫する必要があるだろう。端的に計算すれば、 a=(cosθ+i・sinθ)/凸i=cosθ/凸i+sinθ/凸 =cosθ/凸i+sinθ となるのではないだろうか。この妥当性は今は問わないでおく。 次に、b凹iであるが、これは、 b凹i⇒cosθ−i・sinθ と見ていいだろうか。これだとb凹iは共役複素数になる。それでいいのだろうか。 私の先の直観では、凹iは凸iを反時計回りに、π/2回転させたものであるから、b凹iもなんらか、π/2回転と関係しそうなのである。 だから、仮定として、b凹iはa凸iを反時計回りにπ/2回転した位置にあるとする。 そうすると、 b凹i⇒cos(θ+π/2)+i・sin(θ+π/2) ということになる。 共役複素数がいいのか、それともπ/2回転した双極子と見た方がいいのか、それとも、別の考え(不明)がいいのだろうか。 今は問題提起だけに留める。 美と自我:美術的美の自我的傾斜 テーマ:art & design この問題は以前からの課題である。 美的感覚には、道徳心が欠落するような感じがするのであるが、それを定見にはしていない。 もっとも、私の美的認識では、美と倫理は離れていない。この齟齬をどう考えるべきか。 思うに、美的認識は差異共振認識であり、それは基本的には誰にでも内在している。 しかし、美術的美の場合、とりわけ、凸jの志向が強いと考えられる。つまり、精神的自我の光が強いということである。 そう、このために、精神的差異共振主義を欠くので、道徳心・倫理が欠落する傾向にあるということと考えられる。 追記:しかしながら、感動を与える美術は、やはり、根本的に、差異共振主義が存すると考えられる。つまり、音楽的調和性である。 すぐれた美術は音楽性がある。これは例証するまでもない。 個的自己(造語で個己、個自、あるいは個自己)とは何か テーマ:manichaeism: 哲学 私は個とは他者凹jであると述べてきた。個=他者とはどういうことなのだろうか。つまり、「わたし」は「わたし」であるという個の視点から見て、これは齟齬する思考である。 思うに、人間は自我(原自我凸j)に傾斜している存在である(今日において)。 だから、他者凹jをそれとして認知するとき、凹j☯凸j⇒凹(−1)の精神事象が生起するのである。(シュタイナー的に言えば、「キリスト」である。) しかし、それは、同時に、凸j☯凹j⇒凹(−1)ということである。これが、一般の自然界にはあり得ない事象である。 結局、原自我でありつつ、他者であるという即非的事象がここにある。それが、個的自己の事象であると思われる。 つまり、個=他者とは、ベースに原自我が存しているのである。確かに、自我【凸(+1)】ではないが、原自我は存するのである。それが、知性の基盤である。 今はここで留める。 追記:原自我凸jとはウパニシャッド哲学のアートマン(大我)であろう。 「イデア」ないしエイドスとは何か テーマ:manichaeism: 哲学 「イデア」は原像として捉えた方がいいのではないだろうか。理念や観念ではなく。 今は一言言及するのみだが、差異共振のもつ原イメージがそれではないだろうか。即ち、 凹i☯凸i⇒凸(+1) の氣的自然形成ならば、左辺に「イデア」(エイドス)が存するように思う。また、 凹j☯凸j⇒凸(+1) の精神的差異共振においても、左辺に存すると思う。この場合は、「霊魂」、「魂」、「個」性のように思える。
2012年02月28日(Tue)▲ページの先頭へ
回転(スピン)の問題:精神子(凹j∞凸j⇒)と氣子(凹i∞凸i⇒)の問題:注意:今回も∞は陰陽記号の代替である
回転(スピン)の問題:精神子(凹j☯凸j⇒)と氣子(凹i☯凸i⇒)の問題
テーマ:Neo-PS理論 精神子ないし氣子の回転(オイラーの公式に規定されたガウス平面における)は、連続的ではなく、不連続的、端的に言えば、(1/2)nπ回転ないし、(nπ+1/2π)回転ではないだろうか。簡単に言えば、90度回転ではないのかということである。 オイラーの公式のsinθ±icosθは、理論的には当然存するものであるが、果たして、精神子(精神的双極子)と氣子(自然的双極子)において、それ以外の回転をもつのか疑問に思っている。 確かに、理論的にa+biは考えられるのであるが。 参照: • 【人間認識図】 クリーネの3値論理とNull + 真偽(意義、意味)の反転 • Adele – Rolling In The Deepを人間認識図の観点から詳細分析してみる。 • 【人間認識図】 実軸に波動関数の存在確率「密度」を導入するので、精神濃度と共に精神「密度」の概念も用いる。 • 波動関数の「存在確率の計算」の辺りのメソッドを真円人間認識図の実軸分析に応用してみる。 【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図 【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図 実は、真円の人間認識図の提示と同時に、楕円形の双極系人間認識図も発案していたのであるが、楕円は真円と比較して格段に複雑になり、さらに、双極間の 相互作用など、込み入った説明が不可避であり、その上、真円の人間認識図だけでも非常に難解な解明作業が必要であると判断して、紹介を保留してきた。 今回、本日の日付で公開する。 d posted by (C)天花一海 双極作用による相互影響の結果、直観的には、陰陽図のような「光」と「闇」の分化・分領域化が起きると想定して、その図解も挿入した。真円の時のように、直線的な領域分化にならずに、曲線的な領域分化、media point line になるだろうという想定である。 但し、真円の人間認識図も、未だ、未解明な部分が多くあり、楕円双極になると、より高度な分析を必要とするので、今の所、真円の人間認識の解明に重点を置きたい。 但し、必要に応じて楕円の研究も進める。本来、人間認識は双極構造であろうと思われる。 海舌 http://blog.kaisetsu.org/?eid=813449 • 【人間認識図】 双極・楕円構造の人間認識図 海舌 SeaTongue@Kaisetsu 参考: スピン角運動量 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: 案内 , 検索 スピン角運動量(スピンかくうんどうりょう、spin angular momentum)は、電子 やクォーク などの素粒子 、およびそれらから構成されるハドロン や原子核 や原子 などの複合粒子が持つ角運動量 で、量子力学 的な自由度の 1 つである。単にスピンと呼ばれることもある。スピン角運動量は、軌道角運動量 とともに、粒子の全角運動量に寄与する。 基本変数を「粒子の位置 と運動量 」とする量子論 ではスピンを記述することができないため、粒子が持つ「内部自由度(固有角運動量、内部角運動量とも呼ぶ)」としてスピンを基本変数に付け加える。この「位置と運動量とスピンなどの足りないもの」を基本変数とする量子論が「量子力学 」である。基本変数を「場 とその時間微分または共役運動量」に選ぶ量子論、つまり「場の量子論 」では電子は粒子ではなく「電子場」として記述され、電子場は電磁場の「偏光 」(電磁場の向きが右回りに回転するか左回りに回転するか)に似た属性を持つ。これがスピンであり、場の自転 のようなものなので、角運動量を伴う。その角運動量ベクトルで、スピンの向きと大きさを表す。このスピンの例でわかるように、古典的に場であったもの(電磁場 など)だけでなく、電子のような古典的には粒子とみなされてきた物理系であっても、場を基本変数にしたほうが良く、適用範囲も広いことが判っている。[1] スピン角運動量演算子 [編集 ] スピン角運動量は、3 つのエルミート演算子 sx, sy, sz で表される物理量である。これらの演算子の間には、軌道角運動量 と同様の交換関係 が成り立つ。 ここで、 であり、h はプランク定数 である。ただし軌道角運動量 と異なり、空間座標とその共役運動量との外積 として表される必要はなく、したがってその大きさは を単位として整数値のみでなく半整数値をもとりうる。 スピン角運動量の大きさの二乗を s2 = sx2 + sy2 + sz2 と定義すると、これは各成分 sx, sy, sz のいずれとも交換する。一方各成分同士は交換しないので、s2 と各成分 sx, sy, sz のうちいずれか一つとを同時に対角化できる。多くの場合同時対角化する成分を sz とする。s2 の固有値 は 、sz の固有値は (ms = - s, - (s - 1), ..., s - 1, s) となる。ms をスピン磁気量子数という。s は、0 以上の整数 または半整数 の値をとる。素粒子の場合、s は素粒子の種類ごとに定まった値をもつ。 スピン 1/2 [編集 ] s = 1/2 の場合を考える。このとき、s2 の固有値は であり、sz の固有値は の 2 つが存在することとなる。従って対応する固有状態も 2 つであり、それぞれ上向きスピン、下向きスピンと言うことが多い。 スピン角運動量の各成分 (sx, sy, sz) はパウリ行列 (σ = (σx, σy, σz)) を使って以下のように表される。 以上は、sz に関して対角となるようにしてある。 スピンと統計性 [編集 ] s が半整数の値をもつような粒子はフェルミ粒子 であり、s が整数値をとる粒子はボース粒子 であることが知られている。s の値と統計性の間のこのような関係は、相対論 的な場の量子論 によって説明できる。 脚注 [編集 ] 1. ^ 清水明 『新版 量子論の基礎―その本質のやさしい理解のために―』 サイエンス社 、2004年。ISBN 4-7819-1062-9 。 関連項目 [編集 ] • 角運動量 • 量子力学 「http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%B3%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F&oldid=41279740 」より作成 カテゴリ : • 量子力学 • 量子数 • 回転 3D media pointの混融性:3D media point complex テーマ:media point 今は一言言うだけだが、三次元のmedia point(3D media point)の意義は計り知れない。 凸j*凹j⇒凸(+1)であるが、実は、3D media point(z軸とy軸とx軸が交差する原点)では、凸j*凹j⇒凸iというような混合的融合が生じていると思われるのである。 また、易であるが、その2^6=64の卦であるが、それも、 3D media pointを考えると納得できるように思う。 つまり、凸j*凸i*凸*凹j*凹i*凹が3D media pointで生じ、それぞれの要素は凸凹(±)の転換が可能であると考えられるのである。詳細は後で検討したい。 また、英語では9という数字が一種の完全数であるが、それも、易の上部の3項と下部の3項の積であるように思える。 今は直観的指摘(思いつき)のみである。 光とは何か:自然の光と精神の光と物質の光:三種類の光? テーマ:Neo-PS理論 Neo-PS理論から、改めて、光とは何か検討する必要がある。 自然の光は氣的差異共振エネルギーの発光現象のように思えるが、精神の光(マニ教の光)は、原初差異共振では、凹j☯凸j⇒凹(−1)の⇒と考えられる。 しかし、新しい差異共振は凸j☯凹j⇒凹(−1)ということになる。つまり、凸jの支配の下、凹jが不連続化して、差異共振するということである。 私がこれまで述べてきた超越光とはこの新しい差異共振光のことのように思える。 しかしながら、それは、氣の光を帯びているのである。この氣の光と精神の光の融合が、新しい差異共振光には生じると思う。 そう、正確に言うと、自然の光は微妙である。それは、氣の光でもある。しかしながら、凸jの同一性支配によって、それは、同一性化される。物質的光になると思われる。 だから、三つの光があるように思われる。一つは自然の光、一つは精神の光(超越光)、一つは物質の光である。 現象光という場合、自然の光と物質の光が混淆しているように思える。 ところで、D. H. ロレンスのdark sunとdark Godであるが、これまで、ほぼ同一視していたが、前者は自然の光、氣の光であり、後者は精神の光ではないのだろうか。 以上は問題提起であり、後で検討したい。
2012年02月27日(Mon)▲ページの先頭へ
Neo-PS理論の言語発生論:凸j同一性力学に拠る母と自然の内外的イメージ支配的四元的言語論
テーマ:language
先に、初期PS理論(PPS理論)を用いて展開した以下の言語発生論をNeo-PS理論(原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11175759478.html)によって、説明し直す必要がある。 言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11171075010.html しかし、これは簡単に移行できる。 即ち、凸i支配を凸j支配にすればいいのである。そして、母権的イメージ音声言語であるが、それは、原初差異共振、凹j☯凸j⇒凹(−1)で説明できる。その後の文字言語は同様に説明できる。 表音文字言語は、だから、凸j同一性力学支配に拠るものであり、それは、凸j*凹i⇒凸(+1)の自我様態と結びつくのである。 そして、表音文字言語-自我(自己同一性、父権的自己)は、3D-media pointにおいて、氣の差異共振(自然的差異共振)、凹i☯凸i⇒凹(−1)における凹iと同一性力学(父権的人間主義)における凹jに、その表音文字言語を刻印するように思われる。 この点は先のもののようには簡単に考えられないのである。 精緻に言うと、凹j☯凸j⇒凹(−1)の原初差異共振(今気づいたが、新しい差異共振凸j☯凹j⇒凹(−1)であろう)を凸jによって同一性支配するのであるが、その原初差異共振とは、思うに、母との原初差異共振イメージであり、それに対して、凸jは同一性支配し、表音文字言語化するように思う。そう、原初において、凹jは母と考えられる。原初差異共振は内外的(内的且つ外的)に母のイメージに刻印すると考えられる。 それに対して、氣の差異共振(自然的差異共振)については、凸jの同一性支配は、凹i☯凸i⇒凹(−1)に刻印すると言えよう。即ち、氣的内外的(内的且つ外的)イメージに刻印すると思える。 結局、原初差異共振の場合は主に、母のイメージに内外的に刻印し、氣的差異共振主義(自然的差異共振主義)の場合は、氣の内外的イメージに刻印すると考えられる。 氣の内外的イメージとは、例えば、内的イメージは「元気」や生命感であろうし、外的イメージは端的に外的現象、外界のイメージと考えられる。 そうすると、3D-media pointにおいて、母と自然の内外的イメージに凸jの同一性支配の表音文字言語は刻印するということになる。つまり、四元性(四相性)になるのである。 そして、この視点によって、D. H. ロレンスの無意識論、四元的無意識論が解明できるように思うのである。 商品の詳細 Psychoanalysis and the Unconscious and Fantasia of the Unconscious D. H. Lawrence (ペーパーバック - 2006/1/4) 新品 : ¥ 1,172 Product Details Psychoanalysis and the Unconscious and Fantasia of the Unconscious by D. H. Lawrence (Paperback - Jan 2012) 2 used from £35.93
2012年02月26日(Sun)▲ページの先頭へ
新しい差異共振は凹i∞凸i⇒凹(−1)なのか凹j∞凸j⇒凹(−1)なのか:注意:陰陽記号がタイトル欄では出ないので、仮に∞を使用した
先に以下のように書いた。
原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11175759478.html ふと、ガウス平面で足りるのではないかと思ったので、少し検討したい。 問題は新しい差異共振の位置である。これまでのPS理論の考え方から言えば、新しい差異共振とは、凸i*凹i⇒凸(プラス1)の凸i支配の連続性から、不連続化された凹iが主導する凹i*凸i⇒凹(−1)に存するのである。 しかし、これは、私見では、氣の差異共振であり、精神の差異共振ではないのである。あるいは、両者が区別がつかないのである。 私説では、1.原初差異共振⇒2.同一性力学⇒3.新差異共振というように推移するのであるが、 1. 凹i☯凸i⇒凹(−1) 2. 凸i*凹i⇒凸(+1) 3. 凹i☯凸i⇒凹(−1) という方程式になる。 問題は2から3への推移である。あるいは、1から2への推移である。後者を考えると、氣から精神へと転化できるのかという問題である。 純粋に氣を考えると、凹i☯凸i⇒凹(−1)であり、凸i*凹i⇒凸(+1)はありえないのではないか。もし、それが可能ならば、氣が硬直化することになるのである。氣は常に変動しており、「陽」が「陰」を支配することはありえないのではないだろうか。言い換えると、常に差異共振様態としての氣と考えられるのである。 だから、1から2への転移は不可能と思われるのである。また、それは、2から3への転移の不可能性でもある。何故なら、それは、精神から氣への転換となるからである。 故に、先に作業仮説したように、精神軸としてのz軸を提起することは、問題解決の意味をもつと考えられるのである。 故にやはり、新しい差異共振は凹i*☯凸i⇒凹(−1)ではなく、凹j☯凸j⇒凹(−1)と現段階では考えられるのである。 整理すると、 1. 氣の差異共振方程式:凹i☯凸i⇒凹(−1) 2. 自己同一性力学方程式:凸j*凹j⇒凸(+1) 3. 新しい(自己)差異共振方程式:凹j☯凸j⇒(−1) となる。但し、凸i*凹i⇒凸(+1)は成立しないことになる。 最後に、ルドルフ・シュタイナーの精神学の四元的体との関連を言うと、自我は凸(+1)であり、エーテル体(生命体、氣)は、凹i☯凸i⇒であり、アストラル体(感情欲望体)は、凹jであり、物質体は凹(−1)ということになるように思える。そして、「悪魔」であるが、アーリマンは凸j優位、ルシファーは凹j優位、そして、「キリスト」は自己である凹j☯凸j⇒凹(−1)と考えられる。 原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図
これまで、原始差異共振と呼んだものを原初差異共振primary difference(co-difference?) resonanceと呼び直す。これは凹i主導のもので、まだ、凸i支配の同一性は形成されていない。虚軸上のmedia point(imaginary axis media point)での事象である。凹i優位(凹i superiority)があるのである。言い換えると、凸i劣位(凸i inferiority)があるのである。これはまた、原初母権文化的意識primary matriarchal culture senseということもできよう。
そして、連続性、凸i支配の力学が生起する。これは、人間固有の連続性支配である。凸i優位、凹i劣位の力学である。同一性力学の支配である。実軸上の media point(real axis media point)における連続性様態である。ここに、精神的フィルターがあるし、また、カント哲学の超越論的「精神」が存するだろう(後で再検討。純粋理性は原初差異共振と新差異共振の両方に関わるようだ。これも再検討)。 問題は原初差異共振、虚軸上のmedia pointの様態の方程式である。 後期PS理論において、凸i*凹凹i⇒凹(−1)とそれを方程式化したが、差異共振は凹凹iというような凹iの否定ではなく、あくまで、凹iの肯定でなくてはならないから、それは間違いと考えられる。 凸i*凹i⇒凸(+1)の*であると、凸i支配の力学と勘違いするので、原初差異共振を凹i☯凸iと表記する。この虚軸上のmedia pointの事象であるが、これはどういうベクトルを形成するのか。それとも、そのままなのか。 また、問題は、凹(−1)の意味である。果たして、それが、差異共振のベクトルの方向の終点でなければ何なのか。 今想起したのは、☯は積ではなく、商ではないのかということである。つまり、凹i÷凸iないし凸i÷凹iである。そうすると、当然、⇒凹(−1)になる。だから、凹i☯凸i⇒凹(−1)となる。(これは作業仮説である。) 以上のようにPS理論を再確認すると、初期PS理論ではなく、後期PS理論の妥当性、整合性が明らかになる。結局、差異共振と同一性との区別が凸i*凹 i⇒凸(+1)の場合、不明瞭であるので、疑問が生じたわけであるが、原初差異共振を凹i☯凸i⇒凹(−1)としたので、区別が判明となり、疑問が解消したのである。 そうすると、先に、差異共振を表記するのに、想定したz軸は不要となる。 そうすると、オイラーの公式と統合したガウス平面(仮称:Euler's formula integrated Gaussian plane:EGP)上の円において、左半円(虚軸を含めて)は光(マニ教の光)の様態であり、右半円は闇(無明)の様態となる。(凸iは陽、原光であり、凹iは陰、原闇と見るのがいいだろう。しかし、これは紛らわしい。後で用語を考えたい。) では、物質はどう表記されるだろうか。これまで、凸(+1)としてきた。思うに、自然現象は差異共振現象であり、それは、⇒凹(−1)を意味しよう。Vector Modeはこちらに生起しよう。 ならば、⇒凸(+1)は何か。これは、同一性ではないだろうか。凸iが超越論的同一性精神とするなら、その力学の結果の⇒凸(+1)は同一性でないのか。あるいは、自我(自己同一性)である。(今はそう作業仮説する。) ここで、氣を考えると、やはり、それは、差異共振様態と考えられるが、そうすると、精神、光と同一体になってしまうだろう。 先に述べたように、氣と精神を区別したいのである。すると、z軸が必要になるのである。 氣を凹i☯凸i⇒凹(−1)とすると、精神は凸j☯凹j⇒凹(−1)と考えられないだろうか。jはz軸という第二の虚軸の虚数記号とする。 そうすると、これまでの考え方を変更しないといけない。つまり、原初差異共振とは凹j☯凸j⇒凹(−1)であり、同一性力学は凸j*凹j⇒凸(+1)となる。そして、当然、凸iは氣の陽であり、凹iは氣の陰である。 だから、三重、三次元のmedia point(three-dimensional media point)において、精神と氣と原自我(凸j)の混合することになるように思われる。 しかし、そのように作業仮説したとき、問題は、氣が物質を生み出すこと(造化)はいいとしても、精神も物質を生むことになるが、それでいいのだろうか。 それは正しいと思う。精神様態によって身体、肉体は変化するのは当然である。ストレスを考えればいいのである。ということで、この点もクリアされた。 最後に、凸jの支配からの脱却である不連続化に拠る新しい差異共振についてであるが、それは、凹j☯凸j⇒凹(−1)と考えられる。そう、精神と氣と物質が一体となっているのである。 今はここで留める。 追記:人間認識図であるが、それは、人間・自然認識立体図となるだろう。 追記2:光や量子はどう記述されるのだろうか。凹i☯凸i⇒凹(−1)の⇒が光ではないだろうか。そう、マニ教の光は凹j*凸j⇒凹(−1)の⇒ではないだろうか。前者が現象光であり、後者が精神光(霊光)である。 しかしながら、3D media pointにおいて、それらは、融合しよう。 では、量子はどうなるのかと言えば、それは、光の⇒の振動数、波動の違いで説明できるかもしれない。思うに、ここで濃度概念を使用できるだろう。凹iの最高濃度(凸iが最大強度)の場合と凹iの最低濃度(凸iの最小強度)の場合の両極における中間値(極大の場合も含めて)をもつように思える。 追記3:そうすると、円ではなく、球ないし球面が人間・自然認識立体図の主要な空間となる。 不連続的差異論とPS理論を再検討する:自我と同一性と物質
不連続的差異論とPS理論を再検討する:自我と同一性と物質
テーマ:不連続的差異論とPS理論 不連続的差異論のポイントは、ある自己差異が他者を認知するとき、通常は他者を自己同一性化してしまい、他者の差異を無視することである。 自己差異A、他者差異Bとすると、AはBの認識に当たり、AをBに投影してしまうのであり、Bは否定されるのである。 この場合、Aは自我であり、また、自我同一性である。AによってBは否定されるのである。 しかし、不連続的差異とは、B自体を肯定することである。だから、AはBであり、同時に、Aである。いわゆる、即非様態である。 このとき、Aは自我ではなく、自己である。 そう、Aが自我となり、他者Bを自己同一性化するとき、それが、A*B⇒+1であろう。+1が自己同一性、自我となるだろう。 Aは原自己ないし原自我であり、+1が自我である。しかし、それは、また、自己同一性である。 例えば、Bを樹木としよう。Aは樹木を認識する。それは、自己同一性化であり、その+1はB=樹木である。だから、Bは物質ということではないだろう。Bは現象である。 では、物質とはどうなのか。 端的に言えば、ある数量化が必要である。他者Bを数量化ないし、抽象的数量化する必要がある。 だから、A自体に数量的認識、抽象的認識が必要である。 それは、先の言語についての検討からわかることは、凸iの分析的認識性に拠るということである。 つまり、A自体は、単に、感覚的に現象認識するだけでなく、現象を抽象的数量的に認識するということになる。 だから、自我と物質とは⇒+1として重なるようになるとは言えよう。 しかしながら、感覚的具体的同一性認識と抽象的数量的同一性認識は異なるのではないだろうか。 端的に言えば、感覚と数量の違いがあると思える。 感覚は具体性をもっているが、数量はあくまで、抽象性である。 そう、正に、具体的同一性と抽象的同一性の違いである。 だから、問題は、⇒+1としたとき、両者の違いが区別できないことである。 思うに、凸i*凹i⇒凸(+1)と凸*凹⇒凹(−1)があるのかもしれない。 これは作業仮説的であるが、前者が具体的同一性、後者を抽象的同一性と考えることができるかもしれない。 だから、感覚的現象は+1であり、抽象的現象である物質は−1となる。光は+1であり、闇は−1である。 では、そうしたとき、精神はどう記述できるのだろうか。つまり、差異共振精神、即非精神である。 それは、今の直観では、ガウス平面に直交する垂直軸(z軸)で表記されるように思われる。 同一性はx軸の+1と−1で表記され、差異共振、即非様態はz軸の凸jと凹jで表記されるのではないだろうか。 思うに、差異共振、即非様態であるが、凸iが主導的な場合は凸jに、凹iが主導的な場合は凹jになるのではないだろうか。 そう、つまり、差異共振、即非様態でも凸i主導と凹i主導がありえるように思えるのである。つまり、差異共振とは本来、凹i主導であるが、それが一端成立すると、凸i主導と凹i主導の両面があるように思えるのである。そう、差異共振の極性論理(即非論理)である。 今はここで留める。 差異1*差異2*差異3・・・差異nの連結 テーマ:media point 不連続的差異論からPS理論(ガウス平面的複素数精神理論)に移行したとき、本件の多重差異の連結の様態が見落とされるような印象をもった。 もっとも、media resonanceの概念でそれは説明できるように感じたが。 とは言え、少し、多重差異の問題を少し考えたい。直観では、これこそ、双極子としての多重差異の問題ではないだろうか。 cosθk+i*sinθkとcos(θ+π)k+i*sin(θ+π)kの双極子において、多重化が生じるのではないだろうか。 すなわち、 {cosθ1+i*sinθ1, cos(θ1+π)+i*sin(θ1 +π}*{cosθ2+i*sinθ2, con(θ2+π)+i*sin(θ2+π}* ・・・・・{cosθn+i*sinθn, cos(θn+π)+i*sin(θn+π} となるのではないだろうか。 どうも、これが有機体や生命体を形成する要素ではないだろうか。 今は提起だけである。 初期PS(PPS)理論から見た人間認識図の様態 テーマ:media point 今は簡単に記すに留める。 凸i*凹i⇒+1であるが、先に+1が光と述べたが、⇒が光であり、+1が物質かもしれない。 そして、凸iの支配による自我方程式は凸i*凹凹⇒−1であり、−1が自我である。 そのように見ると、第一象限が自然界であり、第二象限が自我的言語生活世界である。 そして、第三象限が腹黒い世界、悪の世界である。そして、第四象限は、直観の世界である。
2012年02月22日(Wed)▲ページの先頭へ
言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
テーマ:language 先に、連続性に関して、それは凸iによる凹iの力学であると述べたが、それから帰結的に、本件の主題が生じる。 これまで、何回か本件について述べてきたが、結論ないし結論というものに到達していなかったので、あらためて検討したい。 言語の問題は、正に、イデア論、PS理論における本質的問題である。 初期PS理論(Premier PS Theory、PPSとする。それに対して、後期PS理論をLate PS Theory、LPSとする。)に拠って考察する。 明らかに、言語は凸iの支配に関係している。史的に見ても、父権文明が文字文明であり、それ以前の母権文明は口語はあったろうが、無文字文明と言えよう。(シュメール文明の問題がある。) だから、正確に言えば、口語と文字言語を区別する必要がある。 では、最初、口語、話し言葉について考えよう。それは、史的には、前父権文明の母権文明について考察することでもある。 即ち、D. H. ロレンスが『黙示録論』 黙示録論 (ちくま学芸文庫)/D・H ロレンス ¥1,365 Amazon.co.jp で明らかにしたように、それは、イメージの文明である。感覚知覚におけるイメージ中心主義の文明である。 この背景において、口語について考察する必要がある。イメージとしての口語である。つまり、詩的言語的な口語ということが想起される。そう、口承文芸、 吟唱詩人、語りというようなことが想起されるのである。(古代ギリシアのホメーロス、日本では、記紀の元になった口承神話が考えられる。また、平家物語は 本来、吟唱されるものである。) イメージを喚起する音楽的言語としての母権文明的口語ということが考えられるのである。 そうすると、それは、当然、凹iと凸iの差異共振イメージに拠ると考えられる。つまり、凹i*凸i⇒+1の光の言語ということになる。これはここで今は留めておく。 次に、文字言語について考察しよう。それは上述したように、父権文明における、凸iによる凹iの支配力学から「創造」されたものと考えられるのである。 これは同一性言語となる。そう、象形文字(表意文字)と表音文字を区別しないといけない。 では、先ず、象形文字について考察しよう。 それは、母権文明のイメージ言語を文字化したもののように思える。即ち、凹i*凸iの共振イメージを凸iで写し取ったものと考えられる。漢字が例をあげ るまでもなくそのように考えられる。(絵文字も考える必要がある。エジプト文字である。それは、象形文字以前のものであり、それが差異共振イメージを最も 凸iで写したものであろう。詳細についておいておく。) 差異共振イメージを凸iで写すとはどういうことなのだろうか。それは、精神的光(凹i*凸i⇒+1)を現象的光(凸i)で写しとることではないだろうか。(精神的光を大光、現象的光を小光と簡略化する。) 大光を小光に写しとること、内的感覚(内的視聴覚)を外的感覚(外的視聴覚)に書写することである。 つまり、ここには、ハードではないものの、凸iの凹iに対する支配がはたらいていると考えられる。 では、次に、表音文字である。(史的にはフェニキア文字がアルファベットの始原である。) これは、もう基盤には差異共振イメージはほとんどないと言えよう。もっとも、これもベースは差異共振イメージ、象形文字(表意文字)であったが。 基盤の差異共振イメージを消去されて、抽象化された表意文字である表音文字が父権文明を精神的に形成すると言えよう。(思うに、象形文字、表意文字の形 成力学において、デリダのエクリチュールの概念はそれなりの意義をもつが、しかし、デリダは口語のイメージ言語と文字言語は混同しているように思われる。 これについては検討課題である。) では、抽象化された表意文字である表音文字(例えば、アルファベット)の形成力学とは何か。 ここには、分析的知性がはたらいていると考えられよう。分析化された音声が表意文字化されるのである。 この分析抽象化作用であるが、これは、正に、凸iの本性の作用であると考えられる。 思うに、表意文字的認識は凸iの本性である。そう、正に、同一性作用である。思うに、正確に言えば、超越論的同一性認識作用である。これは、カントの悟性に相当しよう。 つまり、人間は他の生命体とは異なり、先天的、先験的に、超越論的同一性認識作用=悟性を具備、内在していると言えよう。(一時流行したチョムスキーの 生成文法論であるが、それは、この視点から考えれば、基本的には妥当性をもつと言えよう。しかし、実際は構造主義になってしまった。つまり、二項対立論に なってしまった。) 以上で、簡単ではあるが、本件の問題を基本的には解明したと考えるが、最後に構造言語学【構造言語学 とは - コトバンク 】(構造主義【構造主義 - Wikipedia 】)について簡単に触れて終わりにしたい。 構造言語学はソシュール(フェルディナン・ド・ソシュール - Wikipedia )のものが源泉である。ソシュールの有名なシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)【シニフィアンとシニフィエ - Wikipedia 】との対立と融合について考えよう。 ここでは簡明にするために、表音文字で考えよう。そこでは、シニフィアンは音声ないし表音文字である。そして、シニフィエであるが、思うに、ここには、 混濁がある。つまり、意味されるものは概念とイメージの両方があるからである。ソシュールは両者を混淆、混同していると考えられる。 概念の場合は当然、凸iの悟性作用に拠るのであるが、イメージの場合は微妙であり、差異共振イメージ(内的イメージ)と現象的イメージ(外的イメージ)の両方が考えられるのである。 だから、ソシュール構造言語学とは、一面では、凸iの言語学であり、他面では凸iと凹iの差異共振言語学の側面をもつと考えられる。 その構造主義とは、シニフィアンとシニフィエの対立に拠ると言えようが、それは果たして、二項対立なのだろうか。例えば、前者が後者に対して、優位であると言えるのだろうか。そのように考えたのは、ラカンであるが、ソシュールではないだろう。 だから、ソシュールの構造言語学とは二項対立の構造主義とは異なると言えよう。とまれ、二項構造をもつという意味での構造主義ではある。 そして、ソシュール言語学の差異共振言語学的側面があるからこそ、あるいは、凸iの同一性言語学と差異共振言語学の混同があるからこそ、ソシュールはその後、低迷して、最後、アナグラム(アナグラム - Wikipedia )に関わるようになったと考えられる。 アナグラムとは一種の言葉遊びで、文字の順番を変えたりして、意味の変化を楽しむものであるが、それは正に、差異共振イメージに拠ると言えよう。例えば、godを順序を逆にすると、dogになるというようなことである。 つまり、差異共振は、対立するものが共振するということであるから、godと順番が逆という意味で対立するdogを引き出すのである。つまり、アナグラムを生み出すのである。 ここで留める。 光とは何か:二つの光:差異共振光と同一性光 テーマ:manichaeism: 哲学 マニ教の光とは、初期PS理論モデルに拠れば、凸i*凹i⇒+1の+1に相当しよう。そう、オイラー・ガウス平面の右半円が光の世界である。 では、一般の光、陽光とは何であろうか。それは、マニ教の光ではない。マニ教の光は、差異共振の光である。凸iと凹iの共振に拠る光である。いわば、霊的光である。 一般の光、陽光とは何であろうか。これは、実は凸i主導の同一性の光ではないのか、と思った。 思うに、自我様態と同質の光ではないだろうか。私が想起しているのは、父権的神話である。父権的太陽である。それは、太母を殺戮する父権的な英雄の太陽である。 思うに、これは、客観的事象というよりは、主観的事象、精神的事象ではないだろうか。 つまり、差異共振の光(霊的光)を父権的同一性の光で抑圧しているということである。 これが、凸i主導の光ということになる。凹iと凸iの差異共振の光(霊的光)はいわば閉鎖されているのである。 だから、一般の光、陽光とは、凸iの光と言えよう。原光である。(そして、これが後の一神教の神となるだろう。) まとめると、光は二種類あるのであり、一つは、凸iと凹iの差異共振光(マニ教の光、霊的光)であり、一つは、父権的同一性の光(凸i)である。 D. H. ロレンスが「我々は光の背中を見ているに過ぎない」と言ったのは正に、この事態を指していると言えよう。光は差異共振光でありながら、いわば、裏返しにされた光凸iになっているからである。 そう、これは、精神的フィルターの光と言えよう。同一性の反射の光、鏡像の光とも言えよう。 言い換えると、物質の光と精神の光があるのであり、後者が今日、否定されてしまっているのである。 マニ教の光は絶対的に後者である。これは、凹iと凸iの原始差異共振を不連続化することで形成されよう。 ところで、私は先に、自然界は+1であると述べたが、この点どうだろうか。 つまり、自然界は差異共振によって形成されているということを意味したのである。 そう、自然界は、精神的光から創造されたと言えよう。しかしながら、人間の同一性的自己、自我は、それを同一性の光で遮断して見えないのである。 自然的精神の光を同一性の自我の光で排除して、物質的光のみを見ているのである。 連続的複素数精神と不連続的複素数精神:双極子としての複素数精神の連続性と不連続性 テーマ:media point 生成門氏のガウス平面精神マップ(GPS:Gaussian plane Positioning System)は興味深いが、指摘したいのは、精神は双極子であり、cosθ+i・sinθとcos(θ+π)+i・sin(θ+π)が精神の双極子の位置であろうということである。 次に、精神が連続性のままであるときは、つまり、凸iが凹iを支配しているときは、すべての精神複素数双極子は、当然ながら、連続様態であると考えられることを指摘したい。 私は現段階では、初期PS理論モデルに従っているが、そこにおいて、凸iによる凹iの支配の状態では、精神複素数双極子は、左半円に属し、それらはすべて、連続態ということになる。 そして、不連続化が為されたとき、即ち、凹iが独立したとき、精神複素数双極子は、右半円に属するのであるが、それは、すべての位置、点において、不連続態であると考えられる。 言い換えると、左半円(闇)の自我領域は連続的同一性の領域であり、右半円(光)の自己領域は不連続的差異共振の領域であるということである。 尚、虚軸は左半円ではなく、右半円に含まれると考えられる。 今は簡単に指摘するに留める。 追記:精神は双極子と言ったが、そうすると、例えば、右半円の円弧の一つに属するとき、対極は、虚軸の場合を除いて、左半円に属することになり、矛盾することになるのである。 思うに、凸iと凹iの差異共振の強度(濃度)に応じて、右半円の上部と下部に精神複素数が形成されるのかもしれない。つまり、共役にあるということである。即ち、a±biである。 そして、連続性の場合(左半円)も同様であるように思う。 今、ふと思ったが、私が勘違いしているかもしれない。凸iと凹iは双極原理であるが、それをベースに、双極子ではなく、点として、複素数精神が動くのかもしれない。 そうならば、生成門氏の考えは正しいのである。そうだとしても、連続性と不連続性(差異共振性)は区別されなくてはならない。 初期PS理論モデルでは、虚軸を除いて、左半円は連続性の領域(自我、闇)であり、虚軸を含めて右半円は不連続性(差異共振性)の領域(自己、光)と考えられる。 思うに、凸iと凹iの極性原理において、人間では、左半円と右半円が併存している。つまり、自我と身体(氣的身体)である。そして、自我を不連続化すると、右半円に自己形成が起こるのである。つまり、精神の光化である(正に、マニ教的事象)。 否、正確に言えば、原始差異共振と連続的精神があるのである。つまり、前者は右半円に属しているが、後者は左半円に属しているのである。 だから、やはり、精神は二重なのである。凸i主導と凹i主導の二重性があるのである。だから、精神は単に一点としては位置付けられないだろう。凸i主導の点と凹i主導の点の両点を把捉しないといけない。 途中であるが、ここでおく。
2012年02月19日(Sun)▲ページの先頭へ
プラス1とマイナス1の本性の根本問題:初期PS理論への回帰の試み
プラス1とマイナス1の本性の根本問題:初期PS理論への回帰の試み
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論 先の論考『連続性(連続的同一性)とは物質的様態ではなく、認識的同一性(言語)様態を意味する:修正版 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11169036692.html』において次のように述べた。 「 連続性は自我化ではあっても、物質化ではない。この場合、物質化は違うレベル、端的に、身体のレベルの問題である。 凸iの支配が、人間のメルクマールである。これは、人間以外の自然にはありえないと考えられる。サルには、自我がないのである。 この凸iの支配が連続的同一性をもたらすのであるが、この同一性は物質の同一性とは異なる。何故なら、それは、知覚的認識的同一性であるからである。端的に、それは、言語である。 ならば、物質的同一性は何か。それは、端的に、凸、+1である。 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺の+1は、物質だけでなく、認識的同一性、言語を意味するということである。 ただし、気をつけるべきは、物質を帰結する自然現象の場合、左辺は差異共振を意味するが、人間の場合は連続的同一性力学、凸iに拠る凹iの同一性支配を意味するという点である。」(色文字・下線は本稿での筆者の強調) 上記のように考え直したが、そうすると、だいぶ以前にPS理論の初期にKaisetsu氏が提起したプラス1が光であり、マイナス1が闇であるという視点に回帰するのがいいように思われるのである。 その場合、凸iは陽/原光(「アポロ」)であり、凹iは陰/原闇(「ディオニュソス」)である。原光と光、原闇と闇は異なる。 だから、自己認識方程式凸i*凹i⇒+1において、+1は物質ではなく、光、自己である。凸i*凹凹i⇒−1における−1は、闇、あるいは、自我である。 これは、認識上の事象である。 人間以外の自然事象において、自己認識方程式において、+1は自然的身体を意味しよう。それは、氣を本質にもつ物質的身体である。そう、単なる物質は−1と思われる。 仏教的に言えば、−1は無明の世界である。そして、人間認識図は、これまでのものとは左右逆転(言わば、「鏡の国」化)になるだろう。 即ち、第一象限が道徳・倫理、法等の世界であり、第二象限が物質的言語的生活世界であり、第三象限が物質的欲望、唯物論の世界であり、第四象限が直観の世界であろう。哲学、数学、芸術は第一象限と第四象限の境界、+1の線分領域に存するのではないだろうか。また、科学であるが、近代科学は凸iに近い第一象限ではないだろうか。そして、相対性理論や量子力学は、凸i*凹iの世界、虚軸の世界に属するのではないだろうか。つまり、精神的世界と一致するのである。 以上、PS理論読み直しの試みであるが、人間認識図の領域区分はまだ暫定的で未確定なので、当然、再考したい。 追記:以上のように考えると、e^iπ+1=0のオイラーの等式を変形させた、e^iπ=−1の−1は、超越的存在ではなく、自我を意味するだろう。 自我は人間特有・固有の本性である。ルドルフ・シュタイナーは自我(「わたし」)ichを最重視した。 もっとも、それを+1の自己に変容することが人間存在の基本的課題であるが。 追記2:上記の初期PS理論において、オイラーの公式に規定されたガウス平面(オイラー・ガウス平面と仮称する)の右半円が光の世界、左半円が闇の世界ということになる。あるいは、右半円が自然界であり、左半円が人間・人工界である。 思うに、虚軸を含めて右半円は精神界とも呼べよう。だから、虚軸を含まない左半円は世俗界(娑婆)とも呼べよう。 連続性(連続的同一性)とは物質的様態ではなく、認識的同一性(言語)様態を意味する:修正版 テーマ:media point 先に、『仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11168826166.html』において以下のように述べた。 「結局、連続性とは物質(自我)化を意味するのであり、これが、人間の自然的原理である。しかしながら、鉱物、植物、動物においては異なるだろう。 例えば、松の木の生成に、凸iの支配が必要だったのか。そうではなく、それは、Vector Modeと考えられる。 とまれ、ここは微妙な問題である。 今の段階では、人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれたのに対して、鉱物、植物、動物においては、差異共振のVector Modeが支配的であると考えられる。 ならば、連続性とは人間において、生起したものである。正確に言えば、人間の精神において生起したものである。身体は差異共振的であると考えられる。」 上述の「連続性とは物質(自我)化を意味する」と「人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれた」の箇所は両者ともに、不正確である。 連続性は自我化ではあっても、物質化ではない。この場合、物質化は違うレベル、端的に、身体のレベルの問題である。 凸iの支配が、人間のメルクマールである。これは、人間以外の自然にはありえないと考えられる。サルには、自我がないのである。 この凸iの支配が連続的同一性をもたらすのであるが、この同一性は物質の同一性とは異なる。何故なら、それは、知覚的認識的同一性であるからである。端的に、それは、言語である。 ならば、物質的同一性は何か。それは、端的に、凸、+1である。 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺の+1は、物質だけでなく、認識的同一性、言語を意味するということである。 ただし、気をつけるべきは、物質を帰結する自然現象の場合、左辺は差異共振を意味するが、人間の場合は連続的同一性力学、凸iに拠る凹iの同一性支配を意味するという点である。 連続性とガウス平面複素数精神様態マップ
先の考察は、以下の生成門氏のかなり難解な、例えば、以下、赤文字と下線で強調した箇所、即ち「第1象限のG(0.7,0.7)の左側、つまり、述語優位の認識」という考え方について述べなかったので、連続性の問題の視点から、一言述べたい。
先に、連続性とは凸iによる凹iの支配、凸i自体の同一性による凹iの支配であると述べた。(仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11168826166.html) 連続性力学(凸iによる凹iの支配力学)の視点から見ると、第一象限とは、基本的には連続性(連続的同一性)の領域に思える。 ただし、a+biの複素数精神様態をどう見るのか、問題である。そう、私見では、a±biの方が実際的に思える。 そして、aがゼロのときに、±bi、即ち、凸i、凹iが生起する。つまり、不連続化が起こるような感じがする。 では、aがゼロでないときは、どうなのだろうか。そのときは、純粋な凸iと凹iは生起していないのではないだろうか。 そうならば、やはり、連続性のままであるように思えるのである。 ただし、一端、不連続化が生起したとき、不連続態を保持したまま、a±biの様態はあり得ると思う。 暫定的であるが、今の段階では、私見では、第一象限は、連続性(連続的同一性)の領域に思えるのである。だから、果たして、そこに述語優位の領域があるのか疑問である。(連続性とは先述したように、凸iに拠る凹i支配力学であり、凸iの支配とは、端的に、主語優位になると考えられる。) 最後に第四象限について簡単に触れよう。それは、一種の連続性の領域、ないし逆連続性の領域に思える。 強度の凸iの支配があるとき、原始差異共振性は衰滅し、反動的な凹iが生起する。それは、当然、同一性=物質と結びつき、物質欲となるのである。凹i+1の世界である。 補足的に、原始差異共振について一言述べておこう。先に、それは、新しい差異共振によって乗り越えられると述べたが、それはそれで正しいが、内的メカニズムを捉えていないと思う。 原始差異共振は凹i主導の差異共振であり、凸iは覚醒化していないのである。しかしながら、凸iの支配力学にあって、深層的に、原始差異共振のもつエネルギーは凹i中心に蠢いていると考えられる。 凸i支配下にあって、原始差異共振エネルギーを不連続化すること、それが、新しい差異共振の創造を意味すると考えられるのである。 資料: 第4象限はウィルスが活躍するグラウンド (0) 『モナドの視点とはなんでしょうか? 「おーい」と呼ぶと「おーい」と帰ってくるのが「こだま」です。そのときどう感じますか? 大人なら知識がありますから、それは音の反射ださ!などと物知り顔で言うことになりますが、子供はそうではありません。そこには何か不思議な力が働いているように感じるでしょう。 「響く」感じです。 これがイデアなのです。イデアと言えば犬のイデアとか、リンゴのイデアということになるのが普通ですが、そういうイデアは自己同一イデアであり、自我形成の源泉です。 しかし、ここでは動詞のイデアを考えます。これを述語イデアと呼ぶことにします。子供が感じた不思議な力とは述語イデアだったのです。 これを大人は「山彦」という形に主語化したのです。「山彦」の中に、[響く]を閉じ込めたのです。「山彦」には光は見えません。[響く]には光が見えます。 「山彦」は闇であり、[響く]は光なのです。 述語と主語の認識 ここで、疑問が出てきたと思います。 第1象限は光の認識であって、山彦が闇なら、第4象限になるのではないかと言うことです。ところが、第1象限は述語優位(響く)から主語優位(山彦)に移っていきますから、第1象限に闇が入ってきてしまいます。これはおかしなことです。 そうです。これが認識の段階が螺旋的だという意味の難しいところです。 子供に大人の認識が入って来るので混同しているのです。 子供はまだ闇を知りません。ですから「響く」だけです。つまり、第1象限のG(0.7,0.7)の左側、つまり、述語優位の認識であって、そこから勝手には右にはいかないのです。 大人はG(0.7,0.7)右、つまり、主語優先の位置に行きます。それは何故でしょうか? 大人は知識を持っています。知識というのは、「帰ってきた、おーい」は「山彦である」という知識です。 しかし、知識は「物」ではありませんから目では見えません。つまり、知識は闇の認識なのです。言い換えると、闇とは他者の知識(認識)なのです。知識とは誰かの先祖とか、科学者、お婆さんの知恵なのです。それが言い伝えられてきた文化伝統の類です。 ですから、その他者の知が私という自己の中に侵入して来なければ、闇は生まれないのです。 子供がこの知識を始めて知ったとしましょう。その瞬間、子供が大人になったときであり、闇が生まれたときなのです。つまり、他者が私に中に入ってきたのです。他者とは、私の中に無断では入って来るのですから、ウィルスのようなものなのです。 このとき子供に凹i(他者)が生成され、第4象限のG(0.7,0.7)から右側の認識が生まれるのです。第4象限の凹iからG(0.7,0.7)を経由して、−1に向かうのが自分で理解したときです。 親から教えてもらうようなケースでは、途中からG(0.7,0.7)が発生するのです。 第4象限のウィルスのように侵入した他者の知による闇の認識:G(0.7,0.7)と、既に発生している第1象限のG(0.7,0.7)との間に共役が生まれます。こうして、第1象限の認識がG(0.7,0.7)から右に移動して+1に向かうのです。これはまるでウィルスによる乗っ取りです。 つまり、第4象限から第1象限へ反転するのです。しかし、ただ、同じGPを渡ることはありません。GPは螺旋的に回転しているのですから、GP1(述語優位)→GP2(主語優位)という渡りになるでしょう。 GP2(主語優位)とは二枚目のGPであり、しかもその半分が主語優位となって出てきたのですから、他者(ウィルス)によって乗っ取られたようなものです。 一枚目GPS(a,-b):a>0,7.b<0 .7→二枚面のGP(a,b):a>0.7,b<0.7 これが自我の発生という瞬間の実況中継です。 』 http://www.c-player.com/ad00178/thread/1100108516663 シムダンス「四次元能」 |
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